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魚よ叫べ、鳥となれ【本文公開】

全体公開 32761文字
2024-10-28 00:05:38

2022年に頒布しました、創作小説シリーズ第1作品目を全編公開します。不要な人間を魚に加工して食べる街で生きる男と少女の話です。その為、カニバリズムな表現が含まれる可能性があります。
何か少しでも響くものがあれば良いなと願っております。

Posted by @humito727

 その女の名前を男は聞いたことが無い。
 白い部屋。
 ガラスの花瓶。
 一輪の花。
結局知らないまま、目の前から姿を消してしまった。長い事一緒にいたような気がしていたのに、結局彼女の事なんて何も分からないままだ。いつも何かが邪魔をしており、自分がどれだけ不甲斐なくてぎこちないのだろうかと思い知らされる。
 彼女の事はとても苦手だった、何故か目が離せなくて、妙な気持ちが隅でざわめいていた。
 話すことは事務的な事ばかりだ。
 女も名前を聞いてこようとはしなかった。
「逃げればいい」
 と、言えたかどうかは分からなかった。喉にあった水分が吹き飛んでいく。思わず変な声音になったかもしれない。一体どう聞こえたか、それとも聞こえなかったかもしれない。
 どれだけ様子をうかがっても、彼女の事など何一つも分からない。想像力が乏しい自分がどこまでも嫌になった、だが言いたいことは一つだけだった。
 言葉が後押しをする、次から次へと奔流に飲み込まれ、こらえきれずに口を閉じてしまう。
「ここにいるべきじゃない、本気で魚になる気なのか? なってどうなる、それが本当にあんたの望んだことなのか。俺には……分からない」
 彼女はこちらを見た、気がした。
 だが目線は合っていない、しかし捕らえられたように動けなくなる。
「酷い人」
 彼女の言葉に、男は後悔した。一度口にした言葉自体そのものは目に見えるものではない、だが彼女の中に残り続けていくのだろうと思った。
「私、ようやく手に入れられる。広い世界を、見る事が出来るんだよ……
「ほんとうに」
 光を知らない少女を前にして、一瞬伸ばした手の意味を未だに分からない。
 ああ、口を塞いだらどれだけ楽な事だろうか。
 言えば言う程、深みに嵌る。言葉を重ねる度に重くのしかかるのは責任や後悔や、息を吐いただけで消え去るような残り滓だ。
 言葉なんて最初から無かった方がいい。
 どうせ声を上げたところで、何も届きはしない。仮に届いたとしても、本当の意味なんて理解は出来ない。
 口を噤んで、彼女が思ったままに魚になってもらう姿を見ていればいいのか。それが幸せならば、君がそう思うならばと言えばそれでいいのか。
 結局答えなんてどこにも無かった。
これからも、その先もずっと見つかることなどできない。
 男はそれでも庇おうと決めた、無理やりにでも彼女を連れだしてしまおうと思った。
 だが女は魚になった。
 彼女の望んだ姿になったのだ。
そう聞いたのは組織を追放され、一人の少女に出会ったしばらくの事だったように思える。
もう思い出す事は無いだろう、これ以上、思い出せないだろう。たかだかそれだけの事だ、だからさっさと過ぎ 去ってしまえばいいのに。
それでも男は思い出そうとしている。
何度も何度も‥‥‥。



 相手は足を引きずり、地面を這いずっていると、まるで赤ん坊にでも戻ったかのような光景はあまりにも滑稽で、こんな時でなければ笑ってしまいそうな姿だった。雨音が共に盛大な拍手をしているかのように大きな音を立てていて、周囲の音を遮っている。
 惨憺たる光景はどこにでも流れるバラエティ番組と同じだ。
 吐くと白い息が雨粒と一緒に落ちて行く。そして地面に広がる生々しい血液も一緒に洗い流した。
 埜田は銃を向けたまま一歩ずつ歩み寄った。黒髪は雨に濡れ、防水コートを羽織っていても首元まで冷たい水が浸み込んできそうだ。明滅する光。それは街の灯り、朝を待つためにあるもので、日付が変わるその瞬間までずっと照らし続けるのだ、お陰で見向きもしないほどに薄汚れた影の中でこうしてこの世界で不要とされた人間を処理している。
 無駄な抵抗を続け、逃げられないとわかっていても男は先へと這いずろうと前へと進んでいった。その先は行き止まりであっても、無意識のまま、本能のままに命乞いをしている。
 目端に水が入り込むのを気に留めず、埜田は引き金を引いた。
 銃声は雨音が消した。
 引いて、戻ってきてまた引いてを繰り返す。そのたびに男の身体が跳ねていく。まるで陸へと上がった魚のようにも見えた。本当ならば綺麗に処理をしなければならない、鉛玉を体内に残しておくなとか色々と注文が多い。どうせ適当にすり潰して、肉にするだけだというのにどこに不都合があるというのだろう。
 埜田は男を仰向けにした、男はまだかろうじて息をしているかのように見えた。何か口が動いた気がするが、再び何かを言いかける事はなかった。吐いた白い息とむせ返るような血液の飛沫が不快な空気へと変わったように感じると、埜田はまた銃を向けた。
 雨脚が強くなる。雨がやけに重い、粘着質な水が絡みついてそのままどこまでも深い場所へと引きずり込まれそうになる。
 このまま沈んでしまってどこへても落ちて行けばどれだけ良い事だろう。元々、生きていても死んでいてもどちらにしたって構わないようなものなのだ、歯を食いしばるだけ無駄な事ではないのか。
 舗装された綺麗なコンクリートの上にあった人間と血、薬莢と、脱げ落ちた靴がドラマに出てくる殺人現場のような演出だった。
 また撃った。
 何度も、引き金を引いて戻ってきては引いた。
 銃声が響くごとに、それは男ではなくもう動かない人間の肉塊だ。
 弾が無くなるまで、銃声は鳴りやまない。同時に心臓の音も高鳴っていく。
「埜田ってば!」
……
 少女の声が乱れた呼吸を鎮めてくれた。
 視線を横にずらすと、黒髪の少女が銃を持つ手を掴んでいた。
「やりすぎ、もう死んでる」
ぱちんと誰かに指で叩かれたような一瞬のフラッシュバックが起きたと思うと前を向いた。そこには穴だらけの男が無残にも雨に打たれ、止まることの無い鮮血が雨粒で薄まっていった。
 

この塔の街は海に囲まれている。
 どういう経緯かは知らないが、海は生物一つも住むことが出来ないほど汚れていて、入ることすらできないと言われている。海水に触れると皮膚が溶けてしまうだの、感染症にかかって死ぬこともあるらしい。そもそもどういう理屈なのかは知らない、生まれた時からそういうものだから、いちいち詮索など誰もしなかった。
 三層からなる大きなプレートをパイのように重ねて造られたこの塔の街は、左右は当然吹き抜けなので日がよく当たり、風も入り込んでいる。中心は人工照明があり、そして上からの雨を流すための大きな穴もいくつか開いている。だから爆音と共に滝のような雨水が落ち着て、中層を水浸しにしていく。
「何回目だと思う?」
 中層では最も人口が多くせめぎ合っていた。しかし日付が変わる時間帯は地下鉄も無人になる。電車の中は少女以外誰も乗ってはいなかった。
 反対側に埜田が腰かけ、じっと少女の事を見た。少女はこんな夜でも鍔ありの帽子を被り、黒く短い髪を揺らしていた。鍔の影から見えるワインのような赤い瞳がやけに透き通って見える。
 お互いが雨水で濡れていた、少女よりかは埜田の方がずぶぬれでシートに染みが今でも広がり続けている。
「さあな」
「三回、三回だよ。埜田」
 少女はうんざりしたようにして、窓の方に顔を向けた。
「埜田のせいで、今日の夕飯食べれないんですけど」
「悪かった」
……やけに素直じゃん」
「いつも素直だろ」
「じゃあ何かがあったのか、教えてくれるの?」
「何かって?」
「仕事が来るたびに獲物を殺してる。鉛で殺したら、雑味が増えちゃうから駄目って散々言われてたじゃん」
 あの後、どうしたか覚えていない。そういれば眼前の少女――ミコトに手を引かれるまま地下鉄に乗ったことを思い出す。深夜の地下鉄は誰も人が居なかった、まるで自分たちのために走ってくれるような、そんな気がする。
 体調も精神面もそこまで悪いところを感じなかった、自覚が無いだけかもしれない、しかし医者に診せるほどのものでもなかった。
「休んだ方がいいんじゃないの?」
「お前に心配されるとはな」
「そりゃ……心配するのは当たり前じゃない」
 意外そうな反応を見せると、ミコトはふてさくされていた。底なしの明るさは雨の所為で萎れているように見える。
「悪かった。本当になんでもないんだよ。ちょっと気が立ってる、煙草が足りないからかもな」
「だからってバンバン撃ちますかねー? 足とか脛を狙ってよ、上層の連中が加工するのが大変って文句言われてるんだから」
 埜田は足を組んで、懐から水色の箱を取り出す、中を開けると煙草が並んでいたのを一本取りだした。
「頭なら問題ねえだろ」
「鉛臭い魚なんて食べたくないね」
「グルメだな」
「バーカ」
 いつもの軽い言い合い、しかしお互いの瞳はとても真剣で、違う場所を見ていた。それは誰にも分らない、奥深く、そして小さなものだった。
 電車が止まると、扉が開いた。すると一人の老人が杖をついて入ってきた。背筋を伸ばし、白髪を綺麗に切りそろえている、映画に出てくる軍人といったような風貌にも思える。
「お前の所為で老体に鞭を打つ羽目だ」
「じーちゃん、それ私も入ってるの?」
 老人はミコトの隣に腰掛けた。両手で杖の柄を支えじっと埜田を見つめると深いため息を吐く。扉を閉めた電車は少しずつ加速を始め、再び車内が揺れて次の駅へと走り出す。
 彼は上層と中層の仲介人、つまり仕事を提供してくれる飴屋という男だった。それ以外は特に詳しい事は知らない。
 ただ彼は殺すべき人間を告げ、そして指示を下すだけだ。
「様子がおかしいとは前から思っていたが、いよいよ上層部が首を傾げ始めているぞ。お前が持ってくる肉には鉛が混じっていると」
「焼けばわからないだろ」
「お前達が今もこうして飯を食えているのは誰のお陰か考えてみてほしいものだな」
 生命一つ存在しない海に囲まれた塔の街。容易く起きた大規模な飢餓を救ったのは上層の人間たちだった。中層に比べ、上層の人間たちは優秀な知能を持った人間しか行くことが出来ない、そして彼らが考えたのは人工的に生殖させた魚を提供することだった。魚、肉、野菜……ありとあらゆる食材、又は食事は上層の人間が中層に送り出し、中層の人間たちはそれを糧に日々生活を送っている。
 しかし、それはあくまでも表向きだ。
「埜田よ……何を考えているかは知らんが、生かされているということを忘れるな」
「毎日頑張ってますよ」
 わざとらしく言うと、飴屋は再びため息を吐く。老婆心で言ってくれているのだろう、それとも哀れみに近い皮肉だろうか。
 杖の柄を両手で支え、埜田を見る。
「人には三大欲求っていうのがあってだな」
「はい! はい!」
 老人の教えを遮り、ミコトが元気よく手を上げる。
「ミコトちゃん知ってる! せーよく! 睡眠欲! 食欲! でしょ!」
「お前の場合は食欲しか無いだろ」
「埜田は睡眠じゃん!」
 赤い瞳が睨んでいるのをよそに、埜田は懐を軽くさすりながら背もたれに全身を預ける。
「睡眠だけあれば十分だ」
「人は食べないと生きていけない」
「そうそう」
 老人と孫のやりとりを見せられているようで、埜田は深い息を吐く事しか出来なかった。つり革が右、左と揺れていくと次の停車駅まではそう時間がかかることなく、駅名をアナウンスし始めた。
「最近物騒で仕事を与えてもロクに食材が届かない」
 飴屋は嘆く。
「物騒?」
「お前達も十分物騒だが、もうちょっと毛色が違う。前触れもなく突然発狂したり、無差別に襲い掛かったりする」
 ミコトが明るい声で口を挟んだ。
「ああー、よく聞くよね。理由もなく、ただ殴りたかったーっていって殴っちゃう奴!」
「それだけではない、お前くらいの小さな子供までも奇行に走るそうだ」
「‥‥‥こわー‥‥‥私は子供じゃないけど」
 げんなりした表情と裏腹にミコトは足をぶらぶらと揺らしている。さほど恐ろしいとは思っていないようだ。確かにラジオでは様々な犯罪や事件が報道されている、それもいかにも真っ当な人間がナイフを持って襲い掛かったり、突然暴れ出したり、ほとんどが理由も無いもので、突発的に起きる物ばかりだ。
 埜田はミコトを指した。
「お前の事なんじゃねぇの?」
「違うわ!」
 立ち上がった時、埜田の視線は自分の足元を見つめていた。そこには無いはずの血痕が残像で浮かび上がろうとしている。先ほどの男の血が雨で落ちたと思っていたのに、革靴の先に微かに付着している、彼もまた突発的に、理由もなく誰かを傷つけたのだろうか、と想像したがあくまでそうであってくれとどこかで願っているだけだ。
 そう思うと、聞かずにはいられなかった。
「お前、あいつの顔を見たか?」
「あいつって?」
「さっきの奴だ」
 先ほど人を撃ったばかりで、命が消えゆく感覚がまだ残っているというのにミコトは何事も無かったかのように涼し気な顔をしていた。いや、この世界に住む人間たちはそれを当たり前だと思っている。命は消えゆく物だと、死があるのだと漠然と知っている、それは一秒後に起きるか、明日起きるのかという違いだ。
 ミコトは首を小さく動かした。
「知り合いなの?」
「違う」
「考えてもしょうがないよ、どうせもう人の形なんてしていないんだから。しばらくしたらもう誰かのお腹の中だよ」
「そうだな」
 電車が止まり、ドアが開くと埜田は歩き出した。
 ミコトも慌てて立ち上がる。
「ちょっと、あと二駅先だよ?」
「歩いて帰る、爺さんから話聞いておけ」
 埜田は電車を降り、過ぎ去った電車を最後まで見送ることなく改札の方へと向かった。
 外へと出た時、水気を含んだ空気を吸い込み眉間を押し込むようにして強くさすった。
 雨は止んでいて、空気はぬるく憔悴していた身体には心地よく感じる。
 土埃や重たい空気はすべて雨粒に押し流されて、空気が澄んでいて、そして生暖かい。何度も呼吸を繰り返しても、肺の隅に残ったような違和感が拭いきれず、不快感が押し寄せてばかりだった。
 中層はとにかくビルやマンションが多い。時折見える天井の穴からは月の光があちこちに照らされ、町中の明暗がひどく不規則だった。街灯はあるが、自然の光の方が柔らかく、淑やかな艶がある。
 雨はもう降る気配はない、濡れた地面が奇妙に反射する。何かの油を引いたかのように、それは人の身体から出る油脂のようなものを連想させた。
 埜田は歩きながらあの男について考えていた。あの男は何かしらの罪を犯し、そして逃げているだけの男に過ぎなかった。どういう罪なのか、何をしたのか埜田は知らされてはいない。ただそいつを見つけて、処分をすれば金が貰える、そういう仕事だからとしか説明を受けていない。
 だがこの仕事が無ければ生活が出来ない。他にも職はあるだろう、しかし銃の使い方しか知らないからこうして人間を処分している。
 そして魚に加工して食べている。
 そう考えていると、男の顔などもうとうに覚えているはずがなかった。あれはただの食材でしかないのだ、しかし今になって目の端に残像が漂い始めている。男は最期に何かを言い残そうと口を動かしていた、そして静かに死んでいった、死んだ事実はそこにあるのに、黒のペンキで塗られたようにその映像が見えない。
 今まではこんなことは無かった、この前も、その前の食材たちもただ処分するだけだった。
 焼き付いた映像が消せない、罪悪感などそもそも持ち合わせていない。これからも上書きするかのように残像を、また次の残像を塗りつぶしていく。
 少しずつ空から登って来る光から逃げるようにして、埜田は煙草屋の扉を開けた。電灯がついているところを見ればこんな夜更けでも開いているのだろう。
 開けると、ドアについていた鈴が揺れる。濃密な香草の匂いや上書きするように漂う煙草の葉、店内はオレンジ色を基調として全体的に明るく、いくつもアンティークなランプが置かれている。
 この店を知ったのはつい最近の事だった、いつも通りかかるはずなのに、存在を全く知らなかった。細い路地、白昼のベールに包まれた店は一歩進む度に違う様相を見せてくる。煙草屋とは聞いていたが、ほとんど物置部屋に見える、壊れたラジオや背もたれが欠けた椅子、木彫り人形や食器など無造作に置かれじっとしている。
 埜田はその雑多な中を抜けて、店の奥へと向かった。ふと横を見るとコルクボードが壁に掛けられており、書類や写真が留められていた。細かに内容を見るつもりはなかった、一枚の写真を覗いては。
「朝から逃げてきた魚のようね」
 煙草が並ぶショーケース、木の戸棚が壁を埋めるようにして並んでいる中、カウンター越しに妙齢の女が立っていた。小さな平皿には煙草が置いてあり、そこからは細く長い煙草が煙を生み出している。
「こんな時間にやってるとは知らなかった」
 彼女は煙草も売る、しかし煙草だけでは生計を立てられないのだろう。ありとあらゆる雑貨が壁を見せないようにして並べられている、だがこれらは売り物ではなく何かを待っているのだと女は言った。
 女は水色の箱を棚から出して、カウンターテーブルに置いた。それはいつも埜田が吸っている愛用の煙草でもある、この煙草は昔吸っていたものとは違うものだ。
「仕事を終えたばかりかしら、とても疲れているように見える」
「先ほど一人処理した所だ。大したことはない」
「貴方の元気な顔、見たことが無いわ。疲れているって伝わってくるの。この子たちも同じよ」
 店主はこの子とやらに目配せをした、傷の多い木馬から、大きなカウチまで様々にあった。決して新品ではなく必ず使い古されているとわかるほどに劣化していたり、穴があいていたりする。
 これは誰かの預かり物、落とし物、拾得物を集めた店でもあるらしい。らしいというのは、具体的な話を聞いたことが無いからだ。
 煙草を受け取ると、女の手が埜田の手に触れている。化粧をしていても、皺があるまでは隠しきれていなかった。しかしその手がなぜか妙に落ち着いた、どんな手でも他人でも、手を触られると少なからず心が揺れる。
「獣は野に放たれたまま、貴方も気苦労が絶えないわね」
「どういう意味だ?」
 煙草の店主は黒い瞳を埜田に向けると、自分が吸っていた煙草を咥え、それから白い息を吐いた。
「貴方は子供に殺される、無邪気だけど小さくて狂暴な獣によ」
 浮かんだのは赤い瞳を持つ少女、ミコトだった。
 突然そんなことを言われても怯えることは無かった。わかり切っていた事実をもう一度再確認してきたようなものだった。
「信じてくれるかしら?」
「あんた予言も出来るのか?」
 店主は苦笑し、それから手に持った煙草を指で挟んだままおどけてみせた。
「信じなくてもいいの、ただ言いたかっただけ。あとは聞いた貴方次第、聞いたか、聞かなかったか、聞かない事にしたかは貴方がどうしたいかによるでしょ?」
「そうかもな」
埜田は鞭を打つように何度も言われた言葉を繰り返す。
 だが考えても滑稽な結末だった。思い出してみれば自然と口元が緩んだ。
「そうか、またか」
 その表情を見て店主は怪訝な顔をした。
「また?」
「一度死んでいるはずだった、死んで当然だった。今もこうしてなぜか平気で生きている。不思議な事にな。今更もう一度死んだって変わりはしない」
「もう少し大事になさいね。貴方の鳥なのだから」
「ご忠告どうも」
 埜田は煙草を受け取り、コートの裏に仕舞うと数枚の小銭を置いた。店主の手から離れ、振り向くことなく店を出る。
「魚はいつ、鳥になるのかしらね‥‥‥」
 そう言った店主の声はもう聞こえない。
 苦痛な朝が始まろうとしていた。


「その店の人は不思議な人ね、貴方に煙草を売ってくれるの?」
 非常に側物的で俗世にまみれながら、女の香り立つ声で我に返る。薄暗い部屋、朝を見せないように隠したカーテンに見向きもせずに、寝室のベッドの上で他人の傷一つない素肌を他人事のように眺める。
 女にはもうこの世界の決まり事かのように、傷一つ無かった。他の女を沢山見てきたわけではないが、眩いくらいに無垢で潔白だった。
 しかしあの少女は出会った時から傷だらけだった。未だに生傷も絶えないし、帰ってくるたびにどこかを擦りむいているような気がする。
「聞いてる?」
 埜田には数多くの傷があった、言葉にするのも億劫になるほどの大きな傷跡だった、それは火傷だったり刃物で切られたりとしたものばかりだった。今はもう痛みは消え、苦痛を訴えるような性分ではないが、時折こうして妙な違和感に苛まれて、安心を得たいがために女を呼びつけるのだった。
「煙草屋さんなんてどこにでもあるけれど、そのお店は知らないわ」
 全裸の娼婦は服を来たままの埜田にまたがり、腕を組んでいた。埜田は動けず、ぼうっと女の綺麗な肌を見つめていた。
「今度連れてってよ」
「あんた煙草吸わないだろ」
「でも、その店主さんが気になるわ」
「変な事ばかり言うから頭がおかしくなるぞ」
「この世界はおかしい事だらけよ」
 全くもってその通りだった。
 娼婦は埜田の胸を服の上からなぞり始め、不服そうな顔を浮かべてくる。
「貴方がやってるお仕事がどういうものかは知ってるわ、人を魚にしているんでしょ」
 答える気は無かった。
 この塔の街を飢餓から救ったのは、魚だからだ。今はその人の手によって加工された魚を食べて生活をしている。
 知っている人間は少ない、だが知ったところでどうなることもない。変わらない日々が過ぎていくだけ。
「声をあげて、それは魚なんかじゃないなんて言ったら、きっとあたしは殺されるのよね?」
「殺されない」
 埜田は言葉を短く切った。
「魚になるだけだ」
 臭いものに蓋をするというのはよく言ったものだった、人は真実や正しい事にはいつだって素直に受け止めることは出来ない、絶対に都合よくないことが起きて、誰かが屁理屈を言い出すものだ。
「あんたは言うのか、おかしいって‥‥‥間違っているって」
「言わないわ」
「何故」
「魚になりたくないから」
 正しい事を言えばそれがまかり通るわけではない、それは魚じゃないと言えば、不都合が出てくるのは当然だった。
 この女も、同様に口を閉ざす。
 だが愚かではないと思う、むしろ真っ当ですら感じた。無意味だと知っている上でのある種の悟りなのだ。
 仮に一人が声を上げたところで、皆がそれを口にしているのに疑う事なんてしない。何も考えず感覚的にただ、行き先も分からないまま流れるままに。
 しかしある程度事実を知っている人間もまた、いる。それは由良のように知っていながらも、感謝をして食べる人もいれば、疑いながらも食事にありつける人もいる、今更食べたからってどうという事も無いとまで言う人もいる。
次第に当たり前になっていく。
そしてこの街では許可なしの魚の加工を禁止しているし、許可証が無ければ魚の転売、斡旋などは行ってはいけない事になっている。
「そうか」
「貴方はどう? 魚になりたいって思う?」
 伸びてくる手を軽くはじく、温もりが欲しいわけではない。
「もうなっているのかもしれない」
「じゃあ今、私が触っている貴方は誰?」
 ――亡霊
 埜田はいつしかそう呼ばれていた。
 死体やゴミ溜まりのような下層に落とされ、なぜかこうして生きている。
「本当のこと言ってくれないんだから」
「余計な事は聞かない、踏み込まないが決まりだろ」
「そうね。うんざりするわ」
 ミコトはまだ帰ってこない、恐らくまだ外で朝食でも買っているかそのまま遊びに行ってしまっているかもしれない。
「貴方、脱がないの? それとも脱がせてほしいの?」
「必要ない」
「そう……
 娼婦は深くため息を吐いた。いつもの事だということはわかっていたが、それでも諦めの吐息だった。
 娼婦である由良は数度この部屋に来てもらっている、その度に埜田は服を脱いだ記憶は無い。性欲を満たすために呼んでいるわけではない、だから脱ぐ必要がなかった。
 冷えた部屋、しかし隙間から朝が入り込んで来る。夜を殺し、水で絵の具を溶かすようにしてもう少し太陽が昇ればきっとこの部屋はやがて明るくなり、暖かくなるのだろう。
 すると突然、女が肩を落とし呆れた表情になった。
「これって何かの儀式なのかしら?」
「儀式?」
「こんな早朝に呼び出して、やることやらないであたしの裸見て終わり。いつもそうよね、これって一体何が満たされるの? ここに来るたびに、脱がないのか脱がしてほしいのかを聞いている気がするのだけど」
 由良の疑問に答えず、埜田は腕を上げようとすらせず脱力した。このまま眠りにつければどんなに良いことかと思った、だが先ほどまで男を殺め、そして未だ残像が部屋の隅に居座っている。
 幻聴でも幻覚でもあればよいと思った、しかし煮詰めたような闇しかそこには無く、揺れては霧のように消えていくのだ。
「金払ってるんだから、文句はないだろ」
「そういう問題じゃないわよ、だって貴方満足そうに見えない」
「満足してる」
 由良の肌が密着し、太陽を浴びたことのあるような体温が伝わって来る。
「一人じゃ眠れないの?」
「眠れる時もある」
「あの子がいるのに」
 ミコトの事を言っているらしい。
 鼻で笑う。
「あれは論外だ、騒がしい。寝相も最悪だしな」
「ふふ、ということは寝たことあるの?」
 埜田は肩をすくめた。
「無い」
 マンションの部屋は狭かった。寝室とリビングしか大きい部屋が無いような、質素なものだった。しかしミコトが来てからは物が途端に増えた、今は二人用のソファがミコトの寝床になっている。
 彼女はよくソファから転げ落ちる、そして落ちたまま床の上で眠っているのが常だ。
 由良は滑らかな眉を傾け、憂いを見せた。
「最近、街が物騒だからミコトを一人にしない方がいいわ」
「あいつなら問題ないと思うが」
「そうかもしれないけれど、本当どうなっちゃうか分からない世の中よ、ミコトが攫われちゃうかも」
「いっそ攫ってくれていいな、あれは本当にうるさい、飯の事になるともっと面倒だぞ」
「そうね」
 おかしそうに言った由良は、滑らかな動きで起き上がる。流線のような腰回りが漏れた光に浮かび上がっていく。
 画家が描いた絵皿のような美しさに埜田はようやく眠気が訪れるような気がした、目を閉じてこのまま朝を見ないまま閉じこもろうと安心した――のも、つかの間。
 慌ただしい足音がする。誰の物か予想するよりも早く声が聴こえてきた。
「埜田ー! ただい、ま……
 滅茶苦茶なほどうるさい声が朝から響き渡ったと思うと目に飛び込んだ光景を目にして、呆れながら口を噤んだ。
 ノックもせずに足で蹴飛ばした扉は何度壊れかけたか分からない、しかしミコトは止める事なくいつものように足で開けたと思うとげんなりした様子だった。
 由良が肩越しに振り返る。
「おはよう、ミコト」
「由良‥‥‥また来たのか」
「靴があったでしょ?」
 ミコトは見向きもしなかったようで、手には朝食を買ってきたのか紙袋を掴んでいた。
「お土産あるわ」
「当たり前だろ。どーぞ、ごゆっくりー」
 ばたん、がたんと扉を荒々しく閉めると物音が一層増えた。埜田の眠気もどこかへ行ってしまい、欠伸すらもする暇さえもらえなかった。
 扉越しにミコトは大きな足音で歩き回った後、そしてテレビをつけたのか朝のバラエティ番組を爆音で響かせた、壁や窓が今にも震えだしそうなほどの音量に、由良は少しだけ肩を上げて驚いた。
 そして埜田を見た由良は呆れたように笑みをこぼして、ゆっくりとベッドを降りた。
「わざとね」


 遅い朝食だった、時刻は既に昼に回ろうとしている。テーブルに置かれたのはミコトがよく食べる魚のサンドウィッチだった、それが二つ置かれ、埜田の分を二つに切って由良が食べていた。
 ケーキの入った箱は由良が来る度に必ずミコトに手土産を用意するのが恒例になった。ミコトの注文はほとんどケーキかアイスばかりだ。
 ミコトはなぜか由良の事を毛嫌いしていた。年の離れた相手だからなのか、見てわかるほどにミコトと由良は経験も歳も離れている、由良は子供好きのようで、誘うようにしてあやしてくる、それがミコトにとっては馬鹿にされていると感じているのだろう。
 だが由良は本当にミコトの事を気に入っている様子だった。明るくて、純粋な所が妙に惹かれるのだろう。ミコトはやんちゃな部分はあるものの、人に好かれやすく裏表がない。
「あんたのために買ったわけじゃないのに‥‥‥」
 ミコトは不満げに言いながら自分の分を頬張り、由良とは反対側に座った、二人掛けのソファは一つしかないのでミコトが床に腰を下ろしている。
 埜田は二人の会話を遠目から見るようにして、静かにコーヒーを口にしていた。
 由良は前のめりになると、ミコトの鼻を軽くつついて言った。ひどくミコトは嫌そうな顔をしているが食事の方が大切なので動こうとはしなかった。
「美味しいわね」
「お前がいなければもっと美味しい」
「はいはい、ほんと二人そろって素直じゃないんだから」
 埜田を一瞥した由良はまるで面白い玩具でも見るかのようにミコトを見るが、ミコトは壁に視線を向けたまま食事を続けていた、マンションの部屋は狭いので、別室が無いので仕方なく一緒に食事をしているのだ。
「お前がいる事でせっかくの優雅な朝ごはんがパアなの! 出てけ! ちゃっかり食べてるし!」
「嫌よ。まだお金貰ってないもの。それに食事をするまでが決まりになってるの」
 由良の言う通りだった。埜田は彼女を抱いたことも深く触れたことも無かった。結局素肌を見て、それで少し話をしてから食事を出す、それだけの事しかしていない。
最初の時、由良は顔を顰めるばかりだったが、今ではもう慣れているのかこうして食事をしてくれる。埜田はそれだけで十分だった。
 ただ、実感が欲しいというだけだった。だから娼婦は都合が良かった、余計なことを聞かないし、踏み込んでこない。しかしあまりにもこちらが何も言わないものだから由良が好奇心でたまに踏みこもうとはしてくるが。
「いつからそんな決まりが?」
「もう随分前からよ。あ、これ美味しい……ミコト、これ食べてみて、こっちのサンドウィッチ、チーズ入ってる」
「え、うん‥‥‥あ、おいし‥‥‥じゃなくて!」
 由良のペースに巻き込まれたミコトの口がへの字に折れ曲がり、こちらを見て由良を指した。
「埜田ぁ、早く追い出してよ」
「いいから黙って食べろ」
 パウチを開けたミコトはフォークで魚を刺すと口に入れ咀嚼をして喉に通す。しかし食事を楽しんでいるというよりかは詰め込み、やけになって放り込んでいるだけにも見える。
一見するとただの加工食品だ、本当によくできているなと毎度感心してしまう、それほどまでに美しく、そして人を騙せるほどに加工が出来ている。
 ミコトは空腹を満たすために、従順に口の中に入れる。
「こいつのどこがいいんだよ‥‥‥変な色目使って埜田にべたべたべたべた」
「そこまで触ってないわよ」
「触ってんじゃんか!」
「今度貴方も混ざってみる?」
 由良のいつもの誘い文句のようなものだった、ちらりと胸元を見せるふりをするとミコトはのけ反って舌を出した。
「やだよ気色わりー! そういうのって楽しいわけ?」
「仕事だもの」
「ふーん、なんか、大変だねー」
「そうね、身体売ってるわけだし」
「あっそ」
 冷たい反応をしても由良はくすくすと笑う度に、長い髪が揺れた。シャワーを浴びたばかりでまだ少し濡れていた、ミコトはボトルに入った炭酸ジュースをがぶがぶと飲んでいく。
「ほんと面白いわ、ミコト」
「お前はむかつくよ、由良!」 
「ケーキも食べてね」
 ミコトは白い箱を自分の前に持っていくと、そっと開けてみた。微かだがケーキが数個入っているのを確認すると、素直じゃないミコトが鼻を鳴らした。
「ふん、お前にしちゃいいセンスって感じ」
「褒めてくれてありがとう」
「バーカ、自惚れんな。この後仕事の話するんだから、ちゃっちゃと食べて出て行ってよね」
「貴方たちまだ仕事するの? 昨日帰って来たばかりでしょ」
「忙しいんですー、っていうか、ほんと帰って来たばかりで眠いしさ‥‥‥」
 二人の仕事は深夜だった、ミコトが赤い目を擦ってはいよいよ口調も曖昧になりそうだ。万華鏡のようにころころと表情や気分を変えて、食べたら睡魔に襲われ、目を覚ませば太陽の真下駆けまわる。
 毎度の事ではあるが呆れるばかりだった。
「騒いだり食べたり眠かったり……赤ん坊かお前は」
 埜田が言うと食べ終え、満足そうにミコトが床の上で仰向けになった。
「だって、眠い‥‥‥」
「阿呆」
「ふふ」
 そのやりとりを微笑ましく、どこか羨ましそうに由良は見つめていた。
「はいはい、じゃあご馳走にもありつけたし、帰るわ。ミコト、しっかり睡眠とってね、子供が夜更かしなんて、よくないわ」
「ご忠告どーも」
「気をつけて」
 埜田が懐から数枚の紙幣を出すと、由良が受け取って小さい鞄の中に仕舞う。しばし見つめ合うと、由良がそっと手を伸ばし頬に触れてくる。
 由良の唇は頬を過ぎ、耳元へやってくる。
「また来るわ、連絡頂戴ね」
 ミコトは起き上がり、指をさす。
「あーっ! だーかーらーっ! 色目使うな!」
「ミコトも、またね」
「来るな! 塩まいてやる! しっしっ」
 犬でも追い払うかのように手で払うが、どこ吹く風といったように由良は小言も言うこともなく、軽く手を振るとあっさりと部屋を出て行った。
 玄関の方を見て威嚇するミコトの背を、埜田は呆れつつ煙草を吸い始める。
「あいつの事嫌いなのか?」
「嫌いだね、すっげぇむかつく」
「どこが気に入らない?」
「全部! なんでもかんでも知ったような目で見てくるしあの態度もむかつく! ほんと! なんなのさ!」
「普通の女だ、以下でも以上でもない。踏まず、踏み込まさせずの関係だ。お前が思っているような事は何一つとして無い」
 無いはずだが、ミコトは納得できないらしい。一つ屋根の下、一緒に部屋を共にしている、別の他人がやってきたら気まずさもあれば、気になることも多いのかもしれない。
 実際の所、由良はただ一緒にいてもらうだけに呼んでいるだけだ。それはただの安心と不安の払拭をするために買っているだけ。 
 しかしミコトの顔は複雑なまま。
「だって‥‥‥」
 言い切れず、濁したかのような言葉の切り方だった。
 ミコトは一瞬埜田を見て、それから俯くとつまらなそうにふてくされた。一体何があったのか、ミコトの口からそう簡単に出てくるものではない。
 由良が座っていた場所のソファへと、ミコトは落ちるようにしてすとんと腰をかけた。一人分の重みでソファが沈んでいく。灰皿に煙草を置くと、ミコトの横顔を見た。言いたいことがあるのに、堪えて顔にわずかな陰が帯びていた。
 ミコトの腕を引き寄せ、軽く腕で引きよせると、引かれるままミコトも埜田の脇あたりに顔をくっつける。
「なに」
 こんなことをしたところでミコトを懐柔できるわけでもない、わかりやすいが、単純ではない。
 それに単純で、見えやすいほど複雑な事は無い。
「そう心配な顔をするな」
「だって、事あるごとに由良呼んでるじゃん」
「お前が気にする事じゃない」
「本当に何があったのさ、三回も食材をぐちゃぐちゃにするし」
 言い淀むミコトの表情はよく見なかった、煙草の煙が二人を少しずつ包んでいく。
「爺さんに何か言われたか?」
「埜田の事、よく見てろって」
 躊躇わずにミコトが言って見せる、それは黙っておくべきことだろうと思った。つまりそれは何かあったら処理されると同義だ、彼らと同じように口を塞がれてしまう。
 ミコトはぐずる赤子のようにして、埜田の袖を握った。
「監視してろって言われた、でも私嫌だ。そういう、コソコソするの」
「お前には出来ないだろうな」
「わかった風に言うなっての‥‥‥っていうか、監視も何も、埜田しか見てない。他なんて見ちゃいない。埜田だって、そう、だよね?」
「ああ」
 頷くとミコトが何度も確かめるように不安さが服を掴む手から伝わる、少しだけ身体を寄せてはみるものの、次第にミコトは言われた言葉をか噛みしめたかと思うと、怪し気に目を細めはじめた。
「反応が素っ気ないんですけど‥‥‥?」
「言わなくても分かっていると思っていたんだがな」
「埜田は、言葉が少なすぎる」
 袖をつかむ手が、食い込むほどに力が入っていく。互いに言葉が少なくなりやがて静まり返ると、視線はどこに行けばいいのか分からず、テレビ脇に置かれた小さなデジタル時計の数字だけがゆっくりと刻んでいくのが分かった。
 埜田は折れそうなほどの握力に抵抗はしなかった、拒むこともなく、折れてしまえばそれでどんなに楽だろうか。
「あんたは……私、が」
 小さい声、しかし静かな部屋だからとても大きく聞こえた。
 埜田はミコトの声しか聞こえなかった。その言葉の続きを待ったがミコトはぱっと袖を離し、ソファから立ち上がった。
「そういえば」
 ミコトは床に投げ捨てていた鞄の方へと歩き、中から携帯端末を取り出していた。再びソファに戻ると、端末画面を埜田に見せてくる。
 画面に映っていたのは若い男だった。あの殺した男ではない別の男、こうして処理対象となると個人情報や経歴など関係が無い。
 ただ、この男を処理すればおよそ五人分の食糧は得られるだろう。
「埜田がお楽しみ中の間に、飴屋のじーちゃんから仕事の話を聞いてきた。今日の夜、また仕事だってさ」
「そうか」
「今度こそ大丈夫?」
「問題ない」
 元々、何も不具合は無いのだ。
 ただ違和感が押し寄せてくるだけだ、名前の付け難い何かがのしかかって来る。言葉にしようがない背中にまとわりつく不安が這いよっている。
 ミコトの表情はまだ暗く、埜田を覗き込んだままだ。
「この仕事終わったらさ、ちょっと休もうよ。血生臭い所から離れてさ、海とか行こうよ」
「海に囲まれているのに、海を見に行くのか?」
 塔の街は生き物も住めないほどに汚染された海に囲まれている。一見すると青色をしている海水だが、目を凝らせば汚れており生命が住めないし、異臭が漂う。見たくなくとも外に出れば嫌でも目に入る。
 眉を顰めると、幼さのあるミコトは唇を尖らせた。
「ちーがーう、最近さ、海に入れる施設が出来たんだって、流れるプールとか、滑り台とか、砂浜とか‥‥‥そういう場所。めっちゃ楽しそうじゃない?」
「子供が喜びそうだな」
「そーそー」
 皮肉をいえばミコトはわかり切って特に文句も言わなかった、彼女なりに気を遣ってくれている。そしてあしらって、適当に流すのも予想通りなのだろう。
「ね、休もうよ?」
「わかったよ。これが終わったら‥‥‥」
 言いかけて、口を閉ざす。
 終わったら、また始まることはわかっている。現にもう始まっているではないか。
 今日の処理が終われば、明日、また処理が始まる。明日も明後日も同じことの繰り返し、ルーティン、まるで操られているかのような不快感。
 本当にこれでいいのか?
 いつもどこかで疑問に感じる。まるで貧相な命に棒に振っているかのようだ。倦怠感が押し寄せて、太陽の光に射貫かれていく。
 不思議そうに何も知らないミコトが顔を覗き込んで来る。
「埜田?」
「なんでもない」
「やっぱり疲れてるんだよ、尚更海行かなきゃね!」
 きらきら目を輝かせて、今にも踊りだしそうな勢いでソファの上に立つと腕を組んで目を閉じていた、瞼の裏ではおそらくその施設とやらの楽し気な光景を想像しているのだろう。
「じゃあ水着用意しないと、借りられるのかなあ」
「俺は着ないけど」
「なんで⁉ 泳げないの?」
「そういうことじゃないが‥‥‥」
「もしかして、はずかしーとか?」
「阿呆」
 軽く頭を叩くと、悪戯をした子供のようにミコトがくしゃりと笑うと腕を天井に伸ばし背伸びをした。
「とりあえず、夜まで仮眠だね」
「お前はどうする」
「お風呂入ってから寝るー、おやすみ、埜田」
「おやすみ」
 二人は昼の内に食事を済ませて、夜まで仮眠を取った。朝の内は人が多すぎて目につきやすいと思った、仮に目に入ったとしても見て見ぬふりをされるだけだろう。
 誰もが自分の事で精一杯だ、生きる事に、食べる事に、明日を見る事に必死だ。今は魚のお陰で人々は食べることに困らなくなっている、だがそれももう大昔の話だ。
 今は豊かだ、もちろん全員がということではない。格差は多少なりともある、しかしそれでも何かを食べて、飲んで生きている。人は食べないと生きていけないのだ。
 だがどこか、貧しい。
 埜田は寝室に戻り、ベッドに仰向けになった。カーテンは閉じられたまま、横にあった由良の体温はすでに冷めきっていて、ただの質素で貧相な二人用の大きなベッドになっている。
 朝から逃げるようにしてすぐに目を閉じた。どんなに閉じても目端に小さな光の霧のようなものが入り込んで鬱陶しい、朝は苦痛だ。朝とわかると、また同じことを繰り返しになる。それだけではない、彼女がいないとわかってしまう事実があまりに重くのしかかる。
 埜田はその彼女の名前を聞いたことは無い、記憶が無いだけなのか、無理やり忘れようとしたか顔すらもうろ覚えだ。
 思い出さなくていい、思い出す必要はない。もう昔の事だ、全て何もかも、不要の産物だ。
 きつく目を閉じて、何度も夜が来ることを想像し、いっそ朝も夜も無くなってしまえと願ってみた。背中の傷や肉を抉られた跡が未だに軋むに痛みを伴って、朝に追い込もうと迫って来る。
 またあの男の顔が浮かんでくる。雨と血が混じった物が口の中に広がって、内側の皮膚に沁みついていく。吐き出そうにも既に遅かった。
 男はまた何かを言っている。
 必死に描いた眼で、表情を全て使い捨てるかのような勢いで訴えてくる。
わずかに男の口が動く。しかし動きが読み取りづらい、もう少しの所でわかるような気がする、雨が邪魔をする、心臓の音が遮ってくる、もう目前に言葉があるのに。
 だがもし、その言葉を理解したとき自分はどうなってしまうのだろう。
 それが少しだけ、怖いと思うのは何故なのだろう。
 
 *

 逃げる男を追っていく。昨晩と同じように、再び命じられた処理対象だけを狙って縫い目のような細い路地を抜けた。
 見つければ後は処理するだけだ。
 ミコトと二手に分かれ、男を追いかけた。埜田の方が早く男を捉える事が出来た。その夜は雨が降っておらず、湿った空気が街を覆う。煙草の吸殻のような分厚い雲がいくつか浮かんでいたが、その隙間からは青空が見えている。
 乱立するネオン色の広告はテールライトの、乾いていない地面を駆ける。男の背はすぐそこに見えていた。息を切らして、哀れに逃げ惑っているだけだった。
 夜の街は騒がしい、光も星も、車の走る音、サイレンのように鳴り響くコマーシャル。生きている人間たちが血生臭い光景をかき消してくれている、きっと見られた所で見ぬふりされることも分かり切った上だ。
 誰も声など上げるわけがない。
 傍観者たちの舞台の中で、狩りをしているとは知らずに。
「頼む、殺さないでくれ」
 男が言った。その必死さに憐れなものを感じたが、埜田は銃を降ろさなかった。 
 これが男でも女でも、老人でも赤子でも変わらない、目の前にいるのは同じ形をした人間、しかし彼らは死ぬのではない、ただ魚になるだけの事だ、男は無防備のまま、尻をついて銃口に震え上がり、まるで何かに祈るかのように懇願している。
 死んだらどうせあとは生者が好きにするというのに、どうして死後までも危惧し、不安になる必要があるのだろう。
 抵抗をしたところで、彼はどの道死ぬ運命だ、いや死ぬのではない、今日の夕飯になるだけの存在だった。たまたまクジを引いただけの事だ。
 籤を引いた人間は、生きている人間の糧になる。
 それだけの事だ。たまたまの偶然で、平等で、そうであるべきだった。埜田が気づいた時にはすでにそうなっていた、誰も疑わなかった、ましてや人をすり潰して魚に加工するなどと誰も信じはしない。
「俺には妻も子供もいる、死ねないんだ」
「そうか。だからなんだ、俺には関係が無い」
「ま、待ってくれよ、あんたおかしいとは思わないのか?」
「何が?」
「俺たちが食べていた魚は人間の肉を加工して作られたものだってことだ」
 顔面蒼白の男の声が震え上がっていた。こんな食材たちを何人も見てきたので埜田は眉一つ動かなかった。
 ああ、あの時と同じだ。
 あの時の男もこうやって――真っ当なことを言っていたような気がする。
「でも今までずっと美味しく食べただろ」
「‥‥‥それは誰も知らされていなかったからだ」
「教えても教えなくても変わらねえよ、腹が減ってたらな」
「狂ってる」
 埜田は銃を向けながら小さく笑った。どういう人間でも同じことを言うのだなと思った。
 なので、返す言葉もまた同じだった。
「知らなかったじゃない。どういう気持ちかも知らないで、ただそれが腹を満たせるものだと言う事だけに飛びついて、貪り食ったのは俺たちだ。疑わず、惑う事なく、表面だけ見て、生きるために口にしただけのことだ」
 愚かだとは思わない。
 無知は罪だと言う人間もいる、しかし無知は幸福であることもまたある。
 人間らしいではないか。
 そんな狂ったことをするはずがない、まともじゃない、やるはずがない。そんな訳がない。
 どれもこれもただ、都合よくそう願いたいだけ。嫌なことを想像しないように自分で安直な信頼に縋っているのだ。
「俺はあんたがどういう人間で、何をしたかは知らん。興味がない。まあ選ばれたんだから、罪を犯したか、よほどまずいことをしでかしたんだろうな」
 疑わしきは排除する、それも上層部の考えらしい。上層部は犯罪者や犯罪予備軍を処理するように命じてくる。
 つまりは公平であり、クリーンであり、そして実用性を持っている。罪を償うなんてことよりも、誰かの血肉となって食料になってくれた方がよっぽどいい。
 この男くらいなら、おそらく五人分くらいの食糧にはなる。
「お前が死ねば、妻も子供も食っていけるぞ。なんせお前の肉で加工して魚になる、そこら辺で売っているパウチの中身になるだけだ。結果的に妻も子供も生きていける、他の住人らの飢えもしのげる」
「お前は俺を‥‥‥食材としか見ていないのか?」
「そうだ」
 男は半笑いだった、あまりにこちらが真面目に頷いているから滑稽に見えたのかもしれない。
「人間を食べるなんて正気じゃない」
「人間を食べている訳じゃないんだけどな‥‥‥」
「見た目が違うだけだろう!」
「だが結局は、美味いと言ってお前も食べていたじゃないか。この魚がどうやってパウチに入っているのか、運ばれているのか、どう扱われているのか、人の手がかかってお前の血肉となっている、その過程をお前は少しでも考えたか‥‥‥」
 誰もが考えなかったことだった、ただ感謝して作ってくれた人を考えながら残さずに口に入れた。
 男も埜田も息を飲んでいた、ここら辺一体の空気が失われたような緊迫感が横切っていく。
 効率よく、そして合理的な活用法に誰しもが顔をしかめる。しかしそんなもの大人数が受け入れれば、それは当然となるし当たり前の事になるのだ。
「上層部はお前を下層に放り込むよりも、魚になってもらう方が価値があると判断しているらしい」
 後ずさって振り返っても、撃たれることは違いないとわかっているのか男は身動きできないままだった、埜田もいつでも引き金を引けるように指にかけたまま静かに男を見つめている。
「俺は死にたくない、魚になる気も無い。この事実を公にする」
「したところでどうなる」
 まるで自分に言い聞かせるように、言葉が強く滴ったような感覚だった。落ちてきた滴は跳ね返ることもなく、ただ消えていくばかりだ。
 今更何が変わるというのだろう、異常というのは長い時間かけて正常になり、普遍的になるというのに。
 迷う必要はない。ただの処理だ。加工作業なだけだ。
 だが、どうにも気が進まない。
「口を塞いでいるのはあんたらだろう‥‥‥」
 男は身構えながらも、頬に流れる汗をぬぐった。どういう捨て台詞を吐いたとしても彼の行きつく先は誰かの食糧となっているのに。
 それでも抗うのだろうか。
――愚かなのは、俺もお前も同じだ。無知は罪だが無知であることはまた幸福だ。
誰かがそう言っていた。
――埜田
白い部屋。
 ガラスの花瓶。
 一輪の花。
――酷い人
 彼女の言葉に後悔したような気がする。微かに残った記憶が発色していく。
――私、ようやく手に入れられる。広い世界を、見る事が出来るんだよ……
あの時は、声を上げる事は容易だった。もちろん引き留めた、だけど、結局それも無駄に終わる。
「お前、どうする気だ?」
「街の皆に言うんだ、声を上げて、大きな声でこんなことは間違っていると、その手段も持っている」
 どういう手段をもって知らしめるのかは分からない、もし仮に彼の言っていることが本当に正しいと、人々に信じられることが出来たとしたら?
 そうなった後の世界を埜田は想像できない、今見ているものが全てだからだ。どうなるかなんて予想も、想定もすべて意味がない。
 だが、もしかすると、彼は――声を上げる事が出来るのかもしれない。いつしかこうしてこうやって、真っ当で誠実で、当然の事をはっきりと口にできるような存在がいてほしいと願っていたのかもしれない。
 気づけば銃を持つ手の力が抜けていく、自分がいつか――そうだったように、声を上げて、間違っていると、正しい事を言おうとしていた愚かな自分を、押し殺す。
 男は埜田の様子を見て訝し気になると、埜田は壁際に寄って男に道を譲った。
「行け」
 男は驚いた声を上げた。
「いいのか……?」
「俺には分からん。だが、もしかすると‥‥‥」
 もしかすれば、彼がこの世界を穿つ、何かになるのだろうか? 世界を転覆させてしまうほど変わっていくとしたら、同じ朝を見ないようになるのか。
 例えば、空を舞う――何かのように声を上げ、どこまでも遠くまで飛んで行ってくれるのだろうか。
 再び脳裏の中にあった映像が霞んで消えていった。
「あんたも本当は間違っていると思っているんだな、おかしいと」
「どうかな、そんなこと考えなくなった。声を上げると、皆が俺を見る。一人だけ外れ物扱いにされるんだ、あんたは、そういう事されたことあるか?」
 無意味な問いに男は答えなかった。
 代わりに、少しだけ微笑んでくれる。
「あんたも俺と同じ気持ちなのかもな」
「‥‥‥」
 男はありがとうと、言った。
 見逃せばどうなるか分からない、命じられたことを放棄して、男を逃がしてしまった。しかし、今はどうでもよかった。
 不要とされた人間を殺し、それを材料に魚に加工する。そのために自分たちはいる。こんなやり方をどこかで終わりにしたかったのかもしれない。
 今はただ虚しさが募り、無力感が押し寄せる。
 男が細い路地を駆け抜けていく、小さくなりやがては消えていくまで背中を見つめ続けた。曲がり角まで行ってしまえばいよいよ男を追う事は難しいかもしれない、しかしここは海に囲まれた塔の街だ、いずれは捕まるかもしれない。それでも、もう二度と顔を見る事は無い。
 しばし見つめていると、小さな悲鳴が聞こえた。
 埜田は角を曲がり、男が消えた所まで向かうと、男はうつ伏せで倒れており、動かなくなっていた。
 そこには帽子を被ったミコトが立っていた。手には護身用ともいえる警棒のようなものを構えているところだった。まさか加工処理する人間の中に子供がいるとは思わなかったのかもしれない、油断してそのまま――水底へと沈んでしまった。
「ナイス埜田」
 暗闇に浮かんだミコトがにっと笑う。
 倒れ動かなくなった男を挟んで、二人は対峙していた。
「生で捕らえたし、きっと上層部も喜ぶよ」
「ああ」
 しなやかな腕を伸ばしながらうんと背筋をほぐしているミコトは赤い瞳をじっとこちらに向けている。しばしの間、生温かい風が吹いていて、少しだけ浮かんだ皮膚の汗を吹き飛ばしてくれた。
 ミコトはじっと見つめ、何も言わなかった。そして埜田も言わなかった。こんなことは初めてではない、もう何度もこの光景を見ている。だから動揺も困惑もする必要はない。
 こうでもしなければ、生活が出来ない。腹は空く、眠りたくもなる、今こうして衣食住にありつけるのは不要な人間がこの世界にいるからだ。
「わざとじゃないよね?」
 疑念の眼差しではなく、確固たる事実確認だった。
 問いにはすぐに答えた。
「お前がいることはわかってた」
「そう、よかったー、これでお腹いっぱい食べられるぞー!」
 倒れた男は目を覚ます事はなかった。気を失っているのだろう、しかしもう目を覚ます事は無い。次に目を覚ましても彼はもう製造機の中で誰かの肉と一緒にもみくちゃにされているだろう。
「もしもしー? こばちゃん、回収頼みたいんだけどー、ちょっとここだと人目つきそうだし、お願いー」
 携帯端末を取り出して回収を依頼するミコトは男に見向きもしなかった。それはもう男と呼ぶにはあまりにも無意味だ。
 埜田は男の手元を見た、脱力して緩んだ手から転がり落ちた写真には男と女と子供が朗らかに笑っているのが映っていた。おそらく家族写真だ、彼女たちはこの事実を知らないまま生きていくことになるのだろうか。
 きっと知らぬうちに彼だったものを口にする日が来る。だが豊かな食事に喜びを感じて、美味しいと言うのだろう。
 しばらくするとトラックが近づいてきて、二人の前に停まると作業員の男たちがビニール袋を手に近寄ってきた、軽く挨拶をしてきたと思うと彼らは機械のように職務を全うしていった、倒れた男は黒いビニール袋に包まれ運んでいく。ただそれだけだった。 
先ほどまでの会話、男の顔、声をもう思い出せそうにない。埜田にとってはそれだけの存在だった、そしてミコトも他の人間にとってはただの夕飯の材料だった。
「お疲れ様でした。報酬は後程」
 一通り作業を終えた若い男が低頭しトラックに乗り込んだ。大きなトラックには沢山の黒い袋が山になっていて、大きく揺れたら零れ落ちそうだった。
 あれらは上層に運ばれ、魚の形になって中層に売り出されるか、又はパウチに詰め込まれ温めるだけで腹を満たすことのできる便利な食事になっていく。
 そしてあの男も、違う人間と、別の人間が混ざり合い人ですらない形になって自分たちの目の前に訪れる事だろう。
「そのまま食べたほうが美味しいのに」
 トラックの走り去り際にミコトが言ったのを埜田は聞き逃さなかった、そして反論することもなく、何も言うこともないままに、通勤ラッシュの朝に混ざりこんだ。
 いつもの朝が始まる。
 スーツ姿も私服姿も入り混じるような老若男女の雑踏。変わらない日常、彼らは事実を知らないまま、何かに急かされ、踊らされ、言われるがまま、目の前の生というものにしがみついていく。
「今日のご飯は豪勢に行こう」
 埜田の前をミコトが気分よく歩いている。地下鉄に乗ってこのまま家へと帰る、そしてまた夜になるまで眠りにつく、また目を覚ませば命じられるがまま食材を得るために銃を向ける事だろう。
 それでも生きなければと、本能が言っている。
 生きるため、生きるため‥‥‥。
「いつものお魚バーガーがいいなー、あそこのソースめっちゃ入ってて美味しいんだよね」
 朝になれば人も増える、この目の前にいる有象無象の人間たちもいずれ自分たちが加工していくことになるかもしれない、予備軍とも言うべき食材だった。
いよいよ真っすぐ歩きづらくなりミコトの小さな背を追いかけるのが億劫になってきた。それでも埜田は歩き続けているとミコトが振り返った。
「埜田は何が食べたい? お腹空いたでしょ?」
 ミコトの笑顔はひどく残酷で、それでいて幸せそうに見える。
 埜田はすぐに答える事が出来ず、少女の笑顔に無言のまま見つめ続けた。いらないはずはなかった、なぜなら非常に空腹だったからだ、どれだけ殺めても、どれだけ想起しても、人は何かを食べなければ生きていけない。
例えそれがどんなものであっても。
 喧噪が掻き立て、誰が何をしゃべっているのかも分からないくらい耳の中で不協和音が支配する。この雑音だけが今は安寧や安堵をもたらしてくれる、そしてゆっくりと男の顔も、声も、会話も忘れていく。
 しかし、ミコトの声だけはいつも耳の中に一筋の軌跡を描く様にして入り込んで来た。

――無理だよ」

 ミコトは雑踏の中に紛れ、そして赤い瞳が畏怖を伝えるようにして浮かび上がる。埜田は縫い付けられるように動けないままだった。何を考えていても、きっと見透かされていることはわかり切っている。
 人間の海の中で告げた言葉はあたかも、何かの警句かそれともただの羅列でしかない。他の人々はただの映像で自分たちだけが切り取られ、誰も見ない舞台に立っているかのようだった。
「皆、口を開けて待ってる。それが何かも考えることなく、ただ空腹を満たして、生きるためだとどこかで納得させている」
 胸の内をナイフで切り開かれたような気分だった。決して不快ではない、不満でもない、分かり切った事実を差し出されただけだ、それを受け入れる。容易な事だ。
 埜田は一度口を開きかけ、そして二度と口を開けることをやめた。魚は深い海の底で、砂に混じるだけだった。
「声を上げて、それから? どうするんだろうね、そんな小さな声は多勢に潰されるだけなのに。馬鹿な奴」
 彼女の声も誰かの声と混ざり合い、消えて行ってしまう。聞きたくても、大きな何かに邪魔され、小さくなっていくのだ。
 赤い瞳が帽子の影で揺らめいて、それから獲物を見るかのように舌でも舐めとられている気分だった。縫い付けられ、心臓を鎖で縛られていく圧迫感に息が詰まる。
埜田は懐の中から水色の箱から煙草を一本取り出すと、火をつけずミコトを見た。
「報酬はお前にやるよ」
「え? 分け前半分でしょ?」
「いい。お前にやる」
「そう――
 ミコトはしばらく考えた素振りを見せてから、帽子を被りなおした。
「うっし、じゃあ今日は私のおごりっ、先に報酬受け取って来るからさ、ちょっと待っててよ」
 軽く手を振ったミコトの背が小さくなっていく、埜田は動けず彼女を追いかける力さえも失って見届ける。
 それは水の底で動けない魚が空を見上げているかのようだった。
 彼女が遠い。あと少しだけなのに、やはりどこまでも遠い。
 もう一歩を踏み出す事が出来ない無力さ。
 ミコトの声が聴こえなくなると辺り一帯の音量が上がっていくのが分かった、地下鉄に向かえば向かう程人が多くなる、埜田はミコトをずっと待っているほかなかった。
 男の最期の言葉を聞いて報酬を受け取る気が起きず、埜田はしばらく何も考える事なく立ち尽くす。このまま日差しを浴びて気去ってしまいたい気持ちを押し込めた。ふと足元を見ると小さな切符が落ちていた。
「あっ」
 その声に反応し視線を向けると、黒い鞄を背負った男の子が切符を見ている。どうやら学校へ行く途中で落としてしまい探していたようだった。小さな肩で息をしているところを見ると走り回っていたように見える。
「お前のか?」
 子供が頷いて、小走りで駆け寄って来る。埜田はしゃがんで切符を拾い上げ、そのまま目線の高さに合わせて渡そうとした。
 子供がどうして手をズボンのポケットに入れたままなのか、考える暇もなく。
「ありがとう」
 恥ずかしそうに俯く子供に切符を渡すと、子供は受け取らずにこちらに詰め寄ってきた。子供の手に何か持っている、それは太陽の光に反射する、鋭利なものとしか認識できなかった。
 わずかに時が止まるような錯覚。
 腹に熱いものがこみ上げる、熱湯でもかけられたような痛みに埜田は何をされたのか考えるのに時間がかかった。うつ伏せになりかけ、身体が前のめりになると痛みが更に増していき、やがては慣れ親しんだ鮮血の匂いが漂い始めてきた。
 もちろんこの異様な光景は自分と、子供しか分からない。忙しなく動き続け、各々の目的のために動いている人間たちには関係の無い話だ、声をかけることもないし、見て見ないふりをするのは当たり前の事。
 ひどく乏しく、寒気の走るような時間だった。
 見ている世界がゆっくりと円を描く様にして、唐突に衝撃が襲う。全身と、こめかみのあたりから振動が全身に伝わったかと思うと、身体は横に倒れ、火がついていない煙草が転がっていく。
かろうじて子供の顔だけは見ることが出来た。
 子供は笑っていた。そして幻覚なのか子供の顔はあの時殺した男の顔へと変わりつつあった。体格そのものが変わったのではなく、顔自体がゆっくりと何かの生命が宿り始めたかのように、細胞がゆっくりと分裂し、そしてあの雨の中で死んだ男の顔へと少しずつ変形していく。
 幻覚かそれとも何かの夢か。痛みが全身を巡ってもうどちらがどうなのか判別が出来ない。
 子供の体格のまま、その男の顔は言葉を吐いた。
「よくも俺を殺してくれたな、忘れていなかったぞ、お前の顔」
幼さもあどけなさも失ったと思うと、声もあの男だとわかる。痛みと共に記憶もぶり返し、全身にあったすべての物が抜け落ちていくようだ。この子供は、いや、この男は間違いなく自分自身で殺めた男だった。
わずかな恐怖を覚えたが、それも一瞬の事だ。どこかでこうなるのではないかと、そうであってほしいという淡い期待もあった。
「驚かないのか?」
 からりと音を立てたのは、ナイフを抜いたからだった。赤い血が太陽の光に反射して、澄んだ色を見せてくれる。腹を抑えたところで止まるわけでもない鮮血を埜田は反射的に抑え込んでいた。
 男は気に留めることもなく、自分自身の身体を確かめるかのように大きく広げて見せた。
「俺はどうやらこの中にいるらしい。この子供は俺を喰ったようだ、魚になった俺を……そして俺の知恵と生きた経験が小さな子供を支配することが出来た」
 何を言っているのか分からなかった。
 ただ、あまりにも空が綺麗だった。
 揮発していたものが一点に集中するかのように、脳裏に焼き付いたものを無理やり引っ張り出されるように記憶がよみがえってくる。
「あんたに感謝しないといけない、だって新たな人生を得たんだから。その踏み台になってくれた」
 それは造られたものではなく、子供が見せる無垢そのものに見えた、残酷な感謝の仕方にも思えて自分にはふさわしい結末に近づいているような気がする。
 流れる血を抑える気も起きなかった、腕が持ち上がらないが反射的に手を広げようとすると子供が足先で手を小さく蹴った。
「こんなことになったのは俺だけじゃないだろうさ、他の奴らも、いや、お前も含め魚を喰った奴らは少しずつ蝕まれていく、もう気づかない内に支配されているだろう」
 子供がしゃがんで、顔を耳に近づけてくる。
「俺が最期に言った言葉を覚えているか?」
 そういって子供はぱっと元の素顔に戻ったかと思うと切符を拾ってから走り去っていった。
 次第に群衆がこちらに気づき、ざわめきと合わせて悲鳴が聞こえたように思えた。だが埜田の耳に届かないまま、ただ思い返すのはあの時男が言っていた言葉だった。
 繰り返し、思い出し、反芻する。
 ああ、そうか。
 埜田は霞んだ視界の中でようやく理解した。
 彼の最期、そして始まりの言葉。
「しにたく、ないな」
 目を閉じかけた瞬間、同時に口もまた閉じる。
 声を上げたところで誰にも届かないことを良く知っているから。
 何か言おうとしたが、力が入らずに朽ちていく。
 空に何かが飛んでいったような気がした、以前どこかで見たことあるそれを誰かに教えてもらっていて、記憶しておかなければと懸命だったのに思い出せなかった。
 視界は薄く、目元に羽根が落ちてきたような――


鳥?
 そう、空を飛ぶの。羽根があって、この綺麗な青空を泳ぐの。
 それは、魚と同じだ。
 違うよ、空を飛ぶんだよ。
 空の色も海の色も同じだ。何になっても、変わらない。
 じゃあ見せてあげる。
 何を?
 私がいつか、違うってこと教える、だから‥‥‥。
「私は」



「で、見ず知らずの子供に腹をぶっ刺されたと」
 腕を組んだミコトが眉間に皺をよせ、不機嫌そうに病室内をぐるぐる回っていた。いてもたってもいられず、いっそ殴り掛からんとするほどに病室内で足音を立てると、半ば眠気に負けそうな両目を擦り埜田は言った。
「聡明な子供だったように思える」
 記憶は麻酔のお陰で曖昧になってしまうし、今こうしてベッドで眠っていても、穏やかな休日の一日としか思えなくて場所はともかくとして、久しぶりに長い事眠ったような気がしていた。
 まだ生きていた、もう生きる予定なんて無かったのに。目覚めた時、ここは地獄か? と聞いたがミコトに額を叩かれた。
 刺されたその日、埜田は病室に運ばれ治療を受けて一日、つまり次の日になっていた。こうして朝と共にミコトの不満そうな顔を拝むようにして迎えるとは予想通りとも言えた。
深い刺し傷は数日は様子を見ないといけない、安静にする事と医者に言われた以上しばらくは動けないだろう。動かなくても良いな、と言ったら再びミコトに叩かれた。
ミコトは相当心配してくれていたのか、付きっ切りで病室にいてくれていたようだ。
 病衣の下にはカーゼで抑えられた傷口が今でも少しだけ疼いている。
 膨れっ面のミコトは煙に巻くような言い方をするので、納得をしていないのは見てわかる。もちろん本当の事を言うつもりも無かった。言ったところでどうにもならないし、実際の所あまり顔を覚えていなかったのだ。
「ああそう」
「少なくとも、お前より利口そうな子供だったと思う」
「ああそう! それだけ?」
「それだけだが」
 立ち止まったミコトはその場で足踏みをした。相当苛立っているのが分かる、非常にわかりやすくてこちらとしてもいちいち探る必要が無いのは楽だが、何故そこまで苛立っているのかは分からなかった。
「他に言う事は?」
「今のところ思い当たらないな」
 サイドテーブルの上にあった水色の箱に手を伸ばそうとすると、ミコトが箱を引っ掴んだ。
「吸うな! 話を紛らわすな!」
「心配してくれるなら、静かにしてくれ。傷に障る」
「顔は見たの?」
「覚えていない」
「‥‥‥どうだかね」
 信用されていないらしく、ミコトは再び煙草の箱をテーブルに戻すと腕を組んだと思えば、無言のまま窓の方を見た。外は雲一つない青い空、濃い藍色の汚染された海。他に何かあればいいと思って小さな窓枠の中で目を凝らしても何も、いなかった。
……
 ミコトは背を向けたまま、足踏みをしている。何故そこまで苛々しているのか分からない。何かを言いかけるつもりもないし、言葉も思いつかない。 
 妙だ。
 しかしもっと妙なことを言い出した。
「埜田、脱いで」
「あ?」
 振り返ったミコトは突然そんなことを言い出すので、声を上げてしまう。
 ミコトの赤い瞳はどこか目が据わっていた。奇妙な圧に思わず眉を顰める。またしょうもない悪戯かそれともとは思ったが、埜田の予想は裏切られる。
「脱げ」
「なんで」
「いいから」
「嫌だ」
「だぁーもー!」
 突然ミコトは飛び掛かるかのようにベッドに上がり、埜田の病衣を乱暴に掴むと抵抗する間も無く、そのまま胸元を広げた。外気に触れた肌が若干震え、埜田は身動き一つせず、ミコトの気の済むようにさせた。そもそも傷が完全に塞がっているわけでもないので動けなかったのもある。
 意図が掴めぬまま、恍惚としたミコトの表情に呆気なく囚われる。
 それは人間を見るような目ではない。
「なんのつもりだ」
「埜田さ、ちょっと勘違いしてんじゃないの」
 揺らめいた赤い瞳はこちらを見ているわけではなかった。
 雰囲気が変わったなと思った頃にはもう遅く、既にミコトは埜田にまたがっていた。身動きが取れないのは、ミコトの雰囲気に圧がかかったからと、そもそも動く気が無かったからだ。
 赤い瞳が埜田の眼を覗きこみ、そして侵入してくる。
「っ、お前」
 嫌な汗が流れてもお構いなしに、ミコトの手はナイフで刺された傷口を抉る。とっさに抵抗しようとしたが痛みと、若干の快楽がそこにはあった。
 指先が傷口の縁に触れ、熱を帯びるとわずかに視界が白くなった。このまま白紙のようになってくれればいいのにミコトの呪いのような言葉によって現実に引き戻される。
「見ず知らずの子供に刺されるなんて、ちょっと気が緩んでない?」
 腹立つ、と言ってから指で傷口を突いては、抉るようにして強く押し込んで来る。一瞬の明滅、治りかけの傷から少しずつ果物を潰した時に出てくるような果汁のような、血液があふれ出す。
 苦し紛れ、狼狽えながらも埜田はミコトの手を掴む気にはならなかった。
「お前が腹立って‥‥‥どうするんだ」
「埜田の傷は全部知ってるつもり、だけど、知らない傷があるとさあ‥‥‥腹立つんだ、だから上書きする。私が知らない所で傷なんてつけないで」
 玩具で遊ばれているような手つきに埜田は思わず、ミコトの肩を掴んだ。しかし、ミコトは傷口から手を離さなかった。
「っ、もういい、離れろ」
「やーだ。埜田が油断するからだよ」
 くす、と笑うミコトは視線を違う方へと向けると表情を明るくした。鎖骨あたりには肉が深く抉れたその跡はミコトがつけたもだ。
 指先で撫でられると、ぞくりとしてしまう。睨みつけてもミコトにはただの戯れでしかない。
「あはは、その傷まだ残ってるんだ」
「お前がつけたんだろ」
「深く噛んだからね、まだ痛い?」
「割とな」
「本当は背中の傷も上書きしたいけど、これ以上抉ったら埜田死んじゃいそうだし、これでも我慢してるんだよ?」
「我慢が出来ていい子だな」
「でしょ」
 不敵に笑うとミコトのありのままを肯定も否定もせず、ただ受け入れる。それだけでこの少女がここにいると実感できる。手元に置いてある、離れることも無い。鎖で縛っておく必要もない。
 未だに赤みを帯びた傷はいまだに疼くたびに、思い知らされる。
 あの時から、既に彼女の手中に収まっている。
 そして収まり、こちらもまた収めた。気づけば目を離せず、依存し、劣情に似た濁った感情が沸きあがっていた。出会った時から、吸い込まれるかのように共にいる。理由なんてどうでもよかった。
「埜田はさ、ずるいよね」
「‥‥‥?」
 ミコトは気が済んだのか手を離し、埜田の膝上で肩を落とす。先ほどの狂気は薄らいで、遊び疲れた子供のようにみるみると萎んで、やがて無邪気で、純粋な子供に見えてしまう。
 顔を上げたミコトはどこかつまらなそうで切なさに満ちていて妙に情緒的だった。ただの幼い少女、というだけは済まされないほどに唇を尖らせる。
 そんな顔をさせて覚えは無かった、あまり見せることの無い表情にこちらが戸惑う。
「埜田は私の物だけど、私は埜田の物にはなれないんだ」
 まさかそんなことを言われると思わず、全身が脱力してしまい瞠目する。
 ミコトは一人で困ったように、どこかを押さえつけるかのように笑っていた。
「ちょっと、寂し――ってええっ⁉」
 気づけば小さな身体を引き寄せていた、背中に腕を回し、もう片方の手は腰に触れる。ミコトの慌てたのがわかるくらいにあたふたと身じろいだと思うと、諦めたように力を緩めると埜田の身体に埋まった。
 ミコトの声が胸の中に響く様にして聴こえてくる。
「なに?」
「お前に何もしないのは、する必要が無いからだ」
「なにそれ」
 身体がのけ反ろうとするが、そうはさせないように力を込めて引き寄せる。
 次第にミコトは不機嫌に耳元で言った。
「わかるわけない、言って行動してくれないと。言わなくても分かるだろって態度が‥‥‥むかつく」
 くぐもった声でミコトも埜田の肩あたりに腕を回し、やがては爪を立てんばかりに力を入れる。痛くはない、しかしまた同じことをしたら噛みつかれるだけでは済まないかもしれない。
 まだ生まれたての小さな獣のようで、少し面白い。しかしきっと本心を言ってしまえばむくれてしまうに決まっている。
「お前が、そう言うならやる」
「なにを?」
 相変わらずすっとぼけているつもりなのか、それとも本当に無知なのか分からない。目をぱちぱちとさせて顔を覗き込んで来るその姿は無垢でもあるが、残酷すぎると思う。
「少しは空気を読んだらどうだ」
「空気は見えないから読めないんだけど」
 口だけは達者で、理屈っぽい言動に思わず手を出さずにはいられなかった。服がこすれ合い、とっさにミコトが目を瞬かせると肌に触れた感覚に身体が反応して、わずかに頬を赤くした。
「埜田! どこ触って」
「阿呆」
「っ、ちょ、くすぐった」
 二人の息遣いが交わりそうな時だった。
 がらっと音がした同時に、空気を破く様にして扉が開かれた。
「あ」
「あ」
 埜田とミコトは辿るようにして扉の方を見た。
 白衣を着た男女、それは埜田の治療をしてくれた医者と看護師だった。埜田と歳はそう変わらず、髪を短く切り眼鏡をかけた医者と顔色が悪く、あちこちに包帯を巻いているような看護婦だった。
 医者は今見ている光景をまじまじと見つめ、ばつが悪そうに視線を逸らしたのは決して見なければ良かったという後悔ではなかった、この光景が嘘であれという落胆にも近かった。手に持っていたカルテをたたきつけ、深く息を吸うと号砲かと言わんばかりの大声を響かせた。
「こらーっ! このクソガキ!」
「げっ!」
 狭い空間に銅鑼でも叩いたかのような怒声が響き渡り、ミコトは飛び上がり急いでベッドから降りた。
 医者の動きは早く、ミコトに詰め寄る。ミコトがどういう性格の少女なのかをよく知っているのはミコトもこの医者の世話になっているからもあるが、何より悪戯に何度も叱りつけているからというのもあった。
「お前患者に何をした!」
「埜田がいち早く治るようにおまじないかけたのー」
 当然嘘であることくらいわかる。ミコトが怒鳴られるのはこれが初めてではない。
埜田は早口で告げ、ミコトを指した。
「こいつが傷口触ってきました」
「の、埜田?」
「ほお」
 埜田を見て愕然としたミコトが硬直し、すぐに切り替えて逃げ出そうと病室の窓の方へとそそくさと向かおうとするが、医者が肩を握りつぶすような勢いで掴んだ。油切れのような動きでミコトが振り向くが、ミコトが気まずそうに息を飲んでいる。
「こら、どこへ行く」
「そ、そろそろ家に帰ろうかなと、せんせーの邪魔もしちゃいけないし」
「窓から帰るのかお前は」
「そうだよ! ウチの家は窓から出入りしてるの!」
「ここは五階だ馬鹿者!」
 そんなとってつけたような嘘は誰でも通用するはずがない。
 医者はミコトの首根っこを引っ掴むと唾交じりに息巻いた。
「傷が開いているぞ⁉」
「触ってないよ、ちょっとつっついただけ」
「触ってきたんだ、先生。お陰で血が」
 埜田がシーツを更に剥ぐと傷を見せた、病衣までに微かに血液がついてしまっている。
 状況を即座に理解した医者はぎろりとミコトを睨んだ、蛇に睨まれた蛙と言わんばかりに凍り付いたかと思うと、とっさに窓に足をかけようとしたが当然掴んだ肩を思い切り引き寄せられ、手慣れた動きで腕がミコトの首を締め上げんとばかりに拘束している。
「また怪我人に悪戯したのかこのクソガキ! 大人しくしていられんのか!」
「やってないやってないやってなーい! 傷口に触らないとおまじないかけられないのー! 今度せんせーにもやってあげよっか? バカな頭が治るかも」
「馬鹿はお前だ! ケツ出せこのガキ!」
「嫌だ! 女の子に向かってそんなこと言うの!? セクハラか! 変態! バカ医者!」
 ミコトも散々世話になっている医者だが、目の前にいる医者は怪我人には優しく生者には厳しい。特に悪戯好きで、人様によく迷惑をかけるようなミコトにはもっと厳しく、頭を悩ませる。埜田はともかくとして、血の気が多いミコトは平気で怪我をしたり捻挫したりと何かとこの医者には世話になりっぱなしなのだが、どうも相性が悪いようだった。
「今日という今日こそは許さん! 玉城、ガーゼをつけ直しておいてくれ」
「はい、先生」
 隣の看護婦が小さく頷くと埜田の元へと歩み寄っていた。
 医者とミコトは猫同士の諍いのようににらみ合い、掴み合っている。しかしミコトは片手で持ち上げられており、四肢を使って暴れ始めたがどうにも逃げ出す事は出来ないようだ。
「来い! ケツに鎮静剤入れてやる!」
「医者の言葉じゃないんだよ! 下手な治療ばっかする癖に! お前が治したとこまだ治ってないんだかんね!」
「何度お前の面倒を見たと思っている! その傷くらいどうってことはない」
 とっさにミコトが埜田の裾を掴む。引っ張れば埜田もそのままつられてベッドに落ちようというくらいに強かった。
 ミコトが目を潤ませ、懇願している。
「埜田ーっ、助けて! この医者がっ!」
「患者に縋りつくな!」
「埜田! 助けて!」
 どこか楽しそうに、悪戯を振る舞うかのように不敵に笑う少女は助けてくれるはずだという絶対的な信頼感を見せつける、しかし埜田にはどうにも面白いとしか映らない。
 小さく笑って、ミコトの手に触れるとそのまま引き剥がした。
「行ってらっしゃい」
 突き放すように袖を振り払いミコトの手をはじくと、ミコトは顔を真っ赤にして埜田を指した。
「裏切り者! 覚えてろ埜田! ぜってー退院したらコーヒーにコーラ混ぜてやるからな!」
「うるさい! 怪我人を更に怪我させやがって!」
「離れろ! やめろ、この変態医者! 離せー! セクハラで訴えてやる! あっちょやめっ、やめてー! ぎゃあ!」
 もみくちゃになりつつも、ミコトは病室から追放されてしまい、医者と共に外へ出た、扉がゆっくり閉まったその後でもミコトの声はどこまでも聞こえていた。一瞬の静けさの後で、すぐにミコトの悲鳴が聞こえた。おそらく本当に尻を叩かれたのだろう。あの医者は容赦がないので何度も尻を叩かれていることに違いない。
 埜田は脱力し、それから呆れたように苦笑する。
 本当ならばもう死んでいるはずだった、生きていたところで何もすることもないし、何かを感じることもないと思っていた。
 仮に今ここで死んだとしても、死にきれないだろう。あんなにも騒がしい少女が横にいるのだから。
 溜息が漏れるが、決して絶望しているわけではない。
 ただ、呆れるばかりだ。
「あいつ本当に阿呆だな……
「ガーゼ、付け直しますね」
 病衣を改めて整えると、ガーゼを張りなおしてもらうまで大人しく仰向けになった。
 ふと、何かが横切ったような気がして窓を見た。
 しかしそこには何もいなかった。
 鳥はこの世界に存在していない。
 それを教えてくれた彼女も今はもうどこにもいない。探そうにも、探すことを諦めるのはもうこの世界にはいないことを確信しているから。
 それでも、探したいと感じるのは諦めきれないからなのだろうか?
無意味を込められた真綿を詰められたかのような、地獄とも言うべきこの狂った世界の中で埜田は静かに目を閉じた。


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