【必読】五夏/色んな人の生存if/離反なし
第一話 灰原の話
第二話 七海の話
幕間 とある呪術師の独白(同人誌のみ)
第三話 五条の話
@itou_888
第一話 灰原の話
ピアノアレンジされたポップ・ミュージックが流れる店内には、立地と時間帯の影響だろう、学生客が多い。近隣の大学に通う灰原も、このカフェの常連だった。ランチライムにはおにぎりプレートなるものが提供されており、米にこだわりがあるだけあって美味しいのだ。
「なあ」
そんなことを考えながら現実逃避をしていた灰原は、やれやれと思いながらメニュー表を置き、目の前の人物へと視線を移した。橙色の柔らかいダウンライトの光に照らされた色のない髪。整った容姿は、室内だというのにスクエア型のサングラスをかけていることへの違和感を薄れさせている。嫌味なほど長い脚を組んで上から見下ろすような恰好で灰原を見ているというのに、周囲からは概ね好意的な視線しか飛んでこない。本当に、やれやれである。
「どうしたんですか、五条さん」
「しらばっくれんなよ。灰原。オマエさ、傑と会ってるだろ」
からん、と氷が動いた音がする。
「五条さんは会ってないんですか」
純粋に気になって聞いたのだが、五条はそう感じなかったらしい。不愉快そうに鼻を鳴らすとそっぽを向いてしまった。どうやらへそを曲げているようだ。そんな姿を見て、灰原は最近会った先輩、夏油傑について考えた。
*
灰原が大学に編入して二年になる。今年が卒業だ。それまでは、東京都立呪術高等専門学校に通っていた。宗教系の教育機関であり、それなりの偏差値を誇る高専である。ということになっている。
実際は、人の負の感情から生まれる呪いや呪霊について学び、それらを祓う術を学ぶ場所なのだ。だからもちろん、呪術高専に通っていた灰原も呪いについて日夜学んでいたし、呪いを祓う呪術師になるために励んでいた。
子どもの頃から呪いが見えていた灰原にとって、呪術師というものは天職だと思えた。持てる力を使い、精一杯やることは気持ちがいいのだ。
このまま呪術師として生きていくんだろうな、と考えていた灰原に転機が訪れた。それは、二級呪術師に昇格し、初めての単独任務を行った時であった。
これまでは同級生であり、得がたい友である七海との合同任務ばかりだった。故に、任された初の単独任務に意気込み、緊張と少しの不安をもってあたったのである。
現地について、呪霊と相対し、あれ? 報告書よりも呪霊の能力が高いなと感じた時には手遅れで、気がついた時には真っ白な病室にいた。
負傷こそ珍しくはないのだが、通常、呪術師が怪我をして搬送される際には、呪術高専の息がかかった病院か、もしくは呪術界が口を挟みやすい病院が選ばれる。それは余計な混乱を招かないように呪いを秘匿するためであったり、効率よく治療をするためであったり、非術師には理解しがたい状況への説明を省くためであったりする。しかし、灰原が搬送されたのは完全に非術師のみで構成された病院だった。
当然のように、呪術高専よりも先に保護者へ連絡がいく。目覚めた灰原の視界には泣き腫らした顔をした親と、何か言いたげな妹の姿があった。
後から来た呪術高専関係者の必死の説明により親はなんとか納得したものの、妹は違った。彼女は途中で口こそ挟まなかったが、瞳は雄弁であった。
治療は順調に進み、七海をはじめとした数人が見舞いに来てくれた。一日一日回復していく灰原を見舞った中に、夏油もいた。
「灰原」
「はい!」
「呪術師、続けられそうか」
以前の灰原であれば、即答できていただろう。けれど、脳裏に過ぎった家族の姿が灰原の口を重くした。
「夏油さん」
「なんだい」
「僕、死ぬかと思いました」
清潔に保たれた室内で、真っ白な掛け布団を握りしめながら続ける。
「呪術師として、いつか来る死については覚悟していたつもりです。入学前に散々脅されましたし。分かった上で、この道を選びました。でも、でも僕」
「灰原の妹に会ったよ」
びくりと肩が揺れる。妹さんも呪霊が見えるんだね、と続けられた声色の穏やかさに、灰原の口が動き出した。
「はい、そうです。妹は呪いが見える。だから、高専がでっち上げた説明も信じてない。嘘だって分かってるんです」
意識を取り戻した日に見た瞳を思い出す。家族の中で妹だけが、正しく怪我の理由を理解していた。
「僕、妹には高専に来るなって言ってあります。はは、おかしいですかね。自分は呪術師として死ぬ覚悟はできていても、親にあんな顔をさせたり、妹を呪いに関わらせる覚悟はできていませんでした。僕がどうかなるよりも、家族にあんな思いをさせることが、つらい……!」
ず、と鼻をすする音が大きく響く。情けなくて顔を上げられない。何度か鼻をすすり、呼吸を落ち着けようとする灰原を夏油は静かに見つめていた。
「話してくれてありがとう。なあ、灰原」
「は、はい」
「どうして高専に一年余計な学年があるか知っているか」
「えっと、モラトリアム期間だって聞きました」
「正解。呪術高専に通ったからといって、呪術師にならなければいけないわけじゃない。モラトリアム期間は進路を見つめなおす期間でもある。だからね、灰原。これからどうしたいのか、ゆっくりと考えるといい」
「でも」
「なに、灰原が答えを出すまでの時間稼ぎぐらい私にもできるさ」
パイプ椅子から腰をあげた夏油がひらひらと手を振りながら病室から出て行こうとする。それから、戸に手をかけて振り向くと優しく微笑んだ。
「私が見舞いに来るのも、硝子がこっそり治療に来たのも、戦力になる呪術師の今後を考えたからじゃない。灰原雄という大事な後輩を元気づけたかっただけだよ。だから、気負わずにゆっくりと休んで、考えるといい」
そう言い残して去って行った。
退院後、呪術高専に戻った灰原を、皆は明るく迎え入れてくれた。数人からの案じる視線を感じながら、元気のよい笑顔をみせる。そして、呪術高専卒業後、灰原は大学に編入したのだ。
卒業後、初めて夏油に会ったのは、大学に編入して少し経った頃だった。
呪術高専という特殊な出身であることを伏せ、ただの高専出身者として生活していた灰原は何人かの同級生を得た。彼らは気さくで、けれど軽率だった。彼らの肩に乗る低級呪霊がその証だった。
聞けば、心霊スポット巡りに興じているらしい。仲間のうち一人が自動車運転免許を取得したとやらで、ドライブがてら心霊スポットを巡ることにしたそうだ。
何故、そんな場所に行ってしまうのだろう。灰原には不思議で仕方がない。低級呪霊もその過程で連れ帰ったに違いなかった。
彼らは心霊スポット巡りを続けるという。そして、それに灰原を誘うのだ。まだ大学に馴染みきっていない灰原を気づかったのか、からかおうとしているのかは分からなかったものの、次こそは低級呪霊では済まないかもしれないと思うと、同行せざるをえなかった。
灰原には呪いが見える。それを利用して、上手いこと呪霊から離れた道へと誘導し、被害にあわないように取り計らった。結果として、彼らの肩に呪霊が増えることはなかった。
「何もなかったね」
だから、こんなくだらない遊びはやめて、もっと楽しいことをしようと伝えたかったのだが、何故か本物の心霊体験をさせてやると意気込ませてしまった。困ったものである。
灰原が呪術師のままならば、問題なかった。しかし、今の灰原は呪術師を引退したようなもので、呪術規定の六条が適応されている。つまりは、いかなる呪術の使用も認められていないのだ。これでは、同級生に今以上の何かが起きたとしても、彼らを逃がしてやることは難しいだろう。自分から首を突っ込んでいるからといって、彼らが犠牲になるのをみすみす見逃すなんてことはできなかった。
さて、ではどうするかと考えた際、一番に思い浮かんだのは友人の七海で、一番に却下されたのも七海だった。彼もまた、呪術高専卒業後は呪術師ではなく、一般的な社会人としての生活を送ることを選んでいる。つまり、呪術を使用できない。灰原と同じなのだ。
呪術高専に依頼をしてもいいが、起きるか分からない事象のために動いてくれるとは思えない。それに、心霊スポットへ赴くのは近日中であり、悠長にしている時間はなかった。
どうしよう。三秒ほど悩んで妙案が出た。思いついた喜びで明るい笑顔のまま、灰原は同級生達に提案をした。
「今回は、僕の先輩も誘っていい?」
待ち合わせ場所に現れた人物を見て、男性陣はぽかんと口を開けているし、女性陣はにわかに色めきたっている。
「やあ、灰原。久しぶり」
「お久しぶりです! 夏油さん」
肩よりも少し長い黒髪をハーフアップにまとめた大柄な男。特徴的な耳には大ぶりのピアスが輝いている。上下黒のスウェットを身につけた夏油は、どうみてもやんちゃなお兄さんだったが、表情の柔和さと穏やかな話し方でもって、すぐに打ち解けていた。
心霊スポットへ向かう車内でも、夏油への質問は止まらなかった。一番盛り上がったのは、職業を聞かれたときの返しだろう。
「うーん。ちょっと言えないところ」
きゃあ、と黄色い声があがるのを聞きながら肩をすくめる。彼らはお茶目にはぐらかされただけだと思っているだろうが、夏油の職業は本当に言えないものだと灰原は知っているからである。
許可は取ったと言い張る廃墟に入っていく同級生の背中を見ながら、ゆっくりと後を追う。前回のように先導しないのは、夏油が操る呪霊が彼らの周りを護衛しているからだ。
「今日はありがとうございます。夏油さんが来てくれて助かりました」
「いいよ、礼なんて。私は灰原が頼ってくれたことが嬉しいんだ」
本当に嬉しそうに笑う先輩を久しぶりに見て、灰原もつられて頬を緩めた。そうして緩んだ頬のまま、言おうか言うまいか迷っていたことを口に出した。
「僕、大学を卒業したら呪術師に戻ります」
ぎゅっと懐中電灯を握る力を強める。なんと言われるだろうか。様々な言葉を想像して耳を澄ます。けれど、夏油は何も言わなかった。ただ、大きな手で背中を軽く叩かれただけだった。それがなんとも心強く、灰原の口はより滑らかになる。
「病室で夏油さんに問いかけられた時から考えていました。僕みたいに非術師あがりの人と、生まれた時から呪術界にいた人とじゃ、生き死にに対する考え方が違う。理解していたつもりですが、まだまだでした。僕は運よく生きているうちに気づけたけれど、皆がそうじゃない。だから、それを教えられる人が必要なんじゃないかって考えたんです」
前方で何もない暗闇にむかってきゃあきゃあとはしゃぐ若者達。彼らは一歩間違えば死ぬかもしれない世界にいることを知らない。否、知らなくたっていいのだ。そのために呪術師がいる。
「他の職業にだって、命の危機がつきまとうものはあるじゃないですか。呪術師も同じだと思うんです。ただ、他の職業と違って、僕達は学生の頃から一人の呪術師として現場に出ますよね。でも、いくら注意されていたって、若いうちは生き死になんてあんまり考えないんです。彼らみたいに」
懐中電灯で照らす先、同級生に襲いかかろうとした呪いが、夏油の呪霊によって葬られる。そこに危機があったことなど、彼らは知らない。
確かに、同級生は他よりも軽率だが、とびきり命知らずなわけではない。むしろ、非術師の平均に近いのではないかとさえ思うのだ。灰原の親だって、まだ若い息子があんな怪我をして命を落とすなんて思っていなかったことだろう。呪いが見えていた妹でさえ想像できなかったはずだ。
「僕は、僕の経験をもって呪術師を目指す学生に伝えたいんです。そして、選んで欲しい。本当に呪術師になるのかどうかを」
少し高い位置から向けられる視線を意識する。顔を上げ、背筋を伸ばし、しっかりと目を合わせた。これだけは伝えなければならないから。
「夏油さんが僕にしてくれたみたいに。全く同じようにはできないかもしれません。でも、僕は高専の教員になって、僕にできるやり方で皆に選ぶ時間を作ってあげられるようになります!」
「そうか」
「はい!」
まだ、七海に話していないところまで言ってしまった。灰原が照れている間に、心霊スポット探索は終わりを迎えた。
次に夏油と会ったのは、一年ほど経った頃。つい先日のことだった。
あれから無事に進級した灰原は、新しくできた友人と平和な日々を送っていた。ところがある日、かつて心霊スポット巡りに参加していた同級生から連絡がきたのである。聞けば、夏油を伴った心霊スポット探索以降、そのような場所への関心も薄れていたそうなのだが、バイト先の先輩から誘われたので、軽い気持ちで廃トンネルに行ったらしい。
それ以降、妙なことが身の回りで起きているそうなのだ。同級生の自宅は二階建てのアパートで、玄関前に階下へと繋がる階段がある。その階段を、一段ずつ登ってくる音が聞こえてくるらしい。階段の段数は十三段。今日は廃トンネルに行ってから十二日目だ。時間がない、と同級生は叫ぶ。なんでも、同行していた先輩の家もアパートの二階部分なのだが、段差の高さの関係で、段数は十段だった。そして昨日、バイト先に現れない先輩を心配して訪問した友人が、錯乱状態になった姿を発見した。病院に搬送されるまで、何度も、追いついてきた、と叫んでいたという。だから、次は自分が同じ目にあうかもしれないというわけだ。
藁にもすがる思いで、手当たり次第に解決法を探している最中、灰原と訪れた心霊スポットでは何も起きなかったことを思い出した。だから、灰原にはそういう霊的なものを引き寄せない力があるのではないか、であれば助けて欲しいと頭を下げに来たのだ。
さて、同級生の考えは当たらずも遠からずであるが、残念ながら今の灰原に呪霊を祓除する力の使用は認められていない。今度こそ専門機関に、と呪術高専へ連絡をとったのだが、今日明日で対応してもらえそうになかった。
このままでは後手にまわってしまう。一か八かで、灰原は夏油に連絡をとることにした。
「いいよ。時間の都合をつけよう」
「本当ですか!」
「その同級生にいくらまで出せるか聞いてくれないか」
「へ? お金ですか」
夏油に言われるがまま聞いてみると、予想外だったのか、驚いた顔をしている。しかし、相当追い詰められているのだろう、いくらでも出すと言った。
「分かった。次に私が言うものを全て集めて準備してほしい。場所は彼のアパートだ。祭壇を作ってそこで除霊をしよう」
夏油が指示した通りの「除霊」は四時間にも及んだ。聞いたこともない祈りの言葉や儀式に目をまわしている間に、それは終わった。疲労困憊といった言葉が似合うほどぐったりとした同級生に別れを告げ、夏油達はアパートを去った。
「夏油さん」
「なんだい」
「色々聞きたいことがあるんですが、あの儀式はなんだったんですか」
「あれ? 特に意味はないよ」
「ええ⁉ じゃ、じゃあ、その恰好も?」
「うん」
夏油は見慣れない格好をしていた。僧侶が着るような法衣に袈裟を身につけているのだ。剃髪はしていないし、ピアスもそのままだったが、同級生は夏油であることに気づかなかったようだ。
「これはハッタリさ。それらしく見えて、それらしく思える方が効果がある」
「無茶振りをして祭壇を作ったのも、高額な料金を要求したのもそのためですか」
「あれは、これに懲りて二度と同じことをしないように、っていう戒めかな。対価をもらわずに祓除することは簡単だけど、そうなるとあの人はまた同じことをするだろう。除霊してもらえば大丈夫だと思って更に危険をおかす。そうなる前に止めるべきなんだ」
ぐるぐると肩をまわしながら、夏油が続ける。
「このことを受けて、きっと彼は他人に話すだろう。自分がどれほど怖い思いをして、そしてどれだけ大変な思いで除霊をしてもらったのか。そうやって広がってくれると助かるね。除霊がどれほど辛く、危険をおかす行為がどれほど馬鹿らしいのかを」
沈みかけた夕日が、夏油の横顔を照らす。しっかりと正面を見据える瞳は燃えているようだった。
「私はね、呪術師が理不尽に消耗されない世界を理想にしているんだ。そのためには、やらなくてはならないことがたくさんある。一環として、非術師への啓蒙があるってわけさ」
「ははあ、なるほど」
夏油はいつだって前を向いている。そんな夏油の背中を見ていると、自分が教員になって学生達を支えたいという目標も叶えられるような気がしてくるのだ。
*
「おい、灰原!」
「はい!」
「今、話聞いてなかっただろ。何考えてたんだよ」
「夏油さんのことを考えていました」
「あ?」
灰原と五条が座る席の周囲だけ、温度が下がったような気がする。他意はなかったけれど、今の五条にはあまりよくない返しだったらしい。
「先に夏油さんの話を始めたのは五条さんじゃないですか。夏油さんって、自分の決めたことに向かって一直線って感じですよね。そういう姿をみていると、勝手に励まされるというか。僕も頑張ろうって元気をもらえるんです。そういう力がありますよね」
「知ってる」
五条はそう呟くと、頬杖をついて窓の外を眺めた。
「そんなの、とっくの昔から知ってる。だから……ああ、くそ」
「何かあったんですか」
常とは違う荒れた雰囲気に、心配になった灰原が声をかける。
「別に。俺がしくじっただけ」
「喧嘩したわけじゃないんですね」
「喧嘩にもなってねえよ」
重たいため息を吐いた五条が、それを振り切るようにして立ち上がる。
「付き合わせて悪かったな。これ置いてくから、好きなもん食ってから帰れよ」
嵐のように現れた五条は、また嵐のように帰っていった。数枚の札と、軽やかなポップミュージックが後に残される。今流れているのは、友情を歌った曲だったはずだ。五条と夏油、どちらも灰原にとっては尊敬する先輩だ。どうか、二人にとってよい結果が訪れますように。落ち着かない気分になった灰原は、仕事が忙しいからと遠慮をしていた七海に連絡をとらずにはいられなかった。
第二話 七海の話
電光掲示板が最終電車の案内をしている。もう見慣れた表示に、吐くため息もない。普段と違うところがあるとすれば、それが遅延を知らせていることくらいだろうか。
七海は感情の読めない表情で駅のホームに立っていた。珍しく他に利用客はいないようだ。もっとも、今は改札階に繋がる階段の裏にいるため、向こう側には誰かいるのかもしれなかったが、どうでもよいことだった。
しんと静まり返ったホームで、ぼんやりと思い浮かべるのは先日会った灰原の顔だ。呪術高専を卒業して、大学に編入した友人はそれなりに日々を楽しんでいる様子だった。初めの頃は頻繁に連絡を取りあっていたが、七海の仕事が忙しくなるにつれ、その回数は減っていった。そんなある日のことだった。
「食事でも一緒にどう?」
届いた連絡に一も二もなく頷いたのは、息抜きがしたかったからかもしれない。指定された居酒屋には、卒業した時と変わらない灰原の姿があった。有給なんてとれなかったから、仕事終わりの参加だったが、友人は快く七海を迎えてくれた。
他愛もない会話は思ったよりもはずみ、七海は久しぶりに楽しい時間を過ごすことができた。しかし、それも途中で退席しなければならなくなる。営業先からの連絡が届いたのだ。業務用の端末が鳴るのを虚ろな目で見つめていると、心配するような視線が向けられていることに気づいた。いたたまれなくなって、挨拶もそこそこに去ろうとした七海の腕を掴んだのは灰原だ。社会人と学生じゃ大変さが違うから、と前置きをして丁寧にたたまれた紙を渡される。
「妹にオススメのパン屋を教えてもらったんだ。僕より妹の方がパン好きだから。七海が気に入るといいな」
「灰原……」
友人の押しつけがましくない優しさに、強ばっていた表情が緩む。いつの間にか呼んでおいてくれたらしいタクシーに乗って、そう悪くない気持ちで会社に戻ったのだった。
あれも数日前になる。七海の心情が穏やかだったおかげか、先方とのやり取りは上手くいき、想像よりも早く帰宅することができた。けれど、面倒だったのはその後で、趣味の悪い格好をしている上司から、そんなに仕事が早いならと新しい取り引き先を任されたのだ。
客を金づるとしか見ていないようなクソ会社だ。どうしてこんな会社を選んでしまったのだろう。当時は、高専を卒業した学生の進路として魅力的に思えたのだ。けれど、灰原達との交流や、教えてもらったパン屋での穏やかなひと時が七海の人間的な感情と、正常な思考を取り戻させた。仕事に盲目的になっていた七海を解き放ってくれたのである。
見切りをつけて、辞めようと決めてしまえば後は早かった。けれど、どれだけクソな会社だろうと、業務の引き継ぎは重要だ。着々と進めているつもりでも、連日の残業時間は膨大なものになっていた。それでも、来たる終わりの日のためだと思えば、なんとか乗り越えられそうだった。
全て片づいた暁には、と近い将来に思いをはせる。買ったままで読めていない本を読むのもいいだろう。そのお供に、灰原が教えてくれたパン屋のパンを添えるのもいい。いっそのこと、海外に行くのはどうだろうか。気に入った海岸があれば家を建ててみたい。使う暇もなかったので、金だけはある。新居へ一番初めに招待するなら、灰原とその妹だろうか。
疲れ果てた脳を絞り、明るい未来へ思考を向けながら、何気なく視線を上げた先に、蝿頭がいた。
急いで顔を伏せ、周囲の気配を探る。油断していた。認めよう。呪霊と目が合ったかどうかは定かではないが、気取られていたならば厄介だ。呪術的に、目というものは重要な意味を持つ。先輩の五条が持つ特異体質の六眼のように特出した「目」でなくとも、視線そのものが意味を持つこともあるのだ。
見えていると気づかれただけで、呪いは寄ってくる。
呪術高専に通っていた頃ならばいざ知らず、現在は非術師として生きている最中である。大学に編入した灰原と同様に、引退した扱いになり、呪術規定に則って術式の使用が認められていない。
蝿頭レベルならば、術式を使わずとも祓える可能性はあるものの、問題はそれを呼び水に等級の高い呪霊が現れた時だ。下手に戦闘を行うことで、術式を使わなければ太刀打ちできない呪霊を呼び寄せるのは避けたかった。
深呼吸を一つ。ちらりと確認した電光掲示板は、未だに最終電車の遅延を知らせている。加えて、遅れの時間が延びていた。電車到着までの数分を、自分に気づいているかもしれない呪霊がいる場で待つのは危険だ。費用はかさむものの、タクシーを使って帰宅するのが得策だろう。
そうと決まれば、行動あるのみだ。そっと踵を返し、階段へと向かう。そして鋭い舌打ちをするはめになった。
何故、日付の変わったホームに子どもがいるのか。端末を見つめる子どもの格好を見るに、高校生くらいだろう。ああ、と声を出さずに唸る。呪いから離れるべきなのに、あの学生にそれを伝えたところで理解されない。怪しい人に声をかけられたと思い、ホームから去ってくれればいいが、頑なにここから去らず、呪霊に襲われるようなことになれば最悪だ。
いくら呪術師を引退したといっても、呪いに襲われるかもしれない子どもを放ってはおけなかった。
仕方がないと腹をくくった七海は、階段の方まで進めた足を自動販売機まで動かした。ここまで来たのは、飲み物を買いに来たのだと思わせるためである。ちかちかと照明が点滅している機体の側に寄り、適当な飲み物を買う。横目で確認した学生はイヤホンをつけたまま画面に夢中になっているようで、七海の方には意識を向けていなかった。
さて、どうするか。
非術師がいて、呪霊がいる。この時点で非常事態とみなされ、術式の使用が認められる可能性もあった。問題は、使い慣れた呪具がない状態で祓える呪いなのかどうかだ。ホームにいるのが、蝿頭だけならいい。そうでないなら、と腕を組んだのと同時にスーツのポケットが乾いた音をたてた。取り出してみると、折りたたまれた小さな紙だった。灰原から貰ったそれは手帳に挟んでとってあるので、これは違う。いつから入っていたのだろうか。開いてみても、裏返してみても、何も書かれていなかった。
ふと、自動販売機が鈍い動作音をたてる。つられて何気なく向けた視線の先に呪いの塊を、見た。
「しまった、クソ!」
——モモモ、モウシワケゴザイマセエエエエェェェン
完全に、目が合った。
——モウシワケ、モウシワケアリ、アリマ、アアアア
勢いよく学生の腕を掴み、ホームを駆ける。ガツンと鈍い音がしたので、持っていた端末を落としたのだろう。学生が何やら騒いでいるがそれどころではなかった。逃げなければならない。
階段は転倒のリスクを考慮して選択しなかった。七海と学生とでは身長差があるし、どれほど優れた身体機能を持っていたとしても、見知らぬ人間に腕を引かれながら安全に移動できるとは限らないからだ。
だから、七海は階段の裏にあるエレベーターへと駆けこんだのだった。混乱する学生を奥に押し込み、万が一に備えて構えをとる。
複数の折れ曲がった脚と腕。胴体と呼べるのか分からない部分に欠損が目立つ老若男女の顔を貼りつけた呪霊は、すんでのところで閉まる戸に阻まれて内側まで侵入できなかった。衝突の衝撃でエレベーターの安全装置が作動せず、改札階へと動き出したのは、今回に限っては幸いだったかもしれない。そして不幸なのは、あの呪霊が壁抜けができないほど等級の高い分類だと分かってしまったことだった。
「今、何が起きているのか分かりますか」
なるべく平静を装って座り込む学生に尋ねる。恐怖で染まった表情のまま、僅かにへこんだ戸を凝視していた学生は震えながら首を横に振った。
「信じられないかもしれませんが、我々は今、命の危機にさらされています。貴方だけでも逃がすつもりですが、絶対とは言い切れません」
七海を見上げる瞳には、不安と絶望が入り交じっている。
「それでも、私についてきますか」
壊れた玩具のように頷く学生に手を貸し、七海達はエレベーターを降りた。
改札階は閑散としている。駅員の姿もない。時間が遅いとはいえ、普段ならば人がいる公共の場に誰も居ないというのは不気味だ。改めて異常事態であることを認識したのか、七海の背後で学生が息をのむ気配がした。
「駅から出ましょう」
出口と書かれた案内表示に従って移動すればいいだけだ。たったそれだけなのに、それができないからこそ危機なのである。
——モウ……ン……シ……
呪霊の気配だ。目指そうとしていた出口の方向からだった。
「別の出口を使いましょう。ここは回り込まれている」
この駅には二か所の出口がある。ホーム近くと、呪霊に回り込まれた出口である。呪霊がホームから離れたのであれば好都合だと、もう一方の出口へ向かった。しかし。
——モモモ、アアアア、アリマセエェェン
「なに⁉」
ホーム階から繋がる階段を登ってくるのは、あの呪霊だった。回り込まれたのではない。あのレベルの呪霊が初めから二体いたのだ。いや、二体とは限らない。複数体いる可能性は否定できない。自分達は今、何体の呪霊に囲まれているのだろう。
呪いなど、これまでいくらでも見てきたが、非術師の中で過ごすにつれ、その回数自体は減っていた。見えたとしても、目を合わせないようにしていたから、今は久しぶりに呪いを見るという行為に集中している。意識をそちらに割いているのだ。そう自覚したと同時に、正体不明の紙切れが脳裏を過ぎった。まさか。何も書かれていない紙を再び取り出す。より見ることに注力して観察した紙には残穢がこびりついていた。
これが救いの糸なのか、はたまた罠なのか。分からなかったが、ここに賭けるしかなかった。
最近はもっぱらキーボードを叩くことしかしていなかった指は、戦う者の形をしている。今さら気づくなんてと苦笑し、真白い紙を勢いよく破いた。
ぞ、と背筋をはしるのは決してよくない感覚だ。どす黒い呪力をまとった呪霊は、高位の等級であることを本能に知らしめる。改札階の天井に届くほどの大きさで現れた呪霊は、推定でも一級以上。巨大な体を四つ這いにした赤ん坊のような姿をした呪霊が目の前に現れたのだった。
呪霊が手を床に叩きつけると、振動で駅構内が揺れる。あの勢いで手が叩きつけられたならば、七海も学生も間違いなくこの世から去ることになるだろう。
「罠だったか」
表情を歪め、逃げられる場所を探す。その間に、ホーム階から上がってきた呪霊が改札階にたどり着いてしまった。
——モウシワケ、アリマセ……ッ
ダシン、と大きな振動を感じたかと思えば、赤ん坊のような呪霊が、異形の呪霊を叩き潰しているところだった。まるで玩具遊びでもするかのように、複数生えた脚や腕をもいでいく。耳障りな断末魔が構内に響いた。
「共食いか? それなら都合がいい。今のうちに距離をとります。走りますよ」
振動に腰を抜かした学生を急きたて、走らせる。涙や鼻水でぐしゃぐしゃになりながらも懸命について来ていた。背後では、ダシンダシンと床を叩く音と、屠られる呪霊の悲鳴が聞こえ続けている。それでも視界には出口が映っていた。あともう少し、あと数メートル。最後の階段に足をかけようとしたとき、学生の悲鳴が聞こえた。慌てて振り向くと、いつの間に追いついたのだろう、赤ん坊の呪霊が丸太のような手を伸ばして学生の足を掴んでいる。
「っ、その手を」
術式の使用もやむなし、と七海が構えたその時だった。
「こら。おいたはいけないよ」
出口に繋がる階段を下ってくる人影が一つ。
「命令を守れない呪霊はどうなるか分かっているだろう」
聞き覚えのある声。懐かしくも頼りがいのあるその声から七海が想像したのと違わぬ人物がそこに立っていた。
「夏油、さん」
「やあ、七海。大変だったみたいだね」
「あの呪霊は夏油さんの?」
「そうだよ。遠隔での護衛用に工夫してみたんだけど、大きすぎたみたいだね。ほら、その子どもから離れなさい」
夏油の言葉に、呪霊が手を離すものの、何か伝えたげに唸っている。
「何をそんなに、って、おや。君、面白い物を持っているね」
うつ伏せに倒れてひいひいと荒い呼吸をしている学生の前にしゃがんだ夏油は、そのリュックにつけられた人形を引きちぎる。呪いに慣れた目ならば、七海にも分かる。この人形は呪力を帯びていた。
「呪物、ですか」
「みたいだね。どこでこれを手に入れたのかな」
半泣きの学生から聞き取った情報によると、先日、駅構内で人形を配っている人物が居たらしい。今になって思えば怪しい限りなのだが、その時は何も不審に思わず、人形を受け取ってしまったそうだ。
「呪詛師かな。目的が分からない上に、他にも被害者がいるかもしれないな。取り急ぎ報告しておくか」
「……あの」
「どうした」
「助けてくださってありがとうございました。どうやってあの紙を私の服に忍ばせたんですか」
「灰原経由だろう。君達、最近会ったんじゃないか? 私は呪霊操術使いだけれど、だからといって他の呪術を全く使えないわけじゃない。紙を式神に見立てて灰原につけておいたんだ。七海の呪力を感知して忍び込んだんだね。上手くいってよかった」
「そんなものを、開発していたんですか」
「やだな。大したことじゃない。それに、ある程度呪力を持った者じゃなければ使えない試作品だよ。どれくらいの呪力量があれば反応するのかもまだ分からないんだ。七海の助けになってよかった」
じゃあ、私は連絡をしてくるから、と言って離れていった夏油の背中を眺めていると、小さく声をかけられた。ここまで共に逃げてきた学生が、七海に礼を言って頭を下げる。七海としては、頭を下げられるほどのことをした覚えはなかった。しかし、ホームで声をかけてくれたこと。怯えるばかりの学生を励ましてくれたこと。最後まで守ろうとしてくれたこと。そのおかげでここに立っているから、感謝したいと言われてしまえば、厚意を無下にもできなかった。
タクシー乗り場まで学生を見送り、運賃を握らせる。
「これが大人の役目ですから」
そう言えば、最後には納得した学生は深々と頭を下げて帰っていった。
「……夏油さん」
「なんだい」
連絡を終えたのか、いつの間にか隣に立っている先輩へと話しかける。
「高専在学中、灰原の負傷をきっかけにそれまでの体制に疑問を抱くようになりました。人手不足を理由に、学生が過度な労働を強いられている環境に嫌気がさしたんです」
今でも時々思い出すのだ。初めての単独任務だからと張り切って出ていった灰原が、何も言わずに真っ白な病室に横たわっている光景を。失ったかと思った。もう二度と、あの笑顔を見ることはできなくなってしまったのだと、半身がもがれるような痛みを感じた。
そして、怪我の背景に、事前調査のずさんさがあると知った時、七海は呪術高専に、呪術界に、呪術師に失望したのである。
「呪術界はクソです。だから、一度離れてみました。非術師の世界で生きてみようと思ったんです。でも、どこにでもクソな奴は居ます。そして、そうでない人も居る」
学生の命をなんとも思っていないような上層部や、客が苦しんでも金を搾り取ろうとする上司のような人間のために命をかけるのは馬鹿らしい。けれど、そうでない人達の生活を守ることができるのならば。灰原や、パン屋の店員、先ほどの学生の姿が思い浮かぶ。
「残念ながら、私には呪術師の適正があるようです。呪術師の世界、非術師の世界。どちらもクソなら、守れるものが多い方を選びたい」
久しぶりに全力疾走した体は、未だに悲鳴をあげている。情けないがここから鍛えなおすしかないだろう。読み終えていない本を消化するのも、海外で家を建てるのも、お預けだ。七海はもう少し、呪術師として生きてみることにした。
「そういうわけなので、お手数おかけしますが高専とのパイプ役になってもらえませんか」
「ああ~……協力したいのはやまやまなんだけど」
それまで七海の話を聞いて力強い相槌を返してくれた夏油の表情がくもる。どうしたのだろうか。やはり、一度引退した身では復帰は難しいのだろうか。
「私、今、あんまり高専と折り合いがよくなくて」
「と言いますと?」
「その、高専に拾い上げられなかった術師や、考え方が違う術師が集うシェルターみたいな場所を運営しているんだ。そうしたら、過去のあれこれも重なって、ちょっと、なんというか、ね。だから、今は冥冥さんみたいにフリーの呪術師としてやってるんだ。そういうわけで、高専とのパイプ役にはなってあげられない。すまないね」
「はあ」
「呆れてる?」
「いえ、夏油さんが何かを実現するために突き進んでいる背中を見ていたので、意外ではないのですか。本当に、一直線に進んでいるんですね」
「そう見えるかい」
「はい。迷いがないと思ってしまうくらい」
「はは。まあ、じゃあそういうことにしておこうかな。高専とのパイプに関しては、悟に声をかけるといいよ。あれほど頼りになる奴もいないだろう」
じゃあね、と駅の方へ進んでいく夏油は、細かい後始末をしてから帰るらしい。その背中に頭を下げて、七海も帰路についた。
*
「傑の残穢」
開口一番、そう言い放ったのは五条だ。最終出勤日を終えたその足で待ち合わせ先に出向いた七海へ放たれたのは、挨拶でもなく、そんな一言だった。
「七海が呪術師に戻るのはいいよ。地獄へようこそ。でもさ、なに? もしかして傑に会った?」
「数日前ですよ」
「数日前!」
落ち着いたジャズがかかる店内で、長身の男二人は目立つ。一人は色のない髪、一人は淡い金髪だ。カウンターチェアに腰掛けてもなお余る足の長さ。加えて、どちらの容姿も整っているとなれば注目の的だった。
「五条さん、声のトーンを落としてください」
「これが黙っていられるかよ。なんなんだよ、マジで」
「……夏油さんと何かあったのですか」
「何か⁉ 何かあるもなにも、始まる前に、クソッ」
憂いを帯びた表情で、ノンアルコールカクテルをあおる姿は嫌になるほど絵になる。各方向から秋波を送られていることに気づいているのかいないのか。五条は空になったグラスから視線を外さない。
「高専とのパイプ役ね。いいよいいよ、やってやるよ。信頼できる仲間が増えるのは大歓迎だ。マスター、同じのもう一杯頂戴。絶対アルコール入れないで」
はあ、とため息と吐いた五条はそのままカウンターに伏せる。ふわふわとした旋毛を見下ろして、七海は首を傾げた。
「本当に何があったんですか。先日お会いした夏油さんには変わったところはありませんでした。以前と同じように、目標に向かって全力で邁進されている」
「……だろうね」
ぼそりと呟いて立ち上がった五条は、何枚かの札をカウンターに置くとそのまま去ろうとしてしまう。
「注文したカクテルはどうするんですか」
「七海が飲んどいて」
ひらひらと振り返らないまま手を振った背中が見えなくなった頃、注文したノンアルコールカクテルが届いた。
「……」
柑橘類の酸味とパイナップルの香りが爽やかなカクテルだ。七海にとっては甘すぎるそれを飲み下す。何とも言えない後味を感じながら、世話になった二人の先輩達の行く末が明るいものになるよう祈るほかなかった。
第三話 五条の話
いくつの星がついた店だったかは忘れたが、雰囲気の良い店内には会話を邪魔しない程度の音楽が流れている。上質な素材で作られた料理と、厳選された酒を提供するレストランだ。客層もそれなりのようで、二人の時間が邪魔される気配はない。
目の前の親友は、酒の影響か頬を赤らめて上機嫌だ。そんな夏油の楽しそうな姿を久しぶりに見て、五条の頬が緩む。
理想を追い求める夏油は呪術高専を卒業後、フリーの呪術師として動き始めた。特級呪術師の九十九とつるんで海外に行ったり、ほとんど力のない術師を保護するシェルターのような場所を作っては人を集め続けている。
今や、呪術高専からしても無視できないほど大きな外部組織になりつつあると言ってもいいだろう。
昔から、五条相手でも正論を言うような奴だった。夏油が語る理想は、呪術界に馴染み過ぎた五条にとってはあまりにもお綺麗で、現実離れしていた。もしも、別の誰かが語ったならば、鼻で笑って相手にもしなかっただろう。他でもない夏油が言うからこそ、人は心動かされ、励まされ、ついていこうと思うのだ。
「今回の料理も美味しいね。悟は本当に食通だ」
「まあね」
嘘だ。毎回、夏油と時間が合うと分かるや否や、全力で美味い料理と酒が提供される店を探し出している。直前で互いの予定が合わなくなることだって珍しくないが、それでもよかった。
学生の頃と違って、大人になった今では食事を共にするのも難しい。それぞれが抱える責任や立場が邪魔をするからだ。
この食事の場だって、半年ぶりだった。何度か予定が流れた末に、やっと実現したのである。
何故、こんなにも全力を尽くして夏油と会おうとするのか。人は疑問に思うだろう。それは、ひとえに、この理想へ向かって一直線に邁進する親友のことを、五条が好いているからだ。
自覚したのはいつだっただろう。夏油が呪術高専を離れると告げた時だったかもしれないし、九十九と海外に飛んだ時だったかもしれない。いずれにせよ、その前から感情の芽は育っており、すくすくと五条の心に根をはっていたことは確かだ。
伝えるつもりは微塵もなかった。今の関係で十分だと本気で思っていた。時々会って、食事をして、他愛のない会話をする。もう少し時間があれば、新しい戦法の相談をしたり、実戦をしたりするのだ。十分だ。満たされている。そう思っていたはずなのに。
「好きだ」
気づけば、これまで出したことがないくらい甘ったるい声が自分の口から零れていた。夏油の切れ長な目がぱちりと瞬く。そういうところも、全部、全部。
「オマエが好き」
後で知ったことなのだが、デザートのチーズケーキにラム酒が使われていたらしい。つまるところ、酒でうっかり本音を漏らしてしまったということである。
*
目覚まし時計よりも早く目が覚める。数秒後に鳴り始めた時計を術式で破壊した。これで何個目だろう。もう数えるのをやめて久しい。
夏油と最後に食事をして、一か月が経った。あの日、ぽやぽやとした思考のまま寝落ち、気づいたら自宅の寝室にいた。ぼんやりとした思考のまま周りを見て、急速に覚醒する。何か、マズいことを言わなかったか。言った。確実に言った。その後、いったいどうした?
慌てて夏油に連絡をとるも、自動電話に切り替わってしまう。きっと、忙しいだけだ。何日か連絡がつかないことだってざらにある。そう思いたかったが、脳内の冷静な部分は、夏油に避けられているのではないか、という結論を出していた。
端末をベッドに投げ捨て、ため息を吐く。最悪だ。これまで上手くやってきていたのに。きっと混乱させた。友人だと思っていた相手に、告白されるなんて。
五条は友人に告白された経験はないから、どんな気持ちになるのかは分からない。その友人が夏油ならば、と考えて意味のないことだと思考を止めた。そうなったとて、五条は全く困らないどころか嬉しいだけだからだ。
「あー……」
らしくないことは分かっている。普段の五条ならば、きっぱりと切り替えて日常を送るだろう。人生の九割の事象に対してそのような対応ができると自負している。残り一割。夏油のことに関してだけは、自分でも驚くほど切り替えが上手くいかないのだった。
「あーっ!」
とはいえ、地球はまわるので、五条も動き出さなければならない。呪術高専卒業後から本格的に五条家当主としての仕事を始めてから、暇な日など一日もなかった。
「五条さんの後輩ですよね、灰原さんって」
呪術高専から五条家に依頼された任務をこなし、夜蛾をからかいがてら報告のために古い校舎を訪れていた五条は、すれ違った補助監督の言葉に目を瞬かせた。
「そうだけど」
「なんでも、来年度から高専の教員として採用されるようですよ」
「へえ」
久しぶりに懐かしい名前を聞いた。そして、嬉しい情報だ。夏油が理想を目指して突き進むように、五条とて現在の呪術界に思うところがないわけではない。変えられる部分は変えて、過ごしやすくするべきだ。自分だけではなく、仲間達も。
この仲間達という認識ができたのは、呪術高専に通い、夏油や家入、後輩達と交流をもったからだろう。彼らと過ごすうちに得た変化を、五条は悪くないと思っている。
「灰原さん、わざわざ高専に挨拶に来たんですよ。なんでも、尊敬する先輩に会って、背中を押されて来ましたって職員室で挨拶したとか」
「……尊敬する先輩?」
「え、あ、はい。あっ、そうか、もしかしなくても五条さんのことですかね」
よかったですね、と笑う補助監督に適当な返事をしてその場を去る。五条ではない。恐らく、家入でもないだろう。となると、残るは夏油だけだ。夏油は灰原と会ったのか。もやもやとした感情が腹の底で渦巻く。俺には会わないのに?
ガキのように喚いてやってもよかったが、そうはしなかった。灰原に確認してからでも遅くないと思ったからだ。結局、このひと月の間に灰原は夏油と会っていたし、なんなら七海とも会っていた。
全身にどす黒い呪力を帯びながら呪術高専の廊下を歩く。そして、目当ての部屋に入るなり、大声で叫んだ。
「しょーうこちゃん! 酒の失敗談聞かせて!」
「ない」
「人選ミス!」
誰も使っていないベッドに倒れ込む。迷惑そうな顔を隠しもしない家入は、旧知の勘で何かを察したのか、それ以上踏み込んでこなかった。
「何があったか、聞かないの」
「はあ。聞いたら答えるのか」
「言わないけど」
空になったペットボトルを五条に投げつける。無下限呪術を解いているのだろう。ぽこん、と間抜けな音をたててそれは当たった。
「いい歳してんだから、話し合いなよ」
「そのスタートラインにも立てなかったらどうしたらいいわけ」
「へえ」
意味ありげな声色で笑う家入に、五条が伏せていた顔を上げる。かつての同級生は片眉を器用にあげて笑っていた。
「五条ともあろうものが、怖気づいてるんだ」
「あのさ、こっちだって慎重になる時があるわけ」
「ふうん? 五条が相手してる奴って、そんな調子でもやり合えるんだっけ」
誰と、どうしたかなんて話していない。だというのに、この様子では知られているようだ。驚いて家入の顔をまじまじと見つめると、呆れたように首を振られた。
「五条の様子がおかしくなるのなんて、昔から一人限定でしょ。それで? どうすんの」
あまりにも自信ありげにそう言われて、そして、それが正しいので落ち着かない気分になってくる。けれど、家入の言わんとするところは伝わったので、灰原と七海に連絡をして、一芝居打ってもらうことにした。
*
「どうしてここに来るのが分かったと思う?」
灰原と七海から呼び出されたのであろう。カジュアルな格好をした夏油が立っている。最近できたバルは、料理も酒も美味いと好評だ。結局、真剣に店選びをしてしまった自分に苦笑しながら隣の席を引く。夏油はためらわずに腰掛けた。
「そうだね。その六眼にオプションとして千里眼でもついたのでなければ、誰かに聞いたんだろう」
「当たり! オマエさ、最近、灰原や七海に会っただろ」
「はは、君には会わないくせにって?」
「分かってんなら避けてんじゃねえよ」
「そういうつもりは、なかったんだけどね」
結果的にそうなっていたから同じか、と呟いた夏油は、さっそく酒とつまみを注文している。当たり前のように五条の注文も尋ねられたので、ノンアルコールカクテルとデザートを注文した。
「それで?」
客席の間を滑るように移動する店員を目で追いながら、夏油が尋ねる。
「どうしてあの時、突然あんなことを言ったんだ」
開戦の合図だった。まどろっこしいことは抜きで、本題から入ろうというわけだ。
「それって重要?」
「私にとっては」
「ああそう」
こんな時なのに、しっかりとセットしてきた髪をぐしゃりと乱す。なんなら、靴の先から靴下まで完璧な格好で来ている。いつだってそうだ。夏油と会う時は、そうしたかったから。そんな自分が無性に腹立たしくて、空しくて、もう一度大きな声で、ああそう! と吐き捨てる。
「じゃあ言うけど。特別な理由なんかねえよ。積もり積もって、積もりすぎて、このまま墓場に持っていくつもりだった感情が、オマエの! 久しぶりに見た笑顔で! この俺が! 骨の髄まで呪術師の俺が! 抱えてた感情に耐えられなくなったんだよ!」
届いたノンアルコールカクテルを一気に飲み干す。
「それだけ」
少しだけ乱暴にグラスをテーブルに置いた。
「悟」
「ああ、なに? 墓場まで持っていくつもりなら最期までちゃんと持っていけって? じゃあここを墓場にしたら問題ないな? 俺の理想の死に方とは違うけど、最期にオマエの間抜け面を見れるなら、まあまあいい感じだ」
「好きだよ」
「は?」
アルコールなど入っていないにも関わらず、勢いよく回っていた舌がぴたりと止まる。今、信じられない言葉を聞いたような気がした。
「悟のことが好きだよ、結構前から」
その時、五条は初めて知った。夏油という男はこんな顔で人を殺すのだと。大げさでなく、五条の心臓は夏油によって一瞬とめられたのだから。浅くなった呼吸を努めて正常に戻す。それでもまだ、脳は混乱したままだった。
「は、なに。今までそんな素振り見せなかった。オマエはずっと脇目もふらず先のことばかり見てて、俺のことなんて見てなかった」
「いつのことを思い出して言っているのかは知らないが、こうは考えなかったのか? 私ががむしゃらに未来を追いかけられたのは、そうできるくらいに揺るぎない心の杖があったからだって」
「それが俺だって言いたいわけ? 都合よすぎるだろ」
声は震えていなかっただろうか。夏油の眉間に皺が寄る。
「私にとって?」
「俺にとって」
だって、そうだろう。これまで考えてもみなかったことだ。出会ってからずっと、隣に並んで歩いていた。気づけば夏油は理想の未来とやらを描いていて、五条はそれに追いつきそびれた。今の今まで、そう思って生きていた。
「はは。私はね、悟。君が自分の可能性を追い求めて鍛錬を積んで試行錯誤する背中を見るのが嫌いじゃないよ。歴代最強の無下限呪術使いが、まだ見ぬ明日を貪欲に追い求めているんだ。この世の中には未来へと繋がる無数の道があって、やり方次第ではどんな道でも選べるんだって、希望が持てる気さえしてくる」
目を閉じて語る夏油の言葉を、一つも聞き漏らさぬよう耳を澄ます。気づけば祈るように指を組んでいた。
「私は、君と対比して、歴代最強の呪霊操術使いだなんて呼ばれているけれど、自分一人のことを最強だとは思わないんだ。謙遜じゃない。私が強いことは確かだ。でもね。仮に、悟が最強の無下限呪術使いじゃなくても、私が最強の呪霊操術使いじゃなくても、ただ君と一緒に居る自分ってものを想像すると、無敵になったような気がする。こういうのを何と呼ぶのかは知らないけれど、悟は確かに私の心の支えさ」
夏油の手が、五条の手に触れる。しっかりとした戦う者の手が重なって、その温度に眩暈がしそうだった。
「私が脇目もふらずに生きているように見えたのなら、その内側にはいつも悟がいたことを忘れないで欲しい。するとどうだ? 私ってすごく一途じゃないか」
「……うるせえ、もう、マジでなんなの。俺は、てっきり……つーか、空想の男より、現実の俺の方がいいに決まってんじゃん。そんな奴を支えにしないで、俺にしろよ」
「いやだから、君なんだって」
「口元が笑ってんだよ。意味わかってるんだろ。ほら、手え広げろって。現実の悟くんがオマエを抱きしめて心だけじゃなくて全部の支えになってやるから」
「大盤振る舞いだな。そこまでしてもらうつもりはなかったんだけど」
「今さら清貧ぶってんじゃねえよ」
「喧嘩売ってる?」
「今日はもう店じまいした。なあ、全部支えてやるから、俺ごと連れていけ。そんで、オマエもずっとそばに居て。俺を支えて」
酒に酔った客の奇行だと流してくれないだろうか。広げられた腕の中に飛び込み、かき抱くように腕をまわす。ひと月前の自分に言っても信じられないようなことが、今、起きていた。
「悟」
柔らかい声が振ってくる。そんな優しそうな声色で、ここは公共の場だから離れろなんて正論を言うつもりだろう。従わないぞの意味を込めて、肩口に額を押し当てる。
「顔をあげて」
「やだ」
駄々をこねる子どものように頭を振る。
「さとる」
「……なんだよ」
「キスをしよう」
「する」
即答して顔を上げれば、おかしそうに笑う夏油と目が合った。意気揚々と目を閉じて顔を傾けたというのに、柔らかいものは額に触れて離れていった。
「ここは公共の場だからね」
「し、信じらんねえ……! ここまでしといて」
「だから」
夏油の顔が近づいてきて、耳元に口が寄せられる。
「はやく二人きりになれる場所に行こ、うわ⁉」
「店出るぞ」
「ちょ、悟、会計は⁉」
「テーブルに金置いてきた。足りるだろ」
「それじゃ店の人が困るだろう」
「そんなに言うなら選ばせてやるけど。ここで大人しく店を出て店員が困るか、駄々こねて店にとどまってオマエが困ることになるか。どっちがいい」
「……」
「よし、じゃあ決まり。ほら行くぞ」
「……ああもう」
しっかりと繋いだ手をそのままに街灯に照らされた夜道を歩く。まるで全世界が輝いているような錯覚に、どんどん歩く速さが上がり、最後の方はほとんど走るくらいの速さで店から一番近いセーフティハウスへとなだれ込んだ。
*
「ていうかさ、なんで避けてたの」
「避けてたわけじゃないってば」
「今さら隠したって意味ないんだから、言えよ」
文字通り丸裸なのだ。この期に及んで隠す必要もないだろう。そう言えば、苦虫を嚙み潰したような顔で夏油は話し始めた。
「だって、悟、酒に酔ってただろう」
「うん」
それがどうしたというのか。本気で意味が分からず、首を傾げる。すると、半ば怒ったような勢いで夏油は続けた。
「酔った勢いで思ってもないことを言って、それを本気にしたら馬鹿みたいだろう。笑いたきゃ笑えよ。私にだって、臆病になることくらいあるんだ」
言いながら背中を丸め、布団に潜り込んでしまった夏油を後ろから抱きしめる。
「笑わねえよ」
「笑ってるだろう。振動で分かるんだからな」
「だから、わらってねえって」
声が震えるのは本当に笑っているからではなくて、心底安心したからだ。きっと、夏油にはバレているけれど、それでいい。くるりと向きを変えた夏油の胸に耳を当てて心臓の音を聞く。この中に俺がいると夏油は言う。その鼓動を聞きながら、俺の中に住んでいる夏油の鼓動にも耳を澄ませた。
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