少しだけ痛い内容を含みます / アジクロ
@otohitoe_
昼過ぎ。アジラフェルの書店の電話がけたたましく鳴った。
何故だか時々、こんなふうに妙に耳に響くベルの音で受話器を取る前にクロウリーからだとわかることがある。
『布を用意して待っていてくれ』
「クロウ…え?ええと、布?」
『何でもいい。いや、タオルがいい、バスタオルだ。水をよく吸うでかい布なら、何でも』
「わかったけど、どうし…」
『あと少しで着く』
そこでクロウリーからの音声は途絶えた。
取り敢えず言われた通りに二階のバスルームからバスタオルをあるだけ持って下りたあと、店の中に一人いた客もわざと慌ただしく部屋中を歩き回りどたばたと必要のない模様替えをしようとしている振りをして帰るよう仕向け、ドアのプレートを“閉店”にする。ついでに、一応窓のブラインドも全て下ろしておいた。
あと少しってどれくらいだろう。ああ、電話がきた時間を見ていなかった。
ある程度は体感としての時間を追えるが、ことクロウリーのこととなると極端に短くも長くも感じてしまう。電話のベル以上の剣幕で店の前にベントレーが停まったのはそう思ってから10分ほど経った頃だった。
積み重なったバスタオルを抱えたままうろうろしながら待っていたアジラフェルがドアのほうへ寄ると、バン!と荒々しく開け放たれるのと同時にクロウリーがのめり込むように店内へ滑り込んできた。
開けられたときと同じ勢いで大きな音を立ててドアが閉まるや否や、クロウリーは着ていたシャツを床に叩きつけるように投げ捨て、アジラフェルから取り上げたタオルを顔へ押し当てた。
「濡れたの?通り雨にあった?」
クロウリーはアジラフェルの問いには答えないまま慌ただしくタオルを身体に当てては放る。やがて、その様子にアジラフェルははっとした。
「これ…聖水?」
「ちが、」
「クロウリー!」
言葉の途中でがくんと体から力が抜け出たように崩れるクロウリーの体をすんでのところで支えると、確かに“何か”が焦げたようなにおいがした。これほど寄らないと気付かないなんて鈍すぎる。タオルが床に落ちて露わになった顔も半分が火傷を負ったように爛れていた。
「クロウリー…!何が…どうして、」
「大丈夫、大丈夫だ。到底本物とは言えないやつだから…」
その場でゆっくりと膝を折り、クロウリーの体を下ろして肩を抱く。火傷を負っているのは主に体の左側だった。
「それより、あんまり近付くな…服が汚れるぞ…」
「わざと言ってる?こんなときにそんな冗談…」
怒りとも呆れともつかない感情を覚えながら、アジラフェルはクロウリーの体に向けて掌を翳し、体に残る聖水らしき水を宙に集めた。一滴残らず集めあげたそれはワイングラス一杯分ほどの水の塊になった。確かにクロウリーの言う通り純粋な聖水ではないようだ。混じりものがかなり多い。というより、何かに聖水が混入したという言い方のほうが近い。これがもし本物だったなら悪魔一人を溶かすくらい十分すぎる量だ。
アジラフェルは身震いがして、それをキッチンシンクへ放った。
「はは…聖水を下水に流したのか?なかなかのワルだな、天使様…」
「笑いごとじゃない、クロウリー…ああクロウリー、聖水だなんて…」
「本物じゃないって…」
「当たり前だ、じゃなきゃ、」
この程度で済んではいない。アジラフェルはぎゅうっとクロウリーの体を抱きしめた。今負っている火傷も酷いとはいえ、消えていたかもしれないと思えばよっぽどましに思えた。恐怖と安堵でぐちゃぐちゃで、体の中心のずっと奥の深い場所がぎりぎりと締め付けられるようだった。
「アジラフェル」
「…とにかく、寝室へ行こう。休んだほうがいい。傷もよく見たいし」
アジラフェルはその体勢のままぱっと寝室のベッドの上に移り、クロウリーを横たえてすぐにトラウザーズと下着、靴下もみんな残らず剥ぎ取った。クロウリーは抵抗もせずただされるがままになっていた。文句を言う気力すらないのかと、それもまたアジラフェルの心配を募らせた。
下半身にそれほど負傷は無かったが、上半身、特に顔から肩、胸にかけてが酷く、どうあの聖水もどきを掛けられたのかがよくわかる。
「痛そうだ…」
「これでもジャケットのおかげで助かった。人間の作ったやつを着てたから…」
「奇跡による手直しも無しの?それでジャケットだけ脱いできたのか…今は車の中?」
「ああ」
「あとでわたしが処理しておく。車の中も外もしっかり点検して…ああ、さっき脱ぎ捨てたシャツもだね。ジャケット以外も脱いできてしまえばよかったのに…」
「他のは既製品じゃない。おれが“創った”やつだ。着てても脱いでても変わらない」
「入ってきてすぐ脱いだくせに」
「…まあ、だから、体は守っちゃくれなかったが、ほら、結果的には良かっただろ。本屋にまた裸の男が訪ねてきたなんて噂をさせることになったかもしれないし」
「それは…」
過去の出来事を思い出して苦笑したが、シーツを掛けてやりながらその顔を見下ろしてみると、冗談で言っているのではなくどうも本気らしい。アジラフェルは呆れてしまった。
「クロウリー、そんなこと…きみはただの男じゃない。いいんだ、わたしの大事な親友で、特別なんだから、どんな姿でだってここに来ておかしくないし、どんな噂が立ったって構わない。そんなの気にすることじゃない…」
ベッドの縁に腰掛けてひんやりとした両頬を包み、無事だったほうの目元を親指で撫でながらそう説き聞かせた。こんなこともはや言うまでもないはずなのに。よっぽど弱っているのだろう。
クロウリーの返事は無かったが、わかった?と尋ねるとゆっくりと一度頷いた。
「いくらか顔色が良くなったね」
「そりゃあ、天使のすみかの、しかもベッドルームにいるんだからな。地球で一番安全な場所だ」
「…そうかな」
「しかもおれにとって一番安全な天使付き」
クロウリーはおそらくわざと、火傷を負っているほうの頬をアジラフェルの手のひらに擦り寄せてきた。平気だと言いたいのだろうが…
「経緯を話せる?嫌なら構わないけど」
「大した話じゃない…が、まあ、助けてもらったんだから事情は話すべきだよな…」
クロウリーが言うには、ここから少し離れたあまり治安の良くないバーで酩酊した司祭に例の聖水もどきを掛けられたのだと。元は単なる水道水だったらしい。その場でなんらかを施したに違いないが、陽も落ちきらないうちから人に向かって水を浴びせつけるほど酔っぱらうような司祭だから、中途半端な聖水もどきにしかならなかったのだろう。
「どうしてきみに聖水を掛けようと?」
「おれのことを悪魔だって言って」
「それはどうしてわかったんだ?」
「あー…」
「不用意に悪魔ジョークを言ったんだね。気を付けて…というか、もうあんまりそういうところには行かないでほしいけど…」
「ああいうとこにいると落ち着くんだよ…悪魔だから…」
「昼間からそういう店に行って酩酊するような司祭で良かった」
「ふ…良くないだろ、天使にとっちゃ」
いつもより険のないように見える、ふにゃりとした微笑みが尚のこと痛々しい。何かしてほしいことがないか尋ねても、クロウリーはゆるく首を横に振るだけだった。
「クロウリー、ごめん…わたしにはたぶん聖水のダメージを受けた悪魔の体を治す力はないんだ…」
「大丈夫だって…考えてみろ、おまえならわかるだろ?もし死ぬなら、おれはここには来てない」
「そんな言葉で信じさせようとしないでくれ」
「だから大丈夫だって言いたいんだ。何も心配ない。おまえが一滴残らず下水に流してくれたおかげでな。大丈夫。大丈夫だ…」
クロウリーは宥めるような声色で言いながらアジラフェルの手首にそっと触れた。これじゃどちらが介抱しているのかわからない…と苦く笑ったアジラフェルだが、その爛れた手が震えているのを見て思わずぎくりとした。アジラフェルの反応で初めてクロウリーも気付いたらしかった。
「はは、震えてやがる。怖いわけじゃないんだぜ、本当に。そりゃ最初はちょっとはびびったけど今はもう全然。これは本能ってやつだな。本当に何とも思ってないんだ、少しも…」
「怖かったね」
「…怖くないって」
「わたしは今も怖いよ…」
「これだって見た目ほど酷くはない。寝てれば治る」
「どれくらい?」
「支障なく動かせるまでは…ひと月半かな。跡形もなく消えるまでって話ならわからない。百年くらいかかったこともあるし」
引っ掛かる話が出てきたが、今は黙って胸に仕舞っておいた。
「眠る前に、何かしてほしいことがあったら言って。冷やしたほうが気持ちよかったりする?」
「しなくていい、別に何も…普段通りに生活していてくれ。朝になったら本屋を開けて、人間を入れて、飯を食ったり、どこかへ散歩したり」
「まさか。きみから目を離さない。ずっとここにいる」
「ひと月寝てても?」
「大した時間じゃない。勿論一人で過ごしたいならそれを尊重する。わたしはただきみがここにいるのが、…」
「なんだ」
「…ごめん」
「なんだよ」
「…うれしいんだ。そういう状態になったとき、きみの中に、ここに、わたしの傍にいてくれるっていう選択肢があって、それを選んでくれたんだと思うと、すごくうれしい…」
「………」
「どんな選択だってできたのに、すぐにわたしに電話をくれて、大急ぎでここに来てくれた。きみの寄す処になれているのがうれしいんだ。よくわたしのところに来てくれたね、クロウリー。ありがとう。…ああ、いや、うん…やっぱり無し、本当にごめん。少なくとも今のきみに言うことじゃないよね」
「いや…」
「眠って。話の続きはきみが起きてからにしよう」
シーツの端を撫でてデスクの前に移ろうとしたアジラフェルの太腿に、寝返ったクロウリーの手が引き留めるように添えられた。
「おれもひとつ謝ってやる」
上げかけた腰を再び下ろし、赤い手に自分のそれを重ねて続きを促す。
「きみに謝ることが?」
「おまえがそんなふうに、おれのことを痛ましそうな顔して見てるのが、おれは少しうれしい」
クロウリーは意地悪を言ってやったという顔で言う。実際そう思っているのだろう。けれど、アジラフェルが心を引き裂かれる一番の出来事が起こってしまったときにはそれすらさせてくれないのはさっき白状してしまっている。さっきのあれのほうがよっぽど意地が悪かった。そのことにまだ気付いていないのかもしれない。それほどまでに余裕が無い状態なのだろう。
「そんなの、謝らなくていい」
「だろ?」
「だからわたしも謝らなくていいって言いたい?」
「そう」
「きみは優しいね」
「もっとおれが喜ぶ言い方をしてくれ…」
「………」
「おれのこと好きか?」
「好きに決まってる」
「よし」
「きみは言ってくれないの?」
「起きたらな…」
クロウリーはふ…と微笑んで太腿の上の掌を返し、やんわりとアジラフェルの手を握り返した。ここにいてもいいということらしい。
「きみが眠るまで手を握っていてもいい?」
「うん…」
クロウリーの瞼が落ちるのと同時に、アジラフェルは部屋のカーテンをぴたりと閉め、部屋を影で満たした。
そうしてクロウリーが眠りについて三日経った夜。
宣言した通り、アジラフェルは寝室から出ることはおろかその場から少しも動かず、クロウリーの手を握ったままずっとベッドの傍で見守っていた。
本人はひと月ほどで支障ない程度には治ると言っていたが、アジラフェルの目には三日前から全く変わっていないように見える。
こうしてただ寝息を聞いているだけの時間はもどかしくてつらくて悲しい。つらいのはクロウリーのほうなのに。
「………」
本当にできることは何もないのか、アジラフェルは考えた。
クロウリーの体もまた地球で過ごすための器のはずだ。だから触れあえる。触れれば爆ぜて消えてしまう反物質であるお互いの本質とは離れた理にある。そうだ、そのはずだ。
(だとしたら、)
わたしにもきっと治す手段はあるはずだ。
爛れた頬にそっと触れ、クロウリーではなくこの肉の体だけを感じる。自分との境界にある感触をぼやけさせ、意識の外へ追い遣る。呼吸を揃え、体温を合わせ、そうしてアジラフェルの頭の中で、ひとつの体になる。
すると、じり、と目の端が翳った。頬に触れてみれば表皮がざらりともぬめりともしていて、ああ焼けている、とわかった。
(よかった、うまくいった)
アジラフェルの狙い通り、クロウリーの傷が自分の肉体に移っている。突飛な思い付きだったがうまくいったようだ。
これが可能となればもうあとは簡単な話だ。自分の体を治すことなら致命傷でもない限り極めて容易い。
見下ろしたクロウリーの痛々しい横顔。まだ完全に移しきれていない。
なんとなしに同じ場所に移したが、自分の見えない場所だと治りが見えずわかりにくくあまりうまい手ではない。今度は傷に触れている手のひら、その甲に移すことにした。これは良いアイディアで、触れているだけで傷を移し、治るところまで確認することができた。
アジラフェルは火傷の重い場所から順に触れ、丁寧に傷を移していった。一番深い熱傷だと、本物の人間の肉体だったなら切って除かなければならないかも…という箇所もあった。
傷に触れるたび、肌の内側から炙られていような痛みと共に模様のような傷がちりちりと小さな音を立てて浮かび上がる。痛みこそあるが、クロウリーのそれと比べれば大したものではないだろう。
最初は金色。それから赤黒いじくじくとした火傷に変わり、金色を縁取りながら広がっていく。間違いなく肉の器のはずだが、肉の焼ける匂いに混じって、不思議と心地好い香りがするような気がした。上質な紅茶のような、散る間際の花のような、決して悪くない、むしろ好ましい香りだった。
このようなことに喜びを見出しては悪いだろうか…と、クロウリーの横顔を見つめてちらと思った。
生まれた痕を逆再生するように修復していくその手で、爛れた肌をそっと撫でた。かわいそうに、こんなものをいっぺんにその身に受けて、どうしようもないまま一人でここまで来て、どれだけ痛かったか。どれだけ怖かったか。だってあんなに震えていた。
(クロウリー)
きみはこんな脅威の傍で、それでもわたしを守っていてくれていたんだね。わたしはそれがずっと怖かったんだ。
その怖れを知ったのはきみが聖水を欲しがったときだった。今のきみの姿を先に見ていたら、渡すことはなかったかもしれないな。いや、どうだろう。危険を冒しても欲しいのなら、やっぱりあげたかもな。どうしても冒さなければならない危険なら、そしてそのリスクをわたしが減らせるのなら、そうしない理由はない。そしてそれができると、できないはずがないと、本当に信じていた。
きみがそうだと言ってくれたように、わたしはずっと、わたしの傍がきみにとって安全な場所であってほしかった。きみがわたしときみだけの世界を望んでいた気持ちはよくわかる。やっぱりちょっと極端すぎるとは思うけど、それだけきみは怖かったんだな。
わたしは今でも怖い。こんなことがまだ起こりうるんだから。わたしはきみへの脅威を完全に取り除いてしまいたかった。きみを救いたかった。けど本当は、きみを失うかもしれない恐怖から逃れられない世界を、変えられるのなら変えたかった。わたし自身のためだった。わたしが、怖かったんだ。
大事な人が傷付くかもしれない世界がこんなに怖いことを、きみが知ったのはいつだったんだろうな…
ふと、ハルマゲドンの騒動のとき、アジラフェルが消滅したと思って意気消沈していたクロウリーのことを思い出した。
尤もあのときのアジラフェルはクロウリーの失ったという親友が自分のことだとは思っていなかったが、随分あとになって酔っぱらって口を滑らせたクロウリーからそれを聞いたときは嬉しくも申し訳なくもあった。最後はやっぱり申し訳なさが勝った。あのとき、クロウリーの姿はほとんど見えはしなかったけれど、「親友を失ったんだ」という声色ははっきりと覚えている。
クロウリーは確かにあのとき一度わたしを失ったのだ。
深い傷を与えてしまったきみのことを、救うことはできただろうか。できているだろうか。
ただ今は、じくじくとした手の痛みがアジラフェルに安心をくれていた。救いであり癒しだった。こんなこと、何の代わりにもならないのはわかっているのに。
アジラフェルはその夜じゅうずっと、クロウリーの体を撫で続けた。
朝になり、昼を回った頃になって、泥のように眠っていたクロウリーが目を覚ましたのはやはり体の回復のおかげなのだろう。
「…あじらふぇる…?」
「目が覚めた?」
「ん…」
「しー…動かないで」
首筋の薄い痕を移しているときだった。目を覚ましてくれたのはうれしいが、もうほんの少しあとでもよかったのに。
乾いた火傷の痕を包んで吸い上げるようにその手の甲に移すのも、このひと晩ですっかり慣れたものだ。
その音を耳が拾ってしまったのか、再び眠りに落ちようとしている様子だった瞼がふっと持ち上がり、かと思うとクロウリーは弾かれたように飛び起きた。
「な、なにしてる」
「大丈夫、あと少しだから」
「なにが…、」
言いかけて、クロウリーの鼻がすん、と鳴る。宙を泳いだ目線が治りかけているアジラフェルの右手の甲を捉えた途端、その手首を勢いよく両手で掴まれた。
「なんっ…、おまえ、なんだこれ、何したんだ!?おれに…いや、おまえにか…!?説明しろ!」
「きみの肉体の傷を、わたしの肉体に移した。きみの体を治すのはどういう作用があるかわからないからできないけど、自分の肉体を治すのは容易いから、そうして治した。それだけ」
こうやって…と傷が治っていく手の甲に目線を落とす。移した痕は軽いものなだけあってあっさりと消えて無くなった。
「一番初めは同じ場所に移したんだけど、自分じゃ確認しづらいだろ?顔とか」
それを聞いたクロウリーはばっと顔を上げた。アジラフェルの顔を確認しているらしい。アジラフェルは治ったよ、と微笑みつつも、しまったなとも思っていた。余計なことを言ったかも。
「きみの得意な想像力ってやつをわたしも使っただけだ。うまくやれるか不安だったけど、やってみたら案外簡単にできた」
「………、」
「傷の酷いところからやってて、あとは…耳だけかな?ほら、少し焼けてる」
耳殻に触れると、それまで言葉もなく唖然としていたクロウリーは首を背けてアジラフェルの指先を振り払った。こうなるだろうと予想はしていたが、少し怒っているらしい。
「もう…もういい。もう充分だ」
「ここだけ残しておく必要はないだろ。これで最後だから」
そう強請るアジラフェルを、クロウリーは横目にじっとりと見つめ上げた。折れるつもりがないことはクロウリーならわかるだろう。諦めてもらうしかない。
ややあって、クロウリーから了承の意味を孕んだ深い溜め息がやはり漏れた。
「…同じ場所に」
「え?」
「さっき言ってたみたいに、同じ場所に。ここじゃなくて」
とん、と長い指の先が手の甲に触れる。アジラフェルはああと肯んじた。
「いいよ。左耳ね」
アジラフェルが頷くと、クロウリーはほとんど抱きつくようにして体を寄せた。
表皮だけほんのり焼けてしまっているクロウリーの耳を右手で覆い、自分の肉体の同じ場所にそっくり移動させる。始めると、ちりちりとした音が直接振動となって耳に響いた。間近に見守っているクロウリーにも聞こえているだろう。
「別にいっぺんに全部移したってよかったんだ。でもきみは嫌だろ。きみから傷をきれいさっぱり引き取った状態のわたしをもしきみが目にしたら、自分を責めたり悲しんだりして、わたしの前から消えてしまうかもしれない」
「消えない」
「そうして」
順番を最後に回されていたほどの軽傷だったこともあり、移すのも治すのもさして時間はかからなかった。音がすっかり止んでから手の中に包んでいた耳翼に指先を滑らせれば、何の引っ掛かりもなくついと緩やかなカーブを辿った。
「ほら、すぐ治った」
「おまえのはまだ消えきってない」
「消えるまで見る?」
「当たり前だろ。…今消えた」
「じゃ、これでおしまい」
アジラフェルはクロウリーの背を抱き寄せ、つやつやの耳に口づけた。
「…今のは?」
「ただのキス。ついでじゃないけど、こっちにもしておこう」
「ぅ、」
ご機嫌伺いをするわけではないが、気を落としている様子のクロウリーの唇にも同じように軽いキスをする。クロウリーはきゅっと目を閉じておとなしく受け入れてくれた。
「きみの傷を移しているとき」
「………」
「まるで何かの契りの儀式みたいだなって思ってた」
「…悪魔相手に契るだの儀式だの気安く言わないほうがいいぜ」
「あ、このあたり、毛先も少し焦げてるね」
「やめろ、髪なんかどうでもいい」
焼き切れている髪の毛先を掬った手を、クロウリーは触るなと言わんばかりに振り払った。
「しないよ…勿論してもいいけど。そんなに嫌?」
「それを訊くのか?」
「わかった、わかってる、ごめん…」
あまりに鋭い眼差しにうっかり怯む。ごめんと謝りつつ後悔も反省もしていないが、まあそれはクロウリーもよくわかっているだろう。小さく吐いた溜め息が証拠だ。
クロウリーは先ほど振り払ったアジラフェルの手を両手で握り、もう何の痕跡もない肌を労わるように撫でた。
「…痛かっただろ」
「全然平気。紙で指先を切ったのと同じ程度だった」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「間近で見たんだからわかる。おれが負ったのと同じだけ肌は焼けていた。焼けたぶんは確実に、人間が感じるほどじゃないにしろ相応の痛みがあったはずだ。…馬鹿だな、アジラフェル。こんなこと…」
「わたしは天使だ。人間より頑丈に出来てる」
「頑丈だろうと何だろうと、おまえがこんなことをする必要はなかった」
「こんな傷を負ってわたしのもとへ戻ってきてくれたきみを見て、わたしの胸が痛まないとでも?これはわたし自身への癒しでもあるんだ」
「………」
「大丈夫だよクロウリー。大丈夫。きみは正しい。来てくれてありがとう。わたしは救われた」
「悪魔に向かって「救われた」だなんて言うなよ…」
クロウリーは眉を寄せ、困ったように笑った。皮肉っぽく言ったつもりだろうがいつもよりも力無いせいか、なんというか、どこか可憐で、それからとても優しい微笑みだった。
「アジラフェル」
「うん」
「…ありがとう」
「うん」
「おまえの胸の痛みも消えたか?」
「ああ」
クロウリーは無理やり溜飲を下げたような表情で小さく頷き、身を寄せて、アジラフェルの肩に顎を乗せながらそっと腰へ腕を回した。
「おれが来てからどれくらい経ってる?」
「今日で四日経つかな。それより訊きたいことがある」
「なんだ?」
「きみは余計なことを口走ったと思ってるかもしれないけど」
「何の話か知らないが、だったら触れずに胸に仕舞っておいてくれ」
「だめだ。どうしても気になるから。完全に痕が消えるまで百年近くかかるような怪我を負ったことがあるって言ったよね?」
「…あー…それか…」
「いつの話?そんなのちっとも気付かなかった」
「痕だけが長く残っていただけだ。それも今はもう無い。綺麗さっぱり消えた」
「本当に?」
「おまえはもうおれの体を隅々まで知ってるはずだろ」
「普段は見えない場所か…待った、なんでそんなところを怪我したんだ?」
「どこ想像してんだ」
そういう言い方をされてしまうと口を噤むことしかできなくなる。
「…別に変な場所を想像したわけじゃない」
「そうか?」
「そうだよ。…まあ、この先はもう隠せないよ。例え治るまで会わないようにしようとしたって、今のわたし達はほとんど毎日一緒にいるし、何も言わずに姿を見せなくなるなんてこと…っていう話、なんか最近したばっかりな気がするけど」
「そうだな…」
クロウリーはアジラフェルの肩にぐしぐしと額を擦り付けている。甘えているだけならいいのだが、その甘えというのが不調からくるものだとしたらかわいそうだ。
「もう平気?傷は全部治したはずだけど、なんだかまだ具合が悪そう」
「疲れてるんだ」
「ただの疲れ?本当に?」
「おまえが治してくれたけど、おれの体も頑張ってたんだ。単なる燃料不足…」
「ふうん…それじゃあ、何か食べる?」
「そうする」
体を離しながら肯いたクロウリーに、アジラフェルは自分で訊いておいて少し驚いた。珍しいこともあるものだとうれしく感じる反面、それだけ彼の身にイレギュラーなことが起こったのだということでもあり、頭の中をひっくり返して急いで看病マニュアルの記憶を探した。それから、キッチンの戸棚の中身のことも。
「栄養のあるもののほうがいいよね」
「なんでもいい」
「何なら食べやすいかな。やわらかいものとか…」
「うん」
「パン粥は?」
「うん」
「用意してくる。待ってて」
「うん」
アジラフェルが尋ねるたびクロウリーは素直に頷き続けた。素直なのはいいことのはずなのになんだか不安になってきて、アジラフェルはそっとクロウリーにハグをした。
「行かないのか?」
「少しだけ」
「ちゃんと待ってる」
「ふふ…」
「なんだよ」
「いいや。なんでもない。食べて元気になったら、約束してたこと叶えてね」
「約束…」
「起きたらしてくれるって言ったことがあるよね。覚えてる?」
「思い出した。覚えてる」
「本当?」
「なんなら今でもいい」
クロウリーは身を乗り出すようにして両腕をアジラフェルの首に巻き付けて抱き寄せ、そのまま後ろのベッドに倒れ込んだ。
「アジラフェル」
ぎゅっと抱きしめられ、耳に吐息を感じるほどの距離でひそひそと囁かれる甘く気取った睦言の数々にアジラフェルはずっと笑いっぱなしで、その胸の内はパンよりも先にくたくたに蕩けていた。