@setunagi
美しい男を見た。本当に、美しい男だった。
心拍が上がった。周囲にひらひらと蝶が飛んでいるようにも見えたけれど、底冷えするほどアスファルトの冷たいこの冬に、ましてや花も咲かないような薄暗い倉庫の中で、蝶なんて飛ぶはずはないのだ。そう分かっているのに、男の周りには蝶が飛んでいた。
「おや、随分と大人しいね。まぁ暴れられるよりは良いのだけれど」
美しい男はそう言うと、視線をゆっくりと下から上に這わせた。自分の体を、姿を吟味されているのだと分かった瞬間、なんだかとても居た堪れないような、それでいてその炎に焼かれているこの瞬間がどうにも尊いような、そんな気持ちが胸を満たす。見て欲しいのに、見て欲しくない。こんなに美しい瞳に射抜かれていると、なんだか自分が世界で最も醜い存在なのではないかと思えてしまうのだから恐ろしい。どうせ、どうせならばいっそ全部、その炎で焼き尽くして欲しいとすら、思ってしまう。
「ふふ、恐れすら忘れてしまったならば生き物としての尊厳も矜持も捨てたのと同然だね。見たところ学はあるようだけれど、その代わりに本能を置いてきてしまったのかね? もしくはまだ状況を呑み込めていないのか? 君、これから僕に殺されるのだけれど」
丁寧にそうご高説を垂れたその美しい男は、まるで自分の言葉を裏打ちするかのように、上に羽織ったジャケットの内側に手を入れると中から何かを取り出す。すらりと長い指先に握られているそれはきらりと鈍色に反射し瞳孔を突いたけれど、それでもやはり目の前の男の美しさを侵すには足りなくて、結局視線は美しい男に絡め取られたままだった。
「神様…………?」
自然と、口から突いて出た言葉。男はそれに驚いた様子もなく、薄い唇を吊り上げて喉の奥でくつくつと笑う。まるで何度だって言われ慣れているような、自分が光を纏うのが当たり前のような、そんな微笑だった。
「そうだよ。良かっただろう、光栄に思いたまえ」
その言葉と共に、視界が赤に染まった。彼の持った物が目の前まで迫ってようやく、それが鋭いメスだということが分かった。音も鳴らないほど丁寧に眼窟に潜り込んだその切先は、視神経を断ち切るかのようにぐるりと眼球をくり抜き、冷たい感触だけを残していく。自分の喉から悲鳴が漏れ出ていると気が付いたのは、耳障りだとでも言いたげに口の中に布の塊を詰められてからだった。
視界が赤くなっていく。神様はもう見えない。
「影片、ただいま」
歌うように、奏でるように。唇から紡がれた言葉は旋律となり、真っ暗な部屋に響く。宗は右手を伸ばすと壁から飛び出たスイッチを探り、パチンと押し込んだ。途端に部屋の中に橙の光が灯る。宗は明かりの灯った部屋を見て、満足げに笑った。
「ふふ、ご覧よ。あぁ、ご覧……と言っても今はまだ君の瞳は僕を反射するのみだね。でも大丈夫、今にそれを新しいものと取り替えてあげるから」
トントンと硬い革靴の音を響かせ、宗は部屋の奥へと進んでいく。宗の好みのまま、分厚いカーテンや光を反射するアンティークで揃えられた部屋の真ん中には、ソファに凭れるようにして座っている一人の青年がいた。
艶のない髪は毛先の長さだけが揃い、乾燥したまま鼻の上まで伸びている。ソファに力無く凭れた体には、採寸をしてぴったりと輪郭に沿ったシルクのシャツと、金の刺繍が施されたパンツがあつらわれていた。しかしその袖や裾から伸びる手足は土気色に鈍り、爪は今にも剥がれ落ちそうなほど乾いてぼろぼろになっている。
「あぁ、やはり二十を超えた人間は駄目だね、劣化が早い。こんなに痛ましい姿になって、可哀想に……」
宗は膝を汚すことも厭わず、ソファに凭れた青年の前に傅くと、その右手を取ってそっと口付けた。紫焔の燻る瞳には哀れみと悲しみが透けている。宗はそのまま青年を見上げ、安心させるように笑った。
「でもほら、大丈夫。今日の人間はまだ若かったからね。それに、君の左目によく似た青い瞳を持っていたんだ。ようやく君の瞳に僕を映してもらえると思うと心が踊るよ」
そう言いながら宗は内ポケットを漁り、そこから透明のガラス瓶を取り出した。中には綺麗な球体がひとつ。うっすらと赤みを混ぜた液体の中には、宗が先ほど調達したばかりの青い瞳が沈んでいた。
「その硝子の瞳も素敵だったけれど、これでようやくまたあのときの君の姿に一歩近付くんだ。そのまま僕の顔を見て笑っておくれ、愛しい人」
宗は青年の右手を恭しくソファの上に置き直し、手の中の小瓶を青年の顔の横に掲げた。
「…………?」
そして、首を傾げる。手の中の硝子瓶と青年の顔を見比べた宗は、そのまま眉間に皺を寄せ、深く深くため息を吐いた。部屋の中の空気が重くなる。
「僕としたことが……迂闊だったね。君の瞳はもっと、こんなにも美しいのに。あぁ、久方ぶりに青い瞳の人間を見つけたから浮き足だってしまったのだろう。恥ずかしい限りだよ、笑ってくれたって、罵ってくれたっていい。むしろそうして欲しいくらいだ。僕は、僕だけは、君の美しさを見誤ってはいけなかったのに」
一息でそれだけ言うと、宗は硝子瓶を固い床に叩きつけた。パリン、と甲高い音が鳴って、薄い硝子はいとも簡単に粉々になる。中を満たしていた液体が床の上に広がり、柔らかな眼球が跳ねた。
宗は青年の前に傅いたまま、額を抑え深々とため息を吐く。右手にどろりとした感覚を覚え手を掲げると、割れた硝子が跳ねたのか、指先がざっくりと切れ血が滴っていた。だくだくと溢れるその真紅を虚ろな目で眺め、宗は長い睫毛を伏せる。
次に顔を上げたとき、そのかんばせから哀しみの色は消えていた。宗はその場に立ち上がると、ソファに凭れた青年の頬に手を滑らせ、血の滴った指先で唇を撫でる。真っ白な肌に咲いた真っ赤な薔薇を見下ろしながら、宗は蠱惑的に笑った。
「大丈夫、すぐにまた新しいパーツを見つけてくるのだよ。そうしたらまた朝まで踊ろう。君を見つけたあの日のように。ねぇ、影片」
マザーグースのようにそう口ずさんだところで、目の前の青年はそれに応えない。それでも宗の脳の中では、彼の腑抜けた声がはっきりと響いていた。頬を上気させ、猫のように目を細め、いっとう幸せそうに微笑むその姿が、宗の目にははっきりと映っていた。
ハッシュ・リトル・ベイビー。ハッシュ・リトル・ベイビー。瞬きのひとつもしないその青年をあやすかのように、宗は静かに歌う。モノマネ鳥が歌わなければ、僕が硝子の目玉を買ってあげる。硝子の目玉が割れたのなら、僕が本物の瞳を嵌めてあげる。
小さい子供に聴かせるようなその歌声を、誰よりも優しい横顔を、床に転がった青い瞳だけがじっと見つめていた。