@arikanagahisa
そろそろ昼休憩ですね、と椒丘は時計を眺めながら電子カルテを閉じた。
今日は何をどこに食べに行きましょうか、とそそくさ、職場を少し早めに抜け出そうとして、ふと、足を止める。執務室の鍵をかけると、モゼ、と天井に向かって声をかけた。
次の瞬間、隣に、影の中から出てきたように、音もなくモゼが立っていた。
「……今連絡しようとしてたのに、なんでわかった」
「なんとなくです。と言うか、僕に会いに来ただけなら、普通にドアから入って来たらいいじゃないですか。一瞬、僕を暗殺しに来たのかと思いました——という冗談はさておいて、どうしました?」
日中、モゼが椒丘の執務室に顔を出すのは珍しい。なにか緊急の用でもあるのだろうか、と首を傾げると、モゼは言いづらそうに口を引き結んで黙してしまう。
「……お前に診て欲しい。具合が悪い……気がする」
眉を寄せ、歯切れの悪い口調で言うモゼに、「はぁ」と椒丘は曖昧な相槌を打った。見た限りでは顔色も悪くはなかったし、声のトーンも普段の彼とあまり変わらない。
「具体的にどの辺に違和感がありますか?」
「具体的に……」
「痛い所があるとか、あるいは全身がだるいだとか」
「心臓」
「えっ」
心臓が痛いんですか、と慌ててモゼをソファの方へ呼び、「ひとまず体をスキャンするので待っていてください」と椒丘が機材を入れた棚へ向かう。
モゼはいつも彼が検診をする際に命じるように、上着を脱ぎ、黙って慌ただしく準備をする男を見つめた。
左胸に手を当て、当てなくてもわかるほど妙にばくばくと跳ねている鼓動に微かに首を傾げた。ずっと緊張状態にあるのか、何日か前から時々、こんな風になっている。
「座っていて苦しくはありませんか? 横になったほうがよければ中になって構いませんよ」
「いや」
機器を持って戻って来た椒丘は心配そうにモゼの体をスキャンし、結果を精読してから、小さく唸る。
「目に見えて悪いところはなさそうですが、強いて言えば確かに脈拍も早いし血圧も高いですね。塩気の多すぎる食事はさせていないつもりですが、僕に隠れてジャンクな物を食べてたりしませんよね?」
「お前と違って異常な辛さの物を食べたりはしていない」
「いやですね、人の嗜好にケチをつけないでください。僕だって度を超えたら薬を飲んでますよ」
薬を飲んでまで辛い物を食うな、ともっとなことを呟くモゼの言葉を完全に無視し、椒丘は「機械の誤診もあるかもしれませんから、直接測りましょうか」とモゼの腕に血圧を測るための器具を装着する。
大人しく器具を装着されながら、モゼは椒丘の顔をじっと見つめていた。いつも笑った顔を見せてばかりの椒丘だったが、診察と治療時にはその表情が崩れることが多い。今も、数値を見ながら心配そうに金色の瞳を揺らしているのを見て、何故だか妙な充足感を得ていることに気がついた。
心臓がずっと跳ねていた、少し頭がくらくらするし、顔が熱い、ような気がする。
モゼは長く息を吐き、疲れたようにソファに背をつけた。
「……どうやら誤診ではなさそうですね。他に目立った症状はなさそうですが、少し安静にして、それでも数値が下がらなければ薬を飲んでおきましょうか」
そう言いながら、椒丘はモゼの頬に手の甲をそっと当てる。びくっ、と肩を跳ねさせたモゼに構わず、椒丘は「少し熱が出ているみたいですね」と眉を下げた。
いよいよモゼの心臓はぎくしゃくと喧しい音を立て始め、目の前がぐらぐらと揺れるような錯覚を起こしていた。椒丘に相談すればなんとかなるだろうと思っていたのに、なぜだか余計に悪化している。
——その時、モゼは唐突に原因に思い至った。
モゼが半ば呆然としている内に、椒丘はソファから立ち上がり、部屋の隅の冷蔵庫から保冷剤を取ってくると、薄い布で一度つつみ、「少し首筋に当てていてください」とモゼに差し出した。
「取り急ぎ飛霄様に君の休暇について相談して来ますから、ここで大人しく休んでいてください。それとも仮眠室に行きま————ん?」
気づけば、手首をモゼに強く引かれ、ソファに倒れ込んでいた、と言うより、モゼに抱きしめられていた。
「ええと……? どうしました?」
同僚の不可解な行動に盛大な疑問符を頭の上に浮かべながら、椒丘はモゼの顔を見ようと腕の中で身じろいだ。しかしモゼは妙な力強さで椒丘を抱きしめたまま、黙って俯いている。
(怪我はしても病気はあまりしていませんし、不安になってしまったんでしょうか)
はて、と抱きしめられながら首を傾げていた椒丘は、昼休みを告げる鐘の音に耳を傾けつつ、モゼに言葉をかけた。
「モゼ、安心してください。例え聞いたことのない病気だったとしても、必ず僕が治してませますから」
「……お前がいれば治る」
椒丘の肩口に顔を埋めたまま、くぐもった声でモゼが溢した。
その信頼を嬉しく感じ、そうでしょうそうでしょう、と笑いながらモゼの腕を叩くが、それでもモゼの腕の拘束は緩まなかった。
「あの、君の信頼はすごく嬉しいと言うかありがたいのですが、飛霄様の所にもいかなければいけませんし、そろそろ——」
離していただけないでしょうか、と口にしようとした椒丘の両肩に手を置き、モゼがガバッと体を離す。先ほどよりも顔が赤くなっているような気がし、熱も上がってるじゃないですか、と椒丘は眉を寄せながら、モゼの奇行を宥めるために口を開いた。
「モゼ、ひとまず安静にしてくださ、」
「お前が好きだ」
呆れ顔で注意をしようとしていた椒丘は、飛び込んできた言葉に「え?」と目と口を見開いた。
モゼの表情を思わずじっと見つめ返し、赤い顔をしているモゼの、普段は逸らされることのない視線がふい、と俯いたのを見て、今更硬直する。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
世界が止まってしまったかのように、二人は沈黙していた。
椒丘は突然の出来事に凍りついていた脳をなんとか解凍し、モゼが怪しい呪いにかかってしまったか(羅浮の方では近頃、歳陽が人々に取り憑いて悪さをしているらしい、と言う噂を聞いていた)、あるいは薬を飲まされたのではないかと推測した。
真剣な顔でモゼの眼球や瞳孔を見ようと顔に手を伸ばし、両手の親指で涙袋の辺りを下に引っ張る。特に妙な様子は見受けられない。
もし薬剤の影響であれば、スキャンに引っかからないはずがないことを知っていたが、それでも、大人しく顔を触られているモゼが正気だとは思えなかった。
「俺が正気じゃないと思ってるんだろ」
「い、いえ、そう言うわけではありませんが……」
もちろんそう思っていたが、それと同時に、先ほどまでのモゼの状態には納得がいっていた。いってしまったと言うべきかもしれなかったが。
椒丘は「ええと……」、と視線をうろうろと彷徨わせ、果たしてどう答えたものかと混乱した頭で考えていた。
はっきり言ってしまえば、この年若い同僚をそんな目で見たことはないし、自分が彼の対象になるとも考えたことはなかった。
そもそも、モゼは時々、「俺とお前は住む世界が結局違うだろ」と言いたそうだったし、実際、彼は命を奪うのが仕事で、自分は命を救うのが仕事だった。
目の前の全員を救いたいだなんて、戦場帰りのくせに随分生ぬるい考えを持ってるんだな、とはじめの頃に彼と衝突したことだってあった。今では気の合う同僚で、最も信頼できる飛翔様の影護衛だと感じていたが、お互いの考え方や生き方が完全に理解できたかといえば、できてはいないだろう。
「あの、別に君が嫌いだとかそんなことはないのですが…………」
しどろもどろになりながら、なんとか若人を傷つけまいと必死に言葉を探していた。
自分だって若い頃はちょっと優しくしてくれた職場の同期や先輩に恋心を抱いたことがあったような気もするし、確かに、好きですと患者に言われたこともあったような気がした。けれどもどれもあまりに昔のことだった。もう何十年も無縁だったから、全てがあまりに曖昧だった。
必死に優しい断り文句を考えてみたが、残念ながらそんな言葉は思いつかなかった。死を前にした患者にはいくらでも優しい、希望の持てるような言葉をかけてやることができるのに、今は事実しか浮かんでこない。
「正直に言って考えたことがなかったので、今は、……君の気持ちに応えられないと思います」
すみません、と顔を見て申し訳なさそうに答えた椒丘を、モゼはしばらく真顔でじっと見つめ返していた。モゼの表情はいつもとあまり変わらず、先ほどのよう頬が紅潮していると言うこともない。視線を下げたモゼは少しがっかりしているように見えたが、逆にいえば、反応は予想よりも薄かった。それ故、彼が今、何をどう感じているのかが椒丘にはわからなかった。
沈黙が再び二人の間に落ち、椒丘は三琥珀紀ほどの時間が流れたように感じた。実際には昼休憩の終わりを告げる鐘が鳴った通り、長くても三十システム分かそこらだっただろう。
「なら、今日から考えろ。それから、飛霄様に休暇の話はしなくていい」
モゼ、と名前を呼んだ時には、彼の姿は現れた時と同様、煙のように消えていた。