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【宗みか】針供養

全体公開 1 37 5599文字
2024-12-11 00:43:26
Posted by @setunagi

 コンコン、と扉が叩かれるとき。心臓が跳ねなくなったのは一体いつ頃からだったろう。
「影片、開けても?」
 扉の向こうからくぐもった声が聞こえた。みかが住まわせてもらっているこの家は、みかが幼少期を過ごしていた施設よりもよっぽど大きくて、よっぽど扉が厚くて、遮音性が高かった。そうでなくともみかは元々注意散漫で、たとえば外を歩いているときだとか、頭上を飛ぶ鳥の行く末に思いを馳せては周りの音が聞こえなくなるときが多々あって。ほらこういうふうに、思考がよく散らばってしまう。だからこそ、扉の向こうに立つ彼が、みかに伺いを立てる必要なんてないはずの彼が、きっと普段よりも声を張ってくれているのだと分かったから、みかは慌てて居住まいを正し、無駄にワイシャツの襟元を正してみたりしながら、慌てて彼の声がする扉の方へと駆けて行った。
 ガチャ、と音を立てて扉を開いたとき、廊下から吹き込む風が想像よりずっと冷たくて、みかはなんだか申し訳ない気持ちになった。いくらあたたかな家の中とはいえ、きっとその靴下一枚では足先だって冷えてしまうだろう。みかは扉を開けるまでの僅かな逡巡さえ後悔したというのに、扉の向こうに立つ彼はまるでそんなこと気にしていないみたいな態度で、それどころか部屋から現れたみかの姿を見下ろすなり不機嫌そうにため息を吐いた。
「君……まだ制服を? それで過ごすと皺になるだろう」
「んあ、堪忍なぁ……せやけど、お風呂頂く前に部屋着汚してしまうのもなんや申し訳なくて……
「それは気にしなくていいと前にも言ったはずだがね? どうせ洗濯だって毎日するものなのだから」
 そう言いながら扉を押し開けた彼、宗は、きょろきょろとみかの部屋を見回しながら中に一歩踏み入り、「寒いね」と呟くと勝手にエアコンの温度を一度上げた。ピッと無機質な音が鼓膜を揺らした瞬間、みかの胃が一緒になってきゅっと縮む。どうにか彼が家族に無理を言って作ってくれたこの仮初の住処の中で、みかは未だ、自分が家人に強いる負担の割合を増やすことが苦手だった。
「ど……どないしたん? この時間に……お風呂、おれの番はまだやんな?」
 おずおずとしながらみかがそう問いかけると、宗はずんずんと部屋の中に押し入り、さっきまでみかが作業をしていた机の横でぴたりと足を止める。みかは後ろから彼を追いかけると、自分より高い肩の横から顔を出すように、彼が見ているものをそっと伺った。しかし彼もどうやら目当てのものは見つかっていないようで、机の上に広がっている布の切れ端をぺろりと捲ると肩越しにみかを振り返る。
「君、折れたり錆びたりした針はどこにやったかね? 他のゴミとまとめないようにと前に言ってあったと思うけれど」
「あぁ、それなら……
 彼の問いかけに、みかは机の横でしゃがみ込むと、傍に置いてある収納の一番下の引き出しを開け、中からお菓子の箱を取り出した。四角い小さな箱は揺れるたびにカラカラと音を立て、鈴のように揺れる。
 この家に住まわせてもらって、彼の作ったユニットに入って。それから彼に手芸を教えられるようになった、少し後のことだ。厚い生地に無理に針を通そうとして、力加減の分からないみかはそのまま針を折ってしまった。手芸用具なんて相場も分からないけれど、とにかくその頃のみかは、自分に与えられたものを壊してしまったのが申し訳なくて、恐ろしくて。青い顔で見上げた先にいた宗が何を言うのか、さっぱり分からなくて。
 けれど彼は。今よりも少しだけ言動に圧のあった、それでもやはりみかの大好きだった彼は。一度みかの手元を見てため息を吐くと、そういったこともある、と呟いて。それからみかに、それを捨ててはいけないよ、と。そう言ったから。怒られなかったことへの驚きも相まって、そのときの教えは、一年以上経った今でも、みかの中で息づいていた。
「これがどないしたん? 資源ごみにでも出すん?」
……? 前に君に説明しなかったかね? よもや僕の言いつけを忘れたと?」
「えっ? お、おれ、捨てたらあかんのは言われとったけど……堪忍なぁ、他に何か言うとったっけ?」
「はぁ……。いや、よく考えれば去年はああだったしね、僕も正直記憶が曖昧なのだよ。いい機会だ、今日で覚えるといい」
「んあ? ん、はい……?」
 みかはきょとんと首を傾げ、販促のための謳い文句が施されたその小箱を宗に手渡す。そのまま立ち上がってもやはりみかの視線は彼とは並ばなくて、帰宅をしてからとっくに部屋着に着替えたらしい彼の首元が部屋の空気に晒されているのが心配だった。彼が部屋に来ると分かっていたなら、みかだって暖房の設定温度を低くして耐えるのをやめたのに。
「一年半でこの量か……まぁ、僕が臥せっている間も君は裁縫をやめなかったのだものね」
 箱の蓋をぱかりと開け中を眺めた彼は、そう言って鼻を鳴らすと、中に折れた針や錆びた針が入ったその箱を静かに机の上に置く。それから彼は部屋着の胸ポケットからシルクのハンカチを取り出した。みかがぱちりと瞼を瞬かせると、彼はみかに見せるように、そのハンカチを恭しく広げる。
 ハンカチの中には、みかの箱の中身と同じような、けれどみかのものよりはよっぽど少ない本数の、折れた針があった。みかのものよりも太いそれらを見て、ミシン用か、と思い至る。みかよりもよっぽど緻密な作業に秀でている彼が、裁縫針や刺繍針を折ることなど滅多になかった。
「昔、君に針山を渡したろう。持っておくようにと」
「うん……? あの白いやつ? ちゃあんと持っとるで、なんや高級そうやったから使わずに棚に入れてしもたけど……
「それで良いのだよ。そう思ったから渡したのだしね」
「んあ、そうなん……?」
 自分の行動すら見透かされているという事実にどこか高揚感を抱えながらも、宗に視線で促され、みかは机の引き出しから件の針山を取り出す。手渡された当初からまだ一度も柔肌を傷付けられていないそれを見て、宗はどこか満足げに頷いた。
 その針山は、金の台座に装飾の施された、針山らしからぬ重厚感を備えた逸品だった。汎用的な針山と違い、針を刺すための柔らかなぶぶんは少し膨らんだ白色の四角形で、高級感のある下部とどこか間抜けな上部との差が可愛らしくて、こうして引き出しに仕舞う前は、しばらく机の上に飾って眺めていたのを覚えている。
 とはいっても、みかには最初に他の裁縫道具と共に与えられていた自分用の針山があり、ある日突然宗にこれを手渡されたときも、みかには彼の真意が掴めなかった。無論、今でもその気持ちは変わらないのだが。どうやらいくら長い時間を隣で過ごしてきたとはいえ、彼の頭の回転の速さだとか感性が己がものとなるわけではないらしい。
「これ、何するん? お師さんに返す?」
「いや」
 宗は短くそう言うとかぶりを振って、机の上に自分の針をハンカチごと広げた。彼の、ささくれ一つないすらりとした指先が、とっくに命の燈が消えた針に伸び、拾い上げる。
「針供養だよ」
 その言葉と共に、彼はお腹で折れてしまったその剣を、ぷすりと白い布地に差し込んだ。彼の手によって滑らかに埋め込まれたそれは、くの字に折れた真ん中で止まり、不恰好に斜めを向いた尻尾だけを晒している。
「供養?」
 こくんと首を傾げたみかを横目で見て、宗は小さく頷いた。再び、彼のハンカチの上に散らばった針が、静かに針山の中へと沈んでいく。ぷすり、と音を立てるのは最初の一瞬だけで、そこからは真っ直ぐに体の半分を埋めていく小さな剣たちは、彼の手によって次々と山の中に納められていく。
 供養、と言われたせいだろうか。みかの頭の中に浮かぶのは、納棺だとか納骨だとか、そういう言葉ばっかりで、いつしか針山の上に真っ直ぐ立つ白い煙を幻視する。みかがぼうっとそれを眺めていると、全ての針を納め終えた彼がふうっと息を吐いた。煙が消える。
「ほら、君も早くやりたまえ。君の方がよっぽど量が多いのだから」
「んあ、おれも?」
「当然だろう……なんのためにわざわざこの部屋まで来たと思っているのかね?」
 呆れた声でそう言われ、みかは慌てて箱の中に手を伸ばす。四角い箱に無造作に散らばった針の亡骸は宗の持参したものよりよっぽど多くて、その一本一本を見て何か湧き出すような感慨もない。
 みかは箱に沈んだ針のひとつをつまみあげ、宗に倣うようにして針山に突き刺した。ミシン針よりも細いそれらは、音を立てることもなく白い体の中に沈んでいく。
「本当は餅だとか豆腐だとかに刺すものだけれど、そのために食べ物を粗末にするのも違う気がしてね。その針山ならば見立てられるだろうと思って君に預けておいたのだよ」
「お餅に刺すん、針を?」
「そう。年初めに食べるお節料理と同じように、願いを込めてね。まめに仕事がもらえるように、だとか。粘り強くだとか、そういった意味があるようだよ。我慢強くあれ、だとかね」
「へぇ……
 宗の説明を話半分に聞きながら、みかは針山を自分の裁縫の亡骸でいっぱいにしていく。
 まめに仕事がもらえますように。粘り強く在れますように。我慢強くなれますように。たった今宗が教えてくれたことを頭の中で反芻しながら、ひとつひとつ、無感情に。
「来年からは、君が自分でやるのだよ」
 しかし彼の声が鼓膜を揺らした瞬間、みかは思わずふっと顔を上げた。
 どくん、と心臓が大きく跳ねる。針を持っているはずの指先が、その瞬間にいやに冷たくなった気がした。
……来年?」
「そうだよ。僕はもう卒業しているし、君は最上級生になるのだから」
……っ、」
 きっと、瞳が揺れてしまったのだろう。宗はみかのことを見下ろしながら小さくため息を吐いた。ぴくりと顰められた眉を見て、一年前の自分ならば怯えていたろうな、とどこか冷静な気持ちになる。彼がこうしてみかを冷徹な目で見つめるとき、もちろん本当に呆れていることも多々あるのだけれど、最近の彼はどちらかといえば無理をしてこういった表情を作っているような、そんな気がした。
……来年?)
 これまでみかが歩んできた道には、その先には、必ず宗がいた。彼の海色のブレザーが。黒地に金の映えるユニット衣装の背中があった。
 けれど、来年。一年後。みかがまだ身に纏っているであろう海色のブレザーを、彼はとっくに脱いでいて。その頃、みかはまだ黒いユニット衣装に袖を通しているのだろうか。そのとき、彼は、宗は?
 秋ごろから、彼がみかにみか自身の思考や行動を促しているのは分かっていた。分かりたくなかったけれど、嫌でも分かっていた。そのときの彼の、どこか大人びた表情が。ついこの間までは、自分の芸術のことだけを考え、命を削って炎を燃やしていた彼が。まるで凪いだ湖面みたいな瞳でみかを見るあの瞬間が、みかは恐ろしかった。たまらなく恐ろしかった。
「ら……来年も、一緒にやったらええやん?」
 みかがそう言いながらへらりと笑うと、宗は一瞬眉をぴくりと跳ねさせ、それから瞳にどこか悲痛な色を宿した。まるで可哀想な子供を見るみたいなその視線が痛くて、みかはへたくそに笑ったまま止まってしまう。
「君がやるのだよ、一人で」
 再度、今度は刻み込むようにそう告げられ、みかの喉がひくりと震えた。別に子供のように泣いたり、不安だからと怒ったり、そんなことをする気は毛頭なかったし、できなかった。だってみかはもうすぐ十七で、春が来たころにはネクタイは緑色になっていて。その頃にはもう、一人で立っていないといけないから。
(一人で?)
 卒業後のことを、みかはまだ彼から知らされていない。きっと彼なりに、考えていることはあるのだろうけれど。
 最近になって玄関にさまざまな大学のパンフレットが届くことになったことだとか。そのほとんどが、みかの知らない言語で構成されていることだとか。彼が作品作りのためではなく、最近は勉強のために夜遅くまで起きていることだとか。みかは多分、見なければいけない景色を、知らなければいけない事実を、ずっと先送りにしながら過ごしている。
 視界の端に、すっかり針の筵となった針山を捉える。まるで卵子に群がる精子のように、真っ白な肌に深々と突き刺さった銀の切先を見て、いいなぁ、と思った。
 彼はみかを傷付けない。どれだけ癇癪を起こしていたって、みかに向けて投げるのは柔らかなぬいぐるみや、軽い素材のボビンだった。彼はみかを傷付けない。自分の人形だから、作品だからと、きっと彼は答えるだろう。いつだって腕に抱えているアンティークドールでなくたって、みかが彼の作品である限り、彼はみかを傷付けない。万が一、みかがそれを望んだって。
 みかは表情筋を下手くそに固めたまま、ごくりと唾を飲んだ。
……なぁ、もし、たとえば。今からこの針おれに刺してって言うたら、お師さん、してくれる?」
「は……? するわけがないだろう」
「あは、せやんなぁ」
 期待通りの返答にみかは困った顔で笑って、再び視線を机の上に落とすと、針の亡骸たちを突き刺していく。折れた根本まで。銀の肌に着いた赤い錆も、全て隠すように。
 彼の手元に置かれて二年。みかは綺麗なままだった。彼に手入れをされた肌も、髪も、夢ノ咲に入ったあの頃と比べれば、きっと見違えるほどに良くなった。彼のおかげでお腹は下しづらくなったし、彼の後をついていれば、夜道だって転ぶことは無くなった。
 彼はみかを傷付けない。彼はみかに、傷を付けない。
 じゃあ、もし今後、彼がみかの前からいなくなってしまったとき。みかの体には、彼の何が残るのだろう。


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