@arikanagahisa
前回→ https://privatter.net/p/11171953
風呂から上がってきても、椒丘はまだ籠の中身の選別を続けていた。
お前も入れと言おうとしていたモゼは、卓上いっぱいに並べられた植物やきのこを見下ろし、椒丘のどこか楽しそうな顔を見て口を閉ざす。モゼにはいまいち判別がつかないが、なにかの法則に則って仕分けされているらしいそれらをよく見るために、椒丘の座る向かいの席へ腰を下ろした。それでも椒丘は顔を上げない。何も言われないので、頬杖をつき、椒丘の作業を眺めることにした。
選別を続ける白い手が綺麗だな、と何度となく考えたことを今夜も思った。
暗器を扱う自分の指先は硬く、手のひらは剣だこがつぶれているし、椒丘曰く手の洗いすぎで少し乾燥もしている。しかし診察をし、薬を塗り、時には手術もし、日々の食事を作り続ける際には水にさらしているはずのこの男の手は、いつだって滑らかだった。
『医士は患者に直接触れることが多いので、それなりにケアをしています。君だってガサガサの手で触れられたら、気になって仕方がないでしょう?』
以前、嫌味のつもりで「お前の手は随分綺麗なんだな」とモゼが尋ねた際、椒丘は照れもせず、いつも通り薄く微笑みを浮かべたまま、そう口にした。
『もちろんそういうことをあまり気にしない医士もいるにはいますが、戦場ではそういう医士は患者に嫌われることが多いんですよ。触らないでくれと言われたら治療ができないので、不快感を与えないために気をつけています。——そう言うわけで、僕は職業上の理由で念入りにやっていますが、君ももう少しケアした方がいいですよ。皮膚が切れたり血が滲んだりすると、武器を握る時に気になりませんか?』
そう言って、自分も使っていると言う軟膏をモゼの手に塗り込み、「寝る前だけでもいいので、手を洗った後に塗ってみてください。少しはマシになると思います」と胡散臭そうなにっこりとした笑顔を浮かべていた。軟膏の入った小さなケースを渡された時には面倒臭い、と思っていたが、手袋の下の指は確かに関節の皮膚が硬くなりすぎてよく切れていたし、痛みを無視して武器を振るうことも多くなっていた。言われた通りに塗り続けた今ではかなり改善されており、乾燥して痒くなることも減っていた。
そんなことを思い出しながらぼんやり椒丘の作業を眺めていると、彼は時折葉や花を灯りに透かしたり、端を齧ったりしては、納得したように頷いたり、ぶつぶつと何事かを呟いていた。
白い頬の細い輪郭が綺麗で、モゼは我知らず、瞳を細めてじっと見つめてしまう。椒丘は自身を「美男子」なんて冗談めかして称することもあるが、実際のところ、自分の身目にはそれほど興味がないような気がしていた。嫌味のつもりで尋ねれば「医士が清潔でなかったら嫌でしょう?」なんて、手について尋ねた時と同じ調子で全部が返ってくる。かつての浮ついた話の一つも聞いたことがないし、本人も全く話をしない。
もちろん、そんな話はない方がモゼにも都合がいいのだが。
出会った時には胡散臭くて信用ならないと思っていたはずなのに、いつの間にか絆されている。であれば、はなからそんなつもりのない者なら好意を抱くに決まっている。
勿論、異常に辛いものが好きすぎるだとか、今のように、何かに没頭すると考えが全部口から出てしまうところが時々不気味だとか、なんでもかんでも調理に結びつけて話し始めたりする側面があるだとか、いつだっけ笑顔を絶やさず(と、本人は思っている)、調子の良さそうなことばかり言って信用ならない、と言うより本心が見えないだとか、そういう欠点もあるにはあるのだが。
あるにはあるが、とモゼは顔をじっと見つめられたままでも何も反応を返さない椒丘に少しだけつまらない気持ちになりながら、咎められないのをいいことに椒丘を見つめ続けた。
薄い桃色の髪はいつも通り触り心地が良さそうだったし、金色の瞳が琥珀のように部屋の灯りを取り込んで輝いているのが綺麗だった。
相変わらず葉を選抜し、においと味を確かめながら、ぶつぶつとよくわからない感想を呟いて自分の世界に入ってしまっているけれど、時々この男が見せる思い詰めた暗い顔よりもずっと魅力的だったし、安心した。
椒丘の独り言を聞いているうちに、だんだんと眠気に襲われてくるのがわかった。
今自分がいるのは、数日過ごしただけの見慣れない家だったが、どこも椒丘のにおいで満ちていた。
彼の家なのだから当たり前の話といえば当たり前の話だけれど、嗅ぎ慣れた香辛料と土と草のにおい、消毒薬や色んな薬の混ざったにおい、それから八角の香りは、モゼにとってあまりにも「日常」の姿だった。
「モゼ、モゼ」
肩を揺さぶられ、ハッとする。うとうとしているつもりだったが、気づけば眠っていたらしい。卓上に並べられていたはずの品々はどこかへしまわれていて、今は茶器だけが置かれている。
「夕食までもう少しかかりますから、眠るならそこで横になっていてください」
ソファを指差す椒丘をぼんやり見上げると、不思議そうに「どうしました?」と見つめ返される。さっきまではどんなに見つめても反応を返さなかった男が自分に視線を向けてくれたのに、なんだか嬉しくなってしまう。けれど、提案に乗らない理由もないので、大人しく示されたソファへ移動し、横になって目を閉じた。
椒丘が子ども扱いするように小さく笑ったのがわかったが、この男にそう言う扱いをしれるのはあまり嫌いではなかった。
さて、と口にした椒丘はモゼのそばを離れて、調理場ではなく風呂場へと歩を進める。
「…………………」
椒丘の足音が完全に風呂場の戸の向こうへ消えると、モゼは小さくため息をついた。
休暇を一緒に過ごすようになって三日が経過したが、彼がどう言うつもりで自宅へ自分を誘ったのかが未だにわからなかった。
昼夜を共にしてもいいとようやく思ってくれたのだろうか? と帰省に誘われた時には少しだけ期待してしまったが、彼の態度は普段と何も変わらない。
好きだと伝えたことをまるで忘れてしまっているかのように、あまりにも自然すぎるほど、本当に、普段と何も変わらない。
確かに曜青でも飛霄を含め部屋に勝手に入って掃除をしたりしてはいるので、ある意味「生活」のことはかなり知ってしまっているが、一つ屋根の下で生活を共にするのとは随分と感覚が違う。
「……くそ」
椒丘が全く気にしていない様子なので気にしていないフリを続けているが、本当は毎晩無防備に風呂上がりの姿を見せられるのだってそれなりに理性を動員する必要があったし、正直に言えば生殺しで苦痛を感じていた。
普段と違う袖の長いゆったりした夜着を見せれるのだって体つきがいつもより細く見えて困っていたし、肩から少しずれたまま、家の中を歩き回るのを見せられているこっちの気持ちにもなって欲しいとずっと考えている。
どう言うつもりなんだ? とモゼは一晩で十回も口にしそうになって、残りの日数のことを考えてやめていた。最終日の夜までは、少なくとも疑問は口にしないべきだった。椒丘が何かためしているのか、あるいは何も考えていないのかがわからない今、下手な手を打って休暇が縮まるような真似をしたくはなかった。
真顔で悶々としていると、風呂から出てきた椒丘が長い髪を雑に上の方で括った姿で戻ってくる。
湯上がりで少し上気した頸がちらちらと揺れる毛先の隙間から覗くのを見て、もう一度ため息をつきながら目を閉じた。
どう考えても、椒丘は何も意識をしていないし、きっと考えてもいない。椒丘は自分よりずっと年上だから、はっきり言わなければ一生子ども扱いされたままだろう。今までの流れからして、それは明白だった。わかっているのにしつこく何度も好きだのなんだのとモゼが口にしないのは、それはそれで少し悔しいからだ。
最初はもしかするとこっちがなにも態度を変えないことで逆に意識してくれるかもしれないと自惚れていたが、今ではあまり、と言うか全く自信はなかった。
目を開けると、モゼはソファから立ち上がり、調理場へと向かう。
入り口の戸から夕食を作る椒丘の後ろ姿を眺めて、背中から抱きしめたい衝動をじっと耐えていた。
リビングへ戻ろうと視線を少し伏せた瞬間、椒丘が振り返る。
「モゼ、そこの棚の左側の上から三番目の青い深皿を取ってもらえますか」
穏やかな微笑みを浮かべた椒丘の声は、いつもモゼに向けられるものと変わらない優しい声だった。
モゼは黙って椒丘の指示に従い、棚から皿を取って彼に渡す。
「……よし、と。モゼ、これを向こうに持って行ってもらえますか。ついでに皿と箸も二人分」
きのこと細切りの野菜と牛肉を一緒に炒めた皿から、香ばしい、いいにおいが立ち昇ってくる。
急速に空腹を感じ、モゼは今度も言われた通りにとりわけ皿と箸、それから一品目を持ってリビングへ戻る。
ひとまず考えることはやめにして、夕食にすべきだった。