呉服屋は黒(確定事項)
@azisaitsumuri
金は天下の回りもの。回せないなら、回されるだけだ。
遊郭には金が集まる。遊女という生き物を着飾らせて維持するのは勿論のこと、客をもてなすのにも無銭とは行かない。そのため、遊郭に支払われる金は大金だ。故に集まる金である。つまり遊ぶ金を持っていようと、余程余らせていなければ話にならない。逆に弄ばれに来たと言われたほうが合点が行く。
そしてその夜、銭無しが訪ねた廓で上がったのは、嬌声ではなく、悲鳴どころではなく、慟哭だった。
遊郭が燃えている。
被害は一つの座敷に留まらず、燃え移った見世とは別の場所を目指した刃はそれなりに標的を持つようだったが、そんなことを知る者も構う余裕のある者もその場にはいなかったから、辻斬りと変わらない。
そして飛び散った赤は火だけにあらず、血を迸らせている。
その侍崩れは手当たり次第の遊女を斬って、すれ違いざまにも斬った。
金を抱えて命乞うた店主はとっくに火油となり、見逃されたのは幼いかむろくらい。
そんな見世が幾つも。
間違いなく惨状だった。
幽鬼の如く返り血を引き摺っていた男は小柄ななりだったが、誰もを威圧する狂気を放っていた。
元々赤かった廓の壁も、剥がれ落ちようともう関係がなかった。
遊女との熱い宵を凌ぐ燃える夜は肌を晒そうと関係なしに全てとかした。
そんな男の前に、怯みの一切も抱かず軽い足取りが一つ。
焦げた地を踏む上等な履き物は、その場が普段通り回っていれば、間違いなく客だっただろう。
その客は、惨状を前にしても遊びに来た儘の歩調を緩めず、男と対峙する。
男が顔を上げる。
「若……」
男が呼んだ相手は、呉服屋の倅だった。
「こんなところでお楽しみなんて、しかもわたしに迎えに来させて、わたしのお付きのくせに、生意気過ぎません?」
男は元々、呉服屋に用心棒として雇われていた浪人だった。
「若」
男が虚な目で相手を呼ぶ。
「女は斬った。あんたのお手付きは誰一人として逃さずやった。あんたが好みそうな遊女も殺した。あんたが遊びに出る理由は、全部燃やした。」
男は相手の話を聞いていないかのように、ぼそぼそと話した。
下手人の放火は大罪だ。
しかし。
「金は天下の回りもの。」
「若?」
「おまえを金で雇っているのはうちです。」
相手は男を、まるで遊女に見立てるように手招いた。
真実雇われの男は、それに従う。そうでなくとも、呉服屋の倅に唯ならぬ情がある男には、従わぬ手はない。
真実遊郭はその晩儚い夢となった。
下手人探しの岡っ引きも詰所も、菓子を贈られたからだ。
甘い話には裏があるものだ。
よって、無理心中で片付けられた大火事の瓦版を前に、呉服屋の倅は、ふむ、と零したあと、その場を去った。若は背が高くていらっしゃるのだ。口にはとても出来ずとも、あとの者はさぞ見ずらかったろう。
帰った若は、屋敷の奥に進んで行く。
そこには特別に誂えたあと、何人たりとも立ち入らせない「座敷」があった。
「戻りましたよ。」
一見他と変わらぬ襖を開ければ、中は赤く塗られ、妖しく閉じた牢があった。
そこのかんぬきの錠も開ければ、ただ刀を据えて座す男がいた。
無骨な刃意外は若の好みに抗うことなく着飾られた男は、上げた瞼の下からから、ただ相手だけを見た。
若はふふと笑う。つい零した笑みだ。
「わたしのものになってしまったばっかりに、ただの遊び相手に悋気を起こして、身を滅ぼすようなこと迄しでかして」
挙句。
「その自分が遊女のように囲われてしまうなんて、ほんと不器用。」
だから上手くやれず浪人なんかになったのだ。
男は若がどんなに貶めても蔑んでも詰っても辱めても、侍ったそこから動かなかった。
別に、焚いた香は怪しげなものではないし、鎖で繋いだでもない、こんな木造の檻、剣の使い手の枷ではない。
金は天下の回りもの。持たないのなら、弄ばれるだけだ。好き好んでそうなりたがる者などいる筈もない。だから銭無しは金の集まるところに近寄らない。
男が侍っている相手は金ではない。ただ男が情を向けた相手、というただそれだけだ。