ineffable husbands
S2ep6の中盤くらいまでの内容を含みます
あくまで個人の解釈
@otohitoe_
─── 忘れたほうがいい!
アジラフェルの珍しく荒っぽい口調とドアの閉まる音が寝室にまで届き、クロウリーは驚いて目を覚ました。
一体なんの話だ。商店街の人間との間に諍いでも起きたのか?あの天使が?
服を着替えて部屋を出ると、先ほど追い出したのであろう誰かの背中でも確かめているのか落ち着かない様子で書店のドアに張り付いているアジラフェルの後ろ姿が見えた。
「エンジェル」
階段を下りながら声を掛けると、アジラフェルはぱっと振り向いたものの「ああクロウリーおはよう…」と早口に挨拶を済ませてまた外を向く。後回しにされたようなその態度がクロウリーは面白くなく、残りの段差をとんとんと足早に下りてアジラフェルの背後にぴったりついた。
「何かあったのか」
「さっきここを訪ねてきた人がいて…」
「全裸だったとか?」
「そこまでじゃない。いや、それが言葉通りの意味でないならだけど。とにかくちょっとだけ厄介なことに…」
アジラフェルの目線の先、向かいのパブに、確かに変な人間がいる。それなりに成熟しているであろう年齢と思われる男で、恐らく鍵が掛けられているために開かないドアを相手に奮闘している。服は着ていた。こんな朝っぱらからパブに用事とはずいぶん景気の良いことだ。
「なんだありゃ。酔っ払いが店を間違えて来たのか?」
「いや、わたしを訪ねて」
「おまえを?」
「そうみたい」
「おまえとあの店に何か関係が?」
「あるといえばある」
「アジラフェル、おれに質問ばかりさせるな」
「ほら、前に…」
振り向いたアジラフェルは、察してくれと言わんばかりにクロウリーをじっと見つめた。その甘ったれた態度はかわいいが、クロウリーは頭を空っぽにさせたまま察しの悪いふりをして同じように見つめ返した。
「…彼は、わたしがあそこから別の世界に行くのを見たって言うんだ」
「ははあ、なるほど」
「ドアの向こうはエレベーターのようになっていて、光り輝く世界に繋がってるらしい」
「よく見てるな」
クロウリーがへらりと笑うと「笑い事じゃない」と咎められた。人が親切にも笑い話にしてやったってのに。
そりゃおれにだってそうだ、と言いたいところだが、親切ついでに言わないでおいてやる。
「そこに行きたいんだって、彼」
「ほお」
「何度訪れてもあのドアはパブのドアだし、別の世界にもエレベーターにも繋がらないから…それで、わたしに“そこに連れてけ”とせがんできて」
「死にたいってことか?」
「わからない。そんな感じでもなさそうだったけど」
「元気いっぱいだもんな」
クロウリーが外に目をやると、男はちょうど「クソ!!」という捨て台詞と共に立ち去ってゆくところだった。
「善良に生きていれば必ずお召しがありますよって伝えたんだ」
「余計に怒ったろ」
「…どうしてわかる?」
「“善良”の二文字とは無縁そうだからな」
「うん…いや、まあ、そういう意味でも目指す場所としては正しいと言えるよね」
「はは、尤もだ」
「でもまた来たらどうしよう?何と言って諦めさせたものか…」
「どこに繋がってるのか教えてやったのか?」
「まさか!とにかく何も知らないし覚えもないってことだけ言って引き取ってもらった」
「酔っ払いじゃなきゃ薬でもやってんだろ。得体の知れない世界に行きたいだなんて…子供ならともかく」
「子供か…あながち間違ってはいないかも。最後には『合言葉かパスワードか、とにかく何か特別な鍵が要るんだろう、それを教えろ』って」
「天国へのパスワードか。おもしろい」
「おもしろくないってば…」
アジラフェルは男の姿が完全に見えなくなってからようやくほっと小さく息を吐き、この出来事を無かったことにするかのようにクロウリーの背に手を添えて部屋の奥へ促した。
クロウリーもそれに逆らわず、書店内の定位置であるカウチまで導かれると腰を下ろし、小さなキッチンに向かうアジラフェルの背中を見守った。紅茶を淹れるための湯を沸かすのだろう。きっと青い缶の紅茶だ。ほら当たり。ケトルを火にかけたアジラフェルが戸棚から取り出したのは深い青にほんの少し緑を足したような色の紅茶缶だった。比較的濃い琥珀色のアールグレイで、ベルガモットの中にほんのりオリエンタルな雰囲気の漂う香り。アジラフェルが自身の気分を落ち着かせようとするシーンによく出てくる茶葉だ。
「そんなに心配するほどのことか?たかだか不思議なエレベーターを見た程度のちっぽけな記憶のひとつやふたつ消しちまえよ」
「天国を望む者の記憶を消すっていうのは気が咎める」
「あいつはエレベーターの行き先なんて知らない」
「…そうだけど」
「まあ、その理由で言うなら、おれがそうするのが理に適ってるって話になるな」
アジラフェルはカウチの肘掛けに上体を乗り上げるようにして寝そべっているクロウリーにちらりと目を遣ったが、「…いや、それには及ばないよ」とすぐに手元のティーポットに視線を戻した。
それから、ケトルで温めている最中の湯をポットとカップにそれぞれひと注ぎ。アジラフェルの手の中でくるくると回されて陶器を内側から温めている。湯が沸いてしまえばあっという間に例の香りがここまで届いて、クロウリーの前のローテーブルには当然のようにソーサーとカップが二人分。
「もっと良い方法でエレベーターのことを忘れさせるってのは?」
「どうやって?」
「この世界に留まる理由を作るとか」
「ふむ…名案だけど、なかなか骨が折れそうだな」
「善良な理由じゃないならおれも手伝ってやってもいい」
「ん…まあ、もしまた来たら考えるよ」
アジラフェルが二つのカップに紅茶を注ぐと、先ほどの比ではない豊かな香りがにわかに広がった。そのうちひとつを取り、アジラフェルもまた定位置であるソファに腰を下ろした。
(…そういえば)
クロウリーはふと、アジラフェルに訊きたいことがあったのを今の出来事で思い出した。
「いっそ望み通り送ってやったらどうだ?」
「ええ?」
「おまえが連れて行く必要はないが。鍵やパスワードがあるんだったら教えてやれよ」
「きみまでそんなこと言って」
「あるのか?」
「無いよ」
「無いって?」
「そのままの意味だよ。大体天国には鍵もパスワードも…」
そこまで言って、アジラフェルははっとしたように固まった。対してクロウリーは自分の口角が持ち上がるのを感じていた。
「必要ない?」
「い、いや、そういうことでは…」
わざとらしいほどに目線を逸らしてカップを口に運ぶアジラフェルを見て、クロウリーは今度こそ確信した。
やっぱりそうだ。アジラフェルも知っている。
「やっぱりな。おまえも知ってるんだろう。天国の“パスワード”を」
アジラフェルは何も答えなかったが、むしろそれが答えになっていまっていた。おまけにどう誤魔化そうか一生懸命考えている顔まで見せている。
他の天使相手ならいざ知らず、このおれにそんな手が通用するわけないだろう。クロウリーはいよいよ愉快になった。
「おれに隠す必要はないだろ。特におまえのそういうところを美点だと思ってるおれにはさ」
「…待った、おまえ“も”って言った?」
「言った」
「もしかしてきみ、上に行ったときに何かの鍵かパスワードを破ったのか?」
「おれが向こうの規則に従う必要があるか?」
「…あるだろ。規則は規則だ」
「おれよりももっとまずいのはおまえだろ。なんでおまえが知ってるんだ」
「知ってるとは言っていない」
「隠すんじゃないアジラフェル。今更どう誤魔化したっておまえがパスワードを知っていることはもうバレバレだ」
「…ノーコメント」
「一体いつ破ったんだ?」
「ノーコメント」
アジラフェルはぎゅっと目を閉ざし、渋い顔でごくりと紅茶を飲み込んだ。せっかく丁寧に淹れたのだからもっと味わえばいいものを。クロウリーはくつくつと喉を鳴らして笑った。
天国には鍵も、パスワードなんてものも無い。だってそこにいるのは天使たちだ。見られたくないもの、或いは侵入されたくない場所があるのなら、ただひと言『許可を』と伝えておくだけでいい。善良で自己を持たない天使が機密文書を許可もなく見るわけがないのだ。
その事実を上層部以外で知っている天使、或いは頭の切れる賢い悪魔がいるとしたら、それはつまりそういった類のものに手を出したということだ。
「この不良天使め」
「きみだって忍び込んで同じことしたってことだろう。不良悪魔め」
「褒めるなよ、嬉しくて踊っちまうぜ」
しらを切ることを諦めたのか、自白同然の台詞でクロウリーを窘めるアジラフェルにクロウリーがうれしくならないわけがない。クロウリーは天井を仰いで笑ってから、ローテーブルに置かれたままのカップに手を伸ばしてひと口啜った。思ったほど熱くはなく、その温度の心地よさに一気に飲み干してやった。
最初から何も隠されちゃいない。現にこの前のことだってそうだ。地球にたった一人で派遣される程度のあの下っ端天使だって、曰く『閲覧権限を持っていない機密文書』とやらをその手にすること自体は難なくできていたし、表紙のどこにも閲覧禁止や機密文書の旨は一切書かれていなかった。見たいのならただそのページをめくるだけでよかったのだ。
のちに禁断の果実なんて大層な呼び方をされる木の実だって、当たり前にそこに生ってただけだ。食うべからずの看板も無ければ“禁断”の真意だって誰も知らない。不自然に開いた門の穴だって終ぞそのままだった。あらゆるものは誰かがいつの間にか言い出す規律よりも前にただそこに在る。もしかすると、“誰か”に望まれて。
何かが起こり、もしくは何かを起こしたとき、それが愚かな過ちだったとわかるのは、誰かがその罪を担ったときだけ。
だからさっきの男にだって一度試させてみればいいのだ。エレベーターに乗せ、何も疑わず、男にとっての天国を信じさせ、ボタンをひとつ押させてみればいい。そこから先は男次第だ。正しければ光の中へ、過ちであれば影のほうへ。行くべきところへゆくだけ。
強いて言うなら魂自身が鍵ということになるのだろうか。…いや、ちょっと洒落くさくて癪だな。
ともかく、天の門には扉もパスワードも無いが鍵と呼べるものはあると言えるということだ。もしそれで通れなきゃどうなるか、歯も生え揃わない幼児だって知っている。
地獄行きだ。
けれど、アジラフェルは天使だ。今日も明日も六万年後も。
その揺るぎない事実がクロウリーを心底満足させる。
決まりの悪そうな顔で紅茶を飲み干したアジラフェルがおかわりに手を伸ばしたのを見計らい、クロウリーは目覚めたときからずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「それよりいいのか?」
「何が?」
「十一時からベッドフォードで用事があると聞いた気がするが」
「…あっ!?そうだ本の買い取り査定…!」
アジラフェルは勢いよく立ち上がり、デスクに丁重にソーサーとカップを置いたかと思うと絵に描いたようにあたふたと身支度をし始めた。
その様子にクロウリーがまた笑ったのは言うまでもない。本人の意志はともかく天国への不正アクセス未遂をはっきりと目の当たりにしておいて、この天使にとってはそんなことよりも本のほうがよっぽど大事なのだ。
「ああどうしよう、五分前の電車に乗っているはずだったのに…!」
「電話して約束の時間をずらしてもらえよ」
「でも、次の電車を待っていたら随分遅くなってしまう」
「大袈裟だな」
「だって電車を二つとバスを乗り継いで行くんだ。少しずつずれて、すごく遅くなる。きっと一時間以上」
「たった一時間だろ」
「クロウリー…」
悪魔にそんな甘えたまなざしを向けて可愛く頼み事をする天使がどこにいる?
…と呆れはすれど、クロウリーには断れない。
自分の失態によるトラブルで慌てたせいですっかり用事を忘れ、のんびり紅茶なんて淹れているアジラフェルの抜けたところが、クロウリーにはどうしたってかわいいのだ。なんとかしてやりたいという気を起こさせる。まるで悪魔みたいなやつだ。その根幹にある原動力が一体何なのかをよく心得ているから、クロウリーはどのみち逆らえない。
今日もまたまんまと“なんとかしてやるか”という気になってしまったクロウリーは立ち上がり、馬の彫像に掛けていたサングラスを手に取った。
「わかったよ、アジラフェル。送ってやる」
「ありがとうマイディア、本当に助かる。お礼は必ず」
「何してくれるんだ?」
「えっと…」
「抱き枕。夜寝てから朝起きるまで」
「いいよ」
「三日分」
「もちろん受けよう」
「で、朝は紅茶じゃなくてコーヒーを淹れてもらう」
「とびきり濃いのを淹れてあげる」
「よし。安心しろ、三十分で到着だ」
「安全運転で」
クロウリーの隣に立ってそう戒めるアジラフェルはちゃっかり身支度を済ませていて、まるで最初からこういう予定だったかと錯覚しそうなほど自然な仕草で「それじゃあ行こうか」と書店をドアを開いてクロウリーを通した。
車へ向かうクロウリーの後ろで、アジラフェルは書店のドアにしっかりと鍵を掛ける。当然だ。ここは地球で、アジラフェルは鍵が必要なものだということを知っている天使である。
もしもアジラフェルの隠し事がこの店のどこかにあったとしたら、それはきっと厳重なセキュリティで守られていることだろう。表にきちんと『閲覧禁止』と添えられたうえで。