@humito727
埜田の機嫌が悪いのはいつもの事だ。
そして雰囲気が悪くなるとそれはもう今にも破裂しそうな風船を抱えているような気分になってくる。
埜田はソファに座り、足を組んでいる。先ほどまでカップに入っていたコーヒーは先程まで湯気がたっていたのに今は冷え切っている、それだけテーブルにあった写真を凝視して、深く考え込んでいるということになる。
仕事の話をしたのはかれこれ二時間前。
気まずい。しかし、仕事を持ってきてしまったのはミコトだった。
まさかこんなことになるとは思ってもいなかった、ただ今回の仕事として標的である男が映った写真を持ってきただけの事なのに、ここまで露骨に表情が硬くなるのであれば、答えは一つだ。
この写真に写る男は、埜田の知り合いという可能性。
だが埜田も分かっているはずだった。
この世界は不要とされる人間は狩られ、そして人肉となって人々の食生活を守っている、つまりは不要な存在ですらも今では食糧だ。土葬だの火葬だの、どこかに打ち捨てられるのはもったいない、死体ですら無駄なく活用する。
人間を食べるなんて、とんでもないと誰かは言う。
どこが? と、ミコトは思ってしまうのだが……今更腹を満たしておいて綺麗ごとを並べるなんて都合が良すぎる。豚も牛も食べてるのに、人間は駄目なんてよくわからない。
埜田は果たして、どう思っているのだろう。
知人、友人、恋人、なんだっていい、この仕事に就けば知り合いであろうとなんだろうと関係が無いはずだ、仕事なのだからそれは多分ミコトよりもわかっているはずだと思っている。
が、いつも見せないような表情を目の当たりにしてしまうとミコトもさすがに考えてしまう。そして、当たり障りないようにこう言った。
「あのさ、辞める?」
とりあえず何か言わなければ、物事が進まない。思い切ってミコトが言ってみると埜田がわずかに顔を上げた。
「辞める? 何故」
「何故って……乗り気じゃなさそうだし」
「そう見えるか?」
埜田の一言がとても鋭く、どこか重い。
どうしてそんなにも突っかかるような言い方をされなければならないのか、ミコトはむっとなって後頭部をがりがりと掻いた。
「あのさ、なんか埜田おかしくない? この人知ってるの?」
「知ってるからなんだ、こいつを肉にして食う。それだけの事だろ」
「いや、そうだけどさ……」
埜田は淡泊な口調で言った。
「知っている相手に鈍るとでも言いたいのか?」
「いや、そんなこと思ってないけど」
露骨に態度が違う、言動がいつもより強く感じる。
何も無い、ということは無いだろう。訳ありなのは見てはわかるが、しかし説明しようとも思っていないらしい。
この仕事はいつものように飴屋から貰った。が、飴屋も積極的に仕事を提供してはくれなかった。依頼先が不透明な部分があるというのである、だからとはいえ、飴屋はあくまでも仲介人であり、上層からの文句は言えないのだろう。それ以上の事は何も言わずにミコトにやるかどうかを聞いてきた、こちらとて断る理由もない。
「報酬も悪くない、家賃はしばらく支払えるだろうし、食事も豪勢に食える、この男一人でな」
埜田がじろりと敵視しているかのような鋭い視線を向ける。
そう言ってしまうと、ミコトはわずかに後悔してしまう。踏み込んでいいのか、それとも知らない方が良いのか今も分からないでいた。
「埜田……ミコトちゃんが聞けばなんだって言うって言ったけど、あんまり言いたくないんじゃないの」
「聞けばいい、俺はお前の物だ」
「だけどなんかヘンだし」
埜田の動きがわずかに止まり、それからすぐに動き出したのをミコトは見逃さなかった。
そう言うならば、聞いてみよう……とはなれなかった。どうしてもここに決定的な溝があるような気がする。
互いに沈黙が流れ、しばらく見つめ合ったままだった。
目を逸らしたのは埜田だった。
「なら俺一人でやる。元々一人でやってきたことだ」
「あのさ、こいつがどんな相手か知らないけど、変な感情に揺れすぎてない?」
問題は仕事に支障が無いかどうかもある。だが埜田の様子がおかしい方がもっと気になった。
長い付き合いなのだから聞かずとも少しはわかるつもりだった、ここまで埜田が……動揺しているのを始めてみた気がする。ミコトなりに察した結果だった。
心配も不安もよぎってしまう。遠くへ行ってしまうような、置いてけぼりにされるような。
埜田は言った。
「お前、大事な人とかいないだろ」
「は? なに急に」
唐突にそんなことを言われて、ミコトも呆けてしまう。
どういうことか聞こうとしたが埜田が先に行動を移していた。
「お前にはいないだろうな、そういうものは」
「それと今回の仕事に何か関係があるの?」
「さあな」
会話は短く切られて、埜田がコートを羽織ったと思うとすぐに玄関の方へと向かって行ってしまった。
一方的に喋って、壁を作って、断絶された。
ぽつりと残されたミコトは黙ったまま玄関の方を見ていた。キャッチボールをしていたはずが、いつのまにか一方的にボールを投げられ渡そうとしてもその人間はどこにもいない。
扉が閉まる音ではっとなるが既に遅かった、ミコトは一人になっていた。
「なんなの、あれ」
表情の機微も無く、何を考えているか分からない男だと思っていた。だが今、感情が明らかに揺れているようにも感じた。つまりは感情的にこちらに当てられたのだとミコトは実感した。
大事な人?
訳が分からない。
「何なの?」
ミコトはソファに寝転んだ。ソファの中にあるスプリングが軋む事すらせずにぐっしょりと濡れた綿に包まれたようにして身体が深く沈んでいった。
知られたくないなら、拒めばいい。関係ないって突っぱねて、無視して放っておけばいいのに、どうしてこうもぎくしゃくとしてしまうのだろう。
「そんなの、いないけど」
今はいない、広くなった室内で呟いた。
どうにも胸にしこりが湧く。ぎこちない油切れの歯車が心臓の動きを邪魔しているかのようだ。
「いない、よな……?」
いたとして、それは誰なのか。
考えたことも無いことを、今になって考え始めると頭が痛くなる。
ミコトはソファに寝返りを打ったまま、腕を伸ばして写真を摘まみ上げた。それは今回狙うべき獲物が映っている、歳を重ねている所為なのか若くは見えても所々に疲れが見えている四十代くらいの男だった。どこかのサラリーマンにも見える、頬が痩せこけていて、肉は少なそうにも見えた。
何をしたかは知らない、こんなにも優しそうな顔をしていても本当の所は何も分からない、笑っているからといって中身が良いわけじゃない、泣いているからといって心の内では笑っているかもしれない。
こんな奴でも、悪さをするらしい。それも、魚にして食べてしまおうとしているのだから決して無価値ではない。そんなことに誰も気づかずに日々を過ごしている、知っていても見て見ぬふりをして口を閉ざすのだ。
携帯端末がズボンのポケットの中で震える、連絡先の登録が少ないこの箱に連絡してくる人間はほんの一握りしかいない。
ミコトは写真をテーブルに落としてから、端末を取り出して耳に当てた。
飴屋だ。深く唸るような声、何か納得いっていないといった様子なのがすぐに伝わった。
「あいつは」
「なんか出て行った」
「相変わらず勝手な奴だな」
「どうしたの?」
「情報だ、先程の奴の住所がわかった」
ミコトはにやりと笑った。
そっちが好き勝手にやるならば、こちらも好き勝手にやるだけのこと。
別に埜田がいなかった頃だって一人で生きてきた。互いがぎくしゃくしていて、歪んでいるならば少し一人でいるのも悪くはない。
「それ、ミコトちゃんに教えてちょーだい!」