特別な日に会ったんじゃなくても、特別な相手だ。
@azisaitsumuri
リッパーの家は父親が帰って来ているのを見たことがなかった。家は大きいががらんとしていて人の気配を感じなかった。それはリッパー本人がいる時でも変わらなかった。家の中はあいつの描いた絵が沢山あって、人が住む家というよりよっぽど画廊とか美術倉庫とか、何かの施設染みていた。たまにリッパーに何かを渡している男がいたが、毎回顔が違って、毎回父親じゃないとあいつが答えた。何が渡されているのか訊ねると現金だと言っていて、それを渡しているのは父親に頼まれた人間らしいと言っていた。たまに母親だと言っていた。まれに知らないと言っていた。出所が分からなくても、金は金だ。
リッパーの家は母親も帰って来ている様子はなかった。しかし母親の方は父親と違って、たまに街で見掛けた。本当には父親も街のどこかにいるのかも知れないが、顔を知らなかったし、リッパーの感じから、あんまりそんなふうには思わなかった。母親はだいたい男といて、毎回顔が違って、毎回父親じゃないとあいつが答えた。父親と違って母親のほうは街では有名で、普段子供に温厚な顔を見せる大人達は、みんな彼女を顔を顰めて見ていた。
リッパーとは夜の街で会った。おれは別に不良ってわけじゃなかったが、月とか、夜の空気感とか、そういうのが好きだったから、よく夜に外に出ていた。そしたらあいつがいた。母親が街の噂になっていたもんだから、その子供のあいつも遠巻きに知られていた。そのあいつが月明かりを浴びてても街灯に照らされてても霧のようにはっきりしない輪郭で、ついその左手を引いた。不思議そうにされたその後で、漸く声を掛けた。なんて言ったんだっけな。ただ、その時はまだジャックって呼んでいたと思う。
夜によく会うようになってからは、夜の静けさのように密やかに会話を交わした。今夜は月の模様がよく見えるとか、あの模様は月の海なんだろうかとか、海の塩全部結晶化させたらどれくらい大きくなるんだろうとか、今日の晩御飯はうちの母親が塩を入れすぎたらしくてそれを薄めるために多めだったから沢山食べたとか、聞こえた鳴き声に二人して振り向くと猫の後ろ姿が見えたりだとか、視界の片隅で飛んで行ったのは蝙蝠だったか蛾だったかとかいや枯葉だとか。目に付いたもの、思い浮かんだもの、自分が触れている世界、全部隙間なく擦り合わせるみたいに互いに滅茶苦茶に喋った。でもやっぱりお互いの声は静かだった。
そうなってくるとおれは、こいつのことが堪らなく可愛くて、こいつの輪郭を良い加減はっきりさせたくて、大人が子供にするみたいな口付けを会う度にした。それをリッパーは慣れていないみたいだった。そのせいか毎度されるが儘だった。それがたまにあいつがもっとと言って来るようになり、あいつのほうからねだって来るようになると、おれは飛び跳ねて月まで行けそうなほどの喜びを感じた。
あいつがキスを気に入ってくれたのが堪らなく嬉しかったはずなのに、おまえはきすがすきなんだな、となんだか偉そうに言ってしまった。内心慌てたがあいつは右手で控えめにこちらの指をつまんで来て、だめですか、と言った。だめじゃない、とあいつの手を握った。輪郭が分かるくらいしっかりと握った。可愛かったから、きすがすきなりっぷちゃん、と言ったら、その呼びかたは嫌だと照れたように言うので。
「リッパー。しよう、きす。」
リッパーなら気にならない呼びかただったのか、キスに誤魔化されたのか分からないが、あいつは今度は何も言わずにおれにキスされた。そう呼んでちっとも可愛い意味ではなくしてしまったのだが、今もずっと、あいつはおれのかわいいリッパーだ。