寝室での話 / アジクロ
@otohitoe_
クロウリーがベッドに潜り込むのと同じ気持ちで、アジラフェルは夜伽相手の厚い表紙の本が行儀良く待機するデスクの前に腰掛けた。無論、クロウリーと同じ気持ちで、というのはアジラフェルが勝手に思っているだけだ。
「前から思ってたんだが」
「何を?」
「おれが寝室で眠るからといって、別におまえまでついてくる必要はない。下で本を読んでいればいい。明るいし、音楽も聞ける」
デスクの灯りが照らすのはちょうどベッドの縁までだが、その向こうにいるクロウリーの黄色い瞳は薄闇の中でぼんやりと浮かんで見える。陽の光を反射する月と全く同じ仕組みだ。部屋を満たす暗闇は宇宙で、デスクランプの太陽、ふたつの月。それを見てるわたしは地球かな?位置関係はめちゃくちゃだけど。
「わたしもこの部屋が好きなんだ。この完璧な寝室がね」
クロウリーが寝て過ごすことが当たり前になって、初めて本当の意味で寝室になった部屋だった。アジラフェルも時々はクロウリーと一緒に横になって夜を明かすことだってある。それ以外のことをして過ごすことも。
まあ、大体はこうしてクロウリーが本来の用途で使ってくれているから寝室として完璧に成立していると言える。
「それに、この部屋がどれだけきみの愛を溜め込んでいるか」
「…急に居心地の悪い部屋に思えてきた。それってどうやったら減らせるんだ?」
「さあ…使ったり移動させたりするようなものでもないし」
「放っておいたらそのうち消えるのか?」
「愛に質量は存在しない。きみの愛はあるだけあるよ。きっとわたしのもね」
自分の愛は自分じゃ感じられないから…とアジラフェルは続けた。
「おれにだってわからない」
「代わりにわたしがいるだろう」
「どうかな」
「どうかな?」
クロウリーの言葉の真意がわからず、思わずそのまま尋ね返す。アジラフェルはクロウリーがここにいること、もっと言えばクロウリーの趣味ではないとわかりきっているこの部屋で、真っ白のシーツに包まれて意識を手放す睡眠行為を行うことは自分への愛の証明になると認識していた。当然クロウリーもそうだと思っていた。夜ここで一緒にこうして過ごすことが…いや、こういうことをきちんと言葉ですり合わせてこなかった結果どうなったかは学んだはずだ。そう、お互いに。
「おれに対するおまえのそれの有無を疑ったことはないが、おれと同じ形かどうかはわからない」
「こうして傍にいても伝わらない?」
「だめだね。ただいるだけじゃあ」
「ううん…」
「なぜおれの傍にいたい?寝てるだけで話し相手にもなれないのに」
アジラフェルは片方の口の端をきゅっと引き結び、ちょっと考える振りをしてみせた。
「そうだね…そりゃあ、起きてるきみと過ごすのは楽しいけど…」
少しも揺るがない意志の強そうなクロウリーの眼差しに、アジラフェルは諦めて微笑んだ。今夜はこちらから折れてやることにしたのだ。
「きみが少しも動かず、ひと言も話さず、ただ静かに眠っているだけでも、わたしはきみの傍にいたいんだ」
「ふうん…」
「愛してるからね」
「それはいい」
「傍にいるだけじゃ伝わらないって言ったのはきみだろ」
「そこまで言えとは言ってない」
「言ってほしかったくせに」
戯れに憎まれ口を叩いてみたもののクロウリーは表情ひとつ変えず、ふんと鼻を鳴らしてアジラフェルに背を向けた。
こんなこと本当はいくらだって言ってやれる。けれどクロウリーから言ってほしいという可愛い我儘くらいアジラフェルだって持ち合わせているのだ。言ってやったところで同じだけの言葉が返ってくるわけではないけれど、さっきの話の通り、アジラフェルはそれを肌で感じることができるために良しとしてやっている。だからってなかなかはっきり見せてくれないなんてちょっとつれないと思う…
…あれ。もしかして自業自得なのかも。この話をうきうきとしてしまうからますます口に出してくれなくなるのかもしれない。
愛されるということも意外に難しい…なんて、ちょっと傲慢だろうか。自分が愛を向けられることについて考えたことなんてなかった。
対して、クロウリーは間違いなく一人分は向けられ続けていたわけだし、本人も“疑ったことはない”とはっきり言っている。アジラフェルのようにそこに在ると感じることもできないのに、どうして疑わないのだろう。
もしわたしが何も感じられなかったとしたら、きっともっと不安を覚えそうな気がする。言葉や行動を求めてあれこれ働きかけるかも。ああだから、クロウリーはいつも優しいんだろうか…
物思いに耽っているせいで文字列の内容があまり頭に入ってこず、ただ指先でページの端を撫でているだけなことにアジラフェルは気付く。もしかして退屈しているのかも…と、ふと横を見遣ると、先ほど背を向けて寝入ろうとしていたはずのクロウリーのふたつの瞳がじっとこちらを見つめていた。
「あれ…まだ起きてるの」
アジラフェルは少し驚きつつ首を傾げて尋ねた。
「寝ないの?それとも眠れない?」
「別に…眠れないってほどじゃない」
「眠るのが好きで、眠ろうとしてるのに眠れないっていうのは不思議だね」
「そういう日もある」
「おしゃべりでもする?」
「おれのことは気にしなくていいって。眠くなったら勝手に寝る」
「喋っているうちに眠くなってくるかもよ」
「じゃ、声に出して読んでくれよ。それ」
「この本?」
クロウリーは枕の下に腕を曲げ入れながら、悪戯を思いついたときのように楽しげな笑みを浮かべた。
「読み聞かせしろってこと?」
「そう」
「いいけど、でもこれは…聖書みたいなものだ。あんまり気分の良いものじゃないだろ。別のを持ってくるよ」
「その辺に適当に積んであるのでいい。内容はなんだっていいんだ。百科事典なんかでも」
「百科事典はこの前全部駄目になっちゃったままなんだ」
「…おっと」
「一部は修繕、一部は探してるところで、既に取り寄せ中のもいくつか…んん…どれもいまいちだな」
「何でもいいって。おまえの日記でもいいぜ」
「絶対だめ」
「おまえでも日記を読まれるのは恥ずかしいんだな」
「読まれて恥ずかしいことを書いてるつもりはない。けど…まあ、一度精査はさせてほしい…」
「そんなこと教えていいのか?おまえのいない間に盗み読みするかも」
「きみはしない」
「そう言っておけばしないと思ってるだろ」
「しない。きみは本当に優しいから」
「ふん。勝手に言ってろ」
デスクの周りに置いてあったのはどれも勿論お気に入りの本ばかりだが、クロウリーに聞いてほしい内容をと思うとぴんとくるものが見つからない。
「うーん…ここにはあまり置いてないから…下に探しに行ってもいい?」
「そこまでしなくていい。なあ、面白くなくったっていいんだ。ていうかむしろそのほうがいい。つまらない話を聞いてると眠くなるってのは知ってるよな?」
「だめだよ、せっかく読むんだから楽しいものでないと…そうだ、新聞は?昨日のだけど」
「新聞ならもう読んだ」
「そう?星座占いの欄も?」
「占い?」
「産まれた月で割り当てられるんだよ。知らない?」
「それは知ってる。けど割り当てようがないだろ、創られたのはおれ達のほうが先だ。カレンダーよりも星座よりもずっと前にな。第一占いなんて…」
「オカルト?」
「そうだ。あいつらも昔から好きだよな、予言だの神託だの…大体、生まれた日付けで性質が変わるなんて…」
クロウリーはあまり占いが好きではないらしい。というより、楽しみ方を知らないのだとアジラフェルは思った。信じたつもりで楽しんでみれば案外面白いものだと知ってほしくて、もう少しだけ粘ってみる。
「それがそうでもないから広く定着してるんじゃないか?」
「どうだかな…」
「種類だって色々あるだろ。タロットとか、手相とか、名前とか…ああそうだ!思い出した、わたしも自分の星座を調べてみようと思って一冊買ったことがあったんだった。どこへやったかな…」
「だから、おれ達にはそんなもの無いだろ」
「当てはまる特徴が多くあったのを自分の星座ということにしようと思って。決めておけば訊かれたときに困らない。だろ?…あった!これだ」
「あったのか?」
「うん」
「違う。本じゃなくて星座だよ」
「それがね…」
「アジラフェル」
はっきりと話を遮る意図のある声色がアジラフェルの名前を呼んだ。そんなに嫌かと諦めかけたが、クロウリーはゆっくりとした所作でベッドサイドのランプを灯した。
「なあ。こっちに来いよ」
「…ええと」
「おしゃべりならおれの隣でしろ。付き合ってやる」
「付き合ってやるっていうのはわたしの台詞な気がするけど…」
反論しつつアジラフェルは少し考えて、それも悪くない、いや、良いかも…と提案を飲むことにして椅子から腰を上げた。
「眠るには眩しいんじゃないか?」
「おまえがここに来れば陰になる」
ぎっ、とベッドが軋む小さな音と共に一人分のスペースが空けられる。確かに少しは陰になりそうではあるが…代わりにデスクの上の灯りは消しておいた。
クロウリーの指がぱちんと鳴ったかと思うと、ちょうど縁に片膝を乗せたところだったアジラフェルの身は柔らかい生地のパジャマに包まれた。
「ありがとう、でも勝手に服を脱がすのはやめて」
「着せたんだ」
「脱がせたあとでね」
「入れ替えただけで脱がせてはない。いいから早く」
今日はなかなか折れないな、と思いつつ素直に空けられたスペースに座ると、すぐさまひんやりした体が脚に絡みつく。アジラフェルはその予想外の冷たさに少しびっくりした。
「体冷たくないか?寒い?」
「別にいつも通りだ」
「寒いから眠れないんじゃ…いや、逆か?寒いほうが眠くなるんだっけ」
「いつも通りだって」
抱くようにして撫でた肩も思った通り冷たくて、首元までシーツを引き上げたものの心許ない。ブランケットを持ってきてやりたいところだが、クロウリーの語調からすると突っぱねられるのは明らかだ。それにもう片足はしっかり抱き込まれている。
外腿に顔を押し当ててくるクロウリーの様子にやっぱり本当は眩しいんじゃないか、とランプの灯りを小さくする。
「本当にいつもこんなだったっけ…」
「そうだよ」
「あっためてあげる」
同じシーツの中に潜り込み、包むようにして体を抱き寄せる。抵抗は全く無く、蕩けるような瞳を間近に覗き込むのも許された。
「星座の話はもういいのか?せっかく本も掘り当てたのに」
「今度きみの星座を決めるときに話すよ」
「決めなくていい…」
クロウリーは目を細め、溜め息まじりに言った。呆れているようでもあったがアジラフェルには微笑みに見えた。実際そうだったと確信すらある。
本当に眠る気があるのか無いのか、ぼんやりとアジラフェルを見つめたままの目尻を親指でそっと撫でる。瞬きの少ないクロウリーがひと度瞼を上下に往復するまでに、アジラフェルは三度は瞬く。それをこっそり数えた。三度。五度。また三度。眠くなっていくごとに間隔は広くなることは既に知っているが、今夜はなかなか瞼が落ちない。見つめているのが良くないのだろうか。
「本当に眠れないんだね」
「そのうち寝る…」
「こういうときって、下になっているほうの腕はどうするのが正解なんだろう」
「ハグするか?」
「うん」
両手を差し出すように広げたクロウリーに招かれるまま、下側の腕を体の下に滑り込ませてしっかりと抱きしめる。腕なんか敷いていて邪魔にならないのだろうかと思うが、何せ彼の体は蛇のように柔軟だから気にならないのかもしれない。
十分に体温を分け与えられることに満足したアジラフェルだったが、身動きも取れず視界も塞がれることにはたと気付く。
「あれ…これじゃきみの顔が見えない」
「何か不都合があるか?」
「それにこれじゃ結局眩しいだろ。消してあげるから一旦離して」
「平気だ」
言いながら、クロウリーは柔らかい唇をアジラフェルの額に触れさせる。
「あ、キスもできない」
「朝までおとなしく抱かれてな、天使さん」
これが狙いだったのかと悟った時には既に遅く、ぎゅう、と抱きすくめられれば文句など言えるはずもない。今日は睡眠の真似事をして夜を明かすことになるな…と諦めてクロウリーの背をただ撫でた。
「けど…そうだな」
「灯りを消す?」
「いいや。やっぱり読み聞かせしてくれよ。絵本の一冊や二冊くらい頭の中に入ってるだろ?」
「このまま?」
「そう」
「ふむ…」
絵本、というのはただの冗談だっただろうが、アジラフェルは望み通り子供のために描かれた物語を聞かせてやることにした。クロウリーは意外にも文句ひとつ言わず、黙って聞いていた。
アジラフェルが記憶の片隅から引っ張り出しながら語ったのは二人の少年が宝物をさがして冒険をする話だった。本の言葉を覚えていたわけではないために、朗読というよりはまるで見てきたものを教えて聞かせるような、普段通りの調子になってしまったが。
「それでふたりは、結局もともといた家に帰ってきたんだけど…」
そこからたっぷり間を取ったのはクロウリーが眠ってしまったかどうかを確かめたかったから…ではなかったが、結果的にそうなった。アジラフェルが黙ってしまっても抗議の声は無かった。どうやらようやく眠れたらしい。
アジラフェルは細心の注意を払って慎重に体を起こし、すっかり力の抜けた腕をそろそろと下ろしてシーツの中に仕舞い込む。
「正直に言うとね、ここから先は覚えていないんだ」
ベッドサイドの灯りを消し、再び横顔を見下ろす。カーテンの隙間から微かに漏れる月明りを拾う寝顔は幼く、無垢な人間の少年のようにも見えた。
「でも物語の終わり方は大体決まってるだろ?“そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました”って終わるんだ」
顔に掛かる前髪を後ろに遣りながら、必要なくなったはずの言い訳を聞かせる。指の背で優しく撫でた頬はいつもの体温だった。
「いつまでもっていつまでなんだろうね?クロウリー。きみならどう考えるかな…」
「わたしなら…そうだな…」
「人にとっては、たった十年先のことだってずっと遠い未来に感じるんだよね…何もかもが変わっているように思えるんだろうな…」
「それこそわたしたちには想像できないよね。地球が死んだってわたしたちは続いていくんだし…」
クロウリーの寝息は聞こえないほど静かで、規則的に上下するシーツに包まれた胴体だけが今この部屋の中で時間が流れている証明だった。
「いつまでもか…」
ゆっくりと身を屈め、クロウリーの目元にそっとキスを落とす。遠い遠い未来を思いながら。
アジラフェルは夜が明けるまで、その横顔を見つめていた。