思い出の共有の話 / ineffable husbands
名前のないエキストラが出ます
@otohitoe_
「こんにちは」
ベンチに座る女性は掛けられた声にゆっくりと顔を上げ、その淡いブラウンの瞳にアジラフェルの姿を反射させた。
「近頃見掛けないなと思っていたんです。元気そうでよかった。隣に失礼しても?」
「………、」
女性は何か言いたそうにしながらも黙ったままだったが、アジラフェルはにっこり微笑んで隣に腰を下ろした。
「今日はお一人で散歩ですか?」
「……散歩…」
「お買い物の休憩中?それともピクニック?今日は割と天気が良いから」
「…そう…いえ…そうね…少し、散歩していたの」
アジラフェルはまた同じように微笑み、深く頷いた。
「少しお喋りにお付き合いいただけますか?」
「あ…ええ。もちろん。わたしでよければ」
「友人とここで待ち合わせなんです」
「はあ…いいですね、お友達と…食事?」
「ええ、一緒にランチに。川向こうのレストランで」
「なんのお店なんですか?」
「フレンチ」
「フレンチ…」
アジラフェルが指した方向へ眼差しを向け、女性はアジラフェルの言葉をひとりごとのように繰り返した。
「行ったことは?」
「いいえ。きっとおしゃれなお店なんでしょ?そんなところ連れて行ってもらったことないし…」
「お友達とは?」
「まさか。フレンチって高そうだし。それに…」
「それに?」
「休日にランチに行く友達なんて、いないんです」
「おいしいものは一人で食べてもおいしい」
「そうかもしれないけど…」
「誰かと一緒のほうがおいしいよね」
「そうですね」
女性は自嘲気味に笑って肩を竦めてみせた。どんな場所でも、一人よりも家族や友達と一緒のほうが楽しいことが多い。アジラフェルもその気持ちは知っている。
「どこに行っても一人だわ…今みたいに。休日だって何もすることはないし…かといって学校もつまらないし…」
「勉強が?」
「勉強も、先生も、クラスメイトも全部。でもいいんです。どうせあともう少しで卒業だし」
「ふむ…」
しばらく考えたあと、なるべく明るい声で「よければ、」とアジラフェルは切り出した。
「よければ招待するよ。実はオーナーとは知り合いなんだ」
「え…」
「フレンチは好き?」
「フレンチ?」
「川向こうにおいしいフレンチレストランがあるんだ。どうかな?何ならこのあとでも」
「ああ…ああ、えっと、素敵なお誘いをありがとう。嬉しい、とっても行きたいわ。…けど、そんなことしたらママに怒られちゃうわ。きっと…」
「それならお母様も是非ご一緒に」
「あら…」
女性は僅かに顎を引く可愛らしい仕草で、照れたようにはにかむ。
「ふふ…私ったら、てっきりデートのお誘いかと」
「それはまたいずれ」
「まあ」
可笑しそうに目を細める女性に同じように笑顔を返しながら、わたし以外の誰かが、と心の中で続けることで嘘にはしなかった。だってきっと素敵なデートがあったから、彼女は愛の溢れる家族を持ったのだ。
この先の未来で、彼女の前に愛し愛される相手が現れて、きっと食事の約束をする。それがフレンチレストランだったかはわからないけれど。
「そのレストラン、どんなお店なの?」
「雰囲気も良いよ。賑やかすぎず、静かすぎず。もちろん料理もおいしい。まあでも、予約はしておいたほうがいいかもね」
「そう…素敵ね。行ってみたいけど、ほら、きっとマナーとかがあるんでしょ?いつも行くのは昔から知ってる近所のパブとか…そんなところばっかりだから。ちゃんとしたレストランなんて…」
「パブ?」
「あ、その、騒がしい感じのお店じゃないのよ。私もいつも行ってるわけじゃなくて、仕事帰りに一杯だけ寄ったり…地元がずっとここだから。お店をやってる人たちとは昔からの顔馴染みで」
「昔からの知り合いと一杯やるのは楽しそうだね。仕事のことなんかも相談もできるだろうし」
「まあ…ええ、そうね。良い人たちよ。夫婦でやっていて…パブだけどデザートもあるの。それがね、とってもおいしいのよ」
なんとなく、あの店だろうなという見当はつく。アジラフェルも何度かは行ったことがあるが、どちらかといえばもうすぐそこまで来ているであろう友人のほうが詳しい範囲だ。
「よければ今度、きみのお気に入りのお店に招待してくれる?」
「もちろん。ねえ、お名前を聞いてもいい?紳士様」
「おっと失礼、フェルと呼んで」
「フェルさんね。きっと覚えておくわ。お誘いをくれたときに忘れないように…ママにも言っておかなくちゃ…だから…そう、わたし、家に帰らなくちゃ」
「お迎えが来るんだろう?」
「………、」
「ここで約束してるんだよね。もうじき来るよ」
「…そう…そうね…」
言葉尻を低く沈ませながら不意に遠い目をする女性に、アジラフェルは微笑みを絶やさないまま続けた。
「甘いものは好き?」
「あ…ええ、とっても好き」
「ここから向こうに歩いて10分ほどの場所にあるパティスリーは知ってる?」
「知ってるわ。先月オープンしたのよね。まだ行ったことはないけれど」
「それはいい、是非初来店の感想を聞かせてもらいたいな。きっと驚くよ。たくさん種類があって…」
「待って、言わないで。ひとつも言っちゃだめよ。何があるんだろうっていうのも楽しみなの」
「わかった、言わない。その気持ちはとってもわかるよ」
「あ、でも待って、ひとつだけ教えて。私、アーモンドがとっても好きなの。私が喜びそうなケーキかお菓子はある?」
「ふふふ」
「あるのね?」
アジラフェルは嬉しくなった。きらきらと輝く瞳は小さい頃から少しも変わっていない。それから、アーモンドが好きだというところも。
「初めて作ったお菓子もアーモンドのクッキーだったの。たくさん食べたいし大きいほうがいいと思って、ひと粒そのままをびっしり上に乗せて焼いて…食べるのが大変だった。見ていた母は当然そうなることはわかっていたはずなのに、何も言わずに私の好きにさせてくれて…」
「素敵なお母様だね」
「良い思い出よ。欲張りすぎはだめってことも学べたし」
女性は自嘲気味に笑って肩を竦めてみせた。どうやら昔から変わらない仕草のようだった。
「でも、それだけじゃないの。これってとっても面白い話なのよ。娘が大きくなってから初めて焼いたお菓子も同じアーモンドクッキーでね…私と同じことをしたのよ」
「アーモンドをたくさん乗せたクッキー?」
「そう!私に似てアーモンドが大好きで…ふふ…変なところばっかり似るのね。生地いっぱいにアーモンドを敷き詰める娘に、やっぱり私も何も言わなかったわ…言えなかったのね。とっても愛おしかった…焼きあがったクッキーはすごく硬くて、食べるのはひと苦労で…二人で笑いながら齧ったわ。リスみたいに」
可笑しそうに語る母親の表情をした女性に、アジラフェルも心が蕩けるような思いで頷いた。
「そうだ…この前、どこかのお店で食べたフルーツケーキがとってもおいしくて…アマレットが使ってあったと思うんだけど。パウンドケーキでね…ドライフルーツがたくさん入っていて…」
「すぐそこのパティスリーでは?」
「パティスリー?」
「そう。ここから歩いて10分くらいのところにある、水色の看板のパティスリー」
「ああそう、きっとそうだわ!ねえ、お店のパウンドケーキの端っこってどうしてるのかしら。私、端っこ大好き。だから家で焼いたときは家族に内緒で必ず自分で食べちゃうの」
「だからお店には並ばないんじゃないかな」
「パティシエが食べちゃうから?」
「そう」
「ふふ…きっとそうね」
頬を綻ばせて再びどこか遠くを見つめた女性の目線の先に、小走りで近付いてくる別の女性の姿があった。この女性の顔もアジラフェルには見覚えがあった。彼女と同じくアーモンドが大好きだということは今日初めて知ったが。
「お迎えが来たみたいですね」
「ああ…そうね。たぶんそう…そうみたい」
「お喋りに付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ、素敵なことを教えてくれてありがとう。名前も知らない紳士様」
「これは失礼、フェルと申します」
「またお会いできるかしら、フェルさん」
「もちろん。また」
彼女を捜していたという女性はアジラフェルに大袈裟なほどのお礼を言って、それからベンチの前に膝をついて母親の肩を撫で、家に帰ろう、と優しく微笑んだ。
手を取り合った母娘二人はゆっくりと公園を後にした。母親の歩みに合わせ、寄り添って小さくなってゆく二人の背中を愛おしさでいっぱいの気持ちで見送った。
「隙あらば善行だな」
「ただお喋りに付き合ってもらっただけだ。待ってたよクロウリー」
背後から聞こえた声には全く驚かなかった。少し前からそこにいたことをアジラフェルは知っている。
「顔を出してくれたらきみのことも彼女に紹介したのに」
「知り合いなのか?」
「まあ、お互い存在は知ってはいたからそうとも言える。たぶんきみも何度か見掛けたことがあると思うよ」
「覚えてない。おまえのお気に入りの店の常連仲間か?」
「そう。彼女とは趣味が合って、あちこちでよく顔を合わせていたんだ。ふふ…小さい頃から彼女はセンスが良くて。大きくなってからは何度かは少し言葉も交わしたと思う。すぐそこのパティスリーではアマレットのブラマンジェをいつも必ず買っていて…」
「ああ、だから…」
「何?」
クロウリーは妙に納得した様子で息を吐いて、アジラフェルの隣に腰を下ろした。
「いつだったか、おまえが“最近買ってこないね”っておれに訊いたことがあるだろ」
「ああそう、そうだった。それできみから少し前に新しいメニューと入れ替わりでなくなっちゃったって教えてもらったんだった。よく覚えてたね」
「わざわざ訊かれたからだ。好きだなんて一度も聞いたことないやつだったし」
「あのお店のスイーツはどれもおいしくて好きだけどね。きみの言う通り、わたしが特別気に入っていたわけではなかったけれど」
「あのとき訊かれた理由はこれか」
「そう、彼女」
先ほどまで彼女が座っていた場所…今はクロウリーの席だが…をぴっと指し示すクロウリーに、アジラフェルは頷いて答えた。お互い名前も知らないままだったけれど、好みについてはよく知っていた。きっと彼女のほうも。
「いつか彼女のおすすめを聞いたり、感想を言い合ったりしてみたかった」
「叶ってよかったな」
「少しだけね。また話せたらいいな」
もうとっくに姿はない公園の出入り口のほうへ再び視線を向け、そっと心の中でだけ祝福を送った。それでもその気配を察知したらしい隣の悪魔はきゅっと口の端を引き結んだが。
「さて…行こうか、クロウリー」
「おまえの考えてること当ててやろうか」
「是非」
「遠回りになるのに、帰りにまたここを通ってから帰ろうとしてるだろ」
「どうして?」
「そこの古いパティスリーに寄りたいからに決まってる」
「ふふ…正解」
「あれだけ話してたんだ。食いたくならないわけがない」
「開店した頃のことを思い出してね。どんなのがあるんだろうってわたしもすごく楽しみにしていた。あの頃から残っているケーキはあったかな?」
「二種類だけある。ブランデーケーキとガトーショコラ」
「良いね」
「ただ何年か前に代替わりして、ガトーショコラに乗ってるチュイールダンテルの食感が変わったと嘆いていた天使さんはいたな」
「確かにそうだった。けどまあ、許容しよう。今日のおやつはそれにする。クロウリー、今日はわたしのケーキ選びを待たずに済んだな」
「そーだな」
全く興味がないという口振りで肩を竦めるクロウリーの仕草になんとなくアーモンドの香りを思い出しながら、アジラフェルもクロウリーと並んで公園を後にした。