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山姥切〜禺に伝わりし逸話付与〜

2025-02-04 19:50:03

単体で読めます

キリシタン主シリーズ(https://privatter.net/p/11389579)に出てくる
長義と若き日のサーバー長の友情と苦難の話

長義せんせーは⓪の最初、②③⑤のラスト、④に居ます
⓪始まり(大和守安定編)→https://privatter.net/p/11218082
①刀色々
→https://privatter.net/p/11213162
②続編(鶴丸国永と祈りの旅路)→ https://privatter.net/p/11346386
③続編(大倶利伽羅と主の願い)→ https://privatter.net/p/11275650
④続編(長義と国広〜感動が繋ぐものたち〜)→https://privatter.net/p/11378888
⑤過去編 → https://privatter.net/p/11330710

禺、とは。
でく、人形を指す。つまり、操り人形を指す言葉。


《山姥切〜禺に伝わりし逸話付与〜》


日本刀の『名』と呼ばれるものには、次の三つがある。
銘、号、そして通称または俗称、だ。

銘とは、拵えから抜いた茎の部分に刻まれたもの。三日月宗近においては『銘:三条』が該当する。
ここには刀工の名や来歴や作刀年月日などが刻まれる。同時に複数の刀を打った場合、最も出来の良い傑作にのみ銘を刻み「真打」と呼び、それ以外の銘を刻まないものを「影打」と呼ぶことから、真打登場という言葉の語源ともなっている。
故に、刀工に傑作と選ばれなかった、という意味合いをもって、刀剣男士の中には、たとえば大倶利伽羅のように自らを「無銘刀でね」と皮肉めいた言い方をする者もいる。

次が号。これは逸話に由来する、銘に刻まれずとも代々歴史的に受け継がれてきた愛称で、逸話が途切れず伝承されてきた事を示す確固たる証拠でもある。
三日月宗近においては『号:三日月』が相当する。これもまた名刀の証といえよう。

そして、号と混合されがちだが、似て非なるものが、『俗称』だ。
これは、確固たる逸話の存在が証明されていないにも関わらず、それらと関係なく、いつの間にか人々の間で言い広まった呼び名、いわば民間伝承の通称のことを指す。これらは、所蔵元と関係の無い創作や誤解に由来することも多い。
たとえば、新撰組局長、近藤勇の愛刀『長曽根虎徹』を例に取るとわかりやすい。この刀は贋作であったため、本来は長曽根虎徹ではない。だが、彼がその贋作を虎徹であると信じ、それが後年まで語り継がれて有名となったため、現在も彼の愛刀は『長曽根虎徹』の『俗称』で呼ばれ続けているのだ。


山姥切長義。そして、写しである山姥切国広の、複雑な関係性の本質は。
実の所、この『銘、号、俗称』に濃縮されている。

山姥切国広は通称。銘は国広、号は山姥切。彼は、確かに長義が打った名刀の写しであり、それは揺るぎない。
だがしかし。山姥切長義、銘は本作長義、号は山姥切────では、ない。

山姥切長義には、号が無い。
『山姥切』は、号ではなく、俗称。

そう、山姥切長義には、『号:山姥切』を証明する歴史上の史実的資料が行方不明で、現在もなお、見つかっていないのだ。


「と、ここまでが前提となる歴史上の事実だな。そして、子を貪り食う山姥を斬ったという伝承の残る人間の元には、俺と写しの両方が共に所蔵されていたと思しき記録が残っている。故に、山姥を斬ったのはどちらなのか────という見解が、後年、言い伝える人々の間で曖昧になってしまった時期がある」

山姥切長義はいかにも講師然とした態度で、ホワイトボードを指し示しながら、理路整然とそう教えを授けた。

「故に、俺が山姥を斬ったという伝説、写しの方が山姥を斬ったという伝説、両者が歴史の中で混在してしまったことは事実だ。だが、斬ったのは俺、奴がその写し故に山姥切と号されるようになった、これが真実。俺が怪異斬りの力を有し、特殊な事例を除いて写しが持たない事実からも明らかだな」

ホワイトボードに書かれた『写し』の文字に大きく×印が書き加えられた。
そして対照的に、『本作長義』の文字には、大きく丸が付けられ、二重線でくっきりと強調される。堂々たる長義の態度には、揺るぎない自信と自負が滲み出ている。

「後年、本作長義が山姥切と号されていた時期を証明する資料が見つかり、現在は時の政府が厳重に保管している。故に、詳細な調査に基づく政府の公式見解として、この事実は教本にも明示され、審神者学校および政府研修プログラムでも皆が履修する内容となっている。黎明期に、山姥切長義オレたちと審神者と偽物くんとの間で、あまりにもトラブルが多発した反省を踏まえたものだな」

長義は指し棒をくるりと回し、それをパシ、と鞭のように手の中で小気味よく鳴らした。
講義の終わりを告げるその音を合図に、長義は指し棒をスルスルと小さく縮めると、落ち着いた声音で講釈を締め括った。

「さて、ここまで質問は?」
「大丈夫。でも、これは本題ではないね? でなければ、審神者ではない僕にわざわざ語ってみせる意義が無い」

その反応に長義は満足げに頷き、口元に笑みをはらった。

「その通り。話が早くて助かるよ。きみはとんだお人好しでとにかく鈍臭いが、頭の回転は悪くないね」
「それ、僕は褒めてるって分かるけど、他の人はそう思わないと思うよ、長義」
「きみに伝われば十分だろう」
「これだからなあ」

柔和な表情を苦笑に染めた彼と、すました顔の長義の間には、揺るぎない確信が横たわっている。
それは、神と人という絶対の隔たりを覆すほどの、友情という名の確固たる無形の財産だ。

「さて、ここからが表に出せない裏の話。お察しの通り、本題だ」

彼の青い瞳が鋭く細められ、長義の表情がたちまち厳しさを帯びた。
先ほどまでの和やかな雰囲気は一変し、部屋の空気が固く張り詰める。低い声が、重く響く。

「このところ、研究棟の方が、急速に政治的な力を付けてきているのは、きみも察しているね」
「うん。僕のような立場の者には中々情報が入ってこないが……察するに、あまり良くない研究をしているみたいだ」

いささか言葉を濁し、慎重に言葉を選んだ彼に対し、長義は机にドンと片手を突き、ためらいなく事実を明らかにした。

「単刀直入に行こう。極秘事項だが、政府は近年、刀剣男士から抽出した記憶や逸話を、別の刀剣男士に流し込む技術を確立してしまっている」

その言葉が落ちた瞬間、空気が凍り付いたようだった。

……!!」

大きく瞠目し、言葉を失う。
痛いほど重い沈黙が場を支配し、やがて、ようよう絞り出したような様子で、彼は苦しげに言葉を継いだ。

「それは、刀剣男士を使って、その、キメラを造る、という意味かい」
「おおむね間違っていない。顕現実験用本丸で複数の成功例が出ている。本来の道筋ではない逸話を付与することで能力を強化する、と言えば聞こえはいいが、実態はきみの言う通りさ。失敗作として秘密裏に処分された刀剣男士の数も計り知れない」

長義はあまりに非情な事実を淡々と告げた。
明かされた現実は、呑み込むにはどうしようもなく無情で重い。利用され、使い捨てられた刀剣男士たちを慮って青い顔で動揺した彼に対し、長義は手を緩めることなく事実を付け加えた。

「だが、本質はそこじゃない」
そう前置きした長義の表情が、より一層険しくなる。
長義は深々と嘆息すると、ひどく重い頭痛を堪えるように、自らの銀髪を片手でぐしゃと乱した。

「問題なのは、刀剣男士たちが無理に強制されているのではなく、同意契約を自ら結んでしまっているということだ。これでは手を出しようがない。長期化する歴史修正主義者との戦いを終わらせるためであれば、と審神者を亡くして遺された刀剣男士たちが進んで実験台になっている」
……なんてことを」

彼は愕然として、二の句を失ったままあぜんとした。
モルモットと言い換えた方が正しい刀剣男士の扱いに、長義は皮肉げに肩をすくめた。

「研究棟のご自慢の成果、ってやつさ。そこで、山姥切長義オレたちの逸話を写しに付与し強化する試みがなされた。公の見解でないとはいえ、山姥を斬ったのは奴である、という民間の伝承は既に実在するからな、それを強化することで山姥切長義オレたちの力を食った、強い写しを生み出そうとした、というわけさ」

呆れ果てたと言わんばかりに長義は首を左右に振った。

「全く、神をも畏れず、よくやるよ」

皮肉げに口角を歪めた長義の言葉の奥には、拭い切れない不快感がこびりついている。
苛立たしげに組んだ腕を指先でノックした長義は、壁に背を預けて足を組みながらこう告げた。

「その実験の結果は────まあ、昼飯が食えなくなるだろうから、伏せておこうか。碌なもんじゃないね」

長義は高慢に鼻を鳴らし、酷く不快で我慢ならないものを見たように、苦々しく舌を打った。
……馬鹿なやつだ。碌なことにならないと、分かっていただろうに」

吐き捨てた静かな独白の奥には、消せない怒りが潜んでいる。
煮えたぎるような激情を宿した青い瞳を閉じ、束の間、長義はまるで黙祷するように口をつぐんでいた。

「計らずも政府かれらは、自ら証明してしまったというわけさ。本歌の伝承を写しに無理矢理被せれば、どんな破滅的な結末を呼ぶか、という自明の理をね」

皮肉げな冷笑が、ずしりと空気を重くする。
破滅的な行き着く先を予感し、彼はごくんと生唾を呑んで恐る恐る問いかけた。

「もしも、この先、山姥切長義きみたちの伝承まで無理やり歪まされてしまったら、どうなるんだい」
「当然消えるさ、俺も写しも」

わかりきった答えを口にするように、あくまで淡々と長義は返した。
長義は壁に背を預けたまま、ふっと顔を上げて遠くを見た。皮肉げにはっと息を吐き出す。

「前提となる存在の根幹が書き換わるんだからな。俺ではない山姥切長義が目覚め、奴ではない山姥切国広が目を覚ます。やがて今の俺も写しも、最初から居なかったことになり、何事も無かったように政府の歴史が修正される、だろうね」

悟ったようなその横顔には、苦い諦観が滲んでいる。
人の子と比べればあまりに長大な付喪神の寿命といえど、決して万能ではないのだと。
存在の揺らぎは、刀剣男士にとって致命的だ。

「政府はそれを歴史修正主義者から保護してるから、資料を表に出せないんだ。詳らかにすれば、その資料の存在そのものが、歴史修正の格好のターゲットになるから」
……!!!」

「つまり、俺たち山姥切長義の存在は、政府が厳重に保管するその資料を護り切れるか、ということとほぼイコールで繋がっている。俺たち山姥切長義が、黎明期から時の政府に力を貸している最大の理由の一つだよ。もちろん極秘事項だ。俺も人間に話したのはこれが初めてだよ」
……どうして。いくら僕がきみの友でも、今の話は聞いてはいけないものだろう」
「きみには忠告しておかなければならないからさ。万が一、俺の存在が歪んだら見捨てて逃げろ、とね。きみがきみである限り、たとえ俺が折れても、俺以外の山姥切長義もきみを無碍にはしないだろうと確信できるが……その『山姥切長義』そのものが歪んでしまえばもう後がない。そうなったら、俺との縁を即刻切ってきみだけ逃げろ、と固く忠告するために教えたんだ」
「それはっ」
「きみの理念は尊いさ。きみが創る未来に、俺は総てを賭けるとそう決めた。その誓いに嘘は無い。だが、俺たちは思っている以上に薄氷の上に立っている」

長義は神妙な顔でそう告げると、次いでふんと鼻を鳴らした。

「そら、きみが暗殺されかけた回数を言ってごらん」
……四十八回」
「何とかここまでは、きみを殺させずに連れて来れたが、最近、俺の逸話に纏わる周辺がどうにもきな臭い。跡形も無く消え、消息不明になった山姥切長義が二振り出た。誰も彼らと連絡が付かないんだ」
……!!」
「戦わなければならない敵は、いつでも俺たちのすぐ隣に潜んでいる。だから、きみの唯一の武器が俺だけである以上、俺が折れたら別の山姥切長義へ、そして俺が消えるなら即刻政府から身を隠せ。きみは俺と縁が深すぎるから、全てが改竄されるまで少しぐらい時間を稼げるはずだ。その時、判断を誤らないように。いいね?」
…………
「神に対する沈黙は金、か。きみは賢いが馬鹿だからね」

厳しい表情を引っ込めて、長義はどこかほろ苦い笑みを浮かべた。
長義は、誰かを見捨てるには情に厚すぎる自らの友のことをよく知っている。
細めた青の視線に優しさが宿り、無言の労わりを込めてそっと肩に手が置かれる。

「きみの気持ちは痛いほど理解できるさ。が、分かって欲しい。俺が跡形も無く消え失せる、そんな最悪の未来が来た時、友一人すら逃がせなければ、俺はとんだ鈍だろう」

長義は友にまっすぐ向き直ると、迷うことなく静かに続けた。

「俺という名刀の結末を、そんな鉄屑にしないでくれ。分かってくれるね?」
…………
「わかってるさ。全部最悪なもしもの話だ」

長義は軽く肩をすくめ、ぽいと指南棒を放り出すと、すれ違いざまに、唇を噛む友の額に軽くコツンと拳を当てた。

「さて、そろそろ時間だ。次の仕事に取り掛かろうか。崩壊した本丸の後処理だったね」
「うん」
「何度やっても後味の悪い仕事だが、まあ、誰かが弔ってやらねばね。行こうか」





「これは酷いな」

腐臭の漂う本丸の跡地に降り立った長義は舌打ちした。
生存反応、および顕現を解かれて休眠する刀剣男士の反応は無い。
間違いなくここは、全てが息絶えた死の国だった。

「最期は祟り神まで出したのか。この本丸の主とやらは、いったいどれほど刀剣男士を虐げたのやら。神をも畏れないというのは本当に始末が悪いな」

隣で長義の友が、耳まできっちり書かれた魔除けの真言に護られても、なお漂う強烈な臭気に、気分が悪そうに「おえ」と嗚咽した。

「無理せず、結界の内側で待っていてもいいんだよ」
「いや……

続く言葉を吐き気の中に飲み込んで、彼はただ首を横に振った。
誠実すぎる友に、長義は眉を下げて「強情っぱりめ」と優しく片目をすがめた。

「仕方ない、早めに終わらすとしようか」

ぶわっと神気を広げ、挑発をかける。
中で蠢く『モノ』が、鎌首をもたげた気配が分かった。

「怪異渦巻く強者どもが夢の跡、か。まあ、これも山姥切の力を持つ者の務めだ。偽物くんには荷が重い」

長義は銀布を払うと肩をすくめた。

「数ある刀剣男士といえど、この水準の怪異を真っ向から切り伏せられる刀は数えるほど。その内の一振りなのだから、汚れ仕事が回ってくるのも致し方ない……といったところか」

ぐちゃ、ぐちゃ、とまるで生肉を喰らうような耳障りな音がする。
長義は振り返ることなく、ゆっくりと刀を抜いた。

「怪異に呑まれたかつての刀剣男士つわものどもの骸よ、この山姥切長義が土に還そう」

銀の剣が煌めき、ゆっくりと弧を描く。

「哀しくも本霊に還ることすら叶わなくなったきみたちの還るべき土を、水を、火を。俺が思い出させてあげるとしよう。恨むなよ」

うぞうぞと八百の腕を生やしながら、大口を開けた黒い塊が、たちまち長義をバクリと飲み込んだ。
瞬間、その腹が破裂し、中から長義の刃がギラリと煌めいた。

「願わくば、塵と化した骸の砂が、やがて静かに眠る海へと至らんことを」



血振りした長義が、その場の『モノ』を全て切り伏せた証拠に、ゆっくりと納刀した。
「終わったよ。記録は?」
「うえっぷ。こっちも、終わったよ
「では火葬に入ろうか」

長義と彼が手早く準備を広げていく。
哀しいかな、この手の仕事はすっかり慣れたものだった。

それだけ多くの本丸が、今なお真っ当な道筋から外れ、崩壊の結末を迎えている。
逆に言えば、人が神を使役する、などという捩れの果ての悲惨な末路など、深く考えずとも珍しくもない、ということだ。

長義の友は、隣で火葬の準備を終えると、ほろほろと涙を流しながら骸へ手を合わせている。
毎度のことだというのに、こればかりは何度やっても慣れないらしい。

長義が火のついた松明を掲げ、静謐な声を上げた。
「では、葬送に手向けを」
「次に貴方様が呼ばれる暁には、この国が貴方様を正しく祀る国となっているよう、微力ながら誠心誠意努めます。どうかそれまで、安らかにお眠り下さい」

長義は、ゆっくりと松明を手放した。
炎が燃え広がっていく。

痕跡が浄化されていく。
このような無惨な結末を迎える本丸が一つとして無くなるように、彼はその人生を賭けると言ったし、長義もまたそれに応えてここに立っている。
いわば、こういった本丸は、自分たちを繋ぐ原点でもある。

炎でパチパチ、と木材が爆ぜる音の中
哀しげに手を合わせ続ける彼の肩を、慰めるように長義は軽く叩いた。

「さ、気晴らしに安酒でも買って帰ろう。きみの舌は安いからな」
「励ましがいつも一言余計なんだよなあ」

苦笑した彼は荷物をまとめようとしたが、途中でふと顔を上げ、奇妙なものを見たように片目を細めた。

「長義、ちょっと。……あれを見てくれないか」
……? おかしいな、あの部屋だけ火の手が回っていない?」

長義は眉を顰めた。

「妙だ。きみは下がっていろ。確かめてくる」

友を結界の内側に下がらせると、長義は素早く浄化の火の内側に潜り込んだ。

「あれは……!?」

その血塗れの部屋に物言わず落ちていたのは。
黒拵えに青染めの下げ緒、他ならぬ山姥切長義そのものだった。

「なぜ山姥切長義オレがここに。この本丸に俺の派遣は無かったはず……

長義は安否を確かめるため、懐から白ハンカチを取り出し、その黒鞘に掛けて手に取ったが、その瞬間、長義は愕然とした。

「!? 軽い!?」

あまりに虚ろな手応えに、長義はたたらを踏んだ。長義は素早く思考を巡らせると、さっと顔色を変えた。
「まさか」


長義は、その黒拵えに青い紐の鞘を抜いた──が、そこにあったのは空虚な手応えだけだった。

残っていたのは拵えとはばきと鞘だけ。
肝心の中身の刀身は存在せず、空っぽだった。

折れたわけでもなければ、砕けたわけでもない。

まるで、最初からそこには、何も無かったみたいに。

「これは
ぞわっと背筋が粟立った。
不吉な予感が這い上がってくる。まるで長義自身の征く先を暗示するような。

その瞬間、長義の足元が急に光り出した。
術式が発動し、大量の血液の下に隠された陣が輝く。

「!?」
長義は咄嗟に飛び退こうとしたが、遅かった。
発動した術式で出口は封鎖され、足元からうぞうぞと術式の墨文字が、長義の足から表面を這い上がって絡みつき、長義の頬まで侵食する。

「しまった、これは!!!」

全てを光が覆い、何も見えなくなった。



「長義!? どうした!? 長義! 山姥切長義!!」
インカムが機能しない。通信システムにノイズが入って使い物にならない。
声を転送するべき対象に『NO DATE(対象無し)』とだけ表示され、不快なノイズが走り続けている。
おかしい。長義に繋がるはずの政府の認証コードが消えている。

自分一人では、火葬の炎の中を進めない。火の手の届かない結界の内側で友を待つ他無い。

固唾を飲んでひたすら待ち続けていると、炎の中から、ゆらりと長義の影が現れて、彼はほっと胸を撫で下ろした。
「長義、どうした!? いったい何が……?」
「逃げろ」
「え」
「逃げろッ!!」

瞬間、長義がタックルするように、友を伏せさせた。
先程まで頭があったその場所に、ガチン、と巨大な歯が虚空を噛んだ。
ぶわり、と黒い歪な影が通り抜け、政府の転送ゲートの制御装置を噛み砕く。
「ゲートが!」
「くそ、嵌められた!!」

友を背に庇い、長義は刃を振り被った。
一閃、銀の太刀筋が走る。

だが、黒い歪な塊は、長義の刀を平然とすり抜けてしまった。

長義の太刀筋は、虚しく空を斬った。
絶望を噛み締めながら、長義は顔を歪めた。
「力が使えない!」




長義の銀髪の一部が、まるでノイズでも撒き散らしたみたいに、金色に塗り変わっている。

「長義、髪が!?」
「俺の逸話が写しに喰われかけてる」
「中で何があったんだ!?」
「話は後だ!!」

長義は、友を俵抱きに担ぎ上げると、本丸の境界外へと一目散に遁走した。

明らかなことは、転送ゲートを潰された今
長義は友と共に、この怪異渦巻く本丸跡に、無力なまま閉じ込められたということだった。

「これも中央の罠かい!?」
「くそ、くそ!」
追手をなんとか振り切り、本丸を取り囲む裏山の中に身を隠した長義とその友は、火の手の届かぬ木の影にずるずると座り込んだ。

「はっ、はっ
「長義!? しっかり!」

ゼイ、ゼイ、と長義の息が上がる。
明らかに様子がおかしい。普段の長義であれば、人一人どころか、車一台持ち上げたところで、汗ひとつ流さず平然としているはずなのに。


「やられた」
「中で何が」
「記憶を流し込まれた。血みどろの畳の下に術式が仕込まれていたんだ。ご丁寧に隠匿術を重ね掛けして、発動と同時に封じられた『アレ』も出てきた。俺が力を使えなくなるのを見越したみたいにね」
「記憶? まさか、例の逸話付与の!?」
「そのまさかさ。こうも早く手を打ってくるとはね、はは、余程中央は、俺が邪魔らしい」
「誰の記憶を入れられたんだ!?」
「山姥切長義、さ。ただし、────存在ごと消滅した、絶望した山姥切長義オレの記憶をね」
「────!!」

「政府の最重要機密保管庫に、極秘に呼び出された長義オレの記憶だった。幾重にも張り巡らされた結界のその奥、中央の最高幹部の人間しか入れない機密文書保管庫の奥に、それはあったよ。黒漆に青、金粉の撒かれた絵巻箱、俺たちの号の存在を証明する例の機密文書が保管されている箱だった。間違いない」

長義はギリッと奥歯を噛み締めた。

「にも関わらず、長義オレが開けたその箱には、中身が無かった」
「は……?」
「空だったんだよ。つづらの中身は虚だった。時の政府が発見した歴史的資料、そんなもの、最初から無かったんだ。仕組まれてたのさ、無いものを有ると公表していたんだ、政府は。俺たち山姥切長義に逆らえない協力を取り付けるために!」

ぞわ、と背筋が粟立った。

今の話が本当なら、つまり。
政府は存在しない『山姥切長義の号が存在する証拠』をでっち上げることで、長義たちが『政府の保管する証拠を護らなくてはならない』状況を作り出し、彼らに協力させていた、ということになる。

最高機密であるはずのそれを、自ら山姥切長義に明かしたということは。


「はは、してやられたよ」
長義は震える手で、ぐしゃ、と前髪を握り潰した。
「なら、俺たち山姥切長義は、いったい何のために!」

ぐら、と長義の頭が揺らいだ。
樹の幹にぐったりともたれかかったまま、真っ青な顔色で浅い息を繰り返す長義に、彼は慌てて肩を支えた。

「記憶ならある。山姥を斬った確かな記憶が。だからこそ俺は、俺、俺こそが、長義が打った本歌、山姥切、そのはず」

震える声で、長義は細かく痙攣する両手を目の前に掲げた。

「なら、俺の記憶は何だ? 証拠が無い、箱の中身は空? 時を遡る技術を持つ政府がくまなく調査した結果がアレということは、そんなの」

長義の青の瞳孔が、針のように細くなった。

「歴史のどこにも、山姥を斬った事実が無い、という揺るがぬ証拠じゃないか」

政府が突き付けたのは、長義の存在意義そのものを破壊しようとする行為だった。

「なら、この記憶は? 山姥をこの刃で絶った記憶は? 偽り、間違い、空想、創作? 物語の記憶を史実だと思い込んでいる刀剣男士は確かにいる、だが、俺は違う、違う違う違う、はず、はずだった、それが」

「俺は、誰だ? 山姥切でないのなら、ここにいる俺は? なぜ山姥切として人の子に呼ばれた? ……はは、そういうことか」

長義は狂ったように笑い声を上げた。

「は、はは。中央の狸どもが、こぞって山姥切長義を重宝するわけだ。連中、俺たち山姥切長義を、永遠に都合の良い形で管理、維持するつもりなんだ」
「な!?」
「空の箱は死刑宣告、不都合な山姥切長義は存在ごと否定し消してしまえば、『山姥切長義』は永遠に連中の都合の良い駒だ」
!!」




銘、本作長義を『山姥切』と呼ぶことはできるが
それが『山姥切長義』と言えるかは、歴史上、極めて曖昧だ。

この曖昧さこそが、政府の付け入る隙だった。
彼らは『伝承の不確実性』を利用して
刀剣男士を都合よく管理しようとした。

長義は、政府の思惑によって『存在を否定される』という極限状態に置かれた。

刀剣男士は物語によって顕現する。それを否定されることは存在の否定、消滅と同義の自殺行為だ。自分の存在に疑問を持った長義は、持っていたはずの怪異斬りの力すら使えなくなり、友と共にこの怪異渦巻く不浄の地から逃げられなくなった。
全て仕組まれていたと気付くのが、あまりに遅すぎた。

政府による逸話付与の技術は、記憶や逸話を操作することで刀剣男士を強化する。それは同時に、付喪神の根幹を揺るがすものだ。伝承が歪められれば、刀剣男士は存在を維持できない。
しかし、長義が陥れられたのはそれ以上に根深い『伝承の不確実性』を突かれる罠だった。
山姥切長義という名は確かに存在するが、それを支える「物語」自体が脆弱ならば、その名の力を奪うことは容易い。政府はそれを利用して、都合の悪い長義の存在そのものを「否定」しようとした。

「厄介なのは、今俺が入れられたのは、紛れもなく『山姥切長義』の記憶だということだよ」

だから否定しようがないのだと、長義は自らの顔を片手で覆って、「はは」と乾いた笑い声を上げた。

「奴らの望みは、俺の二階級特進、といったところかな。わざわざこんな手の込んだ舞台装置を用意して、殉職の称号を用意してくれる腹積りらしい」
「そんな!」
「ダメなんだよ、俺たち付喪神は。神座に連なるものは、願われれば応える習性を持っている。たとえそれが、己の消滅であってもね」

ふら、と長義は立ち上がると、友だけを木のうろの中に押し込めた。
親指を噛みちぎった長義が、自らの血で書き始めたのは、目眩しの術式だった。救難信号を出させて友だけをこの場所から逃がそうとしていることを察した彼は、長義の手を押さえつけた。

「長義? 待ってくれ、どうするつもりだ!? 長義!?」
「ここで俺が消えるということは、本霊に記憶を残して警告もできない、か。はっ、ますます良くできている。なるほど、これが中央の狸どもの奥の手か」
「長義!? 答えてくれ、長義!!」
「古狸たちが処理したいのは俺だ。だから、俺が折れればきみだけは助からないこともない、か。分が悪いが、致し方ない。それに賭けよう。時間は俺が稼ぐ」
「だめだそんなの! 一緒に帰ろう!? ね!?」
「残念だが、無理だね。……よく見てくれ。もう、存在が消えかけてる」

ハッとした彼は、長義の手足が透けているのに気付いて息を呑んだ。
いつだって頼もしかった二の腕の向こうに、山向こうの景色が透けている。
「──ッ!!」

長義は、ふっと表情を緩め、儚く微笑んだ。

「きみと見る夢は嫌いじゃなかった。……道半ばですまない。できれば次の山姥切長義とも、縁を結んでやってくれ。きみは生きろ」
……ッ!!」
彼は去ろうとする長義にしがみついた。
長義は背を向けたまま「……離してもらおうか」と低く告げた。彼は「いやだ」と叫んだ。
「離せって」
「いやだ!!」
「離せって言ってるだろ!! 死にたいのか!!」
「嫌だ!!!」

「今すぐ逃げて、次の俺に警告しろ!! きみが死んだら、誰が俺を語り継ぐ!?」
「僕の友はきみだ!! きみが山姥切長義なんだ!!」

彼は長義に必死に叫んだ。
全身で縋り付くように引き留める。わずかでも力を抜けば友が目の前から永遠に消えてしまうと知っていて、なりふり構わず必死に。

「僕一人じゃダメかい!?」
「なにを」
「証拠が無いとダメなのか!? きみの伝承は、僕が語り継ぐのでは足りないのか!?」

長義は思わず続く言葉を失った。
人の子は声を枯らして叫んだ。

「助けてくれたじゃないか、何度も、何度も、何度も! 僕が触れることすら難しい脅威を斬って、恐ろしいものから僕を救ってくれたじゃないか!!」

「それは、山姥を斬るのと何が違うんだ!?」
「それ、は」

「僕が語り継ぐ!! きみがどれほど素晴らしい刀か、未来の先まで!!」

「誰かの思惑なんて知ったことか!! 誰が否定しても、きみはここにいる、そうだろう!?」

「誰が後ろ指をさしたって、僕は友を誇るのをやめたりしない!! 僕の友はきみだ、きみなんだ!! 他の誰かではダメなんだ!!」

「きみはこんなところで折れるような刀じゃない!! きみが、きみこそが、長義が打った傑作!! きみがそれを疑っちゃダメだ!!」

彼の心の総てで問う、長義の存在を賭けた叫びが
この身の鋼にぶつかって、キンと高らかな共鳴を響かせたのがわかった。

「山姥をも斬る刀!! きみが山姥切長義だ!!」




パキ、と鎖が砕ける音がした。






怪異の腹が爆発する。
斬り裂かれたこれが、最後の一体だった。

刀を血振りし、長義は、自分の手をじっと見つめた。

先程まで上手く振るえなかった力が、問題なく使えている。
一度揺らいだ長義の力が、明確に安定した証拠だった。

ここにはもう脅威は無い。全て自分がこの手で斬り伏せた。

「俺は、自分で思っていたより単純だったらしい」
掲げた自らの片手を、長義はぐっと握り込んだ。
「たった一人の信仰で十分なんだ。それが俺の存在の総てを形作る」

長義は今まで、自らの存在の証明のため、政府に力を貸して来た。
自らの手で、本作長義こそが山姥切であると啓蒙し、証明し続けるために。

だが、長義自身すら証明できなくなった存在を証明したのは、たった一人の人の子の叫びだった。
それが長義を、ゆらぐ存在の淵から引き戻した。

「神の力とはすべからく信仰──つまるところ、信じる力の中にある」

低く響く声が、夜の静寂を震わせた。
虫一つ鳴くことの無い、何もかも死に絶えた静寂の中、山姥切長義は微かに目を伏せ、手の中の刀を眺める。
磨き上げられた白銀が月光を映し、淡い光を揺らめかせた。

「人と違って俺たち付喪神は、それが揺らげば死に直結する。自分の存在に疑問を持つのは、その瞬間に自らの首に縄を掛けるに等しいんだ」

言葉と共に、長義はゆっくりと息を吐いた。

八百万やおよろずの神のひしめくこの国では、日の出と共に数多の神々が生まれては、日没と共に消えていく。付喪神とて例外ではない。

信仰の薄れた神々が忘れ去られるように。
人々に拒絶された神は、消えゆく定めから逃れられない。

「人の子は神を畏れる。敬う者もいれば恐怖し逃げ出す者もいる。自然なことさ。だが、神をも畏れぬ者というのは────陥れようとするんだ。俺たち神をね」

夜風が、長義の銀髪を静かに揺らす。

人の子が神を忘れていくのは自然の摂理だ。付喪神ですら、永い刻や災害の渦を渡っていく中で、逸話の記憶がところどころ虫喰いのように曖昧になるものは多い。
まして、付喪神より遥かに短い時を渡る人の子では無理も無い。

だからこそ自分たち山姥切長義は、人の子の忘却に抗うために、人の子の側に立ってきた。
それを、こうも手酷く利用されるなどとは思わずに。

「中央の狸どもは、首輪を付けた気でいるらしい。長義の手で打たれし傑作、銘は本作長義、号は山姥切──その伝承の不確実性を突き付けて、不都合あればいつでも力を奪い無力化できる、と」

は、と長義は小さく嗤った。

「もしも俺に審神者が居れば、それをよすがに何とか帰ったかもな。なるほど、道理で、この事実あっても山姥切長義オレが消えないわけだ」

長義は自重気味に言葉を継いだ。

他の刀たちと違い、自分たち政府所属の刀は、政府の派遣を通した制度でしか、審神者を持つことが許されない。
今思えば、この仕組みすらも、審神者と縁を結んで存在を強化した個体が必要以上に増えぬようにするためのものだと分かる。
まるで、家畜の数を管理するかのようだ。

「審神者を持たぬ俺は、なす術なくまんまと罠に嵌った訳だ。全く、人の子というものは、予想だにしないことをしてくれる」

長義はゆっくりと刀を鞘に納めた。
キン、と高く鍔が鳴る。澄んだ音は、もう迷っていない証だった。

「狸たちも予想外だっただろう。入念に仕込まれた古い毒が、こんな若者にそっくり飲み干されてしまうとはね」

長義はゆっくりと振り返った。
投げかけた視線の向こうで、自分を固く信じる友が、自分を待っている。

どうするのか、と友の視線が真っ直ぐに問う。
長義の進む茨の道を、共に歩くと既に決めた眼だった。

「時の政府には、俺以外にも山姥切長義がまだまだ多く日々を過ごしている。首輪が外れたと知られれば、中央は俺たちを政治から外してすかさず処分するだろう。知られる訳にはいかない。俺たち山姥切長義には、この先も共に伝承を語り継ぐ人の子と審神者が必要だ」

信じた者がいたから、長義は今ここにいるのだ。





「さて、後始末だ。まずは狸どもの目を誤魔化さなくてはならないね」

焼け跡の中から、目当てのものを回収し、長義は丁寧に煤を払った。

「これを使わせてもらおう」
「それは?」
「行方不明だった山姥切長義────の、既に消えた骸さ。拵えの中身は空だ。俺たちと同じように、ここで罠に掛かったらしい」
!!」
「もう存在が完全に消えてしまっている。残滓すら残ってない。残念だが、手遅れだ。俺たちにできるのは、彼の無念を引き継ぐことだけだろう」

彼は、わなわなと唇を震わせると、両膝を突いて崩れ落ち、ぼろ、と大粒の涙を流した。

「こんな!」
「きみを友に持たなかった俺の無念だ。どうか未来に連れて行ってやってくれ」

唇を固く噛んだ彼は、泣きながらこくんと頷いた。
隣に並ぶと長義は、慰めるように彼の頭を自分の肩へ引き寄せ、消えた山姥切長義のためにしばし黙祷した。

「思った通りだ。識別タグが消されている。これを利用させてもらうとしよう。連中の策を逆手に取る」
「どうするつもりだい」
「入れ替わるのさ。山姥切長義同士でね。俺はここで殉職した、そう装って狸どもの追及をかわす」

遺された拵えを利用し、自らの死を偽装する。
そうして政府の目を欺くのだ。

「きみはこの空の拵えを持って救援隊に伝えるんだ。山姥切長義は消えた。怪異と差し違え、そのまま力尽きたように目の前で消え失せ、この拵えだけが残った、と」
「きみは?」
「俺はこのまま神域に身を隠し、適度な所で離脱する。大丈夫だ、力が安定した今なら問題ない」

そう言って長義は顎に手をやると、考えを巡らす仕草をした。

「きみは、そうだな、数日喪に服したら、突然、仕事を無断で欠勤し、親しい友を失ったショックに耐え切れず遁走する、としようか。それを偶然、別の山姥切長義に保護され、そのまま療養に入る。この筋立てで行くとしよう」

手を、と長義は友に告げる。差し出された手のひらに、長義は血文字で術式を描いた。
長義の血は光を放つと、するりと彼の手の中へ術式ごと消えていった。

「符丁は憶えているね。帰還したらすぐ鳩を飛ばすんだ。伝えてある通り、別の長義オレがきみを保護しに来る手筈になってる。裏工作が得意な連中さ、後は上手いことやるだろう。連中が別の身分を用意したら、俺も表立ってきみと合流しよう。きみが傷心から職場復帰する頃には、殉職した俺の代わりに『別の俺』が派遣されている、というわけさ」
「わかった。次にきみと会う時は、初めまして、というわけだね」

入念に打ち合わせを済ませ、支度を整え、準備を終えると
長義は身を隠し、彼は特殊通信用の発煙筒に火を付けた。到着した救助隊に友が保護されたことを確認すると、長義は神域の奥へとするりと消えた。






指定の公園のトイレの個室に入って待つと、コンコン、と扉が五回鳴った。
符丁だ。慎重に四回、ゆっくりと鳴らし返す。
「失礼、どこか気分でも?」
扉の向こうから、友と瓜二つの声がする。彼は慎重に答え返した。
「左眼の奥が痛んで」
「それはいけないね。良ければ俺が看よう」
ガチャ、と鍵を開けた瞬間、見知らぬ山姥切長義が素早く半身を滑り込ませて「しっ」と唇に指を置いた。

「話は後だ。きみはここへ」
彼が抱える大きなスーツケースに、無言で素早く身を隠す。彼は平然とジッパーを閉めると、まるで何も入っていないような軽やかな足取りでその場を後にした。

スーツケースの中に入ってしばらく、漏れ聞こえてくる声に耳を澄ますと、さらに別の長義が彼を持ち去り、車に詰めて移動しているようだった。
体感で一時間ほど、運転の振動が止まり、荷物がトランクから下ろされた。
どこか屋内に入った気配がして、階段を登る足音がすると、やがてスーツケースのジッパーが開かれた。光が差し込む。
「もう安全だ、出てきて構わないよ」
「ぷはっ!!」

問題なく息ができるように空気穴が用意されてはいたが、緊張で息が詰まった。
よく知る友とは違う山姥切長義が手を貸し、スーツケースから出るのを手伝う。友好的に左手が差し出された。
「きみを預かることになっている。知ってるだろうが、山姥切長義だ。山城国サーバーに所属している」
「よろしくお願いします」
握手を交わしながら、ふと顔を上げた。
「失礼、間違っていたら申し訳ない。以前、中央の会議でご一緒したことが無かっただろうか、山姥切長義」
「驚いたね。たった一度挨拶しただけじゃないか。どうやって見分けたんだい?」
「利き手が塞がらないように左手で握手をした後、少しだけ外側に捻ったでしょう? 僕の知る長義には無い癖だから憶えていたんです。勘違いじゃなくて良かった。お世話になります」
……なるほど、別の俺が気に入るわけだな。頭のキレる者は嫌いではないよ」




カツカツ、と人気の無い廊下に足音だけが響く。
だが、向こう側から歩いてくる白い衣の幽鬼には足音がなかった。

ふわりと白絹が宙を泳ぐ。
政府の鶴丸国永は、黙ってすれ違ったその瞬間

刀を一閃、長義の首筋へ振るった。

ガキン、と固い音がする。
「おいおい、驚いたな。幽霊に影があるぜ」

長義は刃を受け止め、正面から鶴丸国永を睨んだ。
ギリギリギリ、と鍔迫り合いが拮抗する。

「へえ、山姥切長義きみたちはずいぶん仲が良いんだな。ふうん、組織立って動いているのか。面白いじゃないか」

頭の切れる男だ。少ない情報から多くのことに既に目星を付けているらしい。
長義が睨み付けながら黙っていると、鶴丸は口角を皮肉げに吊り上げた。

「残念、鶴丸国永オレたちはダメだな。同族嫌悪ってやつかね、きみらみたく組織を組んだところで、すーぐ勝手に動いて破綻するのが目に見えてる」

享楽主義も考えものだなあ、とのんびり声を上げた鶴丸が、じろりと冷たい視線だけをこちらに寄越した。温度の無い声が落ちる。

「人間は騙せても刀剣男士は騙せないぜ?」
「わかっているさ。特にお前は必ず看破するだろうと思っていた」
「で? どうするんだい? 口に戸でも立ててみるか? それとも山梔子くちなしでも植えて回るかい?」
無意味な抵抗か、際限の無い実力行使か。好きな方を選べとばかりに、鶴丸国永はゆったりと冷笑した。長義は鍔迫り合いを続けながらこう返した。
「驚きを提供してやっただろう。黙っていればこの先もっと面白いものを見せてやる」
「なるほど、くすぐられるね」

酷薄な目が、冷たい光を湛えたまま、にんまりと笑う。

「いいねえ、期待外れじゃないことを祈ろうか」

ひらりと白裾が翻ったかと思えば、そこにはもう誰も居なかった。


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