@ayame0601s
土間を前にして、緊張を落ち着かせるように深呼吸した。
髭切さんの髪を乾かした後、膝丸さんに一言伝えてから、夕餉の支度をするために土間へ足を運んだ。土間に入るのは、随分と久しぶりな気がする。
緊張していた。彼らをきちんと祀り直そうと決意してから、初めての食事。ちゃんと出来るだろうか、という不安はちらつく。決意はしたものの、どうやったらきちんと祀り直せるのか、方法が確実に分かったわけではないからだ。
それでもやるんだ、と、ぐっと拳を握りしめて意気込む。
土間に入ろうと、一歩足を出そうとして──ふと踏み止まった。
この場所は謂わば、私が彼らを祀り直すための大切な場所だ。今までの、ただ何となく料理を作っていた頃とは心持ちが違う。
心を込めるための大切な場所なのだと、そう思えば、そのまま軽々しく足を踏み入れるのは躊躇うものがあった。
神を祀るというのは、神を敬う行為。そのために、どうすればいいのだろう。
うーん、と悩んだのは一瞬だった。すぐにハッとし、背筋を伸ばす。
二礼二拍手、そして「これから彼らのことを想い、丹精込めて料理をします」と心の中で呟き、一礼する。
神社へお参りする時の作法が、ふと思い浮かんだからだった。この行動が正しいのかは分からない。けれど、自分の気持ちの問題だった。まずこの場に敬意を払うという、気持ちの問題だ。
「……よし!」
意気込み、土間へ足を踏み入れる。
とにかく今日は、彼らを想い、感謝の気持ちを込めて作ろう。そう決意し、料理に取りかかった。
電気が通って冷蔵庫が使えるからか、冷蔵庫にはある程度のものが揃えられていた。その中からいくつか食材を選ぶ。
手際は相変わらず悪かった。けれど何とか数品作りあげ、ふぅと一息つく。メインは生姜焼きに、キャベツの千切り。胡瓜とハムの酢の物、揚出し豆腐もレシピを見ながら作り、かまどで炊いたご飯とお味噌汁をよそう。見栄えは悪くない、と思う。けれど大切なのは、これでちゃんと祀り直せるかどうかだ。
「いい匂いだね。できた?」
髭切さんに声をかけられたのは、お皿をお盆に並べている時だった。ちょうどいいタイミングで現れた彼は、お盆に並ぶ品々を見て、「おおっ、美味しそうだ」と感嘆してくれている。
それが私を気遣うものだとしても、彼の優しさが心に沁みた。
「ありがとうございます。今日は生姜焼きにしてみました」
「いいね。僕、生姜焼きも好きなんだ」
ありがとう、と言う彼は柔らかく微笑んだ。そんな彼を見て──前よりも表情に柔らかさの出た彼を見て、思わず見惚れてしまった。
私が彼らと真っ直ぐ向かい合う決意を告げてから、髭切さんの纏う雰囲気が何となく変わった気がする。
「これ、持っていっていいかい?」
「あ、はい。ありがとうございます。……鶴丸さんと三日月さんの分も作ったんですけど、今日って帰ってきてますか?」
恐る恐る質問すると、髭切さんは困ったような笑みを溢した。その表情を見て、答えを察する。
「彼らは最近帰ってきていないよ」
「そうですか……」
何となく分かっていたけれど、やっぱり落ち込むものはある。彼らにはきっともう、見限られてしまったのだろう。
「彼らの分、僕のと弟のに分けてくれないかい」
「え、でも量が多くなっちゃいますよ」
「これくらい、全然。有りがたくいただくよ」
微笑む髭切さんを見て、胸がキュッと締め付けられる。彼はやっぱり、昔と変わらず優しい。
髭切さんにお盆を二つ持ってもらい、私は一つを持って食堂へ向かった。席には既に膝丸さんの姿があり、彼は私たちの姿を目視すると、髭切さんへ駆け寄ってお盆を受け取った。「てんこ盛りだな」と呟いたその言葉に、申し訳なく思う。
髭切さんと膝丸さんが並んで座り、彼らを前に私も席についた。
この時点で緊張がピークに達していた。それでも、その緊張が何とか表に出ないよう、必死に平静を装う。
私が緊張していては、彼らが食べにくいだろう。とはいえ体は正直で、指先は微かに震えてしまっている。
「では、いただこうか」
「ああ。いただきます」
髭切さんと膝丸さんが手を合わせ、箸に手をつける。私も「いただきます」と呟いて、箸を持った。
まずはキャベツを口に入れる。キャベツは千切りしただけだから、キャベツそのものの味がするだけだ。次いで、生姜焼きへと箸を伸ばす。少し冷めてしまったけれど、味は悪くない、と思う。生姜を千切りにしたものとすり下ろしたものを混ぜるとより風味と食感が楽しめる、とレシピ本に書いてあったので、その通りにしてみたのが正解だった。
──自分の中では美味しくできたと思うけど……。
けれど一番の問題は美味しいかどうかではない。不安になりながら、チラリと目の前に座る膝丸さんを覗き見る。
膝丸さんは眉根を寄せながら、自分の食事を見つめ、何かを考えるようにゆっくりと咀嚼していた。
その難しげな表情に、不安を煽られた。口に入っていた生姜焼きをゴクリと飲み込み、そのまま恐る恐る髭切さんへと視線を移す。
視線を向けてすぐ、髭切さんと目が合う。盗み見るつもりだったから、驚きから肩が跳ねてしまった。髭切さんはそんな私を見て、にこりと微笑む。
「とても美味しいよ。心がよく込められている料理だ。ありがとう」
そう言った彼は、更に笑みを深めた。
その表情と言葉にホッと胸を撫で下ろす。けれどすぐ、それはもしかしたら気遣いの言葉かも、という考えが過った。
心は込めたけれど、ちゃんと『祀り直す』ことは出来ているのだろうか……と、そう不安に思っていた矢先だった。
カチャリ、と箸を置く音にビクリとし、目の前の膝丸さんを見やる。
「食事の最中に申し訳ないが」
彼は私を見据えて言う。そんな真っ直ぐとした瞳に、自然と背筋を伸ばした。
「はい、何でしょうか?」
「少し席を外しても良いか? 確認したいことが」
「確認?」
何を? と問いかける前に、髭切さんが「いいよ」と返事をする。
「せっかくだから、確認したら持ってきてよ」
「ああ。分かった」
髭切さんの言葉に返事を返した後、膝丸さんは席を立った。そしてそのまま食堂を出ていく。
そんな彼の行動を見ながら、思わず呆然としていた。
「主。心配しなくて大丈夫」
髭切さんの言葉に、はたと我に返る。髭切さんを見やれば、彼は笑みをたたえていた。
「それより、お米炊くの上手になったねぇ」
「えっ、あ、ありがとうございます。膝丸さんの教え方が上手だったので。かまどはまだ慣れないですけど」
そんな他愛ない話をしていれば、程なくして膝丸さんが戻ってきた。ツカツカと足早に食堂へ入ってきた彼の手元には、日本刀が握られている。持ってくる、というのは刀のことだったのかと、やっと理解した。
「これを見てくれないか」
近くまで来た彼は席に着かず、鞘に納まったままの刀をこちらにかざす。親指を鍔にかけて鯉口を切ると、そのまま右手でゆっくり刀を抜いた。
徐々に露わになっていく刀身を、じっと見つめた。
刃が光を反射する。いつ斬られてもおかしくない状況なのに、綺麗だと、思わず見入ってしまった。
「ああ、やっぱり。霊力が少しこもっているね」
髭切さんが言う。その言葉にハッとした。
ということは、つまり──。
「主」
膝丸さんが私を呼ぶ。
「はい」と返事をすれば、彼は私の近くまで歩み寄ると、床に膝をついた。
見上げられる形になり、ぎょっとする。
「えっ、あの、膝丸さん……」
「主。感謝する」
真っ直ぐな視線と言葉を向けられ、息を呑んだ。
彼の言葉で、私は彼らを祀り直す一歩を踏み出せたのだと、実感がこみ上げる。
胸が熱くなった。良かった、という心底安心した気持ちと、真っ直ぐ感謝の気持ちを向けられる畏れ多さと、彼らに対する温かい気持ちと。様々な感情が混ざり合い、胸がいっぱいになる。
イスから立ち上がり、私も床に正座して膝丸さんと向き合った。
「こちらこそ。こちらこそ、ありがとうございます」
深く頭を下げる。私の方こそ感謝しかなかった。こんなに不甲斐ない主を、待っていてくれて。再びやり直すチャンスをくれて、感謝しかない。
顔を上げて二人を見れば、彼らは口元にほんのり笑みを乗せ、穏やかな表情をしていた。
ああやっぱり、彼らは神様なのだと、不意に思った。
「さあ、料理が冷めきってしまう前に食べてしまおう」
髭切さんが言う。私も膝丸さんも頷いて立ち上がり、各々席についた。
「兄者は確認しなくていいのか?」
食事を再開し始めた膝丸さんが言った。髭切さんは「うん」と返事をする。
「僕は直接、主の霊力をもらった時に確認してるから」
「え?」
思わず疑問を溢してしまった。
直接? いつだっただろうか。そう不思議に思っていれば、「君が泣いてた時だよ」と髭切さんが言う。
「君の涙を舐めた時があっただろう。あの時」
「え……えっ?」
直接的な物言いに、狼狽えてしまった。
な、舐めた、なんて、いつ……?
考えを巡らせて、あ、と思い出した。髭切さんたちの部屋で、彼の刀に触れた時だ。あの時、いつの間にか流れていた涙を、髭切さんに拭ってもらったことを思い出す。
その時、確かに彼は、拭った私の涙を口にしていた。
「ああ、あの、涙を拭ってくれた時ですね」
急いで現状説明を加える。膝丸さんが目を丸くして、引いているのか何なのか読み取れないような表情をしていたためだった。
「そうそう、その時」と髭切さんはのんびりした口調で言う。
「あの時、君の霊力を少しだけ貰ったみたいなんだ」
「そう、だったんですね」
髭切さんの言葉を聞いて、そういえばあの時そんなことを言っていたな、と思い出した。庭の手入れでできた腕の傷が治った時だ。そして彼はその時、手に持っていた刀をまじまじと見ていた。
あれは、刀に宿った霊力を確認していたのだと、今になってやっと腑に落ちた。
そしてふと、鶴丸さんのことを思い出す。
霊力を喰う。彼にキスをされたあの時、やっぱり霊力を奪われたのだろう。
そんなことを考えながら食事を続けていれば、視線を感じた気がしたため、顔を上げる。ジッとこちらを見る髭切さんと目が合い、ドキリとした。
「そういえば、彼のことなんだけど」
「……彼?」
「鶴丸のこと」
出てきた名前はまさにタイミングが良く、考えていることを見透かされたような気持ちになる。
「鶴丸さん」ただ名前を復唱すれば、髭切さんは「うん」と頷く。
「あの街で何を話していたのか、聞いてもいいかな?」
髭切さんに問われ、街での出来事を思い起こす。
血を連想させるような、禍々しく赤い提灯の灯り。息もできないような重い空気。生気のない、ただ手を引かれるままに歩く人間たち。
思い出すだけで、その場の空気を吸ったように悪寒が肌を這った。
「何から話せばいいのか……髭切さんは、どこから聞いていたんですか?」
「ほとんど聞いていないよ。駆けつけた時は、彼が君の霊力を喰わないとか何とか。そんな約束をしていた時だった」
それなら、ほとんど話の最後だけだ。
霊力を喰わないというあの約束も、今となっては本当なのか疑わしかった。
「鶴丸さんと話したことは、主にこの世界のことです。街へ行ったのは、この世界のことを知りたかったので。書庫で過去の書物を見ていたら三日月さんと会って、この世界のことを教えてくれるということで、彼に連れて行ってもらいました」
「ん? 待て、三日月?」
膝丸さんが会話に混ざる。彼の問いを不思議に思いながら、「はい」と頷いた。
「三日月さんに街へ連れて行ってもらいました。行く前、髭切さんには声をかけておく、と言ってましたけど……」
「……いや。僕は何も知らされていないよ」
髭切さんは眉をひそめる。そんな彼を見ながら、思わず「えっ」と声が漏れてしまった。
まさか、髭切さんに声をかけるというのが嘘だったなんて。それならやっぱり、三日月さんには何かしら意図があったのだろう。私を街へ連れて行くことに対して。
それがどういう意図だったのか、私には分からない。
「三日月に何かされたか?」膝丸さんに問われる。その問いに、「いいえ」と首を横に振った。
「三日月さんとは、街を一緒に歩いただけです。途中で気分が悪くなったので、もう帰りたいと言ったら、そのまま一緒に帰ろうとしてくれました。ただ……」
「ただ?」
膝丸さんが先を促す。そこから先を言うべきか、一瞬、迷ってしまった。けれど隠し事はするべきじゃないと、口を開く。
「……ただ、帰ろうとした時に名前を呼ばれたんです。私の名前を。鶴丸さんに」
膝丸さんと、髭切さんも顔を顰めた。
髭切さんの、この反応。鶴丸さんが私の名を知っているのは、唯一名前を知っていた髭切さんが教えたのかも、という考えも過ったけれど、それはやっぱり考えにくい気がする。
「名前を呼ばれた時、鶴丸さんは近くに居ませんでした。それなのに、耳元で名を呼ばれたと思ったら、勝手に体が動いて。気がついたらあの場所にいました。そこで鶴丸さんにこの世界のことを教えてもらったんです。この世界は、人間に捨てられた……還るべき場所に還れなかった刀の、捨て場だと」
街に居た刀たちも、目の前の彼らも。私たち人間に捨てられた刀たち。
路地裏の、首なしの狛犬に座って話をしていた鶴丸さんの姿が、脳裏に浮かぶ。
視線を宙へ向け、薄い笑みをたたえながら淡々と昔話をする鶴丸さんを思い出し、胸がぎゅっと狭まったように苦しくなった。
「あとは、契約の話を持ちかけられました。私の一年を彼に捧げたら、元の世界に帰してくれると」
私の一年、だなんて。此処には、時間の概念がないというのに。
「そうか。あの時に聞いていたのは、彼だったのか」
髭切さんが独り言のように言った。目を伏せ、何かを考えている。
あの時? と疑問に思いながら彼をジッと見ていれば、ふ、と上がった瞳と目線がかち合った。髭切さんは私へ苦笑を向け、また目線を下げる。
「君がこの世界に来た翌日、戻橋へ一緒に戻った時だよ。君が橋を渡り始めて、僕が君の名を呼んでしまったあの時、気配がしたんだ。一瞬だったけど、相手も君の真名を聞いて気の緩みが出たんだろう」
髭切さんは目を伏せながら説明する。
私が戻橋を渡り始めた時、確かに、髭切さんに名前を呼ばれた。心臓を握られたような感覚と共に、身体に緊張が走ったことは今でも鮮明に思い出せる。
まさかあの時、誰かに聞かれていたなんて。
「後をつけられていたなんて、全く気づかなかったよ。警戒はしていたはずなのに。……僕も随分、鈍くなってしまったね」
そう言った髭切さんは、目を伏せたまま苦々しく笑った。
まるで、自嘲するかのような。ひどく不愉快そうに笑う彼に、何と声をかけていいのか分からなかった。
表面的な微笑や、柔らかく微笑む表情は記憶の中にもあれど、こんな表情は見たことがない。
「でも、言霊でしたっけ? そのおかげで、髭切さん以外とは契約できないようになっているんですよね?」
声をかければ、髭切さんは静かに視線を上げる。
『僕と彼女との間だけで契りを交わすよう、言霊で縛ってあるから』だから無理だよ、と、鶴丸さんに言っていた言葉を思い出す。
髭切さんは私と目が合うと、ため息混じりの笑みを溢した。「まあ、そうだね」と口を開く。
「念の為、保険をかけておいて良かったよ」
「私は、その、よく覚えてなかったですし意味を理解できてなかったですけど……でも、ありがとうございます」
「いや。勝手にごめんね。こんな世界だから」
そう言った髭切さんは一呼吸置くと、「さて」と続ける。
「ちゃんと全部話す約束だったね。この世界のことも、僕たちの経緯も含めて。彼から聞いたのは、『この世界は還るべき場所へ還られなかった刀の捨て場』だということだけ?」
「え……と。あとは、その」
まざりもの。言葉が頭を過り、胸が締め付けられる。
「堕ちた、と。格が下がったから還れない、と鶴丸さんが言ってました。……色んなものが、混ざったから」
言葉にするだけで苦しかった。昔の記憶がフラッシュバックするような。
けれどここで、きちんと向き合わなければいけない。
「教えてください。格が下がったという意味と、貴方たちが還るべき場所が、どこなのか」
髭切さんと膝丸さんを見つめる。膝丸さんは、髭切さんに目配せをした。どうやら髭切さんが説明してくれるらしく、口を開く。
「そうだね。どこから説明しようか」
そう言って少し考えた後、「まず還るべき場所だけど」と話し始めた。
「僕たちの還るべき場所は、本霊だよ」
「本霊?」
「そう。元々、各本丸に顕現した刀剣男士は、本霊から分かれた分霊だ。分霊である僕たちは、役割を終えたら、本霊へ還るのが本来の流れだった」
ただ、と彼は続ける。
「本霊へ戻るには、それと同等の状態でなければ還れない。それは、格や質。それらが下がると、本霊に戻ることは叶わない」
格が下がったから還れない。鶴丸さんの言っていた言葉は、本霊と同等の状態ではなくなったから還れない、と、そういう意味だったのだ。
本霊とは違い、色々なものが混ざってしまったから。
「付喪神ってさ、神と名は付いているけど、全てが神になれるわけじゃないんだよ」
髭切さんは言う。
「付喪神というのは、長い年月を経た道具や自然などに霊魂が宿ったものの総称なんだ。それらは荒ぶれば禍をもたらし、和ぎれば幸をもたらすもの。妖物という存在になるものもあれば、人々に敬われて神という存在になるものもある」
妖物──その言葉に、既視感のようなものを覚えた。
やけに耳に残る単語。その時ふと、三日月さんの言葉を思い出した。
『人々に祀られれば神となる。だが神も、人々に祀られる事がなくなれば、神ではなくなる』
その言葉は、髭切さんが今説明してくれたことと同義だろう。それに加えて、彼はあの時、こうも言っていた。
古い書物の一文を読み上げて。何と言っていたのか、古い言い回しの言葉はよく覚えていない。
けれどその書物には、付喪神は妖物として書かれている、と、確かにそう言っていた。
「僕ら日本刀は、元々、人々に敬われてきた。本霊にはその格と質が備わっている。けれど此処に居る今の僕らは、ほとんど妖物へと堕ちている。だから、本霊へは還れない」
髭切さんの言葉に、我へと返る。淡々と説明する彼は、僅かに目を伏せていた。
「妖物へと堕ちたのは、混ざりもののせい……ですよね」
恐る恐る言葉を口にする。髭切さんは伏せていた目線を上げると、困ったように微笑んだ。
「混ざりもの、といっても色々なんだ。例えば、審神者の霊力は、僕ら刀剣男士に直接影響する。審神者の霊力が悪質なものになれば、その霊力を受ける刀剣男士の霊質も変わる。元となる本霊の霊質に、審神者の悪質な霊力が混ざって霊格が下がる、『混ざりもの』となることもあるらしい。それと……」
そこまで言うと、髭切さんは再び視線を落とす。あ、次は私のことだ、と察して胃がギュッと縮まった。
「そもそも神をこの世に降ろすという行為は、生半可にできることじゃない。本来、神聖であるべきものというのが前提だ。それなのに、目当ての刀剣男士を鍛刀するためにまじないを施したり、禁忌とされる術にも触れると、どうなるか。そこには必ず歪みが加わり、鍛刀された刀剣男士は『混ざりもの』となる」
髭切さんの言葉に息を呑む。思わず俯いてしまった。
禁忌とされる術──房中術、のことを指しているのだろうか。けれどあれは、政府に直接指示された方法で。
自分の鼓動が、胸の内で速まるのを感じた。
「だが、『混ざりもの』と呼ばれる刀剣男士全てが本霊へ還れないかというと、そうじゃない。本霊と同等の格と質。人々に敬われ、神という格と質であれば何も問題ないんだ」
それを聞いてハッとした。顔を上げれば、髭切さんと目が合う。
そうか。妖物へと堕ちたのは……。
「人々に敬われることが無くなって、神ではなくなったから。本霊へ戻れないんですね」
髭切さんは頷く。
それならやっぱり、私のせいだ。
私が、彼らを捨ててしまったから。
「主、一つ言っておくが」
今まで黙って会話を聞いていた膝丸さんが、口を開く。
「俺たちが、特に兄者と俺が妖物へと堕ちたのは、君が去ってから大分後のことだ。『人々』というのは、君だけを指しているわけではない」
膝丸さんの言葉に、え? と疑問が溢れた。どうやらまだ情報が足りないらしい。
「僕たちが堕ちたのは」髭切さんが、膝丸さんの言葉を続ける。
「時の政府が、僕らをこの世界に封じてからだ。僕らが封じられたのは、彼らの手に余ったから。手に負えないモノを捨てるように、人々に捨てられ、敬われることもなくなり、徐々に神ではなくなったんだ」
髭切さんの話し方が、淡々としていて事務的なものになる。それが余計に、彼の冷めた心情を表しているようだった。
「さっきも言ったけど、神をこの世に降ろすのは生半可なことじゃない。そこに歪みが加わればどうなるか、彼らはもっと慎重に考えるべきだった。……ここからは僕らの経緯になるけど、いいかい?」
髭切さんに確認され、ドキリとした。ここからはきっと、私にとって聞くのが辛い内容なのだろう。
それでも、聞かなければいけない。
「お願いします」と返事をすると、彼は小さく頷いた。
「君は、この本丸での『混ざりもの』が何を意味するか、思い出したんだよね?」
「あ……はい、その……私の霊力を上げるために、その。髭切さんと」
「うん。僕と君の気を交えたことが、この本丸での『混ざりもの』を意味する」
言いにくい部分を髭切さんが補ってくれた。彼は力なく微笑む。
「結果、この本丸での『混ざりもの』は、後に鍛刀した弟の膝丸、鶴丸国永、三日月宗近の三振りだ。彼らは通常通りに鍛刀した刀剣男士と違う、歪みが加わっている。その歪みが、他の人間の関与を難しくしたんだ」
彼の言葉を聞きながら、ふと、書庫で見た刀帳を思い出した。
米印。
この三振りには、刀帳に米印がついていた。
「君が本丸を去ってから、僕と弟を除いた刀剣男士は、他の本丸へと引き渡された。だが、二ヶ月ほど経った頃かな。鶴丸国永と三日月宗近が、この本丸に帰ってきたんだ。戻された、と言うのが正しいかもしれない」
「理由が確か、『扱いにくい』というものだったな」
「うん、そうだったね。彼らは新しい主に『扱いにくい』と言われたらしかった。新しい主の霊力が馴染まないだか何だかの理由で、この本丸に戻されたんだ」
夢で見た──というよりおそらく膝丸さんの記憶では、確かに、鶴丸さんと三日月さんは新しい受け入れ先が見つかった、と言っていた。その後、この本丸に戻されたなんて。
「これは後から知ったことだけど、混ざりものは他の人間の関与を難しくさせるらしい。他の人間には『扱いにくい』し、どうやら主以外の他の人間では刀解もできないのだと。それほどの歪みがある、とね」
他の人間では、刀解もできない。
その言葉を聞いて、ああそうか、と理解した。
彼らを鍛刀した私にしか、彼らを刀解できないなら。
私が逃げ出してしまったことで、彼らを刀解することもできず、他の人間には手に余ったと。そういうことだ。
「もし、私が」
罪悪感で、胸が押し潰される。自分の過ちを恥じる心が、これ以上の言葉を呑み込みそうになる。
「もし私が、貴方たちを刀解してからこの本丸を去っていれば。貴方たちはちゃんと、本霊へ還れたはずなんですよね」
まだ神さまの状態で、私があるべき場所へ還す手順を行っていれば。彼らはちゃんと還れたはずだ。
「そうだね」
静かに同意する髭切さんの言葉が、胸に深く刺さる。
「僕らが此処に封じられているのは、厳密に言えば、君が僕らをそのままにして居なくなったことも要因としてはある。それは夕餉前に話したね。だが、大元の原因はそこじゃないと僕は思っている」
そうだろうか……髭切さんの話を聞きつつも、自責の念は拭えない。どう考えても、私が彼らを捨てたことに非がある。
「僕はね」髭切さんが続ける。
「君が重荷を背負い、追い詰められていたことを知っている。僕と気を交えたのも、政府からの指示だ。外部の人間の、他者を蔑むような醜い行為も。下の者を守らない、上の体制も。他者に追い詰められていた君のことを、どうして責められるというんだい」
髭切さんのその言葉に。不意に目の奥が熱くなり、泣きそうになってしまった。グッと力を入れ、かろうじて堪える。
「そもそも、考えが浅はかなんだよ。歪みが生じそうなことくらい、分かるだろうに。第一、神気を注がれた人間の方だって……」
そこまで言って、彼はハッとしたような顔で私を見た。
「君は? あの後、体は大丈夫だったかい?」
「え?」
「君がここから去った後、どうなったか知らないから」
髭切さんは苦笑する。そんな彼に、私も苦笑いを返した。
「実は、私もその後のことは覚えていないんです。ここに居た時のことも、断片的にしか思い出せなくて」
「そっか。僕らにも影響が出るくらいだから、君はどうだったんだろうと思って。ただ、君の魂自体には、僕の痕が残っちゃったみたいだけど」
そう言って、髭切さんはまじまじと私を見つめた。その言い方と、ジッとこちらを観察するその瞳に恥ずかしさがこみ上げる。
「……あ。そういえば、他の本丸の髭切さんにも言われました。僕の気、交ざってる。って」
「え? そんなことをわざわざ言ってきた刀がいたの? どこの髭切」
思い出したままを口にすれば、髭切さんは若干不機嫌そうに言った。
あの時はどういうことか分からなかったけれど。やっぱり刀剣男士には、誰の気が混ざっているのか分かるらしい。
そういえばあの時、街で会ったあの髭切さんが、他の本丸の髭切さんだとすぐに分かった。
あれは、髭切さんだったから、すぐに分かったのだろうか。
いやでも、あの後も──。
「兄者、話が脱線しているぞ」
膝丸さんの声に、はたとする。
「ああ、そうだね」髭切さんも話に戻った。
「それで、えーと……どこまで話したっけ?」
「我らの経緯で言うと、鶴丸と三日月が帰ってきた辺りだ」
「ああ、そうそう。彼らが帰ってきて、僕らはこの本丸で待機命令を下されてね。それから半年経つか経たないかという頃かな。戦の終わる兆しが見えたと、管狐から知らされたんだ」
私が出て行ってから、終戦の兆しが見えていたとは。もしも私があのまま頑張っていたとしても、結局、大した影響はなかったんだろう。そう思うと、何だか苦々しい思いがする。
「終戦したのがいつなのか、正確には分からない。いきなりだったんだ。いきなり、本丸ごとこの閉ざされた世界に封じられた。おそらく他の、手に負えなかった本丸も同様に」
本丸を封じる。その言葉に、鬱蒼とした暗い森に佇む、鳥居を思い出した。
鳥居に幾重にも張り巡らせられた縄と、御札の存在。
それはまるで何かを封印しているかのようだと、あの時、確かにそう思った。
「封じるなど」膝丸さんが忌々しげに吐き捨てる。
「その時点で、やつらにとって我らは妖物扱いだったな」
「ね。刀解できず、僕らを折ろうにも戦力が必要だからやめたんだろう。主も街で見ただろうけど、僕らのような刀は多かったみたいだから。だったらまとめて封じてしまおう、ということだったんじゃないかな。まさかそんなことをされるとは思ってなかったよ」
苦々しく笑う髭切さんを見ながら、不意に疑問が過った。
髭切さんは、『混ざりもの』ではなかったはずだ。
彼に歪みはない。彼に私の霊力が混ざるのは、他と変わりない。どの刀剣男士にも、顕現などの過程で審神者の霊力が注がれるのだから、審神者の霊力が混ざっていることは通常だ。
それなら、歪みのない髭切さんは刀解できただろうし、本霊へと戻れるはずだったのでは。
そう思ったものの、その質問はせずに呑み込んだ。
彼は私を待つことを選んでくれていた。だからきっと、一括りにされたのだろう。そう想像がついたから、質問は表に出さずに呑み込む。
「ありがとうございます。大体のことは理解しました」
理解したからこそ、より一層、決意が固まった。
「私がきちんと祀り直すことができれば、貴方たちは本霊へ還れるんですね」
髭切さんと、膝丸さんを真っ直ぐ見つめる。髭切さんは微笑むと、「うん」と頷いた。
「それに、僕が君を元の世界に帰してあげることもできる」
「え……?」
「ん? そういう約束だろう?」
確かに、そういう契約ではあったけれど。鶴丸さんの言葉が、つい、脳裏に過ってしまった。
『彼じゃあ、きみをあの橋から帰すことは出来ないと思うが』あの言葉は、嘘だったのだろうか。
「今すぐ帰してあげることは無理だけどね。今の僕には、それができるだけの力がない。ただ、霊力が満ちれば、ちゃんと君を元の世界に帰すことができるよ」
私の心を読み取ったのかのように、髭切さんは補足する。けれどその補足で、やっと腑に落ちた。
私を元の世界に帰すにも、霊力が必要で。今の髭切さんにはそれが出来ない。霊力が足りないから。
けれど鶴丸さんには、それが出来る。彼は、人間の霊力を喰べているから。私を帰すだけの霊力があるのだ。
だから鶴丸さんのあの言葉は、嘘ではないのだろう。
そんなことを考えていれば、ふと、膝丸さんの様子が気にかかった。
彼は、髭切さんをジッと見つめている。何か、思うところがあるかのように。
けれどその横顔から、感情は読み取れなかった。
「まあ、そういうことだから。君のためにも、僕らのためにも。よろしくね、主」
髭切さんに言われ、ハッと我に返る。「はい」と頷いた。
「精一杯、頑張ります。髭切さんに膝丸さん、あと、鶴丸さんと三日月さんも、ちゃんと本霊へ還せるように」
言いながら、あの二振は私にまたチャンスをくれるだろうか、と不安になった。もうこの本丸にすら帰ってきてくれないかもしれない。
そう思っていた時だった。
「いや。あの二振はもういいよ」
髭切さんが言う。口調はいつもと変わらない。けれどどこか淡々とした響きを含むその言葉に、びくりと肩が跳ねた。
「え……いや、でも」
「此処に封じられてから長いこと経つから、仕方ないことけど。彼らは強いんだ、妖物の気が」
髭切さんの声が、耳を掠るだけで頭に入らず、抜けていきそうになる。あの二振はもういい、と、きっぱり言われたことに少なからず動揺していた。
「君は」膝丸さんが口を開く。
「以前、霊力を喰われただろう。鶴丸に」
「え。あ、はい」
鶴丸さんにキスされた時のことだ。誰にどうされたとは言っていなかったけれど、この二振は分かっていたらしい。
「あの時、かなりの霊力を喰われたはずだ。君の霊力が、此処へ来た時より明らかに減っているからな」
「そう、なんですね」
「その状態で、妖物の気が強い彼らを祀り直すのは無理だろう」
はっきりと言われ、息を呑んだ。
「でも……」と言葉を続けようとして、口を噤む。何と言えばいいのか、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「主」
髭切さんに呼ばれ、恐る恐る視線を向ける。
彼に笑みはなく、ただ真っ直ぐと私を見ていた。
「無理して祀り直すと、君の霊力が枯渇する。そうなると、君の生命自体が危うくなるんだ」
だからあの二振はもういいよ、と。髭切さんは再度、静かにそう言った。