@hirgten
ジルコン
決壊しそうだった。
踏み出す度、地面に叩きつける雨がパンプスの中に入ってきてストッキングを濡らしていく。少しでも早く雨宿りできる場所へ行きたいが、身体が重くてどうしたって走ることができない。こんな時間で擦れ違う人は少ないが、それでもみな傘を差していて、その中で一人雨に濡れている自分が惨めで仕方がなかった。
元はと言えば天気予報を見ていなかった私が悪い。しかしそれも残業続きで寝る時間が遅くなり、朝はギリギリまで寝ていないと到底出勤できないからであって、残業が必要なのも仕事を押し付けてくる上司がいるからであり、明らかに自身の処理能力を超えた業務量を抱えているのを知っていながら手助けしてくれるような先輩も同僚もいないせいだ。
――それもこれも、自分が悪いのだけど。
濡れないように下を向いていた顔を更に俯ける。ストラップの先についた社員証がだらりと垂れ下がって〝三春信子〟と言う名前と顔写真の上にぱたぱたと水滴がついた。靴はもちろんスカートも鞄も濡れて変色している。情けなくて人目を避けるように細い路地に入り、重たい息を吐く。
急ぎ足に駅へと向かう人の靴が視界に入り、水溜まりに一瞬大きな波紋ができる。その波が自分の胸中にまで押し寄せるような気がして、うっと肺が詰まった。
この世は生き辛い。ぽつり、ぽつりと歩きながら胸に手を当てる。ここはいつだって不安と痛みを伴って、ヒビが入り続けている。ここだけじゃない、身体中至るところに亀裂はある。
――それに気付いたのはいつだっただろう。
雨に濡れながら信子は思う。
――就活してた時? 高校生になった時? いやもっと、ずっと前からだったような……。
「一人っ子ってさ、寂しくない?」
これは確か、中学生の頃だったかと思う。当時仲の良かった友達と学校からの帰り道を歩いていると、なんの話の流れか、ふとそんなことを尋ねられた。
「どうかなぁ、私は結構気楽だけど。そっちは確か弟がいるんだっけ」
「うん。姉弟がいるとうるさいとか鬱陶しいっていう人が多いけど、私は弟が可愛くてしょうがなくてさぁ。ちょっと年が離れてるってのもあって家族全員で猫かわいがりよ」
信子はその弟には会ったことがない。なのでその〝可愛い〟が見た目に対してなのか、性格についてなのかは分からなかったが、それよりも彼女は普段弟の話など全くしないので、突然そんな話が出て驚いた。
「へぇ、なんか意外だね。でも家族みんながそんな感じだと甘えん坊に育ったりしないの?」
「それがそうでもないのよ。我儘言わないし、気遣いも出来るし、本当にいい子なの。愛情たっぷり注いで育ててるからかな」
嬉しそうに言う友人の言葉を聞いた瞬間、身体の奥がずきんと痛んだ。
「そう、なんだ」
「最近はトランプにはまっててさ、毎晩相手させられてるんだ。あっそうだ、今度うちへ遊びにきて相手してやってよ。いつも同じ面子だとこっちも飽きちゃって」
「うん、行く行く」
さっきの台詞のどこに傷つく部分があったのか自分でも不思議に思いつつも、その時は特に気にすることなく会話は続き、彼女とはいつも通りの場所で別れてそれぞれの家に帰った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
帰宅すると母親が夕飯の準備をしている。台所まで入っていって鞄から弁当箱を出し、包みを解いて流しに置いておく。自分の部屋で着替えてからだとこれを忘れてしまい、次の日慌てて洗う羽目になるので嫌でもそうするようにしていた。
炒め物をする音に紛れてそのまま去ろうとすると後ろからいつもの問いが投げかけられる。
「今日も美味しかった?」
「……うん」
「お父さんもうすぐ帰ってくるから、着替えたらちょっと手伝って」
「分かった」
素っ気なく返事をして逃げるように自室へ引っ込んだ。
鞄を机の横に立て掛け、その場にしゃがみ込む。重たく不快な感情が胸に纏わりついて息がしづらい。
――……普通だったとかまずかったとか、思っていてもそんなこと、とても言えるわけないじゃない。
「学校はどうだ」
父親が帰ってきて三人で食卓を囲む。この質問もいつものことで、信子はせめてうんざりした気持ちを声色に出さないようひと呼吸おいてからなんでもない風に答える。
「別に、いつも通り」
「信子はまたそんな言い方して。なにかひとつくらいお父さんに話せることないの?」
「いいんだいいんだ。いつも通り、結構じゃないか。何も心配することがないならそれで構わないんだよ。それより今日の味付けはいいね。僕好みだ」
父親は大らかに笑って学校のことから食卓の上へと話題を変える。おかずに箸をつけようとした時、信子の中でなにかがぴしりと音を立てた。まだ何も口にしていないのに、胸が詰まる。
――私ってどうして……。
『一人っ子ってさ、寂しくない?』
首までゆっくりとお湯に入って、浴室の照明に反射して光る乳白色のお湯を見つめる。いつも湯船に浸かっている時は色んなことが頭を過るが、今日浮かんだのは帰り道でした友人との会話だった。
信子自身、弟や妹が欲しいと思ったことはない。もし姉という立場になればそれによって縛られることも多くなるだろう。それを想像するだけで心が疲れる。そんな自分だから、一人でいるのが気楽だというのは嘘ではなかった。万が一、今後親から「子供ができた」と言われればそれは授かりものだししょうがないとは思う。ただ生まれてきた子に対して彼女のように可愛がれるかと言われれば「もちろん」とは言い難い。表面上は優しく接するだろうけど、心の底から大事にできるかどうかは自信がなかった。
――私って結構薄情なのかも。
入浴剤の入ったお湯を両手で掬い、顔にかける。しばらく浸かっているのに鼻先はまだ冷たい。その温度が妙に沁みた。
「お風呂上がったよ」
いつも通り肩にタオルをかけたまま、リビングでテレビを見ている母親に声をかける。彼女の家では一番風呂は父親だが、その後はどちらが先に入るか決まっておらず、今日はたまたま母親が最後だった。
「ああもう上がったの。すぐ入るわ」
番組がコマーシャルに切り替わると、そこで区切りを着けるようにテレビの電源を消した。置きっぱなしの朝刊、飲みかけの湯呑み、外したばかりの老眼鏡などを座卓の隅にまとめて立ち上がる。片付けたようで実は全く片付いていない。湯呑みくらいついでに流しへ置きに行けばいいのにと思う。
「私もう部屋に行くから」
「はいはい、髪の毛ちゃんと乾かしなさいよ。風邪ひいても知らないからね」
「そんなこと、言われなくても分かってるってば!」
母親はぽたぽたと髪の先から流れ落ちてはタオルに吸い込まれていく雫を見て一言そう注意すると、また「はいはい」と言いながらさっさと浴室の方へ行ってしまった。
――小学生じゃあるまいし、いつまでもあんなことを言われると腹が立ってしょうがない。
信子はざわつく心を鎮めるため、冷蔵庫からコンビニでよく売られている紙パックの紅茶を手に取り自室に戻る。学校で飲むと残してしまうことが多いそれは、家で宿題をやりながら飲んでいたら何故だかあっという間に無くなる。
甘いレモンティーを飲みながら課題を進めていく。糖分は小さなイライラを抑えこみ、目の前の問題に集中させてくれたが、宿題が終わる頃には先ほどと打って変わって胸に重い物がのしかかったように暗い気分になっていた。
――お母さんはただ心配して言ってくれただけなのに、あんな風に言うことなかったな。
投げつけるように吐いた言葉を思い出す。いつもこうだ。口に出した後で後悔する。夕食時のこともそう。話す内容がないわけではないけれど、口に出すのがひどく億劫でついあんな返事をしてしまう。優しくしようと思ってもそうできない時が、信子にはよくあった。
この言動は傍からみればただの反抗期に見えるだろう。しかし彼女にとってはそうではない。これは今に始まったことでなく、自分がもっと小さな頃から心の中にあるものだった。「あんたのためを思って」と怒られた時はもちろん、落ち込んでいる時に友人から優しく声を掛けられても感情が波立つ。そしてその後必ず身体のどこかにあるヒビが痛むのだ。
机の上に散らばった文房具をペンケースに入れ、ノートや教科書と一緒に通学鞄にしまう。消しゴムのかすを集めてティッシュで包み、少し残っていた紅茶も飲み干してがさっと捨てた。かわいさ重視の小さなゴミ箱はそれだけでもういっぱいである。
――誰かから慰められたら立ち直ったふりをしなきゃいけない。優しくされたら感謝しなければならない。どんなに心の余裕がなくても、たとえそれが見当違いなやり方だったとしても。
そのような考えが信子の中にはあった。自分が誰かから気遣われることを煩わしいと感じていると自覚したのは最近である。そうしてそれに気付いてしまうと楽になるどころか、日常的に相手が気を遣っているかどうか、自分がそれに応えられているかが気になって余計胸が重くなった。そんな自分がなんだか偽善的に思えて嫌だった。
友人の台詞が耳によみがえる。
『本当にいい子なの。愛情をたっぷり注いで育ててるからかな』
――私だって愛情を注がれて大事に育てられたはずなのに、どうしてこんなに心が捻くれているのか……。
唐突に親が可哀想だ、と思った。お腹を痛めて、愛情とお金をかけて育てた子供がこんな風に成長してしまって、がっかりしているだろう。そして信子自身も、性の根から〝いい子〟になれなかった自分に失望していた。
進学先に県外の大学を選んだのは、単純に実家から離れて一人暮らしをしたかったからだった。最初は両親ともに難色を示したものの、適当な理由をいくつか挙げれば許してくれた。志望校に合格してから新居の内見や家具選びの時までは、親からの過保護に感じるほどの気遣いを受けてしんどい思いもしたが、いざ新天地に引っ越してからは順調であった。
大学はいい。高校と違って、同じ学科の子と四六時中一緒にいなければならないということはないし、空き時間に一人で過ごしている人もたくさんいる。バイト先は時給の関係で仕方なく居酒屋を選んだので、客とのやりとりで疲れる日もあったが、家に帰れば一人きりの空間が待っている。
気楽だった。自分以外の人間と適切な距離を保って過ごすことがこんなにも心を安らかにするのかと思った。こんな風にして生きていけば胸の痛みも全身に入ったヒビも忘れて生きていける、そう信じていた。就職活動が始まるまでは。
――また不採用だ……。
信子は焦っていた。周りからちらほら内定を貰ったという声があがり始める中、一次面接も通過できない状況が続いていた。
大学の就職活動講座ではとにかくたくさんの企業にエントリーせよとのことだったが、信子は「数撃ちゃ当たる」というやり方が好きではなかったので、最初から本当に働きたいと思う数社しか応募していなかった。その分、企業分析や志望動機はしっかり練り、面接対策も行っていた。しかし、志望していた会社から軒並みお祈りメールが届き、まずいと思って方向性を変えた。似たような業種で募集があるところは片っ端から応募し、リクルートスーツに身を包んで毎日のように説明会に通う。そして家に帰ってからも就活サイトにかじりつく苦しい日々である。
「こんなに受けてるのに、どうしてひとつも受からないんだろう」
一旦休憩しようとパソコンの画面から目を離した。時刻は夜の十時。テーブルの上のマグカップにはすっかり冷めたコーヒーが半分残っている。手に取ってみたが飲む気になれず、そのまま流しへ捨てに行った。
机の前に座りなおして、何気なく就活用に作ったノートを開き自己分析のページを見る。長所、短所、学生時代のエピソード……どれも自分のことを書いているはずなのにしっくりこない。隣に置いてある履歴書と合わせて見ても上っ面だけの中身のない人間像しか浮かんでこなかった。
こういう活動では、企業に対して少しでもよく見せるために小さなエピソードを大袈裟にしたり、自分のいい面ばかりを書くのは当たり前である。しかし信子は未だにそれを〝そういうもの〟と捉えられずにいた。面接で質問に答える時も、自身の回答を「胡散臭いな」と思いながら口を動かしているところがあった。
――それが面接官にも伝わっていたのかもしれない。だとしたら落とされるのは当たり前だな。
ノートをめくって何も書かれていないページを出す。そして徐に感じたままの自分を書き出し始めた。親の愛情に応えられない薄情者、気を遣われたくないし遣いたくもない自分勝手な性格、普通の人のフリもうまくできず社会から拒絶された不完全なダメ人間。こんな自分は誰からも愛されない、必要とされない、存在しない方がいい、いっそ死んでしまえたら。死、死、死、死。
――……無理してでも人と関わっていたら、ほんの少しは変わっていたかもしれないのに。
書き殴られた言葉はそのまま胸に突き刺さり、脆くなっていた内側がどんどん崩壊していく。それを感じていながらもペンが止まることは無かった。
そんな夜をいくら過ごしても陽は昇る。朝が来たら起き上がってまた一日を過ごさねばならない。死という究極の選択をしない限り人は生活を営まなければいけないわけで、生活をするには結局、金が必要だ。実家には戻りたくなかった信子はとにかく所構わず履歴書を送りまくり、卒業間際で内定を貰った企業に就職した。ブラックかもしれないと他の人から聞いてはいたが、もうどうでもよかった。どうせいつか死ぬまでの〝つなぎ〟だと割り切っていた。
そうして入社すれば案の定、新人教育もそこそこに次々と仕事を押し付けられ、分からないことをきいてもろくな返事は得られず、伸びていく残業時間で寝不足な日々。そんな頭でミスが出ないはずもなく、怒られてやり直しての繰り返し。就職して一年で精神は既に消耗しきっていた。一日、一日をやり過ごしながら、いつも身体のどこかでぴしりと亀裂が走る音を聞いていた。
雨に打たれながら濡れて陰鬱な雰囲気を醸し出している路地を歩いていると、偶然屋根のある店を見つけた。夜も遅いし既に濡れ鼠ではあったが、このまま帰る気にもなれず、軒先を少し借りることにする。
雨粒の攻撃から解放されると、建物の中に入ったわけでもないのに空気があたたかい気がしてほっとする。小さな屋根ひとつ隔てただけで別世界のようだ。鞄からタオルハンカチを取り出して手と頭を拭き、ようやく顔を上げて外を見ると思っていた以上に雨脚が強い。これではパンプスの中まで水が入ってくるわけだ。
「いつまで降るんだろう」
スマートフォンを取り出して天気を確認すると、明日も一日中雨の予報になっており、今も弱まる気配は一向にない。末端から徐々に冷えが忍び寄ってくる。家まで徒歩十五分。ずっしりと水分を含んだスーツが重かった。
――なんかもう、どうしようもない。
足から力が抜け、その場にしゃがみこむ。地面にあたって跳ねた雨水がまた足元を濡らしていく。どこにも行きたくなかった。自分でそれを選べないのなら、今ここで天変地異でも起こって私を地獄へと突き落としてほしい。そうでなければこのままぽっかり、跡形もなく消えてしまいたい。
そう思った時、背後から雨音に紛れて物音がした。店の方を振り返ったが電気は消えており、扉にはクローズドの札が下がっている。何よりこの時間である。気のせいか、と前を向き直すと、がちゃりと音がして入口が開いた。憂鬱な雨の夜を打ち消すような爽やかなウィンドチャイムが路地に響く。
「……おや、大丈夫ですか?」
中から出てきたのはこの店の店主らしき男性だった。暗くてよく見えないが、ロマンスグレーで眼鏡をかけた、上品そうな人だ。
「すみません、雨宿りをしていて……すぐ帰りますので」
「そうでしたか。いえ、どうぞお気になさらず。それより今夜は止みそうにないですから傘をお貸ししましょう。少し待っていてください」
「そんな、そちらこそお気になさら……ず」
信子が立ち上がってそういい切る前に店の中へと引き返してしまう。
こんな所に座り込んでいたばかりに、余計な人に気を遣わせてしまった。変に雨を凌いだりせずさっさと帰ればよかった……もやもやとそんな事を考えながら開きっぱなしのドアから中を見つめる。雑貨屋だろうか、中央のテーブルや壁面の家具にはシーチングがかかっていて何を販売しているのかは分からない。奥にぼんやりと灯ったオレンジの照明がおとぎ話に出てくる未知の世界への入り口のような不思議な雰囲気を醸し出している。その光を長身が遮って、傘を手にした男性が足早に戻ってきた。
「こちら傘と、小さいですがもしよければタオルもお使いください」
「あ、ありがとうございます。すみません」
「いえいえ、困った時はお互い様ですよ。本当なら中で温まってもらった方がいいんでしょうけど、こんな時間に若い子を店に入れるのはどうかと……あぁでも温かい飲み物くらいなら」
「そこまでしていただかなくても大丈夫ですっ! これで、十分ですから」
扉に手をかけた店主を慌てて止める。これ以上お世話になるわけにはいかない。
「そうですか。では私はこのまま帰りますが、風邪を引かないようにお気をつけくださいね」
それはお持ちいただいて結構ですので、と言い残して戸締りをすると、黒い傘を広げて足早に帰っていった。
――私の言い方がきつくて、気を悪くさせてしまったかしら……。
店先でひと通り身体を拭いたあと、男性用の大きな傘を差してなんとか帰宅した信子はそんなことを思った。これ以上の迷惑をかけたくなくて断った際の声音がきつくなってしまったことを気にしていた。そして〝お持ちいただいて結構です〟と言われたものの、タオルだけならともかく、傘は黒地に十六本の骨が入ったしっかりしたもので、それなりに立派に見える。こちらは後日返しに行った方が良さそうだ。もちろんその際には手ぶらで行く訳にはいかないだろう。
はぁ、とため息をつくと思い出したかのように背筋がぞくりとする。ひとまず全部後回しにして今はシャワーを浴びよう。そうでないと明日ひどいことになりそうだ。
信子が再度その店を訪れたのは二週間後のことだった。元々疲労が溜まっていたうえに雨に打たれて身体を冷やしたせいで翌日の仕事中に高熱を出し、そのまま二日間寝たきりになってしまったのだ。復帰したらしたで上司から体調管理がなっていない、周りは体調が悪くても仕事していると叱られ、そして当たり前のように休んでいた分の業務が覆いかぶさってきた。それを処理するのにどうしても休日出勤が必要で、ここへ来るどころか菓子折りひとつ買いに行く時間がなかったのだった。
百貨店の紙袋を持って記憶を頼りに路地裏を歩く。昼間だが擦れ違う人はいない。きょろきょろと辺りを見渡しながら足を進めると、雨避けのない建物の中でひとつだけ屋根の迫り出ている店を見つけ、ほっとして近寄る。
店へ入る前にショーウィンドウの外から中の様子を窺うと、あの日シーチングがかかっていたアンティーク調の家具の上に黒いケースが並んでいる。中央のテーブルにはいくつかリングやネックレスも置かれているが、壁面のガラスケースは似たようなケースでびっしりと埋め尽くされている。
――何の店だろう。
首を傾げながら入口の扉に目を動かした時、店全体が一瞬色とりどりに輝く。その強烈な光に、信子は見覚えがあった。
――宝石……。
小さな箱に入って飾られていたのは、どうやら全て宝石らしい。
大通りからも離れた、静かな路地裏で営業しているせいか客は誰もいない。それどころか店主の姿すら見えなかった。奥に扉が見えるのでその部屋で仕事をしているのか、高価なものを置いているだろうになんとも不用心である。
だが自分のタイミングで店に入れるのは有難かった。深呼吸をして心の中で用意してきた台詞を復唱し、傘を持ち直してドアに手をかけた。
「こんにちは……」
内側につけられていたウィンドチャイムがささやかに鳴ったかと思うと、すぐに奥から物音がして扉が開いた。
「いらっしゃいませ。……おや?」
姿を現したのはやはりあの夜の男性であった。明るい場所で改めて見ると、おそらくミドル世代ではあるが思っていたより若々しく整った顔をしている。かきあげにしたグレーヘアは清潔感があり、身につけているものもどこか洒落ていて、紳士とはこのような人を指すのだろうなと信子は思った。
「あの、この間はご親切にしていただきありがとうございました。これお借りした傘とタオル、それと少しですがお礼です」
頭を下げて紙袋と傘を差しだす。
「これはこれは……どちらも差し上げたつもりだったのに、却って気を遣わせてしまいましたね」
「そう言っていただいたんですが、傘が立派なものでしたので。あとお礼も言いたかったですし」
「はは。これはねぇ忘れ物なんですよ。よく置いて帰ってしまう人がいてね。そんな傘が四、五本あるんです。来られた時にお返しすればいいのですが、私もつい忘れてしまって。歳を取るとそんなことが多くて困りますねぇ。それにタオルは町内会のいただきもので。いやそんなものをお渡ししたなんてお恥ずかしい。でもこういうのが一番使い勝手がよかったりするんですよねぇ。そうだ、あなた今日はこれから他にご用事が?」
店主は随分喋り好きらしい。流れるような言葉の波に圧倒されつつもなんとか返事をする。
「いえ特にありませんが……」
「ならわざわざお越しいただいたお礼に、あの時出せなかったお茶を淹れましょう。奥に商談スペースがありますので……あぁ、もちろん何か売りつけようなんて思っていませんから、安心してください」
「えっあの」
「さぁさぁいい茶葉を選びませんとね。どうぞこちらへ」
店主は戸惑う信子を置いて軽やかに歩き出す。奥の扉に手をかけ、手で促されるともう断ることは出来なかった。
「……お邪魔します……」
建物の敷地は意外と広いようで、奥に入ると更にまたふたつ扉があった。
「こちらへどうぞ」
案内されて左手の部屋に入ると、店内と同じくアンティーク調のテーブルと椅子が置かれている。作業部屋も兼ねているのか、机の上には店頭に並んでいたのと同じ黒いケースと、浅いトレーの上にピンセットと共に宝石が無造作に転がっていた。隅には顕微鏡らしきものまで置いてある。
店主は慣れた手つきでそれらをバラバラにならないよう底の深いボックスに入れ替え、机の端に置き直す。あっという間に雑然としていたテーブルはすっきりした。
「ではお茶を淹れてきますので」
「あの、お店の方は……」
「あぁそれなら大丈夫。うちに来る人は大抵事前に電話を入れてくれますから。通りすがりの人は滅多に来ませんねぇ、こんな立地ですから。それ以外はほとんどオンラインのご注文なんです。なのでのんびり仕事ができるのですけれども」
喋りながらも信子に椅子をすすめ、アールグレイかカモミールかなどと呟きながら部屋を去っていった。
――妙なことになってしまった。
渡すものを渡してすぐ退散しようと思っていたのに。こんなところに通されては帰る時も言い出し辛そうだ。落ち着かない気持ちで目線を動かす。重厚感のある家具は高価なものを扱う店の雰囲気によく馴染んでいるが、なにぶんジュエリーショップやブランド店に来慣れていない信子は到底ゆったりした気分にはなれなかった。
部屋の壁には店と同じくガラスケースが置かれていて、中の宝石類がライトで眩く輝いている。これが客の立場なら立ち上がって吟味するところであるが、信子は客ではない。変にうろちょろして怪しいやつだと思われても困る。ショーケースにはもちろん鍵がかかっているはずだし、監視カメラもあるだろう。しかし机の隅にはさっき片付けられた宝石が無防備な状態で置かれているのである。もしも信子が帰った後にそのうちのひとつが無くなっていて、自分のせいにされたらと想像すると下手に動けなかった。
手持ち無沙汰でそわそわしていると、ふとテーブルの上に名刺サイズのショップカードを見つけ、これくらいならと手に取ってみる。墨色でしっかりした紙の表面に、落ち着いた銀の箔押しで「一期一石堂」と印刷されている。非常にシンプルなカードだ。裏にはこの店の住所と電話番号、ホームページアドレスが載っていた。
「よかったら一枚差し上げますよ」
「ひぇっ」
音もなく戻ってきた店主に思わず声を上げる。
「はは、すみません。驚かせてしまって。あまりお客様を一人にするのもよくないと思って、超特急で用意をしたものですから」
両側に持ち手のある銀色のトレーには大きなポットとカップがふたつ、焼き菓子の乗ったお皿がひとつ乗っている。流れるような所作でそれらをセッティングする姿は執事のようにも見え、それが余計に信子をそわそわさせた。
「さて、そろそろいいでしょう」
そういってポットを静かに持ち上げ、カップにお茶が注がれる。紅茶かと思いきやハーブティーのようで、優しく甘い香りが鼻をくすぐった。
「いい匂い……」
「カモミールティーです。気分をリラックスさせる効果があるんですよ。カフェインが入っていないので寝る前なんかにもおすすめです。私は蜂蜜を加えたり、ミルクを足すのも好きですね」
注ぎ終わるとポットにティーコゼーを被せ、ようやく席についた。
「冷めないうちにどうぞ。お砂糖はこちら、ミルクは必要ならお持ちします」
「ありがとうございます」
細い取っ手に指をかけ、顔に近づける。カモミールの香りを胸いっぱいに吸い込んでからカップの縁に口をつけた。不思議と先ほどまでの緊張はましになっている。
「あの後は風邪など召されませんでしたか。早めに片付けなければいけない仕事があってあなたを置いて帰ってしまいましたが、家で心配していたんですよ。気温も低かったですし、あなたは既に随分雨に打たれていたようでしたから」
「……実は、次の日熱が出て。こちらに伺うのが遅くなったのもそれが理由なんです」
「おやおやそれは大変でしたねぇ。お仕事が終わるのはいつもあんな時間なのですか?」
「まあ、大体そんな感じです」
その返事をきいた店主は「こんな若い子がかわいそうに」と心の底から同情した表情をして信子の方へ菓子の乗った皿を寄せた。
「夜遅く帰るのは危ないですよ。職場の人からたまには早く帰りなさいと言われないのですか?」
「まさか。働き始めてまだ一年半ほどですが、そんな言葉かけられたことないです。早く退社して文句を言われることはありましたが……」
「そんな、女性が毎日あんな時間に帰るなんて……」
そう言って更に皿を信子の方へ押し付けた。仕方なく一番上のフィナンシェをひとつ取る。
「でも、結局仕事が終わってない自分が全部悪いんで。要領が悪い上に覚えるのも遅くて、ミスも多いし、そんなだから職場の人からも、呆れられ、て」
不意に目と鼻の間がつんとして言葉が詰まった。自分のことなのに涙が出そうになるなんて情けない。しかも初対面に近い人の前で。
「すみません、こんな話をするつもりじゃ」
はっと顔を上げると、眼鏡の奥の琥珀色に光るやわらかな瞳と目が合った。職場での蔑むような、刺すような視線とは全く違う。その目の表情を見るだけで、彼が柔和な性格で器量の大きな人物だろうということを感じさせた。
「どうぞ聞かせてください。もし、あなたがよろしければ」
信子は俯き、テーブルの上を見た。自分のために用意されたハーブティーと菓子。隅には高価な宝石がたくさん入っているであろう箱が金庫にも入らず無防備に置かれている。入店してから短時間にも関わらず、この部屋の、完全に自分を許容し、信頼した空気に自然と心が開きかかっていた。
話してみようかと、思った。友達にも、両親にも言えなかったことをこの人になら吐き出していいと思った。あの夜見たおとぎ話の向こう側に、なにか生きるための答えがあるような気がして。
「……わたし……」
話し出そうとしたが、自分でもどこから説明すればいいか分からなかったので、ひとまず子供のころまで遡って話した。
物心ついた時からずっとあった違和感。心に入っていく亀裂。人と関わるのが面倒で、ひとり閉じこもるうちに世の中から求められなくなっていた自分。
「辛くて、何度か家族に今の職場について相談しようかと思ったんですが、誰とも関わりたくないって思いながら生きてきた私が今更助けて欲しいなんて、言えなくて。全部自分で選んで歩んできた結果ですし……。上手くいかないのは、結局自分が悪いから、しょうがないって……」
ぴしり、とまたどこかで音がする。
「もうずっと、身体の内側から壊れていくような感覚が止まらないんです。割れて、欠落して、どんどんだめになっていく。今に始まったことじゃないんです。きっと、生まれた時から亀裂は入っていて、大人になってようやく気付いたんです。自分は……普通じゃないって」
ぽたぽたと顎を伝って涙が落ちていく。自分で自分がかわいそうで、泣いていることがまた惨めさを煽って涙が出た。店主はしばしその様子を見守っていたが、信子が手で目元を擦り始めたのを見てそばにあったティッシュケースをそっと彼女の方へ置いた。抜かりなく足元にゴミ箱も持ってきて、その足で静かに部屋を出た。
少しして、信子の抑え目な嗚咽が落ち着く頃に戻ってきた彼の手にはポットにしては小さい、注ぎ口のついた入れ物があった。
「完全にあたたかくはなりませんが……」
そう言って冷めたカップに注がれたのは、蜂蜜の匂いのするミルクだった。淡い黄色があっという間に色を変え、薄く湯気が立つ。
「ありがとう、ございます」
ひとしきり泣いて瞼と鼻を赤く腫らした信子にその甘い飲み物は必要に思えて、すぐに口をつける。冷めたハーブティーに熱いミルクで丁度いい具合の温度になったそれを一息に飲み干した。それを微笑みながら見ていた店主が「お食べなさい」と菓子を勧めたので、皿から取って横に置いたままになっていたフィナンシェの袋を開けてぱくりと食べた。
「あなたはきっと、人より少し感受性が強いんですね。それは決して悪いことじゃありません。人の気持ちを察知することに長けているから、その分色々考えて疲れてしまうのでしょう。それはあなたが持って生まれた素質であって、人と違うからといって気にすることはないと思いますよ」
しっとりとした甘い言葉がフィナンシェと共に信子の身体へ、そして心へ入ってきた。
「私からすれば、まだ若いのにそんな風に自分を客観視できるあなたは素晴らしいです。歳を取っても自分自身を見つめ直すということは難しいですからね。私も自分の嫌なところからはついつい目を逸らしてしまいますし」
店主はふふ、と茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「人はみな一人一人違う個性を持っています。一人が嫌な人もいれば孤独が好きな人もいる。構いたいと思う人もいればそれを鬱陶しく感じる人もいる。色んな人がいて当たり前です。もし全員が同じ性格で同じ顔をしていたら、そっちのほうが恐ろしいとは思いませんか」
「それは、そうですけど……自分がだめな人間であることには変わりはないですよ」
店主の言いたいことはよく分かる。しかしそれと自分自身を認めるというということが、彼女の中でイコールでは繋がらなかった。普段ならそれでも「慰めてもらっているのだから」と受け入れたふりをするところだが、今は心の内を全て話してしまった後だからか、素直な気持ちを口に出していた。
店主はそんな信子を面倒くさいという目で見ることもなく、ゆったりとした動作でカップに口をつける。
「……あなたは今日、傘とタオルを返しに来てくれましたね。返さなくてもいいと言ったものなのに、傘は綺麗に畳んであるしタオルもちゃんと洗濯してある。その上、お礼にお菓子まで持って。それだけでも私はあなたのことを、常識があって真面目な人だと思いますよ。だめな人間には到底見えません」
「それは、その、人として当然のことをしたまでで……」
それに本当ならもっと早くに来るべきところを、自分の体調管理不足と仕事のできなさで今日まで遅くなってしまったわけで、そう考えるとやはり自分が悪いような気がして俯いてしまう。やっぱりそう、私はそんな風に認めてもらえるような人間じゃない。どろりとした黒い感情が湧き上がり、呼吸が浅くなってくる。いっそ息が止まれば楽になれるのに。
――この人の優しい言葉に勘違いしてしまう前に、ここから出なきゃ。
しかしここまで慰めてもらって、納得がいかない顔をしたまま帰るのは申し訳ない。店主の言っていることは理解できるし、もし自分がそのような相談をされたら同じように答えるだろう。話も十分聞いてもらったし、善意は受け入れなければ。
もう大丈夫ですと、分かったフリをするための言葉を頭で考え、笑顔を作って顔を上げる。その表情をひと目見た店主が徐に立ち上がった。
「そうだ、ついでですから、いいものをお見せしましょう。ついてきてください」
店に通じる扉を開き、ポケットから鍵の束を取り出した彼は、ガラス張りのショーケースの下、引き出しになっているところから積み重なった底の浅い大きなトレーをいくつか取り出す。目的のものは一番下にあったようで、それ以外は元に戻して、近くの机にその箱を置いた。
「わ、すごい」
中にはびっしりと裸石の入った正方形のケースが並べられている。
「これは全部、ジルコンという石なんです。大きさや色味がひとつひとつ違うでしょう?」
宝石と言えば青はサファイア、赤いのがルビー、緑はエメラルドくらいの知識しかない信子にとって、水色やピンク、オレンジに輝くこれらが全て同じ石だというのは不思議だった。
「綺麗ですね」
「そうでしょう。ジルコンというと人工石であるジルコニアと混同される方もいらっしゃいますが、全く別の石です。世界最古の石とも呼ばれていて、年代測定をする際にも重宝されているんですよ。すごい石でしょう? 屈折率も高くて、その輝きはダイヤモンドにも似ていますね」
そのうちのひとつを取って目の前で軽く揺らしてみると、照明に照らされて喜んでいるかのようにキラキラと輝く。しかし信子はそれよりも、ケースの下に、更にまた別のケースが並んでいることに驚いていた。一体どれだけの宝石がこの店に置かれているのだろう。
「そんなジルコンですが、もうひとつ面白い特徴があるんです」
彼は箱の中からふたつの石を選んで信子の前に置いた。
「ジルコンにはタイプが二種類あって、それぞれハイタイプ、ロータイプと呼ばれています。ふたつの違いが分かりますか?」
それらの石を見比べると、違いはすぐに分かった。ハイタイプと呼ばれたものは曇りもなく透明感があり、薄黄色に輝いているのに対し、ロータイプの石は緑色でやや濁っていてどこかもやがかかっているようにも見える。
「こっちの方がなんだか、宝石らしい美しさがある気がします」
「そうですね。実際宝飾品に使われるのはこちらのハイタイプが殆どです。でも、この石もいずれはロータイプのように不透明な見た目に変わっていくかもしれません」
「え?」
「ジルコンには結晶内に微量の放射性元素が含まれているものが多く、それが構造を破壊してしまうんです。つまり透明感が無くなっていくということですね。まあ、すぐにそうなるわけではなく長い年月をかけて変化していくのですが、石の中では常に放射性元素による小さな破壊が起こっています。破壊といっても、最後は完全に透明度のない非晶質になるだけで、割れてしまったり崩れていくわけではありませんけれどね」
それに今はこういう石もマニアに人気があったりするんですよ、という店主の話を聞きながら、信子はどこか親近感を持ってその緑の石を見つめていた。生成された瞬間から崩壊の運命にあるこの石と、生まれた時からヒビが入り続けている自分はよく似ていると思った。もっとも、自分がその隣で煌めくハイタイプのジルコンのように美しかった頃はなかったかもしれないけれど。
「私も、何年か後にはこんな風になってるのかな」
石を前にぽつりと呟く。いや、心はもう既に濁り切って僅かな光すら届かないかもしれない。
しかし沈鬱な表情の信子を見て、店主はまさか、と明るく笑った。
「この状態になるまでは数千年かかりますよ。数億年かもしれない。だから私たちが生きている間にはほとんど変化は見られないでしょうねぇ」
「数億年……」
「気が遠くなりそうでしょう? でもそこにロマンがあるとは思いませんか」
この石に比べたら、私が生きた年数なんて一瞬にも満たない時間なのだろう。そんな途方もない時を過ごした石が地面から掘り出され、磨かれ、小さなケースでライトを浴びていることがまた不思議であった。
「もうひとつ面白い話をしましょうか。放射性元素自体を取り除くことはできませんが、そのせいで受けたダメージは加熱処理を施すことで結晶構造を、多少ですが修復することができるんです。そしてこういう鮮やかな色合いは天然のものではなくて、熱処理によって生まれるものなんですよ」
箱の中から今度は一際目立つブルーと鮮やかな濃い黄色の石を取り出して見せた。元は同じなのに全く違うように見えるのは、人間とも似ている。
「……そんなに気を遣わなくていいんですよ」
ふと、呟いた言葉が信子の胸に響いた。
「人はそんなに簡単に考えや感じ方を変えることはできませんから。老人が何か言っているなと、その程度でいいです。けれどいつか、あなたがあなたのままでいていいと、少しでも思ってもらえたら私は嬉しいです。それにあなたはまだ若い。人生が始まったばかりと言っていいほどに。だからもっと楽しんでいいです。そんな歳から自分を傷つけるような環境に身を置いてちゃいけません。好きなことややりたいことに挑戦して、疲れたら気晴らしして、自由にしていいんです。誰も咎めません。そしてその中で、あなたの心に火が灯るなにかが見つかれば、きっと全てが変わりますよ」
胸の中いっぱいにこもっていた重苦しい空気が、僅かな出口を見つけて晴れていく。ゆっくり、ゆっくりと。
「見つかり、ますかね」
「見つかりますとも。世の中は広いですから。この地上だけじゃなく、上にも下にも興味深いことがたくさんありますからね」
この石も、採掘されてこんな形でライトを浴びることになるとは想像もしていなかっただろう。それでもそこに在り続けたのだ。何千年も、何億年も。自分が自分である限り。
顔を上げた先の、全てを包み込むような微笑みに、崩れ落ちそうだった自分が照らし出される。
――だめな私だけど、こんな私だけど、もしかしたら……生きていく先に光があるかもしれない。
数日経って、信子は実家に電話をした。今の職場が不健康な環境であると分かってはいたが、もしかしたら単なる甘えかもしれないという気持ちもあり、実際のところはどうなのか、誰かに聞いてもらって率直な意見をもらいたかったのだ。
大学生のときから自分から電話をかけるのは珍しかったので母親は驚いたが、ぽつりぽつりと今の生活について話す信子の声を聞くとすぐさま、
「そんな会社、退職代行でもなんでも使って早く辞めちゃいなさい。そんで、しんどかったらいつでも戻っておいで」
と言った。怒るでもなく悲しむでもなく、ただただ娘を受け入れようという優しさに満ちた言葉だった。以前の信子ならそういう声色を煩わしく思ったものだが、その日は意外にもすっと受け入れられた。弱っていたせいもあるかもしれないが、そんな自分の変化をひっそりと嬉しく思い、気持ちが少し前向きになった。
それからまた数日後、通勤時間や寝る前の僅かな時間を使ってネットで退職について調べ、準備を整えたうえで上司にその旨を伝えた。想定通り「この程度で辞めてたらどこの会社でもやっていけない」とか「人員不足だから退職届は受け取れないし有給の消化なんてとんでもない」などと言われたが、辛いのは今だけだとなんとか踏ん張って交渉し、無事ひと月後の退職を勝ち取った。そうなってみると気分がどんどん上昇してきて、退職したらやりたいことが次々と頭に浮かび、あれも、これもと思いを馳せながら、あと少しの辛抱だと山積みの仕事と冷ややかな視線に耐えた。
しかし念願叶えて最終出勤日を終えた後、信子は急にぷつんと糸が切れたようになって動けなくなってしまった。
一年半で染みついた癖なのか、常に何かに追われているような焦燥感があり、辞めたばかりなのに職に就いていない自分はだめ人間なんじゃないかとか、早く次の就職先を決めないとどこにも雇ってもらえないのではないかとか、そんなことばかり考えてしまう。そのせいで全く寝付けない日もあれば、逆にほぼ一日中寝て過ごしてしまったり、なかなか正常な生活リズムに戻れずにいた。
――人ってそう簡単には変われないもんだな……。
どうでもいいチラシや空のペットボトルなどでそろそろ置き場の無くなってきた小さな机の上を見る。端の方に、この部屋に似つかわしくない、上品なショップカードが今にも落ちそうなバランスを保っている。
あの店、一期一石堂で店主と話をした時は未来に希望を感じて行動力が湧いてきたのに。どうして私ってこうなんだろう。そんなことを思いながらカードの端をつまみ上げる。重厚さが指先から伝わって、そこから店での会話が呼び覚まされた。
『……好きなことややりたいことに挑戦して、疲れたら気晴らしして、自由にしていいんです。誰も咎めません』
「自由にしていい、か……」
しばらくぼうっと銀色に輝く店名を見つめていた信子はよし、と呟くと積み重なったチラシの中から裏の白いものを抜き取り、ペンを探すついでに明らかなゴミをビニール袋に捨ててしまって、ものを書ける程度のスペースを作った。そして一番上に「やりたいこと」と書き込む。
「えっと……まずは……」
木製の扉を押し開けると、ウィンドチャイムが軽やかな音を立てる。前に来た時と同じく、店内には誰もいない。
「こんにちは」
声を掛けてみると奥から店主が首から下げた眼鏡をかけながら出てきた。
「お待たせしてすみません、ちょっと熱中していたもので……あぁ、あなたは」
信子のことを覚えていたようで、目尻に皺をよせ人懐っこい笑みを浮かべた。
「お久しぶりです。あの時はどうも、ありがとうございました」
「いえいえとんでもない。わざわざ引き留めてつまらない話ばかりきかせてしまったのではと反省していたんですよ。私はお喋りなものですから、友人からもよく注意されてまして……。それより、どこか雰囲気が変わりましたね。髪を切ったせいでしょうか。以前より健康そうに見えます」
信子にあまり自覚はなかったが、相手は客商売をしている分変化には人一倍敏感らしい。
「辞めたんです。仕事。それでこれから一旦実家に帰って、ゆっくり自分のやりたいことを考えようと思って」
一旦とは言ったものの、今住んでいる家も解約して地元へ戻るので、またこっちに出てくるかどうかは分からない。まだよく眠れない夜やなかなか身体を動かす気になれない日がある信子にとって引越しの手続きはかなりしんどいが、ともかくしばらく自分の体力とメンタルを回復させなければ今後どうするかも決められないと思い、実家にいる家族とも相談して辿り着いた結論であった。
「それはよかった。よく決心されましたね。親御さんも安心なさるでしょう。煩わしいこともあるかもしれませんが、生まれ育った家がなんだかんだで一番落ち着けるかもしれませんね」
「……はい。それで今日はお礼を言いにきたんです」
「お礼ですか?」
店主ははて、といった様子で顎に手を当てた。タオルと傘のことも、お茶を出してくれたことも、彼にとっては特別なことではなく、当たり前のことなのだろう。まだ二回しか会ったことがないのに、それがすごく「彼らしい」感じがして信子はふっと笑った。
「あの雨の日のことです。店主さんが傘を貸してくれなかったら……そう、そして後でお茶に誘ってくださらなかったら、私はあのままでした。ずっと全てを自分のせいにして、心が完全に砕けてしまうまでそのままでいたと思います」
そこで一旦言葉を切って、再度ここを訪れるまでの日々を振り返る。
「思い切って仕事を辞めてから……店主さんに言われたことを思い出して自由にやりたいことをしてみたんです。忙しくて行けてなかった美容院に行くとか、気になってたカフェに行くとか、見たかった映画に行くとか、本当になんでもないことなんですけど。平日にひとりでそんなことしてると目立つかなってちょっと心配してたんですが、意外とおひとり様って多いんですね。美容院でも『施術中会話なし』のメニューが増えてたり、本屋さんでもひとりで気軽に過ごせるスポットの特集してたりして。そういうのを見ていたらなんか……私は私でいいんだって、ちょっとだけ思えるようになったんです。だから、ありがとうございます」
そう言ってぺこりと頭を下げる。今までなら事前に考え、覚えた文言を口にするところだが、今日は自然と言葉がすらすら出てきた。それはきっと本心から話しているからだろう。
「私の言動があなたの助けになれたなら、本当によかった」
そしてその言葉を受けた店主の安堵の表情も、嘘偽りないことは一目で分かる。
「それでは今、色んな準備で大変でしょう。いつ離れられるんですか?」
「なかなか動けない日もあるのでまだはっきりとは決めていないんですが、なるべく早く、とは思っています。役所の手続きとか諸々の解約はすぐ終わりそうなんですけど、意外と家具の処分が大変そうで」
「確かに、ベッドなどの大型家具は粗大ごみに出すにしても解体が必要ですものね」
店主はうんうんと頷いてから顎から手を離し、そのままぽんと手を打った。
「そうだ、男手が必要なときもあるかもしれませんから、もしお手伝いできることがあればお気軽にショップカードの電話番号にご連絡ください。休みの日でも電話は出ますし、案外暇にしておりますから。あぁ、私でご不安ならもっと体格のいい、頼りがいのある友人もいます。私は職業柄、座っている時間が長いのでこんなですが、彼は職人なので立派な筋肉が付いているんですよ」
と自分の腕をさすってみせた。確かに筋肉隆々ではないが貧弱ではなく標準的な体型に見える。アウトドア派ではないようで、シャツから覗いた手首より先はひどく白い。
「お気遣いありがとうございます。えっと……」
名前を呼ぼうとして、初めて信子は彼の名を知らないことに気がついた。ショップカードには店名はあったが、店主についての記載は無かったのだ。
「すみません、今更ですがお名前をお伺いしても?」
「おやおや、私としたことが自己紹介がまだでしたね」
店主は姿勢を正し、まるで執事が主人にするようにお辞儀をした。
「ご挨拶が遅れました。加賀宮一石と申します。この店、一期一石堂のオーナーをしています」
「いっせき……ということは」
「店名と同じくひとつの石と書きます。珍しいでしょう? 子供の頃は字面が地味で嫌でしたが、この仕事を始めてからはお客様にすぐ覚えていただけるのでいい名を貰ったと思っています」
確かに、苗字はともかく名前はもう忘れないだろうと思った。
「名前とお仕事に関連があるなんて素敵です。私は字面も読みも地味で。信子というんですが」
「のぶこ……漢字は信じるに子供の子ですか?」
「えぇ。どこか古臭い感じがしてあまり好きじゃないんです。ありきたりだし」
信子は苦笑しながら言ったが、それを聞いて店主は急に表情を生き生きとさせた。
「少々お待ちください、もしかしたらもうひとつ面白い話ができるかもしれません」
そう言って店内の棚から分厚い図鑑のような本を取り出してきて、ぱらぱらと捲った。微光沢のページの隙間からカラフルな写真が見え隠れする。
「……あぁ、やっぱりそうだ。これを見てください」
信子の前に開かれたページには大きく〝zircon〟と書かれ、この間見たのと似たような石の写真がたくさん載っている。
「この間お話したジルコンですがね、和名にあなたの名前が入っていますよ」
指でなぞられた部分を見ると、和名・風信子石という記載がある。
「……本当だ」
「風(ひや)信子(しんす)石というんですよ。ヒヤシンスもジルコンも色が多彩だからとそう名付けられたと言われています」
海外でも石でヒヤシンスと言えばジルコンだと通じるんですよ、と好奇心いっぱいのきらきらした子供のような目をして店主が言う。
「すごい偶然ですね」
「そうですねぇ。……でも出会うべくして出会ったのかもしれません」
店主は図鑑をそのままガラスケースの上に置き、グラスホルダーのついた眼鏡をそっと外した。
「人でも本でも音楽でも、その人にとって必要なときに出会うものだと私は考えています。時に背中を押し、時に勇気を与える。物言わぬ石がそんな風にして誰かの力になるのを 私は何度も見てきました。石が好きなのはもちろんですが、そういう人と石が繋がるきっかけを作れたらと思いまして、この店を続けております」
開かれたページをじっと見つめる。前回の話で自分に似ているとは感じていたが、更に思い掛けない共通点を見つけ、信子はこの石に強い関心を寄せていた。
「……加賀宮さん。私、お守りとしてジルコンが欲しいんですけれど……一緒に選んでいただけますか?」
普段からアクセサリーを付けない信子には、宝石だけでどれくらいするものなのか、全く見当がつかない。もしかしたら今の自分には手の届かないようなものかもしれない。けれど、これから先の人生でいつでも今日のことを思い出せるよう、なにか形に残せるものが欲しかった。それに、この人ならきっと自分に合った石を見つけてくれる。そんな確信めいた思いがあった。
信子の心の内が表情に滲み出ていたのか、店主は嬉しそうに目を細める。
「もちろんです。この間お見せした通り、色味もカットも違うものをたくさん揃えておりますから、あなたにぴったりの一石を探しましょう」
新幹線は平日の昼間ともなると自由席でもかなり空きがある。ほとんどの荷物は引っ越し業者に預けたため、貴重品やパソコンなどを入れた小さなリュックをひとつ抱えて窓際の席に座る。しばらく向かいのホームを眺めていると、音もなく景色が流れ始めた。これから三時間もすれば実家の最寄り駅に辿り着く。
窓から見える、大学生の時から住んでいた街並みはどんどん移り変わって見知らぬ土地になり、やがてトンネルで途切れた。ここから先はトンネルから出たり入ったりが続く。
切れ切れの景色を見るのにも飽きて、リュックから巾着を取り出し中に入っていた小さなケースを手に取る。小さく揺らしてみると涙型の結晶が照明の光でレモン色に輝いた。小さいので装身具にするには物足りないかもしれないが、お守りとしてなら十二分な質があると店主が勧めてくれたものである。
――不思議だ。
信子は改めて思う。
何も変わらない日常の延長にある雨の夜、ただの雨宿りのはずだったのに、偶然開かれた扉の先には全く知らない世界が待っていた。自分には縁がないと思っていた、煌めく石の世界。信子が見たのはその中のほんの一部に過ぎないが、それでも興味深い話や意外な共通点を見つけることができた。それも一期一石堂のオーナーが信子を誘い、そっと別世界の扉の先を覗かせてくれたからで、そうでなければただお礼を言うだけで終わっていただろう。
――あんな人になりたい。いつか私も、自分の得意なことで社会の役に立ちたい。そしていつか、一石さんのように仕事を通して人を助けられたなら。
今回触れたような未知の世界がきっと、想像している以上にこの世のあちこちに広がっているのだろう。慎重に世の中を見ていれば、その中にひとつくらいはきっと、自分に合う仕事が見つけられるはずだ。そう考えたらじわじわと胸が熱くなった。
――……大丈夫、私の人生はまだ始まったばかりなのだから。
長い長いトンネルを抜け、窓からの光が差し込む。石は陽光を受けて更に輝いた。
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