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写りの悪い私たち(サンプル)

全体公開 14903文字
2024-12-12 19:09:00

1/19(日)開催の文学フリマ京都にて頒布した新刊「写りの悪い私たち」のサンプルです。

Posted by @hirgten


 
 月曜日の憂鬱を詰め込んで走る電車はひと駅ごとに重量を増して、オフィス街にある駅で大きなため息を吐き出した。排水溝に吸い込まれていく濁流のように人々は流れ流され、淀みなく改札を通る。その表情のない人の群れの中へ溶け込むようにして黒岩早恵は歩みを進めていた。
 改札から分岐する流れに身を任せ、駅から最も近い高層ビルに入る。社員証を翳さないと警備員がすっ飛んでくるゲートをくぐり、広いホールの左右に三基ずつ並んだエレベーターの前で点滅するオレンジの光を揃って見上げ、上階から戻ってきた箱に乗り込む。今日はなんとか一度で潜り込めた。
 エレベーターの中では大体の人がインジケータの数字か、手元のスマートフォンに視線をやっている。早恵の顔は上を向いていたが、視線は女性社員のスマートフォンに映し出された、今人気のモデルによる着こなし動画をこっそりと覗き見していた。今年もオーバーサイズのアウターがトレンドらしい。
 機械的なアナウンスが八階の到着を告げ、どっと人が降りていく。早恵も視線を前へと戻して営業部のフロアへ降り立った。
「おはよう」
「おはようございます」
 廊下ですれ違う営業事務の同僚と挨拶を交わしつつ、デスクに鞄を置いて時計を確認する。まだ始業時間まで少しある。鞄から化粧ポーチを出してパウダールームへ向かった。
 たまに家で化粧をする時間が無かった人がメイク道具を広げていることがあるが、今日は運よく誰もいない。早恵は一番手前の洗面台の前に立ち、ポーチのチャックを開けながら鏡に映る自分を見つめる。
 整えていない眉、季節問わずいつも同じブラウン系のメイク。マスカラもハイライトも入れていない地味な顔に、この会社でも何人いるかわからないアッシュブラウンに染めた髪。
 荒れがちな唇に色付きのリップを塗って、今日も鏡の中の自分へ言い聞かせる。
 ――今日も平凡に。
「黒岩さん、頼んでた見積書できてる?」
「あと少しで終わります」
「あ、ならついでで悪いんだけどこのオプション付けた場合の見積りも出して送ってもらえるかな。夕方まででいいから」
「分かりました」
 走り書きのメモを受け取り、テープをつけて既にメモがひしめいているキーボードの端に貼り付けた。それから赤ペンで余白に「夕方まで」と付け加え、大きく丸で囲う。
 営業事務というと各種書類の作成や営業との連携、電話対応などで忙しいイメージを持たれることが多い。実際早恵を含めたフロアの同僚たちはせわしなく手を動かしているが、その中の全員が全員真面目なわけではない。パソコン作業の合間にスマートフォンを弄りながら一時間でできるはずの資料を二時間で作って、やるべきことがまだ残っているのにひょいと定時で帰る人もいれば、トイレで愚痴を吐きながらもそういう人たちのために滞っている別の業務を自ら請け負って積極的に仕事をこなす人もいる。働きアリの中に必ず数匹はサボるアリがいるのと同じだ。
 早恵はというと、そのどちらでもない。割り振られた仕事はこなすが、頼まれない限りは他の人のことに首を突っ込んだりはしない。入社してから大きなミスを起こしたことはないが、その代わり自ら進んでミーティングで意見を出したり営業がより仕事をしやすいように工夫をしたりするといった意志は見られず、従って部署や会社に対しての大きな貢献も特にない。上からの評価はいつも「よくもなければ悪くもない」といった具合であった。
 だが彼女はそれでよかった。仕事ぶりを認められたいとは思わない。ただ与えられた業務をこなす、それだけだ。
 取引先からの電話対応を終えて受話器を置き、再びキーボードに手を乗せると、コピー機のほうからピーッというアラーム音と共に「あっ」と声があがった。一瞬フロアの視線がそちらへ集中する。部署内でも一際明るい髪の毛が揺れた。
「やだ、インク切れ? ついてないな……最近新しくなったやつだからやり方分からないし……誰かやったことある人いません?」
 急ぎなんだけど、とジェルネイルを施された手で替えのトナーカートリッジが入った箱を弄りながら問いかけるも、すぐに返事をする者はいない。
「確か前に替えてた人いましたよね。誰だったっけ」
 早恵はちらりとコピー機の方に目を向ける。綺麗に巻かれた髪の毛が苛立たし気に揺れた。
 ――やったのは私だけど、画面の表示を見れば簡単にできたし。分からないなら説明書を読めば済むこと……
 視線をパソコンに戻して仕上げた見積書を添付し、文面を打ち込んでいると、たまたま通りかかった男性社員が手伝ってやったらしく、職場に似合わぬコケティッシュな雰囲気でお礼をいう声と稼働を再開したコピー機の音が耳に入った。

「安井りほ、仕事できなくて一番担当も少ないくせに、トナーも替えられないなんてやばいよね」
 怒りと呆れを含んだ声が冷たく白い壁にぶつかって反響する。昼休憩も終わりかけの化粧室はいつだって悪口と香水の香りで溢れている。
「そりゃ誰も手伝わないって」
「寧ろ手伝ったら甘やかしすぎよ」
「そうそう!」
 個室で先輩二人の会話を聞いていた早恵はほっと息を吐いた。安井は先輩社員から気に入られていないだろうなとは思っていたが、やはり手を出さないでいて良かった。社食へ行くのに財布と歯ブラシにポーチ、スマートフォンだけを入れたサブバッグをフックから外して鍵を開ける。
「あらお疲れ様」
「お疲れ様です」
 喋りながらメイク直しを続けている先輩らと鏡越しに挨拶を交わし、歯磨きを済ませてから少し離れた場所でポーチを広げた。若干滲んでいる目尻のアイラインを綿棒で整える。安いペンシルタイプのアイライナーはヨレやすいが、修正も楽だ。いつも通りの手順でヨレを直し、最後にリップを塗っていると、隣からまじまじとした視線を感じる。
……黒岩さんて肌綺麗だよねぇ」
「そう、ですか?」
「うんうん。メイクもやり方変えたらもっとよくなりそうなのに」
 ずいと近づき、マスカラにコーティングされて綺麗に上を向いたまつ毛をぱちぱちさせながら顔を覗き込まれて、早恵は戸惑ったように苦笑してみせた。
「私、そういうの疎くって。不器用だし」
「勿体無いわ。もし好きな人でもできてメイクに興味を持ったら教えてね。私たちがレクチャーしてあげる」
「ありがとうございます。その時は是非お願いします」
 そういって頭を下げると、彼女たちは満足そうに頷いて「お先に」と化粧室を後にした。
 早恵はもう一度鏡の方を向いて自分の顔を確認し、話しかけられたことで僅かにはみ出たリップを小指で拭う。
 ――まあそんな日は来ないと思うけど。
 誰もいない洗面台の前でゆるく微笑み、ポーチのチャックを勢いよく閉め、午後からの仕事に向けて気合を入れ直した。

 朝と同じく帰りの電車でももみくちゃにされたが、久々に定時きっかりで仕事を終えた足取りは軽かった。早恵が住んでいる、駅から十分ほどの場所にある女性専用のマンションはオートロックで共用部も清掃が行き届き、夜中に騒ぐような人もおらず、家賃が割高なことさえ除けば最高の物件だ。近くのスーパーで買い物を済ませ急ぎ足で家へと帰る。
 キーを回して中に入ると真っ直ぐ窓の方へ向かう。昼間人のいない部屋は空気が澱んでいる気がして、帰宅したらすぐに換気をするようにしているのだ。肌寒い風が勢いよく外から中へと吹き込み、早足のせいで火照った頬を心地よく撫でた。窓をしばらく網戸にして上着を脱ぎ、ハンガーに掛ける。ジャケットやコートはきちんとクローゼットに収まっているが、洗濯し終わった服は畳んでチェストの上に置きっぱなしである。またすぐ着ると思うと引き出しにしまうのが面倒で、仕事着はいつも出したままにしている。
 エコバッグに入れていた食材を冷蔵庫に移し、夕飯用にと買っていた筑前煮を温める。一人暮らしを始めた最初こそは自炊を頑張っていたが、時間をお金で買えると思ったらついつい惣菜に手が伸びてしまうようになった。冷凍しておいたご飯も温め、申し訳程度に週末作ったほうれん草のおひたしをお皿に盛ったら夕飯の出来上がりだ。
「いただきまーす……っと」
 箸を取りかけて、先に机の上のリモコンでテレビをつける。ネットに繋げられるタイプなのでそこから動画サイトを開き、新着のメイク動画を再生した。短い広告の後でヘアバンドをつけたすっぴん風の女性の顔が画面いっぱいに映し出される。筑前煮をつつきながら新作のコスメや流行りのメイク方法の紹介に耳を傾けた。
『ここは気持ち程度で……やりすぎてしまうと一気に野暮ったい雰囲気になってしまうので濃くならないように注意してくださいね!』
 ――ふぅん。てことはさり気ないとこなれ感が出過ぎるってことね。
 画面に映る女性に自分の顔を重ねて、メイクを施した時の雰囲気を想像する。私はこの人よりも目が小さいから、もう少しアイシャドウを広めに塗って、ピンク系よりも寒色系の差し色を入れたら似合いそう。そんなことを考えながらおひたしを口にする。
 食べ進めているうちにメイクが終わって、最後は服を着替えてヘアセットも済ませた全身が映し出される。撮影慣れした配信者はどの角度で光を当てれば一番綺麗に見えるかを完全に理解している。くっきりと背景から浮き出て存在感のある姿は、まるで本物のモデルのようだ。
 眩いばかりの照明を浴びながらメイクとコーディネートの話をする女性をじっと見つめていると、耳の奥で男の声がした。
 ――なんか魅力に欠けるんだよね。映りが悪いというかさぁ。
 不意によみがえった声に軽く頭を振って、湧き上がりそうになる感情を打ち消す。
「あぁ、やだやだ。折角早く帰ってきたんだからゆっくりお風呂でも入ろ」
 残っていた甘い味付けの筑前煮とご飯を胃袋に収め、朝ごはんの食器がそのままになっている流しに器を重ねた。
 湯が溜まるまでの間に軽く日課であるストレッチをして水分を摂り、頃合いを見計らって脱衣所へ向かう。クレンジングオイルで先にメイクを落としてからお気に入りのバスソルトを湯船に入れて、今はまだ空の洗濯籠に着ていた服を投げ入れる。この服が洗濯されるのは早くとも土曜日。早恵は梅雨の季節だろうが真冬だろうが、週末の休みにしか洗濯機を回さないと決めている。それほど平日の夜は早恵にとって大事な時間であった。
 浴室に入るとすぐにシャワーを出し、湯気が立ってきたら足先から浴びていく。冷え切った身体が徐々にあたためられ、最後に頭から浴びればじわりと纏っていた鎧が剥がれていく。帰宅してからもどこか固まっていた芯の部分がほぐれて、全身から力が抜けていく。好きな香りのするシャンプーやボディソープで身を清め、湯船に浸かる頃にはすっかりリラックスしていた。
「はあ……家はやっぱりこうでないと……
 浴室を照らすライトを何気なく見上げ、ゆっくりと目を閉じた。

 早恵は廊下で拾った名前入りの高価そうなペンをくるりと回してひっそりと息を吐いた。
 ――やだなぁ。あんな音を立てて落ちたのになんで気が付かないんだろう。
 食堂に来るまでの道で喋りながら前を歩いていた男性社員が落としたものだった。一瞬はそのまま置いていこうかと思ったが、銀色の刻印がきらりと光ってどうも放っておけなくなり、手に取ったはいいものの大勢がいる前で声を掛けるのは気が引けてそのまま見送ってしまった。
 幸い彼は営業課の社員でデスクの位置も知っているので、あとでそっと戻しておこうと思いながらポケットにペンをしまい、トレイを取って定食の長い列に並ぶ。
「ねぇ、昨日やってた『あの人の今』見た?」
 混雑する社食でやっとひとつ空いていた席に座った早恵の耳に、興奮気味の問いかけが飛び込んできた。一瞬自分に向けられたものかと思ったが、どうやら真後ろに座っている他部署の女性らの会話らしい。
「見た見た! 結構色んな人出てたよね」
「一番最初に出てきたあの俳優さん、好きで一時期出演してるドラマとか全部見てたけど、なんか普通のおじさんになっちゃっててびっくりしたわ。あの頃のキラキラオーラはどこ行っちゃったの! って」
 全員同じ日替わり定食を口にしながら分かる分かると頷き合う。
「カメラの前に立たないでいると失われていくものなのかな、そういうのって」
「でも、二年くらい前かな? 結婚するからって引退したアイドルのSNSをずっとチェックしてるんだけどさ、変わらず綺麗だよ。最近妊娠したらしくて毎日お腹の写真載せてるけど肌もハリがあって腕とか脚もすらっとしたままで全然変わってなかった! 私が妊娠した時とは大違いよ」
「やっぱさ、アイドルなんかやってたら運動とか美容とかが習慣になってるんじゃない? そりゃ私らとは違うわよ」
 どっと笑いが起きる。社内でも子供のいる人ばかりが自然と集まってできたグループのようだった。話題はそのアイドルへと移り、投稿された写真を覗き込みながらああだこうだと話していると、食器を返しに行く途中の男性社員がひょいとその輪に加わった。
「あれ、その人って時々ライブ配信とかもしてる人ですよね」
「そうそう! 松田くんも知ってるの? 元アイドル歌手の」
 スマートフォンを見せていた一人がそう言うと、男性はえっ! と声を上げた。
「アイドルだったんですか? 僕はてっきり、ちょっと綺麗な人がSNSやってるだけかと……
 嘘ぉ、とかその辺にいるレベルじゃないわよ、という、彼とは別の驚きの言葉を背中で聞きながら早恵は定食を半分以上残した。
 風呂上がりに見てもいないメイク動画を垂れ流しながら足の爪にやすりをかける。目の粗いものから細かいものへと無心で手を動かし続け、小指までいったところでピリッとした痛みが走った。見ると爪の周囲が赤くなっている。手入れをしている間ぼんやりしていたせいで、やすりが爪以外の部分に当たっていることに気が付かなかったらしい。ため息をつきながらネイル用の保湿オイルを塗り込む。
 ――二年ならずっといい。
 昼間の社食での会話を思い出してまたため息をつく。
 ――私はたった数日で輝きを失ったんだから。



「それじゃあ次、クロエちゃんお願いしまーす」
「はい、よろしくお願いします!」
 艶やかな黒髪のショートカットに人気ブランドの新作キャップを被ってカメラの前に立つ。もちろん履いているズボンやシャツ、アクセサリーまで全て撮影用に用意されたものだ。
「いつも通り、服のコンセプトに合わせてかっこいい感じで動いて」
「分かりました!」
 スタッフらに向けていた笑顔は、カメラマンがファインダーを覗いた瞬間に温度を変え、クールな顔へと転じる。きりっとボーイッシュに、だけど時々甘さも加えて。ディレクターやカメラマンの表情を盗み見れば今の自分に何が求められているか手に取るようにわかる。フラッシュが光る度、自然と身体が動いた。
 早恵は小学校中学年の頃から中学生になった今まで、学業の合間を縫って「岩崎クロエ」という名前で雑誌モデルの仕事をこなしている。お盆や年末年始で親戚が集まるたびに大人たちが「美人だ」「この子は綺麗になる」と囃し立てたのを母親が本気にし、勝手に応募した雑誌モデルのオーディションに偶然受かったことがきっかけだった。早恵は当初モデルに興味はなかったが、お洒落については並々ならぬ関心を抱いており、学校では禁止されているメイクが公然とできること、そして普段買ってもらえないようなブランドの服を身につけられると教えられて現金にもやる気が出てそのまま雑誌専属のモデルとして契約、活動を始めた。
 カメラを向けられてみると早恵は写真映えする子供だった。同年代の子よりも背が高く、手足もすらっとしてちょっとしたポーズも様になる。つり目と短く切った黒髪がよく似合い、中性的な見た目が格好いいと読者からの受けもよく、特にほんわりとした可愛い系のモデルと一緒に映ると画が引き締まる。中学校に上がってからは僅かに女性らしい膨らみが出たが、それでも雰囲気は崩れなかった。むしろ歳を重ねるごとに洗練され、中学生向けの雑誌へ移行してから表紙を飾る機会も増え、どんどんファンを増やしていた。
「学校で過ごす時間ももちろん楽しいけど、色んなメイクと服で新たな自分を発見できるモデルの仕事も楽しくて大好きです!」
 先日の雑誌内インタビューで語ったこの台詞はお世辞でもなんでもない、早恵本心のものだった。それくらい毎日が輝きに満ちていた。
「お疲れ様でしたー」
 フラッシュの波が止んで写真の確認が終わるとモデル単体での撮影は終わり、一旦休憩を挟む。といってもその間にスタッフはセットの変更をしたり、モデルも着替えやメイク直しをしたりするので周りは撮影中よりせわしない。
 早恵がスタジオの隅でヘアメイクを整えてもらっていると、先ほどまでカメラをチェックしていた三十代くらいの男性が軽く手をあげて近づいてきた。何度も一緒に仕事をしたことのあるディレクターである。早恵は目の端でそれを捉えるとすぐに立ち上がって挨拶する。
「お疲れ様です!」
「クロエちゃん、今日も調子いいね。君がいる現場は撮影がスムーズに進んで助かるよ」
「ありがとうございます、嬉しいです」
「君も小学生からやってるからかな? こっちがどんな表情やポーズが欲しいかすぐ察してくれるからやりやすいんだよね。他の子もそうだといいんだけど……そうだ、また今度オーディションがあって新しい子たちが入ってくるから、その時は先輩として色々教えてやってくれる? そうしてくれるとこっちも助かるからさ」
「はい! もちろんです」
「じゃ、この後もよろしく」
 他のスタッフに呼ばれていそいそとセットの方へ戻っていく。
 早恵は嬉しかった。あのディレクターはこだわりが強いことで有名で、学生モデルが働ける時間ギリギリまで撮影が及ぶこともある。スタジオ内ならまだしも、屋外でのロケであれば帰る時間が遅くなってしまうこともしばしばだ。しかしそんな彼が自分のことを認めてくれている。そして、ただ単に話の流れでなんとなく出た発言かもしれないが、新人教育まで任されたのだ。モデルとしての実力がなければたとえ思いつきでもそんなことは言わないだろう。
 ――期待に添えるように、もっと頑張らなくちゃ。
 誇らしさと嬉しさで胸を弾ませながら撮影再開を告げる声に元気よく返事をした。

 先輩が数人、専属モデルを卒業するのと入れ代わりに数名の新人モデルがオーディションで入ってきた。その子たちは、誌面に新しい風を取り入れるためか今までと違う系統を選んで採用しているようだった。目の色が綺麗で背の高いハーフ、髪色や私服が派手で尖っている子、そして黒髪ロングにどこか中性的な雰囲気を纏った、歳の割に大人びた子。
「今日はよろしくお願いします!」
 初めての現場で緊張しながら挨拶にきた新人を前に早恵は優しく微笑みかけた。
「こちらこそよろしく。今回は別々での撮影だけど、今後一緒に撮る機会もあると思うから、困ったことがあればいつでもきいてね」
 先日ディレクターに言われた言葉を思い出してそう付け加えると、少し年下の彼女たちは頬を赤らめて頭を下げた。
「私クロエさんのファンで……クロエさんと同じ場所にいるなんて、それだけで夢みたいです」
「私も! 系統は全然違うけど、こういうカリスマ性? っていうの? そういうのがある人に憧れてて!」
 瞳を輝かせながら言う二人に早恵はこそばゆい気持ちになる。契約しているモデルにとってこの雑誌の広告塔とも言える岩崎クロエは時にライバルであり、尊敬する存在でもある、ということは空気で感じているが、実際口に出してぶつけてこられると気恥ずかしかった。
 ――でも今だけだよ。
 早恵は思う。最初はキラキラして、楽しくて仕方がないという様子だったのにある時から徐々に目の色を失い、ある日ぷつんと消えてしまった女の子。大人しくて礼儀正しかったのに歳を取るごとに傲慢に、我儘に変わってしまった同期の子、誘惑の多い大人の世界に入り込みすぎて知らず知らずのうちに道を踏み外した先輩。幼い頃からこの業界で過ごしてきた早恵はそんな人をたくさん目にしてきた。
 この子たちはこれから嫉妬や陰口、そして普通の世界にいるよりずっと陰湿で悪意に満ちた感情にあてられる。ここだけでなく、学校でもそうした視線を向けられるかもしれない。だからこそ、自分の目の届く範囲では辛い目に遭わずに過ごせるよう願わずにはいられなかった。
「そう言ってもらえると嬉しいな。本当、なんでも頼って。力になるから」
 早恵の言葉に再度頭を下げて次の先輩へと挨拶に向かう後ろ姿を何気なく見つめる。ふと、挨拶以外は口を開かなかったロングヘアがこちらをちらりと振り向いた。
 ぱちりと合ったその目はカラーコンタクトだろうか、不思議な色をしており、その瞳の奥には並々ならぬ自信が宿っていた。
 早恵や先輩モデルの助けもあり、それぞれが現場に慣れてきた頃、夏のパンツスタイルという特集でボーイッシュな服装の似合う早恵と黒髪ロングの新人、乃亜がメインの撮影が入った。あれから早恵は彼女と顔を合わせていなかったが、特に誰からも話を聞かないところをみるとうまくみんなの輪に馴染んでいるらしかった。
 ――勝気な性格かと思ったけど、案外そうでもないのかも。
 あの時の目つきを思い出してやや心配していたものの、それも杞憂に終わりそうでほっとした時、スタッフから声が掛かった。
「クロエちゃんと乃亜ちゃん、お願いします」
 小走りに撮影用の白いバックスクリーンの前へ行き、よろしくお願いしますと頭を下げる。お互い色味の違うジーンズに白シャツという夏らしい服装だ。夏前の今はそのままの服装でいると肌寒かったが、カメラの前に立つとライトの熱を肌に直接感じて丁度いい。
 ――今回はコーディネートが似てるから仲良し姉妹か、おそろコーデの友達って感じかな。乃亜ちゃんはいつもクールに全振りしてるみたいだから、私は少し抜け感を出して……
 頭で求められていることを考えながら隣にいる乃亜と腕を組んでみたり、膝を立てて座った時は顔を近づけてみたりして仲良さげなポーズをとる。カメラマンは「いいねぇ」と呟くように言いながらシャッターを切り続けている。悪くない反応だ。が、隣にいるディレクターの表情が気になった。
……次の衣装に変えてみようか。二人、全く違う感じで」
 途中そう告げられて着替えに入る。早恵が白のハイウエストショートパンツにボーダーのシャツ、乃亜はボーイフレンドデニムにメンズものの黒シャツでラフな格好に変わった。服が変われば当然魅せ方も変わる。今度は腕を組んだりはせず、背中合わせになってなるべくズボンから素足のラインが綺麗に見えるポーズをとっていく。乃亜もさっきと違って少し気怠そうな動きに変えている。フラッシュを浴びながら小物として胸元に引っ掛けていたサングラスを耳にかけ、少しずらして上目遣いにカメラの方を見た瞬間、早恵の背筋を小さな氷の粒が流れた。
 ――なにかおかしい。
 いつも通りやっているはずなのに、ディレクターの表情が硬かった。僅かに強張った顔を笑顔に戻す。
 変わらずシャッターの音が規則的に響くなか、ディレクターが雑誌の編集者と二、三言葉を交わしたかと思うと、カメラマンに何か耳打ちした。シャッターを切る手が止まる。
「あー……えっと、じゃあクロエちゃんは少し休憩してもらって、乃亜ちゃんはそのまま、もう少し撮らせてください」
「はーい」
 乃亜が間延びした声で返事をして、一歩前へ出る。その後ろを通って脇へと移動した時、早恵は胸に暗い影が落ちるのを感じた。
 結局ツーショットの写真は特集のタイトルページに使われただけで、あとはほとんどピンで撮ったものをコラージュ風に他の素材と組み合わせて紹介されていた。
「こういうデザインにしたいから別々でたくさん撮った方がいいってことになったんじゃない?」
 ページを捲りながら母はのんびりと言う。
「うん……だと思うんだけど」
「大丈夫、いつも通りかわいいわよ」
「ありがと」
 笑ってみせたが、早恵の頭からはディレクターの渋い表情が離れなかった。
 部屋に戻って採用された乃亜の写真と、鏡に映る自分を見比べる。乃亜のポージングは特別大胆なわけではなく、無難なものばかり。自然といえばそうだが言葉を変えれば面白みがなかった。服は流石に着こなして場面に合わせて着崩したりしているものの、表情は大体いつも同じ感じだ。
 ――何がだめだったんだろう。
 首を傾げながら、同じポーズを取ってみる。腕の角度、表情の魅せ方、どれも乃亜に劣っているとは思えない。
 ――……結構気分屋なところもあるし、あの日は虫の居所が悪かっただけかも。
 そう自分を納得させ、そのまま寝る前のストレッチを始めた。

「早恵ちゃん! 今月のグロウガール見たよ!」
「脚めっちゃ細くて綺麗だよね。どうやってキープしてるの?」
 雑誌が店に並んで数日の間は、休み時間に早恵の机の周りから人が途切れることはない。
「ストレッチとかマッサージとかだけ。大したことしてないよ」
「えぇー本当? 私も同じようにしてたらあんなズボン履いても似合うようになるかなぁ」
「履けたとしても私らじゃ、早恵ちゃんみたいには着こなせないよね」
 そんなことないよ、きっと似合うよ、と言いながら一番の読者である同年代の反応を見て、昨日までのもやもやが晴れた気がした。やっぱり大丈夫。私はいつも通り上手くやれていた。
 他のクラスの生徒まで彼女を覗きに来るのに冷ややかな視線を向けたり嫌味を言ったりするものもいたが、そういうのにはもう慣れっこであった。思い悩んだのは小学生の頃まで。反応して怒ったり泣いたりすれば思うツボだから、大人な態度でいれば彼らは何も手出ししてこない。人よりも大人に囲まれて過ごす時間が長い早恵は、同年齢の子と比べてかなり大人びた考え方ができるようになっていた。
 クロエとしての自分が写るページを同級生たちが広げ、その姿を指さし、きゃあきゃあと声を上げる。
 ――そう、今までと同じように真面目に続けていれば大丈夫。分かる人には分かるんだから。
 無邪気な笑顔に囲まれて、彼女もやっと心からの笑みを零した。
 しかしそれから早恵の人生の軌道は、思い描いていた道筋から少しずつ外れていく。
 まず感じたのは現場の空気の変化だった。早恵自身はいつも通りなのに、どこかよそよそしいというか、気を遣っているような、そんな雰囲気を言葉の端々から感じた。
 学校でも時々そういう空気に当てられることはあるが、大体顔も合わせたことのない誰かがありもしない噂を流していることがほとんどだ。そしてそういう噂は耳を澄ませていれば本人の耳にも入るもので、それを聞くと逆にほっとしたものだ。
 ――誰かの期待を裏切るような行動をしたわけじゃない。そういう嫌がらせは実力を見せて黙らせればいい。
 そう考え、実際に学校と仕事以外の時間のほとんどを自身のケアや鏡の前に立って過ごした。そしてその努力はいつだって結果につながった。何度も表紙を飾るのは編集部の期待と読者からの人気の証。積み重ねた実績によってもたらされた自信は自然と早恵を輝かせ、その光の前ではどんな陰口も根も葉もない噂も長くは続かず、また元の空気へと戻っていく。
 だが今回は違った。
「クロエちゃん、最近調子悪い?」
 撮影の途中で投げかけられた言葉が、ぐさりと胸に刺さった。
「いえ……
「なんかさ、違うんだよね。光るものが無いというか、思っているイメージにばしっとはまらないというか」
 肌を綺麗に見せるために当てられた照明が熱い。たらりとこめかみから汗が流れる。
 しばらく続けてから渋々といった感じでオッケーが出たが、当然早恵の心は暗かった。
 何が違うんだろう。光るものって何? 他の子たちの時は上機嫌だったのに、私だっていつも通りやっているはずなのに、どうして。
 ――期待されていることが見えない。
 睡眠時間を削って鏡の前に立った。フチのないワイドタイプの全身鏡。オーディションに受かった時に「今後も使うだろうから」と買ってもらったもの。そこに映る自分を見つめ、上手くいかない理由を考え続けた。もう少し筋肉があった方がいいのかもと思えば筋トレを増やし、表情が足りないと思えば何時間でも鏡と向き合い、母親からの助言で特集で着る新作のブランドのコンセプトなどもスタイリストに頼んで調べてもらったりした。
 できることはなんでもしようと思った。期待を裏切りたくなかった。今まで築き上げてきたものを壊したくなかった。だってそれは「岩崎クロエ」そのものだから。
 だけど現実は冷酷で、非情だった。
 その日は野外でのロケで、何人かのモデルと撮影予定だった。移動するバスの中には乃亜もいた。
 彼女との撮影がきっかけだったせいか、早恵は乃亜があまり得意ではなかった。決して悪い子ではない。系統が似ているからライバルではあるが、実力で負ける相手とも思っていない。なのに何故か彼女が怖かった。一緒に撮影する時の、カメラマンやスタッフが二人を比べるようにして見るあの目も嫌だった。
 まだ冬の気配を色濃く残した外気を感じながら薄手のスプリングコートを羽織る。まだ暑いのに長袖を着るのも辛いが、寒さの方が顔色に影響するから困る。メイクを崩さないように両手に息を吹きかけ、風の吹く橋の上で撮影が始まった。
「じゃあちょっとクロエちゃんと乃亜ちゃん、その辺りでポーズ取ってくれる?」
 指定された擬宝珠の前で並ぶ。風上にいる乃亜の黒髪が早恵の顔にかかりそうになって一歩前に出た。位置を交代してくれないかな、と思ったが指示もないし、ひとまずそのままでポーズを取る。
 スタッフがレフ板を調整し、カメラマンがシャッターを切る。スタジオにいる時よりも音が遠く聞こえた。橋の幅はそんなに広くないから、ディレクターは少し離れてその様子を見ている。早恵はそちらに意識を持っていかれそうになりつつも、時々出る指示に従って表情と身体を動かした。
 いくつかのポーズを撮影し、それをカメラマンとディレクターが確認する。前は胸が弾んだその時間も、今では違う意味でドキドキしてしまう。何を言われるんだろう、私、大丈夫だよね? コートの前で両手を握りしめていると、途中でディレクターが顔を上げ、早恵の方を見てはっきり言った。
「なんか魅力に欠けるんだよね。乃亜ちゃんと並ぶと余計に、写りが悪いというかさぁ」
 一体どうしちゃったの、と言われたその先を、早恵は覚えていない。風の音が途切れたと思ったらきぃんと耳鳴りがきて、頭が真っ白になった。魅力がない。写りが悪い。どちらもモデルにとって致命的な言葉だった。喉の奥を大きな氷の塊が通り過ぎるように身体が中心から体温を失っていく。
 黒のロングヘアが大きく靡いて目の前の景色を消した。
 ――一体何が違うの。
「クロエちゃん、大丈夫? 顔色が……
 ベンチコートを広げてスタッフが駆け寄り、早恵の身体を包んだ。動けないでいる早恵は引きずられるように休憩用の椅子まで連れて行かれ、しばらく全員の心配げな視線を受け止めた後、絞り出すように小さく言葉を吐いた。
「すみませんでした」
 それが岩崎クロエとして過ごす最後の日だった。



 ベッドの上で何十回目かの寝返りをうって、がばりと起き上がった。スマートフォンで時間を見る。午前二時四分、丑三つ時。どうしたって眠れない。昔のことを思いだすといつもこうだった。
 ――こんな時間だけど、お酒でも飲もうかしら。
 電気をつけないままで冷蔵庫を開ける。こんな夜のために普段から数本ビールかチューハイを冷やしているのだが、生憎切らしていた。冷蔵庫の唸る音が自分の唸り声に重なる。
 少し迷って、寝間着の上からロングコートを着て歩いて五分ほどのコンビニへ行くことにした。アルコールの力を借りたいから、というよりは気分を変えたいという気持ちが大きかった。
 なるべく音をたてないようにして鍵を閉め、混じり気のない空気の中へ飛び出す。深夜の寒さと静けさが余計に純度を上げている気がする。そのままの冬を肺いっぱいに取り込み、水蒸気にして吐き出した。綺麗な夜だ。
 住宅街を抜けた先に見える信号機を目指して、誰もいないのをいいことに道路のど真ん中を歩いていたが、途中でふと立ち止まった。
……
 後ろを振り返り、視線を周囲に巡らせる。気のせいか、と前を向き直った時、右目の端で何かが動いた。
 住宅の前に置かれた植木鉢の後ろから三角の耳がぬっと、影が形を作ったように現れた。なんだ猫、と思った瞬間、それはちゃっちゃっと小さな爪音をさせてこちらへ近づいてきた。
……犬?」
 門燈に照らされて全身を浮かび上がらせたそれは、黒い犬だった。といってもラブラドールやパグなどのよく見る犬種ではない。大きな三角の耳、短い足にやや長めの胴からぴんと立った尻尾。そして口の周りにたっぷりとたくわえられた髭と目がすっかり隠れるほど長い眉。まるで洋画の街並みに出てきそうな犬だった。
 その犬は短い足をちょこちょこと動かして真っ直ぐ早恵の方に歩いてきた。
「うわ、わ」
 昔実家で犬を飼っていたことのある早恵だが、流石に後ずさりしてしまう。今時野良犬なんて見たことがないし、どう考えてもどこかの家から抜け出してきた犬なのだが、万が一狂犬病のワクチンを打っていなかったら……と思うと怖くて手が出せなかった。
 しかし犬は構わずちょろちょろと足元までやってきて、短い尻尾をぴぴぴと振りながら愛想良さそうに早恵の顔を見上げている。ぺろりと赤い舌が見えた。
「きみ……どこの子? ここ……は、犬シール貼ってないから違うか。っていうかこんな子散歩させてるの見たことないしな……
 飛び掛かってもこないところを見ると大人しい性格らしい。ひとまずしゃがんで頭に手を伸ばすと「撫でてください」と言わんばかりにぺたんと耳が頭の形に添って伏せられた。飼い主からよく撫でられているのだろう。ということはワクチンの方も安心していいかと結論付け、両手で頭を撫でてやった。首輪はついていないようだ。
「にしても困ったな。飼い主さんはどこ? 一人でこんな時間に出歩いたらだめだよ」
 不良だよ不良、と全身を撫でまわしながら言うと、聞いているのかいないのか、ころりと転がってお腹をみせた。お腹周りは毛が剃ってあって白く、それが妙に夜道に浮いて見える。そしてその下に何もないことを確認して、この髭の生えた犬が実は女の子であることを知った。
 とりあえずまだ近くに飼い主がいるかもしれないと辺りを見回し、更に見た目より重量のあるその子を抱き上げて近所を一周したが、やはり誰もいなかった。
 これが昼間や夕方なら、いくらでも犬を飼っている人のいる地域だし、ちらと見るだけでそそくさとその場を離れただろう。日ごろから目立つ行動を控えている早恵なら余計に関わりたくないところだ。
 道のど真ん中で犬を抱えて早恵は悩んだ。
 今は真夜中で人目はない。そして腕の中にいるこの子はすっかり身を任せ、冷えてきた早恵の身体に体温を分け与えてくれているような気すらする。
 ――でもなぁ、いきなり犬を保護するっていったって……
 その時、冷たい風に黒い塊が身体を震わせ、ぶしゅっとくしゃみをした。黒い鼻からきらりと光る鼻水が垂れるのをみて、早恵は思わずぎゅっとその子を抱き締めた。
 幸い契約している部屋は、家賃は上がるが申請すればペット可の物件だ。それに明日警察に届け出を出して預かってもらうまでの間だけのことだから言わなくても大丈夫だろう。寝床はブランケットを敷いて、ご飯やペットシートはコンビニに売ってるはず。仕事中が心配ではあるが、一日だけ我慢してもらえれば。
「よし……決めた」
 信号から背を向けて歩いてきた道を引き返す。まずはあたたかい部屋にいれてあげないと。




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