@setunagi
自分の唇がどんな色をしているのか、気にしたことなどなかったように思う。
幼少の頃、呼吸や食事のたびに酷使される薄皮一枚の色を気にするだけの余裕などなかった。栄養の足りない体のせいか、はたまた別の要因か。いつもぱっくりと割れているその場所は、毒々しい赤色を覗かせていたり、もしくはじゅくじゅくと黄色く熟れてしまっていたり。盛り上がった患部の周りにはみかんの筋のような皮膚が居心地悪そうに居座っていて、口を閉じるたびにかさかさとうるさいそれを剥いてしまうのがすっかり癖になっていたから、みかの唇はいつ舐めてもどこか鉄臭さとしょっぱさがあった。
「きみねぇ」
春夏秋冬どれかで当てはめるとしたら、春。尾を引いていた冬の乾燥を奥底に忍ばせて、熱いというよりは生暖かい、過ごしやすいけれど眠るにはどこかくすぐったいような、そんな温度で。目の前で細まる菫色の瞳も、ふわりと揺れる桜色の毛髪も、わかりやすく呆れを宿した生ぬるいため息まで。彼はいつだって春めいた人間だな、とみかは思う。
「リップクリームを塗るようにと」
「んあ、うん、分かってんねん」
「分かっていないだろう」
「ちゃうんよ、分かっとるけど、忘れてまうんよ」
「それは、」
分かっているとは言わないよ。そのあとに言葉は続かなかったけれど、みかの頭の中には彼の声がそう、はっきりと再生された。再三、まだ海色のブレザーに袖を通していた頃から考えれば、本当に、耳にタコができるほど、何度も言われてきた証だった。
彼の言葉が中途半端にぷつりと途切れたのは、みかがいそいそとパンツのポケットからリップクリームを取り出し、薄く開いた唇に油膜をコーティングしたからだった。彼はみかの慌ただしい様子を眺めながらもう一度、今度はきっと別の苦言を呈そうとしたけれど、結局それには及ばないと判断したのか、渋々といった様子で口を閉じた。視線だけは、みかのことをじっと見つめたままで。
チューブから捻り出した油を塗りながら、みかはふと思考を散らせた。最後に唇に痛みが走ったのは一体いつだったろう。みかはもう、自分の血の味などすっかり忘れてしまった。
叱責だと感じていたものが愛情だということに気が付いたのは、割と早い段階だったように思う。
唇の荒れを指摘され、指のささくれにため息を吐かれ、足にできた痣に至っては声を荒げられた。元来の栄養不足により乾燥しがちなことだとか、鳥目だからよくどこかにぶつかってしまうことだとか、どもりながら紡いだ言い訳など聞いてくれるはずもなく。みかの口からぽろぽろとこぼれる声には耳を貸さないくせに、自分のリップクリームをみかに分けてくれるときの指先や、黄色く変色した肌をなぞるその温度だけは、泣きそうなほどに優しかった。
手先はうんと器用なくせに。みかと同じ二本の腕で、十本の指で、世界をつくってみせるくせに。不器用な人なのだな、と気が付いたのは少し先のことだったけれど。
どれだけ多忙な日が続いていても、彼の唇が乾燥に負けているのを見たことはなかった。きっと癖になっているのだろう。視線をろくに寄越さないままポーチを開き、リップクリームを塗っている彼の姿を何度も見た。
彼に操られるようになって。誂われるようになって。自分の体に油を刺す工程を知ったからこそ、彼の部屋のカーテンがぴたりと閉じられていたあの頃、春の息吹が死んでしまった彼の、ひび割れた唇にどうしても目がいった。
虚な目をした彼の顔の前にスプーンを掲げながら、みかはじっと彼の唇を見つめていた。本当は、彼がみかにそうしてくれたように、その砂漠のように枯れてしまったその場所に水をやって、また春を迎える手伝いをしたかったけれど。あの頃のみかは自分が彼にどこまでを許されているのかが分からなくて。硬い蕾になってしまった瞳の色を見るのが怖くて。何もできないまま、ただスプーンを掲げていた。
星より熱く燃える、紫の炎を見た。七夕の夜だった。
みかはそのとき、今が夏でよかった、と思ったのだ。
今が夏でよかった。これがもし春だったなら、きっとひばりは熱さに羽を燃していたから。これがもし秋だったなら、真っ赤なもみじがぱちぱちと音を立てて落ちていたから。これがもし冬だったなら、降ったそばから雪が静かに溶けてしまっていたから。
だからあのひとが燃えている今が、夏で良かったと、心底思った。
みかの神様が息を吹き返した日のことだ。
みかは、自分が宗に向けている感情に、視線に、熱に、名前が付くのが怖かった。
畏敬だとか崇拝だとか、別になんでもよかったのだ。みかにとっては、自分が彼の背中を見つめるときに、そして彼の瞳がみかを射抜いたときに噴き出す炎の熱さだけが本当で、それを何かに喩えようとも、誰かに名前を付けてもらおうとも思わなかった。
みかの中の炎は、長い時間をかけてゆっくりと変質していった。それでも、決して最初からあったものが消えたわけではなくて。みかは成人した今だって、ステージの上にいる彼を見るときはきっと、客席のサイリウムと同じだけの輝きを瞳に宿しているし、隣に並び立つ喜びも、それでもやっぱり彼の創る世界を見て感嘆してしまう気持ちも、同じだけの熱さで燃えていた。
彼にも、いつもよりゆっくりと過ごしたい朝があることを知った。別のことに没頭して紅茶をすっかり渋くしてしまうような短絡さも、みかの前ではいつまでも格好を付けようとする純朴さも知った。知ったところで、かつての憧れが消えたわけではなかった。
先に芽生えたのは欲だった。好奇心でもなんでもなく、ただ純粋に、欲しいと思った。その菫色の瞳の先には自分の姿があって欲しかった。彼の隣に立てる唯一の存在になったというのに、横顔を眺めるのが寂しいと思ってしまった。
君はどうしたい。
そう、彼に聞かれたとき、みかは何も言えなかった。じっと押し黙って、みかは彼の言葉を待った。自分がどうしたいか。どう在りたいか。今さら、自分の失言ひとつで彼がみかを遠ざけるとは微塵も思わなかったけれど、彼の前で何かを間違えるくらいならば、最初から彼に答えを提示して欲しかった。だからじっと、黙っていた。
僕は──先に進んでもいいと、思っているけれど。
結局、根負けした彼がそう零したから、みかは間髪入れずに「おれも」と答えた。嘘だった。
本当はどこか、怖かったのだ。唯一のユニットメンバーで、相棒で。ただでさえ彼のさまざまなものをもらっているのに、これ以上何かの肩書きをもらうなんて烏滸がましいとすら思ったけれど。しかし彼が答えをつくってくれるならば。彼がこれを愛だと形容してくれるのならば。他の誰でもない彼がそう決めてくれたなら、みかはもう、他のなんだって捨てていいと思えた。
斯くして、宗とみかは恋人になった。
キスがしたい、とみかが彼に告げたことはなかったはずだったし、彼もみかにそうは言わなかった。恋人、という肩書きを新たに冠したものの、二人の生活にさほどの変化はなかった。自覚はせずとも、元々周りに揶揄される程度には距離も近かったようで、彼が渡仏し、一度欧州の空気に触れれば尚更だった。並んで歩くときに指先を絡ませることも、寝付きが悪いときに体温を分け与えるようにハグをするのも、恋人になったから始めたことではないはずだった。
たしかそんな折の、いつも通りの夜のことだ。冬の寒さに負けたように、はたまた眠りにつく直前まで話し相手を探し求めてしまう幼子のように、男二人で入るにしてもじゅうぶんな広さのある彼のベッドに潜り込んで、薄闇の中に鳥目を凝らしながら取り留めのない言葉を転がしていたときだった。
ふと、会話が途切れた。そのときに話していたのはみかの方で、そしてみかの記憶上、それは何か問いかけのはずだった。だから自分が投げた言葉になんの返答も遣されなかったそのとき、みかは少しだけ驚いて、もしかして眠ってしまったろうか、なんてことを思いながら、首だけを彼の方に向けたのだ。
しかし、果たして。彼の瞼は未だアメジスト色の宇宙の額縁として機能し、そしてみかが最後に見たときは真っ直ぐに天井を向いていたはずのその双眸は、そのときはなぜか二つ揃ってみかを照らしていた。
その瞬間、なにが待っているのかわからないほどみかは子供ではなかったし、彼もきっとそこで自分を律せるほどに大人ではなかった。これまで散々距離が近いと周りに揶揄されてきたはずなのに、その瞬間、焦点が合わぬほど目前に迫った彼の鼻先を見て、近い、と思ったのを覚えている。