過去編の2話目です
@otohitoe_
クロウリーから頼みがあると言われたときは嬉しかった。お互いの立場のこともあるし、そんなふうにストレートに頼ってくれることも珍しいから。
だから余計に腹が立ったのかもしれない。クロウリーは「地獄で鍛えた短剣が欲しい」とアジラフェルに頼んだのだ。
「そんなもの、」
二の句が継げず、アジラフェルはそれしか言えなかった。一体何のために、それでどうするつもりかなど聞きたくなかった。
「そういうのじゃない」
「そういうのってなんだ?いや、いい。聞きたくない。断る」
「アジラフェル」
「この話はおしまい。いいね?」
今思えばもう少しくらいちゃんと話を聞いてやってもよかったのではとも思う。…でもやっぱり聞きたくない。どのみち断る以外の答えはないのだし。
結果それでこれまでにないほどの言い争いに発展して、別れて、一人きりになって、あっという間に二十年ほど経った。正しい判断のはずだ。ましてやあんなことがあってすぐの頃だった。天使を傷つけうるものを自分の手で用意し、それを贈るだなんてできるわけがない。それをさせようと頼んでくるクロウリーの神経を疑う。天使の無神経さなど今に始まったことではないにしろ、それを理解していたとしても、何千年もの付き合いが、お互いの間に確かにあると信じていた友情が、まるで虚構だったように思えた。クロウリーがどう思っていたかはこの際置いておいても、アジラフェルがどれだけクロウリーのことを大切に思っているのか知らないはずがないのに、それを蔑ろにされたようにも感じた。何度思い出してもふつふつと怒りが湧いてとまらない。それから、それ以上に、悲しかった。
会うのを避けていたとはいえクロウリーの望みが望みだけに動向を監視せざるを得なかった。まあ、避けるとは言ってもクロウリーからこちらへ接触しようという動きなど無かったわけだが。笑える。
その程度の関係だったのかと虚しくなった。もう一緒にいてもいなくなっても、アジラフェルにとってクロウリーは重い存在でしかなくなっていた。こんなことなら最初から親交など持つべきでは…ああ、いや…親交など、無かったのかもしれないが。
そんな状況でもどうしても会わなければならない事実を知ってしまい、四世帯ほどが入る古くてこぢんまりしたフラットへ足を向けたのが今日の昼過ぎの話。中にクロウリーがいるのはわかっているのに、勇気がなくてドアの前で数時間立ち尽くした。二十年。たった二十年だ。これくらい会わないことなんてザラにあった。でも喧嘩をして別れてそのままにしておいたのは初めてだった。いつだって翌日にはアジラフェルが折れて謝りに行った。たとえアジラフェルが悪くなくても、天使が正しくなくてもだ。
(ああもう…)
それもこれも結局全部クロウリーのせいだ。わたしが頼みを聞かなかったからといって、他の悪魔と接触するなんて。ここまで来て帰るという選択肢は無い。夕暮れも通り越し、外の明かりが夜空と街灯だけになった頃、アジラフェルはようやく意を決してベルを鳴らした。ややあって、ドアの向こうのこつこつという靴音が聞こえた。これまでにないほど緊張しながら聞いた。
ゆっくりと開いたドアから、最初からアジラフェルだとわかっていた様子のクロウリーは現れた。
何と言おうか散々考えたし、あたたかい気持ちだって少しはあった。けれどこうして顔を合わせると、アジラフェルの心はどうしても怒りで満たされた。
「…久しぶりだね、クロウリー」
「怒ってるな」
「ああ」
「冷静になってから来てくれ」
「そうできるならしてる。きみに言われなくとも」
自分で押しかけておいてそんな言い分ないだろう。わかってる。わかってるけどどうしようもないんだ。
「それほど腹立たしいおれに何の用があるんだ」
「きみの馬鹿げた考えをやめさせに来た」
「おれの考えなんて知らないくせに」
「知りたくもない、そんなもの」
「言ってることがめちゃくちゃだ。そうやっておれの話を聞きもせず、勝手に怒って今日までおれから隠れていたのを忘れたのか?」
「隠れてなんかいないしきみが求めているものはわかっている」
「いいやわかってない。おまえは何も」
「他の悪魔のほうがわかってくれるって?」
クロウリーは冷ややかな眼差しで顎を上げ、片側の口の端を持ち上げながら大袈裟に頷いてみせた。
「それを知ったから来たんだな」
「そうだよ。じゃなきゃ向こう三十三年は会うつもりなんてなかった」
「おれの頼みを断ったのも会うのをやめたのもおまえのほうだろ。おれが他の悪魔と接触するのがそんなに嫌なんなら、おまえがおれの頼みを聞いてくれよ」
「冗談じゃない」
「ふざけるな」
綺麗な形をした唇がわなわなと震えて怒りに歪む。それでも天使は美しかった。それを見逃さない自分の浅ましさになお腹が立つ。
「馬鹿にしてるのか?自分で勝手に消えておいて、他の悪魔と会ったくらいで姿を現して、結局話も頼みも聞かないで、いったい何しに来たんだ?怒った顔を見せに来てくれたのか?もう充分堪能させてもらった、満足だよ。帰ってくれ」
「クロウリー」
「他の悪魔に会ったから何なんだ?おまえに断られたんだからそうするしかないだろ。それに地下と連絡を取り合っている天使は他にもいる。おれがその中の一人だったとして何の問題が、」
「地獄で造った短剣を欲しがる天使がどこにいる!?」
アジラフェルが思わず声を荒げてもクロウリーは一切動じる素振りを見せず、怒りもせず、怯みもせず、それが天使らしくはあったが、アジラフェルがこれだけ真摯に訴えても心を動かすことができないというのはつらい事実でしかなかった。
よりにもよって短剣だなんて。
武器にしても飾りにするにも足るものではないものを。そもそも武器が欲しいなら天界のものでいい。天界のものがいいはずだ。天使の敵は悪魔なのだから。
この人間の世界でそんなものを、地獄で鍛えた刃を、天使が欲しがる理由なんてひとつしかないじゃないか。
「きみがそれで何をしようか当ててやろうか」
「おまえの想像しているようなことはしない」
「信じられるものか。きみは嘘を吐ける天使だ」
アジラフェルのその台詞に、クロウリーの表情が今日初めて動いた。削ぎ落されたと言ってもいい。
アジラフェルははっとした。が、もう遅かった。口をついて出た言葉を取り戻す方法などこの世には無い。
「帰ってくれ」
聞いたことのないような冷たい声にアジラフェルの体の内側は一瞬で凍りついた。
胸の内の怒りを鎮めたのは恐怖だった。アジラフェルはクロウリーを怒らせたのではない。傷付けたのだ。アジラフェルが最も恐れ、避けるために怒りさえしたそれを、他でもないアジラフェル自身が犯した。
「ごめん、謝る。違う」
閉じかける扉を掴み、アジラフェルはクロウリーに縋った。
「違わない。おれは嘘を吐く。おまえの言う通りだ」
「違う。違うんだ。その…とにかく、こんなことを言いに来たんじゃない。わたしが悪かった、謝るから聞いてくれ」
「聞きたくない」
「クロウリー!」
狭まる隙間に体を滑り込ませて部屋へ押し入る。以前招いてもらったことがあって本当によかった。それを後悔するようにぎりっと唇を引き結んだクロウリーの表情はアジラフェルの胸に杭を打つような痛みを与えたが、当然の罰に安堵さえした。…救われない。
表情を見ていられないというだけではなかったが、アジラフェルは衝動のままクロウリーの体をきつく抱きしめた。勢いづいていたせいで壁に押しやる形になり、挟まれたクロウリーは当然強く抵抗した。
「離せよ」
「嫌だ」
「出て行ってくれ」
打たれたままの杭がまた深く胸を抉る。
「今はこれ以上何も聞きたくない。聞いてやれない。一度信じられなくなったらこの先ずっと疑うことになる。そうなりたくない。わかるだろ」
「信じてくれ」
「そうしたい。だから出て行けって言ってるんだ。今こそ距離を置くべきだろう。すぐにおれから離れて、立ち去って、おれの視界から出て行ってくれ」
クロウリーの声にははっきりとした拒絶があった。それしかなかった。その言葉には希望はあったが、取り返しがつかないかもしれないこともアジラフェルにはわかっていた。
これまでに感じたことのない恐怖に襲われた。
「きみを失いたくない」
こんなことを切り札みたいに使うなんて。
「きみが好きなんだ」
あんなに大事に仕舞っておいた、アジラフェルが唯一誇れるものを。
「愛してる」
震える声で告げると、クロウリーは抵抗をぴたりとやめた。そうしてしばらく押し黙ったあと、
「アジラフェル、おまえ…」
とそっとアジラフェルの背に手を添えた。
「泣いてるのか?」
その声色には怒りも拒絶もなく、戸惑いこそあれアジラフェルの聞き慣れた本当にいつものクロウリーの声で、安堵や情けなさや後悔や懺悔の気持ちでまたどっと涙があふれた。
「悪魔だって泣くことくらいある」
胸の間に滑り込まれた掌が優しくアジラフェルの胸を押しやる。今度はそれに逆らわず、アジラフェルはゆっくりと体を離した。
「なんで…」
「わからないのか?」
「………」
「見ろ、クロウリー。わたしの手を見ろ。震えがとまらない。それに氷みたいに冷たい。どうしてだかわかるよな?きみが、き…消えるかもしれないと、想像しただけでこんなに怖い」
「………」
「本当は口に出したくもない。きみがいなくなるなんて。きみのいない世界なんて耐えられない。天国より地獄よりおそろしい。どこにもいたくない。きみが…きみが、いない、世界は。きみがいなくなったら、わたしは、」
「アジラフェル」
眼前に翳した震える手を、クロウリーは優しく握った。
包み込んだアジラフェルの手を、冬の時期に人が人にするように、息を吐きかけ、撫でて、擦って、揉んで、あたためてくれた。
冷え切った指先にほうっ…と息を吐くクロウリーの表情からは何を考えているのか少しも読めなかった。ただ、怒ってはいないようだった。
アジラフェルはそれを黙って見ていた。
「震え、治まったな」
しばらくそうしたあと、すり、とすっかり温まった指の背を撫でながらクロウリーはアジラフェルの目を見た。いつもと同じ、夜には深い闇のようになる黒々とした丸い瞳がアジラフェルの姿を映していた。
「…ありがとう」
「涙もとまった」
ぐいとシャツの袖で頬を拭われ、さすがに気恥ずかしさが蘇り顔を背ける。
「クロウリー、いいよ。きみの袖が濡れる」
「おれもだよ」
何が、と思い、背けた視線を再び戻す。
「おれも愛してる」
「…知ってる」
憎らしいほどのシミュレーション通りの返答に、アジラフェルは溜め息が出そうになるのを堪えて返した。
わたしが愛していると言えば、きみがそう応えるのはわかりきっていた。こんなみじめな気持ちになることも。だから伝えないまま、大事にとっておいたのに。
「…アジラフェル?聞こえてたか?」
「聞こえてたよ。ありがとう。嬉しいよ」
「どうも理解してるようには見えない。なあ、聞き間違えてないか?」
「ちゃんと聞いてる」
「じゃあなにか勘違いしてる。おれも愛してるって言ったんだ」
予想外に食い下がられ、みじめな気持ちも後押しして、アジラフェルはまたも衝動に身を任せてクロウリーの唇を奪った。
ああ、もう。こんなはずじゃなかったのに。
「わたしがきみを愛してるっていうのはこういう意味だよ」
「………」
「きみがわたしを憎からず思ってくれていることはわかってる。でも違うんだ。わたしのは違う。もっと欲深くて…きみからしたら汚れていると思うような…肌に触れたいと思う、そういう…」
「おまえならいい」
クロウリーの硬いシャツの袖が、再び頬を擦る。
「おまえだけだ」
声を言葉と認識しきらないうちにもう唇は触れていた。アジラフェルはただ茫然とクロウリーを見つめるだけで、指一本動かすこともできず、瞬きも、呼吸さえ忘れた。
「愛してる、アジラフェル。おまえと同じ意味で」
「………」
思考という思考が奪われているうちにもう一度それが起こった。まさかキスされたのか?もしかして今のも?ということは、二度も?
「どうやれば伝わる?」
「……本当に?」
「愛してる」
クロウリーからの三度目のキスで、アジラフェルはようやくぎょっとして身を離した。今わたしに何をしたんだ、なんて言った?と問い詰めたいのに、声も出せずにただはくはくと口を開閉することしかできない。
「な、っ…ぁ…、クロ、…」
「愛してるって言って、キスして、それでも嘘じゃないって伝わらないならどうすればいい?セックスするか?」
「はっ?」
クロウリーの口から出てきたとは到底思えない台詞に図らずも素っ頓狂な声で聞き返すと、馬鹿にされたとでも感じたのかクロウリーはむっと唇を尖らせて眉間に皺を寄せた。
「…なんだよ。セックスくらい知ってる」
「そういう意味じゃ、…違う…待った…少し整理を…」
「まあ、詳しいやり方は…あれだけど。でもおまえだって肌に触れたいって言っただろ。たった今…」
「待って」
一生懸命に順を追って理解している頭に次から次へとどんどん衝撃が積み重ねる。これ以上は追いつかない。いっそもう一度最初からやり直したかった。
「…クロウリー」
唇に残る感触に意識を持っていかれそうになりながら、なんとか声を絞り出す。そうだ。どうしても問い質さなければならないことがあるだろう。
「知ってたの?」
「だから、それくらいおれだって…」
「違う。セックスのことじゃない。わたしがきみを愛してるって」
「………」
「ほかの誰とも違う、唯一無二の、そういう意味で、それにきみも同じ気持ちで」
「…おまえは、知ってるんだと思ってた」
クロウリーはふいと目を逸らし、言い訳をするように言った。
「口には出せないけど、お互いわかってて、おまえはそれを知ってるものだと…」
「待て、じゃあ愛しあってると思っていながらわたしにあんなことを頼んだのか!?」
「だから気付いたんだ。おまえが怒ったから…」
アジラフェルは混乱して何も言えなくなった。頭が真っ白になった。それを察したのかクロウリーが「複雑なんだ」ともごもご言葉を続ける。恐らく自分でも多少は酷かったと反省しているのだろう。
「何でもいい…とにかく話してくれ…」
「…おまえが怒って消えたとき、驚いたし、悲しかったし…断られるとも思ってもいなかったし。怒った理由もわからなくて…」
「………」
「それで、悲しくなった理由とか、おまえのことを考えてたら、おれはおまえが好きなんだって気付いて…そしたら当然、おまえもおれを好きなことにも気付くだろ?その、もっと特殊な意味で」
「………」
「おまえのことだからそんなのはとっくに知っていて、だから怒ったんだと思ったんだ。今みたいに」
なるほどな。確かに複雑だよな。そう優しく言ってやりたかったが、自分の声色をコントロールできる自信が無かったから黙っておいた。呆れているし苛立ってもいるがそれを表に出したくなかった。深呼吸したかったがそれも溜め息を吐いたと受け取られたくなくて堪えた。クロウリーの言い分はわかった。よく理解できた。いかにもクロウリーの辿りそうな思考だったからだ。それじゃあこちらにコンタクトを取ろうとしなかったのはどうかと思うし、百歩譲ってそれはいいとしても今日こうして現れてやったわたしにまずは謝るべきでは!?という真っ当な訴えですら押し殺そうと努めているのは、それを上回るほどの愛おしさが湧いて仕方がないからだ。文句のひとつだって言ってやりたいのに、それ以上に大事にしたくて堪らない。きみはひとつも悪くないよなんて言いながら慰めてやりたい。悔しいのにそれすら嬉しい。
くそ、きみが好きだクロウリー。きみもわたしを好きだと言おうと、どうしようもなくわたしはきみに負かされたいんだ。
「…なあ、おまえは、おれがおまえを好きってこと、本当は知らなかったのか?」
「………」
「あのとき怒って行ってしまったのは、単に腹が立っただけだったのか?」
「………」
「…何か言ってくれ。黙っていられるのは怖い…」
「……ずるいよ、そういう言い方は…」
眉尻を下げながらアジラフェルの胸に添えられた手を握る。アジラフェルが望んだ通りの敗北。
深く息を吸い、それからゆっくりと、全て吐き出した。無理やり消火された怒りも、驚きも、呆れも、どろどろした思いごと。あとに残るのは何千年もの間捨てられなかった単純で純粋な天使への思いだけ。
「…わたしは…勿論あのときだって、既にきみを愛していたけど、きみもそうだなんてちっとも思っていなかった」
知っていたなら今日こんなことにはならなかった。いや、どんなに綿密に立てた計画でもこの天使を前にしてスマートに事を運べる自信など無いが、それでも、少なくともここまでみっともない真似はしなかった。と思う。
「でもおまえは怒って消えたじゃないか」
「怒るだろ、普通」
「………」
「あのな、わたし達はずっと親交を持ってきた友人同士だろ。本質はともかくとして、これまで一緒にいてわたしがどれだけきみとの関係を大切に思ってきていたか知らないとは言わせない。わたしがどう思うかは考えなかった?わたしが断ると、本当に思わなかったのか?わたしが同じことをしてもきみは平気なのか?もしわたしがきみに聖水が欲しいって頼んだらどうする?」
「やらない」
「そうだろう」
大きな声でそう叫びたかったがなんとか堪えた。
それなのにどうしてわたしにそんなことを、こんな選択をさせようと、だめだ、今は何も言うべきではない。どうしても責め立てるようになってしまう。クロウリーの気持ちだって本当はわからなくはないのだ。責めたいわけではない。もう喧嘩はしたくないのに。
深呼吸だ。
自分の中のクロウリーへの気持ちを思い出す。好き。好きだ。この天使が好き。落ち着け。それでも好き。好きだから大丈夫。落ち着け。
「おれはおまえだから、頼んだんだ。おまえになら言えると思って…」
その葛藤を感じてかはわからないが、重ねた手の内で、クロウリーがぎゅっと拳を握ってアジラフェルのシャツに皺を作った。
「その場しのぎの言い訳に聞こえるかもしれないが、おまえがなんて答えるか、…断られたり、あんなに怒るなんて、本当に想像もしてなかった。“できてなかった”って言い方のほうが正しいんだろうな、おまえからすれば。おれはおまえが当然請け負ってくれると思い込んでいた」
「どうして?」
「…どうして?」
「友人だから?頼み事をしたりされたりなんていつものことだから?」
「…それもあるけど…でも、ただ、おれは…これがお互いの弱みになると…だから、つまり…おまえの弱みでもあると…二人の問題だと…そう勝手に思い込んでたんだ」
「…きみがいつでも自分を傷付けうるものを置いておくかおかないかが、きみとわたしの問題になる?」
「そうだな、変だ。勝手に二人の問題だなんて思ってたのがおかしいんだ。おまえの気持ちどころか、自分の気持ちさえ知らないで」
「………」
「たぶん、おれがそうしたかったんだと思う。おまえに拒絶されたから自分ひとりの問題になったと感じてたけど、それがそもそも間違いで…元から自分だけの問題だったのに、おまえにも責任を負わせて、少しでも逃げたかったのかも」
「逃げてもいいよ」
目を伏せてぼんやりと独り言のように呟くクロウリーの顔を両手で包み、そっと持ち上げる。
「どんな責任でも負っていい。一緒に」
「アジラフェル…」
「きみが二人の問題にしたかったっていうのは、」
「………」
「きみの弱い部分を、わたしのものにもさせてくれるってこと?」
アジラフェルからすれば、クロウリーの望みは強い意志のもとに選択された道だった。だってそれが叶えばクロウリーは世界から永遠に消えることができる選択肢を得るのだ。そう思っていた。でも本当はむしろ逆で、クロウリーは、自分の傷を露わにして見せてくれていたのか。
身を脅かすものを持つことが、そしてそれをほかでもないアジラフェルに頼むということが自体が、クロウリーにとっては弱みであり、アジラフェルだけに見せる脆さだった。今、それがようやく理解できた。
アジラフェルの問いにクロウリーは瞳を揺らがせ、それでもアジラフェルからは逸らさず、そうかも、とか細く答えた。
また泣いてしまいそうになるのをぐっと堪え、アジラフェルはクロウリーを抱きしめた。
「きみは速すぎる。いつも」
「おまえだって、おれの話を聞かない」
「きみの頼み事の内容を聞けば話どころじゃ、…いや…わたしも改めるべきだな。だからきみもそうするべきだ」
「何を」
「わたしの気持ちを置き去りにするな」
「………」
「わたしも努力する。きみの速くて複雑な頭の中を理解して受けとめられるよう。だからきみも、進む前にわたしのことを見て。ちゃんと隣にいるか。きみのことを見ているか」
「…わかった」
「今も必死で頑張ってる。きみの言っていることを納得しようと」
「アジラフェル、おまえの思うようなことは起きない。起こさない。ただのお守りみたいなものなんだ」
「そんなもの必要ない。わたしがきみを守れる」
「おまえとの間にそんな一方的なものは求めてない」
「クロウリー」
アジラフェルはいっそう強くクロウリーを抱きすくめた。
「きみを愛してる」
「おれもおまえを愛してるよ」
「きみを失うことに耐えられない」
「おれもだ」
「それでも欲しい?」
すん、と鼻を鳴らし、如何にわざとらしくても憐憫を誘った。せめてもの抵抗だった。結果なんてわかりきっているのに。
「それでも、おれには必要なんだ。アジラフェル」
クロウリーはそれ以上言わなかったが、もうアジラフェルも反論する気はなかった。クロウリーには本当に必要なのだ。自分が自分でいるために。それの存在が自分を天使たらしめることの証明になるのだろう。
「…わたしのせいだな」
「違う」
「きみの言う通りだ。わたし達二人の問題にするべきだった。勝手な思い込みなんかじゃない。きみは正しかった。それこそわたしが一番望むものだったのに、自分の恐怖に負けてきみを拒んだ。ごめん、クロウリー。ごめん…」
クロウリーは黙ってアジラフェルの懺悔を肩で受けとめていた。あまつさえ、おまえの気持ちは痛いほどわかってるよ、などとアジラフェルの背を撫でながら。
アジラフェルの胸中は無力感で占められはしたが、それでもほっとしたのも確かだった。
今本当にわかりあえたと思う。似たもの同士だったのだ、結局。お互いに、相手を傷付けてでも相手と相手との関係を守りたかった。独りよがりで自己中心的。この先もきっとそう大きく変わりはしないだろう。
「…今はもうあのときとは違う。わたしがきみを愛していることをきみは知ってるし、きみもそうなんだな?」
「うん」
「今度こそきみは、わたしがきみを愛しているのを知っていながら、きみを消滅させうるものを用意させようとしてるんだな?」
「…うん」
アジラフェルはわざと丁寧にひとつひとつを言葉にして確認した。それでもクロウリーの声色に迷いはなかった。
とうとう堪えきれず、大きな溜め息を隠さずに吐く。
「…他の悪魔とはもう関わらないで。手を切ってくれ」
「おまえが用意してくれるんだな?」
「………」
「アジラフェル。約束してくれ」
今度はクロウリーがひとつひとつを言葉にした。頷く以外に答えはない。
「…約束する」
「信じるぞ。アジラフェル」
擦り寄せるように頭を傾けながら、クロウリーも両腕でアジラフェルをしっかりと抱き返した。
「時間はかかると思う」
「どれくらい?」
「さあ。百年くらい?」
「………」
「ごめん、悪かった。冗談だ。今のはかなり盛った。できる限り急ぐから、地獄に行ったりするようなことはしないでくれよ…」
「それも約束だからな。できる限り急ぐっていう」
「わかってる。きみとの約束は必ず守る。信じて」
「信じるよ。信じるのは許すより得意だ」
「わたしのことまだ怒ってる?」
「え?」
「許してない?」
「そういう意味じゃない…」
ぽんぽんと肩を撫でて促され、アジラフェルはそっと身を離しクロウリーと顔を合わせた。
「もう怒ってない。許してるし、愛してるって言ったろ」
「うん…」
「だいたい、怒ってたのはおまえのくせに…」
それはご尤も。アジラフェルは苦く笑ってごまかした。
「その話をしよう。喧嘩はもう終わり」
「ああ」
「もう一度キスをしても?」
「仲直りのキスだな」
「そう」
これがお互いの了承のもと為された最初のキスになった。数千年越しの悲願。こんなめちゃくちゃな形で。まあ、自分達らしいのかもしれないけれど。
「これから仲直りのときは必ずする」
「喧嘩しないといけないのか」
「喧嘩はしない。なるべく。そして何があってもなくても、キスはする…」
触れあわせた唇の隙間から、ふふ…とクロウリーが微笑む吐息が漏れる。ああ、その声が聞きたかった。その顔が見たかった。会いたかった、クロウリー。また一緒にいられてよかった。
「座って話そう、アジラフェル。紅茶かコーヒーでも」
「紅茶…」
「ミルクは?」
「いらない」
「ちょうど昨日買ったばかりなんだ。おまえはアッサムみたいな濃いめのが好きだろうが、きっとこれもそう悪くは…」
「いやちょっと待った、お茶しながらするような話じゃない。下手をすれば六千年分の話になるぞ」
「そんな大仰な…」
「きみは…!」
「わ、わかった。茶は無しだ。とにかくいったん座ろう」
外観に違わぬ質素な部屋の奥、ただ置かれただけのようなベッドの上に並んで腰を下ろす。クロウリーの膝の上で手を重ね、切り出したのは当然アジラフェルのほうからだった。
「いつから?」
「おまえが好きか?わからない。あれからおれだってたくさん考えた。でも、初めて会ったときからおまえのことは好きだったし…」
…それは初めて知った。
「天使はそういうものだから、おまえからの愛はずっと知っていた。それが特別なものだって気付いたのはあの日怒られてからだったけど、でも妙な納得感があって…変だよな、怒られたり拒絶されたりしてやっと愛されてるし愛してることに気付くなんて」
「変じゃないと思う」
「そうか?…まあ、だから、今夜だっておまえが現れて嬉しかった。けどひと目で怒ってるのがわかって、そしたらおれも腹が立って…」
「わかるよ。わたしもそうだった」
「おまえは最初から怒ってただろ」
「いいや、きみの顔を見てからだ」
「喧嘩するか?」
「だめ、しない」
先回りしてキスをする。クロウリーはまたふっと笑った。
「おまえはどうか知らないが、おれは普段誰かに苛立つことなんてないのに…もしかして本当は、好きなんじゃなくて嫌いなのかな」
「違う、そういうものだ。むしろ好きだから理不尽に腹が立つし、どんな理由でも関係ないし動機も問わない、無意味に苛立つことがある」
「じゃ、おれはおまえを随分苛立たせてたんだろうな」
「クロウリー、」
アジラフェルはクロウリーをぎゅうっと抱きしめた。意地悪な天使だ。そうやって悪戯にアジラフェルを責めてみたりして。
でも、それでアジラフェルが救われることもわかってるのだろう。
「さっきはごめん。何度でも言うけど、あんなのは嘘だ。わかってくれてるよね?」
「わかってる」
「きみほど信じているものはない。きみだけを信じてる。疑ったことなんて一度もない」
「うん…」
腕の力を強めるほどクロウリーの体はじわじわと傾き、ベッドにあっさりと押し倒されてくれた。見た目には細いばかりに見える胴のちょうど真ん中に押し当てた耳が、とくん、とくんという鼓動を拾う。アジラフェルは感動した。心臓の音までこんなにも澄んで、うつくしいんだな。きみは。
クロウリーの大きな掌が手探りでアジラフェルの顎の下を優しく撫でる。顔を上げると今度は頬を撫でられた。
「おれにも謝らせてくれ。悪かった」
「きみが謝るようなことはない」
「あるだろ。感情に任せて出て行けと追い払おうとしたり、この先疑うことになるとかでたらめを言っておまえを拒んだ」
「わたしが先にひどいことを言ったせいだ。売り言葉に買い言葉ってやつ。きみが気に病むことはない」
「ちゃんと言わせてくれ」
さっきはあんなに先に謝るべきだとまで強く思っていたのが嘘みたいに、アジラフェルに向けられるクロウリーの全ての言葉、仕草がこの身に勿体なく感じる。負かされたいという欲が満たされきって、ああもういっそ、
(今消えてしまいたい)
などと。
これだけクロウリーに執着しておいて、自分は簡単にそんなふうに思ってしまうのだから。やっぱり根本的に似ているのだろう。
「これまで一度だっておまえを疑ったことはないのはおれだって同じだ。この先も絶対にないからな。おれがおまえを疑うことはない」
「わかってるよ…」
「絶対だぞ。絶対にないんだ」
クロウリーの真摯な瞳が、心の底から、震えるほどうれしかった。
「クロウリー」
「うん」
「言って」
アジラフェルの懇願にクロウリーは少し考えたあと、ああ…、と合点したように瞬きをして、ゆっくりとアジラフェルを見据え直す。
「愛してる」
「うん…」
アジラフェルも、わたしも、と返して再びクロウリーの胸に埋まり、頬を寄せて甘えた。
「泣くなよ」
「もう泣かないよ…」
「本当か?見せてみろ」
伏せたばかりの頭をがっちり掴まれて持ち上げられる。首の角度がだいぶきついが、人間ほどやわじゃないおかげで耐えられた。
「おまえ、泣くとますます可愛いんだな」
「なかなかサディスティックなことを言うね」
「なんだそれ…」
アジラフェルが作った造語だとでも思ったのか、クロウリーは深くは追求しないまま笑い、解放した頭を再び胸に抱いた。
クロウリーから与えられる鼓動も体温も肉体の感触も、全てがアジラフェルに幸福というものを教えてくれた。まさに夢見心地だった。夢なんて見たことないからもちろん比喩だが。
(…夢といえば)
なんだか静かなクロウリーの様子にふと窺い見ると、瞼の下りた、まるで寝顔のように穏やかな表情があった。
「…クロウリー?」
「…あ…悪い、うとうとしてた…」
おまえあったかいから…と顔を撫でてくる掌こそぽかぽかと温かかった。声をかけてすぐぱちりと開いた眼も明らかに眠気を享受している眼差しだ。
「いや、いい。寝ていいよ。起こしてごめん」
「おまえも寝るか?」
「わたしは寝ないよ」
「知ってるけど、試しに。横になるだけでもいい…」
「………」
「ふ…ちょっと狭いか…」
「…じゃあ、試しに」
「うん」
思っていたよりもずっと柔らかく寝心地の良いベッドに体を横たえ、なるべく自然にクロウリーの小さな頭をそっと腕に抱く。当人はそれに頓着する様子もなく、まるでいつもそうしているかのように腕を回し、今にも眠りに落ちそうな深い吐息と共に胸に擦り寄った。
眠りはしないが、アジラフェルもまた目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返した。そうして今夜のクロウリーの言葉をひとつひとつ思い出しては噛み締めた。良いことも良くないこともあった。けれど今、クロウリーが自分の腕の中にいるのは紛れもない真実だった。
難しいことは、また明日。