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モ椒:Nox and Nox - スプーン一杯の唐辛子2

全体公開 1 8 9228文字
2024-10-07 06:22:02

曲解と捏造満載。
曜青と羅浮の食文化は結構違いそうなので作中に出てきた甘味を採用しない方がいいのかな?と考えて不採用にしています。
馬拉糕(マーラーカオ/マーライコウ)は「中国風の蒸しカステラ」。

前回→ https://privatter.net/p/11196231

 飛霄に指定された時間にモゼの部屋を訪れると、本当に彼は椅子に縛りつけられていた。一瞬言葉を失った椒丘だったが、気を取り直してモゼの拘束を解く。
「明日からは逃げようとしないでくださいね……
 こちらをジト目で見上げてくるモゼの、細い腕に残った縄の跡をさすりながらため息をつく。モゼは何も言わず、椒丘から視線を逸らした。
 果たしてこんな状態で学習はうまくいくのだろうか、と先行きが不安になった椒丘だったが、意外にも、モゼは言われた通りに黙々と学習に取り組んでくれる。まずは名前を書けるようになりましょう、と椒丘が書き順を教えると、きちんと一度で覚えていた。
 教えている間、椒丘の顔を見るわけでもなし、なにか返事をするわけでもなかったが、言われた通りに手本を見ながら手を動かし、書いたものを見せてくるので反応は十分にある。本当に無言なので多少の居心地の悪さはもちろんあったが、教えるのに嫌気がさすほどではなかった。
 こんなに素直なのに教師陣が根を上げるとは一体? と不思議に感じたが、飛霄からは特に説明をされていない。縛りつけられていたということは暴れたのだろうか? と今更考えてみるが、目の前のモゼにその傾向もない。
 午前の学習は何も滞りなく進んでいった。モゼは自分の名前を書けるようになったし、簡単な言葉の書き取りもすでにできている。
 問題は音読の方で、読んでみてください、と言っても一向に声が出てこない。なんとなくそんな予感はしていた。
 わからないのか読みたくないのかどっちですか、と尋ねても、これにも反応がない。
「実は今日はこれが読めないと終われないんですが……
 少しも困ってはいなかったけれど、椒丘は困ったふりをして腕を組み、片手を顎の下に当てる。ちらりとモゼを伺うが、視線は床に向けられていて椒丘からは表情が伺えない。
「そういえば飛霄様から玉兆をもらってましたよね?」
 突然勉強とは関係のなさそうな話をふられ、モゼは椒丘を見上げながら困惑の表情を見せた。
 玉兆は何かあった時のために持たせていると先日飛霄から聞いていて、椒丘も連絡先を共有されていたけれど、今日まで特にやりとりはしていなかった。
「僕とメッセージのやり取りができるようにしましょうか。少し操作させてください」
 それを貸してくれますか、と椒丘が頼むと、モゼは警戒する顔を見せた。
「盗ったりしませんよ。あ、それとも何か変なもの仕込まれると思ってます? 追跡アプリとか」
 椒丘の顔を見つめていたモゼが小さく頷く。聞いておいて、と自分でも思ったが、その反応は椒丘にとって少なからずショックだった。もしかすると薬王秘伝では子どもたち、あるいは信者にそんなことをしていたのかもしれない。
「安心してください、そんなことはしません。メッセージのやり取りができた方が便利なので連絡先を交換しましょう。……これでよし、と。メッセージの送り方は分かりますか? 画面を出すところまででいいですよ」
 椒丘の言葉に、モゼは首を横にも振らずに、黙って画面を見つめていた。椒丘はそばにしゃがみ込むと、「じゃあ教えるので覚えてくださいね」と膝の上で端末を握りしめているモゼの手に触れる。
 子どもにしては少し冷たい手で、表面がかさついていた。後で薬を塗る必要があるな、と考えながら画面をタップし、メッセージアプリを立ち上げる。
「一回適当に送りますね」
 デフォルトでインストールされているスタンプを適当に自分宛に送ると、「届きました」とモゼに自分の端末を見せる。
「まだ少し難しいかもしれませんが、喋りたくないならここで先ほどの答えを打ってみましょうか」
 モゼの指を取り、椒丘は文字盤の上をゆっくり滑らせる。
「こんな風に。音読するより打つ方が面倒で難しい気もしますが、どちらでも好きな方でいいですよ」
 にっこりと微笑みを浮かべながら、椒丘は先ほどモゼに音読させようとした、単語の書かれた学習用タブレットの画面を見せる。赤く細長い植物がカゴの中で山盛りになっていて、画像の下にそれの名前が書かれている。
 モゼはしばらく打ち込もうと必死になっていたが、おそらくまだ端末の文字盤を読むのに苦労していて、入力が難しい様子だった。
 どのタイミングで助け舟を出すか椒丘が考えていると、モゼは諦めたように端末を机の上に置く。
……とうがらし」
「おお! 素晴らしい、大正解です」
 ひどく小さな声でぼそりと呟かれた言葉を拍手して大袈裟に褒めると、モゼはむっとして顔をそらしてしまう。拗ねてしまったのかと思いきや、少し耳が赤くなっているので、どう反応していいのかわからないだけのようだった。
「さて、声も聞いたことですし、午前はこのぐらいにしておきましょうか。お昼ご飯にして、休憩したら午後は簡単な数字を覚えましょう」
 食堂に行きましょう、とモゼの手を引こうとすると、その手はいつまでも握られなかった。椒丘は気を悪くした素振りも見せず、「ではついてきてください」とゆっくりした足取りで、モゼが付いてくるのを確認しながら食堂へ向かった。

   *

「意外に順調そうね」
「おや、軍議はまだ終わっていないはずですが、まさかサボりですか」
 おやつ休憩をモゼの部屋でとっていると、勤務中のはずの飛霄が顔を覗かせた。
 モゼは飛霄の登場に一瞬で空気をピリつかせ、椅子から立ちあがろうとしたが、その両肩を椒丘が押さえる。
「昨日の怪我が良くなっていないので、今日は暴れるのは禁止です。それからおやつは食べ切ること」
 口許に 馬拉糕 カステラのクズをつけながら唇を尖らせているモゼの顔が可愛らしくて、椒丘は少し笑いそうになってしまったが、なんとか耐える。
「あたしの分は?」
「ありませんよ、そもそも仕事中じゃないですか」
 モゼの皿に残っているカステラをチラリと横目で見ながら呟く飛霄に、椒丘は肩をすくめる。モゼの家庭教師をしていなければ今日はついでに彼女の分も作ったかもしれなかったが、今日はあくまでモゼが大人しく学習するために、頑張ったら美味しいものがあるとわかってもらうためだけに用意していた。食べてくれなければ他の手を使う必要があったが、もした食べてくれるのであれば、今までの栄養失調を補うのも容易になる。いくつか今後を見据えての目論見があっただけだった。
「本当にあたしの分はないの?」
「ないものはないですよ」
 ちらちらとモゼの皿を見下ろす飛霄を見て、モゼがそっと皿を自分の方に引き寄せる。無理やり口の中に残りを詰め込もうとするモゼに「そんなに慌てると喉に詰まらせますよ」と椒丘が口にするのと、モゼが咳き込むのはほぼ同時だった。
「ああほら、誰も盗りませんから……
 咳き込むモゼの背中をさすり、慌ててお茶を飲ませようとする椒丘を見ながら、飛霄があはは、と声を上げて笑う。
「椒丘の作るものってなんでも美味しいのよね。まあ、時々辛すぎるものを食べさせようとしてきたりすることもあるけど」
 飛霄の自慢気な口振りに当然でしょう、と思いつつも、椒丘は「飛霄将軍」と呆れた声でため息をついた。
「お褒めに預かり光栄ですが、そんなに露骨に他人のおやつを食べたがらないでください」
「だってあなたがおやつを作るのって珍しいじゃない。明日も作るなら明日はあたしの分も用意しておいて、杏仁豆腐が久々に食べたいわ」
「はいはい、分かりました分かりました。将軍様がお仕事に戻ってくださるのであれば、明日の分は考えておきます。一つ作るのも三つ作るのも、手間は大して変わりませんから」
「それは重畳。じゃあ、あたしは戻るから、モゼも勉強頑張って! 夕飯も期待してなさい」
 言いたいだけ言って満足したのか、飛霄はモゼと椒丘に手を振ると、風のように走り去って行く。
……まあ、期待も何も作るのは僕ですが」
 苦笑して呟きながら、椒丘はモゼの空になった杯に茶を追加する。自分の杯にも茶を注ぐと、「十分休憩したら再開しましょうか」と口周りに相変わらずカステラのくずをつけているモゼにティッシュを差し出す。
「口周りが汚れていますよ」
 ふふ、と椒丘が笑うと、モゼは慌ててティッシュを数枚引き抜き、口周りを拭った。

   *

 午後も特に問題行動はなく、モゼは逃げ出す素振りも見せずに黙々と学んでいた。モゼはどうやら、言葉よりも数字の方が少しだけ覚えが早いようだった。この分なら計算は早々に問題なくできそうだったが、果たして他の教師相手でもこれほど大人しくしていられるのかどうか、飛霄の口振りを聞いているだけに、椒丘にはわからなかった。
 態度は大人しいものだったが、一日過ごしても、モゼの口からほとんど言葉は出てこなかった。椒丘が褒めてもあまり嬉しそうな顔を見せずに、ふいとそっぽを向き、足をぷらんと揺らすだけだった。ただそれでも夕方頃には、なんとなく警戒心は薄れているのが伝わって来ていた。
(まあ、たった一日にしては上出来でしょう)
 よく頑張りました、と椒丘が学習の終わりを告げると、ほっとしたようにモゼは椅子の背に体重を預けた。疲れた顔を見せるモゼの姿はまだ子どもそのもので、椒丘は瞬間的に憐れみを抱いた。一瞬だけ表情に出しそうになったことに気付き、慌てて微笑みに戻す。
 戦争孤児は何人も見てきたし、モゼのように保護者が異端者や不穏分子である例も知っている。子どものケアは精神が未発達な分、大人よりも難しい。モゼがあまり口をききたがらないのは、薬王秘伝で口をきくなと言われていたか、話したところで相手にしてもらえない環境に置かれていたからだろうと考えていた。
 反応がないからと声掛けをやめてしまうより、勝手に話しかけ続けることを選ぶことにしたが、これが正しいのかどうか、正直なところまだ椒丘にもわからない。
(もう少し自分のことを話せるようになるといいんですけどね……
 椒丘は先日、熱が出ても何も口にせず、ひたすら耐えていたモゼの姿を思い出していた。薬王秘伝には痛みを耐えてこそ救われるだか、次の領域へ行けるだかの教えがあったはずだが、椒丘は何よりもその思想を憎んでいた。
 痛みは生物が生きていることの証だというのに、それを我慢することになんの意味があるのかがわからない。痛みがあるからこそ、生物は危険を回避したり、怪我や病に備えることができるのだから。
「飛霄様が戻ってきたらすぐ夕餉にしましょう。僕は食事の準備をするので、しばらくのんびりしていてください」
 椒丘の言葉にモゼは少し視線を上げ、黙って数秒顔を見つめてから、ふいと視線を落とした。
 椒丘はその態度を咎めることはせず、笑顔のまま部屋を後にした。

   *

 一週間の学習は驚くほど順調に進み、モゼも単語であれば、ある程度メッセージで打てるようになっていた。
 それを椒丘が報告すると、飛霄は三人のグループチャットを作り、「練習にもなるしここを『何でも用』にしましょう」と日に数度、要件だったり、どうでもいいことだったり、夕飯のリクエストだのなんだのを送ってくる。
 椒丘は「モゼはまだ単語しか打てないって言いましたよね?」と思いながら、なるべく簡単な言葉で適当に応答しつつ、時折、「夕方の鍛錬に来るわよね?」と飛霄から入るモゼへの問いかけの返事を一緒に考えていた。
「このままだと読みづらいので、適宜句読点を入れましょうか。この辺に『、』、それから、文の終わりに『。』です。声に出して——もちろん本当に声に出さなくてもいいんですが——長すぎるなと思ったら入れる、ぐらいの感覚でいいですよ」
 まぁ本当はメッセージの最後に「。」をつけなくてもいいんですが、と思いつつ、椒丘はモゼがいくつか打った短い文の一番最後、「いきます。」と打ち込まれたのを見て微笑ましく思った。
 椒丘は飛霄に誘われるままに家を出て行くモゼを見送り、三人分の夕食を用意して彼らの帰還を待った。
 一週間分、通常業務を休んだ(正確には飛霄に休まされたのだが)ので、明日からの仕事を考えると正直なところ憂鬱だった。考えたところで仕事は減らないのだから、どうにかするしかないのだが。

   *

 約束通り一週間で専属教師を解任された椒丘だったが、学習前は飛霄と二人でとっていた夕餉の時間は、今ではそのまま三人でとることになっていた。
 別に二人分作るのも三人分作るのも大した違いはないし、そもそも飛霄と自分の献立も少し違っているので、もう一人増えたとて、大して面倒でもなかった。健康のためには食事が大事だし、子どもの脳や筋肉の成長のためにも当然、食事は大事だった。
 飛霄がモゼの面倒を見ることを決めてしまった以上、彼女の主治医兼食事担当の自分がモゼの健康と食事の管理をするのも仕事の一貫だろう。
 近頃のモゼは調理中の椒丘のそばに立ち、黙って食事を作る様を眺めていることがあった。君もやってみますか、と告げれば首を横に振るのでまだ手伝わせたことはなかったが、そのうちなにかやらせてみるのもいいかもしれない。
 夕飯と風呂を終えると、モゼは飛霄に言われた読書をなんとかこなそうとしていたが、幼児向けとは言っても、まだ本を読むのは難しいようだった。
 夜になるとモゼは椒丘の部屋を訪れて、「三ページ読む。」とメッセージを送ってくる。はじめはモゼの来訪に戸惑っていた椒丘だったが、今では数ページの読み聞かせを淡々とこなせるようになっていた。
 確かに飛霄の言う通り、モゼに懐かれているような気もするが、これはただ単に彼を甘やかしているだけのような気もした。ただ、「家族」を失った子どもをわざと「業務時間外です」と邪険にするのは忍びなかったし、椒丘にはそんな非道な真似はできなかった。
 子どもは愛されるべきだったし、慈しまれて然るべきだった。誰か一人くらい彼を甘やかしたって、バチはあたらないだろう。
 本来であれば飛霄が親代わりをしてやるべきかもしれなかったが、彼女は子どもを見るには変にさっぱりとしすぎていて、そのくせ鍛錬には厳しすぎるのであまり向いていないし、親というより師の立場でいてもらった方がいいだろうと考えていた。将来的にモゼに自身を暗殺させるつもりでいるのなら余計に。
 はっきり言ってモゼと飛霄の交わした「契約」は椒丘には理解のできないものだったが、モゼが飛霄を殺せる日は永遠に来ないだろうと確信していたので、モゼにも飛霄にも止めるようには言わなかった。それでも、モゼが飛霄に叩きのめされるたびに怪我を負うのを見るのは心苦しかったのだが。
——こんなところでしょうか。わからないところはありましたか? ……もしかして眠ってしまいました?」
 読み聞かせているうちに眠ってしまったモゼを部屋まで抱えながら、ふと、まるで我が子のように接している、と椒丘は不思議な気持ちになった。同時に、鍛錬や勉強をサボって家に押しかけてきた幼い素裳の面倒を見ていた頃を思い出し、そういえばあの頃も甘やかしすぎだと彼女の母親に叱られたな、と思わず苦笑した。
「こんなことを思い出すなんて、やっぱり歳を取りましたね」

   *

 短命種の成長は仙舟人のそれとは大幅に違っていて、当然、椒丘にとって最も身近な孤族よりも更に短い。
 つい先月まで腰の辺りまでしか背がなかったはずのモゼと視線が並んだその日、椒丘は「まさか僕より大きくなるつもりなんですか?」と驚くと、「なる」とモゼは何故か少し自慢気に頷いた。
 昔に比べれば遥かに喋るようになったモゼの姿を見るたび、案外、自分の接し方は悪くなかったのだろうと最近は思えるようになっていた。
 小さく細かった体躯は今ではがっしりと腕も胸も太くなっていて、昔は椒丘でも両肩を掴んで簡単に椅子に座らせておくことができたが、今ではそうした次の瞬間には影のように身を消し、椒丘の背後に立ち、逆に椒丘の肩を押して無理やり椅子に座らせられてしまう。
 今では三人の住んでいる家は昔と比べて少し離れているけれど、特段任務がなければ、椒丘の家で、三人で夕食を囲む習慣はそのまま続いていた。
 飛霄に関しては治療が継続しているだけとも言えたが、モゼはとっくに一人で勝手に過ごせるようになっているのに、わざわざ椒丘の食事を食べに来ていた。
 モゼはあまり美味いだのなんだのと感想を言ってくれることはなかったけれど、まぁ、ずっと食事を与えてきて舌は肥えているはずなので、食べにくるぐらいなのだから、自分の作る食事を気に入っているのだろうと考えていた。

   *

 今年から飛霄の幕僚として仕えているモゼは、以前よりさらに飛霄への暗殺のチャンスが増えて、任務がなければ三日と空かずに飛霄へ挑んでいる。
 当然のように返り討ちに遭い、相変わらず生傷が絶えないが、近頃は痛みを我慢するのを止めることをようやく覚えてくれて、不服そうに椒丘の部屋を訪れながらも、正確にどこが痛むのか口にするようになっていた。
「もう少し上手く受け身を取れないんですか?」
 青あざになっている背中に薬を塗布しながら椒丘が呆れたように口にすると、「取ってる」とぼそりと小さく、不服そうな声が落ちた。
「まあ、任務に支障が出ないようにしてください」
……文句言うくせに治療はするんだな」
「夜中に人を叩き起こしておいて、よくそんなことが言えますね?」
 おしまいです、とわざと背中を強めに叩くと、「痛い」とモゼが文句を言う。
「怪我人を放っておくことは僕にはできません。それが飛霄様の暗殺未遂の結果だとしても、君には影護衛としての任務もありますから、出かける前に不調はなるべく完璧に取り除いておきたいと考えています」
 椒丘の言葉をじっと聞いていたモゼが、小さく、「俺が死んだ方がお前には都合がいいんじゃないか」と呟いた。
「モゼ」
 椒丘は瞳を眇め、咎めるように鋭い声を出した。
「俺は飛霄様を殺したい。家族の仇だからだ。……でもお前は飛霄様の病気を治したい。だから、俺を治療するのは矛盾してる」
 椒丘の表情にも声にも怯まず、淡々と言葉を続けるモゼの瞳をしばらくじっと見つめた。見つめられているうちに不安になったのか、僅かに眉を下げたモゼの顔を見て、椒丘はため息の代わりに微笑んだ。
「やめましょうその話は。僕は誰であろうと患者は治療します。それは例え真夜中に部屋を訪れたあげく、治すなと意味不明な文句を言うような横暴な患者であってもです。僕は誰にも病や怪我で死んで欲しいと思っていません」
 近頃、モゼの暗殺未遂の精度は以前よりもずっと下がっていた。本人にその自覚があるのかはわからなかったが、昔と違って鬼気迫るものがない。だから飛霄も以前より、モゼの怪我が軽く済む形で撃退できるようになっている。
 家族の仇だと思ってきた飛霄の行いが実際は正しいものだったのだと、モゼもとっくに気づいているのだろうと椒丘は考えていた。
 薬王秘伝の考えや思想が「普通」だと思っていたけれど、成長し、任務を通して世の中を知るうちに、モゼは幼い自分への仕打ちや境遇が普通ではなかったのだとまじまじと見つめさせられていた。それでも、自分の生活が異常だと認めるのはそれなりに難しい。
 復讐を終えた後にどうやって生きたらいいのかわからないと告げたモゼに、飛霄は「やりたいことをやればいい」と言ったらしかったけれど、モゼにはまだその答えが見つからないのだろう。
 復讐なんてやめて自分の人生を生きてみてはどうでしょうか、と椒丘が口先だけの言葉をかけてやるのは簡単だったけれど、そうしようとは思わなかった。
 飛霄を治した後のことは、椒丘にも考えられらなった。自分の人生なんてものはとっくの昔になくなっていて、もうずっと飛霄のためだけに生きていた。そもそも、医士を一度止める前はずっとこの世あまねく患者のために生きていたのだし、それを不幸だとは微塵も思っていない。
 彼女の病が治れば、いよいよモゼが彼女を斃すことは不可能だろう。だから、モゼに「復讐なんてもうやめなさい」と言う必要はないと感じていた。
 だってそれは、残酷なことを言うようだけれど、けして叶わないことだと思っていたから。
「君の生き方は君が決めるしかありません」
 椒丘は不安そうな顔をするモゼの手を取り、数日薬を塗り忘れていると思しき、かさついた手に軟膏を塗る。
 この手が飛霄の命を狙うよりずっと多く、彼女の敵を屠ってきたことを知っている。敵を殺さなければもっと死者が増える。医士は一人の命を救うのは容易くても、争いを止めることはできない。戦争を無くすためには、彼や彼女のような戦士の、圧倒的な暴力が必要だった。
 悲しいことだが、どうしようもない現実だった。
 椒丘は冷たく冷えた手のひらを温めるように包むと、包帯を巻き、さて、と場違いに明るい声を出した。
「きっと神経が昂ってるんでしょう。精神が落ち着くお茶を淹れてあげますから、それを飲んだら帰ってしっかり休んでください」
「椒丘」
 モゼの手を離した椒丘の手首を、モゼがつかむ。
 昔はあまりに小さな手だったのに、今や椒丘の手首を簡単にへし折れそうなほど大きな手だった。
「なんですか」
…………なんでもない」
 掴んでいた椒丘の手首を話し、モゼは首を横に振った。
(ずるいんですよね、その顔……
 捨てられた犬のような顔をしているモゼを無視して茶を淹れにいく気になれず、椒丘は顔を覗き込み、「まだどこか痛いんですか?」と頬に手を添えて尋ねた。
「っ、別に、痛くない」
「あいた」
 即座にはたき落とされた手をさする椒丘から顔を逸らして離れると、「茶はいらない」と口にしてモゼが影の中に消えていく。
 夜中に叩き起こしたくせにお礼もないなんて、と椒丘がため息をついたその時、ベッドサイドに置いていた端末が小さく震える。
『治療してくれて助かった。』
 簡潔な一文だったが、まるで椒丘の文句を聞いていたかのようなタイミングで、くすりと小さく笑い声が漏れる。
『次は日中にお願いします』
 まぁそれは無理だろうと考えながらメッセージを返信し、昔のモゼはこの一文打つのにも一システム時間はかかっていたな、と考えていた。


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