【必読】五夏/当主×バーのマスター/みんな生きてる/原作程度の残酷描写/未成年飲酒の描写
「バーのマスターをしているイ桀がみたい」の気持ちからうまれました。俺達最強DRF2024で頒布予定の合同誌、Algunos cóctelesに収録されます。
「マスターは45センチ先にいる」
第一話 オリンピックはすぐそこに
第二話 我ら永遠のトムコリンズ (同人誌のみ)傑視点
第三話 ミントジュレップを貴方と
初めて表紙に箔押しを施していて、手元に届くのが、めちゃくちゃ楽しみです✌️ やった〜✌️✌️
@itou_888
オリンピックはすぐそこに
師走に入り、ここ、東京都立呪術高等専門にも本格的な冬がやってきた。近年は、暖冬だなんだと言われてはいるものの、人里離れた山奥だ。暦通りの寒さだった。
霜が降りた地面が、歩くたびにさくさくと小気味よい音を鳴らす。白い息を吐きながら、正門前で迎えの車を待っているのは、呪術高専の一年である虎杖と釘崎だ。
どうやら、事前準備がいる任務らしく、同級生の伏黒が必要な物を探しに忌庫へと向かっている。彼を乗せた車が二人を迎えに来る予定なのだ。
「あ、いたいた」
次に寒いと言った方が負け、という忍耐勝負をしていた虎杖たちに声がかけられる。見れば、大柄な男が向こうからやって来るところだった。
「五条さんじゃん! 久しぶりっす」
「久しぶり。二人とも元気そうだね」
「そっちもね」
五条と呼ばれた男は、日本に四人しかいない特級術師の一人だ。
呪術師とは、呪いを祓う術を持つ者のことで、それぞれ強さに応じた等級が定められている。
例えば、つい最近、呪術高専に転入してきたばかりの虎杖は四級であるし、入学前から呪術師として活動していた伏黒は二級だ。その上で、特級とは、あらゆる等級から斜め上に抜きん出た強さを持つ者のことを指す。つまり、五条はとても強い呪術師なのだ。
そんな五条は、色のない髪を持ち、常に顔の上半分を白い包帯で巻いた格好をしている。彼の恵まれた体格を抜いても目立つ容姿だ。それに加え、今日は、黒い襟巻きに白い羽織という和装であり、普段にも増して存在感があった。
「やー、メンゴ! こっち向けの任務だったんだけど、行けなくなっちゃって」
「元々五条さん向けの任務だったん? そういや、見慣れない格好してんね」
「そうそう。急遽、実家に呼び出されたからさ。全く、僕を呼び出すなんていいご身分だよね」
「それはいいとして。呼び出しってなに? なんか悪いことでもしたの」
釘崎が、じとりとした視線を五条に向ける。この男、呪いのエキスパートであり、本人の実力も申し分なし。呪術界においては大変に頼りになる人物なのだが、いかんせん悪ふざけが過ぎるところがあった。虎杖たちの担任である灰原や、その友人である一級術師の七海が被害にあっている場面を何度も目にしてきた釘崎の視線は冷たい。
「やだなあ、違うって。もうすぐ僕の誕生日だからさ。政治的なアレコレが渦巻く、なーんにも楽しくない会合が開かれるわけ。その前準備として、お爺ちゃんたちに挨拶まわりをするんだよ」
「五条さん、誕生日なんだ。おめでと!」
「ありがと。まあ、そんなわけで、君たちには僕の代理として励んでもらうことになった。特級案件だけど、大丈夫でしょ。なんたって、灰原が自慢する生徒たちだし」
「へへっ」
顔を見合わせて笑う虎杖と釘崎に、そんじゃあ、後はよろしく、と軽い調子で告げた五条が去っていく。その背中に手を振りながら虎杖は首を傾げた。
「五条さんって、もしかして凄いところの生まれ?」
「そっか。アンタ、お上りさんだから知らないんだ」
「釘崎もだろ」
「私のところは、身内に呪術師がいたから。嫌でも知ってる。五条って名前は、呪術界においてとびきりのネームバリューを持つのよ。特に現代ではね。呪術界には御三家って呼ばれるエリート家系があるんだけど、そのうちの一つが五条家」
「へえ」
「そして、あの人が五条家の現当主」
「え? 一番偉い人?」
「偉いかは知らないけど、最も影響力を持っているのは確かね」
釘崎の説明に驚きの声を漏らした虎杖だったが、再び何かを考え込むような姿勢になった。
「次はどうしたのよ」
「さっき、楽しくない会合って言ってたじゃん」
「そりゃ楽しくないでしょうね。純粋に誕生日を祝うわけでもない、権力争いのための集まりだし」
「そうだよなあ。でも、せっかくの誕生日だろ。俺たちで五条さんの誕生日パーティを開くのってどう?」
どこか、わくわくとしたような表情で見つめてくる虎杖に、釘崎は大きなため息をつくと、やれやれといった様子で肩をすくめた。
「アンタはそのままでいなさいよ」
「どういうこと?」
「誕生日パーティの案に乗ってあげるってこと」
「お、マジ?」
「なんだかんだで、あの人には世話になってるから」
「じゃあ決まりな!」
こうして、虎杖たちは五条の誕生日パーティを開催することになった。どんなパーティにするのか、伏黒を含めた三人で話し合わなければならない。考えることがたくさんあるな、と思い浮かべていると、釘崎から話を切り出された。
「ところでさ、私、パーティを開くのにちょうどいい場所を知ってるんだけど」
「おっ、奇遇だな。俺も」
二人が同時に名前をあげたのは、何処にあるのかは分からない、神出鬼没な秘密のバーだ。スペイン語でつけられたという店名を、未だに上手く発音できたことはないけれど、虎杖たちにとって、居心地のいい店だった。
バーのマスターは夏油という男だ。彼もまた呪術師らしく、来店する客も呪術師ばかりだった。
そもそも、特殊な手段を用いなければたどり着けない仕組みになっているため、ほとんど呪術師専用のバーと言ってもいい。
そんなバーは、座学と任務とで、呪術高専と呪われた場所の往復になりがちな生活の癒しだ。いつ訪れても、優しいマスターが美味しい料理と飲み物で出迎えてくれる。魅力的な店なのだ。
「釘崎、まだ名刺残ってる?」
「……この前、真希さんと使った」
「俺も、順平誘っちゃった」
来店するためには、バーの名刺が必要不可欠だった。最近、その名刺を使い終えていた二人は、顔を見合わせて頷く。伏黒を頼ろう。それから数分後、なんとも言えない表情で迎えられた伏黒は、たじろぎながらも早く車に乗るよう急かしたのだった。
呪術高専から車で十数分、駅で電車に乗り換えて数時間。たどり着いたのは、宮崎県は仙台だ。
虎杖の出身地であるということで、一行は彼の案内のもと目的地を目指すことになった。
「今回の任務は、杉沢第三高校に配置された特級呪物の回収だ」
「えっ、俺が通ってた高校じゃん。それなら、こっちが近道だわ」
「うぇ。アンタの高校、特級呪物を飾ってたの」
「いや知らん知らん!」
驚いて両手を振る虎杖に、伏黒はタブレット画面を向けてやる。
「封印された呪物を、魔除けとして病院や学校といった、大勢から負の感情を向けられやすい場所に置くことは珍しくない」
「あ、そうなん?」
「魔をもって、魔を制すってわけね」
「ああ。だが、それが長期間になると、封印が緩んで呪力が漏れだし、逆の効果を発揮するようになる」
「……つまり?」
杉沢第三高校の校門前にたどり着いた虎杖の頬がひくりと動く。
「呪霊を呼び寄せるようになる」
「やべーじゃん!」
悲しいかな、虎杖の母校には、ここから見える限りでも数体の低級呪霊が蠢いていた。任務に際し、生徒や教員などは避難しているそうだが、危険なことには変わりない。
「だから封印しに来たんでしょ」
ポシェットから愛用品である金槌と五寸釘を取り出した釘崎が一歩前に出る。
「帳は補助監督に任せた。俺たちはできるだけ速やかに特級呪物を回収し、忌庫から持ってきた札で再び封印するだけだ。虎杖には白、釘崎には黒をつける。呪物を見つけたら俺を呼ぶように命令しろ」
「了解!」
虎杖のもとへ、伏黒が術式で使役している式神が近づいてくる。白い犬を模した式神を何回かわしわしと撫でてやってから、帳が下ろされたことで、闇に染まった敷地内へと足を踏み入れた。
懐かしい校舎を歩きながら、虎杖は独り言を呟く。
「そうは言っても、通っている間は呪いなんか見えたことなかったし。おっかない呪物がありそうな場所なんか見当つかねえ。心霊現象研究会の先輩たちなら知ってたかもしれないんだけどな」
なあ、と式神に語りかけたが、つんと澄ました態度の白い犬から返事はない。どんな態度でも、オマエはかわいいよ、と再び数回撫でてから歩き出した。
「うーん。呪霊が集まってるのは校庭っぽいな。あの渡り廊下を抜けたらすぐ着くはず」
伏黒の式神を連れ、軽やかに駆け出す。途中で遭遇した低級呪霊は式神が爪と牙とで祓除した。
到着した校庭は、やはり他と比べても呪霊の数が多かった。ふんふんと地面を嗅ぐ式神に案内されるまま着いて行く。校庭の隅、開けた場所に白い小屋が建っているのが見えてきた。
「これ、なんだっけ。気温を測るやつ。小学校の理科で習ったんだけどな」
百葉箱の前に立ち、首を捻る虎杖のズボンを式神が噛んで引く。ここが特級呪物の保管場所だと言いたいのだろう。式神に伏黒を呼んでくるよう指示し、百葉箱に手を伸ばす。伏黒が来る前に呪物の状態を確認しておこうと思ったのだ。
すると、まだ手が触れていないにも関わらず、ぎいと鈍い音をたてて扉が開いた。
「……これが特級呪物?」
朽ちかけた木箱に、破れた封印の札。中には、木乃伊のような干からびた指が入っている。独特な雰囲気があるといえばそうだが、これが探していた特級呪物で間違いないのだろうか。
慎重に取り出して、しげしげと眺める。とりあえず、この呪物をもう一度封印してしまえば任務は終わりだ。特級案件の任務だったが、どうにか無事に終えられそうだと胸をなで下ろした、その時だった。
「その呪物、こちらに渡してもらおうか」
「誰?」
いつの間にか、背後に一人の男が立っていた。軍服をモデルにしたような服装で、大げさに短いマントをはためかせる姿は、自身に酔っているようにも見える。残念ながら虎杖にはあまりぴんとこないセンスだった。
「我々はR! 特級呪物を手に入れ、混沌とした呪術界の転覆をはかる組織である!」
「はあ」
「大人しく、その呪物を渡してもらおう」
偉そうな態度で物騒なことを言っている人物に、おいそれと大事なものを差し出す者はいないだろう。もちろん、虎杖も拒否した。
「くく。貴様、この俺が組織の中でも実力者である新生コークンと知らないな……って、なっ?」
コークンだか、バイエルだが知らないが、長々と続きそうな口上を聞いてやる義理はない。呪力で強化しなくとも驚くべき身体能力を持つ虎杖は、特級呪物を掴んで走り出した。
「っ虎杖!」
「伏黒! なんか変な奴が来たんだけど!」
「こっちにも来た。釘崎のところにもいる」
途中で白い犬を従えた伏黒と合流した。優秀な式神はきちんと主人を連れてきたようだった。
伏黒曰く、任務を邪魔してきたRの一員を名乗る者たちは呪詛師らしい。Rとは、かつて存在した呪詛師集団Qを前身とする組織で、在籍する一人一人の実力はそれほどではないのだそうだ。しかし、特級呪物を強奪するために、かなりの人数をこの高校へ集めたようだった。
呪物につられてやってきた呪霊と呪詛師とを同時に相手にするのは少々骨が折れる。
「俺と釘崎が奴らを足止めするから、オマエはそれを持ってここに行け」
「あ、これ」
手渡されたのは、一枚の名刺。深い藍色の紙に、金色で店名が刻まれた名刺は、夏油が営むバーのものだ。すぐに受け取って、ポケットへ突っ込む。
「使い方は分かるな。Rが侵入してきたということは、帳を下ろした補助監督に被害が及んでいる可能性がある。合流して、バーに行け。あそこでは、店内での呪力行使が禁止されている。万が一、店内まで追いかけてきたところでRにできることはなにもない」
「わかった」
本当ならば、虎杖も戦闘に参加したい。けれど、虎杖は、釘崎の芻霊呪法や伏黒の十種影法術のような術式を持っていなかった。それ故、呪霊を祓除する際は、呪力をまとわせた拳で戦っている。
そのやり方が呪詛師相手にどこまで通用するか分からない以上、特級呪物を持ったままここに残るのは得策ではない。
母ちゃんには術式があったのに。伏黒に別れを告げ、再び駆け出した虎杖は下唇を噛んだ。
偶然が重なって呪力に目覚めた虎杖であったが、それまで呪いとは無縁の生活を送っていた。杉沢第三高校に通っていた頃、心霊現象研究会に在籍していた虎杖は、先輩たちに誘われて成功するはずがない降霊会に参加した。その結果、呪霊に襲われ、先輩たちを庇った拍子に命の危機に瀕してしまった。あの時、伏黒に助けられたおかげでここにいる。
目覚めた能力を、伏黒のように人助けに使おうと考えた虎杖は、呪術高専に転入し、呪術師になりたいと考えていることを家族に相談した。すると、これまで呪力のじゅの字も話題に出したことがなかった母親から衝撃の事実を明かされたのだった。
そこまで思い出して、虎杖は空いた手で自分の頬を叩いた。考えても仕方がないことを悩むのはやめだ。今は、自分にできることを精一杯やるべきなのだ。笑顔が眩しい担任の言葉を思い出して、両足に思いきり力を込めた。
志を新たにし、呪力を纏わせた強烈な拳で帳に穴を開け、外へ飛び出た虎杖が目にしたのは、地面に倒れ伏した補助監督だった。
「ちょ、大丈夫ですか?」
意識はないが、呼吸はしている。早急に安全な場所へ連れて行かなければならない。片手に特級呪物、片手に補助監督を担いだ虎杖は、人体に衝撃が加わりすぎないよう、加減をして走ることになった。
地元なだけあって、何処を通っても馴染みのある道だ。しかし、普段は人通りが多い場所でも通行人を見かけなかった。公共の場所に誰もいないという異様な光景に背筋が寒くなる。呪詛師集団Rの影響なのだろうか、それとも封印が解けた特級呪物の影響なのだろうか。いずれにせよ、不気味なことに変わりはなかった。
――くぎゃぎゃッ!
「くそっ、どけ!」
気づけば、多数の呪霊に囲まれていた。速度を上げれば振り切れるだろうが、意識のない補助監督の無事は保証できない。どうする。ちらり、と制服のポケットへ視線を向けた。この中には伏黒から渡された名刺が入っている。
藍色の名刺に一定時間呪力を流せば、バーに繋がる扉が現れる。そうするためには、呪物か補助監督のどちらかから手を放さなければならない。どちらを手放したところで、状況は悪化するだろうことは容易に想像できた。
追いつめられた先は、地元民である虎杖も訪れたことがない路地だった。壁に背をつけ、呪霊と睨みあう。ここから壁を蹴って、上にあがることはできるだろうか。視線をちらりと向けた先には雑居ビルに取り付けられた外階段の踊り場が見えた。脚力だけであがって、それから? 何度もシミュレーションをしている暇はない。飛ぶか、と虎杖が重心を下げたのとほぼ同時に、目の前の呪霊が共食いを始めた。
「は、え、なに?」
呆気にとられる虎杖の背中に、とん、と軽いものが当たる。
「今のうちに入りなさい」
聞き覚えのある優しい声色に導かれ、一も二もなく扉の向こうへと飛び込んだ。
濃い茶を基調とした店内には、会話の邪魔にならない程度の音楽がかかっている。歌詞のないそれを、インストゥルメンタルと呼ぶことは、ここのマスターから教えてもらった。
「いらっしゃい。今日は厄介ごとを連れてきたみたいだね」
「ま、マスター……」
マスターである夏油の柔らかい微笑みを見て、どっと安堵が押し寄せてくる。虎杖はたどり着いたのだ。呪術師たちの安息地に。
「補助監督は奥のソファ席に寝かせてあげて。そして、そっちの呪物だけど」
腕を組んで、困ったように眉を下げた夏油が手を差し出す。虎杖がそっと特級呪物を置くと、夏油の表情はまた険しいものになった。
「特級呪物、両面宿儺の指。しかも、封印が解けかかっている。こんなに危険度が高いものが、どうして」
「魔除けにしてるって、伏黒は言ってた」
「確かに、強力な魔除けにはなるね。それにしても物が物だ。虎杖、ここに来るまでに呪霊に追いかけられなかったかい」
頷く虎杖に、夏油は続ける。
「それは呪力に呼び寄せられただけじゃない。強力な呪物を取り込むと呪霊の強度が上がるらしいんだ。等級が高い呪霊は自我を持つことがある。そいつらが自身の呪力を強化するために襲ってきたんだろう」
「それって、その木乃伊を食べるってこと? 不味そうだけどな」
「不味いだろうね。ところで虎杖、これを封印する札は持っているかい」
「伏黒が持ってると思う。呪物を回収しに来たんだけど、呪詛師集団のえっと、Rっていう奴らが邪魔してきてさ。伏黒と釘崎が足止めしてる。俺は、補助監督と合流して、マスターのところまでたどり着く役目だった」
話しながら、二人のことを思い出して俯く。そんな虎杖の頭に夏油が手を乗せた。
「そうか」
一度だけ大きく撫でてから、夏油は微笑んだ。
「よく頑張ったね。虎杖がここにたどり着いたおかげで、補助監督は助かったし、呪物を呪霊や呪詛師に奪われることもなかった。お疲れさま」
「ん」
小さな子どもではないのだ。撫でられて嬉しくなるような歳でもない。けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
「もうすぐ伏黒たちもここに来るんじゃないかな。それまで何か飲んで待っているかい」
「いや、アイツらが来てから一緒に飲む」
「そうだね」
夏油は、それがいい、と頷いてからカウンターの中に入って行く。その背中を眺めていると、突然、バーの扉が開かれた。
「見つけたぞ!」
ぜえぜえと息が荒いのは、虎杖を追いかけてきたからだろうか。それとも、表にいた呪霊に襲われたからだろうか。校庭で遭遇した呪詛師が店内に飛び込んできた。
すぐさま臨戦態勢に入る虎杖を止めたのは夏油である。
「どこの誰かは知らないが、ここでは術式の使用や戦闘行為は禁止だよ。ルールは守ってもらおう」
「なんだと、この……」
呪詛師が口を挟んできた夏油を見やる。そしてそのまま、冷や汗を流しながら動きを止めた。
「き、貴様は」
「はて、どこかでお会いしましたか」
「この俺を忘れたとは言わせんぞ! 俺は」
「田舎での米作りは順調ですか」
「覚えてるじゃねぇか!」
「……?」
「聞こえてるだろ! くそ、相変わらず舐めた真似しやがって」
吠えるようにして叫び、夏油を指さした呪詛師が懐から取り出した呪具を構えた。明らかに敵意を持った行動を見て、虎杖が夏油を庇うように前へ出る。
「マスター!」
けれど、夏油は涼しい顔をしていた。
真っ赤な顔で夏油たちに襲いかかろうとした呪詛師であったが、呪具を振りかざした途端、がくん、と床に崩れ落ちた。震える手から呪具を取り落とし、喉元あたりを必死にかきむしる姿は、苦しんでいるように見える。
「術師のくせに縛りの重要さも分からないのか。そんなことだから、当時十代の学生に負けるんだよ。相変わらずというなら、オマエの方だ」
遂には全身を痙攣させ始めた呪詛師に夏油が近づいてしゃがみ込む。
「あの後、どうやって逃亡した? これだから上層部は信用できないんだ」
そうぼやきながら呪詛師の襟首を掴むと、扉の外へと放り出した。
「マスター、今の、急に苦しみだしたのって」
「ああ。虎杖は術式の開示って分かるかい」
「確か、戦闘中に術式について説明することで、性能が底上げされたり、呪力が増加したりするんだったような」
「よく学んでいるね。そう。このバー自体は私の術式ではないけれど、私の生得領域と少し関係があるんだ。だから、私がルールを開示することで縛りの効果は増強する。ここでは誰も、術式の使用や戦闘行為はできないんだよ」
「は~……すげえ」
「ふふ」
不届き者を外に追い出した夏油は、まあね、と得意げに笑った。ちなみに、あの呪詛師は夏油が操る呪霊に飲み込まれて、呪術高専に運ばれていったらしい。つまり、一件落着ということだ。
さて、その後、無事に伏黒や釘崎と合流した虎杖は、マスターお手製のノンアルコールカクテルを飲みながら、疑問に思っていることを聞いてみることにした。
何故、名刺に呪力を流していないにも関わらずバーの扉が現れたのか。そして、目の前で呪霊が共食いを始めたのか。
「扉については、補助監督が持っていた名刺に呼ばれたからだよ」
なんでも、意識を失っていると思われていた補助監督は、虎杖に抱えられて逃げる間、一時的に意識を取り戻していたらしい。そして、自分が持っていた名刺に呪力を注ぎ込んだのだ。
「注ぎ込まれた呪力量が少ない場合は、自動的に呪霊を派遣するように組み込んであるんだけど、いざ来てみたら虎杖が特級呪物と補助監督を抱えているものだから驚いたよ」
呪力量を感知できる名刺なのか。というか、自動的に呪霊を派遣するってどういうことなのか。新たな疑問が出てきたが、その仕組みを説明されたとて理解できないだろう。そう思った虎杖は目の前のグラスに集中することにした。
「うーん、やっぱりここのカクテルは美味しい!」
「ありがとう」
「ねえ、前から思ってたんだけど、この店、ノンアルコールカクテルの種類が多いわよね。なにか理由があるの」
釘崎が、お気に入りのカクテルを飲みながら尋ねる。もちろん、これもノンアルコールだ。問われた夏油は、一つ大きな瞬きをしてからグラス磨きを再開した。
「そうだね。ここの客は呪術師がほとんどだ。突然の呼び出しだってありえる。そうなった時に、アルコールを摂取して術式に影響が出ていたら問題だ。だから、どんな人でも楽しめるようにしているのさ」
「ふうん。まあ、どんな理由であれ、私は助かってるけど。見た目も味もいいノンアルコールカクテルがたくさんあるから!」
「見た目については、色々研究しているからね。褒めてもらえると嬉しいよ」
夏油と釘崎が会話に花を咲かせている隣で、虎杖はまだ使用されていない名刺を取り出し、伏黒に相談を持ちかけた。
「なあ、伏黒。この名刺、俺が使ってもいい?」
「いいぞ」
悩む間もなく即答されたことに拍子抜けして、虎杖は苦笑する。
「そんな、伏黒さん。理由も聞かずに」
「……別に、悪用のしようがないだろう。それにオマエは悪知恵が働く奴じゃない」
「それ、誉め言葉として受け取るからな」
「好きにしろ」
照れ隠しなのか、伏黒はコーヒーを一気に飲み干す。このバーには酒だけではなく、多種多様な飲み物が揃っているのだ。
「さんきゅ。実はここで、五条さんの誕生日パーティを開けたらいいなと思ってて」
「えっ」
驚いた声をあげたのは、伏黒ではなく夏油だった。普段から冷静で、余裕のある姿ばかりを目にしていた虎杖たちは、珍しい姿に顔を見合わせる。
「えっと、パーティを開くのは難しい? 勝手に計画してごめん。なるべく、店の迷惑にならない日を選ぼうと思ってたんだけど」
「いや、そうじゃない。君たちが好きなようにここを使ってくれて構わないよ。ただ、パーティの主役が意外だったというか」
夏油の言葉に、虎杖は五条を思い浮かべた。政治色の強い会合はごめんだといった態度であったが、そうではない催し物ならば参加してくれるのではないだろうか。
もちろん、忙しい身分である五条の誕生日当日にパーティを開くことは難しいだろう。だから、なるべく双方の都合がいい日に開催しようと考えていた。
「じゃあ、パーティをするのは問題ない?」
「いいよ。日付は決まっているのかな」
「それが、まだ決まってなくて。ここが忙しくない日があれば候補を教えてほしいんだけど」
「十二月の七日はどうかな」
グラスを磨き終えた夏油が静かに呟く。
「もちろん、主役との日程があうなら」
「いいんじゃない? 灰原先生か七海さんに聞けば連絡つくでしょ」
「じゃあ、仮の日程ってことで!」
楽しい計画はいくつあってもいい。日頃の感謝を込めて、自分たちが一番お気に入りの店で誕生日パーティを行うのだ。きっと、忘れられない時間になるはずだ。
「そういや、五条さんってどんな酒が好きなんだろう」
「高層ビルの最上階で高っかい酒を飲んでそうなイメージがあるわね。ねえ、マスターが作ってあげるとしたら、何を選ぶ?」
「そうだな」
釘崎の質問に考えるそぶりをみせた夏油は、近くにあったボトルを手にとった。メジャーカップで二種類の酒を測り、シェーカーのボディに注ぎこむ。それからオレンジジュ―スを加えると、慣れた手つきでシェイクした。
完成したのは、オレンジ色が綺麗なカクテルだ。
「オリンピックっていうカクテルだよ」
完成したカクテルを見つめ、楽しそうにグラスをまわす。
「これは、君たちにはまだ早いから、私がいただこうかな」
「それ、どんな味がするんですか」
これまで黙って話を聞いていた伏黒が問う。それに対して、夏油は少しだけ視線を遠くに向けてから、にっこりと綺麗に微笑んだ。
「内緒。伏黒が大人になったら教えてあげる」
夏油のバーを訪れた二日後。特級呪物の回収および、呪詛師襲撃の顛末について書いた報告書を提出し終わった三人は、明るい気持ちで呪術高専内を歩いていた。抜けるような青空は、虎杖たちの心を反映したかのようだ。
久しぶりの休日ということもあり、街へ行こうとしていた三人は、正門の近くで学長と話している五条の姿を見つけた。
「五条さん!」
「おお、皆。今日も元気そうだね」
「お話し中にすみません。五条さんに伝えたいことがあって」
「なにかな」
今日も今日とて包帯で覆われている顔では、はっきりとした表情は分からないが、口元は笑みを浮かべているため、機嫌が悪いということはないだろう。その証拠に、発案者である虎杖が、誕生日パーティを開きたいという話をすると、大げさなほど喜んでみせた。
「えー! いい子たちじゃん。呪術師は根暗ばっかりだから、根明の呪術師は眩しいね」
「わはは。んで、場所なんだけど、俺たちが一番気に入っているところに案内したいと思っててさ。店には許可をとってあります!」
「準備がいいねえ。ちなみにどこでやるのかは聞いてもいいのかな」
「もちろん! じゃーん、ここです!」
伏黒から譲り受けた名刺を高く掲げる。藍色の紙に金色の文字が輝くそれを、五条はしげしげと眺めた。
「……ここの店の人が、僕の誕生日パーティを開いていいよって言ったの」
「うん。好きにしていいよって」
「日にちは?」
「五条さんの都合があう日を」
「十二月七日」
虎杖の言葉を遮り、五条が食い気味に答える。驚いて目を丸くすると、ぱっと声色を軽くした。
「もちろん、店側が問題なければね!」
「夏油さんも同じ日程を提案してましたよ」
そう告げた伏黒に五条が視線を移す。それから口の端をむずりと動かした。
「へえ。他に何か言ってた?」
「いえ、特には」
「あっそ」
伏黒の返答を聞くや否や、口を尖らせた五条はそれ以上何も言わずに去って行ってしまった。
「えっと、誕生日パーティは十二月七日で決定ってことでいいんだよな」
「いいんじゃない。主役と店側の都合がいい日が一緒なんだから」
これまで見たことのある五条は、どこか気安くて、それでも頼りになるような人という印象だった。けれど、先ほどの様子は、どうにも違うように映る。具体的にどこが、と聞かれても答えるのは難しいけれど。
そういえば、最近も同じようなことがあったな、と思い出していた虎杖の隣に伏黒が立つ。
「パーティの件、いい案だと思うぞ。五条さんも喜んでた」
「そう?」
「ああ。俺は家のことで五条さんには世話になったから、恩返しができるいい機会だと思ってる」
「そっか。五条さんが楽しんでくれるといいよな」
ぽつりとこぼした虎杖の肩を伏黒と釘崎が両側から軽く叩く。そんな三人の友情の形を、学長である夜蛾は微笑ましく見つめていた。
*
呪術高専の正門から出てきた五条の姿を認め、頭を下げた使用人が自家用車の扉を開く。後部座席に乗り込んだ五条は、流れていく景色を見ながら胸元に手をやった。
いつもと変わらない、かさりと乾いた音がするのを確かめてから、鼻歌をうたいだす。
自分が仕える主人の機嫌が良いことが、吉と出るのか凶と出るのか分からず、使用人は冷や汗をかきながらも運転を続けた。
ミントジュレップを貴方と
「……後は、私が対応するから大丈夫だよ。ああ。もう遅いから君たちは帰りなさい」
耳に心地よい声が聞こえる。
学生の頃は、誰よりも一番近くで聞いていた声。呪術高専を卒業して、それぞれ忙しくなってからは滅多に聞けなくなった声。
ずっと聞いていたいと思うのに、この声が近くで聞こえるという状況に体が安心して微睡んでしまう。現代最強の無下限呪術使いと呼ばれる呪術師がなんたるざまだと思わなくもないが、そっとかけられた毛布の温かさに抵抗する意思は、初めからなかった。
呪術高専の学生が中心となって開いてくれた誕生日パーティはあっという間に終わった。
用意された飲み物や料理を楽しみながら、学生たちがはしゃいでいる様子を眺める。彼らが五条を祝う気持ちも本物だろうが、こうやって友人たちと何かを成し遂げるという行為そのものが楽しいのだろう。五条にも心当たりがあった。
縁のある人間が全員集められたパーティではなかったが、それでも、学生たちの担任であり、五条の後輩でもある灰原や七海が来てくれた。
また、少し遅れて、同級生だった家入や担任だった夜蛾も参加してくれたのだ。久しぶりに楽しい誕生日を過ごしたように思う。
とはいえ、元々、誕生日の過ごし方に特別なこだわりはない。むしろ、呪術高専を卒業してからは、政治的な関わりと結びつけられてうんざりする方が多かった。
だから、子どもたちが五条の誕生日を祝いたいと言ってくれた時は驚いたし、嬉しかった。彼らから贈られる祝いの言葉は、打算のない純粋な気持ちから生まれている。呪いの世界に身を浸した五条にはくすぐったいものだった。
でも、まだ言われていない。
五条の唯一からは祝われていない。
虎杖たちが去り、静かになった店内で片づけをしている男。目立ちたがり屋のくせに、今日は一切の裏方に徹し、黙々とバーテンダー業を行っていた男。
胸の辺りに手をやり、そっと押さえる。この紙きれ一枚を手渡して、五条から離れていった男。
夏油が、誕生日パーティを開く場所として、バーを提供してくれただけではなく、開催日に五条の誕生日を選んでいたと知った日から、夢の中にいるような心地だった。それはもう、使用人の前で鼻歌なんてうたってしまうくらいには浮かれていた。
果たしてパーティは終わった。
もうここには、五条と夏油の二人しかいない。向こうから話しかけてくるのを待ってやろう、なんて意地を張り続けるのもそろそろ限界で、寝心地のいいソファから上半身を起こして、つい名前を呼んでしまった。
「おはよう、悟。狸寝入りはやめたのかい。それとも本当に調子が悪い?」
「悪くない。絶好調だよ」
「それはよかった」
柔らかく細められる切れ長の目も、すっと伸びた背筋も、艶のある黒髪も、つい昨日も会っていたかのような態度も、全部、変わっていない。呪霊操術なんて遠隔攻撃も可能な術式を使うくせに、趣味特技を格闘技だと言ってはばからない男だ。鍛え続けているのだろう、体格はよくなったと思うが、今日に至るまでに五条が想像してきたままの姿だった。
「まだ帰るつもりがないのなら、何か飲んでいくかい」
「うん」
「じゃあ、好きなところに座ってくれ」
夏油の言葉に甘えて、カウンター席の一番隅に座る。注文したノンアルコールカクテルを作り始める夏油を正面から眺め、頬杖をついた。
「なあ」
「なんだい」
「俺を置いて行った武者修行は楽しかったかよ」
「まあね」
相変わらず、バーテンダー姿が似合う男だった。初めて見た時は素直に褒めてやることができず、家入に先を越されてしまったけれど、かっちりと着込んだ姿は、夏油の真面目な気質を引き立てていると思う。
学生時代の潜入任務とは違い、自分の店だからか、トレードマークの前髪はちゃんとひと房下りているし、長い黒髪はハーフアップにまとめられている。それもまた似合う。そんなものを見せられてはたまったものではなかった。
パーティの間、話しかけてもこない働き者を目で追っていたことに、コイツは気づいていたのだろうか。
「バーテンダーって、付き合っちゃいけない3Bの一つだったよな。今度からはJも追加した方がいいと思うよ」
「なんだい、Jって」
「呪術師」
こちらは真剣に提案しているというのに、話を聞いた夏油はおかしそうに笑うだけだった。
「それは君にも当てはまるだろう。というか、呪術師の頭文字はJじゃないんじゃないか」
「細かいことはいいんだよ」
呪術高専を卒業して、五条たちはそれぞれの道を歩み始めた。どんな生き方をしようと、五条の隣に立つのは夏油以外ありえなかったし、夏油もまた、同じように思っているはずだった。
だというのに、こんなにも離れている時間が長くなってしまったのには理由がある。
それは、五条家当主として本格的に動き始めた頃だった。この頃は、しきたりだなんだと口を出しては五条を縛りつけようとする連中を直接黙らせるために、ほとんどの時間を実家で過ごしていた。現代において五条家が幅を利かせていられるのは、五条本人の強さが一番の要因だ。だというのに、少し離れていると全てを忘れて偉そうに指示を出してくるのだから困ったものだった。
そんなある日、なんの前触れもなく夏油が五条家までやって来た。ちょうど、今と同じくらいの季節だ。実家のバカでかい門の前に、もこもこと温かそうな恰好をした夏油が立っているのは、なんだか不思議な光景だった。
「や、悟。久しいね。当主業は軌道に乗っているかい」
「まあな。そもそも、俺にできないことって無いし」
着物の袖に手を突っ込んで暖をとりながら答える。それもそうか、と笑う夏油の耳の縁は赤かった。どこから、どうやってここまで来たのだろう。冷えた耳が凍傷になる前に温めてやりたくなって手を伸ばす。けれど、その手は、逆に掴まれ、何かを握らされた。
「なにこれ」
「誕生日プレゼント」
「はあ?」
手を開くと、一枚の紙きれが乗っていた。感じる呪力は夏油のもので間違いない。これがどうかしたのかと視線を上げると、目の前の友人はどこか誇らしげな表情をしていた。
「試作品なんだ。でも、ちゃんと発動すると思う。その紙に呪力を注ぎ込んでくれれば、すぐさま私がやって来るよ」
お手軽デリバリー傑くんさ、と誇らしげな夏油と紙きれとを交互に見やる。
「正気か?」
「正気も正気さ。すごくないか? 成功率が高くないから、まだ、世界に一枚だけしかないんだ。悟にあげるよ」
どうやってこんなものを作ったのか。どうしてこんなものを作る必要があったのか。聞きたいことはたくさんあったものの、世界に一枚だけしかないものを五条に渡すという行為自体に感動していたから、つい聞きそびれた。
代わりに、余韻に浸り、紙きれを大事に握りしめてる五条の耳に、信じがたい言葉が飛び込んでくる。
「じゃあ、そういうことで暫く会えなくなるから」
「え」
「九十九さんの伝手で海外に行くことになってね。いやあ、持つべきものは、海外をぷらぷらしている特級術師仲間だ」
「ちょ、は?」
「悟も当主としてバリバリ頑張っているし、私も負けてられないな、と思うんだ」
海外に行っている間は、ミゲルがピンチヒッターとして日本に居てくれるよ、と言いながら厚手のマフラーを解いた夏油が、五条の首にそれを巻きつけていく。
「温かくして、風邪をひかないように」
この男に全く同じ言葉を返してやりたい。今まさに、寒そうな姿になってしまった友人が目の前にいるのだ。
というか、ミゲルって誰だ。問いつめるつもりで口を開こうとするが、厚手のマフラーに遮られてしまう。
マフラーを解こうと苦戦している間に、明るい調子で別れの挨拶を述べた夏油は、ペリカンのような呪霊を呼び出すと、颯爽と空へ飛んでいってしまった。
あれから、何年が経っただろうか。
五条は相変わらず立派に、特級術師と当主業の二足の草鞋を履いているし、夏油も色んなところで強力な呪霊を降伏させてきたはずだ。六眼で見える呪力はより洗練されている。大器晩成型の術式故に、経験を重ねれば重ねるほど、努力すればするほど強くなる友人は、骨の髄まで五条を飽きさせない。
帰国したかと思えば、連絡の一つも寄こさず、バーなんてものを開くあたりも、予想外すぎて最高である。もちろん、皮肉だ。
「……そんなことを言うけれど、結局、悟はあの紙を使わなかったじゃないか」
過去に思いを馳せていた五条は、夏油の言葉に意識を現在へと戻した。
グラスに入れる氷を砕きながら、目の前の友人はどこか拗ねたような口調で続ける。
「そりゃ確かに、あの紙は、ちょっとした実験のつもりで作ったよ。でも、さっぱり使われなかった。つまり、悟は私に会うつもりがなかったってことだろう。それなのに、こちらから君を呼んだり、連絡をするというのも、なんだか負けたような気がして悔しかったんだ。だから、帰ってきたことも伝えなかった。そのことに関しては、すまない。少しだけ反省しているよ」
私も若かったから、と眉を下げる夏油の姿に、いよいよ我慢できなくなって、勢いよく立ち上がってしまった。
急にカウンターの奥へと身を乗り出した五条に驚いた夏油が、目を丸くして身を引く。カウンターテーブルの幅なんて、たかが四十五センチ程度なのに、それだけの距離がもどかしかった。
「会うつもりがなかったわけじゃない。連絡だってしたかった。でも、オマエの電話番号は繋がらなくなってたじゃん」
「国際電話の契約をしていなかったからね」
「そんなことだろうと思ったよ。唯一残されたのは、世界で一枚しかないデリバリー傑くん券だけ。せっかく、傑が世界で一つだけを俺にくれたんだ。もったいなくて使えなかった。それに、俺の都合で、海外で愉快にやってるだろうオマエを呼び戻すのも違うような気がした」
そっと手を伸ばして、ピックを握っている夏油の手首を掴む。ぴくりと肩を跳ねさせはしたが、逃げはしないのをいいことに、そのまま腕の形をなぞるように動かしていった。人差し指が十年以上前に五条が贈ったアームバンドに行きつく。隙間に指を潜り込ませてスプリングを軽くはじいた。
再び跳ねた肩に機嫌をよくして、それから更に上を目指す。指先を首もとへ這わせていけば、丁寧に手入れされた艶のいい蝶ネクタイに触れた。
「これ、ずっと使ってくれてるんだ」
「……もったいないからね」
「あはっ」
そういうことにしておいてやる、と言いながら頬をつつくと鬱陶しそうに手で払われたが、悪くない気分だった。
カウンターチェアに座りなおし、夏油が作ってくれたノンアルコールカクテルを飲み干す。赤い耳を放置して、ぶつぶつと文句を言いながら片づけを始めた姿を見て、置いて行かれたことに対する溜飲を下げたのもつかの間。すぐに、問いたださなければならないことを思い出した。
「つーか、世界で一枚じゃなかったのかよ」
「何の話だ」
「ここの名刺、見せてもらったけど。呪力を流せば、バーへと続く扉が現れるんだって?」
「ああ、そのことか」
片づけをしていた手を止めた夏油が、どこからか名刺を取り出し、手渡してくる。深い藍色に染められた名刺は洒落ていて、バーの雰囲気によく似合っていた。
「見ればわかると思うけれど、これに紐づけられているのは、店。悟に渡した紙に紐づけられているのは、私。ほらね。嘘はついていない」
「……なあ、本気でこの紙、俺にしか渡してない? 海外に行ってる間、ちょっと気になったどっかの誰かに渡したりしてない? ああもう、3Bって本当なんだな。しょうもない俗説が広がるのも分かるわ。傑の場合、ここにJが加わるんだから、いくらでも浮気の心配ができる」
「浮気って、また妙な表現をするじゃないか。その紙は正真正銘、悟にしか渡していないよ。それに、気に入った奴にはもう会っているだろう。ミゲルだよ。私が海外から連れてきたのは彼くらいなものさ」
「そのミゲルって奴は、目一杯こき使ってやったからな。なんだよ、あの術師。強いし、面白過ぎるだろ!」
「そうなんだよ。悟ならそう言ってくれると思った。いい奴だよね、ミゲル」
あの日、夏油の代わりにと差し出されたミゲルは、なんともユニークな術式を使う男だった。
五条が知らないうちにケニアに足をのばしていたらしい夏油がスカウトしてきた異国の呪術師は、自身の術式に加え、一族が編み出す特殊な呪具を駆使して戦う強者だった。だから、存分に働いてもらったのだ。そこに腹いせが含まれていなかったかと言えば、嘘になる。
「でも、そうか。どうにもミゲルと連絡をとりにくいと思っていたら、悟のお手つきになっていたのか」
「ちょっと、嫌な言い方やめろよ。起爆剤としてちょうどよかったから、憂太の修行に付き合ってもらっただけだって」
「ああ、乙骨か! 確か、四人目の特級術師だったね。早く挨拶したいなあ。悟とは面識があるのか。良かったら、名刺を渡しておいてくれないかい」
「おい」
じとりとした視線を向けるも、夏油は痛くも痒くもない様子で、肩をすくめるだけだ。
「聞いたよ。オマエさ、若い奴にばっかり名刺を渡してるんだって? なに? 若いツバメ候補でも探したくなっちゃった?」
「悟こそ嫌な言い方はやめろよ。事実無根だ。ほら、若い子って、結構簡単に思想を染められやすいだろう。だから、呪術界に対する不信とか、そういう話をしやすくて」
「……」
「というのは冗談さ」
「冗談かどうかは俺が決める」
「はは。まあ、実際、思想を染められやすいのは事実だろう。彼らは高専の寮で暮らし、高専で呪いについて学び、高専が斡旋した任務をこなす。全てあの狭い世界だけで完結する生活だ。そんな彼らに、高専以外の居場所があってもいいと、私は考える」
「ふうん? 続けて」
どうやら、夏油が海外へ飛び出して行った理由にも繋がっていそうな気配を感じる。五条が居住まいを正したことが分かったのか、夏油も真剣な表情で続きを話し始めた。
「私は、十代の頃にスカウトされて呪術高専に入学した。同じように呪いが見えて、同じように術式が使える仲間に出会えて、楽しかったよ。たくさんのことを学んだし、成長して強くなったとも思う。でも、だからといって、呪術界や高専の在り方に思うところがなかったわけじゃない」
当時を思い出しながら話しているのだろう。遠くに向けられていた視線が五条へと定まる。
「理子ちゃんのことを覚えているか」
天内理子。星漿体として、天元と同化するはずだった少女だ。五条たちが学生の頃、彼女を、呪術高専の奥深くに存在する天元のもとまで護衛する任務を請け負ったことがあった。
この国は、各地の主要箇所に張り巡らされた結界によって、密かに国土を守ってきた呪術国家だ。
天元とは、それら主要結界の要として存在し続ける不死の呪術師である。不死ではあるものの、不老ではない天元は、一定以上の老化を終えると肉体が変化してしまう。肉体を変化させた天元に何かあれば、国内の呪術的な防衛が破綻する可能性があった。
それを防ぐために、五百年に一度、肉体を一新しなければならない。その肉体というのが、適合者である星漿体だった。
「理子ちゃんは、生まれてからずっと星漿体になることを義務づけられていたし、その使命を受け入れていた。けれど、彼女は外の世界の広さを知った」
護衛任務を通じて外の世界を知った少女は、天元との同化、すなわち自己の消滅を拒んだ。
任務の前にあらかじめ話し合っていた通り、五条たちは同化を拒んだ天内を、彼女の唯一の家族である世話人の黒井と共々、国外へと逃がすことにした。天元や呪術界の影響を考えると国外が最も安全だと判断したからだ。
まだ若かった五条たちは、呪術界を敵にまわすことになろうとも、少女の願いを叶えるつもりだった。責任はとるつもりだったし、自分たちなら、それができると信じていたのだ。
途中、特級術師である九十九由基や、彼女の研究に協力している天与呪縛の男とも手を組んだことで、国外逃亡は無事に行われた。対外的には、呪詛師集団Qの妨害にあい、星漿体を見失ったことになっている。
あれから一度も会っていないが、彼女たちは元気に過ごしているのだろうか。
五条の考えていることが分かったのか、夏油は一枚の写真を見せてくれた。それは、どこかの空港で撮られた写真だった。成長した天内と黒井が笑ってこちらにピースサインを向けている。
そんな姿が見られるのならば、任務失敗の罰則として一時的な降級を受けたかいがあったというものだ。
定められた等級が低いにも関わらず、普段と同じ量の任務をこなす日々は、正直、割に合わなかった。
それでも、初めの頃は、同じく降級された夏油と共に任務に出ることができて、楽しかったのだ。すぐに二級へと昇級させられ、別々の任務を与えられたのも、今となってはいい思い出である。
「理子ちゃんの例は極端かもしれないけれど、バーに潜入任務へ行った時に出会った在野の呪術師も、ケニアで出会ったミゲルも、高専に入学した後の私だってそうだった。自分たちが生きている世界以外を知らないんだ。だからね。選択肢は一つではないこと、それから、選択をしなくてもいいことを知ってもらおうと思って」
天内たちが映った写真を呪霊に飲み込ませた夏油が、片づけを再開する。
「広い世界を知るなら、若いうちがいいって言うだろう。そういうわけで、私は優先的に若い子へ名刺を渡しているんだ」
夏油の言い分に納得したとは言わないが、その主張は理解した。夏油なりに色々考えて、海外へと飛び出し、バーなんてものを開いたというわけだ。しかし、理解はしたものの、五条に何一つ相談しなかったことはいただけない。広い世界とやらばかりに目を向ける友人を、少し困らせてやりたいような気持ちになってきた。
にやりと笑った五条を見て、夏油の頬が引きつる。
「その考えでいくと、呪術界の御三家に生まれて、まんまと当主になった俺は、広い世界も知らず、狭小な価値観で生きているカワイソウな奴ってこと?」
さて、どんな反応をするだろう。この友人が五条に対してそんな風に考えているとは思わないが、聞いてみたくなった。
けれど、夏油は五条の挑発に乗らなかった。
「他の選択肢を選ばなくてもいい、とも言っただろう。それにもし、悟が呪術師以外の何かを目指したいと言うのなら。そうだな。それが叶うまで、とことん付き合うのも悪くないよ」
「は……」
思いがけない内容に、開いた口が塞がらない。そんな五条の額を軽くつついて、夏油は続ける。
「でも、君、呪術師やってる自分が好きだろう。術式をとことん極めて、限界を目指して、思い切り戦うのが好きじゃないか。さっきも言ったけれど、悟が本気で呪術師以外になりたいのなら、私は協力する。いっそ働きたくないというのもありだ。ニートでもヒモでもなんでもいい。悟一人くらいを養える程度の甲斐性はあるつもりさ」
なんでもないように言い切った夏油は、どこかすっきりとした表情をしている。代わりにカウンターテーブルへ沈むことになったのは五条だった。ちょっと意地悪してやるつもりが、とんだ仕返しをくらってしまった気分だ。
「なあに、オマエ、本気でツバメを養っちゃおうなんて考えてるわけ。やめとけ、やめとけ。そうやって、相手をずぶずぶに依存させてどうするつもりなんだよ。若い奴は思想を染められやすい、だったか。それって、オマエ色に染めるって意味? どうしてもって言うなら、もう若くないし、オマエ色に染まってやれないけど、俺にしとけよ」
「またわけが分からないことを。私は悟だからそうやって……ん?」
そこまで言った夏油が、はたと止まった。ぱちり、と瞬きをして、五条をまじまじと見つめる。
「あのさ」
「……なんだよ」
カウンターテーブルに腕を乗せ、顔を伏せてはいるものの、熱を帯びている耳や項は隠せていないだろう。案の定、それに気づいたらしい夏油が息をのむ音が聞こえてきた。
「私の勘違いだったら、聞き流してもらっていいんだけど」
「……」
「今日はずっと悟の言葉選びが妙だと思っていたんだ。具体的には3Bの辺りから。付きあうだの、浮気だの、ツバメがどうとか。挙句の果てに、俺にしとけ、だなんて……」
「だなんて、なに? 言えるもんなら言ってみろよ」
「どうして急に強気なんだ。いや、えっと。悟って、もしかして私のこと好きなのかい」
「あーっ!」
あまりに直接的な質問を浴び、耐えられなくなった五条は伏せていた顔を勢いよく上げる。それでも、真っ赤であろう顔を見られる前に両手で素早く隠した。
「オマエさ、よく恥ずかしげもなく、私のこと好きなの、なんて聞けるよな!」
「悟が言えって言ったんだろう。私だってこんなこと初めて言ったさ。でも」
「そうだよ」
夏油の言葉を遮って、声を絞り出す。一滴もアルコールを飲んでいないはずなのに、全身が熱くて、熱くて仕方がなかった。
まだ救いがあるのは、厄介な好奇心を発揮されて、いつから私のことが好きなの、なんて聞かれていないことだ。そんなこと、五条だって知らない。いつの間にか、五条にとっての唯一に、違う色の唯一が追加されただけなのだから。
「そっか」
五条の魂の叫びに対して、まるで知らない土地の天気を聞かされたくらいに軽い返事が聞こえてくる。
文句の一つでも言ってやらねばなるまいと、指の隙間から睨みつけながら開いた口は、間抜けな形で固まったまま動かせなかった。
何故なら、見上げた先の夏油が嬉しそうにはにかんでいたからだ。
ああ、と心の中で独り言ちて立ち上がる。コイツは、俺に好かれていると知って、こんな表情をするのか。思うままに引き寄せて、頬に触れても今度は払いのけられなかった。
バーテンダーと付き合ってはいけない理由は、昼夜逆転しているからと、人と会う機会が多いからだったか。
もしも、そんな理由で夏油が付き合わない方がいい人間だと判断されていたのならば、五条には幸運なことだった。たとえ、そこに呪術師であることが加味されたって関係ない。五条にとって、それら全てが、夏油と付きあうことの支障になり得ないからだ。
逸る気持ちのまま、後頭部にまわした手に力を入れる。抵抗せずこちらへ動いてくれる夏油に、胸が苦しくなった。
ゆっくりと顔が近づいていく。触れあう直前でも逸らされない視線を受けて、愉快な気分になった。やっぱりカウンターが邪魔だな、と頭のどこかで思いながら唇を重ねる。
「悟、誕生日おめでとう」
しかし、些細な不満も、唯一から贈られた言祝ぎで全てチャラになるのだから、我ながら単純な人間である。傾けていた顔をそっと離し、それでもなお鼻先が触れる位置で見つめ合う。
これまでに経験した中で一番嬉しくて、忘れられない誕生日になった。
*
濃い茶を基調とした店内には、会話の邪魔にならない程度の音楽がかかっている。歌詞のないそれが、インストゥルメンタルと呼ばれていることを、虎杖はもう知っていた。
これから呪術高専に帰ったとしても、寮母の作った夕食にはありつけないだろうという時間帯。任務を終えてへとへとになった虎杖たちは、夏油のバーを訪れていた。
「マスター、お代わり! これ、なんて料理? めちゃくちゃ美味い」
「カランガとチャパティだよ。ケニアの友人が得意な料理でね。今度、本人に伝えておくよ」
「はー、いつも思うけど、マスターって交友関係が広いよな」
異国生まれの料理に舌鼓をうちながら、虎杖がしみじみと呟く。同じように、美味しい料理とノンアルコールカクテルを楽しんでいた釘崎が、訳知り顔で口を開いた。
「バーテンダーって職業だからでしょ。さすが、付き合っちゃいけない3Bってところね」
「なんだそれ」
「美容師、バンドマン、バーテンダー。付き合うと不幸になるって言われている三職種よ。この頭文字を集めて3Bと呼ぶの」
「……美容師の頭文字はBじゃねえだろ」
「細かいことはいいのよ」
釘崎の説明に伏黒が突っ込みをいれる。
「異議あり!」
そんな和気あいあいとした会話に、一人の乱入者が現れた。
「その俗説は否定されているよ! 実例をもってね」
会話に割り込んできたのは、カウンター席の隅で軽食と飲み物を嗜んでいた五条だ。
以前までは、なかなか会えないレアな人物だったはずだが、ここ最近は、バーに来れば、必ずと言ってよいほど目にしている。
「実際の声もお届けできるよ。聞きたい?」
「遠慮しとくわ」
ひらひらと手を振って食事を再開した釘崎に、五条はつまらなさそうな表情を浮かべたが、すぐに気を取り直していた。
特級術師でもあり、五条家当主でもある五条は、忙しいはずじゃなかったのか。そんなことを考えていた虎杖は、あることに思い至った。
「マスターって、なんでバーテンダーになったん? 呪術師の仕事も続けてるんすよね」
「あ、それ、私も気になる」
調理に使った道具を片づけていた夏油は、自身に向けられる好奇心いっぱいの瞳に苦笑した。
「うーん、そんなに特別な理由じゃないんだけど、いいかな」
元気よく頷く虎杖たちを見て、それならばと話し始める。
「バーを開く前は、海外で武者修行をしていたんだ。いろんな国を巡ったよ。特級術師の九十九由基って知っているかい? 彼女の伝手で、普通は目に出来ない施設を案内してもらうこともあった。そうやって生活していると気づくんだけれど、海外では、天元の影響が薄いから場所によっては帳を下ろすことが難しい場合があるんだ。そうすると、夜を待ってから祓除を始めなければならなくなる」
「へえ」
「必然的に昼夜逆転生活の完成だね。呪霊を祓除し終わるのは、ちょうど今くらいの時間だったかな」
「もしかして、夏油さんも俺たちと同じ状況になったんですか」
「そうそう。でも、空腹になろうが近くに食事ができる場所がない。他に解決方法がないわけじゃないけど、蟲は最終手段にしたいだろう。どうせなら、仕事で疲れたあとは美味しいものを食べたいからね。夜遅くに温かい食事を求めてさまよっていると、営業中のバーを見つけることが多かった。バーは夕方から開店するから、夜に活動する呪術師にとって便利がいいんだ」
「言われてみればそうかも」
「だから、バーを選んだって感じかな。もちろん、やるからには手を抜かないつもりで、呪術師だけじゃなく、バーテンダーの修行もやったよ。仲良くなった店で働かせてもらったりしてね。店を開くことを決めてからは、経営者に相談もしたな」
「はい! マスター!」
ここまで行儀よく話を聞いていた虎杖が挙手をした。
「どうぞ、虎杖くん」
「シェーカーの振り方も特訓しましたか!」
「やったよ。そうだ、コツを教えてあげよう。よく見ていてね」
頷く子どもたちの目の前で、夏油はシェーカーを手にとった。慣れた手つきでボディに三種類の果実ジュースを注ぎ、ストレーナーとトップを被せ、指先で支えるようにして持つ。体を横に向け、斜め上下にシェイクしてみせると、感心したような声が聞こえてきた。
「はい、どうぞ」
「美味しそう」
「三人にサービスしてあげる。ところで虎杖、コツは分かったかな?」
「うーん、カッコよかったのは分かった」
「あはは、それだよ。格好つけて振るのが正解。結局、どんな振り方でも、中身がきちんと混ざっていればいいのさ」
「それってコツなの?」
夏油の話を聞きながら盛り上がっていた虎杖たちは、デザートまで食べ終えてしっかりと腹を満たした。これから補助監督が迎えに来てくれるらしい。それぞれ夏油と五条に挨拶をしてから、三人は店を後にした。
*
賑やかな子どもたちが去った後は、いつも寂しさを感じる。
少しだけ感傷的な気持ちになりながら皿やグラスを片づけていると、物言いたげな視線を感じた。カウンター席の隅から、五条がこちらをじっと見ている。夏油が気づいたことが分かったのか、ぱっと表情を明るくした五条は勤勉な学生よろしく挙手をした。
「はい、五条くん」
「夜に飯を食わせるだけなら夜間限定の食堂でもよかったんじゃないですか」
わざとらしく真面目ぶった顔つきで問いかけてきた五条に、肩をすくめる。
「九十九さんの伝手で色んな施設を見せてもらったって言っただろう」
人目を忍ぶ必要のある組織は、表の顔として別の施設を利用していることが多かった。例えば、高級紳士服の仕立て屋だったり、ウイスキーの製造会社だったりした。
「そこで出会った人たちと食事に行く機会があったんだけど、秘密の話をするのにもってこいなんだよ、バーは。明るくて、開けた場所では話しづらいことも、暗くて閉鎖的であれば話しやすい。かつて、在野の呪術師がバーを利用して秘密結社を作っていたようにね。酒が入っていれば、なおさら口は軽くなる。実際、ここに来る客が酔って有益な情報を零してくれることも少なくないのさ。わざわざ高専から独立して動いているんだ。向こうが握っていない情報も欲しいからね。そういう意味でも、バーは便利なんだよ」
「わー、悪いんだ」
けたけたと笑う五条に、夏油もお手本のように綺麗な笑みを返した。何かを守ろうとするならば、手数は多い方がいいに決まっている。呪術界を生きる呪術師の選択肢を増やすためにも、使える情報はいくらでも欲しかった。
「でもさあ」
笑いがおさまっても上機嫌なままの五条が器用に上目遣いをする。
「せっかく、酒の力で情報を引き出そうって魂胆なのに、ノンアルコールカクテルばっかり置いてちゃ、効率が悪いんじゃねえの」
「ああ、君には言っていなかったか」
拭いていたグラスを置いた夏油はカウンター席の隅に移動する。何のことだと訝しむ五条の目の前で、両手をついて身を屈め、その耳元で囁いてやった。
「この店にノンアルコールカクテルが多いのは、君のためだよ。いつか、悟が来店した時に、一つでも好きな飲み物が見つかるように、ね」
体を離し、最後におまけとしてウインクをつけてやる。すると、真っ赤な顔をしかめながら、再び挙手した五条が唸った。
「……気づいたことがあるんですけど」
「どうぞ、五条くん」
「バーテンダーとか、呪術師とか関係なく、単純にオマエが人たらしなんじゃねえの」
「あははっ、なんだそれ」
「絶対そうだ。こうやって、思わせぶりな態度をとったり、勘違いしそうなカクテル言葉を使って相手を悩殺してきたんだ」
「悩殺って。それを言うなら、先に仕掛けてきたのは悟の方だろう。私は、忘れていないよ。悟が、トムコリンズを注文してくれた時のこと。カクテル言葉は親友だっけ? 随分と可愛い真似をするじゃないか」
「うるせえ、うるせえ。俺の若気が至ってたんだよ。オマエの悩殺バーテンダー業と一緒にすんな」
「あの時、悟がトムコリンズを選んでくれて嬉しかった」
「あっそ」
そっぽを向いてしまった五条を放っておいて、カクテルづくりを始める。すると、音につられて、ちらりとこちらを向くので、いくつになっても可愛げがある男だった。
「なに作ってんの」
「これは、昔、私がよく作っていたカクテル。バーテンダーの修行中にね。そう考えると、潜入任務の時に身につけた知識にはずいぶんと世話になったな」
グラスにミントと砂糖、少量の水を入れてよく潰す。それから砕いた氷とウイスキーを注ぎ、グラスに霜がつくまで混ぜ合わせた。最後に溶けた分の氷を足して完成だ。客に出すならミントやレモンを飾るが、自分で飲む分にはこれでいい。
「私がバーを選んだ理由の一つにはね、悟が関わっているんだよ」
学生時代に、異なる格好で向かい合った自分たちの姿を見て感じたことが、夏油の背中を押した。
それぞれが別の道を進んだとしても、きっと自分たちの在り方は変わらない。むしろ、相手ががむしゃらに頑張っていればいるほど、こちらも頑張れるような気持ちになる。
「それでも、このままでいいのかを悩む夜は何度もあった。そんな時に飲んでいたのがミントジュレップ。気になるカクテル言葉は、明日への希望さ。これを飲んでから朝を迎えるんだ。ふふ、素敵だろう」
「俺も飲む」
夏油の話を聞いていた五条が、グラスに手を伸ばす。しかし、五条が学生の頃から酒を飲まないことを知っている夏油は困惑してグラスを遠ざけた。
「確かに俺は下戸だし、普段から酒は飲まないようにしてる。アルコールの影響で脳がバグって、術式が暴走するなんてことになったら大ごとだからな。でも、ここでは縛りの影響で術式が発動しない。それ以外も戦闘行為を行おうとすれば、強制的に武装解除されるようになってるだろ。結界術の応用か? 条件付けが上手くできてる。器用だね」
「君にそう言われるのは、存外、悪くない気分だ」
執拗に狙われるグラスの行く先にばかり気をとられていると、素早くその手を掴まれた。一部が硬くなっている薬指をなぞられる。無下限呪術すら発動しない店内だ。五条の熱が直接伝わってきて落ち着かない気分になった。
「俺に会わない間に、色んなことができるようになったんだな。今度、詳しく教えろよ。俺もそうするから」
「それは、いいけど」
「ああ、酒のこと? 結論、発動しないものを心配する必要はない。違うか?」
「……違わないね」
「だろ? それに、明日への希望っていうなら、ますます飲まないと。俺にとってのミントジュレップはオマエだから」
したり顔で言い切って、ウインクをした五条の手を払う。それから無言でカクテルを作り始めた。
ウインクなんて、夏油の真似をしたつもりだろうか。実際にやられると、恥ずかしいものだった。
ミントとレモンが飾られたグラスを差し出しながら、そんな気分にさせてくれた男へ、胡乱気な視線を向けてやる。
「BやJだけじゃなく、Gにも気をつけるべきかもしれないね」
「なにGって」
「五条のG」
「あはは、オマエもじゃん。夏油のG。俺たち、危険な者同士お似合いってことだ。ねっ、ダーリン」
「そうかもね、ハニー」
映画に出演する俳優のように澄ました表情でしばらく見つめ合い、柄にもないことをしたと同時に吹き出して笑う。
バーの一角では、いつかのように、バーテンダー姿の青年と、仕立ての良いスーツ姿の青年が向かい合っている。触れない位置までグラスを近づけた二人は、当時とは少しだけ変わった関係性と、これからも変わらない関係性に向けて、乾杯した。
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