天使と悪魔の出会いがたとえ六千年前じゃなかったとしても必ずどこかで出会って必ずお互いに惹かれあってほしいという話
1話完結形(予定)、続くか自体が未定
年まちがってたらこっそり教えてください
@otohitoe_
ついにハルマゲドンが始まるらしい。
天国と地獄が再び衝突し、世界は消える。
この日が来るのは知っていた。待ち望んでいたはずだ。わたしは天使なのだから。
あれだけ熱心に集めて大事にしてきた本たちもこの書店もお気に入りのレコードも、じきに消えて失くなるのだと思えば何とも空しい。まるでこれまでそれらを好ましいと自分に言い聞かせていただけだったような、一切の執着が体から抜け出てしまい、アジラフェルの肉体はただソファに重力の存在を証明するだけの物質になった。
これから忙しくなるかもしれない。書店は閉業しよう。とすると所有している土地もどこかに売って活用してもらったほうがいいだろう…ああいや、活用も何もこの世界は滅ぶんだった。じゃあわたしのテナント達はもう家賃のことを気にする必要はなくなるな。…いや、彼らもまた滅ぶんだった。待てよ、彼らがいなくなるってことは、わざわざ書店を構えずとも日がな本に囲まれるだけの生活を送ってもよくなる…いや、だから。
何もかもなくなるのだ。人も土地も、この世界ごと。
アジラフェルは自身で思っている以上に実感が湧いていないらしかった。
この先の大戦が終われば、正しい者のみが存在するすべてが真っ白な世界が自分の新しい居場所になる。
いいや、元からそうだったのだ。地球というこの星こそ一時的な居場所に過ぎないはずだった。
物語、音楽、そしてあらゆる命。あまりにもアジラフェルにとって身近なものになりすぎていた。
アジラフェルはこの星を愛していた。神が命を愛するように。命が神を愛するように。何十億年という時間を、愛というあたたかい奇跡のような光の中で生きてきた。そしてこれまでも神の愛のもと天使の使命を全うしてきた。これからだって変わらないはずなのに。
(ただ居場所が変わるだけだ…なにも悪いことはない。良いことなんだ。そう、今よりも静かで、悪いことも、特別良いことも起こらない、そんなふうに世界が正しく作り替えられるだけ…)
何か考えが浮かぶ度に否定し打ち消すのを幾度となく繰り返した。全て無駄なのだ。一介の天使が何事かを試案すること自体。頭に置いていいのは大戦のことだけ。卑しく愚かな許されざる者たちを、次こそ全て絶やすのだ。それが自分の使命であり存在意義だ。
(それに明日、明後日の話ではない。時間はまだある。もう少しの間は…)
しばらくはソファの上でただの置物と化していたアジラフェルだったが、落ち着かない気持ちをいったん胸の奥に押し込んで、時間をかけて街中を散策していくことにした。店に引きこもって本にばかり構っていたために知らなかった場所やいつの間にか様変わりしていた風景はたくさんあった。だのに、そのうち滅ぶと思えば何を見ても心が動くこともなく、まるで色の無い絵画を見ているような、音のない森を歩いているような、味のしない食事をするような、そんな空虚な時間をただやり過ごしているだけだった。
ふと、目の前を歩いていた小綺麗な恰好の男性と思われる人間から、赤くて丸いものがぽろぽろと零れ落ちた。
手に持っていた紙袋から落としてしまったらしい林檎の実を、当然アジラフェルは拾ってやった。そうしようと思って手を伸ばしたのではない。それが天使の本能というものだ。
それなりの齢を重ねているらしい男性は、アジラフェルが拾い上げた林檎を受け取ると、顔に深く刻まれた皺をいっそう深くしながらありがとうと微笑んだ。アジラフェルも心からの笑顔で応えた。が、途端に例の空しさに襲われた。このあたたかい交流をあと何度持てるだろうか。大戦が終わったあと、残るのは天使だけだろう。その新しい世界では、天使から何かをしてもらったり、お礼を言われたりすることもあるのだろうか…こんなふうに、せっかくあたためてくれた気持ちをすぐ自分で一気に冷めさせてしまう。たったの数日で悪い癖がついてしまったものだ。
それでも、アジラフェルはなるべく笑顔を崩さないように努めた。いつか思い出したときに後悔することのないように。
ゆっくりと踵を返してその場を後にしようとした老紳士が抱える紙袋に、前からやってきた別の男性が擦れ違いざまに林檎をひとつ加えた。向こう側にひとつ取りこぼしがあったらしい。
歩む速度をちっとも変えず足早に通り過ぎていく男性に、アジラフェルは老紳士に代わり慌ててお礼を言った。
「あの、ありがとう…」
「良い終末を」
「今なんて?」
去り行く声にアジラフェルは思わず声が高くなった。
アジラフェルが聞き逃すはずがなかった。天使であるアジラフェルが。それも今は特に。
その声に驚いて振り向いた男性とばっちりと目が合ってから、はっと我に返る。いくらこのことで頭がいっぱいだからといって過敏になりすぎだ。
アジラフェルは恥ずかしくなりながら男性に謝った。
「いやすまない」
「おっと」
「何でもない、気にしないで」
「今日はまだ水曜だったな」
同時に言葉を発したためにお互いの台詞を理解するのに時間がかかったが、お互いに同じ“終わり”を指していると気付いたのもまた同時だった。
男は大袈裟なほど片眉を上げ、すう、とひとつ息を吸う。
「…あんた天使か」
「…そういうおまえは悪魔だな」
「そうだが…あー…」
「何故…いや…ええと…」
アジラフェルは次の言葉が出てこなかった。もう長い間悪魔に説教をしたり追い払ったりすることがなかったからだ。最後に悪魔と対峙したのは千数百年ほど前で、そのときは確か、立ち去れ悪魔、と人間を堕落に誘う悪魔を追い払った…のだったような気がする。誰の土地でも何でもないこの公共の用に供する歩道でそんなこと言えるわけがない。でもどうにかして追い払わなければ。
…一体どこからどこへ?そう、ここは往来だ。彼が何か悪事を働いているところを見たわけでもないし、攻撃を仕掛けられたわけでもない。悪事どころか、この悪魔は親切を働いたようにすら思える。…さっきの彼の行動はなんだったんだ?
「………」
「………」
悪魔の放つ邪悪な言葉に対して言い返せる自信はあった。けれど、それがこないものだからアジラフェルも何も言えなかった。
そしてその悪魔もまた、何故かアジラフェルと全く同じように何かを言おうと口を開いては閉じてを繰り返していた。
「ええと…つまり…わたしはその、あれで…きみはあれで…だから…」
「…あー…その…訊きたいこと…いや、言いたいことがある?」
「そう…そう、そうかもしれない」
「こんなところじゃできない話だ。だろ?」
「勿論だ。人が聞いてしまう。そうだな…ええと…わたしの書店がすぐ近くだが…」
「あんたのテリトリーに“おれ”を招いていいのか?」
「あ…そうだった。それは良くない。それじゃ…ううん…」
「この先の公園のベンチで待っていてくれ。偶然を装って隣に座る」
「………、」
「…一緒に並んで歩くのはまずいだろ?」
「そ、そうか。そうだな」
アジラフェルはこくこくと何度も頷いて、悪魔をその場に残し公園へ向かった。本当に来るかどうかはわからない。けれどもし、悪魔と接触することでただ終末までの日々をやり過ごすだけの毎日から抜け出せるのなら。その可能性があるなら、期待せざるを得ないというものだろう。
(それに、例のあれが起こるまでどうせ何もすることがないんだし。時間はたくさんあるんだし…何かの罠だったとしたって打破してみせる…それができる…わたしは天使なのだから…)
そう一生懸命に言い訳をするアジラフェルの歩みは早まるばかりだった。
なんだか久し振りに、景色に色がついたみたいに見えていた。
「………」
すたすたと足早に去って行く天使の背を見送りながら、クロウリーは、なんだこの天使は、と思っていた。
悪魔の言うことを聞きすぎじゃないか?おれが本当に行くなんて保証も無いのに、迷う振りすら見せずずんずんと向かって行った。それに悪魔とわかって背を向けるなんて。ハルマゲドンが迫っているというのに警戒が足りなさすぎる。天使ってあんなに警戒心の無い奴らだったか?
(絶対にあいつとは合わない)
見た目も行動も何もかも。自分とは違いすぎる。あとださすぎる。一緒に並んでたらきっと誰がどう見たって違和感を覚えるだろう。でもどうしても気になってしまった。
少々古臭いがあの地球に染まった、染まりきった身なり。人間とあっさり関わり合いを持つ慣れた様子。それからあいつ、何て言った?“わたしの書店”だって?まさかここで店を営んでるのか?天使が地球で暮らしてるってだけでも驚きなのに、人間相手に商売してるとでもいうのか?
恰好の野暮ったさなんてどうでもよくなるくらい、クロウリーはあの天使に興味をそそられていた。とにかく気になる。あんな天使が存在していたなんて。こんなタイミングで、こんな近くで、まさか天使と出くわすなんて。
もしかしたら、と馬鹿な希望を抱いてしまった。
(もし、あの天使が、本当に公園でおれを待っていたら…)
こんなにうれしいことはないかもしれない。
…いや、うれしいってなんだ。別にうれしくはない。ただおれはまだこの世界で遊んでいたいから、例のやつが先延ばしになる可能性が少しでもあるならそうなってほしいだけだ。おれみたいなちっぽけな悪魔一匹ではどうにかなりようもないが、天使なら、あの人間の営みに馴染みきった風貌の天使なら、おれにはできないことだってやってのけてくれるかもしれない。期待せざるを得ないのだ。おれには他に縋る藁すらないのだから。
公園のベンチで姿勢よく待つアジラフェルの前に、果たして悪魔は本当に現れた。
咳払いをしながらすとんと腰を下ろす悪魔になんだか緊張して、アジラフェルは居住まいを正す。
「………」
「………」
「………」
「…わたしはアジラフェル」
自分から提案しておいて黙ったままの悪魔。今度はそっちの番だということなのだろうか。だとしたら、まあ、それも少し納得できる言い分ではある。けれど何を話せばいいのかわからず、とにかく、最初は自己紹介だろうとアジラフェルは如何にも天使らしいと自負している名前を告げた。
「…クロウリー」
悪魔もまた名乗った。クロウリー。この悪魔はクロウリーというらしい。
「クロウリー…」
クロウリーか…と心の中でもう一度呟いた。あまり悪魔の名前らしくはないなと思った。舌を転がる、軽くて心地好い響きだ。
「その…クロウリー?例の件だが」
「ああ」
「きみも知ってるということは、やはり決定事項なんだろうな」
「そう聞いてる。つい昨日の夜にも…」
「昨日?」
「…いや、なんでもない。こっちの話だ」
クロウリーは言葉を濁し、また小さく咳払いをした。
天使としてはなるべく天界の情報は出さずに地獄の情勢を引き出したいところだ。本来そうすべきでもあるだろう。アジラフェルだってそうしたかった。けれどそれでクロウリーにこの場を去られてしまっては困る。機嫌を損ねたくなかった。
それに地球にやってきてから自分の身の上を知った相手と仕事以外の話をすることなんて一度も無かったし、彼は自分以上に人間の中に馴染んでいて、溶け込んでいて、いかにも人間らしい身なりで、なんていうかとても…素敵だなと思ったのだ。いやこれはあくまで人間的目線かつ人間的一般論でという話だ。わたしは地球勤務の天使で、人間のことはとても好ましく思っているから。当然の印象というものだろう。
本当は、いつからこの星にいるのかとか、普段はどこで過ごしているのかとか、好きな本、食べ物、花、場所、映画、お酒、そんなことを訊きたかった。彼…悪魔にとっていったい何が聞いてもいいことで、訊けば立ち去ってしまうことなのか見当もつかず、ああ、あそこにいるのはきっと諜報員だねとか、今通り過ぎていったのは川向うの水族館でクラゲの世話をしている職員だよとか、本当にどうでもいい、当たり障りのないことしか言えなかった。それでもクロウリーは、ふうんとかへえとか生返事ではあったが無視することはなかった。…もしかして何かの暗喩とでも思っていたりしないだろうか。
「………」
「………」
何度目かの沈黙のあと、アジラフェルは意を決して例の件へ踏み込んだ。
「来る大戦では、やはり我々天界が勝利するだろう」
クロウリーはアジラフェルのほうへ顔を向けて、揶揄うような微笑みを見せた。
「そう思うか?」
「勿論。天国が地獄に勝って、正しく善い世界が訪れるんだ」
こうして声に出して言うのは、初めてだった。
すごく素晴らしいことのはずだった。なのに、どうしても胸がやんわりと締め付けられるような心地だった。
「…けれど…」
自然と続いた自分の声にはっとした。いつの間にか顔を俯かせていることにも気付いた。
なんだ、わたしはこんなに嫌だったのか…と、それを感じるとまた悲しさが増した。
アジラフェルは伏せた顔を小さく左右に振り、はっきりとした声色で「いや、」と訂正した。
「今の“けれど”は無し。なんでもない。今からするのはハルマゲドンとは関係無い話だ」
「………」
「わたしはここが好きだ」
正しい世界が待っているのだとしても、今の世界が滅び、全てが無に帰し、失われてしまうことを、わたしが望んでいるとは思ってほしくなかった。
クロウリーの装いが人間らしいせいかもしれない。だからこんな、まるで懺悔のようなことを口走っているのかも。とにかくこれだけは誰かに知っていてほしかった。わたしが彼らを愛していることを。
「あらゆる生き物、もちろん人間も、彼らが生み出す芸術…物語も音楽も食事も」
「…あ?」
「な、なに?」
「驚いた、あんた物を食うのか?」
唖然とした表情のクロウリーに言われて、アジラフェルはしまったと思った。常々ガブリエルには嫌味っぽく…いやその、大天使らしい言い回しでこれについてちくちく諫められているのに。
言葉に詰まって苦々しい表情を浮かべていると、クロウリーは手首から先をひらりと挙げ、まるで気遣うような口調で言った。
「おれの認識が古かったみたいだ。いや、天使も昔からずいぶん変わったんだな。おれの知っている時代の天使っていったら、“神の創りたもうた神聖な肉体に人間が動物の死骸をいじくったものを取り込むなんて”くらいは言いそうなもんだから」
「…今も言う」
アジラフェルが正直に答えると、クロウリーは大きく口を開いて、ほお、と頷いた。
「それはつまり、あんたが」
「わたしが特別なだけだ。こんなふうに、地球で暮らす天使はわたしだけだ…と、思う…たぶん…」
「ふうん」
面白いものでも見たように顎を上げ、にやにやとした笑みを浮かべるクロウリーから思わず目を逸らす。まあ、実際彼にとっては面白いに違いない…
「あんたよくそれで堕天もせずやっていけてんな」
「そこまで言うほどのことじゃないだろ…!?…そうだよな?」
「おれも酒を飲む」
「………、」
「ワインもウイスキーも。…酒は好きだ」
「そ、う…」
アジラフェルは胸の内が擽ったいような心持ちになり、膝の上で組んだ手をもじもじと組みなおした。やっぱりなんだか、気遣われているように感じたのだ。そんなわけないと頭では否定するのに、まるでこの悪魔から、彼から、優しさを与えられているように感じて。本当に、そんなことがあるわけないのに。
「なあ、天使」
少しの静寂のあと、クロウリーはアジラフェルのほうを向いてきっぱりとした声で言った。サングラスで遮られていてもわかる。クロウリーはアジラフェルのことをまっすぐに見据えていた。
「きっと面白いことができると思うぜ。おれとあんたで」
アジラフェルはいよいよ本当に返答に困った。まったく同じ予感しかしていなかったからだ。