@twirl_rabbit
そこには確かに、己の信じるものがあった。己の信じる世界があった。それはとても気高く、尊く、心強く、美しく、逞しく、賢く、悲しく、愚かしいほどに真っ直ぐな世界だった。そうしてその世界が崩れることなく己の心のなかにはずっと存在しており、例え身が朽ち滅びようとも魂に刻みつけられているかのようにずっと存在していた。
していたはずだった。
「こんにちは、主さん。」
ビー玉のようにきらりと光を反射する薄浅葱色の瞳がこちらをまっすぐに射抜いた。襟元の折り目も正しく部屋に入ってきた脇差は、淡い微笑みをその顔に浮かべながら温かな湯気立ち上る湯のみを文机の上に置いてくれる。私はそれを数秒凝視して、また彼へと視線を戻してしまった。
どうしました?、と明るく言う彼は本当にいつもどおりで、私はごくごく小さな声で謝辞を述べてから、その湯のみを手に取った。陶器越しに伝わる熱が手のひらの皮膚を痺れさせる。ゆっくりと湯のみを口元に近づけるのに、唇は湯のみの縁を捉えない。別に熱さが苦手なわけではない。ただ、そう。なんとなく不安に思ってしまったのだ。
「毒なんて入ってませんよ。」
「……、」
私の怯えを見透かしたように、脇差が…堀川国広が笑った。
気まずい空気が流れ続ける前に、周りの空気ごと一緒に口の中に招き入れる。熱い、熱い、しかし喉が焼けるような熱さではない。しっかりと加減された熱さだ。口の中に広がるのは豊かな茶葉の香りと甘みで、変な渋さも苦味も感じはしない。さすが、家事が得意だと自負するだけのことはあるなぁと感心してしまう。
ずず、と、お茶を啜る。一口、二口。私から体一つ分ほど離れた堀川は、盆を脇においてその場で正座して居座っている。
もしかしてそういうパターンなんだろうか、と私は心のなかで身構えた。今までの経験則からいけば、何かを言いに来た、何かを訪ねに来た、このどちらかだろう。とはいえ私から切り出すことではない。彼が言い出すまで待たなければいけない。いやそもそも本当にそういうパターンかも分からないのだ。
「……少しだけ、話を聞いていただいてもいいですか。」
ほら、違うパターンだ。
「聞くだけで、良いんですか?」
「はい。」
話をする側だとか、質問に答える側だとか、私が何かしら語ることがほとんどだったのに「聞くだけ」は初めてのような気がする。顔を堀川へと向けると、先程までの微笑みは残っているものの、目だけが毒を放っていた。ゾクリと背筋が粟立っているのは気のせいではないはずだ。
本気の相手の雰囲気というものはいつだって苦手だ。ふうわりとした空気に馴染みすぎた体には、その雰囲気は刺々しくて肌にも心にもびりびりと痛みが走る。それがただ、雰囲気に飲まれているだけだということはわかってはいるのだけれど、何回その場に立ち会っても慣れるものではない。
堀川は私を真正面にして正座している。だから私も、それに倣う。膝を合わせて折り、手はゆるく握って足の上。自然と背筋が伸びるのは、相手に対する「聞く姿勢」のアピール。
さあどうぞ、と口には出さない。
話し始める機を掴むのは、私ではない。
彼だ。
刀であったときも人の形となったいまでもそれは変わらなかった。目の前で翻る浅葱色はどこまでもどこまでもまっすぐに突き進む。その傍に控えて共に敵を屠る、そうして血濡れてもなお光を失うことなく突き進む彼の隣を歩くことが己の世界だった。彼の隣で見る世界は、確かに埃と血に塗れ汚らしかったかもしれない。しかしそこにある景色は、確かに誇りと決意が溢れており美しく輝いていた。
だからここに来てもなおそれは変わらないものなのだと思った。相変わらず彼はどこまでも真っ直ぐで、前へ前へと進む背中の広さと強さは刀であったときと何一つ変わらない。人間と同じ姿になったことで色々な手間も面倒事も世話数も増えたかもしれないが、それが苦だとは微塵も感じなかった。今までもこれからも己は彼の隣に立ち、刃であった頃とは異なり背に背を合わせて共に敵を屠る。そうして一つの志にしたがって突き進んでいく。
そうだと思っていた。
違和感を感じたのは一番最初、人間の姿として、付喪神としてこの世界に顕現したとき。目の前にいる女性が己の主だという脳での理解と心の拒否。しかし、先に顕現していた相方が彼女のために戦っているのならば共に戦おうと、そう思った。
そうなると思っていた。
次の違和感は、相方に対して。相方が主に抱いている思い。本当に付き従っているわけではない。彼の心の中には、いまだはっきりとあの浅葱色が生きている。彼の心が迷っている。そう確信したときに、世界が揺らいだ気がした。
その違和感が、日に日に大きくなっていく。目の前を歩む浅葱色を纏った背中に、志が見えない。感じない。それが自分の中では大きな不安になる。拭い切れない焦りになる。彼は何を考えているのか、何をもって突き進んでいるのか、その刃に抱く想いはなんなのか。疑惑が次から次へと溢れでて、自分の手から、指の間から見えない何かがすり抜けていく心地だった。
違和感を抱いたままの目の前の光景は、とても汚らしかった。埃と血、泥と汚水、斬られ貫かれ刎ねられた遺骸、刀傷を負った仲間の疲れた顔、濁った色に変わった浅葱色。あの頃のように、その姿を称賛することはできない。あの頃のように、その姿を胸を張って見ることができない。
そんな己の中の違和感にはっきりと気づいてしまった瞬間、今まで当たり前だった世界が急激に崩れてしまった。そこにあるはずの何かが消えてしまった。目に見えるもの全てが違って見えた。足元の定まらない不安感、いつもと違う景色が煽る焦燥感、見えていたはずの信念が見えなくなった恐怖と、相方に抱く疑問。全てが今までの自分の中にはなかったものだった。
ぐらぐらと自分の存在すらおぼつかなくなったところに追い打ちをかけるように、主が審神者を辞めると言い出した。それに一番焦ったのは誰だろう。近侍よりも近侍らしく側に仕えていた短刀だろうか、どうにか気を引こうと躍起になっていた太刀だろうか、それとも彼女が最初に手に入れたという、己の相方なんだろうか。
いや違う、他の誰でもない自分が一番焦ったのかもしれない。不安に感じたのかもしれない。恐怖を抱いたのかもしれない。相方が彼女のためにと動いていて、自分はそれに倣って戦っていた。では相方の「理由」が消えたときに、自分の「理由」は何になるのだろうか。そう考え始めてしまえば、もう駄目だった。
胸の中心が、心臓が、痛い。恐ろしいほどに強く強く脈打って、血液が体中を駆け巡る。熱い、暑い、それなのに背筋は寒い。頭の血管が脈拍に合わせて蠢いて、脳を揺らすようにその動きを伝えてくる。この感情はなんだろうか、なんだろうか、不安?恐怖?焦り?悲哀?絶望?どんな単語を並べてもしっくりこない。
自分自身すらわからなくなっているところを救ってくれたのは、相方でもなく、審神者でもない、ほかならぬ本丸の刀剣たちだった。つかず離れず、踏み込みすぎず遠すぎず、そんな距離感で「堀川国広」という刀剣に接してくれた。そうして接していくうちに、刀剣たちが様々な考えを持つことを知った。いまさらそんなこと当たり前だろうと思うかもしれないが、己にとって多種多様な考えがあるということはとてつもない衝撃だった。如何に自分の考えが、視野が、世界が狭かったかを思い知らされた気がしたのだ。
だからこそ相方を、きつい口調で詰りもした。「自分からも逃げてる」なんて偉そうにご立派な言葉を叩きつけたが、あれは自分に対して言っているようなものだった。
世界を知ろうとしなかった自分に、言っているようなものだった。
だがしかし、他の世界があるなどと知らなかった。他の意味があるなど知らなかった。そうやって理由をいくつも並び立てて自分を正当化することは、逃げになるのだろうか。
ただ一つ確かなことは、「審神者」をきっかけとして自分の「当たり前」が崩壊し、むき出しになった自分が、だだっぴろい新しい「事実」の中心に放り込まれた、ということだ。
「……だからといって、主さんを責めるという気はさらさらないので、安心してくださいね。」
ゆったりと、口元が柔らかく弧を描く。
いつの間にか、話しはじめのときに漂っていた緊張感は消えていた。それが彼の表情一つで消え失せたのだと気づいた時に、雰囲気を変えてくれたその好意を素直に嬉しいと感じた。
知らずのうちに、肩に入っていた力が抜ける。は、と息を吐いた時にすぐに酸素が欲しくなった。自分でも気づかないうちに、息を詰めてしまっていたらしい。膝の少し上でゆるく握っていた拳はいつの間にか関節が固まるほどにきつく握りしめられていて、それを解こうと力を込めて開けばギチと嫌な音がした。
「お茶、冷めちゃいましたね。」
「……あ…、そう、ですね。」
「替えてきます。」
そういって、彼は湯のみに手を伸ばした。
その手を咄嗟に、私の手が掴んでしまった。
彼は驚いて、私を見る。
私も自分の行動に驚いて、彼を見た。
その薄浅葱色の瞳は、毒が滲んでいたことなど嘘だったかのように澄み切っている。あれは私の目の錯覚だったのだろうか。
いや違う、あれは確かに、あれは確かに私を。
「……貴方は、私を嫌って良いんです。」
「どうして、そう思うんですか?」
「自分の…自分の世界を壊した存在ほど、嫌悪するものはない。」
私の口から素直にこぼれ落ちた台詞に、堀川は苦笑だけを返す。そうですね、と言葉を探すように目を伏せた。
私が掴んだその手は、私よりも少し大きい。細いのにやはり男の人の手で、関節の浮かぶ指が掴んでいる私の手をそっと、離す。
「自分の、」
そうして、彼は再び私よりも体一つ分離して、その場に正座した。
今流れているのは変わらずに、穏やかな空気のままだ。
「自分の世界が壊れた。それの根本的な原因は確かに主さんで、もしも貴方がいなければ、僕はいまだあの泥と血にまみれた美しい世界を見続けていたと思います。」
ただ、と、言葉が続いた。
伏せていた目が、上がる。私の視線とかち合う。
身が竦むほどの、強い目だった。
「そのままだときっと僕は、「そのまま」で終わっていた。」
だからいいんですよ、と、彼は言った。
そして私の湯のみを取ると、お盆に載せてそのまま立ち上がった。
「……お時間をありがとうございました。」
そうして去っていった彼の背を、私は見送った。
最後まで彼は、私に背を向けたまま去っていった。一度も、振り返ることなく。
その姿こそが、彼が私に抱いている「嫌悪」の一端なのかもしれない、と思ってしまうのは、私の思考が後ろ向きなせいなのだろうか。
どこ行ってたんだ、と不機嫌そうな声が後ろから響いた。
振り向けば、己の相方がそこに立っている。
艶めかしい黒髪も、意思の強い薄浅葱色の瞳も、ダンダラ羽織の青も、それを引き立たせるために誂えた臙脂も、足を覆う薄灰も、今の自分には全部の色が鮮やかに飛び込んでくる。
前も鮮やかだったはずだ。
ただ今は、もっともっと鮮やかに見える。
「大丈夫だよ、兼さん。」
「あ?」
「きっと、大丈夫。」
自分の世界が広がったことに恐怖はある。不安もある。
ただ何よりもずっとずっと、広い世界は興味深く感心深く、全てが色鮮やかに映る。
前よりも、ずっとずっと。