過去の話。ほんの少しだけ痛い表現があります。
具体的な年代はふわっとしていますが、本編の聖水喧嘩と同じくらいの時期です。
あと4話ほど続く予定です。
@otohitoe_
クロウリーがロンドンの街を気に入って、その中心部に位置するメイフェアの地にとうとう植物園という形で根を下ろしたのが去年のこと。いつも影で見守ってきたアジラフェルもまた近い場所で何か商売を始めようと考えていた。今の仕事からそろそろ手を引きたいと思っていたというのもあるが、増える一方の古書のコレクションを保管するための広大な場所がアジラフェルには必要だった。
まあそれはどうにでもできるとして、最近アジラフェルにはひとつ心配事があった。もちろんクロウリーに関することで。
「例の件だけど…」
「問題ない」
クロウリーはいつものようにそう答え、悠然とティーカップを傾ける。
いつもと全く変わらない表情、声色、所作。昼下がりのカフェテラス。天気は曇り。何もかもが通常通り。
嫌なことだけだ。素直に過去にならず心を翳らせ続けるのは。
「きみがそう言うならそうなんだろうけど、今回は少し長引いている気がする」
「そんなことはない。過去にもこれくらいのことはあった」
「わたしが知らないだけで?」
「おまえと交流を持たなかった時間がどれだけある?」
「持っていた時間のほうが長い」
「なんだ。やけに食い下がるな」
そりゃあ…と言いたい気持ちをぐっと堪え、「別に他意は無いよ」と取り繕う。
クロウリーが近頃厄介な人間に付き纏われていることには早い段階から知っていた。心配事というのがこれだ。
あまり慣れてほしくはないことだが、確かにこれまで幾度となく適切に対処してきたのを見てきているし知っている。ただ、本人にも伝えた通り今回はいやに長引いているのだ。
「もうそろそろきみではなく“こちら”の仕事になるんじゃないか?わたしが気に掛けているのはそこだ」
「確かに今は少し迷ってはいるが、じきに目が覚める。おまえは残念だろうがな」
クロウリーは肩を竦め、わざとらしい不敵な笑みを浮かべてみせた。
よっぽど低級でもない限り、悪い人間に事欠かないこの時代にノルマの心配をする悪魔はいない。
アジラフェルも笑って返したが、本当は体の深いところがぎゅっと締め付けられる思いがしていた。
「彼はこの夢から覚めたくないように見えるよ」
「覚まさせてみせる。おれは天使なんだから」
クロウリーは強いアルコールでも煽るような重々しい仕草で紅茶を飲み下した。
アジラフェルはこの強かな天使が抱えている不安や恐れが感じられないほど鈍い悪魔ではない。けれどクロウリーが問題ないと言うのなら、それを信じるほかないのだ。
その手を取って、一人で思いつめないでと伝えることができたならどんなにいいか。そう思うものの、結局それもクロウリーのためではなく自分自身への救いに過ぎないと気付き、溜め息をこっそり飲み込んだ。
「それより、ホテルをやるんだって?ソーホーで」
打って変わって楽しげな声だった。クロウリーは笑顔で壁を築いてみせる。自分のためではなく、自分以外のすべてのために。
「ああ。来月着工なんだ」
「完成したら招待してくれるか?」
「もちろんだ。一番にきみを招くよ」
なるべく普段通りでいるよう努めたものの、明るく返した声も笑顔もクロウリーの目には嘘っぽく映ったかもしれない。それでもやっぱりクロウリーは偽りのない微笑みで「楽しみだ」と言ってくれた。
アジラフェルはそれ以外の選択肢は無いからとクロウリーを信じることにしたが、けれど事実として、会う度にクロウリーの表情は間違いなく翳っていった。
憔悴していっているようにさえ見えた。そう、見えていたのに。きっとそれをクロウリーへの心配に因るものだと自分に思い込ませていたのだ。
この時点でできることをすべきだった。クロウリーにもだ。躊躇ったりせず、愛は人を救うだけのものではなく狂わせることもあると訴えかければよかった。余計に顔を曇らせてしまうかと思って言えなかった。でもそれだって結局自分のためじゃないか。卑しい悪魔、おまえはいつも自分のことばかりだ。
自己嫌悪を重ねても募るのは後悔ばかり。本当に無力で無駄で無価値の存在。
言えばよかった。こんなことになるくらいなら。
男の身元はとっくに調べがついていた。両親と妻子と暮らす平凡な人間。数年前に家業である鍵屋を継いで、今は立派な家長であるはずだった。
よりにもよってこの天使に心を捧げるとは。
天使クロウリーの主張を尊重するなどという私情を挟まずに見立てた限り、もう後戻りできないところまできているのはわかっていた。いよいよ両親の制止も聞かず妻子を捨てたと聞いたとき、アジラフェルは予てから考えていた手段に出ることにした。
やや強引な手で、あまり使いたくはなかった。クロウリーには言えないという点においても本当は避けたかった。
アジラフェルの視界にその男が出現してから、このとき二年ほどが経っていた。
深夜。
開業前のホテルの裏口から現在住居としているフラットまで、人通りのほとんど無い路地を通って帰るのを毎日の習慣とした。毎夜必ずそれを繰り返した。そうしてアジラフェルはクロウリーの悩みの種を誘い込んだ。
男が心中を図るようなタイプではないのはわかっていた。けれどクロウリーへの執着は本物だった。
ストーキングに気付いていてわざとこれ見よがしにクロウリーと親密にしてみせ、矛先を自分に向けようと思ったのだ。いずれ死ぬまで待つことなく、いっそそうしてすぐにでも地獄行きの切符を渡してやろうと。クロウリーも余程参っていたのか、アジラフェルが手を握ったり、別れ際に戯れのふりでハグをしてみても少しも拒む素振りを見せず、クロウリーはただ享受するばかりだった。
名案のはずだった。
まさかクロウリーがアジラフェルが仕向けたことを察したうえで進んで行動を起こすなんて、アジラフェルは思ってもいなかった。人間の純真さをひとえに信じていると思っていた。
それはあながち間違いでもなかった。いつか男が取り返しのつかない大きな過ちを犯してしまわないよう、度々クロウリーのほうが男のことを見張っていたのだった。
そして不運にも、まさにクロウリーが監視していたこの夜にそれが起こってしまった。
クロウリーにこの場を目撃されてしまうことなど、アジラフェルは本当に予見していなかった。
「クロ…、!」
宵闇からその姿が現れたとき、アジラフェルは絶句した。
表情こそ見えなかったが、右手を掲げる動作がスローモーションのように見えた。
ぱちん、という音が暗く狭い路地の中に響いたのと同時に、アジラフェルの腹部を深く刺したナイフごと男は忽然と消えた。
アジラフェルの理解が追いつかないうちにたった今まで男がいた場所にクロウリーが入れ替わる。クロウリーがどこかへ飛ばした…とようやく思い至ったときには大きな掌にがっちりと顔を掴まれていた。
「アジラフェル」
「あ、ああ」
「生きてるか?生きてるよな?」
「ただのナイフだよ。至って普通の物質の…」
「体は、」
「何も問題ない、大丈夫だ。重要な部分は避けたし血もとめた、安静にしておけばあとは自然に…」
「アジラフェル」
安静にしたほうがいいのは間違いないが本当に大丈夫だったのに、クロウリーにきつく抱きしめられたことで心臓が跳ねて脈が早まる。このままだともしかしたら出血過多で大丈夫ではなくなるかもしれない。
「ク…クロウリー」
背を撫でて離れるよう促すものの、力いっぱいに固まった体は動きそうにない。
「ええと…すぐ目の前にある建物はわたしのホテルなんだが」
「知ってる」
「つまりわたしの家というか」
「わかってる」
「だからその、ホテルに戻る。本当に大丈夫だよ。ひと晩経てば元通りだ。こんな恰好じゃなければ、きみを家まで送るんだけど」
「おれも一緒に行く」
「え」
「一緒に行く」
おまえの家、と顔を合わせて言うクロウリーの瞳は、夜よりも暗く濡れていた。
まだほとんど普及していない最新型のエレベーターで最上階へ着くなり、クロウリーはずんずん部屋を進んでいって真っ先に目につく二、三人掛けのソファにアジラフェルを座らせた。
「クロ、」
「傷を見せろ」
「ス、ストップ!」
膝に跨るクロウリーにブレイシーズを些か乱暴に外され、下腹あたりでシャツを掴まれればさすがにアジラフェルも声を上げずにはいられなかった。
「なんだ」
「ちょ…ちょっと待って」
「じっとしてろ」
「見てどうするんだ、もう血は止まってるし放っとけば塞がるし治る」
手首を取って制止したが聞き入れられるわけもなく、あっさりと引きずり出されたシャツの裾が胸まで大きく捲り上げられる。
クロウリーが自分に馬乗りになって服を剥いでくる光景なんて目に毒でしかない。人にこんなところを見られるのだって初めてだ。なんだか一気に恥ずかしくなってきた。
ああ、傷が開くかも…とアジラフェルは目元を手で覆って天井を仰いだ。
「…痛そうだ」
「この程度の傷なんてことない。全然平気だ」
「痛くないとは言わないんだな」
「痛くない」
「おまえのそういうところは美点だよ。嘘を吐かないんじゃなく、吐けないんだ」
「………」
心を無にしようと努めるアジラフェルの上から落とされる声はまさに空っぽで、アジラフェルは腕を下ろし、クロウリーをそっと見上げた。
何の話かよくわからない。やっぱり血が足りなくなっているのかもしれない。
「…クロウリー」
「………」
「きみのほうこそ大丈夫か?なにか…」
「そうだ、傷…怪我したら洗ったほうがいいんだよな?」
「あー…ええと…それじゃあ、バスルームにタオルがあるからそれを濡らして、」
「わかった」
言い終わらないうちにクロウリーは立ち上がって背を向け、目線だけで指したバスルームの方向へすたすたと消えていった。
ひと息吐いて、アジラフェルもようやく自分の体を見遣る。それほど目立たないと思っていた黒いシャツでも明かりの下だと血を吸った部分がより黒々と光り濡れているのが目に見えてわかる。傷はやはり大した大きさではなかったが、溢れた血でちょっと凄惨には見えた。
まったく人間の体というのはなんて脆いんだ。簡単に壊れるから壊そうとしてくる悪心も芽生えるのかもしれないが。壊れやすいのを知っている悪魔や天使のほうがよっぽど大事に扱っている。今バスルームにいる天使が良い例だ。
(着替えが必要だな…)
アジラフェルはぱちんと軽く指を弾き、クローゼットの中にあるシャツを二着、ソファの前のローテーブルに引き出した。確認はしそびれているが、さっきあれだけ思いっきり抱きついてきたのだからクロウリーの服も汚れてしまっているに違いない。
普段から奇跡ではなく人間の作った製品を愛用しているからサイズはアジラフェルにぴったり合うものしか用意できないが…と、そこまで考えて、そういえばクロウリーは自分の着ているものをどうしているのか知らないことに気付いた。もしかしたら奇跡を着ているのかも。だとしたら彼の分の替えは要らないな…
戻ってきたクロウリーのシャツは見たところ真っ白だった。
「ありが…」
タオルを受け取ろうと差し出した手には見向きもせず、クロウリーはずいと体を寄せて再びアジラフェルのシャツを掴んで無遠慮にたくしあげる。
「ちょっ…待て、クロウリー」
「なんだ」
「…きみが心底迷惑そうな顔するのは違うんじゃないか?」
「おまえが邪魔するからだ」
「待て、違う。さすがにいい。ありがとう、あとは自分でやる」
「いいから」
「あのな、わたしにだって恥じらいくらいある」
「………、」
「…その顔もやめて」
おまえに?と今にも聞こえてきそうな表情から目を逸らし、クロウリーが手に持ったままの濡れたタオルを一方的に受け取る。
「…どれが恥ずかしいんだ?」
「悪魔相手とはいえもう少し細やかな心配りをしても罰は当たらないと思うよ」
「体を見られるのが嫌なのか?」
「そういうことにしておく。あんまり見ないで」
「…悪い」
全く悪いと思っていなさそうなトーンではあったものの、クロウリーは素直に背を向けた。
血を拭ってみれば傷はぱっくりと開いてはいるが見た目は実にちっぽけなものだった。それでもこんな惨事になるのだから人の体のなんと脆いことか。クロウリーが狼狽えていたのもまあ、理解はできる。
「きみはどこも汚れなかったのか?必要ならそこに着替えがあるけど」
「無用だ」
クロウリーは自身を見回す素振りも見せずにはっきりと答えた。それから、何故か少し俯いて、
「…本当に血が流れて機能している肉体といっても、元を辿れば地獄製だから」
と歯切れの悪い調子で続けた。
「ああ、なるほど。天使の御力を以てすれば地獄のものなど綺麗さっぱり浄化して消し飛ばしてしまえるわけだ」
「本当はおまえの服とか…体も、そうできたかもしれないが。でも…」
「体ごと浄化しちゃうかもしれないね、はは」
「………」
「笑ってくれよ、これくらい」
アジラフェルはシャツのボタンを留めながらすんなり納得したが、クロウリーは後ろ姿からでも気まずそうにしているのが伝わってくる。気にすることないのに。それが天使と悪魔だろ。
「もういいよ、こっち向いても」
「塞がってたか?」
「まあ、それなりに」
「見せろ」
「もう見ただろ」
「………」
「さっきみたいに強引にひん剥くつもりか?」
「……しない」
クロウリーは諦めて引き下がり、ソファに深く座りなおした。目線の先にはローテーブルの上のシャツとタオル。あとは捨てられるだけのごみには勿体ない栄誉だな。
「お茶でも淹れようか」
「大人しくしてろ馬鹿。なにか必要ならおれがしてやる」
視線を奪いたくて叩いた軽口は一蹴され、睨まれながらお叱りのおまけつき。
そんな怖い顔しなくったっていいだろ…と思いつつ、どうあれ心配してくれてくれていには違いなく、嬉しかった。
こんなの本当にどうってことないのだ。傷自体もそうだがさっきの出来事も。クロウリーがそうやって思い詰めた顔をする必要はない。
安いものだ、卑しい悪魔の胴腹のひとつやふたつできみの心の平穏を保てるのなら。まあ、安すぎて失敗に終わったのだが。…だめだ、これは笑い話にならない。
「安静にしてれば治るって言ったな。安静ってどうするんだ?」
「どうもしない。ただ大人しくじっとしてる」
「ここベッド無いのか?」
「無い」
「おまえ寝ないもんな…」
「あったら添い寝でもしてくれた?」
「アジラフェル、おれは真面目に訊いてるんだが」
わたしだって真面目だが。言わないけど。
「おれにできることは?」
「もう充分してもらったよ」
「何もしてない」
「ここまで付き添って連れてきてくれたし、ほら、それとか」
何気なくローテーブルを指さしたがこれは失敗だった。せっかく奪った視線をわざわざ戻させてしまい、生々しい血痕にクロウリーがいっそう顔を顰る。完全にミス。
「それなら、もう少しここにいてほしい」
取り繕おうとしてつい声が高くなる。
「もう少し?」
またクロウリーの顔がきゅっと険しくなる。しまった、これも失敗だったかも。アジラフェルはさすがに少し慌てた。
「今のは冗談じゃない。ほら、時間も時間だし物騒だよ。朝まではここにいたほうがいいと思う」
「その傷が完全に消えるまでここにいる」
「……え、…」
「もう少しで消えるならもう少しいる。そうじゃないんだろ」
「十年かかるって言ったら十年間ずっとここにいるのか?」
「そうだ」
眉ひとつ動かさず、義務感に満ちた表情だった。
そういう理由で一緒にいると言われてしまうと少し虚しい気持ちにもなってくる。…が、これは贅沢な不満だな。
「きみにそんな義務は無い。もし少しでも責任のようなものを感じているのなら捨ててくれ、クロウリー。わたしは本当に大丈夫だし…こんな形できみを招待する羽目になったことのほうがよっぽど残念で悔しい。ちゃんと完成させてから見せたかった。あと少しだったのに…」
「アジラフェル」
「ああ」
「悪かった」
「クロウリー…、」
「いいや、アジラフェル、全部おれのせいだ。今回ばかりは何も言わせない。おまえの優しい慰めも入る余地は無い。どうしたって真実はこれだ。血塗れのシャツに、おまえの体の傷、…」
そこまで言って、息を吸うクロウリーの喉が震えた。
そうだ。すっかり忘れていたが目の前で失われたものがもうひとつある。一人の人間の姿だ。
「彼はどうなった?」
「“彼”だと?」
見上げるクロウリーの瞳にあったのは明らかな怒りだった。
射抜くようなその眼差しにアジラフェルはぞっとした。自分に対してではないと頭ではわかっているのに、体の奥、魂の核にある自分の罪を突き付けられるような心地がした。恐らくこれが本能と呼ばれるものなのだろう。
けれど同時に、この怒りを解くことが自分の為すべきことであるのを心で理解していた。
「…クロウリー」
アジラフェルの声に、クロウリーははっと我に返ったように目を伏せた。
「あいつは死んだ」
抑揚の無い声だった。
独り言のようにぽつりと発せられた言葉にアジラフェルは一瞬理解が追い付かなかった。
死んだって?クロウリーが人間の命を終わらせたってことか?
(そんなまさか)
この様相を見れば天国に送ったとはまず考えられない。が、信じられるわけがない。あの天使クロウリーが?
「まさか」
「何もかも忘れさせて、あいつを知っている人間が絶対にいない遠い地へ飛ばした。もしかしたら言葉も通じないかもしれない」
「……じゃあ、」
「何も覚えていない。おれのことは勿論、家族や故郷のことも、自分自身のことも。死んだも同然だ。おれがそうした」
「生きてるんだね?」
「死んだんだ!!」
淡々とした口調から一転、クロウリーは悲痛なほどの声で言い切った。男が生きている事実に安堵を覚えていたアジラフェルは返すべき言葉がわからなかった。
これまでに見たことがないほど表情は険しく、今にもわなわなと震えだしそうなクロウリーの怒りの奥に深い傷が見えた。今アジラフェルの体にあるものなんかよりもよっぽど深く惨い傷が。
睨みつけるように向けられた双眸からぼろっと大きな涙が溢れ、アジラフェルは一気に体が冷たくなった。
「クロウリー、」
思わず両手で二の腕を掴んだが、クロウリーはアジラフェルにも目から零れ落ちる大粒の涙にもまるで頓着せず、気付いていないかのように強い眼差しのままはきと告げる。
「命を奪うっていうのは、存在を否定することだろ。存在は記憶と時間を積んで重ねて築いていくものだろ。おれはそれを奪ったんだ」
「彼の罰だ。きみにはあの男にそれを与える権利がある」
「そうだ、おれはあいつを罰したんだ。全てを奪った、魂の外側を全て破壊して、」
「奪っていない、クロウリー。天使が人の何かを奪えるものか。きみは正しいことをしただけだ。ただ天使として、」
「ちがう!!」
再び声を荒げたクロウリーがアジラフェルの肩を強く掴み返す。
「違う…違うんだ…これは…おれのこれは、天使が抱く感情じゃない…」
「………、」
「そんな尤もらしい名分なんて無い…おれが腹を立てて、だから全部奪ったんだ…アジラフェル、」
肩を掴んでいた両手がふっと緩み、そのまま首の後ろに回る。近づく顔に呼吸を忘れたアジラフェルの体を、クロウリーはぎゅっと抱きしめた。
「おまえが、死ぬと思った」
その弱々しい声で、クロウリーが泣いていることまで失念していたことに気付く。
それほど、アジラフェルは戸惑い、混乱していた。この僅かな間で二度も抱擁を受けたこと。そんなことを考えている余裕なんて本当は無いこと。かけるべき言葉を絶対に過てないこと。そんなことで一瞬で頭がいっぱいになっていた。
覚られてはいけない。ここで欲に負け流されてもだめだ。アジラフェルはぐっと感情を抑え、クロウリーを宥めることだけ考えるよう努めた。
「死なない。きみもわかってるだろ?武器でもなし、人間が食べるものを切るために作ったような粗末な鉄の物質だよ。大体それでもしも肉体の維持ができなくなってもすぐにまた、」
「いつになるともわからないし、そのままもう会えなくなるかもしれないのに?」
「そんなこと…」
「この肉の体は複雑だが、話はすごく単純だ。地球で過ごすためには必ず要る、生きた器だ。そうだろ?」
「ああ」
「この体が壊れて、地球で過ごせなくなって地獄に戻って、間違いなくまた元通りに地球で暮らせるって、それが許されるって言えるのか?わからないだろ、そんなのは。だったらおれにとってそれはおまえの死だ。死んだのと変わらない」
「………」
「おまえにいなくなってほしくない。おれは友達を失いたくない…」
クロウリーの腕の力がいっそう強まる。ようやくアジラフェルもクロウリーの背を抱いた。揺さぶられる心にそのひと言を刻んで、蓋をして大事に仕舞って押し込んで、肉付きの薄い背中を撫でた。
この記憶だけで生きていけると思った。こんなにかわいそうで、胸の痛みも本物なのに、うれしさで舞い上がりそうになる気持ちも本物だ。自分もあの人間と同じだ。なるべくして地獄に堕ちた。
「天使は間違えない。だからきみも間違っていない」
「それだってもうわからない。ああしたのはおまえを失いたくなかったから…」
「自分のことだから混乱してるだけだよ。友達のために怒るのは悪いことじゃないはずだ」
「おまえが刺されたとき、あの一瞬、ほんの一瞬だけ、本当に、許せなかった。許せなかったんだ。天使にはありえない。なあ、そうだろ」
「今は許せるんだろ?」
「そんなのおまえがここにいるからだ。そうじゃなかったら、今どう思ってるかなんてわからない…」
「………」
「怒りで頭がいっぱいだった。残されるあいつの家族のことだって、これっぽっちも思い浮かばなかった。諦めたんだ、救うことを。救うことも許すことも忘れて、おれは…」
「…クロウリー、違うよ」
「…おれのせいなのに」
「違う」
「おれは正しい道に導くどころか奪ったんだ。本当なら踏み外さなかったはずの正しい道も、命も!」
「何も奪ってない。確かに愚かな人間ではあったが、新しく生きなおす機会を与えてやったんだ。それに元々これはわたしが仕向けたようなものなんだ。わかってるだろ」
「そんなのはどうでもいい。始まりはおれだ」
「きみが救って終わった。完全に悪魔の手に落ちるその前に」
クロウリーの言う通りに“あの人間はきみの手によって死んだのだ”と受け入れてやることは確かに慰めになるのかもしれない。けれどそれが正しいことなのか、アジラフェルにはわからなかった。わかるはずがない。悪魔などには、到底。
「もしかしたら、刺されていたのはきみだったかもしれない。もしそうだったらどうなっていたか想像できるか?悪魔のわたしが、一体彼をどうしていたか」
「………」
「だからこれでよかった。刺されたのがわたしだったおかげできみが救えた。ね?これが正解なんだよ。もう泣かないで」
「………」
「うんと言って」
「………」
「健気な悪魔の願いを聞いてくれないのか?」
「………」
「友達の頼みなら?」
「………」
「ね。うんと言って」
「……ん…」
クロウリーは小さな返事と僅かに顎を引いて応えた。頷いてくれたのか擦り寄られたのか、もしくは濡れた頬を拭われただけかもしれない。
気付けばアジラフェルもしっかりとクロウリーの薄い体を抱きしめていた。この体温を手放すのが惜しく、アジラフェルは何も気付いていないふりをして黙っていた。クロウリーも何も言わなかった。そうしてただ抱きあって夜を明かした。
朝になり家へ帰す頃には当然クロウリーの涙も濡れた肩口もすっかり乾いていて、綺麗さっぱり跡形もなく傷の消えた脇腹を入念に確認したクロウリーはいつものように微笑みもしてくれた。
アジラフェルにとって、こんなにも晴れやかな気分は初めてだった。
深く理解しあえたと思える一夜だった。クロウリーには口が裂けても言えないが、これなら刺された甲斐があったとさえ思った。お釣りがくるぐらいだ。
だから当然、このたった数週間後の諍いで向こう二十年も顔を合わせることがないほどの大きな軋轢が生じるなど予想できたはずがなかった。
最初にほんの少しの勇気を出してもう一歩踏み込んでいれば。手を取って、それが傷口を抉るに等しいことだとしても、天使の不安をはっきりと言明してしまえばよかった。素直に力になると言えばよかった。たった一人の人間くらい、もっと別の適当な理由をこじつけてさっさとこちらで処理してしまっていればよかった。この夜の出来事なんて起こらなければ、今も変わらずカフェのテラスで穏やかな昼下がりを共有できていただろうに。
理解しあえたなんて浮かれた勘違いもせずに済んだのに。