@matcha_nocha3
風花の中で、ふたり。
朔風が吹いて首をすくめた。空は高く晴れ渡るも吐く息は白く、鼻の頭にちょんと乗った雪の粒が見る間に溶けていく。その健気さが胸をくすぐって、笑う吐息が漏れた。
微笑んでいると、明儀は何をしているのかと横目で青玄を見つめる。その視線に気づき、青玄は自分の鼻の頭を指さして笑った。
「見て見て明兄、鼻の頭に乗った雪が溶けていくよ」
「だから?」
「なんかこういうの良いよね」
明儀は訝しげな表情で、まじまじと青玄を見つめると、ふいと顔を背け歩き出した。
「え、面白くない?」
「……別になんとも思わない」
「なんで?」
「私には必要ないことだ」
そう言って凍った道でもすたすたと歩く明儀は、ふわふわともこもこの重ね着ばかりの青玄と打って変わって、外套一枚羽織っただけの身軽だ。
「待ってよ。明兄、待って!」
慌てて追いかける青玄の足取りは転ばないよう恐る恐るで、明儀との距離は開いていく。
何か怒らせたのだろうか? 彼がぶっきらぼうに答えるのはいつものことだが、なんだか一瞬様子がおかしかった。腹が空いたのだろうか? 喉が渇いた? 疲れたのか? いつもなら待ってと言えば仕方なしに立ち止まってくれるのに、今日はなかなかに止まってくれない。意味がわからず、ぐんぐん開く距離にじわじわと寂しさが募った。
せっかく今日のお出かけのために新調した外套も、心なしか落ち込んで見える。きゅっと裾をいつのまにか握りしめてしまい、皺がよった。
襟元は珍しい霊獣の毛で覆われ、ふわふわと青玄の頬をくすぐるこの外套は色鮮やかですぐに気に入った物だ。これを着て、明兄と出かけたらどんなに楽しいことだろうと、今朝は、この外套を羽織り彼の隣に並んだ自分を想像しながら袖を通した。
確かに美しい雪景色が有名な場所に行きたいと言ったのは青玄で、わざわざ寒い中景色を見に行く意味がわからないと面倒がる明儀を引っ張ってはるばるやってきた。それがいけなかったのか? 今日はそんな気分ではなかった?
冷たい空気とは違う冷たさが心の中まで吹き荒び、むっと唇が自然と突き出た。
──明兄の馬鹿。
心の中で悪態をつき、頬を膨らませ、距離が開いた黒衣の背中を見つめる。急ごうと脚を踏み出したその時。つるりと靴が滑る。なんとあれほど気をつけていたのに、凍った箇所に足を滑らせたのだ。
「わっ!」
「っ、青玄!?」
片足の踏ん張りが効かず視界が揺れる。後ろに倒れ、盛大に尻餅をつき、眉根を寄せた。痛さ半分、おろしたての外套を汚してしまった悔しさ半分だ。
「いてて……」
「青玄」
転んだ際の青玄の声を聞き、先を歩いていた明儀が駆けつける。立ち上がれないでいる彼に手を差し出し、余計にも小さな小言を付け加えた。
「何をしてるんだ。気をつけて歩け」
いつもは気にしない明儀の小言の棘がちくりと刺さり、青玄の肩が落ちる。愛らしい唇が小さく突き出た。ご機嫌ななめの彼がよくする表情だ。
「ちゃんと気をつけてたよ。でも……」
「なんだ?」
「……明兄が行っちゃうんだもん」
「はあ?」
明儀の手を取りながらしょんぼりと眉尻を下げると、明儀は困惑したような表情を見せた。
「私は待ってって言ったのに、君はどんどん先に行くから」
「それは……」
「……もしかして楽しくない? 今日、やっぱり嫌だったの? 無理やり連れてきてしまったから? 私は明兄とお出かけして楽しいんだけど、君が嫌なら今日は……」
「私は別に。楽しくないわけではない」
「じゃあ、お腹すいた? それか、私何か怒らせてしまった?」
「青玄、それは違う。ただ、」
「なあに……?」
口を噤んでしまった明儀を不安気に下から見つめる。彼は太陽を背にしているため、逆光で顔に影が落ち、表情が上手く見えなかった。けれども、何かを考えているかのようにまつ毛を伏せているのだと容易に想像がついた。
晴天の中、ひらり、ひらり、と小粒の雪が舞っている。積もるわけではないそれは、繋いだ手と手がじんわりと溶け合っていくように静寂だった。
「ただ私は……」
明儀が重く口を開き、ぐっと青玄を引っ張って立ち上がらせる。されどもその手は繋いだまま、星のような瞳が青玄を捉え、そして、そっと視線外し雪の地面を見つめた。
「……私は、ほらお前がよく言うだろ? 体温が低いと……」
「え、うん?」
何を今更と青玄は思う。明儀の体温が低いことは、親友なのだからとうに知っている。それが今と何の関係があるのだろうか?
「だから、肌で雪が溶けるといったことがわからない。どういうことかと考えていたら、距離が開いた。歩くのが速かったな、すまない」
「……そ、それだけ? 明兄怒ってない?」
「さっきから思っていたが、私が何に怒るんだ?」
明儀がそう尋ねると、青玄はきょとんと目をしばたたかせた。てっきり明儀は何かに怒っているのかと思っていたが、自分の早とちりだったらしい。
「そっか、怒ってないんだ。……へへへ、そっかあ」
青玄の中で安堵が広がる。むず痒くじんわりと温かいこの言い表せない感情がもどかしいながらも、明儀の優しさが胸をくすぐり焦がした。何かを噛み締めるように唇が自然と弧を描く。
明儀は優しい。心の底からそう思える。他の神官は「地師殿は気難しい」と言うが、彼のどこがそうなのだろうか? こんなにも分かりやすく愛おしい人はいない。
ひらり、ひらり。晴天の中ゆっくりと舞い落ちる雪の結晶を明儀はその瞳に映し、じっと沈思する。そして、緩慢な動きで雪を閉じ込めるかのようにまぶたを下ろした。
閉ざされた瞳の奥で何を考えているのかは、わからない。明儀の星のような双眸に映る雪は、恐らく彼にとってはただのなんの変哲もない雪なのだろう。
そんな彼を見て、青玄はあることを閃く。明儀にも今この瞬間を楽しんでもらいたいと思った。
手を繋いでいる親友は、確かに体温が低い。手袋越しでも分かるくらい今日も相変わらずひんやりとしている。だが、彼にしかできないことがこの世界にはあるのだ。
辺りを見渡すと幸いにも雪は充分積もっている。青玄の顔に、違った意味の笑みが浮かんだ。
「青玄そろそろ、」
何事もなかったかのように顔を上げた明儀を青玄が遮った。
「ごめん、ちょっと待ってて!」
「あ、おい!」
青玄は唐突に言うと明儀の手を離し、横に捌けると唐突にしゃがみこむ。
「……何をしてるんだ?」
せっせと何かをやり始めた青玄を明儀が訝しげに肩越しから手元を覗き込んだ。ちらりと見えた青玄の幼さを残す顔が、楽しそうに笑みを浮かべている。童心にかえれる彼を、少しだけ羨ましく思った。
青玄を見守ること暫し。少しずつそれが出来上がってくる。
小さな雪玉が二つ。それを上下で合わせ二本の小枝を左右につけた。小さな木の実も二つ見つけ上段の雪玉につけたら、雪だるまの完成だ。
鼻の頭と耳の先を少し赤くした青玄は、「はい!」と出来上がった小さな雪だるまを明儀の手に乗せる。
どういう意味かと眉根を寄せると、冷気で頬を赤くした青玄が花のように微笑んだ。まるで雪に咲く蝋梅のように、白銀の世界が色付く。
「ほら、見て!君はすごい。私の手だとすぐ溶けるのに、君の手だとこの子は残ったままだ」
その言葉に、明儀は自然と息を呑んだ。
手のひらに乗せられた小さな雪だるまは形作ったまま、そこに存在している。確かに青玄が素肌で触ると溶け出していくそれは、明儀の手の中では愛おしい形を残したままだ。
こんな身体が役に立つとは皮肉なものだ。「それは皮肉か?」と、いっそのこと訊きたい。同情するな、馬鹿にしているのか? と。その細い首を掴んで──。
このまま手の中の物を握りつぶしたら、こいつはどんな反応をするのか? 泣くのか、もしくは喚くのか? 絶望するのか? それを見ている自分はきっと気分が良いのだろうか?
ぐるぐると明儀の中で様々な感情が蛇のようにとぐろを巻いていく。
結局何もできず歯噛みするだけなのに、どんな絶望の表情を見せてくれるのかと、目の前の男のことを考えてしまった。
手の中の物がなぜかあたたかい。冷たいはずの雪の塊なのに。無性に心が寂しくなる。もう何も感じないのに、いらない情なのに、こいつといるとおかしくなる。
視線の先の雪だるま。ただの雪の塊。それ以外でもそれ以上の何でもない変哲の塊が、雪椿のように美しいと思えてしまった。
「ね、明兄」
囁くように呼びかけられ、ゆっくりと視線を上げる。見つめ合った先で、鼻の頭も頰も耳の先も赤くした青玄がはにかむように笑った。
互いの間に、雪が一粒ずつ静かに降っている。今日はきっと止まないのだろう。
青玄のまつ毛の先に着いた雪片が、瞬きと同時に涙のように落ちていった。それを視線だけで追った。
「君は確かに体温が低いけど、寒いことには寒いでしょ? だからさ、寒かったら言っていいんだよ。私がいるじゃん」
そう言って彼は手袋を外し、明儀の手を取った。じんわりとした温もりが、心の結晶を溶かしていくように、手のひらから伝わる。
「ほら、いつもより冷たくなってるよ」
馬鹿らしい。歯痒さが込み上げる。それと同時に、言葉に尽くし難いほどの何かが、もう動かない心臓を動かした。
手を繋ぐ彼もこの寒さでは冷え切っていた。けれども、どことなくあたたかいと思えるのはなぜだろうか。
繋ぎあった手に舞い落ちる花弁雪。肌に触れると、青玄の体温でじんわりと溶けていくそれを二人でじっと見た。視線を上げると、青玄も同じく視線を上げたところで、目が合い、どちらともなく自然と笑った。
寒い。そんな感情は、はるか昔、どこかに置いてきた。なのに、彼にそう言われるともしかしたら、凍えるように寒かったのかもしれないと思った。目の前の男の憎たらしい無垢が、あたたかいと感じるくらいに。
「お前は寒くないのか?」
「寒くないよ」
即答する青玄に「なぜ?」と問いかけた。
「だって、君がいる」
「なんだそれは」
馬鹿らしい。心底そう思うのに、あたたかくてむず痒くてどうしようもないほどに心を焦がし、下唇を噛んだ。
馬鹿らしい。馬鹿らしい。なのに、要らない感情の花が咲いてしまった。
「青玄、もう行こう。着くのが遅くなると、もっと冷えてしまう」
「……手繋いだままで良い?」
「良いも何もまた転ばれたら困る。今日着ているやつ、初めてのだろう?」
「気づいていたの!?」
「気づくも何もいつもと違うものだとわかる。また転んで汚しでもしたら、落ち込むだろう?」
「転ばないよ!」
「ふん。どうだかな」
鼻で笑い微かに口角を上げる明儀の表情は柔らかで、沈丁花のような静かさを帯びていた。その顔に問いかける。きっと、想像通りの答えが明儀から返ってくるから。
「じゃあ、もしも転んでしまったら、明兄も道連れになってしまうよ?」
「そうだな。私も転んでしまう。だから、こうしていれば、もう転ばない」
「なにそれ」
小さく笑う青玄の手を強く握りしめると、同じようにぎゅっと握り返してくる。手の中に収まる雪だるまに目をやると、笑いかけているように見えた。
「明兄、寒くない?」
「……寒くない」
「なんで?」
「お前が……いるから」
横目で青玄を垣間見ると、彼はとびきりの笑顔の中に少しだけ恥じらいを浮かべている。その身体を抱き寄せて、首元に顔を埋め、泣きび、その肌に牙を立てたい。そんなこと、できないのに。
繋ぎあった手と胸の内が切なく、あたたかい。なんのあたたかさか。青玄の体温なのか、それとも、それ以外の何かなのか。そんな簡単なことすらも、わからない。ただ晴天の中に舞っている真白い粉雪が、青玄のように美しく、片手の雪だるまがいつまでも存在していた。まるで、溶けない花束のように。
♢ ♢ ♢
南にある黒水鬼蜮でも、冬には雪が降る。
それを知ったのは、賀玄と生涯を共に歩む関係になってからだ。
今年はどこでも大雪らしく、この島にも雪が降り積もった。今朝方まで降っていた雪は、銀世界を作り出し、太陽の光に反射してきらきらと輝いていた。
幽冥水府に厳かな庭がある。そこには、立派な樹が生えていた。春に美しい花を咲かせるそれは、桜の樹だ。この島の主たること黒水沈舟が、彼の愛する人と共に植えつけた。さらに、この庭には季節ごとに咲く花や、葉が彩る樹々が沢山植えられており、季節の移ろいと共に黒の殿に彩を添えていた。
桜の樹の根元に、片手足が不自由な男が何か作業をしていた。もこもことふわふわの外套を羽織った彼は杖を脇に挟み、せっせと何かをしては小さく唸っている。集中しているのかその背後に、長身の黒衣の男が近づいても気が付かないくらいだ。
さく、さく、と雪を踏み締める音が心地よく辺りに響いている。配下の鬼たちは主人の言いつけを守り、この庭には余程のことがない限り近づかない。ここは、二人が共に過ごす大事な場所のひとつだからだ。そのため、今この庭には、首を傾げながら何かをするもこもこと着込んだ男とその男の背後にゆっくりと近づく黒衣の男だけだ。
「青玄」
黒衣の男が静かに呼びかけると、もこもこの男は振り向き幼さを残すかんばせを綻ばせた。
「賀兄!」
「部屋に戻ったらいなかった。探したぞ」
「あ、ごめんね。お部屋の窓から見えた景色が綺麗で飛び出しちゃった」
「一言声をかけろ」
「だって君、仕事中だったでしょ?」
「それでもだ」
「邪魔をしてはいけないと思ったの」
「私は別に構わない」
「でも、」
「青玄」
一方が言えば、一方が言い返す。他者から見れば一見喧嘩かと思えるそれは、この二人にとっては日常茶飯事だ。そして、賀玄がこうも頑なに譲らない理由を青玄は知っている。
「私、どこにもいかないよ?」
賀玄の心の内を見透かしたように青玄が告げると、彼は切れ長の瞳を僅かに見開いたかと思いきや、スンと澄ました表情になる。そして、ふいっと顔を背けた。
伴侶のなんとも言えない愛らしさに、青玄の顔に笑みがこぼれた。「どこにも行かない、君のそばにいる。君の隣にいたいんだ」と、家族になった時に誓ったのに、彼は今でもいつか自分から離れるのではと思ってしまうらしい。
きゅっと愛らしく、なんともいじらしい。力一杯抱きしめたくなるくらい、そんな彼が何よりも愛おしく思える。唇を結び、眉を寄せ、小さく喉で唸る鬼は誰よりも不器用で健気なのだ。
「ふふ、私が悪かった。ごめんね、賀兄」
「別にいい」
ぶっきらぼうに告げるそれも、彼なりの気遣いと同時に決まりが悪い時の言い方だと昔から知っていた。
「ところで何をしていた?」
「あー、えっとね……」
やっぱりそうきたかと、青玄が言葉尻を濁す。別に隠すつもりはないが、少しだけ気恥ずかしかった。なにせ、今は片手が不自由で何をするにも上手くできないのだ。
「笑わない?」
「なんだ?」
「……雪だるま、作りたかったんだ」
目が覚めた時、もう賀玄は隣にいなかった。きっと、昨夜の情事で気を飛ばした自分の身体を労って起こさなかったのだろうと容易に想像がついた。
身体を重ねた余韻を残しながら起き上がり、身支度をしながら、窓の向こうの銀世界を見た時に脳裏に浮かんだのはあの時の思い出だった。
だから、先日賀玄から贈られたお気に入りの外套を羽織り庭に出たのだ。本当は彼の仕事が一旦区切りがつく昼までに作り上げようと思ったのだが、片手が上手く機能しない今は丸い形を作るのが難しい。ああでもない、こうでもない、と難行していた時に、部屋に戻った賀玄が青玄を探しに来たという訳だ。
「雪だるま……?」
「うん、君にもう一度見せたかったんだけど、上手く作れなくて……。恥ずかしいな、ごめんね」
青玄の手の中には、大きさの違う歪な丸が二つ。その形は歪んでいても、賀玄の中では、一等美しく見えた。
単純に嬉しいと思ったのだ。青玄があの時のことを今でも忘れていないことも、もう一度あの記憶に残る優しい雪だるまを作ろうと思ってくれたことも。
賀玄にとって、あの雪だるまはただの塊だった。なのに、情が湧いた。いつまでも記憶に残るくらいに。
「何を謝る」
「だって……」
「私に貸せ」
賀玄が青玄の手の中からひとつ雪玉を取り、形を整える。人間だった頃や、地師として潜伏していた時から、細かい作業は好きな方だった。形を整えるのは容易いことだ。
「わ、すごい! 一瞬で綺麗な丸になった! 賀兄はやっぱり手先が器用だね」
「別に、好きなだけだ。ほら」
「あ! もう一個もやる?」
「いや、違う」
賀玄は出来上がった自身の雪玉を、青玄の不格好な雪玉と合わせた。小枝を拾い両側につけ、二つ木の実をつければ、青玄の手の中に立派な雪だるまがあっという間に出来上がった。
「賀兄?」
「…………昔、お前が作ってくれた雪だるまだが」
「うん」
「ずっと、覚えてる」
あの日、青玄が言った「君の手だとこの子は残ったままだ」の言葉は、賀玄の中で深く残っていた。自分の存在が何かの役に立つだなんて、思いもよらなかったからだ。あの時の感情はきっと喜びだったのだろう。それを教えてくれたのは、青玄だった。そして、目の前の男を想う感情の言葉も、思い出させてくれたのは、すべて青玄だったのだ。
その日のことを忘れることはなかった。自ら関係を断ち切ってからも、永遠に記憶に残っていた。春が来て花が咲き、夏の緑を感じ、秋の彩りを瞳に移し、雪のかけらを手のひらに乗せるたび、空虚な穴を埋めるのは記憶の中の彼と、何気ない言葉たちだった。
「そっか、そうだったんだ。……あのね、私もね、ずっと忘れなかったよ」
乞食として過ごしていた時、寒さに震えながら小さな小さな雪だるまを不自由な片手で作っては思いを馳せたことがあった。あの時は何も考えられず、ただただ、この厳しい冬をなんとか生き延びて春を迎えることだけしか思っていなかった。
しかし、今、思いつくのは、きっとあの行為は自分にとっての祈りだったのだろう。もう一度彼に逢いたい、と自然と願っていたのだ。この雪だるまをいつか見るときがあったら、私だとわかってくれるように、と。
かつてのあの日も祈りだった。大好きな親友が冬の日でも楽しめますように、と。
だから、厳しい冬でも、貧しい身分となっても、賀玄のことを想っては決して忘れることはなかった。
青玄が親友のために作った雪だるまは、自然と二人の中で大切な存在となり、そして何年経っても互いが互いを結び合わせるものになっていた。その事実が、どちらの心を震わせて、無性に抱きしめたくなる。
じんわりと溶け出した手の中の雪だるまの上に、肌白い賀玄の手が重なった。まるで溶けないよう祈るように添えられて、それは存在を残している。
賀玄を見ると、彼は凪いだ海のような表情でこちらを見つめていた。あの日と同じように太陽を背にしていたが、彼の顔が逆光で見えないことはない。もう二度と彼のことを見失わないと誓ったから、どんな表情をしているのか、今では手に取るようにわかるのだ。
この世に存在する言葉では伝えきれないほど、愛おしい鬼。愛おしくてたまらない。ただただ、この世界の中でいちばん愛している。
「ね、賀兄。来年も一緒に作ろう。これから毎年ふたりでひとつ、作っていこう」
あの時も今までも、ひとりで作った。でも、これからは今日みたいにふたりでひとつ作り上げていきたい。それが二人の中で強く根付く思い出になるのだ。
青玄の提案に賀玄は口角を微かに上げ、頷いた。
「そうだ! この雪だるま骨魚たちに見せてはいけない? あの子たちも好きだと思うんだ! あ、君の鬼たちにも見せたいな! 君たちの主人が作ったんだよって言ったら、どんな顔するかな」
「…………骨魚はともかく、あいつらには見せなくていい」
「ふーん、骨魚はいいんだね?」
「…………」
「ふふ、賀兄?」
「青玄」
「ははは! ごめんね賀兄、冗談だよ。これを独り占めしたいんだろ?」
「……そんなことは、」
「私もそうだよ」
見せびらかしたい気持ちは確かにある。だが、それよりも今は二人だけのものにしたい気持ちの方が強い。賀玄も同じ気持ちなのだろう、僅かに安堵の表情を浮かべた。
「私も君が作ってくれたこの子を独り占めしたい。こんなにも愛らしいんだもの」
「ふん。別に、ただの雪だ」
「素直じゃないんだから」
賀玄の皮肉が愛おしくおかしくて、笑い声が漏れる。ただの雪だと思っているのなら、あの日の雪だるまをずっと覚えているわけもないし、先ほどのように作ってくれるわけもないというのに。彼はどこまでも不器用で、そして愛らしい。
青玄が樹の根元にゆっくりと雪だるまを置いた。空は晴天だが、冬風がもう少ししたら雪が降ると教えてくれたからきっと大丈夫だ。
二人が作った雪だるまは、雪柳のように可憐で、水仙のように凛と佇んでいる。思い出のそれが微笑んでいるように見え、来年はもっと大きいのを作りたいなと胸の内で思っていると、「来年は……」と賀玄の声がかかる。
「青玄。来年は、大きいのを作ろう。再来年は、その年よりも大きいのを。そうやって続けていこう。……何十年も、何百年も、私と共に」
「賀兄……」
「嫌か?」
ぶんぶんと青玄が勢いよく首を横に振る。嫌なわけがない。嬉しいに決まっている。胸の奥から込み上がる感情が張り裂けそうで、思わず賀玄の懐に抱きついた。
「嫌じゃない。君は本当にすごい、私もねさっき来年は大きいの作りたいなって思ってたの! なんで分かったの?」
「さあ? なんでだろうな」
「意地悪! 教えてよ」
「では、部屋に戻ろう。冬はまだこれからだから、ゆっくりと話をしよう、青玄」
そう言って青玄を横抱きに抱き上げ、雪を被っている桜の樹とふたりの雪だるまに背を向け、歩き出した。
来た時と同様に、さく、さく、と雪を踏み締める音が、たったひとつ、辺りにこだまする。
白銀の中で黒衣の鬼が抱きしめるのは、ただ一人。彼が愛した白の風神だけだ。
賀玄の腕の中で青玄が「おんぶでいいのに」と言うと、賀玄は視線を少し下げ、「私がこうしたいのだ。それに、転ばれると困るからな」と軽く笑いながら言った。
賀玄を見上げて思う。ああ、好きだな、と。揺れないように歩いてくれる姿も、手直しする雪玉はひとつで充分だと思ってくれたことも、彼から出てくる言葉の数々も、抱きしめてくれる身体も、この世界で生きている彼自身の存在すべてが、愛していて、胸が苦しい。
ふいに青玄が片手を伸ばし、賀玄の首に縋り付くように手を回した。
より密着する格好に厚手の外套越しでも、賀玄の冷たい体温が伝わってくるようで、体温で溶ける雪のように、黒と白がひとつに溶け合っていくようにぎゅっと力一杯抱きついた。
「ねえ、賀兄」
甘えるように青玄が、こそこそと秘密を打ち明けるような小声で呼びかける。
「なんだ?」
賀玄が優しく訊き返し少しだけ身を屈めると、首に手を回した青玄が耳元でこう囁いた。
「愛してるよ」
そう言って、青玄は照れくさそうに頬を赤くして下唇を噛んで笑った。
愛の言葉を告げるのは初めてではない。なのに、照れた時の青玄の姿は親友として過ごしていたあの何百年と何も変わらなかった。
そんな愛くるしい姿に、賀玄は胸の奥から愛おしい何かが込み上げるのを感じた。もう動かない心臓が、ぎゅっと締め付けられるようなこれは、確かに青玄からしか得られない感情なのだ。
賀玄が噛み締めるようにまふだを閉じ、体温のない冷たい鼻を近づけ、あたたかな青玄の輪郭を辿る。鼻の先の青玄がくすぐったそうに身じろぎ小さく笑い、吐息が頬を掠めた。その愛らしい姿が賀玄にとっては、欲情に変わっていく。髪を掻き分け、猫のように頰に擦り寄り目を細めると、こめかみに唇を強く押し付けた。
「くすぐったいよ。賀兄」
くすくすと笑う彼の耳元に唇を寄せ、「私の青玄」と呼びかける。
「っ、うん、君の青玄はここにいるよ。“賀玄”」
とびきり甘い声で名前を呼ばれる。
賀玄と師青玄。双子になれなかった、ひとつずつの星。やり直せたらと何度も願って、できなくて、一度は関係を捨てても尚、想い続けて手に入れた人。腕の中の愛おしい風。自分を狂わせた人。無垢で純潔で、美しい花の師青玄。恋をするつもりはなかった。偽りの友情でよかった。けれど、いつからか愛してしまった。
彼が彼だったから。彼以外の何者でもなかったから、心から欲しいと思って、愛したのだ。
青玄が首に回していた手を賀玄の頬に添える。二人の体温が触れ合った部分からじんわりと溶け合って、ひとつになっていく。
私は、雪だ。雪のように冷たく、もう寒さは感じない。でも、凍えることはない。愛するこいつが隣にいるから。
だから──。
目を開き、青玄の大きな瞳を見つめる。彼の双眸に微かに映る青空に「ああ、雪が降る」と、なぜか自然と感じた。
「師青玄。私も、愛してる」
季節の移ろいも、空の変化も、風のささやきも、花や木々の彩りも、ただの食事も、なんの変哲もない何かでさえ愛しくて楽しいと思わせてくれる青玄のことを“愛してる”以外に何と言えるのか。
「一緒だね、賀兄」
「ああ、そうだな。私たちはずっと一緒なんだ。昔も、これからも、ずっと一緒なんだよ、青玄」
そう。初めから一緒だったのだ。輝いていた星は違くても、双子のように、同じだったのだ。ただ、それだけのことだ。
「あっ、見て! 雪だよ!」
空を見上げていた青玄の声に倣い、賀玄も空を仰ぎ見る。
青空の中から、はらり、はらり、と小粒の雪がゆっくりと舞い落ちてくる。穏やかなそれを花びらが舞うように散らつくことから“風花”といわれ、かつての記憶がまた二人の中で蘇った。
舞い落ちてきた雪が一粒、青玄の鼻先に落ち、じわじわと溶けて消えていく。ふふ、と雪の健気さに笑う青玄の鼻先に賀玄も口づけを落とし、上書きをした。
「寒くないか?」
「寒くない」
「そうか、なぜだ?」
あの質問を今、繰り返す。きっと青玄なら、同じ言葉を言うはずだ。聞きたい、もう一度あの答えを。
賀玄の意図に気がついた青玄がくすりと笑い、得意げに口にした。
「だって、君がいる。ね、君は? 寒くない?」
「寒くない」
「なんで?」
腕の中で優しく問いかける青玄を抱きしめ、額と額を合わせ、彼だけにしか聞こえないように、心からの愛しさを込めて囁いた。
「私にも、お前がいるから」
風花が舞う中、額を合わせた二人が笑い合う。鼻と鼻が触れ合い、吐息が肌を掠め、重なった唇がそっと離れ、絡み合う視線は慈恋に満ちている。
花も木も風も眠る静寂の世界で、雪が降る限り、ふたりで作った雪だるまは、永遠にそこに残り続ける。翌年も、その翌年も、そして何百年後の世界でも──。
晴れ渡る空から舞い落ちる風花は優しく、その中で、黒と白の二人が空を見上げながら花のように寄り添っていた。
終
★補足(花言葉)
蝋梅・・・慈愛、慈しみ
沈丁花・・・永遠、不滅
桜・・・あなたに微笑む、純潔
雪柳・・・愛らしさ、愛嬌、静かな思い
水仙・・・気高さ、愛をもう一度