@otohitoe_
新しい担当編集者と初めての打ち合わせはいつもの喫茶店、いつもより少し遅い時間だった。
クロウリーの住むマンションからは歩いて10分もかからないほど近所だが、出版社からは電車で40分、車ならもう少し早くてその半分と少しといった距離で、アジラフェルの家からも別方向ではあるが大体それくらいの距離。らしい。当然まだ行ったことはない。
「クロウリー」
「ん」
「やあ、お待たせ」
「時間通りだ」
店に入るなり迷うことなくすぐに見つけてくれるだけで心がやわらかくなるのを感じた。面と向かって話すのはこれでやっと三回目。クロウリーの記憶では。
正面に座るアジラフェルにメニュー表を差し出すと、ありがとうと微笑みが返ってくる。いちいちお礼を言われるのはむず痒いが、昔遠巻きに見かけるだけだったこの微笑みや優しい声が今自分の身に向けられているのが嬉しくもあり…やっぱりむず痒い。
「あ、ホットの紅茶はポットで出してくれるんだ。この前も思ったけどこのお店良いね。置いてある種類も多いし」
「紅茶が好きなのか?」
「うん。好きなだけで詳しいわけじゃないけど」
嘘だ、とクロウリーは思った。アジラフェルは絶対凝り性なタイプで、家にはお気に入りの紅茶の缶なんかが何種類も常備されているに違いない。
「アッサムのホット、ミルクは別で」
クロウリーには紅茶の種類や違いなんてわからないが、アジラフェルが選んだという時点で好きになった。注文する機会があればきっと同じものを頼もう。
メニュー表をテーブルの端に立てかけるついでにクロウリーの前にあるカップに気付いたらしいアジラフェルは、「コーヒーも好きだよ」と何故か声を低くしてひそと告げた。うわなんだそれ。好きだ。
「それで、早速仕事の話をしちゃうんだけど」
「ん…ああ」
言いながらアジラフェルが鞄から取り出した透明のケースには、角をクリップで留めた簡易冊子が二部入っていた。クロウリーが事前に送った手書きのプロットを印刷したものだ。これはこの出版社でのデビュー作から変わらないやり方で、前の編集者からしっかり引き継がれているのが窺える。
「メール見たときびっくりしたよ。手順は聞いてたけど手書きなのは知らなかった。いつもそうなの?」
「プロットだけ。原稿はさすがに」
「そうだよね。きみの字すごく綺麗だから、手書きの原稿も読んでみたいけど」
ふふふ…と何故かアジラフェルが嬉しそうにはにかむ。ティーポットとカップを運んできた店員へ向けたお礼の微笑みですぐに上書きされてしまったが。
字なんて全く意識していなかったことに気付き、なんだかそわそわとした気持ちになった。もっと丁寧に書けばよかった。
はいきみの分、と紙の束を一部差し出したアジラフェルは慣れた所作でカップに紅茶を注ぐ。ふわりと漂うのは嗅いだことのある紅茶の香りだった。
「ペンはある?」
「ある」
「それじゃあええと、順当に頭から…あ、おいしい」
「よかったな」
「あは、ごめん。まず章立ての話からしよう」
アジラフェルはティーカップと入れ替わりに自分のペンを取り、1ページ目に載っている雑な図のうちのひとつを指した。
「大きく五つに割ってくれてるけど、特に章分けするつもりではないんだよね?」
「しない。イメージ的にはワンカット撮影みたいな、今度のはとにかく走り抜けるような話にしたいんだ」
「ああ、なるほど…いいね。この三つ目のセクターは全体の中でどれくらいページ数割こうと思ってる?大体で構わないんだけど」
「ん…10%はいかないかな…」
「やっぱり少ないんだね。最後のフックになる重要なパートだと思うんだけど、それは意図して?」
「意図的にそうするようにしてる。フックになるからこそあんまり語りすぎてしまいたくない。わかりにくくしてしまうと思うか?」
「いや。重要な展開をさっぱりした書き方で置いていくのはきみの作品の良さだから」
アジラフェルは満足げに頷いて、クロウリーの返答を要約したメモを図の隣にさらさらと記した。
「次にここ、結構複雑な場面展開だと思うんだけど、かなり簡素というか、端的だよね」
「イメージはぼんやりある。けど、書きながら考えを詰めたい。今言葉にしてしまうとそれが余計な指標になりそうで」
「ああ、わかるよ…だけど、もう少しだけ書いてもらうことはできる?台詞のひと言でもいい。このあとどういう見え方になりながら展開していくのかだけ知りたいんだ」
「…わかった」
「あ…無理にとは言わない。それで何かが削がれてしまう予感がするなら…」
「違う、問題ない」
クロウリーは慌てて否定した。私情はまったく抜きにして、アジラフェルの提案に不満などは少しも無かった。
「少しびっくりしただけだ。おまえがあんまり普通に編集っぽいから…」
「え?」
アジラフェルの話を信じるのなら動機が動機だし、いや、もちろん今狙ってその座を射止めているのは能力あってのことだと疑っちゃいないが、でもやっぱり、動機が動機だし。
「ふふ…きみの担当を横取りできるくらいには頑張ったからね」
「あと、おまえの字も綺麗だ」
アジラフェルは驚いたように少し目を丸くして、それから、ありがとうとまたあのはにかんだ笑顔を見せた。
「うん。今日のところはこれくらいかな。ありがとう、お疲れさまでした」
「ん」
それほど長くはない作品ということもあり、最初の打ち合わせは陽が落ちる前に終わった。
「初稿を読むのがますます楽しみになった」
そうにっこりと言われたのは本当に嬉しかったが、それよりも今のクロウリーは打ち合わせがもう終わってしまったことを残念に思う気持ちのほうが強かった。何か訊き残したことはないかと考えてみても、アジラフェルの丁寧なすり合わせのおかげで今のところ問題はひとつも思い当たらない。
「それでクロウリー、プライベ-トな話をしてもいい?」
つい今までの打ち合わせ中と変わらない、温和だが淡々とした調子でアジラフェルは尋ねた。すぐにはその言葉に理解が追い付かず、呆気にとられてアジラフェルの顔をただぼんやり見つめてしまう。
「もう少しはっきり仕事と区切りをつけたほうがいい?」
「い、いい。問題ない」
「よかった」
ほっとしたように目元を緩めたアジラフェルが、この前と同じようにクロウリーの手を握る。それだけでもう仕事のことなんて頭から追い出されていた。今このときまで知らなかったことだが、実際割と切り替えは得意なタイプらしかった。序盤はともかく、打ち合わせの最中はこんなにアジラフェルを意識していなかったことに気付いたからだ。
「打ち合わせのあとって、すぐ仕事に取り掛かりたいほうだったりする?」
「そういうときもある」
「今日は?」
「今日は…その予定は無い」
クロウリーも初心な子供ではない。誘われる予感、期待が胸の内にじんわりと広がる。
「それじゃあ、このあとの時間をもらってもいい?わたしも今日はもう仕事おしまいなんだ」
「うん」
「ふふ…打ち合わせの時間、少し遅めにしておいてよかった」
「最初からそのつもりだったのか?」
「そりゃあ、ちょっとくらい期待してしまうのは仕方ないよね?」
「そうだな…」
意外とそういう世俗的なところもあるんだな、とクロウリーは嬉しくなって、緩む口元を隠さず笑って返した。
「電話してくるから少し待ってて」
アジラフェルはクロウリーを残して喫茶店を一旦後にした。会社に直帰の旨を連絡するのだろう。店内には自分たちのほかに客の姿は無いのに律儀なことだ、とカップに残ったコーヒーを飲み干し、待っている間に会計を済ませる。店員も慣れたもので、手際よく領収書を手渡してくれた。
「お待たせ、行こう」
「ん」
「あ、ありがとう」
差し出した領収書を受け取る仕草も何だか手馴れており、昔のアジラフェルをよくも知らないくせに勝手に時間の流れを感じてちょっとときめいた。
「お店空いてるって。良かった」
「店?」
「うん、駅の向こうの…」
「会社に電話してたんじゃないのか?直帰するって」
「え?いや、会社は別に大丈夫」
まるで気に留めていないアジラフェルの言い方にクロウリーはぽかんとした。
「どうかした?」
「…おまえ、なんかすごいコネでも持ってんのか?」
「まあ、ある意味そうかも?きみの編集担当っていう肩書きのことだけど」
うふふ、とアジラフェルは悪戯っぽく笑った。
「前に一度行ったことがあるイタリアンのお店があるんだ。きみは近所だから知ってるかもしれないけど」
「たぶん知らない。家の近所で飯食うことあんまり無いし。駅の向こうって言ったか?」
「うん。駅を越えた向こう側」
「じゃ絶対知らない。あっち側は滅多に行かないんだ」
「良いお店だよ。楽しみにしてて」
アジラフェルは表情を綻ばせてクロウリーの手を握り、薄暮れの路を進んだ。
簡潔に言うと、最高の時間だった。
今のことも昔の話もたくさんした。クロウリーが見ていたアジラフェルの話、アジラフェルの見ていたクロウリーの話。
前回「話をしたことがある」と言っていたことについても聞き出したがたぶん嘘だ。しょうもなさすぎるから。
頬が痛くなってくるくらい笑った。お互い知らないことばかりなのに、昔からずっと一緒だったみたいな安心感だった。
だから、不意に聞こえた隣のテーブル客の「もうこんな時間か」という声をきっかけに腕時計を見たときは二人して二度見した。あっという間の時間だった。
「家近いんだよね?送るよ」
「ああ…、うん」
当たり前だが、喫茶店で打ち合わせが終わるときに感じたよりもずっと寂しい気持ちになった。
別にいいと言いそうになったのを飲み込んで素直に頷いた。
帰りの話題に触れたくなくて、アジラフェルはそのあとどうやって帰るのか、また駅に向かうのかタクシーを呼ぶのかさえ訊けないまま、あっさりマンションの前まで着いてしまう。
「ここ?綺麗なとこだね」
「二年前に建ったばっかだから」
そんなことは今はどうだっていい。そんな話をしている場合じゃないだろ。
道すがら、マンションに着いたら「ちょっと寄っていくか」と尋ねようかどうかずっと悩んだ。今も悩んでいる。
「クロウリー」
「っ、」
思いがけずぎゅっと抱きしめられ、クロウリーは全身が硬直した。
「ア、アジラフェル」
「今日はありがとう。すっごく楽しかった」
「お…おれも…」
なんだそれ。子供の恋愛ごっこじゃないんだぞ。もっと何か気の利いたこと言えよ。それでも物書きかよ。
おずおずと抱き返しながら、クロウリーは頭の中の引き出しを片っ端から開けた。開けども開けども役に立つ台詞なんてひとつも出てこない。当たり前だ。アジラフェルにハグされる話なんて読んだことないんだから。
「こんなに笑ったの久しぶりだ」
「うん…」
「連絡するから、またご飯行こうね」
「行く…行きたい。打ち合わせじゃない日でも、昼でも。おまえに合わせる。今度はおれの好きな店を教える」
「本当?楽しみにしてる」
「うん」
「それじゃ…おやすみ、クロウリー」
「…うん」
ゆっくりと体が離れる。
いいのか?ちょっと寄ってけよって言わなくて。言うなら今このタイミングしかないんじゃないか?紅茶は無いけど、コーヒーの一杯でも飲んでけよって。
ぐっと意を決して口を開きかけたのと同時に、アジラフェルと視線が交わった。
(あ…、)
と察したときには頬がアジラフェルの両手にそっと包まれていて、寄せられる唇をただ目を閉じて受け入れた。
クロウリーは半ば引いていた腕を伸ばし、もう一度、アジラフェルの背に回した。
ただ触れるだけのキスだった。
遠い昔の初めてのキスだってもっと情熱的だったと思う。それくらい優しすぎるキスだった。それなのに、それでも、クロウリーは息をするのも忘れるほどうれしかった。頭も胸もうれしさでいっぱいになった。
唇が離れるのと同時に目を開くと、間近にアジラフェルの綺麗な瞳があった。瞬きがスローモーションのように見える。
「……、…」
「…ふふ」
「…なんだよ」
「ごめん。あんまりかわいいから」
「………」
「何か言いたげな顔してる」
すり…と頬を撫でられると頭のてっぺんから足の先まで幸福感で満ちた。アジラフェルの指先から自分に向けられた甘やかな感情が伝わるから。
「………」
「ん?」
「…家に着いたら、連絡してほしい…」
「すぐ電話する。それだけ?」
「好きだ…」
体の奥から押し出されるように自然と口に出た言葉だった。
アジラフェルは僅かに大きくした目を、今度は蕩けるような眼差しに変えて微笑んだ。
「わたしもだよ」
「アジラフェル」
「きみが好き…」
そうしてもう一度キスを交わしたあと、今度こそその夜は別れた。
アジラフェルはクロウリーがエントランスを抜けたあとも、エレベーターに乗り込んで姿が見えなくなるまでずっとにこやかに見送ってくれていた。
部屋に帰って玄関の明かりを点け、閉ざしたドアに背を預ける。クロウリーはまだ頭がふわふわしたままだった。
嘘みたいだ。あのアジラフェルとハグしてキスした。また好きだって言ってもらえた。
顔が急に熱くなった。気持ち悪いくらいに浮かれてる。たったあれだけのことで…
「……そうだ…」
早くシャワー済ませないと。アジラフェルから連絡がくるんだった。
あんなに喋ったのに言いそびれた言葉がどんどん出てくる。今夜連れて行ってくれた店がお世辞じゃなく本当に良かったとか、一度来たことがあるのっていつ頃だったのかとか、それによってはもしかしたらばったり会っていてもおかしくなかったなとか。家に本当に紅茶の缶がいくつもあるかどうかも確かめたかったし、もっと仕事の話だってしたかった、どうやって帰るのかとか、ああ、送ってくれてありがとうって言えばよかった。
アジラフェルからの電話はクロウリーがちょうど髪を乾かし終えた頃に掛かってきた。
『今家に着いたよ』
「どうやって帰ったんだ?」
『タクシー。ほら、今日って打ち合わせだったから。たぶん経費で落とせるし』
「ふふ…どんどんやったらいい」
クロウリーは寝室へ移り、枕の傍にスマホを置いて横たわった。画面に表示されている“アジラフェル”の文字がうれしくて愛おしい。
『このままお風呂入ってもいい?』
「え…い、いいけど」
『きみはもう済ませた?それとも朝派?』
「さっき出たとこだ」
『ちゃんと髪乾かしてね。風邪引きやすいって言ってたろ』
「うん…」
反響する低い物音と、次いでバスタブに溜められ始めたのであろうお湯の音。
クロウリーはなんだか気が気ではなく、結局言おうと思っていたことの半分以上が妙に色っぽく聞こえる通話越しの水音に流されて消えた。