@twirl_rabbit
彼が、小さな緑を手にして私の元に訪れた。随分と久しく感じもしたが、その姿はつい一週間ほど前にも見かけたはずだ。
そう、私が「気づき始めた」日に、彼は確かにそこにいた。いつものように楽しそうにニコニコと笑いながら、本丸に起きてきている変化を話してくれた。
そんな些細なことを伝えてくれる、刀剣だった。宵の弓形月の名を冠したあの太刀よりもずっと饒舌に、楽しげに、本丸の刀剣たちのことを話してくれる。いきなり顔を覗かせてきて心臓に悪いことこの上ないが、それ以外は明るくて気の優しい刀剣、という印象しかない。
「珍しいものなんだろう?」
そういって彼は、私に笑いかけた。彼の白すぎる指先にちょいとつままれたそれは、四つの葉を持っている。ハート型の突端を付きあわせたようにまとまったそれは、葉の中心に白い線が走っている。その線は四つの葉を横断し、全体で見れば真っ白い輪になっているようにも見える。
どこで見つけてきたのだろう。ああでも畑や厩の近くには、確かに群生していそうだ。
「よく、見つけられましたね。」
「たまたまな。」
差し出してきたそれを、私は手にとった。懐かしい、子供の頃はよくこれを探したものだ。
「貴方が持っていなくても良いんですか、鶴丸。」
「ん?俺にはそんなもの関係ないからな。」
驚きがもたらされるなら俺が持っていたところだが、と彼はニィと口角を上げて私に笑った。
コポポ、と湯のみの口から空気を含んだ音ともにお茶を出す。二つの湯のみに濃度が均等になるように交互に注いで、私はそれを盆に乗せて縁側へと向かった。そこには、のんびりと空を見上げながらくつろいでいる太刀の姿がある。
彼の側に、湯のみを置いてやる。暖かな湯気はあまり可視できるものではない。それほど、いまの気温が高いのだろう。彼は「すまないな」と一言告げて、それに口をつけた。ずず、と空気と一緒に含む音を聞きながら、私も少し間をあけて彼の隣りに座って、お茶を飲んだ。
チチ、と空で鳥が鳴いている。二つの影が飛び出て、お互い羽ばたいて近づいたり遠のいたり、戯れるだけ戯れて何処かへ飛んでいってしまった。その光景を、一人と一振りでただ眺めた。
「ところで、」
「はい。」
「あの葉っぱ、なんで見つけると「幸運」になるんだ?」
「……知らないで探したんですか。」
「いっただろう、「たまたま」だと。」
三つの中に四つがあればそりゃ目にも付くさ。彼は無邪気に笑った。なるほど確かに、一つだけ異彩を放つものがあれば目にも止まりやすいだろうが、周りに似た葉が沢山あるからこそ探すのが難しいというのに。いや、探そうと思って探すよりも、何の気なしに見つけてしまうことのほうが確かに多いかもしれない。彼はそうやって、「四つ葉のクローバー」を手に入れたのだろう。
「四つ葉のクローバー、というのですけど。」
「くろぉばあ」
「はい。」
四つの葉に、意味がある。それぞれの葉に希望、誠実、愛情、幸運の意味が込められているんだったか。
「ただこれは海外…海を越えた場所にある遠くの国の伝承らしいですけど。」
「へー、そうなのか。」
彼の手元に舞い戻っていた四葉は、水分を失ってしんなりとしてきている。これどうするんだ、と聞かれて私は少しだけ考えてから、押し花にでもしましょうか、と提案した。
「そういえば、一緒に畑をいじっていた薬研が「シロツメクサ」ってこれを呼んでたが、主はいま「くろぉばあ」といったな。」
「ええ、「クローバー」が洋名で「シロツメクサ」が和名です。」
「名前が幾通りもあるのか?」
大変だな、なんて言いつつ彼の目は輝いている。これで学名の話までだしたらどうなるんだろう、と私の中には無駄な好奇心が芽生えた。そんなことは置いておいて、なるべくわかりやすいように私は説明する。
この国にはもともと存在しない動植物が舶来してきて改めてこの国に合わせた呼び方をされることがある。呼称など好きにすればいいものだが、学問の場や交流の場において共通の認識を持てる名前というものはとても大事である。だからこそ「学名」があるのだろうが、いちいちそんなものも覚えていられないし一般的に普及などしない。だからこそ普及しやすい通俗命のようなものが必要だが、洋名・和名が両方あろうとも普及しているほうを使うのが当たり前だ。赤い実の植物の「トマト」は「トマト」であり「赤茄子」などとわざわざ言わない。名前なんてそんなものだ。
「個々を判別できればそれで良いんですよ。貴方の持っている草を「クローバー」と呼ぶ人がいても「シロツメクサ」と呼ぶ人がいても、その名前を「同じ植物である」と認識できれば名前なんて複数あってもいいんですよ。」
そう言い切った私だったが、ふと視線を感じた。そういえば話をしているとき、私の目は彼を見ずにぼんやりと庭を見ていたかもしれない。
失礼だっただろうか、と、改めて彼を見る。そこには、なんとも言えない顔をした刀剣が、いた。
なぜそんな顔をされるかわからずに、私は首をかしげてみせる。そうすれば彼は、もごりと唇を動かした。だが少し動かしただけで、それは音にはならない。何かを言いかけて、止まってしまったようだった。
そよりと風が吹いた。
「主は、名前を軽いものだと思っているか?」
「……そうは、思いませんが。」
本当か?、と笑う彼の表情には、苦いものがほんのり混じっている。何を言いたいかもわからず、しかし促すのも何だか変な気がして、私は彼の言葉をじっと待った。
「ただの、口うるさい爺の忠言だと思って聞き流してくれ。」
珍しくもそんな前置きをして、彼は静かに話を始めた。
名前というものを軽視するつもりはないのかもしれない。ただそれに対しての考えの軽さに、少々だが恐ろしさを感じもした。彼女にとって名前とは、個々を判別するのに便利、くらいの印象なのだろうか。
「確かに、個人を判断するのには丁度いいものだろうな。」
己には「鶴丸国永」という名前がある。この本丸には、「三日月宗近」という名前を持っているものもいれば「薬研藤四郎」という名前を持つものもいる。その名前は「彼らを称するもの」であり、「鶴丸国永」という己に「薬研藤四郎」と呼びかけられても、己は反応することは決してない。名前は、誕生したときにつけられる。時間がだいぶ過ぎてから名付けられる場合もあるかもしれないが、それでも名づけられたものはその生涯を閉じるまで「名付けられた名前」で呼ばれるはずだ。
刀剣たちには名前を重いものと感じているものもいれば特に気にしていないものもいる。その意味を考えたことがあるものもいれば、いないものもいるだろう。燭台を切ったから燭台切とか、乱れ刃を持っているから乱とか、そんな名づけ方もあれば、幸せを掴んで欲しいから「幸(さち)」と名づけたり、玉のように美しい人に育ってほしいから「玉子」と名付けたり、名前にはそれぞれ意味がある。だがそれらはあくまでも「名付け」の意味だ。
「名前にはもうひとつ、もっと大事な意味がある。」
「大事な、意味。」
少しだけ距離をおいて座った女は、自分の言葉を復唱した。噛みしめるように、考えこむように。
いままでは、いつも心ここにあらずでこちらの話を聞いていたような気がする彼女が、こうして自分の話をしっかりと聞いてくれるようになったというのは喜ばしくあった。うつむき加減だった目も、時折こちらに視線を合わせるように上向く。そうした心境の変化が現れたことで、審神者である彼女に好意的な気持ちも湧き上がる。ただそれはあくまで、「一人の人間」に対する好意であり、男女のそれとはかけ離れてはいるのだが。
「名前は、それを与えられた者が生きてきた「時間」と「意味」を表している。」
そう語ると、彼女は不思議そうに目を瞬かせた。
例えば生まれてきた子どもに「太郎」と名付けたとしよう。その「太郎」は、親から「太郎」と呼ばれて人生を過ごし、親戚からも友人からも目上のものからも目下のものからも「太郎」と呼ばれるだろう。「太郎」と名付けられた人間は、その名前と共に「多くの時間」を過ごし、「多くの意味」を持って過ごすことになる。己の子ども、という意味。あの夫婦を両親に持つ子ども、という意味。己の友人である、という意味。自分の部下である、という意味。自分の師である、という意味。名前にはそんな「多くの時間」をかけて築きあげられた「多種多様の意味」が詰まっており、「太郎」の「人生そのもの」を表すものになる。
「二つの名前があろうとも、三つの名前があろうとも、それらはすべて、「名付けられた者」の人生そのものになるんだ。」
だからこそ、気をつけてほしい。気づいてほしい。「名前」を教えることの恐ろしさを。
「主はこの本丸の刀剣の誰かに、名前を教えたことはあるか?」
「……ない、です。」
「そいつは僥倖。」
見据えた瞳が、揺らいでいる。日焼けを知らない肌が、青ざめているのがわかる。
もしかしたら何かを、刀剣に言われたことがあるのかもしれない。「名前」に関する、何がしかの言葉を。
それを知る手立ては彼女に聞くしか今のところないのだが、それを聞いたとしてもいたずらに不安を煽るだけのように思えた。だからこそ、彼女が自ら言い出すまでは、聞くことはしないでおこうと思う。
だが自己防衛だけはしてもらえるように、忠言は続く。
「俺たちのような「人ならざるもの」に、「名前」を教えるんじゃないぞ。」
「名前」を掌握することに興味がある刀剣が、この本丸にどのくらいいるだろうか。いやそもそも前提条件として、「彼女に興味を持っている刀剣」というものがついてまわる。しかし、その興味を持っている刀剣に一振り、どうしても気にかかる存在がいるのも確かだ。誰もが美しいと称するあの太刀ならば、「名前」が持つ意味も、「名前」を掌握することの意味も、知っているはずなのだから。
「「名前」を教えることは、「己のすべてを知られる」ことに等しい。それがただの人間ならば問題はないだろうが、「人ならざるもの」に教えるのは話が別だ。」
「教えたら、どう、なるんですか。」
彼女の声に、震えは混じっていなかった。それが少し予想外だった。表情から鑑みるに、それなりに怯えているように思えたのだが、そうでもないのかもしれない。気丈に振舞っているだけの可能性もあるが、それを暴いたところで事実が変化するわけでもない。
「「名前」を、己の「人と成り」を知られてしまえば……そうだなぁ。」
すべてを持って行かれてしまうだろう。「存在」というものすべてを。
人間ではなくなるだろう、だが何になるのかまでは分からない。ただこの世から、「存在」が掻き消えてしまうはずだ。そうして掻き消えた「存在」は、「奪った者」の側にずっと、ずっと在り続けるのだろう。そこに意志など関係はしてこない。ただただ、在り続けるだろう。
「死はなくなる。ただ、生もなくなる。それが「奪った者」と「奪われた者」にとって幸せかどうかはわからんがな。」
あやふやなのは、己でさえも知るところではないからだ。長く生きていようと、知っていることは知っている、知らないことは知らない。たったそれだけのことだ。
「………」
こくり、と、主の喉元が小さく動いたのが見えた。
彼女が誰かに何を言われたのか、大凡の察しはつく。
「だからな、主。爺の口うるさい小言だ。
誰にも、名前を教えてくれるな。」
そうすれば、人間のままでここから去れる。
それは少々寂しいことではあるが、それが彼女の望んだ結末であるならば誰も邪魔するべきではない。そう思ったのだ。
私の側には、空になった湯のみと、中身の冷めた湯のみ、そしてすっかり水分のなくなってしまった四葉のクローバーだけが残された。四葉のクローバーは、そよりとした小さな風にもすぐに揺れて、どこかに飛んでいってしまいそうだった。
私はそれを見るともなしに眺めて、本当に飛んでいきそうになったときにようやく手を伸ばして、それを掴む。ひやりとした茎をつまんで、じっとそれを眺めた。
三日月宗近と、話をした夜。彼は、去り際に私に言った。
「もしも、生き永らえたいならば、……誰かに「名前」を告げると良い。己の、「名前」を。」
その言葉に私は、審神者候補生だった頃の授業を思い出す。
「刀剣」たちに、決して己の「名前」を告げるべきではない。告げるにしても「偽名」を使え。
教官の真剣な言葉を真面目に聞いている生徒もいれば、話半分に聞いていた生徒もいた。私はどちらかと言えば後者の部類で、それでもその教えは守って「名前」を誰にも告げないでいた。
だからこそ、三日月の提案に心が揺れることもあった。「名前」を教えるだけで、生きながらえることができる、まだ生きていられる、この「審神者」という仕事で失ってしまったものを取り返せないにしても、少しでも時間をもらえるんだったら。そう思わないでもなかった。ここまで生きることに貪欲だったのかと自分でも驚いたが、見えないのに近づいている死期が恐ろしく、逃げ出したい気持ちは常に心の一角を占領し続けている。
だからこそ、彼の提案は魅力的だったのだ。
だからこそ、彼の提案は疑わしかったのだ。
どうしてそんなことで、生きながらえることができるのか。本当にそれは「生きることに繋がるのか」、私の中では答えが出なかった。彼の不明瞭な提案を再度「本当にもっと生き続けることができるのか」などと聞きに行ったところで、あの笑みでなんとなしにはぐらかされてしまいそうでできなかった。いや、これは言い訳だ。単に、私が聞く勇気がなかったのだ。一瞬灯ってしまった希望を、絶望で上塗りしたくなかったのだ。
そうしてもやもやしているところに、鶴丸が答えをくれた。
なるほど、そういうことだったんだ。なるほど、だから「名前を明かすな」と教えられたんだ。
「……どうして、教官は教えてくれなかったんだろう。」
何を危惧して、詳しく教えなかったのか。名前を明かしてしまったら、その先どうなるのか。ただ在り続けるということはどういうことなのか。それは「死」と同義ではないのだろうか。
次々と浮かんでくる疑問に、いま答えてくれる者はいない。聞いたとして、答えは返ってくるのだろうか。
悪戯に疑問だけが増えてしまった、ような気がする。
それでも、嗚呼、それでも。
「……押し花、作ろう。」
この四葉が、また一つの刀剣と話すきっかけをもたらしてくれた幸運を忘れないように。
そしてその刀剣が教えてくれた、「名前」の意味を忘れないように。
「"しおり"にして」
記憶に刻みつけるために。
湯のみと四葉を持った私は、部屋の中へと戻る。
また吹き抜けた風は、夕方の気配をそっと、運んできていた。