@lmyonsanl
夕暮れ時の校舎を、女がふたり走っていた。
ひとりはウェーブの髪を振り乱し、必死の形相で。
もうひとりは藍がかった黒髪を流星のようになびかせながら。
廊下にはふたり以外誰もいない。生徒は全員下校済み。教師は――これから何が起こるか知っている。すでに彼女に知られないよう、こっそり学校を抜け出していた。
「ッ……ハァッ……! ハァッ……!」
前を走る女の息は荒い。常ならばこの程度走ったところで息を切らすことなどないが、彼女はすでに追跡者からキツイ一発を喰らっていた。
(この……っ! 生徒に化けて潜り込むとは……! 上手いことやったつもり……!? でも、あそこまで戻れば……!)
女の足はこの学校の講堂へ向かっていた。
古い講堂だ。
何十年も前に老朽化を理由に新しい講堂が建てられてからは、危険だからと生徒たちの立ち入りは禁じられている。それならば壊してしまえばいいものを、何かと理由をつけて旧・講堂の取り壊しは現時点まで行われていなかった。
「ハッ……! ハッ……!」
旧・講堂に辿り着き、女は震える手でスーツのポケットから鍵を取り出す。――もう限界だ。この姿を維持できない。
「ああっ!」
どうにか人の手のままで扉を開けた彼女は、なかば転がりながら構内へ飛び込んだ。
「…………」
夕日の眩しさとは対照的な暗がりに消えた女に、追跡者はわずかに目を細める。
しかし、足取りに迷いはない。
速度を緩めることなく走りながら、彼女は器用に着ていたコートを脱ぎ去る。
――コートの下から現れたのは、制服だった。
ただ、この学校のものではない。さらに彼女の腕には制服には似つかわしくないもの――銀のガントレットが装着されていた。
追跡者は講堂の入口に着くと、コートを前方へ振り回す。ガントレットが沈みかかった太陽の光を反射し、暗闇にチカチカと星を瞬かせた。
「……!」
コートに手ごたえを感じ、追跡者は腕を引く。戻って来たコートには、白い糸のようなものが巻きついている。
彼女は何の感情も見えない目でコートを見下ろし――まるでこうなることがわかっていたかのように――、コートを脇へ投げ捨てた。そして、
「もう逃げられません」
澄んだ声で中にいるはずの女にはっきり告げ、暗闇へと踏み込んだ。
「逃げられないのは……お嬢ちゃんだと思うけどね」
声と同時だった。闇のなかを大きな影が上空へと移動したのを、追跡者の目が捉える。
「……やっぱり」
講堂の窓には遮光カーテンがかかっている。そのせいで室内は闇の世界となっていたのだが――暗いからこそ、わずかな光が目立った。
二階にある窓のひとつ。そこにかかっているカーテンが風にはためいている。どうやら窓が割れているようだ。風はそこから中へと吹き込んでいる。
――割れ窓から入り込むのは風だけではない。
強い西日もスポットライトのように差し込み、黒の世界に潜む影の輪郭を浮かび上がらせた。
それは、異形の存在だった。
体は蜘蛛だ。巨大な蜘蛛だ。軽自動車ほどはあるだろうか。ずっしりと中身の詰まった重たそうな体をしている。だがよっぽど糸が強靭なのか、その細い糸一本で天井から体を吊っている。
「あなたの本性は蜘蛛のような姿なんじゃないかと思っていました」
「羽佐間さん……。あなた【探偵】だったのね。そうとわかれば……ああ、納得よ。あなた他の子たちとはどこか違う……浮いてたもの」
巨大な蜘蛛は口角を持ち上げ、醜悪な笑みを浮かべた。
そう――この蜘蛛は笑うことができた。
なぜならば顔だけは人間の女の顔をしていた。
彼女は蜘蛛の体に人の顔を持つ――【異形の者】だった。
「そうでしたか。今日までばれなくてよかったです。ですが……まだまだ私も未熟者でしたね」
追跡者は異形をまっすぐ見据え言い放つ。異形は彼女を見下ろしながら、「生意気な目ねぇ」と吐き捨てた。
「よく言われます。――ああ、そうでした。ひとつ訂正しておきますが、私は探偵ではありません。免許は持っていますけど、一介の助手です。改めて自己紹介をしておきましょう。御守夜子と申します」
「羽佐間は偽名だって? ふふん、どうでもいいわよ、そんなの」
蜘蛛は鼻であざ笑うと、ニタリと口を開く。
「どうせこれから――殺しちゃうもの」
「そのことですが、今からでも止めませんか? 私たちは戦うことが目的ではないんです」
「い・や。だいたい先に手を出してきたのはそっちじゃない」
「それは失礼しました。ですが、あなたが異形の者であるとはっきりさせる必要があったので。そのためにもこれで攻撃をする必要があるんです」
夜子はそう言って蜘蛛に見えるように片腕を掲げた。再び夕日が彼女の腕の無骨な銀色に反射する。
「……あっそ」
光が目に刺さったのか、蜘蛛は眉根を寄せてガントレットをねめつけた。
「でも知ったこっちゃないわ。私がこの家に……狩場に何十年いたと思う? あんたのせいでもうムチャクチャ。こうなったらもうここにはいられない……」
蜘蛛は低い声で「だから」と続けた。言い終わると同時に下半身を夜子に向け、糸を彼女に向かって噴出する。
「……っ」
夜子は横跳びで糸を避けながら顔をしかめる。予想はしていたが、この相手とは相性があまりよくなさそうだ。
彼女の武器は俊敏な動きと体に見合わぬ圧倒的な腕力だ。おそらくこのまま糸を避けることは可能だろうが――……。
それだけだ。夜子には攻撃の手段が無い。
講堂内に隅々まで蜘蛛の巣が張り巡らされているのは、事前に確認済みだ。遠距離から攻撃ができない夜子では、糸を利用し縦横無尽に動く蜘蛛の動きを止めることも、近づいて殴りつけることも容易ではない。
さらに――。
「逃げるのが上手ねぇ! ほらほら! どこまでやれるかしら!?」
蜘蛛は夜子を捕らえようと絶え間なく糸を吐き出してくる。その糸自体は避けられても、新たな糸は巣と結合し、夜子の逃げ場をどんどん狭めた。隙間を縫うように飛び上がり、走り、夜子は蜘蛛を翻弄するが決め手が無い。
「あっ……!」
「はい、捕まえた」
ついに蜘蛛の糸は夜子の足を捕らえ、彼女はぐらりとバランスを崩す。その隙を見逃さず、蜘蛛は夜子の両手足に糸をぶつけ、あっという間に彼女を中心に新しい巣を作り上げる。
「……」
巣に貼りついた長い髪と、ひだの広がったプリーツスカート。それは遠目から見ると蝶の翅を想起させた。
実際、今の彼女は蜘蛛の巣にかかった蝶と変わりはない。
このままでは成すすべも無く、終わる――。
「あーあ、残念。ここほど居心地が良い場所はなかったのに。探偵に嗅ぎつけられたってことは……。もうここにはいられないわね。はぁ……、あと二十年は顔を変えるつもり無かったんだけどねぇ……。しょうがないから、お嬢ちゃんの顔貰っちゃおうかしら」
「……私の?」
「困ったことに全然好みじゃないけどね。私は体は肉付きが良くて、顔は優し気な目をした子が好きなのよね」
こんなふうに、と蜘蛛は器用に前脚で自身の顔を指す。
「でもま、お嬢ちゃんの顔も悪くは無いよ。意地の悪さが滲み出てるけど」
「それでフォローしたつもりですか。他人の顔に対して好き勝手言って……失礼な人ですね」
「あっはは! 人じゃないも~ん!」
蜘蛛の笑い声が講堂内に響く。いつのまにか夕日はほとんど沈んでしまったらしく、室内は再び闇の世界を取り戻していた。おかげで蜘蛛の表情を見ることはできなかったが、意地の悪いと称された自分の顔よりも、きっと歪んだ顔をしているんだろうと夜子は思った。
「ふふふ……」
一塊の影となった蜘蛛は素早く糸を伝い移動する。
近づいてくる気配と笑い声に、夜子は生唾を一度飲み下した。――大丈夫、恐れることはない。あちらが近づいてくるのはむしろ好都合だ。
「……くっ」
糸は強靭で、粘着力も並ではない。武器で強化された夜子の腕力をしてもびくともしないが――攻撃範囲にいるのといないのでは大違いだ。
(それに……)
夜子は諦めてはいない。この状況でもなんとかできるという自信があった。それは若くして実力と経験がある彼女の持つ、ある種の全能感に寄るもので――無謀ともいうが――彼女は自分を信じていた。
さらに、夜子が何よりも信じていることがある。
今回の彼女の役目は学園への潜入と偵察、それから囮だ。
真打は夜子ではない。
彼は一度した約束を違わない。不器用ながらも成し遂げようと全力を尽くす人間だと、夜子は知っている。
「間に合った……!」
低く響く声が開け放たれた講堂の入口から聞こえた。夜子と蜘蛛がそちらに目をやると同時に、パッと入口が赤く染まる。
――それは一瞬のできごとだった。
赤々と燃え盛る炎はまるで意志を持っているかの如く、蜘蛛の巣を燃やしながらあみだくじのように進んでいく。 進む先は驚き目を剥いている蜘蛛のもと――。
「あ゛あ゛‼」
まずい、と蜘蛛が後ずさるよりも先に、炎が蜘蛛の体を包み込む。炎は決して大きなものではなかったが、的確に蜘蛛の頭を狙っていた。
「あ、ああああ!!」
引火した乱れ髪から逃れようと頭を振るものだから、バラバラと広がった髪から巣へと炎が燃え移る。
「きゃああああ!!」
放射状に広がる炎は蜘蛛の体を支えきれず、彼女を地上へと突き落とす。
「……」
蜘蛛と共に巣は崩壊し、囚われていた夜子も地に落ちる。ただ両手まで火が回っていなかったおかげで、直接地面に激突することは避けられた。
「情けない……」
糸の反動でビヨンビヨンと体を揺さぶられながら、地上まで1メートルのところで落下は止まった。
宙づりにならなかっただけましか――。
まっすぐこちらに向かって駆けてくる彼の目には、今の自分がどれだけみっともなく映っていることやら……と、夜子は嘆息した。
「……無茶をする。おれが来るまで待てなかったのか」
額に大量の汗をかき、肩で息をしながらやってきた大男が言う。彼は夜子の手を拘束している糸のもとへ、持っていた錫杖を近づける。そして口の中で何か呟くと錫杖から火がほとばしり、夜子を縛っている糸を焼き切った。
「……緊急だったんです。火之さんの到着を待っていたら逃してしまうところでした。それに、時間稼ぎが今回の私の役割でしょう? それに関してはしっかり達成できたと思いますけど」
「そうは言ってもな……」
大男――火之道間は軽やかに着地した夜子を見下ろし、呆れたように言う。
夜子の髪と背中にはべったりと蜘蛛の巣が貼りついたままだ。いつも丁寧に梳かれた黒髪も、手入れの行き届いた制服も今は酷い有様だ。大きな怪我こそ負っていないが、手放しで安心できる姿とは言えない。
「はぁ……」
一応夜子も酷い姿だと自覚があるようで、一度大きく溜め息を吐いた。
「……あの人に見られたら、バカにされるか笑われるか……」
「両方かもしれないぞ」
瞬時に『あの人』が誰を指しているのか察し道間が返すと、夜子は下から道間を睨みつける。
「……それで? あっちは大丈夫なんです?」
そう言って夜子が視線をやった先には、黒く焦げた蜘蛛がいた。ピクピクと脚が動いていることから、まだ死んではいないのがわかる。
「おれが使う炎は大したものじゃない。……この姿のままじゃな」
道間は額の汗をぬぐいながら言った。この大量の汗は急いで駆けつけてきたことだけが理由ではなく、彼にとって今の――炎の術の制御がいかに難しいかを表している。
「しかし、あの程度の相手なら動けなくするくらいはできる」
道間は蜘蛛に近づき、体を押さえつけるように錫杖を押し当てた。「痛い……痛い……」と蜘蛛が呻く。
「もう……何もしないから……」
「……ならば、いい」
「――甘いね、君は」
道間が押し付けていた錫杖を離し立ち上がったそのときだった。複数人の足音と共に、講堂内に白い光が差し込んだ。
闇の中急に現れた強い光に夜子と道間が目を細めていると、光を背に男がひとり歩いてくる。
照明を手にした幾人ものスーツ姿の男女を従えやってくる男の顔は、逆光で見えない。
――しかし、夜子と道間は彼が何者か承知している。
「善知鳥殿」
男が笑みを浮かべたのがわかる距離まで近づいたところで、道間は彼の名を呼んだ。呼ばれた男――善知鳥束は「お疲れ」と返し、横にいる夜子を観察して、くつくつと喉で笑った。
「どうやら大変な目にあったようだね」
「そうでもありません」
冷たく言い放つ夜子の隣で、困ったように道間が眉尻を下げる。それを見て束は「ははっ」と歯を見せた。
「それよりも……。善知鳥さんのほうはどうでした?」
「ああ、こっちは問題なく終わったよ。御守君の報告にあった『卵』……。あれは全部【機関】が回収した」
「そんな……っ!」
三人の足元から、怯えた哀れな声が小さく聞こえた。束は声の主を顔も動かさず一瞥し、話を続ける。
「そうそう。試しに一つ……中身を見てみたんだけどね、もう出るわ出るわ……」
束は懐から警棒を取り出し、風切り音を鳴らしながら振り下ろす。
「ひぃっ」
小さな悲鳴があがったが、束はこれを完全に無視した。
「ははは! 蜘蛛の子を散らすとは、まさにこういう場面で使うものなんだと思ったよ」
「……何してるんですか、あなたは……」
「大丈夫大丈夫……。始末はしたから――」
そう表情を変えずに言う束の背後から、バタバタと足音が響く。
「……あれは」
「着いたね」
入ってきたのは白衣を着用した集団だった。――あれは、【機関】の職員だ。
「それじゃあ僕はこれからこいつの移送を手伝うから。君たちはどうする? 御守君は【機関】の人間と一緒に戻ったほうがよさそうだが。その格好じゃ家に帰れないだろう?」
言われて夜子は、ボロボロになった自身の体に目を落とす。
「それもそうですね……。【機関】の車に乗せてもらいます」
「火之君は?」
「……おれも夜子と一緒に【機関】に行こう。しっかり支えてやるよう、会長から頼まれたからな」
「……うちの先生ですね? 会長にそんなこと頼んだのは」
夜子は小さく首を振って言った。
「別に心配されるようなことは何もないのに」
「いや……そんなことは……」
道間が小さな声で漏らすが、これは同時に放たれた夜子の「まぁいいでしょう」という言葉にかき消された。
「とりあえず全員また【機関】でってことだ。――撤収だ。何人か学園側への報告と後処理のために残れ。葵君と羽田君は、【機関】まで僕と同行してもらう」
束が側で控えていた部下たちに声をかけると、彼らは「はい!」と声を揃えて答える。そして役割を全うするため、束が細かい指示を出す前に各々動き始めた。
「すみません、大変なところをお任せしてしまって。元はうちに来た依頼だったのに……」
「なに、協力依頼を受けたのはこちらだ。これくらいは、ね」
「火之さんも。急な話だったのに、ありがとうございました」
ふたりに頭を下げる夜子の肩を、道間は『なんてことはない』とばかりに大きな手で軽く叩く。
「……行くか」
「はい」
「それじゃ、ふたりとも【機関】で会おう」
講堂を出ると、すっかり夜が深まっていた。ここが街から離れているおかげだろう。空を見上げると、星の瞬きがいつもより大きく感じる。
さっきまでのことが嘘のように外は静かだ。聞こえるのは慌ただしく駆け回る職員と、束の部下たちの足音。
そして三人がそれぞれ乗り込んだ車のエンジン音だけだった。