12歳差人間AUアジクロ
詳細は本文上部の「概要」にて
@otohitoe_
概要
階下の物音に気付き、クロウリーは見上げていた本の文字列からふっと現実に戻ってきた。
枕元のスマホを手に取って時間を見るともうすぐ夜九時に差し掛かろうとしていたところだった。さっきの通話履歴の時刻を確認するに相当急いで来たようだ。
(慌てなくていいって言ったのに)
連絡がきた時点で、この日来ると聞いていた時間を二時間ほど過ぎていた。昼過ぎに一度家に帰っていたのは知っている。帰宅したアジラフェルから、シャワーを浴びて少し寝る、と連絡があって、それっきり。まあ、有り体に言ってしまえばそのまま寝過ごしてうちに来る約束をすっぽかしてしまったということだ。
約束の時間が近付いても音沙汰が無かったことで寝てるんだろうなということは察していたものの、それなりに心配はしたから何度か連絡を入れてはいた。アジラフェルからの返信があと数十分遅かったら家に行っていただろう。
当然ながらアジラフェルはかなり焦っていたし心底申し訳なさそうにしていたが、クロウリーは少しも気にしていなかった。アジラフェルが毎日忙しくしているのは知っているし、何なら一日ゆっくり休んでほしいくらいに思っている。何せ同じ出来事はこれで三度連続だった。アジラフェルがだらしなくてすっぽかしてるわけではないのは疑う余地もないのだから、それだけ大変な日々を送っているのが伝わるというものだ。
慌てて来させるくらいならおれが行ってやればよかったかな。と、若干の後悔も覚えた。クロウリーが出迎えに行かずともアジラフェルが下の戸を開けられるように、クロウリーもいつでもアジラフェルの部屋に出入りできる。できはするが…
「クロウリーごめん、」
かわいそうなほど悲しげな顔で部屋に飛び込んできたアジラフェルにふっと笑ってしまいながら、クロウリーはベッドから体を起こして読んでいた本を放った。
「気にしなくていい」
「でも、これで三度目だ」
「うん」
「しかも連続…」
「気にしなくていいって。おれはいつでもここにいるんだし」
ベッドの傍にへたり込むアジラフェルの頭を撫でながら、できるだけ優しい声で宥めてやる。大学に六年も通ってやっと卒業して、研修医ってやつになってから三年。あっという間の三年だった。アジラフェルがずっと忙しそうにしていたからかもしれない。
「約束してたからって無理して来たんじゃないか?」
「無理してない。会いたいから来た」
「そうか」
アジラフェルの体の両側に脚を下ろし、両手で顔を撫で額にキスもしてやる。アジラフェルはクロウリーの膝を抱え込むようにして腕を乗せ、上を向いてそれをじっと受け入れていた。
「休んでるならそのまま寝かしとこうと思ったんだ」
「うん…」
「やっぱおれが行けばよかったな。次からはそうしようか。それか、家に帰らずにそのままこっちに来てもいい。ここでシャワー浴びて少し寝てさ」
「ん…」
「そんでいっぱい飯食わせてやるから、またたっぷり寝て、元気になって働いてこい」
「ごめん…」
「なにが」
「きみに気を使わせてる」
クロウリーは強い反発感から眉を顰めた。
「そりゃ、多少は気も使うが。別に思ってもないことを言ってるつもりはない」
「ごめん、違う…こんなのわざわざ言うつもりなんてなくて…こんな…こんな子供じみた態度をとりたいわけじゃない。きみの負担になりたくないのに」
「負担なんかない」
「いつも甘えてばかりだ」
「アジラフェル」
「こんなんじゃいつまで経ってもきみに相応しい人間になんてなれない…」
「アジラフェル」
逸らされた視線を強引にこっちに向けさせ、不安に揺れる弱りきった瞳をまっすぐに見下ろす。正直なところ、アジラフェルがこんなふうになるなんて意外だった。ついでに、自分がそれを全く面倒に思わないことも。
「疲れてる自覚あるか?」
目元を親指で撫でてやる。色素の薄い睫毛がいっそう儚げで憐憫を誘った。少し前までは世界中の光を取り込んだかのように明るく瞬かせていたのに、今じゃまるで逆だ。
「体が疲れると心も疲れる。おまえはすごく頑張ってるから、どっちもすごく疲れてる。おれのことはいいから、今は休むことだけ考えろ」
「きみといたい」
「こっち来い。一緒に寝よう」
「寝ない、」
「いいから来い。おいで」
両腕で抱きついてそのまま後ろのベッドに引き込んで倒れると、アジラフェルも観念したように力を抜き、クロウリーの肩に顔を埋めて深く息を吐いた。
肌を寄せるとシトロンの香りがした。買い物中に通りがかった店で気に入ってアジラフェルに買ってやったソープのものだった。たったそれだけのことで、全身にじわりとあたたかいものが満ち渡ってゆく心地になる。
「明日も朝からだったよな?」
「うん」
「今いっぱいいっぱいであれこれ焦るのもわかるけど、全部をちゃんとやろうとしなくていい。ずっとこの状態ってわけじゃないんだ。一番は仕事。次にしっかり食ってしっかり寝ること。…なんか説教くさくて嫌だな。おまえには鬱陶しいと思うけど、おれの言ってることわかるよな?」
「うん」
「おまえがどれだけ頑張ってるかはよくわかってる。えらいよ。おれにできることなら何でもしてやる。少し会えなくなったからって、おまえが休息を取ってるんだと思えば全然平気だ。言っとくが会いたくないってわけじゃないぞ」
襟足を撫で、やわらかい髪に頬を寄せる。このふわふわした手触りや肩にこもる吐息の熱、右半身の重みが、胸の奥へぎゅうぎゅうに押し込めた寂しさを少しずつ溶かしてくれる。
会いたかった…と言うのはやっぱり負担になるだろうけれど、会えてうれしい、くらいは言っておくべきだろうか。いや、もし急に会えなくなったり、今日みたいなことがあったときに思い詰めさせる一因になるかもしれない。きっとなる。
クロウリーにもどうすれば正解なのかはわからなかった。とにかく自分のすることや言ったことがアジラフェルの重荷にならないように、それだけを考えていた。今だけじゃない。一人でいるときもずっと。
「おまえはさ、もっと自信持っていいんだからな。さっきぽろっと言ったよな、相応しいとかそうじゃないとか…そういうのはちょっとわからないが、間違いないのは、おまえはひと回りも上の超クールで超格好よくて超セクシーなこのおれを落としてひとり占めしてるってことだ」
「うん…」
「つっこめよ」
「つっこむところない…」
「おまえほんとおれのこと好きだな」
「好きだよ…大好きだ…」
おまえってよく『大好き』って言うよな、と言いかけてやめた。アジラフェルのことだから、たぶん気にしないとは思いつつ、言ってくれなくなったら嫌だから。
自分は言わないし周りでもあまり聞かないからというのもあるだろうが、たぶんアジラフェルが言うから余計にかわいいのだと思う。
ぎゅうっと両腕の力を強めて頬擦りするとアジラフェルの抱き返してくる力も強まった。そうじゃなくて、力を抜いて楽にしてほしいんだけどな。それとも寝坊するほどとった仮眠でもう充分元気になったから別のことしてもいいってことなんだろうか。
「寝る気になったか?」
「なってない」
「うーん…じゃ、えっちするか?」
「………」
数瞬して、はっと顔を上げたアジラフェルにクロウリーもまたぎくりとした。
「もしかして準備してくれてた?」
「待て、違う。この展開はまずい」
くそ、しくった。
せっかく良い感じで収まりがつきそうだったのに。何も言わず黙って組み敷いて一方的にでも可愛がってやればよかった。
クロウリーはまっすぐアジラフェルを見据え、「義務セックスは求めてない」とはっきり告げた。
「おれに申し訳ないからヤってやるみたいなセックスは嫌だ、絶対に」
「義務だなんて、…ああ、いや、そうだよね、ごめん…わたしが悪い…」
「悪くないって、ばか、この展開も違う…」
項垂れる頭を再び抱きしめ、髪をくしゃくしゃに掻き撫でる。
こんなに大事にしたいのに、大事にしてくれてるのも伝わるのに、気持ちはちゃんと噛み合ってるのに、おれたち自身だけが上手くいかない。
もはや収集のつけ方がわからなかった。何を言うべきか、どう答えてやるべきか。
発言に細心の注意を払い、科白の端々に神経を尖らせ、胸の内の探り合いをするのではなく、ごちゃごちゃした思考を全て放棄してお互いの寂しさを埋めあうには、結局もう、体のコミュニケーションしか残っていなかった。少なくともこのときのクロウリーにはそれが最善のように思えていた。
「するか?」
なるべくいつもと同じような声で、そっと指先で肩を撫でて誘う。ついでに耳にも優しく唇を宛てがうと、アジラフェルはゆっくりと、鼻先が触れあう程度に顔を上げた。
「……したい」
「うん」
おれも、と言ってやれればいいのに、四十も過ぎて、ギリギリとはいえ二十代を相手にヤりたいだなんて酒でも入ってなければ素直に言えなくなっていた。ほんの少し前まではそんなことなかったはずなのに。
くだらないプライドだってこともわかってる。アジラフェルはそんなことちっとも気にしないし、揶揄したり嘲笑するようなやつじゃない。本当にただの、しょーもない見栄だ。こんなに毎日身を削って頑張っているこいつに、寂しいから抱いてくれ、などと。
これで合ってんのかな、という疑念を早く遠ざけたくて、両腕でアジラフェルをきつく抱きしめ唇を貪ることに没頭した。
肌を合わせ、お互いの息遣いとベッドがか弱く軋む音だけで部屋を満たす。
アジラフェルは決しておれに対する義務ではないと言わんばかりに、丁寧に丁寧に抱いてくれた。
また失敗した。こんなふうに気遣われたかったわけじゃない。おれはただおまえが触れたいように触れてくれればそれだけで充分なのに。アジラフェルにとって、体を繋げることが何の慰めにもなっていないのだとしたら、ああ、やっぱり義務だな、と勝手に悲しくなってしまいさえした。本当に身勝手なやつだ、おれは。
「クロウリー」
泣きそうな表情で見下ろすアジラフェルの顔を引き寄せると、ぱた、と頬に雫が落ちた。伝ってゆく口の端を舐めても汗だか涙だかわからなかった。
こういう日ばかりが続いた。
アジラフェルは限られた時間でなんとか会いに来て何事もなく過ごし、翌朝にすんなり送り出せることもあれば上手くいかない日もあった。ここ最近は上手くいかない日のほうが少しだけ多いかもしれない。笑った顔も見せてくれはしても、すっかり『ごめん』が口癖になっていた。
クロウリーに対して明らかに負い目を感じている。それがわかるのがクロウリーもつらかった。申し訳なさそうにしてばかりいるアジラフェルを見るのも、頑張れ、とただ励ますことしかできない自分もだ。つらいことばかりが積み重なっていた。
アジラフェルがどう思っていようと、間違いなく自分の存在が負担になってしまっている。何もかもが少しずつ噛み合わなくなり、お互い気を使ってばかりで、前みたいに笑いあう時間なんてほとんどなくなってしまった。
ここまでかもな、と思った。
「アジラフェル」
クロウリーはこの夜もベッドの縁に腰を掛け、脚の間に据えたアジラフェルの淀んだ顔を優しく撫でてやっていた。
「つらいんならもうやめよう。おまえがそこまでしてしがみついてなきゃいけない人間じゃないよ。おれは」
アジラフェルは目を開いたまま固まっていた。驚いたような、戸惑いのような、むしろ全ての感情が削ぎ落ちたような、そんな表情だった。最近はくたびれた顔ばかり見ていたから、それがなんというか、新鮮で。決してポジティブな表情ではないのに、その新鮮さに却って生気を感じてしまって、クロウリーは内心苦笑した。
「おまえのことは好きだよ。あんまり会えなくなったから気持ちが無くなったとか、そういうんじゃない。少しも減ってない。おまえはいいやつだよ。優しいし、素直で、努力できて、なんていうか…愛情深くて、みんなに好かれるやつだ」
「………」
「お互い好きでも、好きだから、お互いのために離れる選択が正しいこともあるだろ」
クロウリーの顔を見つめていたアジラフェルは浅く息を吸い、何度か言葉を迷う仕草をしたあと慎重に口を開いた。
「きみのためになることがある?」
「おまえがつらい思いをしなくなるなら」
「………、」
「好きだって言ったろ」
「……けど、」
「好きだよ。アジラフェル」
無意識に唇を寄せようとして、はっとして留まった。もうやめようと言っているのは自分のほうなのに。体に染み付いた習慣に等しいものだった。
思えば七年、七年か。あっという間だったが、実際に数字で考えてみると結構な時間だった。触れるのも触れられるのもすっかり当たり前になっていた。それでもここ一年ほどのぎこちない時間には一向に慣れなかった。慣れることができなかった。そしてそのまま、終わろうとしている。
「おまえが好きだから、おまえがつらいのは嫌だ」
「つらくない」
「アジラフェル」
「別れたいってこと?」
「別れたいっていうか…」
そんなふうに言われると困る。別れたいわけではない。好きだという言葉に嘘はない。それよりも優先すべきことがあるという話だ…と、そう口で言うのは簡単だけど。
「このままじゃおまえ、だめになっちまう。もしその原因の一端を、ほんの少しでもおれが担ってしまったとしたら、おれは二度とおまえの前に立てない」
「だめになんてならない。ずっとこの状態なわけじゃないって、きみだって言ってただろ」
「仕事だけ頑張っていればいいって言ってるんだ。一旦おれのことはいないものとしてさ。おまえの障害になりたくないだけなんだよ。おれがいくら気にしないって言っても、おまえはどうしても気に病むだろ。だから…」
「これからはそんな態度とらないから、」
「この先おれとの約束を平気で何度も破れるか?」
「………、」
「おまえが悪いって言ってるんじゃないぞ。…こうやって慰められるのも、今のおまえには負担だろ?」
「違う…」
「違わない。今この場でおれが何を言ってやったって、何をしてやったって、きっとおまえをもっと苦しめるだけなんだ」
「違う…そんな…そんなことない…」
「おれだっておまえの重荷になるのはつらい」
アジラフェルが息を飲むのが伝わった。こう言えばアジラフェルが何も言えなくなるのはわかっていた。わかっていて言った。言っておいて、自分自身も傷つくこともわかっていた。全部全部、わかっていたのに。
胸がじくじくと痛み出す。久しく忘れていた感覚が鼻の奥をつんと刺す。
こんなふうにお互いつらい思いをするんだから、やっぱり離れるのが正解なんだろうな。
アジラフェルの顔に触れていた両手を下ろすと、逃がさないと言わんばかりにぎゅうっと握られる。
「いやだ。離れたくない」
「期間決めるか?忙しいのが落ち着くまで。半年でも、一年でも二年でも」
「それなら別れる必要はないだろ」
「今は一番大事なことだけ考えるべきなんだよ」
「きみより大事なものない」
「この先ずっとおれと一緒にいたいか?」
「当たり前だ」
「そのために頑張ってんだろ?今離れたくない気持ちよりこの先のために頑張ろうって、そんなふうに考えたほうがいいと思う。優先すべきは今一緒にいることじゃなくて、この先ずっと一緒にいることのはずだろ」
「そうだよ。でもいやだ、離れない。好きなのに別れるなんて全然わからない。そんなの絶対ゆるさない、」
視界が反転し、天井の照明が真っ黒なアジラフェルの影を形作った。
明るさは抑えているはずなのに、真下から見上げるとやっぱり眩しいんだよな…とぼんやり思う。電気消してくれと頼むべきだろうか。いつもと同じように。茶化しているようにしか聞こえてないよな。
真っ暗で表情は見えない。それでもクロウリーはアジラフェルから目を逸らさなかった。
「いいよ」
眩しさに慣れて目が合う前に、優しく言った。
「おまえの気の済むまで好きにしていい。おれは少しも構わない」
「………」
「本当だ。おまえになら何されたっていい。軽蔑したり嫌いになったりもしない」
「………」
「でもおまえはしない」
事実、勢い任せにベッドに押し倒すだけ押し倒しておいて、アジラフェルはそこから微動だにしなかった。
ほんの少し腕を動かそうとすると、手首を抑えていた掌がすぐにぱっと持ち上がる。本当は端から拘束する気など無いのだ。
クロウリーは自由になった手でアジラフェルと手のひらを正面から重ねて指を絡ませ、再びベッドの上に導いて自ら捕らえられた。
「もしそれで何か良くなるなら、おれがとっくにそう仕向けてる。気兼ねなくおれのことを好きにするようにな。でもおまえはしない。しないし、したとしても絶対に後悔する。たとえこの先おれのことを憎んだり嫌いになったとしても罪悪感は捨てられない。きっと一生引きずる。おまえはほんとにいいやつだから」
「………」
「なあ、好きだよ。おまえが大事だ。重荷になりたくないおれの気持ちも汲んでくれ。な、アジラフェル。なあ。わかってくれよ…」
押し倒されようが凄まれようが、あくまで要求を突きつけ答えを迫っているのはクロウリーのほうで、捕らえられているために繋いだ手はむしろクロウリーからアジラフェルへの束縛だった。
「…別れたとして」
アジラフェルは重い口を開いた。
「待っててくれる?」
「うーん…それに答えちゃ意味がないんだよ。おまえがおれを『待たせてる』って思っちゃだめなんだ。そこが余計なんだよ」
「余計じゃない…」
「そうだな、そうだよな。わかってるよおれも」
今にも泣き出してしまいそうな声で呟かれてしまえば慰めずにはいられなかった。ぼんやりと見え始めた険しい表情に罪悪感がじわりと湧く。こんな顔をさせたのは自分のくせに、アジラフェルが却って不憫だ。でもこんな…だって、かわいそうだ。
おれも随分絆されてしまったものだ。なんたって七年だもんな。
「おまえは何の関係も気にせずできることだけをやってりゃいい。このできることってのは将来に向けての話だ。仕事の話。わかるな?」
「…でも、」
「うん」
「誰にもとられたくない…」
「………、」
「初めてここに来たときのこと、毎日思い出してる。あのときもきみ任せで、わたしからすれば全部成り行きだったけど、遊びじゃなくて本気で付き合ってほしいって、他の人なんか作らないでわたしだけにしてって、きみにそう約束してもらえて本当にうれしくて…なのに、今更きみの目が他に向くのなんて耐えられない。誰にもとられたくない」
「アジラフェル…」
「好きじゃなくなったのなら、そのほうがよっぽどましだ…」
何と言ってその庇護欲を掻き立てる顔を宥めようか考えながらも、クロウリーはなんとなく、ああ、そういうことなのか、と腑に落ちたところがあった。ほんの少しだけ光明が見えた気がしたのだ。
(なんだ…)
アジラフェルはおれが離れていくのが怖かっただけなのか。
わかっていたようでわかっていなかった。たぶん半分くらいはおれが悪い。いやもっとかも。
「アジラフェル」
握らせたままの手を軽く振ると、やはりあっさり解放された。
「わかったよ。おれの負けだ」
顔に手を伸ばして目元を優しく撫でてやる。濡れてはおらず、少しほっとした。
「二人で考えよう。どうしたらお互い苦しまずに一緒にいられるか」
「………、」
「全部無し。もうこの話しない。ごめんな」
「…なにも変わらない?」
「変わらない。これまで通り。明日も明後日もここに来ていい。おれがおまえのとこに行くのでもいい、いつも通りな」
「ほんとう?」
「ほんと。よし、仲直りのセックスしよう。来いアジラフェル。抱かれてやる」
アジラフェルの首にがっちり両腕を回してから力を抜くと、すぐに体の上に体温と重みが乗る。アジラフェルが慌てた様子で手を付くとそれが少し軽くなった。
耳元で「クロウリー、」という抗議の声が上がる。
「する気になんてなれない」
「だろうな。でもやろう。じゃないとおまえ、二度とおれに手出してこなくなりそうだ」
なるべく明るい声で冗談っぽく言ったが本心ではある。アジラフェルも気まずそうに「う…、」と口ごもった。
「喧嘩したらその日のうちに仲直りするって二人で決めたろ」
「喧嘩してない」
「そうだな、今日したのは別れ話だな」
「………」
「しない?」
アジラフェルの肉付きの落ちた頬を唇で食みながら、胸元に掌を忍び込ませてシャツのボタンをひとつだけ外してやる。
「クロウリー…」
「キスは?」
「………」
「ハグ?」
「………」
「ハグもだめか」
両腕を左右に開いてぱたりとベッドに放る。アジラフェルが顔を上げる様子はない。が、そのままじっとしていると、
「……する…」
と肩口でくぐもった返事があった。
「よし」
期待通り過ぎて笑ってしまうのを堪えながら、クロウリーが再びぎゅうっときつく抱きしめてやるとそれ以上の力で抱きしめ返された。
この素直さに何度となく救われてきた。こんなぽかぽかでふわふわで何より一番かわいいやつを、おれは今手放しかけたんだな。
手放さずに済んでよかった、と安堵しているのも馬鹿らしい話だ。
アジラフェルにこんなに思われているだなんて、わかっていたつもりで全然わかっちゃいなかった。離れるのがアジラフェルのためだと思っていた。けれど結局はこっちの問題だったらしい。ただ、おれにアジラフェルの暗い顔を見続ける勇気が無かっただけなのだ。
「クロウリー」
「ん?」
「どこにも行かないで」
「行かない」
「お願い」
「どこにも行かないって…泣くな、アジラフェル」
「泣いてないよ…」
「そうか?」
「キスしてもいい?」
返事の代わりに軽い音を立てて頬にキスしてやると、ゆっくりと離れる顔に焦点が合うより先に唇を塞がれた。さっきアジラフェルが初めてここに来たときの話をしたからか、クロウリーの脳裏にもふと思い出された。部屋まで入ってくるのでさえおっかなびっくりで、初々しくて、かわいかったアジラフェルのこと。
やわらかい髪、体温、吐息、唇、ひとつひとつの感触を確かめるようにゆっくりと重ねて交わらせた。手のひらで撫でた頬の感触はやはり随分と足りない。
「かわいそうに。おまえのマシュマロみたいな頬っぺたがどっかいっちまって…まあこれはこれで悪くはないが」
「ん…」
甘えるように手のひらに擦り寄ってくるアジラフェルの仕草がいじらしくて痛ましい。いとおしく思うほどに罪悪感もまた湧いてくる。
「今度さ」
「うん」
「なんかうまいもん食いに行こう。ドライブがてら、ちょっとだけ遠出してさ。ここんとこずっと家ばっかだったから」
「うん」
こんなことで何の償いにもならないとはわかっているが、それでもアジラフェルはほんのり笑って頷いてくれるのだった。おれよりよっぽど大人かもな。
その夜からしばらくは多分にアジラフェルを甘やかしてやった。当然だ、あんな話をしてアジラフェルが不安に思わないわけがない。クロウリーにできることはとにかくしっかりと好意を伝えること、傍にいること、傍にいなくても気にかけているのをきちんと伝えること。
アジラフェルも馬鹿ではないのだから、そんな安い手には気付いているに決まっているし何なら呆れているかもしれないが、アジラフェルが忙しくしている以上実際にしてやれることは少ないわけで、いくら細かいことでもできることなら何でもやって、ちまちまと点数を稼ぐくらいしかできることがなかった。
アジラフェルのほうはといえば至っていつもと変わらない調子で、多少クロウリーが甘やかすのに乗っかることもあった。それもきっとアジラフェルの優しさだろう。救われているのは結局クロウリーのほうだった。
明日から久しぶりの二連休を待ち構えた夜。
職場近くまで迎えに行ってやってそのままアジラフェルの家まで送り、取り敢えずこの日はすぐ寝かせておいた。もちろんクロウリーの添い寝付きで。
朝、先に起きたクロウリーは決まって気の済むまでアジラフェルの寝顔を堪能する。普通寝顔は幼くなるものであるはずなのに、アジラフェルはむしろ大人びて見え、普段の可愛らしさが抑えられて男っぽい。クロウリーはこのアジラフェルの寝顔が大好きだった。
ぼんやりした頭が覚醒するまで少なくとも数十分。その間の眠気覚ましにはうってつけだ。
ようやく動く気になってきたらそろりとベッドを抜け出して、シャワーを浴び、コーヒーで朝食を済ませる。軽く部屋の掃除をしてやって、ごみ出しをして、ついでに風呂と玄関もぴかぴかにしたあとは居間の隅にいる鉢植えの世話。クロウリーの店に通い始めた最初の頃のアジラフェルに買われていったものだ。可愛らしい葉の形をしたボダイジュの一種で、クロウリーの勧めもあるにはあったが何よりアジラフェル自身が気に入っていた。
(うーん…)
軽く摘んだ葉を親指で撫でながら、一枚一枚丁寧にチェックする。そこまで悪いわけではないが、前に見たときに比べると葉は少し色が落ちて黄色っぽい。まあ、飼い主がこんな状態じゃな…
音を立てないように窓のほうへそっと運び、レースカーテン越しの日光を浴びせておくことにした。ただ、鉢も土も葉もそれなりに綺麗ではあった。手入れされているのがよく伝わる。仕事終わりに直接うちに来ていいと言ってあってもなんだかんだこっちに帰っていたのはこいつのこともあったのかもな。…というのは、欲目が出すぎているだろうか。まあ、これもおれが面倒見てやればすべて丸く収まる話だ。
「……ふふ…」
買われていって少しした頃、アジラフェルにこれの様子を尋ねたことがあった。
「元気にしてるか?」
「うん」
「なんて名前つけたんだ?」
「は?」
冗談で言ったのに、普通つけるものなのかと勘違いしたアジラフェルはあからさまに『しまった』というような顔をして、たぶん咄嗟にいくつかの名前の候補と言い訳を考えた挙句、決まりの悪い顔に落ち着いて、「ごめん、つけてない…」と気まずそうに言ったのだ。それを見てクロウリーが大笑いしたのは言うまでもない。そのあとのアジラフェルが、きゅっと目を細めて怒った顔を作るのも可愛くて…もしかしたらこっそり何か名付けているかもしれないが、あれだけ笑ってしまったからそう簡単には教えてくれないだろうな。
埃ひとつ纏わせないほど綺麗にしてやった葉を後にして、一度寝室を覗いてみる。アジラフェルはまだぐっすり眠っている様子だった。こういうときは邪魔はせず、ダイニングテーブルの硬い椅子で本を少し読むのが普段通りの過ごし方だった。今日持ち込んだのは本ではなく冊子と数枚のルーズリーフ。役に立つのか立たないのかもわからないような資格を取るのはクロウリーの数少ない趣味のひとつだが、今回は珍しくちゃんと役に立たせる目的があった。アジラフェルには到底及ばないまでも、何かを学んで身につけるというのはクロウリーも好きだった。
マグのコーヒーが底を尽いた頃、時刻はもう昼に差し掛かろうとしていた。
(そろそろ起こしてやるか)
アジラフェルのマグにコーヒーを淹れ、10分ほど置いておく間に凝り固まった体をぐぐ…と伸ばす。肩や首から鈍い音が鳴った。少し動かないとすぐこれだ。そろそろジムにでも通うべきか最近少し考えている。ひと回りも若いうえに体力を使う仕事をしている男とこれからも付き合っていくのなら、遅かれ早かれ必要なことだろう。
そういえばアジラフェルは小さい頃から高校に入るまでずっとサッカーをしていたと言っていた。それを初めて聞いたときには思わずでかい声で聞き返したものだ。ああ見えて体育会系なんだよな…と、少し恨めしい気分になる。そういうわかりやすいギャップはずるいからだ。
コーヒーの温度がちょうど良い頃合いになったら小さな紙袋と共に再び寝室を覗く。アジラフェルはもちろんまだ眠っている。
「アジラフェル」
マグをベッドサイドに、紙袋はその足元に置いてからカーテンを少しだけ開け、ベッドに片膝をついてアジラフェルの肩にそっと手を置く。シャツの袖は短くほとんど肩まで露出しているのに、肌はちゃんとあたたかかい。
「アジラフェル」
「……ん…」
「おはよう。もう昼だけど」
「…ん…はよ…いいにおいする…」
「コーヒー飲むか?」
「うん…」
クロウリーと違ってアジラフェルは目覚めがよく、どれだけ眠そうにしていても割とすんなり体を起こす。頭側に腰を下ろし、背中を押してそれを助けてやって、隣に並ぶように足を下ろしたアジラフェルに濃いめのコーヒーが入ったマグを渡す。
「少し冷ましてある」
「ありがとう…」
猫舌のアジラフェルはそれでもマグに一生懸命に息を吹きかけて、少しずつ少しずつ口へ含む。淹れたてのコーヒーでもごくごく飲んでしまうクロウリーとはこれもまた違うところだった。
「いつから起きてたの?」
「ついさっき」
「嘘ばっかり…」
「なんで」
「きみにもらったソープの香りがするから」
クロウリーの体を通り越してベッドサイドにマグを置いたアジラフェルはごく自然にそのまま身を寄せてきて、胸元ですう…と深く息を吸い込んだ。
「やっぱりそうだ。シャワー浴びたの?」
「眠気覚ましにな。おまえ鼻良いな」
「良い香りだから」
「おまえはふつーの石鹸の匂いだな」
やんわり抱き返してやりながらそう言ったのは別に皮肉のつもりではなかったが、アジラフェルからは苦笑する声が聞こえた。昨日はシャワーを病院で済ませたからと、帰ってくるなりほとんどそのまま眠ってしまったのだ。特に珍しいことでもない。いつものことだ。
「なんか食うか?」
「んん…」
「どっか食いに行ってもいいし、デリバリーでもいいし。作ってもいい、大したもんはできなそうだが」
「うん…」
「もう少しこうしてるか?」
「うん…」
肩に乗せられた頭を撫で、素っ気なくも思える石鹸の香りを深く吸い込む。たぶんあんまりおまえには合ってないぞ。肌も乾燥してるし。ソープじゃなくて環境のせいかもしれないが。何にせよおれがやったやつのほうが良いに決まってる。もしかしてこれ嫉妬か?うわ、そうかも。
複雑な気分になったものの、「この香り好きだ…」と顔を擦り寄せながら呟くアジラフェルの声、そのひと言でいとも簡単に溜飲は下がった。そうだろう。当然だ。おれがおまえに選んだんだから。
ソープだけじゃない。何だってそうだ。おまえなんか全部おれで構成されてしまえばいい。
「アジラフェル」
「ん…」
「なあおれ、ここに住むよ」
「……えっ?」
アジラフェルが顔を上げ、肩がふっと軽くなる。さっきまでまだ気怠そうにしていたのに、そろりとクロウリーを窺う眼差しはもうはっきりとしていた。
「なん…え?なんて?」
「おれもここに住む」
「い…いいけど、それは、もちろん…」
「そんで店以外の仕事もしばらく入れないようにして、全部おまえに充てようかなって」
「……えっと…」
「おまえの帰りがどれだけ夜遅くても朝早くても絶対起きて待ってて、風呂も飯も全部用意しといてやる。もちろん掃除も洗濯も、あとなんだ、クリーニングとか…えー…公共料金の払い込みとか?家賃水道光熱費、この辺は折半で。家賃は無いんだったか?」
「ま、待って、追いついてない」
「最初からこうしてもよかったんだ」
アジラフェルの手を握って自分の膝の上に置かせる。虚勢を張らない、嘘を吐かないという自分への楔だった。
「なのに、おれがやらなかったのはさ。これはこれでこの先おまえが変に引け目に思うようになったら嫌だなって思ってたんだよ。将来のおまえが“あのとき世話になったから”って遠慮するようになったら嫌だなってな」
「………」
「いつでも手放してやれるようにしとこうって心のどっかで思ってた。そう思ってれば自分の傷も浅く済むしな。でももういいか、って。覚悟を決めたわけだよ。おまえが泣くのを見るほうが嫌だったから」
「泣いてない…」
「あー、なんか支離滅裂だな…とにかく、もう大人でいるのやめる。そういう話だよ。いつかおまえが後悔することになっても、罪悪感抱えても引け目に思っても、そんなもん知るかって。おれだって本当はおまえのこともう手放したくなくなってんだもん。だから…」
「………」
「だから、えーと…取り敢えずさ。お互い欲に忠実にやりたいことやって、やり尽くして、それでもなんにも変わらなくて、二人ともつらいだけのままで、やっぱりだめだったとしても、おまえにも傷付いてもらおうって。おれがつらくて悲しいのと同じぶんだけおまえも背負えばいいって。踏ん切りつけたんだよ。ひどいこと言ってるよな。自覚はある。けど、」
「クロウリー」
自分でもだんだん何を言っているのかわからなくなってきて、このままじゃ余計なことまで言ってしまいそうだ…というところでアジラフェルに勢いよく抱きすくめられた。言いたいことはまだあるものの、その反応にひとまずほっとした。
「うれしい、すごく。うれしい…」
「よかった」
「大好き…」
「また泣かせたか?」
「泣いてないってば…でも今は少し泣きそう。うれしくて。きみのこと一生大事にする」
「はは、プロポーズみたいだな」
「わたしにできることならなんでもする。どれだけつらくても、何があったって平気だ。きみさえいてくれるなら」
真に迫った声に胸が少し痛んだ。
「この前、もうやめようなんて言ってごめんな。傷ついたろ」
「いい、いいんだ。わたしが至らないせいだから…」
「それは間違ってるが、でも、そういう不安もこれからはおれにも背負わせるんだ」
別れ話を持ち掛けたあの日から、アジラフェルはそれについて恨み言のひとつだって言わなかったし、そもそも話題として挙げることもなかった。きっと毎日不安を抱えさせていたに違いないのに。ただ、その詫び言がわりでこんなことを言い出しているわけではない。
「これからのことはどっちかだけじゃなくて全部二人の問題にするんだ。おまえが疲れて何にもできないとか、仕事のことでちょっと落ち込んでる…とか、そういうのはおれの問題でもあるってことだ。その解決のためにおれがすることに、おまえが申し訳なく思ったり気に病んだりする必要はない。わかったか?」
「…わかった」
「よし。じゃあ大事な話はここからだ」
「え…」
きょとんとするアジラフェル。どこか緊張が混じったようでもあった。それはそうだ、この前別れ話を振られて、今まさにそれについて触れたばかりだしな。
クロウリーはアジラフェルの胸を押して身を離し、足元へ手を伸ばす。コーヒーと一緒に部屋に持ち込んだ小さな紙袋だ。
「ん」
「何?」
「これな」
小さな紙袋から更に小さな箱を取り出し、アジラフェルに向けて蓋を開けて見せてやる。
「え」
「手出せ」
「えっ」
出せと言いつつ問答無用で手首を掴んで薬指に嵌めたプラチナのリングは、少し幅を持たせた表面に淡い金色が斜めに入り、中心には僅かな光でさえ取り込んで何倍にも輝かせている満月の色をした石が存在感を放っていた。
「これでおれの目が他に向くかもっていう心配はちょっとは減るよな?」
「これ…え…?」
「覚悟決めたって言ったろ」
「………、」
「おれのものにする」
リングケースをマグの横に置いて微笑みかける。まだ呆然としているままのアジラフェルの左手を取り直し、たった今アジラフェルのものになったばかりの銀色を眺める。腕時計以外の装飾品を身につけないということもあって全然見慣れない。けど、よく似合っている。想像通りだった。
「はあ…なんかすっきりした。自分で思ってたより自制してたんだろうな。ほんとはすげー重いのに」
「ちょ…ちょっと待って」
「うん」
「…そういうこと?」
「うん」
アジラフェルは何度も何かを言いかけてはやめ、クロウリーの顔と手元へ視線を往復させた。そうだよな。これまでこういう話は一切してこなかったし。
「アジラフェル」
空いているほうの手でそっと顔を撫でる。表情こそ戸惑い一色だが頬はほんのり上気して、少し震えているらしい唇の純朴さが胸をくすぐる。
「好きだよ、アジラフェル。愛してる。これから毎日言ってやる。でも、同じだけおまえも言ってくれなきゃだめだ。おれがおまえを愛してるってことをしっかり受け入れて、その意味をよく考えて、後ろめたさを感じたり引け目を負うこともなく、おれにちゃんと頼らなきゃだめだ」
「…クロウリー、…」
「この前、一緒にいるために頑張るって話をしたよな。そういうことだ。おれに世話されることに罪悪感を持つな。何でも任せろ。良いことも良くないことも全部言え。いつも正直でいろ。いいな?」
「クロウリー、」
「ん?」
「これ、このリング、どういう意味?」
「わかるだろ」
「わからない、言って」
「『イエス』だよ」
「…なんの?」
「おまえが言いたいだろ?」
「………、」
「だからこれはその返事だ。イエス。今度こそ本当におれのことおまえにやる。だからかわりに、おれもおまえのこともらうんだ」
もうすっかりアジラフェルの体温と馴染んだリングの縁を親指でなぞる。それでも言って、と詰め寄られたらなんて言おうか少し考えたが、大きく抱きつかれたことで杞憂で済んだ。
「おいこら、押し倒そうとするな」
ぐぐ…と体が傾くのに反発しながら肩を掴んでみるものの、背中に回された腕はがっちり肩までホールドされていてびくともせず、結局は押し負けてベッドに倒れ込んだ。もしもアジラフェルに尻尾が生えていたなら左右にぶんぶん振っていることだろう。初めて会ったときから変わらず今もクロウリーの目にはアジラフェルが子犬のように映っている。新しい首輪をもらって喜んでいる、白い毛並みの大きな子犬。
擦り寄せられる頬がぽかぽかとあたたかい。
「言っておくけど、良いことばっかじゃないからな、きっと。おれ悲観的だし。ネガティブな想像するほうが早いし得意だし。ほんとはちょっとしたことですぐ不安になるし」
「不安にさせないって約束する」
顔を上げてそう言い切るアジラフェルがあんまり真摯に見つめてくるから、クロウリーのほうが少し照れてしまう。今更どきどきし始める胸を誤魔化すために自分から引き寄せてキスしておいた。
極めて丁寧に唇を吸われ、そのまま頬、鼻筋、目頭にも。こんなふうに穏やかなキスを交わすのも随分久しぶりに感じながら、矛盾するようだがその反面、手で触れるのさえ神経を使っていたのが遠い昔のようにも感じた。ただの過去になったんだなと思った。ああ、もう済んだんだな。
「死ぬまで一緒にいて」
「いいよ」
「やっぱり今の嘘。死んでも一緒にいて」
「怖いこと言うなよ。おれ標本にでもされるのか?」
「クロウリー、本当に?本当にいいの?」
「いいも何も」
頭の横のアジラフェルの手に右手で触れる。本来目に見えないものを実際に見える形にするっていうのはこういう利点もあるものだ。
アジラフェルは口の端を柔らかく緩めて、再びゆっくりとキスをくれた。
「これ、きみのは?」
「無いよ。つけさせたいか?」
「贈りたい」
「楽しみにしとく」
「あまり訊くものじゃないかもしれないけど、どのくらいしたの?すごく良いものなのはわかる」
「…値段の話か?」
「うん。聞いたからって同じくらい素敵なものを贈れるかはわからないけど」
訊かれて、クロウリーは返答に困った。そりゃあもちろんいい加減な代物ではない。普段から大して物欲が無いということも多分にあるが、もしかしたらこれまで生きてきた中で車の次くらいに高い買い物だったかもしれない。
アジラフェルとは年齢と生い立ちには差はあれど金銭感覚のギャップは無い。むしろ、だからこそ困る。どう受け取られるかまるでわからなかった。適当に『給料三か月分』とか言っておくか?とも思ったが、結局絞り出した答えは
「気にするな」
だった。もう少し気の利いたことを言ってやれればいいものを。
「そうはいかないよ…」
「別になんでもいい。プラスチックのおもちゃでも、その辺の雑貨屋で売ってるのでも。アマゾンでもいいぞ。サイズは…」
「クロウリー」
「あのな、いいって言ってるだろ。いいんだよ。おれおまえよりひと回りも歳上なんだぞ。こういうとこでくらい格好つけさせろ」
「さっき大人でいるのやめるって」
「おまえとの関係においての話だ。これの話はまた別」
ろくな言い逃れになっていないにもかかわらず、少し語気を強めるだけでアジラフェルは素直に口を噤んだ。この従順さのおかげでクロウリーは変わらず大人ぶらせてもらえているのかもしれない。クロウリーのほうこそ自分で本当にいいのか訊きたいくらいだ。
「理想のプロポーズとか考えてたか?」
「…いいや、考えたことなかった」
「おれが最初にいつでも手放してやるって言ったから?」
「………、」
「それでずっと不安にさせてたんだろ」
「それは…そうでもない。きみがわたしのことを好きでいてくれてるのは伝わってたから」
「ふーん…」
「七年も一緒にいたんだからさすがにわかる、わたしでも」
「そうか」
「でも、この前は少し怖かった」
「別れ話したとき?」
アジラフェルの目尻が僅かにぴくりと震えた。おれが負わせてまだ癒えていない傷を開いてしまったようだ。かわいそうに、あれについては本当におれが悪かった。
「ごめんな」
「わたしもごめん。あのときは…」
「でもこれだけは最初に言っておく。悪いけど」
「何?」
「もしもこの先、自分の子供が欲しいと少しでも思ったら絶対に気後れせず言ってほしい。絶対だ。その約束が欲しい」
「身を引くから?」
「その言い方はちょっと殊勝らしく聞こえるが、まあ、そうだな」
きっとこういうことについても考えたことはなかったんだろう。もしかしたらその機会をおれが奪っていたのかもしれないが。
せめてとれるだけの責任はとる。それも含めて決めた覚悟だ。
「このことで嘘吐いたら二度とおまえとは会わないし話さない。思い出してもやらないからな」
「わ…わかった…けど、それを言うならきみだって」
「おれもう四十超えてんだぞ」
「望めない歳じゃない。気にしてるんなら今度調べてみたら?」
「何を」
「精子の…」
「おい」
「え?」
「おれはおまえの患者じゃない」
「…もしかしてデリカシーなかった?今の」
「少し」
「ご、ごめん」
「そういうところやっぱ医者だよな、おまえ」
「気をつける、ごめん…」
「いいよ」
「とにかく、その、そういう心配は要らない」
「仕事とはいえおまえは毎日見るんだから、今はよくてもそのうち気が変わってきても不思議じゃないだろ」
「うーん…まあ…うん…うんって言っておく。約束はするから、きみもして」
「おれはおまえと葉っぱの相手で手一杯だよ」
「だめ。約束して」
「わかったわかった、約束する。…ていうか、こういうことはもっと早くにちゃんと話しておくべきだったよな。七年もだらだら付き合う前にさ」
「…たしかに」
体を支えているのが疲れたのか、横にゆっくりと体を傾けるアジラフェルの頭をすかさず抱き寄せる。クロウリーはアジラフェルを腕に抱くのが好きだった。あたたかくてやわらかくて安心するから。子供がぬいぐるみを抱いて寝るのとまるで同じ理由だ。それに、抱かれているアジラフェルはかわいいし。
「見せてみろ」
クロウリーは再度アジラフェルの左手を掴んでしげしげと眺めた。いくら見ても飽きそうにない。たぶん浮かれているんだと思う。ここにこれがあるのがうれしくて。
「気に入ったか?」
「もちろん。すごく綺麗だ、なんていう石?」
「イエロー…あー…いや、忘れた」
「嘘だね」
「本当に忘れた。思い出したら教える」
「絶対嘘…」
「それより、やっぱちょっとだけサイズ大きかったな。元のサイズで作ってもらったから」
「元のサイズ?」
「おまえが忙しくなり始める前、うちに置いてたおれの指輪嵌めたことあったろ?」
いくつか持っているただのファッションリングを、何かの折にアジラフェルが戯れにつけたことがあった。そのときのサイズをこっそりずっと記憶していたのだ。
「ま、そのうちぴったりになる」
「どうだろう。ならないかも」
「それはおれが何とかするから大丈夫」
「何とかって?」
「わかってないな。これからおまえが体に入れるものはおれに管理されるんだぞ。おまえがどうなるかは全部おれ次第だ」
「………、」
「怖くなったか?」
「まさか…」
アジラフェルは笑って、握られていた左手をするりとクロウリーの背へ回した。
「マリッジリングはまたそのうち二人で考えよう」
「うわ…」
「なんだよ」
「なんか…今ぶわっときた」
「…ふ」
言葉通り、アジラフェルの目元は本当に赤らんでいた。そういう反応をされるとクロウリーの胸にもじわりとくすぐったいものが広がる。いい歳して恥ずかしいったらない。アジラフェルの純粋さにあてられているのかもしれなかった。
ほら、若いパートナーを持つと自分も若々しさを保てるという話はよく聞くし。…ちょっと違うか。ほんと浮かれてんな、おれも。
「時間が出来たら役所に行こう。おれの住所変更もしないと…あ、いや、おまえ日付けに何かこだわりあったりするか?」
「ううん」
「家族に報告は?」
「別にいいかな…」
「じゃ、準備が終わった次の休みな。まあこういうのは何でもない日のほうがいい」
「次連休がとれたら、きっとそのときにわたしも渡すね」
「何を?」
アジラフェルの眉間にきゅっと浅い皺が寄る。そのわざとらしい怒り顔が見たくて意地悪を言うのだ。
「きみの指につけてもらうエンゲージリング」
「ふふふ…」
一体どんな顔して買いに行くんだろう。買うとこ知ってんのかな。本当になんだっていいんだが。どんなものだって死ぬまで大事にする自信はある。
「じゃあ役所にはその日に行こう」
クロウリーは今はまだ無い薬指の感触を想像した。幅はアジラフェルに贈ったものよりもう少しある気がする。同じプラチナで…黒でもいいな。縁起がどうとかいうのをおれが気にしないのはよくわかってるだろうし。でもきっと石は青。
…だめだな。何だっていいなんて言いながらしっかり期待してしまっている。
クロウリーはこっそり苦笑して、アジラフェルの髪を撫でることで誤魔化した。
「仕事中は難しいけど、休日はつけていてもいい?」
「おまえにやったんだから好きにしていい。飾っていようが、つけないまま持ち歩こうが、箱のままクローゼットに仕舞っていようが、職場に置きっぱなしにしていようが全く構わない。もうおまえのだ」
「そっか…」
「けど、おまえはもうおれのもんだ」
形の綺麗なアジラフェルの額にゆっくりと唇を寄せる。
「おれのだからな」
「………」
「返事は?」
「…はい」
「ふふふ…」
初めて好きって言わせたときも敬語だったな。
これまでのことを思い返しながらアジラフェルを抱きしめると、同じだけの力で抱き返された。
互いの体の隙間がすっかり埋まり、鎖骨のあたり、喉、顎の下…と、ゆっくりと這ってくるアジラフェルの唇を、体の力を抜いて受け入れる。じわじわ傾いていく体を捕らえるようにアジラフェルが重なった。
わざわざ尤もらしい理由や言い訳を持ち出す必要もなく、ただ純粋に肌を求められる安心感に、ああこの感じ久しぶりだ…と身を委ねかけた束の間、アジラフェルは不意にぴたりと動かなくなってしまった。
もしかしてこのまま寝そうか?という考えが過ぎる。眠りやすい体勢かどうかはともかく、そう思わせるだけの体温があった。たしかにあたたかくて心地は良いが。
「クロウリー…」
「ん?」
「………」
「アジラフェル?」
「………」
「どうした」
「……誘い方忘れちゃった…」
頬に触れているアジラフェルの耳が熱くなっていくのを感じる。それがあんまり可愛くて、いっそおれが抱いてやろうかという欲念が一瞬脳裏を掠めていった。
別に今いい感じだったぞ、と言ってやってもよかったが、
「おれが誘ってやろうか」
そうこめかみのあたりに口づけてやると、熱っぽい眼差しがおずおずと上目遣いに見上げてくる。
「なんでおれからいいにおいがすると思う?」
頬から顎にかけてのラインを指先でついと撫でながら問いかける。
アジラフェルはゆっくりと、深く息を吸った。
「ここまで全部想定通り?」
クロウリーはそれには答えず、ふふ…と笑うだけにしておいた。
それからは久しぶりになんの心咎めもなく、取って付けた理由もなく、ただ触れたいままに触れ、触れてほしいままにねだった。最初はくすぐったくなるほど甘やかな睦みごとを交わしていたのに、そのうちお互いだんだん盛り上がってきて、いい歳してばかみたいに求めてしまった。
昼の柔らかい光がカーテンの隙間から差し込む寝室、切なくなるほど優しく愛おしげな声で呼ばれる名前、恍惚に潤んだ瞳の奥から突き刺してくるような欲と、与えられるあたたかさ、絡めた指の慣れない感触。それらがあまりに倒錯的だったから。