@xxxyueyunxxx
「やれやれ、やっと終わったよ」
パソコンの前に座った黒木嵐――その正体は半永久的な生命を持つ異種族『魔族』であるランフォードは小さく呟いた。軽く肩を回すと、ゴキゴキという重い音がする。これはまた、鍼治療が必要そうだ。
今日は定時であがれる予定だったのだが、退勤十分前に急ぎの仕事が入ってしまった。それでこんなに遅くまで仕事をすることになってしまったのだ。現在時刻は既に夜の九時を回っている。
静まり返ったオフィスをぐるりと見回す。そこにはもう、ランフォードを含めても少人数しか残っていなかった。
――帰ろうか。ランフォードは少し乱れたオールバックにした黒髪を手で整えてから、黒の通勤鞄に荷物を詰め込むと、立ち上がる。
「それでは、お先に失礼するとするよ」
「黒木さん、お疲れ様です」
「君たちも、ほどほどに帰るのだよ」
はい、と答える部下に目礼すると、ランフォードはオフィスを後にした。
勤める会社の入るビルの外に出ると、まだ道は明るかった。
「やっと今日の仕事が終わったよ。これから帰るね」
通話アプリを起動して妻のサティナにメッセージを送ってから、ランフォードは駅までの道をゆっくりと歩き出す。
駅前の繁華街は、まだ人で賑わっていた。活気に溢れているのは良いことだ――肩を組んで語り合う若者たちを優しい眼差しで見やりながら、ポケットから定期券を取り出す。ICカード式のそれを改札口にタッチして駅の構内に入ると、帰りの電車の来るホームまでのんびりと歩いた。
いつもの退勤時間と違うからか、人の数もだいぶ違うし、顔ぶれも異なっている。ホームに入ってきた電車も同様で、そこにいる人の数はいつもの半分くらいであった。
吊り革を持ちながらランフォードは車内を眺める。シートに腰掛けている人たちには眠っている人も多かった。きっと仕事で疲れ果てているのだろう。
この世界の生命たちは、少々働きすぎだよね――いつも密かに考えていることを、ぼんやりと思う。この世界に紛れ込んで生活するのは魔族の自分にとっては心躍ることで、毎日が新鮮なことばかりなのだが、仕事の時間だけは時々、長いなと感じていたりするのだ。会社員の仕事は嫌いじゃないし、むしろ好きな方なのだが。
そのとき、最寄り駅の名がアナウンスされた。君たち、寝過ごすのではないよ――泥のように眠る人間たちにこっそり癒しの魔法を唱えてから、ランフォードは電車から降りた。
最寄り駅の駅前は、既に静寂に包まれていた。ぽつりぽつりと光る明かりの下を、ランフォードは歩く。我が家へと向かって。
光は少なかったが、魔族であるランフォードの瞳には何の差し障りも無かった。魔族の瞳は、闇をものともしないから。
もうほとんどの店が店じまいをしている彩花商店街の暗い道に目をやると、闇の中を歩く影に気がついた。相手は痩身で、背が高い。綺麗にウェーブしている黒い長髪が闇の中に踊り、シトリンの輝きが瞳の位置で煌めいた。
「――何をしているんだね、ジェフ?」
「そういうお前こそだ。遅いな、ラン?」
闇の中から人――正確にはランフォードと同じ魔族の姿が現れた。ヘンリーネックのシャツにスキニーパンツ、それにロングブーツと、ジェフは普段店を営業しているときと同じ格好をしている。
「俺様、散歩をしていただけだ。ランは残業か?」
「君の察している通りだよ、ジェフ。退勤直前に急ぎの仕事が入ってしまってね」
「会社員は大変だな」
ジェフは低く笑う。それはそれは、愉しそうに。
「こんな日も、たまには良いものだよ。――散歩をしているということは、君は暇なんだね。どうだね、ジェフ。少しそこで話をするというのは?」
ランフォードは一軒の店を指差す。そこはまだ営業をしている居酒屋だ。
「君に出会ったら少し話をしたくなったよ。一杯付き合ってくれないかね?」
「俺様別に構わないが――奥方はいいのか?」
「サティナには今から連絡を入れるよ」
ランフォードは通勤鞄からスマートフォンを取り出す。連絡を入れようとして――退勤時に送ったメッセージの返信を見て、思わず小さく声をたてて笑ってしまった。
「どうした、ラン?」
「いや。――サティナは私のことなど、お見通しなんだねと」
ランフォードはサティナのメッセージを温かい光を宿した瞳で見つめる。サティナからの返信は、こうであった。
『お疲れ様でした。もしも帰り道にジェフ様にお会いしても、あまり長いこと引き止めないように。一緒に飲みに行ってもいいけど、長時間にならないようにして下さいね』
わかったよ、サティナ。少しだけにして、今日は帰るからね――。
自分しか見ないメッセージの中でも、きちんと他部族の長であるジェフに敬意を払うことを忘れないしっかり者の妻を誇らしく思いながら、ランフォードは少しだけジェフと飲んでくるよと連絡を入れるのであった。