@arikanagahisa
飲みすぎて後悔したことなんて何度もあったけれど、多分、今朝ほど後悔する日もないだろう。
何があったのかと言えば、目を覚まして一番に目に入ったのがモーディスの裸の背中だったから。
いや、彼はいつだって殆ど裸みたいなもんだろう、と言う話ではなく、自分の腕を枕にするようにして横向けに眠っているモーディスは、肩から背中どころか足の先まで完璧な肢体を、陽の下に晒していた。昨晩、眠る前にカーテンを閉め忘れたのだ。顔に陽の刺さない場所にベッドを置いていたから、ぐっすり寝こけていたらしい。
ハ、と目を何度もしばたたきながら、現実を受け止められずにモーディスの裸体をじろじろと眺めた。全身を走る赤い刺青も、金から赤へと変わる髪も、逞しい腕についている装飾も、どれをとっても僕の寝台で一緒に眠っていたのはモーディスでしかない。
昨晩、何をしたんだっけ? 早鐘を打つ心臓を手で押さえながら、ぐるぐると昨晩の記憶を掘り返す。戦闘から帰還し、夕食を共にしているうちに、飲み比べをしようと僕からけしかけた。どっちが本物の戦士なのかこれでわかるだろ、なんて安い挑発にモーディスが乗っかる。それから、閉店直前まで馬鹿みたいにネクタールを飲んで……——。
そうして記憶を遡り、思わず叫び声をあげそうになった。血の気が引いていく感覚に、慌てて手のひらで口を抑える。モーディスの背中をもう一度見つめ、彼の髪がかなり乱れていることに気がついた。
……思い出した。
昨日、なんとか部屋に帰ってきたものの、二人して正体不明で、そのまま流れで寝てしまったのだ。
恐る恐るベッドの周りを見てみれば、お互いの服や装備が床に散らばっていて、棚に収まっていたはずのタオルやバスローブはあちこちに置かれている。濡れてしまったのを脱いだのか、ぐちゃぐちゃになったバスローブがピュエロスのはじに置かれていて、裾を伝って湯を吸い上げており、床の一部が濡れたままになっている。
その周りには、杯とザクロジュース、そしてネクタールが入っていたであろう瓶も転がっている。きらりと光ったものに目を凝らせば、モーディスのピアスと髪留めがそこにあった。思わず呻く。
彼が外したのか、自分が外させたのか、記憶は曖昧だった。もう少し考えれば思い出せるかもしれなかったが、思い出さない方がいいとでも言うように、頭には警告のようなズキズキとした痛みが走っていた。
「…………、」
モーディスがベッドの上で寝返りを打ち、瞼を閉じた麗しい顔が目の前に現れた。寝乱れた髪と肌の輪郭が、陽射しで燃え上がるように輝いている。
安らかそうな寝顔をしたモーディスの、静かに膨らんでは縮む胸を見ながら、夢でもなんでもなく、現実なのか、と小さく唸った。
どうしてこんなことになったのか。
きっかけは案外単純なものだった。お互い戦い疲れて熱を持て余していたし(生命の危機に瀕すると生存本能がどーだこーだ……で、帰還しても熱が燻っていることがたまにある)、そのせいで僕は普段よりモーディスの冷静さというより、素っ気なさに少し苛立っていた。もう少し会話してくれたっていいじゃないか、と構ってもらえない子どものように拗ねていて、たまたま夕食が一緒の時間だったこともあり、面倒くさい絡み方をしてしまった。
ザクロジュースを嚥下する喉になんだか噛みつきたい、と思いながら、濡れた唇に視線が盗られていた。
健康に悪いからと基本的に酒を飲まない姿がお高く止まっているようにも見え、「君って案外子ども舌なんだな」とザクロジュースにケチをつけて、「本当は偉大な戦士のくせに酒が飲めないのを誤魔化してるんじゃないか?」と煽った。
もし僕が酔っていたのであれば彼は失笑して無視しただろう。だけど、僕もモーディスもまだ素面で、疲れていて、お互い精神がささくれ立っていた。
そういうわけで、「市民の前で醜態を晒したいようだな」と青筋を浮かべたモーディスとネクタールの飲み比べをはじめたのは、店が閉まる何時間も前だった。
店中のネクタールのどころかオクヘイマ中のネクタールを持ってこいと店主に注文したモーディスと僕の飲み比べは、いつの間にかギャラリーが増えて、空の容器が隣のテーブルや足の踏み場もないほど置かれても終わらなかった。
モーディスは口ではあんなことを言っていたが、どう考えても普段口をつけないのだから僕より酒に弱いだろう。クレムノス人の価値観では、戦士は酒に強いものだとされているから、モーディスが本当は酒に弱いとバレては問題になるかもしれない。そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、その瞬間、「どうした救世主、大口を叩いておいて自信をなくしたか?」とフライングでネクタールを一気飲みしたモーディスが挑発的に笑う。
喧嘩の気配に湧き立つギャラリーにもカチンと来て、こうなったら絶対に潰す、と思いながら、
「まさか、君があまりに早く潰れたらどうしようか心配してたんだ」
と、僕も挑発に乗ってやる。
視界が少し歪んだような気がしたが、ファジェイナの栄誉はまだ僕には訪れないようだった。モーディスは少し前から微かに赤い顔をしていたけれど、じっと顔を見つめれば挑発的に見返して、「降参か?」とその度に僕を煽った。
君が降参したらやめるよ、ともう一本を一気に煽ると、ギャラリーがいいぞ! 流石無欠の英雄! クレムノスの狂王を潰しちまえ! とかなんとか、勝手に盛り上がっている。もちろんこれはモーディスが飲み干しても大体同じで、優男の身包みを剥いでやれ! クレムノス人がオクヘイマの軟弱野郎に負けるわけがない! とか、好き勝手野次が飛ぶ。そもそも僕はエリュシオン出身で、クレムノス人のモーディスとは確執なんてないに等しい。ただ単に僕はモーディスとこうして張り合ってしまうだけで、彼が相手をしてくれるからこそ、こんな風に何度もくだらない勝負をしているのだとも言う。
二人してオクヘイマ中のネクタールを一夜にして飲み干そうと躍起になっていると、突然、僕とモーディスの石板がけたたましい警告音を鳴らした。
まさかこんな時に敵襲か!? と慌てて揺れる視界の中石板を取り出せば。
『今すぐにくだらない争いをやめて帰りなさい』
とアグライアの怒りを押し殺したような音声メッセージが再生された。恐ろしく冷たい声だった。
興醒めだ、ともちろん一瞬思ったけれど、僕とモーディスはお互いに顔を見比べ、素直に従っておこう、と頷いた。
「そう言うわけで解散!」
と席を立った僕の真向かいで、モーディスは侍者に支払いの指示をしていた。
決着がつく前に中断された催し物に不満を漏らす市民もいたが、アグライアの指示に従わなかった後の方が、決着を見届けられない市民のクレームより何十倍も恐ろしい。
僕とモーディスは何事もなかったかのようにしっかりとした足取り(多分)で店を出、二人して無言で路地に入った後、お互い、壁に手をついてため息をついた。
「後一本僕が飲み干しておけば決着がついたのに……」
「ぬかせ、俺がもう二本飲み干してそれで決着だった」
モーディスは僕の呟きに、赤い顔をしたまま瞳と唇を吊り上げてそう口にした。金色の瞳はいつもより水を溜めて輝いているように見えたし、はぁ、と微かに蒸気した頬でため息をこぼす口許はなんだか妙に艶やかだった。夕食前に風呂に入ったのか、アルコールで体温の上がったモーディスの膚からは、汗と混ざってさえほんのりいい匂いがしていた。正直に言えばそれに興奮した。
疲れたような顔も、悩ましく熱い呼気も、汗が浮いてしっとりとした胸も、微かに染まった美貌も、目の縁が赤くなっているのも。
「アグライアにバレる前に、とにかく部屋に帰ろう。僕の部屋の方が近いから、酔いが覚めるまで君も休んで行ったらいい」
僕の提案にモーディスはこれ幸いとばかりに乗ってくれた、と思っているが、本当のところはわからない。気づけば手を掴んで引っ張っていたから、モーディスは何も考えていなかったのかもしれないし、酔っ払いを振り払うのが面倒でついてきたのかもしれない。ここで手を振り解き、例えば取っ組み合いになったとすればいよいよアグライアに叱られるのは目に見えていた、と言うより、市民の伝言や獅子の口でどんな噂を立てられるかわかったものじゃない。そのリスクを考えられる程度には理性が残っていた。
と、思っていたのだが。
もう一度、部屋の惨状と、隣で眠っているモーディスを見比べる。
時刻は既に践行の刻を指していた。
ハンマーで殴られるような痛みに呻きながら、なんとか寝台を降りて、棚に残っていた酔い覚ましの薬茶の瓶を空ける。どこかで水をもらってきたかったが、そんな元気もなく、ピュエロスへふらふらと向かう。壁の文字を指でなぞり、水の温度を低温へ変えると、壁から絶え間なく注いでくる冷えた湯を手のひらですくってなんどか飲んだ。
少し頭が冷えてきたような感覚がした。そのまま体を清めると、服を着替えて荒れた部屋を片付けることにした。
落ちていたモーディスの装飾品を拾い、甲冑や布を棚の空いている場所へ置いておく。自分の服は後で洗濯へ入れるとして、床でしわくちゃになっていた外套を壁にかけておく。これも後で専門家に頼まないとダメだろう、と考えながら、恐る恐る、見ないようにしていた床の汚れを確認する。
ネクタールとザクロのにおいや汚れは別にいい。吐瀉物がなくて幸いだった。それ以外のなんとも形容し難い痕に、次から次へと湯をかけて流していく。ピュエロスの掃除は散々トリビー先生にやらされたのでお手のものだった。
モーディスはきっとやり方を知らないだろう、とブラシで床を擦りながら、惰眠を貪っているモーディスの様子を伺う。
いや、惰眠なんて言ってはいけないことはわかっている。昨日、彼は随分と血を流していたし、それに、
「……いやいやいやいやいや、何を考えてるんだ」
耳の奥で、ファイノン、と掠れた声で呼ばれた記憶が蘇っていた。
もういいだろう、と懇願するような声で頬を撫でてきたモーディスの瞳は、蜂蜜を溶かしたみたいにとろりと潤んでいた。ザクロのように赤い口腔内をだらしなく開き、濡れたやわらかい舌で僕を宥めるように唇を舐めて、頸を指先でやさしく撫でる。しがみついて離れない僕の腰を熱い手のひらで叩き、もうピュエロスに行けと蹴ったモーディスの下肢が濡れていることに興奮していた。指を押し込めれば、散々好き勝手に出した僕のものと潤滑油でどろどろに熟れていた。出してあげるから、なんて嘯いて耳に唇を寄せ、胸と胸をくっつけている間、モーディスは自分の手を噛んで声を殺していた。噛まないで、と無理やり口を開かせて、歯形のついた手の甲を舐める。モーディス。自分を傷つけたらだめだ。最もらしい言葉を吐く僕に、モーディスはなんと答えたんだっけ。考えれば思い出せそうだったが、強烈な頭痛で思考が途切れる。
床掃除を早急に終えると、薬がなかなか効かずに痛む頭を抱えながら、果実水を買いに市場へ行く。道行く先々で昨日の「勇姿」を讃えられるが、どう考えても恥ずかしいことなので曖昧に笑っておく。
なるべく急いで果実水を購入し、部屋へ戻った。
「……なんだ、逃げ出したのかと思ったぞ」
ベッドの上で薄布ひとつも纏わずに、モーディスは立てた膝に片腕と頬を置き、気怠そうに乱れた髪を指先で弄びながら、果実水を抱えた僕を見つめた。
モーディスの目許は刺青のない方も赤かったし、なんだかまだ眠たそうで、いつもより眼差しがやさしくなっていた。その表情に他意があるのかないのかわからなかったが、動揺した。妙に甘ったるい空気が部屋に満ちるような気がし、「逃げるって……」と呟くと、「まあそんな度胸もないだろうが」とモーディスが笑う。咳が落ちる。
モーディスは空咳を何度かしながら喉を押さえ、変だな、と言うように微かに眉を上げた。
昨日散々啼かせたから、もしかすると回復が間に合わなかったのかもしれない。きっとそうだろう、と頭の芯が痺れるような感覚に、詰めていた息を吐いた。
「とりあえずなにか飲んだらどうだい」
何を口にすべきか迷ったあげく、そばによって果実水のボトルを渡す。ザクロジュースの方が良かったんじゃないか、と気づいたが、モーディスは大人しく瓶を受け取り口をつけた。
「人の顔をジロジロとなんだ?」
「えーと、いや……その……」
しどろもどろ、視線をどこに向ければいいのかわからず立っている僕に、モーディスは獅子のように大あくびをして、凝り固まった体を伸ばすように肩や背中を動かす。
「互いに羽目を外しすぎたな」
果実水の瓶を持ったまま寝台から降りたモーディスは僕の肩に手を置くと、薄く笑って、昨日のことはそれで終わりだとでも言うように脇を通り抜けて行く。
ずいぶんとゆっくりな足取りで自分の服や装備をまとめておいた棚に近づくと、彼はしばし考える素振りをする。
「着替えを持って来させても構わないな」
裸体を惜しげもなく晒したまま呟いたモーディスが石板を操作しながら喉を潤す姿を無言で眺め、どうしよう、とようやくその言葉に辿り着いた。
モーディスと寝るつもりなんか本当になかったのに。