@tmskarare
一
わが子を素手で抱くことは、難しい。
赤ちゃんの立場からも、親に素手で抱かれるなんてごめん被りたいだろう。
手が滑れば一五〇センチの高さから落ちる可能性がある。抱いているときに力加減を間違う可能性だってある。感情的になって揺さぶったりしてしまう親がいないなんて、言い切れない。
だから親は、万能腕でわが子を抱く。不慮の事故で幼い命を傷つけてしまわないように。自律したコンピュータが組み込まれ、人間の身体機能を高度に拡張してくれる神の如き腕は、絶対にわが子を落としたりはしない。力加減を間違うこともない。子供が繋いだ手を振り払ってどこかへ行こうとしても、絶対にその手を掴んで離さない。親が子供を叱りつけ揺さぶろうとすると、即座に運動制御機能が働く。感情の動きや注意の向きと身体の動きは切り離され、あらかじめ子供を危険から守ってくれる。
親は安心して、わが子を抱くことができる。
それが二十二世紀を目前にした社会。万能腕のある社会だ。
紅瑚は研究室に残る教授に軽く挨拶をして、万能腕で配車を頼んだ。医学研究棟を出ると、夜の帳が下りはじめている空を背景に、大学の時計塔が目に入った。到着まであと三分、と真っ白い腕にホログラムの表示が浮かび上がる。すぐに自動走行車が大学の構内までやってくるはずだ。
車が到着したと同時に乗り込むと、目的地が自動的に表示される。今日は仕事を早く切り上げて、旧友のバーに向かうことになっていた。
「少し眠るから、目的地に着いたら起こして」
『承知しました。あと二十分後に到着予定です』
リニアに乗ればもっと早く着くが、大学からリニアの駅までは少々遠かった。大学まで迎えに来てくれ、自分一人の空間ができる気軽さから紅瑚は自動走行車をよく使った。ストッキングでは肌寒い日だ。紅瑚は完璧な温度調整のなされたタクシーで仮眠をとることにする。最近は修士論文執筆のための実験や調査が佳境に入ってきており、なかなか睡眠時間が確保できない。
静かな車の心地よい揺れを感じながら、まぶたを閉じる。
まぶたの裏のスクリーンは、かつての実家を映し出す。外観は確かに実家なのだけれど、中に入るとところ狭しと本棚が並び、カーペットの敷かれた床には子供のおもちゃや一昔前のタブレット、大きな紙が散乱していた。
紅瑚は台所にいた。自分の手が包丁を持ち、魚を捌いている。サケだった。
このままだと手に匂いがついてしまう。万能腕を外そうとした紅瑚は、異変に気づく。腕は肘より上の肌の色と同じ。よく見ると、十代の頃と同じ腕だった。
紅瑚は一瞬ぎょっとしたが、そういえば万能腕なんて付けていなかったな、と思い直す。手を洗う。水が肌の上を滑っていく。湿った手を拭う。水気の残る手を、誰かが握りしめてくれる。
私の左手の薬指には、指輪がはまっている。
あるべきところに自然に収まっているので、紅瑚もそういうものだったと納得をする。
「紅瑚」
鼓膜を揺らすのは、ずっと求めていた声だった。あるべきところに収まっている紅瑚を、肯定してくれる声。
「紅瑚。ほら、素手でだって十分暮らせる。万能腕になんてしなくてよかっただろ?」
夢だと気づき目を開けると、宵闇が車内をじわじわと浸食してくる最中だった。街頭のオレンジが一瞬通り抜けると、その瞬間だけ藍色の影が濃くなって、さみしさを倍増させる。
私の孤独も濃くなっては和らぐ。それの繰り返し。
布に落ちる影とは対照的に、シートに放り出した手は全く陰らない。万能腕は全面が液晶のようになっていて、義手それ自体が淡く発光している。さっき見たのは夢だ。目を覚ませ。そう語りかけてきているようにも思えた。
『目的地に到着です』
車を降り、冬の冷たい空気に肩を竦める。ビルの階段を降り、「レディバードラウンジ」という刻印がされた重厚な木の扉を開ける。部屋は十分に温められているとは言いがたいが、地下特有の生ぬるさがある。多少寒くても、今から酒を飲むのだから自ずと温まるだろう。海外製のおいしいビールが手に入ったから来ない、とメッセージをよこしたのは、他でもない、この店の店主だ。
なじみのバーテンダーを見つけ、バーカウンターの方へと進む。
背筋を伸ばして歩くと、ヒールは自然とコツコツと音を鳴らした。お気に入りのフープピアスが揺れる。腕は万能腕。研究者用に調整されたものを愛用している。
選び取った人生が正しかったのか、まだ私にはわからない。選ばなかった人生が今でも束になって私の頭の中に現れる。亡霊みたいに。でも前に進むしかない。
席について、手始めに頼んだ。お気に入りのカクテル、ブラックベルベットを。
二
始まりは、戦禍や事故で手足を失った人へのケアの事業だった。義足や義手などの人々を助ける義肢装具事業は、工学技術の発展とともに目覚ましい進化を遂げていた。着用して日常生活を送ることができるだけではなく、スポーツに特化したもの、人体の筋肉収縮を検知して意図通りに動くものなど、義肢をつけざるを得ない人たちの可能性は広がりつつあった。義肢装具事業の研究が盛り上がるさなか、思わぬ障害が訪れた。感染症だ。
三年程度で感染症自体は治まりをみせたものの、人々の間には新しい衛生観念が残った。
くしゃみや咳をする時にマスクをしていない者は周囲の迷惑を考えない愚か者。換気のできない密室に長居してはいけない。飲食店でのマスクなしの会話は最小限に。回し飲みなんてもってのほか。握手をしたり、相手に素手で触れる際にはアルコール消毒をしてから。感染防止の努力を怠れば相手も自分も感染リスクに晒すことになり、マナー違反と言わざるを得ない。
日本では、感染の波が訪れるたびにマナーや作法が増えていった。感染症が治りつつあり、ウイルスが弱体化したと言っても、感染症は一定期間ごとに流行した。そして、十年ほど経った後。人々は気づいた。
対面で会話をすることは、社会生活を営む上では欠かせない。
しかし、素手で触れる、という行為については、現代技術でなんとかできるのではないか。
人々がそう考えるのには、根拠があった。二〇三〇年、神経科学研究の第一人者だった花山水仙という男が、肘から下を失った人専用の義手を開発していた。義手には自律型AIが組み込まれ、身体の持ち主の意図を筋肉の動きから類推し、より滑らかな動作を実現したものだった。さらにそれだけに留まらず、義手にさまざまなソフトウェアをインストールすることで、元の自分の身体が行っていた動作にプラスしてさまざまな動作を行うことができるようになった。
アルコール依存症で絶えず腕が震えており、自損事故で肘下を失った老人には、神経に作用して手ぶれを防止してくれる機能を。
元軍人の負傷兵で、現在はサバイバルゲームにのめり込んでいる男性には、自動照準機能を。
病気で腕を切除せざるを得ない保育士には、ピアノの演奏アシスト機能を。
花山が目覚ましい研究を行っている時に出会ったのが、藤田美津という環境工学の研究者だった。藤田は廃棄しても環境汚染にならない物質の研究を行っており、花山と出会った時に開発していたのが、廃棄すると同時に、分解されて土に還るという高速分解プラスチックだった。圧縮・復元・分解に優れた量産可能なこの物質と、花山の義手技術が出会い、万能腕のプロトタイプができたと言われている。
感染症の流行と技術の発展。人々は自分の腕が素手である必要はないことに気づいた。
くだんの感染症が流行してから今年で五十年になり、人の生活スタイルは当時からは考えられないようなものになった。
万能腕は藤田の開発したプラスチックを使い、安価に取り替えられるようにした。人間の神経がログインのパスワードのような役割を果たしており、付けた瞬間に自分の情報がサーバから同期される。昔はガラスの板で電話やメールをしていたようだが、今は板の上で指を動かす必要すらない。万能腕がその代わりを果たしてくれるからだ。何もない空中にスクリーンを投影し、任意の操作ができる。
夢の腕は、瞬く間に民衆に広まった。なんと言っても安価であり、環境に優しく、従来の通信機器の代役まで果たしてくれる。
電車に乗る時は手をかざせばオーケー。仕事の際はプリセットで搭載されたブラインドタッチ機能を使えばキーの配置なんか覚える必要がない。食材を用意していれば、料理など万能腕が自動的に行ってくれる。自分は目の前のスクリーンで、見逃したネット番組を見ていればいいだけだ。
万能腕は外した瞬間から分解が始まる。ゴミに捨てても路上に捨てても特に害はない。数十秒後には見えないチリとなり、風に飛ばされていく。万能腕に必要な素材は土中から生成できる。土から作ったものを、土に還しているというわけだ。
スペアは街中で手に入れられる。こだわりがある者は専用のものを購入したり、ブランド物があったりする。会社の入り口、店舗の入り口にはかつての消毒液のように、必ず常備してある。
初めは不便を抱える人のための技術だったはずなのに、人間は二十歳になると自分の腕を切り落とし、進んで身体の方を万能腕に最適化するようになっていった。
手があるなら足も、と誰しも一回は考えるが、今の技術では叶わない。なぜなら花山と藤田は万能腕のプロトタイプを完成させて間もなく、事故死したからだ。二人は結婚する予定だったことまでは公表されているが、死の真相は闇に包まれている。実験の内容はそのまま弟子たちに引き継がれたが、腕と足の神経構造の違いが枷となり、今日まで実現には至っていない。
つまり、人は腕だけを高度に機械化して、便利に暮らしているということになる。
花山紅瑚は受験の時に使った現代社会の教科書の「近代史」の項目をさっと読み、本を閉じた。そして「不要」と書かれた段ボールに仕舞った。
大学生になって二度目の夏休み。いい加減本棚にある受験参考書を片付けないとと思い、小さい頃から使っている焦茶色の本棚から本を抜き取り始めた。ほとんどの教科書や参考書は電子書籍を使っていたが、紙の方も予備として配られている。紅瑚は紙と電子書籍を併用して受験勉強をしていた。その方が記憶に残りやすい、とどこかのネット記事で読んだからだ。特に教科書は、本にメモを取っている位の勢いで使い倒していた割には、数学の教科書には「ぜんぜんわからない」と書き込みがしてあり、日本史探究の教科書は肖像画にもれなく落書きがしてあった。
そんな中、現代社会の教科書は比較的綺麗だった。というか、書き込みどころか角の丸まった様子すらない。なんとなく教科書の内容を目で追ってみても、内容に覚えはほとんどなかった。現代社会の授業は、先生の万能腕の補助機能を使った板書速度についていくのがやっとだったからだ。苦労してノート取るのは今のうちなんだからがんばりなさい、というのが綺麗なつけ爪の施された万能腕を持った先生の口癖だった。
――日本人の万能腕着用可能年齢は、二十歳以上とする。
万能腕の普及に伴い、政府が出した決まりはこの一つだけだった。規制しすぎても経済の成長や新技術の発展を阻害する可能性があり、かといって自身で正しい判断ができない子供にも万能腕を付けさせていいのかという議論は四十年ほど前からずっとなされてきたことだった。この決まりができたのは紅瑚が生まれる遥か前で、親はその法令に従って二十歳で万能腕を付け始めたと語っている。紅瑚の大学でも万能腕を着けているのは教授か上級生だけだ。文系の教科はまだしも、実験など理学・工学系の授業になると万能腕の有無が決定的な差になる。低学年のうちは先輩がアシスタントとして参加してくれる授業もある。現在十九歳の理学部の同級生は、実験参加の際には先輩に参加してもらったり、一足早く二十歳になった同級生に実験を手伝ってもらったりしている。
今日は自宅に一人きり。父は仕事に行ったので夕方まで戻ってこない。母は今日は家にいるはずだが、おそらく買い出しに行っているのだろう。
なんの音もしないとなんとなく耳がさみしい。仕方なく、安物の端末から音楽を流した。この端末は、未成年や万能腕を持たない人間が使っているもので、昔のスマートフォンを四分の一くらいの大きさにしたものだ。電話やメッセージのやり取りをする場合には、目の前にキーボードが浮かび上がる仕様で、音楽を流すときも同様だ。机の上に浮かび上がるホロは、女性アイドルのアルバムジャケットをくるくると回している。こんな時、万能腕なら何回か親指と人差し指をくっつけるだけで音楽を流せる。数年前、万能腕にした姉が自慢げにやってみせたのを覚えている。その彼女はというと、現在就職をして、京都に住んでいる。
京都でシステムエンジニアをしている姉は、万能腕に馴染むのも早かった。順応の速度は人それぞれで、数万人に一人の割合で幻(げん)肢(し)痛(つう)のような症状が出ることもあるから、万能腕への順応が早いことを両親はとても喜んだ。順調に就職活動、大学卒業をして、人生を歩んでいく姉。その背中を、紅瑚はいつも隣から見ていた。
おっとりしている姉――沙和子のことを、紅瑚以上に両親がハラハラして見守っていたと思う。なぜか姉は、両親の持っているアレルギーをすべて受け継いで生まれてきた。牛乳、ハウスダスト、花粉、皮膚炎。しかし現代医療のおかげでアレルギーを持たない紅瑚と遜色ない生活を送ることができていた。両親の心配のおかげか、はたまた元からの性格かはわからないが、かなりのんびりした性格の姉。システムエンジニアなんてできるのかと紅瑚も心配していたが、情報科学の適正があったらしく、現在は万能腕アプリの開発会社で腕を磨いているらしい。
そんな矢先だった。姉が事故に遭ったのは。
自動走行車の誤作動による接触事故だった。
精度は低いが大量生産できる、ということを謳った会社で作られた車だった。街中を巡回する自動走行車にまで予算を割けない自治体を狙ったその会社は、数年前から問題になっていた。その車に足を轢かれた姉は、緊急手術で何とか外見は怪我の前まで戻せたものの、わずかに足を引きずる状態になってしまった。万能腕の無い数十年前だったら、手術が難しく死んでいたかもしれないほどだ、と医者に言われ、恐ろしい気持ちになった。
システムエンジニアの仕事自体は実家でも出来る。そう両親に説得された沙和子だったが、彼女は京都での一人暮らしが案外性に合っていたようで、東京には戻らないと言っていた。そうなると慌てたのは両親の方で、母なんかは学芸員の仕事を休職してせっせと京都に通っている。姉のリハビリを助けるためだ。
子離れできていない両親なのではないかと思わなくもない。だが、姉が体調不良で頻繁に寝込んでいたのをさんざんを見てきた紅瑚にも、両親の気持ちは痛いほどわかるのだった。
せっかくだから大学の教科書も整理してしまおうと思い、本棚を漁った。本の隙間からひらりと紙が落ち、拾い上げる。
中身を見て、紅瑚は「あ」と言った。背後にはアイドルの明るい曲が流れていて、声はかき消される。
万能腕理解促進センター主催・通年授業、環境整備概論。
まだ万能腕にしていない二年生が、取ることのできる授業は限られていた。苦し紛れに取った通年授業は通常四単位のところ、八単位と破格のコストパフォーマンスで学生からも人気の授業だ。課題はそれなりのものが出されるが、出席と課題提出さえ行えば単位取得は確実、という代物だ。
環境整備概論のプリントには無機質な明朝体の文字で、でかでかと連絡事項が書かれていた。『夏休みの課題。万能腕について、家族・親戚・友人以外の第三者に話を聞き、見識を深め、感想レポートを四千字書き提出すること。なお、第三者は自分で選定してもよいが、必ず市民IDを記載してもらうこと。選定ができない場合には、当方からの斡旋も行う。斡旋を希望する人はこちら→』
矢印の隣には、QRコードがある。締切は八月末日……つまり今日。親きょうだいや知人の他に、大学の課題に付き合ってくれるような人を知らない。慌てて歌い続ける端末を手に取り、コードをスキャンすると予約サイトのような画面が立ち上がった。しかし、斡旋してくれる第三者――万能腕研究所所長、万能腕活用スポーツ推進委員、万能腕ソフトウェア開発者、など華々しい人たちが並んでいる――はすでに、別の生徒がアポイントメント済みであることを表す「バツ」が表示されていた。
「マル」の表示されている人を確認すると、サークル「万能腕は洗脳器具である」会長、万能腕の支配を止める党党員、NPO法人生まれたままの腕を愛する会、といった、一言で言えばきな臭い万能腕反対派の人たちの名前が並んでいる。その中に一人、「万能腕非装着者」とだけ書かれた人物が目に留まる。非装着者ということは、少なくとも二十歳以上で、現在まで万能腕を使わず自分と同じ生活をしている人だということだ。簡単なプロフィールが添えられているが、「万能腕を着けて生活していない方です。」とだけ書かれており、男か女かさえわからなかった。
万能腕反対派はある意味、主張がはっきりしているから言われることも想像しやすい。万能腕にするな、万能腕にすれば思考が乗っ取られる、万能腕は寿命を縮める、万能腕は政府が国民をコントロールする装置だ――。しかし紅瑚はいずれ万能腕にするつもりであるし、万能腕反対派を忌避する理由があった。
紅瑚は穴の開くほどそのページを見つめたあと、「万能腕非装着者」とだけ書かれたところの「マル」を、渋々タップしてアポイントメント登録を行った。非着用者が、なんらかの理由で万能腕にできない人物である、という可能性に賭けたのだ。
音楽の鳴り続けるスマホの、甲高い歌声が耳に突き刺さる。
「八単位は大きいもんね」
そう呟いて、ふっと短いため息をついた。最悪の場合でも、いっとき我慢してなんとかレポートを書けばいいだけだ。
プリントを再び畳み、スマホと一緒に机の上に置く。気分を変えるために曲をシャッフルし、再び本棚に手を付けた。
夢中になって片付けをしていると、いつの間にか日は暮れ、両親が帰宅してきた。階下に降りると、いつものように二人は雑談をしながら料理をしていた。万能腕の機能を使い、シンクロしたように動く二人の動作。楽しそうな表情。紅瑚は料理をしているときの二人の表情が好きだった。
腕だけをせわしなく動かしている母が、顔を上げて紅瑚の方を見る。
「そういえば、紅瑚。お盆は過ぎちゃったけど、来週あたり、大伯父さんのお墓参りに行こうと思ってるの。一緒に行く?」
「課題のインタビューの日程が決まってからなら行けるよ。って、お父さんとお母さんが一緒なら土日だよね。土日なら大丈夫だよ。お姉ちゃんの分もお参りしないと」
紅瑚が端末を見てスケジュールを確認していると、父親がしみじみとした声で言った。
「夏休みも課題かあ。なんだか高校生の時とあまり変わらないな」
「万能腕の授業で、万能腕使ってない人にインタビューしに行くの」
努めて何ごともないように言ったが、頭の中であらかじめ用意した原稿を読んだような声色になってしまう。両親は紅瑚の発言によってシンクロを一時停止させた。キッチンの中に、心配そうな顔が二つ。
「大丈夫なのか? もし心配だったら、お父さんが着いて行こうか」
母が、父の顔を見た。父の表情を確認して、自分と同じ気持ちであることを確認しているようだった。母の視線がこちらに戻ってくる前に、紅瑚は気丈に首を振る。
「ううん、大丈夫。花山って苗字で、万能腕がある人が行ったらややこしくなるかもでしょ」
紅瑚は曖昧に笑う。
紅瑚にとっての大伯父さん――つまり、父にとっての伯父とは、花山水仙その人である。万能腕の基礎を作った人。会ったことはないけれど、とても優しい人だったと紅瑚は聞いている。当たり前だ、体の不自由な人の役に立とうとしていたんだから。
しかし、万能腕を目の敵にする人からは、「悪魔」とか「機械に魂を売った人」とか、そういう呼ばれ方をしている。お父さんにとっては優しい大伯父さんが真実。でも、彼らにとってはマッドサイエンティストというのが真実。
不自由でもない腕を切り落として使うことを思いついたのは、みんななのに。
紅瑚は万能腕という現象を便利だとも思っている反面、素直に迎合しきれない感情も抱えていた。普段は世の中のことに文句ひとつ言わない優しい父だが、少し酔うと、万能腕黎明期に受けた周囲の人たちからの仕打ちについて話すこともあった。
理解できない技術だからといって、自分たちの情報を盗んで悪用しようとしている、といちゃもんをつけられたり。大伯父さんを口で言い負かすことのできなかった人たちの暴走で、親族が誘拐されそうになったり。特に、私から見た曾祖母あたる大伯父さんの母親と、その時生まれていた大伯父さんの兄の子供――つまり私の父に悪意の矛先が向くことが多かったらしい。大伯父さんの血縁の女性と子供。大伯父さんを言い負かせないから女と子供を標的にするなんて、卑怯にも程がある、と紅瑚は思っていた。そしてそういうことをした人たちの子供がのうのうと生きていて、大伯父さんが死んでしまったなんて、納得できない。
中学生の頃だったと思う。反抗期に入りかけていた紅瑚は、理不尽さに耐えきれず親に疑問をぶつけたことがあった。確か、万能腕を讃える配信番組を家族で見ていた時だった。
その番組は、花山水仙と万能腕の歴史を語る番組だった。こういう番組は時々ある。研究の末、悲劇的な最期を迎えた研究者というのはドラマ性があるらしく、映画のモデルになったり、演劇の題材として使われることもあるようだ。子供向けの伝記も近々出版されるとの噂だ。
その日、紅瑚が見た配信番組は、国営のテレビ局が制作したネット配信のドキュメンタリー。ドラマ性を抑え、淡々と調査内容を伝えるレポーターが印象的だった。しかし、終盤に差し掛かると、やはりお決まりの内容。父が誘拐されたことと、愛し合う二人の交通事故。本当に事故だったのか。殺されたのではないか。
――彼の才能は、周りにも影響を及ぼした。
――才能の代償として狙われたのは、あろうことか、その命だった。
黒い背景に、スポットライトが当てられる演出。照らされたのは当時の新聞記事。めちゃくちゃになった車両の写真が載っている。
悪いのは父を攫った人だ。執拗に追い回したパパラッチだ。居眠り運転で追突したトラックの運転手だ。
それなのに、すべての事象の要因が、万能腕を発明した大伯父の能力のせいだと言われているように感じられる。それが納得できなかった。
両親は、ある程度歴史のある会社が作る番組ということで、真実を報道してくれることを期待していた。もちろん今までも、親族が知り得た真実が報道され、たくさんの人に周知されてきた。
それでも、殺されたと言い続ける人もいれば、ある種ヒーローのように祀り上げられた花山水仙を妬む人もいた。大伯父を誤解したままの人たちは、死人に口なしとばかりに好き勝手に好き勝手なことを言う。
全員の誤解を解くことはできないのは、みんな分かっている。でも、一人でも多くの人に、真実を知ってほしい。そんな両親の思いが、だんだん萎んでいくのが分かった。ソファの隣の席で、前のめりで見ていた背中は、だんだんと丸まっていく。そんなはずはないのに、床に落ちた影がどんどん濃くなるような気がする。紅瑚は空中に浮かんだ大型ホログラムに向かって、何か投げつけたい気持ちになった。しかしティッシュやリップクリームは壁面収納の中で、壁に触れないと出てこない。自分の持っている端末は、さすがに壊したら落ち込むので投げつけられない。
やり場のない怒りに、紅瑚は拳を握り腕全体を震わせた。
大伯父さんは、婚約者とともにどこかへ向かっていた。万能腕に反感を持っていた人が差し向けたパパラッチを撒くために、車線の変更や経路の変更を繰り返した。万能腕のプロトタイプが出来た頃は、映像技術などは発達していたが、交通の方はまだまだ、人間の運転する自動車が主流だった。非常事態に対応しようとした結果、大伯父の運転する車はトラックに追突され、ガードレールに突っ込んだ。
ガソリンに引火して炎上した車内に取り残された二人の遺体の損傷は激しかった。棺は窓がしっかりと閉められていて、最期に顔を見ることも叶わなかったそうだ。
頭の中に浮かぶ木の箱。窓が固く閉じられ、暗い場所に二つ並ぶそれを想像した。子供の姿をした父親がその間に立ち尽くして、呆然としている。
父は泣いたのだろうか。大伯父には懐いていたとよく話すから、きっと泣いたに違いない。
言い知れぬ不安のような、焦燥のようなものがこみ上げて、胸が詰まる。
「どうして大伯父さんが死ななきゃならなかったの!?」
淡々と読み上げているアナウンサーにさえ怒りが沸き、紅瑚は叫んでいた。
紅瑚にとっては、それはとても許せない出来事だった。当時は万能腕反対派が差し向けたパパラッチだという人間と、万能腕賛成派が反対派を装って、自分たちの反対派の地位を貶めるために差し向けたパパラッチだと言う人間がいたらしい。
こちらから見ると、そんなのどちらでもいい。
父親の大切な人が死んでしまって、悪さをした人が生きている。トラックの運転手は逮捕されたが、パパラッチやそれを差し向けた人間はのうのうと生きている。そんな理不尽なことが起こる人生なら、何のために生きるのか。
中学生になり、小さい頃は自分は特別だと思っていたのに、そうではないということが分かり始めた。大伯父の人生と、子供という枠から解き放たれて大人の仲間に片足を突っ込み、無力だと実感している自分の人生が重なる。
このことを考えていると紅瑚は、体の芯から怒りにとらわれる。理不尽に死んでいった人がいて、その死に追いやった人たちは生きている。不安と怒りが増幅する。
何か行動を起こさないと、小さな体に溜まった爆発力は自分の体の中で暴発してしまうように感じられた。そんな中学生の紅瑚を、父は冷静に諭した。
「伯父さんのために怒ってくれて、紅瑚は優しいな。でも、しょうがないことなんだ。もう起きてしまったことだから。大伯父さんは、最期の時まで大好きな人と一緒だった。だから幸せだった。そのことと、大伯父さんを追い詰めた人たちは関係ない。彼らは自分の仕事をしただけ。どんな人にも、自分の意見を持ち、それを裏付けたいという欲求はある。彼らは求められる仕事をした。そう思うしかないんだ」
父があんなにひどい目に遭ってもなお、どうして諦めているのか、紅瑚にはわからなかった。
私がどんなに頑張っても、大伯父さんは生き返らないし、父親を誘拐しようとした人たちを見つけ出すことすらままならない。覆らない。無力だ。
ずっと、そう思っている。
「紅瑚、大丈夫?」
母の言葉でハッと我に帰る。どうやら両親は万能腕非装着者と会うことを気に病んでいると思っているようだった。
「だから大丈夫だって。なんとかなるよ。会うのもカフェとか公共の場所だし。何かあったら駆け込めるように、交番の位置とか確認しておくね。今時犯罪に手を染める人の方が少ないんだから」
話を逸らしたくて、別の話題を振ることにした。両親は料理を再開しており、紅瑚が三人分の箸を用意したところで、土鍋がしゅんしゅんと音を立て始める。
「それ、何か煮てるの?」
両親が作っているのは明らかにハンバーグだ。煮込みハンバーグにするようで、用意されている土鍋はそのためのものだ。先にソースを作っている父の隣で、母親は楽しそうにフライパンの肉の塊をひっくり返している。
母はハンバーグを焼き終え、土鍋のソースの中にハンバーグを入れた。この一手間が母のこだわりで、こうやってバラバラに調理すると肉の臭みがいっそう少なくなるのだという。
料理は一段落したらしい。万能腕を取り替えた両親は、食卓への配膳を始めている。紅瑚も箸立てを食卓に持って行き、飲み物を入れるグラスを三人分並べる。
目の前に置かれた土鍋の蓋が開く。のぞき込むと、もわっとした湯気を顔にくらった。
今日のハンバーグもいつものレシピで作られたはずだが、肉のいつもと少し違う。
「今日は豚と牛の合い挽き肉が売ってなくてね。ちょっと奮発して牛だけの肉にしちゃった。煮込みには向かないかもしれないけど、牛だけの方が紅瑚も好きでしょ」
紅瑚はうなずいて、お玉を取る。ソースと一緒に、ハンバーグをすくい取る。
少し濃い色の肉の塊。紅瑚の頭に、大学の実験室で培養されている肉の塊が浮かぶ。大きくなるまで培養すると、現在スーパーに流通している肉と同じ形になる。もっとも、食用の培養肉はそこにうま味成分が足され、味付けがなされているが。
昔は動物と魚は区別して呼んでいたらしいが、今はそうではない。ハンバーグも、生きていた動物をわざわざ殺し、粉々に砕いて肉にしていたそうだ。よくそんなことを考えついたな、と子供の頃の紅瑚は思ったが、技術や文明が古い時代はそうまでしないと食べるものが確保できなかった、ということだ。
生き物が食卓に上がるさまを想像すると、なんだか自分がまな板の上の鯉になったような、そんな感じがする。牛や豚や魚を食べるのだったら、人間を食べるのもそう変わらない。
生き物から切り出した肉を食べたことのある父が、「あれは血の匂いがしすぎる。怖いもの見たさで食べたけど吐いたよ」と言っていたことを思い出す。母が想像するだけでおぞましいといったような顔で体を震わせ、幼かった姉と紅瑚は血の匂いとはどんなものなのだろうと顔を見合わせて不思議がった。
培養肉は清潔で、安心で、安全だ。食感も様々で、うま味のみがある。味付け次第でどんな料理にでも仕上がる。
ハンバーグを頬張る。ソースの味が染みていておいしい。野菜もキノコも、フォークでまとめて刺して口に持って行った。
腹が膨れると、不思議と例の万能腕非使用者に対する不安は薄れていった。今日の挽き肉には、リラックス作用のある材料が使われているのかもしれない。その日以降両親は特にインタビューの話に触れることは無かった。
一夜明け、また一夜明け、と日が経つにつれて、紅瑚もインタビューを申し込んだ日のことが、記憶から薄れていっていた。
三
最寄りの駅からリニアに乗り、数分ほどで新宿に辿り着く。夏休みの中学生や高校生に混じって歩いていると、自分も幼く見られている気がする。紅瑚は背筋をぴんと張り、なるべく大人っぽく見てもらえるように背伸びをする。しかし、万能腕のない腕が紅瑚の努力を邪魔する。実際、素手を持っている人間イコール子供、という見方は存在する。万能腕はその肌も多種多様で、白がスタンダード、ビジネスマンは自分の肌の色と似た色、大学生は万能腕にしたてでピンク地に黒の水玉とか透明で内側の機構が見えるものとか、格好つけて少し変わったものを選択することが多い。真っ黒だとゴス系かビジュアル系、ブランドのモノグラムが付いたものを着けているのは成金。そんな人々を尻目に、改札にカードを叩きつける。この動作が一番子供っぽくて、紅瑚は改札を通るのが嫌いだった。
待ち合わせの場所は新宿駅を出てすぐのカフェだった。店内はコンクリート打ちっぱなしの無機質な空間に、木製の什器や茶色のソファが設られていて、レトロな雰囲気。令和ミニマルという言葉が最近流行語大賞になったことを、紅瑚は思い出す。令和の時に流行った白や淡い色の木、例えばパイン材を使った家具などを配置した令和風のインテリアや、ファッションのことを指す言葉だ。令和以降、日本に元号という文化は無くなってしまったが、一つの時代を示す言葉として今でも広く人口に膾炙している。
先に着いてしまったようなのでコーヒーを注文して待つことにした。とにかく四千字のレポートを埋められるだけの情報を得なければならない。幾つか質問を考えてみたが、結局のところ「なんで万能腕にしないんですか?」という疑問に終始する。四千字という少し長いレポートを完成させるには、会った人とコミュニケーションを取り、その人の人生を語ってもらうほかない、と思った。
入り口の見える席に陣取り、店内の冷房が効き過ぎていたのでホットを注文してちびちび飲みながら待っていると、五人目くらいで万能腕を付けていないように見える人が入店してきた。男性だ。思ったよりも若く、髪の毛は青のような銀のような色だった。注文カウンターに歩いて行き、注文して支払いのためにカードを取り出すと、さっき自分を接客してくれた店員が彼の手をじっと見た――気がした。
店内に万能腕をつけていない人間は、彼を除けば私だけだった。だから、彼はキョロキョロと辺りを見回し、すぐに私に気づいた。
「こんにちは、初めまして」
「こっ、こんにちは。花山紅瑚です」
「カズマです」
立ち上がってお辞儀をする。本日はよろしくお願いします、と紅瑚が言葉を続けると、彼は待たせて悪いな、と笑顔で言った。
悪い人ではなさそうだ、というのが第一印象だった。髪の毛の色は少し派手だが、若者ならこのくらいの人はいくらでもいる。彼の持つ大きな目は、一重まぶたがすっきりとした印象を与えていた。真っ黒な虹彩がじっと私を見つめる。不気味とまではいかないが、不思議な雰囲気を醸し出していた。
黒いTシャツから覗く腕はジョイントもなく綺麗にくっついている。指輪はおしゃれでつけているもののようだ。万能腕にしていない人で、長袖も着ずに堂々としている人は初めてだったのでついそこに目が行ってしまう。
しぶしぶといった感じや嫌そうな気配は感じられないことから、インタビューに対して否定的ではないということは分かった。彼が席に着くと、すぐに話を切り出す。
「それでは、インタビューをはじめさせていただきます。えっと、カズマさんはお幾つですか? それと、万能腕にしない理由を教えて下さい」
「二十五。万能腕にしていない理由は、って、それを聞いたらこのインタビュー終わるだろ」
アイスブレイクも挟まずに唐突に質問し、最初からコミュニケーションをとることに失敗した。そのこに気付いた紅瑚は「あっ、そうですね」と口に手を当てる。視線がうろうろと空中をさまよった。まずは何を質問したものかと逡巡していると、カズマはふっと顔を緩める。
「そうだな、まずは、このインタビューを受けた理由を話すか。毎年、俺の居るコミュニティから一人、大学からの授業支援を受ける役が必要でさ。ボランティアサークルみたいなところで、その責任者をあんたの居る大学の先生にやってもらっているんだ。今年は初めて俺の番が来たってワケだな」
「ボランティアサークルというのは、具体的にどのようなことを?」
「万能腕を持たない人の互助会みたいな感じだな。身近な例で言うと……引っ越しの手伝いとか」
「引っ越しの、手伝い?」
紅瑚は思わず訊ね返してしまう。紅瑚に引っ越しの経験はないが、姉の引っ越しを手伝ったことがある。ひたすら段ボールに姉の服を詰める係だ。詰めた側からひょいひょいと荷物を運んでいってしまう両親に、大変さは微塵も感じられなかった。
「万能腕があれば荷物を運んだり荷造りしたりっていうのは簡単な仕事だが、俺たちの場合は何人かの力を合わせなきゃならない。そういうときにお互い手伝い合うんだ」
なるほど、と紅瑚は得心した。段ボールをまとめて十個運んだり、家具を動かすためには力を増強する万能腕の機能が必要不可欠。上京してきた友人たちも、引っ越しには両親の手伝いがないと無理だった、と言っていた。
「それ以外にも、高齢の人の買い出しの手伝いとか、いろいろ。基本的に困った誰かがヘルプを出して、暇な奴らが助けに行くって感じだな」
「百年くらい前にあった、町内会みたいなものでしょうか」
カズマはうなずき、右手で左の腕をさする。無意識のクセなのか、何度かさすってそのまま紙カップに入ったホットコーヒーへ手を伸ばす。熱かったらしくすぐに手を離すと、「こういうときはちょっと不便だな」と苦笑いした。
目の前の彼の居るコミュニティだというボランティアサークルのことが気になり、そのことを質問してみることにした。
「そのボランティアサークルは何人くらいの規模なんですか?」
「数百人だな。千人までは行っていない。地方の支部もひっくるめての数字だな。首都圏で俺がよく会うのは、せいぜい数十人ってところ。まだ万能腕にしていない未成年も何人かいる。あ、あんたを無理に勧誘しようなんて思ってないから。ちょっとビビってただろ」
「他の非万能腕の方は、ものものしい肩書きがあったので……」
「むしろ、万能腕が無いんだから、そこらにいる人間より非力だろ。心配すんな」
と言って、カズマは笑った。一見とっつきにくい見た目だが、初対面の自分にも気さくに話しかけてくれる。万能腕がないことをネタに出来る心の余裕すら持っている。あらゆるメディアで出てくる、万能腕を持たない人々とは違うタイプで、紅瑚は少々混乱する。
「正直、万能腕にしていない人は、なんというか、あの……こだわりが強い方なのかと思ってました」
「こだわりが強くたって、普通に暮らすさ。引っ越しもするし買い物に行くし、歳を取って老いる。あんたの家族と同じ」
あらゆるメディアで荒唐無稽な発言を繰りかえしている万能腕反対派も、同じ。当たり前なことなのに、紅瑚はその言葉にはっとした。彼らは時折、およそ人間に向けられるような言葉ではない言葉を投げかけられたりしている。メディアやネットを見ていて、紅瑚の感覚も麻痺してしまっていたのだ。
皆と違うことを言っている奴らには、石を投げても構わない、という暗黙の了解。
「あんたは、万能腕にするのか?」
「はい、今は十九なので、二十歳になったらそのつもりです」
「よく考えた方がいいよ。あんたんとこの先生もよく考えてほしいから、この授業組んでるんだろ。ま、あんたが万能腕にしようがしまいが、どっちでもいいけど」
カズマは自分の手のひらを見つめ、ゆっくり握ってまた開いた。自分の手を愛おしむように目を細める。紅瑚もなんとなく、カズマの真似をしてみた。肘から続いた皮膚に包まれてる、私の腕。指は万能腕のように細くなく、節くれている。関節の皺は、まだ年若い紅瑚の手にも年輪のように刻まれていた。彼の優しい視線のように、愛おしむ感情は湧いてこない。むしろ、手の甲を眺めているとだんだんと恐ろしくなってくる。
「カズマさんは、怖くないんですか」
「怖い?」
「人間の脳や神経は、機械よりはるかに高い確率でバグを起こします。一つの誤作動が取り返しの付かない事態を招いてしまうかもしれない。今の私は、出来ればその可能性を極力除きたいと思っています。姉や両親がそうしたように」
カズマは顔の前で手を組んだ。考え込むように目を伏せ、組んだ手を口元に寄せる。自身の指に口づけているようにも、祈っているようにも見えた。
「そういう考え方もあるな。仮に俺が外科医だったら、迷い無く万能腕にしていたよ。でも、何て言ったら良いかな。俺は技術に使われる人生じゃなくて、自分の人生の中に、必要な分だけ必要なものを組み込む方が良いと思った。便利なものを使いたくないわけじゃない。間違っても元号があった時代に回帰しましょう、なんて言わない。だからといって、新しいものに囚われ続ける生活もしたくない。だから、そうだな。過去も未来も俺は遠くから見てる。で、それぞれの良いところを少しずつ拝借して、現在を生きてる。万能腕の賛成派とも反対派とも違う。あえて言うなら、どっちからも距離を取ってる『余所者』って言葉が近い」
紅瑚の人生には、生まれた時から万能腕があった。この人はそうではないんだ、と気付いて、改めてまじまじとカズマのことを見てしまう。
一回りも二回りも年が離れているわけではない彼の事が大人びて見える。芯のようなものが通っているのだ、と感じる。出会ったばかりの紅瑚には、その芯がどのようなもので、どのような背景で形成されたかはまだわからない。
彼のことを、もっと知りたいと思った。違う考えを吸収してみたいと思った。
「仮に外科医だったらと仰っていましたが、実際のカズマさんのご職業は何ですか?」
「万能腕がないと、雇ってもらえないことも多くてね。結構職を転々としたよ。今は、万能腕じゃない人が使う物品の検証をしてる。主に子供向けのおもちゃとか。全年齢ゲームのデバッグも。子供向けの商品の仕事が多いかな」
ニュースで見たことがある。おもちゃなんかは触り心地が大事だったり、思わぬところに危険が潜んでいたりする。万能腕でもある程度の機器検出機能や、触覚再現機能はある。しかし、おもちゃのパッケージに書いてある「人間に手による検証をクリアしています」という文言には一定の効果があるらしい。特に、孫にプレゼントを買いに来た高齢者にはそういった商品が好まれるのだ、という。
「最近出た「コマノレス」って知ってる? 携帯型ゲーム機。手のひらサイズで、空中に投影して使うヤツ。あれの操作検証とかに俺も関わったんだ」
関西にあるゲームの一大メーカーがひと月ほど前に発売した、携帯型のゲーム機。合わせて発売されたRPGとともに、今やブームに火が付きつつあることは、ゲームに疎い紅瑚でも知っていた。ゲーム好きの大学の友人は、春学期末の時期になぜ発売したんだ、と言いながら朝な夕なプレイしていた。あろうことか、単位を犠牲にして。
「ゲームには詳しくないけど、聞いたことはあります」
「そっか。あれは、俺たちのプレイデータを元に子供でも出来るよう細かく調整してもらってるんだ。ゲーム会社でそこまでしている企業は珍しい。試作段階では万能腕用の感度に合わせてあったから、人間の手だとセンサの感知ミスが起こりやすくてさ。キー入力を人間の手でなめらかに行えるように、ぎりぎりの所まで感度を下げてもらった。コマノレスは子供を中心にシェアが伸び続けてるようだから、嬉しかったよ」
「今はゲームも大人向け、万能腕向けに調整されてるものも多いですからね。お父さんなんか休みの日にゲームしてたりします」
「今の時代、何かと戦ったりするのもゲームや物語の中くらいだからな。生きやすい世の中だ、って仲間のじいさんも言ってたぜ」
七十年ほど前に日本人の人口が減少に転じてから出生率は減り続け、人口が一億人を切ったのは紅瑚が生まれる前のことだ。しかし驚くことに、万能腕の発達によって、事故死する人が驚くほど減ったのだという。あらゆる病気に対しても、万能腕のおかげで急速に研究は進み始め、死亡率はますます下がるだろうと予想されている。二十歳になって万能腕をつけられれば、とりあえず食いっぱぐれることはない。同時代の結婚適齢期の人々は、結婚して子供をもうけることに昔ほど躊躇を見せなくなった。人口減少の割合はこれから緩やかになっていき、八千万から九千万を維持するのだろう、というのは大学入試科目の学習範囲だったからよく覚えている。
「生きやすい、ですか」
「昔は俺みたいな『余所者』――はぐれ者はネットでの誹謗中傷で追い込まれて死ぬか、貧乏になってのたれ死ぬしかなかったんだと。だからこの状況を作ってくれた万能腕の作者には感謝してるよ」
「でも、万能腕にはしないんですね」
「そ。そういう生き方をしているやつがいてもいいだろ。こういう余所者を排除するでもなくやり込めてるでもなく、受け入れてる世の中が、いい世の中だと思うけどな?」
「そう、ですね」
カズマの言うことに間違いはない。しかし紅瑚の頭には、大伯父や父に迷惑をかけた人たちのことが浮かぶ。
――ああいう人たちも受け入れる社会がいい社会? 本当に? 私の心が狭いだけなのかな。
いつの間にかメモの手は止まっていて、紅瑚は俯き黙り込んだ。カフェの中の柔らかな灯りに、履いてきた黒いズボンの繊維が照らされている。お気に入りのベルトの金具の銀色に、テーブルの模様が反射している。
「納得、いかないか?」
弾かれたように顔を上げ、口角だけを上げたカズマの姿を見る。目は笑っていない。
「いえっ、そんなことは」
弁解しようとするが、言葉が思い浮かばない。背筋に薄ら寒いものを感じ、脳裏に駅前の交番がよぎる。瞬間、カズマの表情は笑みに変わった。
「真面目なお話はこれくらいにして、ちょっと遊びに行かねえ?」
「え!?」
「必要だったら俺の情報だけじゃなくて、去年までのやつらのインタビューのレポートを横流ししてやるよ。確か、過去の奴らもレポート提供前に見せてもらって目を通したって言ってたからな。万能腕じゃない奴なんて大人になるとそうそう会えないぜ。ちょっと付き合え」
カズマはカップに入ったホットコーヒーを一気に飲み下す。喉仏がごくり、ごくりという音とともに上下している様を、紅瑚は見た。自分の手元のコーヒーは、すでに空になっている。
「遊びに、って」
親にどう言い訳しよう。
言い訳、言い訳、とぐるぐる考えているうちに、カズマはすたすたと行ってしまう。
自分の直感では、カズマは悪い人間ではない――と思うが、直感なんて当てにならないのも事実。帰ってしまおうかとも思ったが、ふと手元のメモに目を落とすと、「市民IDを教えてもらうのを忘れない!」と走り書きしてあった。
市民ID自体は公にしても問題ない、一生使う出席番号みたいなものだ。ひとつで信用情報にはならないが、遺伝子情報と合わせて万能腕をはじめとした個人の識別に使われたり、単にグループ分けに使われたり、公立学校では市民IDがそのまま出席番号そのものとして使われていることも多い。その『市民IDを教えてもらうこと』は、レポートの必須要件だったはず。
「あっ」
紅瑚は慌てて荷物をカバンに詰め、彼を追いかけた。