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melampodium

全体公開 us. 12509文字
2024-09-05 18:06:20

※悪魔のジャグジーなのでバスジェルを使っても大丈夫です

Posted by @otohitoe_



この日アジラフェルの部屋を訪れたときからクロウリーはもう真夜中にいる感覚で、見慣れたドアが開くまでの間に小さく欠伸をした。

「やあ、来たね。クロウリー」
「来た」

蕩けるような笑顔で部屋に迎え入れてくれたアジラフェルの手が腕に添い、頬には挨拶のキス。いつもと変わらない、流れるような所作だった。

「今日はプロシュート」
「ありがとうあれ?ワイン?」

クロウリーは紙袋を差し出す。中には家を出る直前まで冷蔵庫で冷やしておいたプロシュートとラムレーズン入りのチーズ、それから赤ワインが一本。

「それを買った店のオーナーがやけに薦めてきたから、ついでに買ってみた」
「ああこれ知ってる、最近評判良いんだよね。ありがとう!早速開ける?」
「ん
「ん?」
「おまえのこと考えながら来たら、なんか
「なんか?」
「眠くなってきて
「だと思った。そういう顔してたよ」

アジラフェルは笑って、今度はハグをくれる。クロウリーもそれに応えて両腕を背に回し、肩に顔を埋めてアジラフェルの纏う悪魔的なにおいを胸いっぱいに吸い込む。決して悪い意味ではない。アジラフェルは昔から、なんというか華やかな香りがするのだ。きらきらした社交場に馴染むようなこの香りは植物の中で土いじりをするクロウリーには似つかわしくないのだが、会えばこうしてすぐ触れ合うものだから移り香を家に持ち帰ってしまう。触れ合いを拒むという選択肢はない以上受け入れるほかない。

「このまま寝ちゃおうか」
「いや、おまえが買い付けに行ってきた話を聞きたいからまだ寝ない」
「別に大した話はないよ。いつもと一緒」
「それが聞きたいから、いいんだ」

つい昨日までコレクションの買い付けのためにソーホーを離れていたアジラフェルと顔を合わせるのは二週間ぶりだった。度々そうしてしばらくこの街から離れるアジラフェルの話を聞くのがクロウリーは好きだった。話の中で、時折クロウリーの知らないアジラフェルの顔が垣間見えるのが楽しいのだ。それもアジラフェル本人の口から。

「それに、今夜はおまえのとこの風呂に入りたくて。あのなんだっけジャジャジ
「ジャグジー?」
「それ」
「好きなんだ?知らなかった。今から入る?」
「そうする」
「すぐ準備しよう」
「話し相手がいないと寝る」
「もちろんお供するよ。買い付けの話はバスルームで」

そう言ってアジラフェルは指をぱちんと鳴らした。ジャグジーの準備はこれでもう済んだのだろう。
手を引かれながら向かったバスルームのドアを開けたところで、アジラフェルは足を止めて振り向いた。

「シャンパンが冷えてるけどどう?」
「ふむ悪魔的な誘いだ」

いいとも悪いとも言わないクロウリーにアジラフェルはにっこりと嬉しそうに微笑み、「これ仕舞ってくるから先に行ってて」と触れるだけの軽いキスでクロウリーを中へ送り出した。
シャツもトラウザーズも眼帯も下着も全部一緒くたに床に脱ぎ捨てて、クロウリーはぶくぶくと泡立つバスタブへ真っ直ぐ向かった。片側だけ手すりのついた二段ほどの段差をゆっくりと上り、バスタブに足先をそっとおろす。ここにも腰を掛けるための段差がひとつ。
さすが温度もちょうどいい。香りがないのは、たぶんあとで選ばせてくれるつもりなのだろう。
両脚を思いっきり伸ばせば足先がちょうど触れるくらいの程よい広さの浴槽で、正面は一面ガラス張り。その向こうは脇のドアから入れる広いバルコニーになっており、質の良いモダンなデザインのデッキチェアが並んでいる。それから側面には腰を掛けるのにちょうどいい高さの石造りの花壇。クロウリーの植物園から株分けしたオリーブが気品ある佇まいで青く茂っている。
バスルームの明かりは最小限に留めているおかげで今夜は星がよく見えることに気付く。一応六階にあたるはずだが、それよりももっと空を近く感じた。

「お湯加減はどうかな」
「ちょうどいい」

ドアの開く音に振り向くと、ガラス製のワインクーラーを掛けた手にグラスを二つ、反対の手にもワイヤーのバスケットを携えているのはともかく、シャツの袖とトラウザーズの裾をそれぞれ三回ほど折っているアジラフェルの姿に、クロウリーは小さく眉を顰める。

「なんだ、おまえは入らないのか」
「きみの世話を焼きたいからね」
「一緒に入っても世話は焼ける」
「まあまあ。どれがいい?」

クロウリーの思っていた通り、段差に腰掛けながらアジラフェルが提示するバスケットの中には数種類のジェルボトルが入っていた。特にこだわりがあるわけではないけれど、ローズやジャスミン、イランイランよりはネロリの気分だった。クロウリーの選んだジェルがアジラフェルによってくるりと回し入れられると、優しい香りが広がるのと同時に白い泡がみるみる生まれ始める。

「はい乾杯」
「なんだか悪いことをしてる気分だ」
「どうして?うちの客室にも提供してる至極真っ当なサービスだよ」

シャンパングラスを受け取りながら、クロウリーは思わず溜め息を漏らす。いくら世俗に疎いとはいえこれが贅沢なことかくらいわかる。シャンパンだってすごくおいしい。良いやつだこれ。

「髪はどうする?洗うならやってあげたいんだけど」
「んん
「おいで」

クロウリーの返事を待たずにアジラフェルはバスタブの側面に回り、両側の縁にあるヘッドレストの上に畳んだタオルを敷いた。言うまでもなく、クロウリーがここで髪や体を洗ってもらうのは一度や二度のことではない。
グラスは一旦置いてから泡の中をを小さく泳ぎ、促されるままに背を預ける。前髪が丁寧に後ろに撫でつけられ、顔に掛からないよう添えられた手の向こうでシャワーの温水があたたかく髪を濡らす。肩に敷いているタオルも同じ温度を吸ってぽかぽかと心地好い。

「きみが髪を伸ばしてくれるの楽しみだな」
「そういえばそんな話もしたな
「もしかして忘れてた?」
「まさか」
「だよね?」
「もちろん」

真上から顔を覗き込んでくるアジラフェルに瞬きで肯く。もちろん、すっかり忘れていた。

「洗うのは手間だぞ」
「それが楽しみなんだ」

髪を梳くようにしてゆったりとヘアウォッシュを馴染ませるアジラフェルは確かに楽しそうだった。クロウリーとしてはただ寝ているだけで頭や髪に触れてもらえるのだから良いことしかないし、大変そうだとは思いつつも思う存分好きにしてくれという気持ちだった。
実際人にするのは面白いものなのだろうか。アジラフェルの髪を洗うことを想像してみるが、いまいちよくわからない。
ここくらいの設備に慣れていたら或いは違うのかもしれない。クロウリーの住居のバスルームといえばシャワーは壁に固定されていて温度調節も難しいし、バスタブで脚を伸ばそうと思ったら片側にはみ出させるしかない。そんなふうだから家で風呂に入ることなんてほとんどなく、その必要もないのは天使で良かったと思えることのひとつだった。

「きみの髪は濡れても綺麗だね
「誰かさんが手入れしてくれるからな」
「マッサージしてあげようか。髪にも良いらしいよ」
「マッサージ?髪を?」
「頭」
「あたま

ぼんやり訝しんでいると、首筋に当てられたアジラフェルの指先にぐっと力が入り、頭の骨の形に添って頭頂部へ向かっていく。普段は全く意識していないけれど骨と髪の間にもちゃんと皮膚があることを思い出した。確か名称があったはずだが、なんていうんだっけ。

「痛くない?」
「全然あー、気持ちいいかも
「よかった」
「もっと強くてもいい」
「これくらい?」
「うん

頭を揉まれるのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。結構強めに掴まれている感覚はあるのにすごく気持ちいい。

「最近は専門のサロンもあるらしいよ」
「頭を揉む専門家がいるってことか?」
「言い方はちょっと変えてあげてほしいけど、まあそういうことだね。美容院では割とメジャーな施術なんだって。炭酸水を使ったりすることもあるみたい」
「へえそういうとこで教わったのか?」
「いいや。スマホで動画見て」
「ほんと何でもできるな、スマートフォンってやつは」
「きみは動物みっつ並べゲームしかしてないみたいだけど」
「ふふ動物みっつ並べゲーム
「ちなみにわたしは今とっても優しい言い方をしてるからね」
「普段はなんて呼んでるんだ?」
「天使様のお耳にはとても入れられないような愛称で」
「そんなに邪険にするなよ。おもしろいんだ、あれは

クロウリーは堪えられない笑いを零しながら腕を伸ばし、冷えたグラスを取って口へ運ぶ。クロウリーだってあれのどういうところがそんなに面白いのかと訊かれれば返答に困るのだが、ああいうゲームって大体がそんなものなんじゃないか?つい手が伸びてしまって、辞め時がわからなくなるというか。少なからず楽しいと感じているから続けているのだとは思うが、楽しいと自覚できるほど楽しいわけでもないというか。
まあそれに、拗ねてるアジラフェルもかわいいし。

「うあそこすごい気持ちいい。頭と首の境のとこ」
「そんなに喜んでもらえるとは思ってなかった」
「すごくいい。堕落にカウントされるかもな、これ
「わたしの新しい趣味に付き合ってくれてるだけってことにしておこう」
「ふふ人にマッサージするのが趣味の悪魔かああだめだ、アジラフェル、程々にしてくれ。本当に寝落ちする」
「わたしが見た動画ではこうしてる間に蒸しタオルで目元をあっためてたんだけど」
「そんなのだめに決まってる。絶対に寝る」
「寝てもいいのに」
「なあ、買い付けに行った話をしてくれよ」
「いいけど、ほんとに大した話じゃないよ」

アジラフェルはぐりぐりとクロウリーの頭の形を整えるように指圧を続けながら首を小さく傾けた。いちいち妙に愛嬌があるのもアジラフェルの特徴のひとつだ。

「欲しい本は買えたのか?」
「今回の目的は本じゃなくて木版だったんだ。木版ってわかる?印刷するのに使う
「木の板を彫ったやつだろ。インク塗って、判子みたいにしていっぱい刷るやつ」
「そうそれ。それを見に行ってきた」
「そういうのにまで手を出し始めたのか」
「いや、違うんだって。木版に興味が出てきたわけじゃなくてその本が好きなんだよ。違う装丁だったり、誤植があったり、古いけど状態が良いのを集めてるくらいにはね。それの木版が片田舎の古本屋から出てきたって聞きつけたから、一度見るだけ見に行ってみようかなって」
「ふうんどこまで行ってきたんだ?」
「フランス。どうせ腐りかけてるとか割れてるとか破片しかないとかだと思ってたんだけど、見たら結構状態が良くってさ
「今でも刷れそうなくらい?」
「そう!本当にねさすがに刷ってみるかはちょっと考えるけど
「その口ぶり、買ったんだな?」
「買った
「んふ」

凝り性で蒐集家のアジラフェルが手を出したということは、もうそういうことなのだ。

「次来たときには図書館の隣に印刷所も出来てたりしてな」
「ない。絶対ないから」
「ふふふ

クロウリーは可笑しくて笑った。シャンパンがすすむ。ほらな、やっぱり今回も面白い話が聞けた。

「明日、明るいうちに見せてくれよ。それ」
「もちろんいいよ。ただの古い木の板だけどね」
「おれにとってはな」

言葉に含みを持たせてにやりと笑いかけるとアジラフェルも気まずそうに微笑んで返した。無理もない、何しろそのただの古い木の板とやらをきっと安くない対価を払って手に入れた張本人だ。
水面を波立たせながら身を翻したクロウリーは両手をアジラフェルの膝に付き、そういうおまえが好きだよという意味を込めてキスをした。どうしても、笑うのは堪えられなかったけれど。




バスルームを出たクロウリーは、用意されていた新しい下着は手に取るだけでバスローブを羽織り、厚い絨毯に水を吸わせながら寝室を目指した。決して嫌がらせをしているわけではなく、「眠るならこのままベッドへ」というアジラフェルの指示だった。
アジラフェルがクロウリーのために用意してくれているパジャマもあるが、寝るだけのためにいちいち着替えるのも面倒だし、アジラフェルが甲斐甲斐しく着替えさせてくれない限りは袖を通すことはほとんどない。

濡れた髪を掻き上げて後ろへ撫で付けるとクロウリーの深いブラウンの髪はすっかり空気を受け入れてさらりと靡いた。
ベッドの縁に腰掛けて下着を穿いている頃、アジラフェルも遅れて寝室へ入ってきた。袖と裾に残っていておかしくないはずの折り目の形跡は少しもなく、新品のようにまっさらだった。

「頭以外のところもしてあげようか。マッサージ」
「今ベッドでなんかされたら本当にすぐ寝るぞ」
「寝たらだめなの?」
「おれからマッサージの感想が聞けない。いいのか?」
「きみがすぐ寝ちゃうならそれが感想だろ」
それもそうだな」

ベッドサイドに置かれたカラフェの水を一杯飲み下しながら、クロウリーは納得して肯いた。

「まあでも、今夜はいい

アジラフェルの体温だけで充分だった。
バスローブを脱ぎぼふんと枕に倒れ、アジラフェルの腕を掴んだとき。ふわりといつもと違う気配が漂ったことに気付いた。

「ん?」

出どころはどうやらベッド、いや、シーツ、枕か

「知らないにおいがする

違和感の正体はこれだった。普段とは違う知らないにおい。
なんだろう。すごくいいにおいだ。花や食べ物のそれではない。例えば衣服の洗剤やボディローション、香水のような、人工的にいい香りとして作られた香りだった。
クロウリーは隣のアジラフェルを見上げた。

「誰かここを使ったのか?」

尋ねた途端、並んでベッドに潜りかけていたアジラフェルは動きをとめ、ぎょっとした表情をクロウリーに向けた。

「それってわたしと誰かがって意味で言ってる?だとしたら心外だし大きな間違いだ。誓ってわたしはきみ以外と共寝したりしないし誰かをここに招き入れることは絶対に無い」
「違う、そういう意味じゃない。けど本当に知らないにおいがするんだ。香水か?いやにしては強くない、ほんのり香る程度のとにかく良いにおいがする」

枕に顔を埋めて、すう、ともう一度吸い込んでみる。もう鼻が慣れ始めているらしく香りが遠い。

「ピローミストだよ」
「なんだそれ」
「読んで字の如くそのまま。枕とかベッドに振って、眠るときに香りを楽しむんだって。買い付けに行った帰りに寄った店でたまたま見つけて、そういうものもあるんだなと思って買ってみただけ」
「ふうん
「昨日試しに振ってみたんだ。それが少し残ってたんだろう」
「おまえ一人でもここで寝ることがあるんだな」
それってさ、」
「そのままの言葉だ、他の意味は無い」

本当は一人じゃなかったんじゃないか?と聞こえたらしい疑いを払拭すべくはっきりと言い切ったが、アジラフェルは幼子を諫めるような眼差しで大きく溜め息を吐き、クロウリーの頬を指先で柔らかく摘んだ。

「なんてこと言うんだきみは」
「他意は無いって言ってるだろ、ただ純粋に
「それだから余計たちが悪い。いいか、きみとわたしのほかは誰もこの部屋にというか、 このフロアにさえ来ることはない。枕もベッドも、寝室だってきみのためのものだ」
「それは違うだろ」
「いいや、きみの
「おまえにだって必要なはずだ。おれが使うときはおまえも一緒なんだから」
確かに」

摘ままれた頬が今度は優しく撫でられる。別に詫びる意図はないけれど、その手の甲を包んで頬と挟み、横に広い親指の腹にそっとキスをした。

「好きな香りだ」
「気に入ってもらえて何よりだよ、天使様」
「拗ねるなよ。なあ、さっき何に誓ったんだ?」
「当然きみ。決まってるだろ。ほかに信じるものなんて持ってないんだから」
「ふふ
「笑いごとじゃない。きみはわたしの不貞を疑ったんだぞ」
「誤解だってまあでも、悪かったよ」

ほらハグだ、と両手を広げて促すと、アジラフェルはいかにも致し方ないというふうに覆い被さってハグに応じた。

「いま謝ったのきみのほうだよね?なんでわたしがハグしてもらいにいった感じになってるんだろうね
「細かいやつだな。ハグはハグだろ」
「そもそもそれで謝罪になると思ってるところからずれてる気がする」
「なるだろ。ならないのか?」
「きみのそういうところ本当
「天使っぽい?」
「好き
「かわいそうにな」

難儀な悪魔の頭をよしよしと撫でて慰めてやる。天使を好きになるとはそういうことだ。自分には無い性質に強く心を掴まれてしまう。勿論、悪魔のことが好きなクロウリー自身にも同じことが言えるわけだが。
枕とは違う、ずっと昔からよく知っているにおいを改めて吸い込む。おれのために睡眠環境を整えたいのならこの香りこそもっと移しておくべきだろうに。

アジラフェルは顎のあたりに唇を触れさせてから体を起こし、部屋の照明をすっと落とした。残ったのはベッドサイド、壁に転々と掲げられているランプの優しい灯りのみだった。
それからシーツの端を手繰り寄せてクロウリーの体を覆い、そのすぐ傍で肘を立てて頬杖をつく。クロウリーを寝かしつけるときのお決まりの体勢だった。いっそ奉仕的と言ったほうが相応しいこうした甲斐甲斐しさは生来のものなのだろう。クロウリーだってどちらかといえば世話好きなほうだが、アジラフェルの前では赤子かペット同然だった。

「さっきの発言は誤解だったとして」
「だったとしてっていうか、本当に誤解だからな」
「ちょっとくらい妬いてくれてもいいんだけど」
「おまえをがっかりさせたくはないが、天使は嫉妬なんかしないんだ」
「だよねえ」
「でもこれから覚えるかも」
「嫉妬心を?」
「何もおかしくないだろ?ほかの天使がしないことでもおれならできる」
「ほんとすごいな、きみは」

アジラフェルが感嘆しているのは嫉妬が人の教えの中では大きな罪源のひとつであることからだろうが、別にそれ自体が罪だと言われているわけではないのだし、数多いる天使の中で一人くらい知っている者があってもおかしくないはずだ。

「今は本当に少しも無いの?絶対に有り得ないけど、わたしが誰かと寝たとしてもまったく嫌な気持ちにならない?」
んんどうかな

クロウリーはこのベッドの上でアジラフェルと誰かが並んでいる光景を具体的に思い浮かべてみたが、何しろ有り得ないとわかりきっているせいでいまいち自分の感情を掴めない。もう少しレパートリーを増やしてみる。アジラフェルと誰かが裸同士で抱き合っているとか、キスを交わしているとか、愛してるよと囁き合っているとか。でも、全部有り得ないからなあ。何らかののっぴきならない事情があってそうならなければならなかった現場を実際に目の当たりにすれば、少しは思うところも出てくるかもしれないけれど。まあ、望むところでないのは確かだ。

「そうだな嫉妬じゃないかもしれないが、家の鉢植えを勝手に持ち去られたような、そんな感じのつまり嫌な気持ちにはなるだろうな」
「それって、きみの子供達と同じくらいわたしを大事に思ってくれてるってこと?」
………、」

クロウリーは一瞬、どういうことだ?と思った。言葉の意味を理解するのに時間がかかった。自分の例えが下手だったか?
想像もよらないアジラフェルの台詞にクロウリーは言葉に詰まった。すると更にわからないことに、アジラフェルはまるでその発言を取り繕うかのように「ごめん」と一瞬目線を宙へ逸らした。

「ごめん、忘れてくれ。別にどっちが大事か選ばせたいわけじゃなくてきみが子供達をどれだけ大事にしてるかはよく知って、」
「違う」

何故か言い訳のような調子で言葉を連ね出したのをクロウリーは慌てて制止した。アジラフェルが何を悪く思って何を言おうとしているのか今のでもう最後まで理解した。ただ、見当違いも甚だしい。

「そうじゃない。ああ、おまえアジラフェル、」

アジラフェルの頭を胸に引き寄せ、さっきのハグよりもずっと深く、しっかりと抱きすくめる。
抵抗は少しも無かったが、クロウリーの体を圧し潰してしまわないためかろくに抱き返されはしなかった。おまえ一人分の重さなんて如何ということもないのに。それを創ったのは誰だと思ってるんだ。

「馬鹿だな。おまえが一番大事に決まってる」

アジラフェルが今の沈黙をそんなふうに感じるなんて、クロウリーは思ってもいなかった。単にアジラフェルの甘やかな冗談を一瞬ストレートに受け取ってしまっただけなのに、そんな反応をされてはこっちだって慌てる。
おれがそんなことで悩むわけないだろう、とばかばかしくさえ思える一方で、軽口のひとつも返ってこないのがいやに真に迫っているというか現実味を帯びているというか、薄らと変な緊張を感じさせてくる。
まさかとは思うが、一応訊いてみる。

「本当に知らなかったのか?」
「いや

何故か言葉尻を澱ませるアジラフェルの頭に頬を擦り寄せ、クロウリーはもう一度、おまえが一番だよと告げながら柔らかい髪にキスをした。

「一番って意味わかるか?おまえと誰かから同時に食事に誘われたらおまえを優先するってことで、世界が滅ぶとしたら最後の日をおまえと過ごしたいと思うってことだ。おまえと鉢植えが崖から落ちかけてたら、考えるまでもなくおれはおまえに手を伸ばすんだよ」
そんなシチュエーションあるかな?特に最後のやつ」
「あるかもしれないだろ」
「わたしは崖から落ちかけたりしないし、そもそも飛べる」
「そうだよ。それでもおまえに手が伸びるのが、一番ってことだ。二番目からはたくさんあるかもしれないが、一番はひとつなんだ。たったひとつ。ひとりだけ」

アジラフェルがいつもクロウリーに向ける思いがどれだけ深いのか滔々と語っているのを準えるように、けれどなるべく弁解のように聞こえてしまわないよう、ゆっくり、じっくりと言い聞かせた。

「おまえだってそうだろ?想像してみろ。おれと昨日持ち帰ってきたばっかりの木版が川で溺れてたらどっちを助ける?」
いや、状況がちょっとよく
「さすがに悩むか」
「悩まないよ

アジラフェルは笑いを含んだ声色で言いながら、クロウリーの胸元に顔を押し付けるように擦り寄った。

「迷わずきみを助ける」
「そうだろ」

どうやらこの例え話が気に入ったようで、アジラフェルはくつくつと喉を鳴らして可笑しがった。アジラフェルが笑うたびにクロウリーの体も震えて擽ったく、それがまた可笑しくて、クロウリーも釣られて一緒に笑った。
アジラフェルがふとした拍子に見せるこういった悪魔らしからぬずれた謙虚さが、クロウリーには愛おしくてたまらない。
自信たっぷりに愛を享受し尊大な振る舞いをしてみせたかと思えば、その全てがただの虚勢に思える瞬間もあるのだ。

「おまえは悪魔のくせに、時々ほんとうにかわいい」

欠点とは呼びたくない。クロウリーを前にしたアジラフェルは本当に健気で、実直で、純真で、信実で、一途で、かわいいのだ。例を挙げたらきりがないほどと走馬灯でも追いつかない記憶を巡らせていると、「待った」とくぐもった声。

「クロウリー」
「うん?」

上体を起こしたアジラフェルは不満を隠さない表情を浮かべていた。さっきまであんなに機嫌よく笑っていたのに。

「良くないことを考えてるな」
「天使は良くないことなんて考えない」
「わたしにとって良くないことだ」
「おれがおまえのことを考えるのに、おまえが良くないと思うことなんてあるのか?」
「悪いことが無いだけで良くないことはある。それなりに」
「なんでおれの考えていることがわかる?」
「きみが“悪魔のくせに”って言い回しをするときは大抵そうだから」

まさしくクロウリーはアジラフェルが察知した通りのことを思い起こしていた。
そう、初めて肌を触れ合わせたときのことだ。クロウリーがそうであったように、アジラフェルもまたそれが初めての経験であったというだけの思い出話。度々話題に上せては、アジラフェルにいつも眉を顰められる話。別にその反応が見たいというだけではない。単純にクロウリーにとって愛おしく、好ましい思い出なのだ。
ホテルを経営する前のアジラフェルがかつてこの街にあった娼館の管理に関わっていたこともクロウリーは知っている。いつかに備えて知識を蓄えたかった意図もあったんじゃないかとこっそり思っている。実際初めてらしからぬ雰囲気を纏っていたし、何とはなしに手慣れた感じはあった。そうなるほど日常的に目の当たりにする場所にありながら、アジラフェルはただの一度たりとも性交渉を持たなかったらしい。
アジラフェルがそこでどんなことをしていたのかクロウリーは知らないし訊くつもりもない。ただアジラフェルがホテルを開いた頃に廃業したのは記憶にある。それから、その新しいホテルの従業員にはやけに美しい女性が多かったことも。

「いいか。別にわたしは、そのことについて何とも思ってなかったんだ。なのにきみがそうやって
「なんだよ」
「しつこく揶揄ってくるから」
「揶揄ってるつもりはない。本当にかわいいと思ってる」
「知らなかったのはきみも同じなのに」
「おれは天使だから別に不思議じゃない。でもおまえは悪魔のくせに、人の夢に入ったときですら指一本触れなかったんだろ。おれはおまえがかわいいよ、アジラフェル

クロウリーはアジラフェルが気兼ねなく抱き返せるように体を横に向けて、真心を込めてふわふわの後頭部を撫でた。
実際経験の有無なんて本当にどうでもいいことだった。あらゆる欲を食いものにする悪魔が、意図を持ってそれだけを避けてきていたということがクロウリーには重要だった。
アジラフェルがクロウリーを好きだったからだ。それを思うと胸の奥が疼いてくすぐったくなる。

「そりゃあきみのイメージするわたしはバージンくらいさっさと捨てているんだろうけど」
「そういう意味じゃないってわかってるだろ。あとおれの貞操観念のほうが低いみたいな言い方するな」
「そこに関してはわたしのほうが知見があったぶんあながち間違いではないんじゃないか?」
「まあ、悪魔の口から“体を穢したくなかった”なんて台詞を聞くとは思わなかったよな」
「そういう悪魔もいるって知れてよかったね。もうこの話はやめよう」
「ふふふ

アジラフェルに言われた台詞。正確には「わたしが誰かと性交渉を持つということは、間接的にその誰かがきみに触れることと同義だと思った」だった。クロウリーを穢したくなかったのだと。でもつまり、アジラフェルは自身の体を清く保ったとも言っている。そこがおかしくて好きなのだ。
背中に回る腕の力よりももっと強く、クロウリーはアジラフェルを抱きすくめた。わざとかどうかはわからないが胸元に唇が触れているのを感じる。愛嬌のある鼻先と、いつもより少し短めの髭の感触もある。しっとりとした静かな吐息の温度も心地好い。パジャマを着なくて正解だった。

「本当に揶揄ってるわけじゃないんだ。もし逆だったなら、おれだってきっとおまえと同じことをした」
「逆って?」
「おまえが天使で、おれが悪魔だったら。何も知らないおまえに一生懸命触れるだろうな。欲があるくせに、おまえはよく我慢したよ」
「どうかな。例えそうでも触れたいと言い出すのはわたしだと思う」
「天使がそんなこと言い出すか?」
「わたしなら言う。悪魔の肉体なら最初からそういうことに対応してるわけだし、もうめちゃくちゃに触れるし体じゅうにキスすると思う。わたしがそうしたのと同じように」
「いくらおまえでもそうなるものかな天使なのに」
「わたしだし、きみだからね。よし、本当にこの話はもうおしまい」

アジラフェルはぱっと顔を上げてクロウリーの肩までシーツを引き上げなおし、改めて例の体勢に入った。
思わずきょとんとその双眸を見上げると、さっぱりとした眼差しで優しく「おやすみ」と囁かれた。
なんで?

「しないのか?」
何を?」
「何って」
「寝るんだろ?」
「しよう、アジラフェル」
「クロウリー」

腰に膝を掛けるとアジラフェルは戸惑った様子を見せた。困惑しているのはこちらのほうなのだが。

「どうしたの」
「気分じゃないか?」
「そういうわけじゃきみ眠いんだろ、寝なよ」
「今そういう雰囲気だっただろ」
「は?」
「したくなった」

そういうわけじゃないと言質をとったのをいいことに、クロウリーはアジラフェルの肩を押して跨ってみせる。少々卑怯だったろうか。そんなわけないよな。天使が卑怯なことなんてできるはずないんだから。

「そりゃもちろん大歓迎だけどさ。途中で寝そうだなあ
「寝ない。何なら立ってするか?」
「いいねそれ」
「おいばか、冗談に決まってるだろ」

本当にクロウリーごと立ち上がりそうな勢いで上体を起こすアジラフェルに抵抗する振りで戯れながら、大人しくころんと横に転がってやる。
覆い被さってすぐに重ねられた唇は、そのまま顎、首筋、胸元と滑っていった。

「なんだおれが悦くしてやろうと思ったのに。いいのか?」
「きみこそいいの?」
「うん?」
「わたしに主導権を譲るということは」
「うん」
「きみを寝かすも寝かさないもわたし次第になったってことだ」

艶めかしさを孕んだ低い声色、捕食者のような挑発的な眼差し。
久し振りに悪魔らしい顔を見た気がする。そんなふうに見つめられると、クロウリーは子供のようについ反抗心が芽生えてしまうというのに。

「先に謝っておくべきかなそれでも寝たらすまん」
「今ので決めた、もう絶対に寝かせてやらない」
「ふふ

べろりと大きく唇を食べられ、あっさりと咥内への侵入を許してしまう。
体のラインをなぞるように肌を這う掌はバスルームで施されたのとはまるで違う手つきなのに、やっぱりどうしても心地好い。

もし、アジラフェルをここに置き去りにして夢の中に足を踏み入れることになってしまったとしても。それはアジラフェルが与えてくる愛の気配が心地好すぎるのが悪いのだ、と胸を張って言ってやる。









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