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【異夢迷都二次】見よ、勇者は帰る

全体公開 1 11103文字
2025-03-21 00:15:11

BL 小説形式(同人誌書下ろし分再録) 何某と結ばれた煙鬼 時代を経て、人生の潮目に至った老兵の決意

【概要】
・これは異夢迷都の二次創作です。
・2023年に制作した再録短編集「希求の星々」の書下ろしのうちの一篇です。
WEBでの閲覧用に行間等を修正していますが、内容には変更ありません。
・設定捏造たっぷり。

【ご留意点】
・何某と煙鬼のBLです。性的接触、性行為等の描写がないため、カップリングの左右表記はありません。
キャラクター名を列記する際、そこにカップリングにおけるポジションを示唆する意図はありません。
・解釈はご自由にどうぞ(いつもの)。

【注意】
・老衰描写(not死ネタ)、差別的な描写、現実の疾病・医療とは異なる描写等が含まれます。


 作中で肯定的に(または無批判に)描写されている言動・行動の全てが、現実においても適切であるとは限りません。フィクションである事をご承知おきの上お読みください。




【見よ、勇者は帰る】



 新栄華のとある場所に位置する介護医療院。名目上は総合医療施設だが、実態は引退した官僚や傷痍軍人向けの建物だ。麗かな陽気が射し込む室内に、すすり泣きが響く。
 ベッドに横たわる煙鬼の呼吸は静かで落ち着いており、傍らで顔を拭う何某が落ち着くのを待つ。そのうち静かに口を開いた。

「何某、この身体はもう駄目だ」

 すすり泣きは嗚咽へと変わる。
 煙鬼は寝台から彼の膝を宥めるように撫でた。何某はその手を持ち上げ、縋りつくように握りしめる。波立った感情が鎮まる気配は当分なさそうだった。
 身体の限界を誰よりも理解している煙鬼は、今日が自分たちの未来を決める日だと決心しパートナーに語りかける。

「俺を諦めてくれないか」

 



 予言者の少年が盤面から除かれ、天の柱付近で消息を絶った者たちが帰還を果たし、警務総局率いる反体制派が革命を成功させてからおよそ十年。局長である将軍が擁立する為政者が新しく首長の座に就いてからというもの、新都の環境は目まぐるしく変遷した。

 下水道は「新地下区」として整備され雇用が拡大し、今では第二階層のベッドタウンとして申し分ない住環境に改善。他にも下地で横行していた人身売買・臓器売買の禁止、高等教育までの義務化及び無償化が法制化され、第一階層の貧困・第三階層の汚職と街の両極にあった澱みが少しずつ清浄化されていった。

 一方で、良人が街の要職に就く事への反発の声は革命以後未だ根強く、成立した種々の法規も現首長の後ろ盾である良人による人間への懐柔と「侵略」なのではという批判もあった。

「勝手な事を言うもんだ、今まで散々見くびって奴隷のように使っておいて。彼らを反抗の意思のない木偶の坊だと思ってっから足掬われたんだよ。あいつだって良人だ。事情を知らん奴らには外見からじゃ生まれついての見た目なのかどうかなんて分からんだろう?」

 こちらの世界の煙鬼は、夜煙に訪れた際内情をそっと何某に打ち明けた。
 ある時出会った弟馬が言っていた。「良人も人間だ」と。良人も人間と同じく、あまねく権利と安全を得るべきだと。良人や麒麟児、不活人らがどのようにして生まれたのかを考えれば、遅かれ早かれ新都が直面する問題なのではないか。

 何某がそう伝えると、煙鬼も過渡期に然るべき揺り戻しだなとため息をついた。革命は、仲間の方の煙鬼があの冷たい地下の牢獄から脱出した出来事が少なからず後押しになったのではと何某は思っている。
 こちらの世界で和解した旧友たちの仲に首を突っ込む事はしない。ただ、淀んで停滞していた世界が清濁巻き込みながら道を拓いていく時代の流れに、何某は手応えにも似た感覚を覚えていた。いくら自分が「駒」であり、その真実のため拭えない虚無に苛まれたとしても、より良く生きようともがく事は誰にも止められない。
 その時彼の頭に浮かんだのは、目の前の客人と同じ顔をした人生のパートナーの姿だった。

 煙鬼は昨年政府軍の教官を引退し、新たに人間向けに開かれた警務官学校の嘱託職員として働いていた。学校の卒業生にはかつて哮天犬に所属していた青雲もいる。今では人間の巡査一期生として業務に邁進する彼女の様子を、煙鬼は守秘義務に反しない程度に何某に語って聞かせた。

 互いの業務上、共にいられる時間は決して多くはなかったが、何某は彼がまた前向きに仕事に当たれる事を誰よりも喜んでいた。

「お前ももう四十路手前だってのに全然老けねえな」
「十年やそこらじゃあんまり変わらないと思うけど。おっさんはむしろ若返ったよね。顔色が良くなって、雰囲気が明るくなった感じがするよ」

 彼らが出会っておよそ十二年が経つ。
 初対面の頃から顔つきがあまり変わらない何某と、仲間たちとの関わりで生きる活力を取り戻した煙鬼。振り子計画の事件からしばらくの後、パートナーになりたいと先に申し出たのは何某の方だった。

 何某は煙鬼が抱えていたかつての仲間への罪悪感と、命懸けの任務にもかかわらず軍に自分を顧みられなかった痛みに寄り添い、その心を慰めた。
 煙鬼の方は相手から無数に贈られる厚意にやぶさかではなかったものの、「友人」以外の人間関係の構築を如何にしたものか勝手が分からず、結局そんな彼に見かねた何某が意を決して相手の心へ踏み込んだのである。
 「何某は俺に都合のいい事を何でもしてくれるから、たまに騙されてるんじゃないかと不安になる」と、ある時煙鬼が夜煙でこぼした事がある。その場にいる仲間たちは面白半分・本気半分に誤解を解きほぐし、背中を丸める軍人の尻を叩いた。

「そりゃおっさんの事が大切だから何でもしてあげたくなるんでしょ! 恋愛でもそうじゃなくても、あの名探偵は尽くすタイプっぽいし。あいつにその気があるかどうか訊いてみたら?」
「しかし嬢ちゃん、俺は今まで同性とそういう仲になるのを考えた事がなくてだな……
「探偵が側にいるのは嫌?」
……嫌じゃない」

 主をよそに仲間だけで盛り上がっていた我が家へ、密かに耳をそばだてていた何某が帰宅する。全容を聞くや否や愛しの相手へ猛然と駆け寄り「一生面倒見る!」と宣言した。その勢いに押し切られる形で煙鬼も彼を受け入れ(後に話し合いの上、試用期間が設けられ、無事成就した)、仲間たちもそれを祝福し現在に至る。

「老後安泰で良かったな! 『元』・独身老いぼれ!」
「せめてセカンドライフって言ってよ姉御!」

 二人が共に過ごす場所は、大体互いの自室か港の埠頭だ。
 出会った頃から幾分釣りの腕を上げた何某は、胡蝶と自分たち合わせて三人分の夕食の調達と雑談がてら海に向き合った。煙鬼も隣に腰かけて、穏やかな潮風を浴びる。

「俺はおっさんともっと早く出会いたかったけど、ここまで来るのにはあのタイミングじゃないと駄目だったんだと思う」

 しばらく沖を見据えていた何某が、煙鬼の方へ向き直る。

「だから、この先はずっと一緒がいい。いつまでも隣にいさせてよ、煙鬼」
「そうだな。俺もそうしたい。共にいよう、何某」

 飾らない言葉の応酬であっても、内に込めた輝きは変わらない。半ば運命づけられた出会いを経た二人は、お互いに寄り添って生きる事を誓い合った。それが数年前の話だ。





 災難は突如やってくる。久方ぶりに二人で夕食を共にした折、煙鬼は食事中に変調を訴え緊急搬送された。診断の結果は軽い脳卒中で、現時点で命に別状はないものの傍らにずっと控えていた何某にとっては生きた心地がしなかった。
 そのまま煙鬼は身体的疲労の蓄積からか十全に働く事がままならなくなり、何度かの通院を経てとうとう入院せざるを得なくなってしまった。

「ずっと一緒にいようって言ったのに」

 病院の待合室に独り言が霧散する。
 何某は偶然とはいえ、前途を誓い合った仲に天から物言いがついたような気分になった。お互いある程度歳を取ってから結ばれた絆であるのは承知している。しかし突然降りかかった病難を直ちに諦念で以って受け入れられるほど、彼の心は円熟していなかった。

 若さと健康。ないものねだりする感情を振り払っても募る心労。

 何某は帰宅後、毎分に迫る頻度で端末を確認した。幸いな事に「お嬢さん」を通じて煙鬼の体調や入院先での様子が何分か刻みで送られてくる。生身の肉体と軍服のモジュールを連携するインプラントである「彼女」を利用しようと提案したのは煙鬼だった。何某が彼女をそんな用途に使っていいのかと問うと、

「これでも元官僚の端くれだからな。職権乱用はできる時にしておくべきだろ?」

と、彼に笑って返された。十年の間にこんな冗談も言えるようになったというのに。

 後日、「記念写真が撮りたい」という煙鬼の希望で、病室に機材と仲間たちが集められた。
 一人ひとりの表情は明るかったものの、この場にいる誰もが老兵の「もしもの時」を想像しただろう。自分で意思決定が可能なうちに、残せる物を残しておくのには理がある。何某は、それが彼の未練をひとつずつ摘み取ってしまうのではないかという不安から目を逸らしながら準備に励んだ。

 チーム七人、好きに並んでありのままを写真に収める。努めて平常であろうとした彼らの日常の切り取り。撮り終えた後はまるで一仕事終えたような充実感と虚脱感が去来した。

「鍾馗とも撮りたい。彼にもずいぶんと世話になったからな」
「分かった」

 何某の中から、彼の持つもうひとつの表象が現れる。「彼」は何某と同時にその場に存在できない。不調を来して凶渦討伐から離れていた煙鬼が鍾馗と顔を合わせるのは久しぶりだった。
 二人で肩を合わせて撮る。言葉は交わさなかったが、お互いにこれまでを労り合う手つきであったのを皆が見届けていた。
 写真は現像後煙鬼の枕元に、夜煙のカウンターに、霧花と天眼のストレージに、そしてチームメンバーそれぞれの手元へ残された。

「花魁お嬢さん。写真っていいものだな」
「はい。そうですね……

 夕暮れの茜空を臨む病室。何某は懸命に平静を装ったが、過江龍が許しを与えるように背を軽く叩くと、もはや抗えず感情の奔流に身を任せた。寝台のシーツを掴んで崩れ落ちる。探偵として表面上の感情抑制を得意とする彼が自分に縋りついて泣く様を、煙鬼は哀しさと愛しさが綯い交ぜになった瞳で見つめる。仲間たちは静かに部屋を辞し、しばらく二人だけの静かな時間が流れた。





 煙鬼が倒れてから三年目の春。自宅療養に戻っていた彼は折を見て、官僚・軍人向けの医療施設へと移送された。移動は車椅子を用いざるを得ず、日常生活にも介助が必要になった彼は心身に限界を感じ始めていた。
 一方で何某は、夜煙を胡蝶と共同で運営する事でなるべく多く彼に会う時間を捻出するものの、お互いに全盛期を過ぎた身で不安も不満も止まぬ状況に、少しずつすれ違いも生じていった。

 ある日施設内の喫煙所で久方ぶりのタバコを楽しむ煙鬼だったが、何某に強く咎められ気落ちする。「酒ももう後何年か我慢しなきゃな」と軽口を叩くも、もっと自分の身体を労われと震える声で凄まれた。何某にはすでに心の余裕がない。

 煙鬼は自分の体調と、それを見据えた今後の身の振り方を考えてはいたが、それを想い人と共有できるタイミングを中々整えられないでいた。

「何某。俺もそろそろ潮時を見極めないといけねえ時が来そうだ」
「俺はおっさんが決めた事ならそれに従うよ。……おっさん、俺の話なんて全然聞いてくれないもん。ここんとこずっとテレビとパソコンばっか見てるじゃないか」

 煙鬼は煙鬼で本気で何某を想っているものの、彼の懸念を取り払うには至らなかった。時間は待ってくれない。二人ともそれを分かっているからこそ、度々些細な衝突があった。

……おっさんが死んじゃったらどうしよう」
「身体は欽天司へ検体に回されるだろう。今お嬢さんと一緒にいる人間の元軍人は俺くらいだしな」

 何某の未来への不安を、煙鬼は敢えて自分の身体に待つ沙汰の話にすり替える。
 お嬢さんと有機的に繋がっている彼の身の半分は軍のものだ。何でもないように微笑む彼の身体が、政府に弄り回される様を想像して何某は奥歯を噛んだ。この期に及んで「また」、「まだ」、彼を搾取するのかと。
 同時に、今受けられている医療サービス等もまた、彼の地位あってのものだと省みる何某は深く息をついた。飛び出そうになるパートナーの矜持を貶める言葉を、なんとか吐息に混ぜて追いやった。煙鬼も、それは分かっていた。

「大丈夫だ何某。ちゃんと帰ってくる、俺たちの家に」

 煙鬼は十五年前不動港で起こした事件以来、何某に倣って夜煙を我が家と呼んでいる。一緒に暮らせなくても、共にいられる時間がどんなに少なくても、彼らは家族だ。心が帰る場所が自分の家だと。
 背を起こした寝台から、煙鬼が何某の頭を撫でる。何某はその手を取って想いを馳せた。
 ごつごつして頼もしかった手のひらは肉が落ちてしわだらけになり、胼胝で固くなった皮膚はだぶついて厚みがあるのに骨の感触が如実に感じられた。彼に残された時間の少なさを直視させられるようで、何某は唇を震わせた。





 別れの時はやってくる。覚悟していてもしなくても。

 同年の冬、ある朝何某はお嬢さん経由で連絡を受け施設に駆け込んだ。
 煙鬼はもはや自力では上体を起こせないほど弱っており、担当医と煙鬼自身から可能な範囲現状の説明を受けた。具体的な病名はない。若かりし頃の激務から老衰が人より早く進んでいただけの事だと老兵は言う。すでに自分の進退を受け入れているようだった。

 何某はついにパートナーのタイムリミットを突きつけられた。今まで幾度となくこの時を想定したが、実際に事実を詳らかにされるととても平常心ではいられない。相続全般や遺品についても最終的な確認をし、信頼できる者へある程度外注してあると聞いても、全てを記憶していられる自信はなかった。

「おっさん、行かないで……!」

 顔を伏せた何某はか細い声で懇願する。
 煙鬼は愛する人が涙を堪えながら自分の腕を愛撫する様をしばらく名残惜しそうに見ていたが、そのうち心を決めたように語りかけた。

「何某、この身体はもう駄目だ、ついに潮時が来ちまった」

 長い呼吸の適わない肺と喉は、途切れ途切れになりながらも懸命に言葉を紡ぐ。

「俺を諦めてくれないか。この身体ではもう家へ帰れない。大丈夫、少しの辛抱だ。俺たちの家で待っててくれ、な?」

 もう帰れないのに、
 待っててくれとは。

 何某の頭に浮かぶ答えは一つだった。そしてそれはすぐにでもやってくる未来である。何某はこの世での残り少ない眠りに目を閉じた煙鬼の身体を撫でる。後何度彼の瞳を見る事ができるだろう。彼は後何度自分の名を呼んでくれるだろう。
 何某は辛抱堪らなくなって、施設を出て夜煙への帰り道を逸れ不動港へと駆けた。煙鬼とよく釣りをした埠頭にしゃがみ込み、今度こそ声を上げて泣いた。昼下がりに訪れる、釣堀の利用客の決まりの悪い視線など構っている余裕はなかった。

(待っててくれ、って。いつまで待ってればいいんだ。もう全部、終わっちゃいそうなのに!)

 その時、何某の端末がメールを受信した。お嬢さんからではない。煙鬼に使い方を教えた事もある、別の端末から送られたメッセージだ。文面と長さからして、煙鬼が入所する以前に腰を据えて書かれた物だと窺えた。




────

 何某、愛する人へ。
 時間指定してるから多分ちゃんと届いていると思う。
 後で埋め合わせはするから、とりあえずこれを読んでほしい。

 もう後何週間か、もしくは何日かで俺は死ぬだろう。
 だがタダでは死んでやらん。俺はお前とずっと一緒にいたい。
 そのために、俺はヒトの身体を捨てようと思う。

 俺は良人になる。

 恐らくは二年後、将軍が再び新都首長の座に就くだろう。順調に行けばその任期中に、良人の人権保証法と差別禁止法が施行されるはずだ。そして同時に、生身の人間が条件つきで良人の身体になる事も認められる。
 それまで元気でいるつもりだったが、時間が足りなかった。
 
 だからその時が来るまで、俺は冷凍睡眠に入る。

 法の許しが出たら俺はすぐにでも新しい身体になってお前に会いに行きたい。そのために、これまで信頼できる者たちと準備を整えてきた。言っちゃなんだが報道にあまり啄かれたくないから早急に進めてる法案だ。

 相談もせずに話を進めてすまない。
 だが、手段があるのに朽ちゆく老体に甘んじる事は俺にはできなかった。
 今の姿でないと俺は俺じゃないとお前は言うだろうか。寿命は受け入れるものだと怒るだろうか。
 俺は自分のエゴで最後までお前を蔑ろにしてしまっているな。本当にすまない。
 でもお前と共に過ごすようになって、どんどん欲と甘えが出てくるんだ。
 どんな姿になっても受け入れてほしいという欲望が。
 お前なら許してくれるだろうという、信頼と甘えが。

 良人の社会進出が進む毎に保守派の反発は過激になっている。
 これまで良人に対して協力的だった俺やお前が嫌がらせを受けたのも一度や二度じゃない。
 それでも、俺は己の器を変えてでもお前の元に帰りたい。
 恨み言は帰ってきたらいくらでも聞くから。
 だから、俺を信じて、待っていてほしい。

 ――煙鬼

────




 何某は読み終えると同時に、海に向かって慟哭した。
 来たる避け得ない絶望と、それを打ち払う客星のような明るすぎる希望が一気に降り注いで、涙がとめどなく溢れる。感情が波濤の如く乱れる。

 一緒にいたいと言ってくれた嬉しさ、自分に何も相談せず計画を敢行された怒り(と共に同程度の事を自分も十五年前にした過去があるのを思い出しての羞恥)、待っていてほしいと乞う言動に湧くいじらしさと苛立ち、それをぶつけられる当人は今すでに冷たい眠りの中に向かっているだろうという諦念、その眠りが明ければその人は戻ってくるという希望、しかし同時に愛し親しんだ彼の身体は永遠に失われるという絶望……

 何某はしゃくり上げながら、頭と心の逆波が凪ぐのを待った。涙も鼻水も、拭っているのにいつまでもこみ上げてくる。文字通り、胸が潰れるほどの想いというのを身を以って味わっていた。
 いい歳して埠頭で独り号泣している何某を、顔馴染みの釣具屋の息子が見咎めて声をかけた。自殺志願者だと思われたかなと何某は心中で苦笑する。ぐちゃぐちゃに崩れた顔を何とか取り繕った。

 煙鬼の断行に対して悲しみはあるが、今の心の中はその正反対だ。何某の目には何としてでも彼が帰ってくるまで生きてやる、という反抗心にも似た輝きが宿る。
 暖かな冬日和、煌めく水平線に太陽が触れる頃。何某は釣具屋の勧めで心を落ち着けるためにしばらく釣り糸拾いをしてから家に帰った。代価として格安で購入した、二人分の鮮魚を携えて。

 その日以来何某は、テレビやネットのニュースを以前にも増してかじりつくように見るようになった。政治や司法の動向をつぶさに知るためだ。個人的に良人の保護、支援活動にも手を貸した。
 愛する彼が戻ってきた時に、できるだけ過ごしやすい街になっているように。
 今までも街の厄介事を減らすべく行動してきた何某だったが、活動方針がより具体的に、強固になった。エゴイストや似非活動家と言われようが、やらねばならない事がある。仲間たちも力を合わせた。
 もう振り子は揺れない。街を良くしようと働く彼らの起こす波紋は、波となり周囲に広がっていった。












 
 煙鬼が目覚めて最初に耳にしたのは、聞き馴染んだ機械群のホワイトノイズだった。彼の覚醒を察知して、側に待機していた霧花が呼びかける。

「お目覚めですか?」
「花魁お嬢さん、ここは極楽か?」
「起きて最初の一言が冗談なら、再び苦海で過ごすのも問題なさそうですね、おじさま」

 ははは、と二人の笑い声が無数の器具に反響してカラコロと音を立てた。煙鬼の声はすでに肉の震えが生み出す音ではない、独特の響きになっている。

「ああ、久しぶりだ霧花。俺が寝てからどれくらい経ってる?」
「三年と六ヶ月と二十八日です。今までのニュースデータを送信しました。一昨年法案推進派の大臣が軽傷を負うテロ事件があったせいで一時滞りましたが、想定していた各案の法制化までの所要時間は概ね誤差の範囲なのではないかと」
「それはいかん。ずっとあいつを待たせてるんだ。すぐ迎えに行きたい」

 煙鬼は処置台から起き上がって自分の身体の様子を確認する。人間だった頃の視界が思い出せないほど鮮明で、身体も軽い。

 法の制定に合わせて肉体を良人に――機械化した煙鬼は、かつて彼が所属していた部隊の正装、「魍魎」に近い姿に生まれ変わった。チタンに強化プラスチック、シリカで織り上げられた骨と筋肉は、動かす度に囁きよりも小さい砂の流れるような駆動音を立てる。
 顔は見慣れた鬼の面。ホログラムの下にかつての面影はなくても、そのさらに奥には確かに彼がそのまま生きている。

「気分はどうだ、一号」

 処置室の自動ドアが開き、旧友であり現首長でもある将軍が入ってくる。傍らには気難し屋の発明家、雷雲の姿もあった。

「問題なさそうだ。感謝する将軍。雷雲殿も」
「フン! 老いぼれの改造手術なんぞ、デジタル人間の頼みと大金積まれなきゃ誰もせん。まあ、精々どれだけ稼がせてくれるか見ものだな。……『日昃(にっそく)の離(り)なり。缶(ほとぎ)を鼓ちて歌わざれば……則ち大耋(だいてつ)の嗟(なげ)きあらん』……

 煙鬼の器移しに際して、彼と協力し何某に対して秘密裏に雷雲へ協力を願い出、将軍らとの間を取り持ったのは霧花である。振り子計画の停止以来、凶渦――玉獅子の出現が極端に減り、対策モジュール製造での利益が逓減してしまったため、雷雲は良人遷身手術の技術売買と専用器具の生産を新たな収入源とする事に概ね同意していた。

 煙鬼とずっと共にいる「彼女」は新しい身体にも引き継がれた。彼女だけではない。背後にかつて番号を回収し、自分の中に取り込んだ魍魎隊の仲間たちの気配も感じる。怨嗟に囚われた怨霊ではない。穏やかな瞳で、ただ見守っている。お前の選んだ人生と責任を全うしろと背中を押す死者の眼差しを、煙鬼は確かに感じていた。

「将軍、俺は今すぐ家に帰りたい。俺の伴侶を迎えに行きたい」

 そう懇願する煙鬼に、将軍は少しだけならばと、すでに事情を説明し呼びつけてある何某の居場所を教えた。本当はこれから一号に、総府宿舎に戻って良人関連の法整備が整ったパフォーマンスとして、世間に遷身手術者お披露目会見の準備をして貰わねばと目論んでいた将軍であったが、約三年ぶりに目覚めた可愛い元部下を前にして、後で伝えればいいかとため息交じりにその後ろ姿を見送った。

 雷雲製造所有のとある隠された研究施設のロビー。
 煙鬼は宙を滑る羽根のように軽い足取りでそこへ駆け込む。彼を見つけて立ち止まる瞬間、踵のスプリングがきしり、と鳴いた。

 何某。愛するヒト。

 件のメールから三年以上。顔立ちは変わっていないが、目元に疲れが見て取れる。現在の煙鬼の脳ならば、過去見てきた全ての彼と正確に比較ができる。でも、今はそれどころではない。

「何某!」

 呼びかけを受けこちらに振り向いた彼は一瞬戸惑った様子を見せる。しかしすぐに目を潤ませ、煙鬼の元に駆け寄った。彼の全力で以って、全身で抱きしめられる。約三年半ぶりに感じる、愛しい人の重み。
 もはや有機体でなくなった良人の身体にも、何某の腕の圧力や涙と皮膚の熱はしっかりと伝わった。それら全てがデータとしてメモリに記憶される。

 十全に動く身体。愛する彼の姿。ああ、忘れたくない……

「おっさん久しぶり。カッコよくなったね」

 色々言いたい事あるけど、まずはね!と何某は鼻声で笑う。
 煙鬼は彼を抱きかかえ、そのまま舞うようにくるりと一回転した。

「ははは。これで老後の心配は無用だぞ。むしろ俺の方が断然長生きになった」
「うん。……うん! そのまま俺が爺さんになったら面倒見てよ。俺が歩けなくなったり、ボケたりするとこ見ててよ。で、最後は俺を『回収』して。おっさんの中に、ずっと俺をいさせて」
……ああ。お前はずっと俺の側にいろ。もう離さん」

 そのまま二人は強く抱きしめ合い、霧花が引き止め続けた将軍がしびれを切らすまで、長い語らいを続けた。





 それからというもの、装いを新たに現場に復帰した煙鬼は、警務局員としても凶渦討伐要員としても、周囲が驚愕するほど精力的に働いた。身体に問題がなくなった事で精神面の健康も向上し、一昔前よりかなり豪快な面が強化されたように見える、とチームの皆が口を揃えて言う。夜煙にて皆で再会の祝盃を上げた時も、もう酒もタバコも飲めなくなった事を自ら笑いの種にするほどだった。

 曰く、良人になったのはきっかけでしかなく、今でも苦悩や悲しみは自分の中にあるが、時を経る事で感情に距離を置けるようになったのだという。「ただそこにある」と認められるようになったのだと。かつて幾度となく悪夢に見た旧友たちについても、自分が彼らに会いたいからなのだという何某の指摘をやっと呑み込めるようになっていた。

 夢と現実に苦しんででも、今を生きたいと願って戻ってきたのだ。執着度合いで言えば「魍魎」に扮した今の姿は全く以って適切かもしれないと彼は語る。

 何某が煙鬼の手を握り、熱さと冷たさが混ざり合って境界線が温む。何某は愛しい人の新しい身体の感触を早く覚えたいとこぼした。
 老兵は、本当に彼は自分がどんな姿になっても受け入れてくれるのだなと思うと、かつて涙を流す際に熱くなった部分が同じように熱を持つのを感じた。彼をずっと側に置いておきたくなる感情も、初めて気づいたのは彼と一緒になってからだ。

 魂になっても離したくない。

 愛する彼の残滓を電子に換えこの身に収め、そしてその身体すら朽ちた時、二人は何処へ行くのだろうか。煙鬼の想像が明滅する信号となって剛性の脊柱を行き来する。
 残された時間で、これからの事を考えよう。この街の未来と、二人の未来。仲間たちとの未来を。いくつもの苦難を共にした彼らなら、答えにたどり着くだろう。

 見よ、勇者は帰る。新たな時代の黎明に、愛する人と共に、皆が愛する我が家へ。












2025/03/20追記

【補遺】
・タイトルの元ネタはヘンデル作曲の楽曲名。楽曲の背景と本作の内容は特に関係がない。
・雷雲の台詞は易経からの引用。「大耋」は高齢者。「日昃之離」は沈まんとする太陽。人生は始まれば終わる。その理を酒瓶打って楽しまず嘆くようでは凶である、が大意。本作の発想の一端であるが、ここでは「寿命への抵抗」として表現した。



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