@goldenlu0505
2≫ラウルさん【@hagakisan_3】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
3≫ドクトルさん【@mamekikaku_1018】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
4≫アルゴンさん【@ookina_kurutoga】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
5≫ネオさん【@SR_OUA】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
6≫ヨロヅさん【@kale_yasai】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
7≫シェルティさん【@usgnranda 】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
8≫ヴィルヴィスさん【@m8_gt1 】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
9≫ ラウルさん【@hagakisan_3】とのお話の続き。若干の性描写ありますのでご注意下さい。
10≫フェイスレスさん【@ozon_GF9】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
11≫ディールさん(とミンホさん)【@Ky0J1_m】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
12≫ シェルティさん【@usgnranda 】と固定バディ結成記念
13≫ シェルティさん【@usgnranda 】と PG12程度の性描写がありますのでご注意ください。
14≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 皆殺し任務
15≫ シェルティさん【@usgnranda 】イエローコートさん【@ozon_GF9】と 雑談
16≫ シェルティさん【@usgnranda 】ロンドンフォグさん【@TEA_TIME_3PM】と アンナとの生活
17≫ ウィングマンさん【@kkk_kgo】少しだけシェルティさん【@usgnranda 】と 姉妹任務その1
18≫ エンジェルキスさん【@8ra_nannka】シェルティさん【@usgnranda 】、会話の話題でのみウィングマンさん【@kkk_kgo】と 姉妹任務その2
19≫ シェルティさん【@usgnranda 】レナードさん【@iriame8】と 競馬へ
20≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 毛皮と子供
21≫ シェルティさん【@usgnranda 】と ピザと苦行と犬
22≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 盗聴とバスルーム
23≫ シェルティさん【@usgnranda 】と バカンスと爆弾と死人
24≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 山歩きと逃避
25≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 男と女と顔合わせ
26≫ シェルティさん【@usgnranda 】と アクシデント 若干のグロテスク描写ありますのでご注意ください。
27≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 船旅とハイと落下
28≫ シェルティさん【@usgnranda 】と オークションとセクシー衣装とハチドリ
29≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 干し首と制裁と女性 若干のグロテスク描写ありますのでご注意ください。
30≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 刺青とファイナルガール センシティブな事件描写がありますのでご注意ください。
31≫ シェルティさん【@usgnranda 】と 書類の書き方について。企画アフター突入記念とも言います
32≫ シェルティさん【@usgnranda 】と フラッパーと蠍の針
33≫ シェルティさん【@usgnranda 】と ハロウィンと子どもとアノニマス
ラウルさん【@hagakisan_3】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
安らかな寝息は、ロールスクリーンに映写される動画が新たな場面に切り替わったタイミングで途絶える。派遣されたチームが撮影してきた、ドローンによる空爆で、NGO団体の簡易シェルターが木っ端微塵になっている場面。相当な近距離でカメラは構えられている。或いはこのデバイスも、遠隔操作されたのだろうか。
がたんと長机を膝で蹴り上げる反射的な動きと共に、前の席のラウルは伏せていた半身をぬっと持ち上げた。ばらばらになった小さなバゲットのような腕と脚を、死んだ嬰児の胴体へ涙ながらに縫い合わせている医師の姿が、広い背中へ隠される。うあ、とあどけなさすら感じる呻きと共に目を瞬かせ、状況把握へ努めようとしている間にも、発表者は素知らぬ顔で解説を加える。相手が相手だし、何よりも彼は己が説教する神父並みに耳障りがよい声を持っていることを、自惚れている節があった。歌うような抑揚は、聴衆をいとも容易く心地よい眠気へと誘う。
「寝てなよ」
見えないから、と皆まで言うことなく、ジョコンドはレジュメにマーカーでラインを引いた。昼過ぎの時間帯、内勤中の職員が召集されたミーティング・ルームは漫然とした倦怠感が漂っていた。定例報告会で伝えられる情報は、文字通りさして大きな動きがない事案ばかり。SNSを10分ほど眺めれば引っ張ってくることが可能だろう。いや、あれもここの情報線担当者が流しているのかも。
体を傾け、スクリーンを見ようとする背後の身じろぎに、気配だけで気づいたのだろう。ラウルはわざとパイプ椅子の中で背筋をしゃっきり伸ばす。あまつさえ、肩越しに振り返る顔立ちの中、形良い唇は三日月の如くにいっと両端へ吊り上げられた。
「もー、そんな顔しないで下さいよぉ」
だって、人の話は真面目に聞かないと、でしょ? おさげ髪を振り立てる女の子みたいな口調で追撃され、ジョコンドは肩を竦めた。
「にしても、今日来るの遅かったじゃないですかぁ。あ、もしかして、参加するの面倒だったとか?」
「それもあるけれど、コーヒーを買いに行ったら行列が出来てて」
テーブルの端に乗せられたタンブラーの中身は、残り25分の予定時間を残し、もう数口で飲み干せるまでになっている。眠気を覚ますためにと、最初からハイペースで啜りすぎた。ブラックコーヒーの染みへ、ラウルは目ざとく視線を落とす。皺もなく書き込みの一つも入れられず、綺麗に保たれた自らの資料が、まるで誇らしいものであるかの如く手を滑らせる。
「どうせまた、アプリを見せるのへ手間取ってた癖に」
「認めます。最近新商品が発売されただろう、クーポンばっかり来て閉口するよ」
通知マークで真っ赤になったスマートフォンの画面を思い浮かべるだけで、うんざりする。シアトル系だっけ? テックの街で生まれたのだから、もう少し客の心を汲んで、必要なものだけ届けてくれればいいのに。
それとも、精鋭化されたものこそ、人間らしさが削ぎ落とされていくものなのだろうか。目の前の青年のように。
「君も、飲んだの? 何とかフラペチーノ……」
隣から届けられた静かな咳払いへ配慮し、ジョコンドは囁きの声音を少し落とした。ラウルは全くお構いなし、予想のついていたことだが。あは、と軽やかに弾けた笑いは、澱んだ空気を打破するのに、慰め程度の役には立った。
「次行った時奢ってくれるなら、設定の変え方を教えてあげます」
ドクトルさん【@mamekikaku_1018】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
このワクチンがもし効かなかったら、と、肩へ貼り付けられる脱脂綿とサージカルテープのごわごわした違和感へ意識を巡らしながら、ジョコンドは思った。ある日突然、と言うのは、恐らく任務の期間から逆算してちょうど帰国してからになるだろうが、突然流感みたいな症状が出た後、全身から出血して死んでしまうのだ。医学は日進月歩で、特にこの組織では世間に出回っていない病原菌に関する研究も行われていると言え、万能ではない。世界の機運を操る立場にいると、ついつい忘れてしまいがちなことだが。
「心外だな。これはもう臨床試験だって済ませてあるよ」
お次は黄熱の注射、シリンジを先細りの指先でとんとんと弾き、ドクトルは目を細めた。これは小さい頃になった頃があるからいらないと言ったのだが、自分の患者へ強い責任感を抱くこの女医は、どうしても打っていけと勧めたのだ。「もう君は10年近くヨーロッパで暮らしているんだから、過信しない方がいい」淡々とした口調と同じく、接種の用意をする彼女の眼差しは静謐だった。アイデンティティの否定について考える前に、以前世間話の中で僅かに口端へ上げられた、彼女の生まれ育ちについてを思い出す。訳ありの輩ばかりが集められたこの組織で、本当の自分が何者かを知らない人間などごまんといる。けれど、いざその事実を受け入れられるかとなれば、案外少ない。
「試験はアフリカで?」
「香港。有効率は70%だ、インフルエンザよりも高いよ」
「ええっと、つまりリボルバーに弾丸を2発入れてロシアン・ルーレットをするくらいの危険性が残ってる?」
「いや、そうじゃない。有効率というのはつまり、非接種群中の罹患者がもしもワクチン接種していた場合、どの程度発病を減少させられたかの予測可能性を示すもので」
つらつらとした解説の合間に、皮下注射は手早く行われる。熟練の医師である彼女ならば目を瞑っても出来る仕事だろうに、何故か針を抜くとき、大きな溜息が漏らされた。
「言い換えよう。打たずに死ぬのと、打って死ぬのなら、どちらが後悔を覚えずに済む?」
なるほど、と頷き、ジョコンドはシャツを羽織った。
「それにしても、別に恩を売るわけじゃないけれど、こんな任務は君自身が行った方が早い気がするな」
「僕だって足を運びたいのは山々なんだがね」
靴底をこつ、と響かせ、ドクトルは天を仰いだ。
「上が許可しない。相棒にも掛け合うよう頼んだんだが」
「まあ、ヴィルヴィス君は新人だからねえ」
途端、愛らしい顔立ちの中で険しくなった視線に、「死ぬのは老犬からってことだよ」と思わず苦笑を浮かべる。けれどこの宥めも、彼女の機嫌を上向きへ修正することは叶わなかったようだった。
「ビビは優秀さ」
乱暴に脱いだラテックスのグローブと共に、吐き捨てはゴミ箱へ投げ込まれる。
「それに、人の命へ優先順位をつけるのは僕の主義に反する」
「そうだね。じゃあ試料を持って帰ってきたら、優先して分析を頼むよ」
「もちろん。もし新型のウイルスだったら、早急に対処しなければ」
彼女は「感染者ごと隔離後、焼却処分する」ではなく、あくまで前向きに考える。それがこれから赴く死にゆく土地にとって慰めにしかならないのだとしても、葬式が日常へ組み込まれているようなこの組織の中でそう在らねばなっていけないのだとしても。
全く頼もしいことだ。いっそほのぼのしたような気分なりつつ、ジョコンドはふと思い至った。もしも今回持ち帰るのが新型ウイルスだった場合、先ほどの恐ろしく痛いワクチンは全く意味をなさないのではないかと。
アルゴンさん【@ookina_kurutoga】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
キャビネットの瓶の中に浮いているのは、腰の辺りから繋がった状態で臍の緒が首に絡まった双子の胎児。瞼を眇めたのは、開くことのない目に見下ろされているような気持ちになったというよりは、部屋に満ちるホルマリンの刺激臭のせいかもしれない。或いは先ほどから自分自身がひっきりなしにふかしている電子煙草。
もう一服肺の中へ送り込みながら、ジョコンドはパソコンのモニターへ意識を戻した。再生される動画は、試薬を飲まされた犬の様子を10秒ごとにスポット撮影したものだが、今のところ被験体は身を丸めて大人しくしている。実験室の灰色の壁さえなければ、ひだまりの中で昼寝でもしているかの如く穏やかだった。
「お楽しみはこれからだヨ」
アルゴンは慌てず騒がず、いつも通り口元に上機嫌な笑みを浮かべて見守っている。
「それとも、即効性のあるものがお望ミ?」
「即効性はともかくインパクトが欲しいな」
ジョコンドがそう口にするのと、ほぼ同時のことだった。ついと顔を持ち上げたのを皮切りに、その山形食パンじみた身は何かへ導かれているとでも言わんばかりに動き出す。立ち上がってしばらくは、まるで見えない何かを追いかけているかの如く辺りをふらふら、うろうろしていた。動きはやがてぐるぐる、円を描くようなものになり、足がもつれ始め、終いに体はばたんと横倒しに。突っ張った状態で痙攣する四肢と、口から溢れる泡が、もうこの可愛らしい生き物に施す手が何もないことを教えてくれる。
死んだ犬に与えられた毒について、レポートは化学的な見解から専門用語を用いて詳述していたが、どうせ分からないので読み飛ばした。ジョコンドが必要とするのは、使用の際の効果についての情報だった。用紙を3枚捲って、現れた一覧表に目を通す。注射した場合、空中散布した場合、経口摂取した場合──先程の畜生は、どうやら薬剤を注入した角砂糖を与えられたらしい。かつてジョコンド自身、飼っていた馬が腹を下した時にやった方法なので、思わず眉を顰める。
「さっきのは一例、色々な効果が出るランダム商法って奴ネ。暗殺には便利だと思うけド」
「苦いんだね。アルコールに混ぜたらどうだろう」
「ウイスキーよりはクレーム・ド・カシスに混ぜる方がお勧めかナ。何なら舐めて貰っても構わないけド」
キシシ、といつもの調子で鋭く息を吹き出すアルゴンが顎でしゃくった先、デスクの上で、カラフルな包み紙のロリポップは全く無邪気そうに見える。まるで男が振り立てる頭へ結え付けられたシュシュのように。
だが彼の研究室を訪れ話をしながら、口寂しくなったジョコンドがそれに手を伸ばそうとした時、アルゴンは珍しくきっぱりした態度で制止した。どれだけ奇矯に振る舞って見せても彼は学究の徒、自らの落とし子が最大限の効果を発揮するため、どのような方法を用いるのが相応しいか、常に考えている。例えば、不意打ちで動揺させるよりも、実際に効果を思い知らせてから与える方がより大きなダメージを喰らう者も少なくないこととか。
「プラシーボ効果だったっけ」
「ちょっと違うかナ。あれは薬能の最終目標が統一されている前提だからネ。決まった効果を目指さないものは、本来薬とは呼ばなイ」
だからこれは、純粋なる毒。砂糖で分厚く覆わねばならないほど苦い悪意の塊。
例え肺を真っ黒に染めようとも、まだこっちの方が役に立つというわけか。もわりと蟠る紫煙を口から吐き出し、ジョコンドは書類を菓子の傍らへ投げ出した。
ネオさん【@SR_OUA】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
劇場のある一帯と繁華街の狭間に小さな土産物屋があって、暗い店内では肌の色の黒い店主が(こういうところに、「国際的」と謳われる組織の欺瞞がある)むっつりした顔でラジオを聞いてる。観光客が入っているのなど見たことのないそこは、3年ほど前まで組織の伝言板として機能していた。店の奥の奥、マグカップやTシャツを積んだ棚の向こうに設置された、大量のはがきを収めた回転ラックだ。無地のはがきを購入して宛名とメッセージを記入し、ダブルデッカー・バスのはがきの隣の棚、差し込まれた「入荷待ち」のラミネート板の裏へ入れれば完了。店宛てにはがきを送っても、おやじがそこへ突っ込んでおいてくれる。
最初は勿論、シリアスな用途で使われていたのだが、いつの頃だろうか。少なくともジョコンドが組織へ加入させられた頃には既に、そこはユーモアを発揮する場所となっていた。
その日のジョコンドもラックの前で、未読分を確認していた。『アホウドリ、托卵中。ステープラー三種送られたし』。後で手配しておかなければ。首を振り振り、その一葉をジャケットの胸ポケットに入れた時のことだった。そのはがきが目についたのは、皇太子とその弟が跨っているのが美しいアパルーサ種だったことと、ブルーインクでしたためられたメッセージの筆跡が見慣れたものであったのも大きい。
『アッテンボロー通りのパキスタン料理は絶品、特にチキン・ティッカは一食の価値あり。P.S.シャツに飛んだパコラ・カレーの染みが取れない』
実を言うと、今日の昼食は何にしようかと悩んでいたところだったので、こういう提言は有り難かった。これが動画チャンネルで配信者の与えてくれた啓示なら、スーパーチャットを与えてやってもいい。
現実だと小銭をくれてやるなんて無礼になりそうなので、ジョコンドは同じ葉書を購入し、メッセージを書き込んだ。
『漂白なら酸性亜硫酸ソーダ。0.5%の水溶液と酢酸の混合液をに1時間漬け込む、よく絞って酢酸液で洗浄すること』
薬剤は研究室へ詰めているサポーターに頼めば入手できるし、血痕が消えた位ならばカレーくらいお手のものだろう。
結果から言うと、件の店のチキン・ティッカは生っぽく粉っぽく、口の中で粉塵爆発を起こしそうな有様だったし、夜中までずっと胃が凭れて仕方がなかった。
そして自らのアドバイスも、ワイシャツを救う手立てにはならなかったらしい。
「穴が空いたぞ」
電話をかけてきたネオは、開口一番、憮然も露わに叩きつけた。
「洗浄が足らなかったんだろうね」
依頼を受けた『ステープラー』を梱包しながら、ジョコンドは嘆息を漏らした。
「それよりも君、あのはがきは撤去した方がいいよ。職員が片っ端からギラン・バレー症候群になる前に」
「あそこの店は生食用の鶏を出すのが売りだ」
「鶏といえば、『アホウドリ』に面会してくれたんだって? 助かるよ」
今度はネオが鼻を鳴らす番だった。あちらは夜中の2時頃だが、電話口の向こうは騒がしい。クラブか何かにいるのだろうか。この仕事についていると、夜に情報を得ることが思った以上に容易いことへ驚嘆させられる。
「ホーム・シックを起こしているぞ。あの手の新人は、もう少し手間をかけた方がいい」
「そうだね。僕も来週にはそっちへ行くよ」
それまで、お元気で。電子送り状を発行するのへ手間取る余り、そぞろな口調を見抜かれたのだろう。ネオは益々声音を尖らせ「あの肉は生食用だ」と繰り返した。
ヨロヅさん【@kale_yasai】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
21世紀なっても、ニューヨークのモデル会社は、契約したばかりの新人女性モデルを片っ端からヨーロッパ大陸へ送り込んでくるという慣習をやめていないらしい。
「ヨーロッパの男に女性らしさを教え込まれたモデルは、凄く売れるからって、そりゃあもう。ほんと新大陸ってえげつないですよね」
ホテルのエントランスへこれみよがしに横付けされたストレッチ・リモから、ぞろぞろと降りてくる極め付けの美女達にも、ヨロヅは特に感慨を覚えた様子はない。車体へ取り付けられたカメラの映像を映すタブレットは、無造作に寄りかかっていた毛布へ投げつけられる。猫のような唸り声、背伸び。
「昔いた組織でも……いや、あれはもう、『放逐品』でしたけど」
喉が渇いたな、と、ジョコンドは考えていた。あの高級車はきっと滑らかな本革のシート、棚にはサービスのアルコールが山ほど。一方でこちらがかれこれ三日ほど籠っているバンに転がるのはスーパーで買ってきたペットボトル。今朝からミネラル・ウォーターを二本は空けたのに、車内の空気は外気温より間違いなく生ぬるく、乾燥している。
でもこれだって、今晩を凌げば何とかなる。久しぶりに訪れた思い出の地での任務は、ほんの少しと言えジョコンドの気持ちを確実に上向かせた。新無が終われば10日ほどの休暇を取ってある。美術館や建築物を回るのもいいし、季節外れの海辺でのんびり日光浴するのも悪くない。
夢想と裏腹、現実は厳しい。傍受対策を施した盗聴器は周波数を合わせるのが難しく、ヘッドホンからは耳障りなノイズがひっきりなしに放たれている。辛うじて首の皮が繋がってると思えるのは、今回共同で任務に当たる青年は朗らかなままであること。この手の根気がいる仕事において、自分の機嫌を一定の水準に保ち続けることのできる人間は貴重だった。
「そうか、君はここ出身か」
「もうちょっと南の方ですけど。土地柄的に、モッツァレラへはそんなに拘りがない場所っす」
子供のように伸ばされた脚が、がちゃんと重苦しい音を立てる。一瞬視線を落とされた視線にも、ヨロヅはやはり屈託がない。
「あはは、そんな顔しないでくださいよ」
「いや、別に煩わしい訳じゃないんだ」
「え? 酷いなあ、そんなこと考えてたんですか」
今度こそ投げやりさを隠しもせず、ジョコンドは微笑んだ。
「さあ、良い子にして。この調節が済んだら角の店でピザを買ってきてもいいよ」
「あ、まだ終わってなかったんですか。何なら代わりますけど」
「大丈夫……これで済んだ」
ダイヤルを回して飛び込んできた喧騒は、まだ「愉快」で片付けられるレベル、暴力の段階には達していない。万が一にもそんな事態へ発展させないよう、潜入しているプレイヤー達には言い含めてあるが、この調子では望み薄だ。だってあんなにも軽薄そうなヤンキーの女の子達……コカインを吸ったりテーブルの上で胸をはだけさせたり、あちらの女性は本当に慎みがない、なんてぼやいている時点で、自らもこちらの空気へ染まりきっているのだろう。ほんの数年しか過ごしていないのに。
それともこれは、年齢のせいかも。幾らこの土地で生まれ育ったと言え、Z世代の子はもう少しまともなジェンダー観念を持っているのかもしれない。
バンの扉を押し開け飛び降りる身のこなしも、強張った肩を回す仕草も、ヨロヅは全く軽やかだった。
「何かリクエストあります?」
「任せるよ」
そう口にしてから、ジョコンドは閉じかけた扉の向こうへ声を張り上げた。
「靴を磨いて行ったほうがいい、『トマトソース』がついている」
あれは聞いてないな、と首を振り、ずれたてこちらへ滑ってきていた毛布を整える。
たった今までクッション代わりにされ、体温を分け合っていたにも関わらず、投げ出されたパンプス履きの脚はもう温度を失っていた。彼女の代わりにカクテルのグラスを運んでいるプレイヤーが、ヘッドホン越しにも分かるほど声を上擦らせる。「シニョリーナ、その噴水は遊泳禁止ですよ……」
シェルティさん【@usgnranda 】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
「何を泣いていらっしゃるの、ね? 少しそこに腰を下ろして、お話ししませんか?」
人間が財産を手放す必要に駆られるときは死(death)と離婚(divorce)と負債(debt)のどれか一つが必ず絡むというが、役満となると、あんなか弱いご婦人の手には到底負えないだろう。挙げ句の果て、二つ星レストランの上席でひそひそと囁き合う衆目に囲まれ、政略結婚させられた父親の部下に頬を張られたのだ。泣きながら女性用レストルームに駆け込む子供っぽさだって、十分許容される。
許容されないのは、哀れな羊の後をさりげなく追いかけたシェルティだし、彼女が忍ばせたマイク越しに男子禁制区の内容を盗み聞きする自らなのだろう。壁際の目立たないテーブルでコーヒーを啜りながら、ジョコンドは繰り広げられる会話へ耳を傾けていた。
「まあ、お父様が……」
「何も決めずに亡くなって……あの日以来フランツは、ますます我が者顔でお金を使うように……ひいお爺様がハンブルグから持ってきた素敵なものも、それに私が生まれ育った、ブエノスアイレスのあの美しい屋敷だって手放さなければならないかもしれない」
「不幸って、重なる時にはとことん重なるものなのね。こういうときに助けを求めることを躊躇するべきじゃないわ、あたくしも昔……」
落ち着き払っているが決して重くならない抑揚は、嗚咽を柔らかくくるみ込む。昼下がりにはちょうどいい音色。あとは、乱暴な手つきでカトラリーを扱い、ステーキを食らっている標的の夫が少し静かにしてくれれば、言うこと無しなのだが。
「いけないわ、クリスティーズなんて。彼らは禿鷹よ、マニュアル通りに査定して、本物の価値やこちらの事情なんかお構いなし。頼むならば個人の画商が一番、良ければ知り合いを紹介するけれど」
「フランツが何て言うかしら」
「その美術品達はあなたが相続したんでしょう? それに、閉鎖的な世界だから、彼もあなたも知り合いが出来て楽しいんじゃないかしら」
それからもう少しブラーブラーブラー。まるで手紙の最後に×印を3つ書いて文章を封じるように、話は体良くまとめあげられる。すっかり籠絡された生贄は、差し出されたハンカチでかんでもまだ詰まった鼻から、はにかみ混じりに囁く。「貴女は救いの天使だわ」
「彼女はこれからも、悪い人に騙されたりするでしょうね」
助手席から投げかけられた言葉についてしばらく考えた後、結局ジョコンドは、彼女があくまで事実を述べただけだと判断した。証拠に隣の淑女は、既に目の前のことへひたむきに取り組んでいる。
膝の上に乗せたテイクアウトの紙袋を、シェルティはまるでティファニーのジュエリーボックスであるかの如く慎重に開く。一枚で頼めばよかったのに、殊勝にもロールピザを頼んだらしい。「いいえ、遠慮なんかしていないわ」ぱくりとかぶりつきながら、シェルティは短い金髪が日差しに煌めくほど、全く無邪気に首を振った。
「お勧めだって、イェルプに書いてあったの。トッピングも一から選べるのよ」
ピザの形状が何であろうと、トッピングがどうだろうと、何でも構いはしない。ハンドルを操りながら、ジョコンドは点滅信号を見上げた。
「ブエノスアイレスか。あそこはドイツだけじゃなくて、枢軸国からの亡命者が多い。きっとピザだって食べられるよ」
「あちらのピザは白いって聞くけれど」
「チーズが多いってことかな」
「素敵! でもそうなると、しばらくこちらのものは食べ納めってことね」
あなたもどうぞ、と差し出す手つきは、血の気を失った女性の指にハンカチを握らせた時と変わらないのかもしれない。濃い睫毛が流れる柔和な笑みを、レストルームで打ちひしがれていた標的へだぶらせることなどもはや不可能と言っていい。それでもジョコンドは、黙って厚意を受け取った。コーヒーとチョコレートケーキでは腹が膨れなかったし、ロールピザは運転席へ陣取っている人間にこそ打ってつけの食べ物なのだ。
ヴィルヴィスさん【@m8_gt1 】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
これはオフレコで、上へ報告するつもりも無いんだけど。そう前置きし、ジョコンドはこれ見よがしにボディカメラのスイッチを切って見せた。Cー5Mはさっきカスピ海上空を通過したところ。時間はまだまだたっぷりある。
つまり、もうしばらくはしゃっきりいなければならないと言うことで、これでも気を遣ったのだ。輸送機のカーゴは離陸以降、エンジン以外の音が聞こえない。ヴィルヴィスは物静かで、彼の相棒もそう。ましてやこちらは、慣れないダリ語を操りぎりぎりまで軍と交渉をしていた。正直1時間ほど仮眠を取れたら有り難かったのだが、コマンダーの悲しいところだ。
「はい、何でしょう」
インドのルビーほども大きな緋色の瞳がこちらへ据えられ、ゆっくりと瞬く。唇が再び開いて「少し休まれたらどうですか」などと哀しいことを言い出す前に、うん、ジョコンドは頷いた。
「さっき僕は、君をセレナ・ホテルへ向かわせた。僕が命じたことを覚えてるかい」
「はい、中将と」
と、まだ少年らしさすら残す線の細い顎でしゃくった先、ストレッチャーへ寝かされている男を、ドクトルは先ほどから注意深く見守っている。掲げられた点滴で昏睡状態を維持された体は身じろぎの一つもしない。
「どんな手を用いてでも一緒に部屋へ入って、彼自身に金庫を開けさせ、書類を取り出すことですね」
「部屋には情報部が監視カメラを仕掛けてたからね」
ポケットから電子煙草のデバイスを取り出し、ジョコンドは唇に当てた。カートリッジは殆ど空、あちらでは購入できないことを見込んで予備を多めに持ち込んだのだが。
「それで……もう一つは、彼の趣味の利用。決定的瞬間を情報部へ押さえさせること。目的は説明した通り」
「今回の拉致が公になる前に、中将夫人に婚姻関係の無効を申し立てさせ、財産の差し押さえをさせる」
「で、君はホテルのバーで青年に声をかけ、彼と一緒に中将の部屋へ上がり込んだ。2人がシャワー室でいちゃついている間に中将のジョニー・ウォーカーへ睡眠薬を混入し、事後にはあたかも中将が行き過ぎたサディスト癖を発揮したように見せかける為、青年を殺害した、と」
時間がなかった。何せ当初の予定を5週間繰り上げて行動しろと命令が飛んできたのだ、全く無茶な話だった。その為には何でもしなければならない、そんなことは分かっている。
機体がどれだけ揺れても、ヴィルヴィスの瞳はやはり静まり返ったままだった。男性と女性、両義的な魅力を発揮する美貌は、表情を崩さないと冷徹さすら醸し出す。そしてこの組織は、彼が特性を伸ばせるよう手助けするだろう。
「中将は、見られるのが好きでした」
ヴィルヴィスは言った。
「今回は緊急だったので、自由裁量で動くべきだと判断しました。もしも意にそぐわない行動だったならば、謝罪します」
「いや、そうじゃないんだ」
交換ランプが点滅するデバイスはどれだけ手で叩いても、延命することは難しそうだった。
「言っただろう、別に責めてるんじゃないって」
「躊躇した訳ではありません」
「だろうね」
ヴィルヴィスの抑揚は取り繕いではなく、己の仕事ぶりに対する疑念への反応で、微かに持ち上がる。暗がりでも分かるほどには崩れた平静を横目に、ジョコンドは胸元のスイッチを弄った。
「君なら大丈夫だと思ってるよ。ただ念の為、飛行機から降りる前に、服が汚れていないかもう一度確認したほうがいいかもしれないね」
ラウルさん【@hagakisan_3】とのお話の続き。若干の性描写ありますのでご注意下さい。
上がってきた報告書へは「頻繁なPDAが目撃され」と書いてあった。何かの専門用語なのだろう。彼は前職が役人だったそうで、略語を用いることに忌避感を覚えない。
部屋のキャビネットで本来鎮座しているはずの辞書は誰かが使用中。ならば仕方ない、と言えるのではないだろうか。閲覧室へ足を運んだのは、正確を期すためだった。どれだけ組織のシステムエンジニアが頑張ってもグーグルはAIを表示する。
それと、朝からずっとデスクへ向かっていたので、少し歩き回りたかったのも否定はしない。
じめじめとかびの生えたような閲覧室にぴったり嵌まり込む、デレス島で長年風雨に晒された彫像じみたみかけの司書は、まじまじ見たらペリクレスみたいな髭だって生えていたかもしれない。編み物をしている彼女を尻目に書架へ入り、探し当てた辞書の奥付け曰く発行年は1980年代、恐ろしいことに。反り返ったソフトカバーと、若干膨らんでいるページを繰り、ジョコンドは該当の項目を探した。
「PDA(軍事用語)public display of affectionの略。⚫︎使用例:彼は恋人とのPDAを咎められ降格した」
書類というものは実に厄介なもので、余りにもどぎつい事実を前にすると削り取るようにして粉飾を施さねばならない。だからこそ現場の生の声が届きにくいとか無機質で冷たい印象を与えるとか何とか、多分こんなことは遥か古代からずっと指摘されてきたことだろう。
無機質なのは別に構わないのだが、他ならぬ彼が、わざわざ婉曲な表現を使ったのが何だかおかしい。「モテるんですよぉ、俺」と以前の酒の席での豪語が事実ならば尚のこと。
ラウルとおふざけみたいな名乗りをする青年は、死に肉薄させることで、他人の命を生々しく縁取る。白い肌へどす黒く浮いた鬱血、嗄れた絶叫、糞尿の匂い、鉄錆の味、裂けた皮膚へ指を突っ込んだ時の温かなぬめり。
で、多分本人は、そういうものの埒外にあるのだろう。確かに大柄な体躯は逞しく、俊敏さと力強さを両立させている。けれど暴力を振るう時の彼は、残酷ものパルプ小説へ登場する中世の拷問人よりも、肉体的な現実感を伴わないことがあった。
「えー、PDAは普通に若い子も使いますってぇ」
標的が頭を打ちつけて死なないよう、クッションを張り詰められた壁は、いっそわざとらしいほど軽薄な口調から、辛うじて含まれていた真摯さをも吸収する。血飛沫が飛んでいない面へ手持ち無沙汰に背中を押し付け、掌の中の綺麗なガラス瓶を弄びながら、ラウルは唇を尖らせた。
「というか、パルプ小説って最近売ってるんでしたっけ」
顔中グラスの破片で傷だらけになっても、その金髪女性は随分と魅力的だった。だから志願者も多くて選考に迷ったのだとは目の前の男の言だが、信じて良いものか判断に迷う。
まあ所詮、そんなことは些細な問題だった。ケタミンですっかりハイになった女はけだもののような四つん這い。最近配属になった新人の女の子へアナルをめちゃくちゃに弄られてすっかりテンションが上がっている。引き締まった尻をいぐいと押し付ける真似すらするのだ。低い動物じみた唸り声が、窓を黒いペンキで塗りつぶした小部屋に響き、こちらまで酔ったような気分にさせられそうだった。
様子を見にきただけですぐお暇する予定だったが、ラウルは自らが腰掛けていた椅子を壁際に据え、どうぞと芝居かかった態度で示して見せた。ショーはまだまだ続けられる予定なのだろう。柔肌へ指一本触れられることはないが、場の趨勢を握っているのはこの青年に他ならなかった。
「あ、でも確かに、ああいう本には使うかも、Lovey-Doveyとか」
「生憎若い子のスラングには疎くて」
目の前の女のよりも先に、望む言葉をジョコンドが返してやると、ラウルは確かに口元を笑ませたし、おそらく喜んでいることは確かだった。けれどやはり、彼が心底から感情と手を取り合っているとはなかなか思えないのだ。
「なら聞きますけどぉ、お堅い報告書だと何て書くんですか? イチャイチャするって」
「さあ。neckingとか、fondlingとか?」
「フォンドリングはイタズラですってぇ、寧ろ今の状況の方が正しい気も……」
何気なく向けられた瞳は、動きが鈍くなってきた女の腰つきを認めても、さしたる感慨を灯さない。ただ、すっと影の中から身を離し、女の傍らへ歩み寄る。
「あはは、ねぇ、気に入ったんでしょ?」
正気を失った瞳が釘付けになったのを確認し、薬瓶はこれみよがしに振られる。
「だって気持ちいいもんねぇ。どっちが、って言うのは聞かないけど……もうちょっと楽しむ? こっちは全然構わないし」
新聞でも持って来れば良かったなと考えているジョコンドの顔を、責め役の職員はじっと見つめている。まるで彼女自身が乱暴されたかのように、本来一つに結えられていた赤毛はぐちゃぐちゃ、暴力にすっかり陶酔している。指導者へ引っ張られた訳ではなかった。だってラウルの頬は血の気の一つも上らせてはいない。
勿論、目敏い男は自らが始めたゲームのルールブックをしっかり抱えている。
金髪の舌の裏にスポイトで液体を数滴垂らした後は、劇薬指定のオレンジ色をしたピルケースをスーツのポケットから取り出す──中身は、どうだろう。いつもつるんでいるあのマッドサイエンティスト謹製かも。
「いい子。ご褒美あげる」
しばらくの間、赤毛の彼女は躊躇していた。が、仲間であると目されている男に甘ったるく囁かれ、笑みを見せつけられ──膝をついていた彼女が、覆い被さるように身を屈める事で影になった男のかんばせの中、口元しか視界へ入れることが出来なかったのは間違いなかった。
唾液にまみれた唇がゆるゆると開き、青い六角形の錠剤を含む。赤ん坊の如く無意識に、爪の付け根を叩いてくる舌を、ラウルは簡単にいなした。ただ指先は、お愛想程度にルージュのついた前歯を軽く擦り、濡れ跡が乾くより早く後れ毛を耳元にかけてやる。
「もうシンプルにmaking loveで良いんじゃないかな」
ジョコンドの提案に、振り返ったラウルは、今度こそ心底愉快げに目を細めた。
「いや、それはさすがにエグ過ぎるでしょ」
なぁ、と相槌を求められた男は、金髪女と「イチャイチャしていた」恋人は、猿轡を噛まされるどころか全身を縄で雁字搦めにされ、頷く真似すら出来ない。剥かれた目は今にも眦から裂けてしまいそうなほど。確かに、今この瞬間へかかずらっておけば、未来の拷問について思い煩う事はない。
「取り敢えず報告書は差し戻しておくから、適当に直して。あと彼の方も」
「はぁい、ちゃちゃっと片付けまぁす」
鼻歌でも奏でそうな口調へ取り敢えずの落とし所を見い出しておこう。ドアへ向かいざま、ジョコンドは丸々太った羊よりも役に立ちそうな男と、搾りかすと化した女の消費期限について思いを馳せた。
フェイスレスさん【@ozon_GF9】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
指示は最初から「標的を眠らせること」だった。苦痛のない死だ。何せ標的はたったの6歳。その地域で強権を振るう顔役は、唯一愛情を示すことのできる息子を喪えば一層とち狂い、布政はますます大混乱。レアメタルに関する取引もこちらの有利へ運ぼうというものだ。
7つまでは神のうち、幼い魂へ罪はない。なのに当初引き受けた連中は、三輪トラックのアクセルをベタ踏みし、その小さな体を撥ね飛ばしたのだ。まだ歪みの一つもない背筋は複数箇所骨折、地面へ叩きつけられた頭はすいかのようにぱっくり割れる。
それでもその子は生きていた。病院のベッドで人工呼吸器の力を借りつつ、拙くも呼吸をしている。計画通り、対抗勢力の仕業と思い込んだ父親が部下を引き連れて村落を虱潰しにしている間も、ずっと。
「彼らは子供の生命力というものを侮り過ぎていたらしいね」
尻拭いの仕事ほど煩わしいものはない。先ほど売店へ並べられたばかりなザ・タイムズ・オブ・インディアを衝立の如く広げ、ジョコンドは目と鼻の先にある湖畔から吹き抜ける風へ負けず劣らず、湿っぽい溜息をついた。大学病院に併設された公園は早朝にも関わらず人の行き交いが多いけれど、ベンチへ腰掛けた外国人の独り言を気にする者はいない。ましてや、並んだ席で露店のドーサをぱくつく現地人など、警戒の対象にもならない。薄手のトレンチコートの下から覗く白衣は、これから勤務へ入る前に腹を満たしている看護師の姿でしかなかった。
「仕方ないことだと思いますよ。あんな大事故だったのに、生きているなんて思いもしなかったでしょう」
落ち着いた雰囲気の美女の口からは、タミル語ではなく訛りのない英語が飛び出す。クレープ生地からはみ出しかけたじゃがいもを褐色の指で押し戻しながら、フェイスレスは首を振った。
「よしんば息があると気づいたとしても、銃で止めを刺す訳にも行きませんし」
「そうしてくれた方がテロリストとして信憑性が出たかも」
車で殺せない奴は引き金を引かせても失敗する可能性がある、と上が判断したかどうかは分からない。とにかく連中がすっかり面目を失い、早々に本国へ撤収させられた後には、確実な死が派遣されたという訳だ。
既に少年は脳出血を起こしているので、致死量の鎮痛剤の投与が疑われることはないだろう。薬効を誤魔化すためベラドンナまで持参する念の入り用だった。
「モルヒネでの死は穏やかだと聞きます」
フェイスレスが薬剤と機器一式を忍ばせているポケットにそっと触れたのは言葉と同じく、最終チェックの為だろう。その口ぶりは、柔らかく青ずんだ明け方の冷気へ紛れ込んでも気付かないほど穏やかだった。それが彼女本人の性質なのか、役へ成り切っているのかは分からない。
「苦痛を長引かせることは、あの子の為にも、地域の紛争の為にもならない」
容姿は特にこちらから指示を出さなかった。だがその顔立ちを変える時、彼女は資料の中にあった一葉の写真を選び、そこに映っている女性をモデルにして、架空の人物を作り上げた。
夢の神モルフェウスは、幻の中で人の姿を真似るのだと言う。例え朧げな意識の中でも、幼子は亡き母親によく似た女性へ煩いを取り除かれることで、少しは安らぎを得られるのではないだろうか。限りなく苦痛を減らした死。
「失敗しないようにね」
ジョコンドが横目を投げかけた時、既に顔のない死神は腰を上げ、病院へと向かっていた。返事がなかったことを懸念していた訳ではない。ただ、もしその血を思わせる赤い瞳を見つめることが出来たならば、彼女が一体何を見ていたのか知ることが出来たのに、と思ったからだ。戻ってきた時にはまた別の姿へなり変わっているだろうから、これが最後のチャンスだった。自らが機会を失したことを、ジョコンドはとても残念に思った。
ディールさん(とミンホさん)【@Ky0J1_m】と#いいねしたよその子との絡みを勝手に妄想する
研修生達を仮眠室へ案内した時、講師はすかさず口元を皮肉っぽく歪め、緊張した聴衆から笑いを取ろうとした。
「まるで寝台車の開放車両みたいでしょう」。
一方、ジョコンドが想起したのは政治犯収容所。そう、あそこは案外綺麗だった。父がほんの短い期間囚われていたそこへ面会に訪れた時、じめじめ濡れた漆喰壁に打ちっぱなしのコンクリート床へ垂れ流される糞尿、というものを覚悟していたものだから、随分拍子抜けしたものだった。コネとカネさえあればどんな場所でも多少の融通は効くと知るのに、格好の機会だったのではないかと思う。
それらの条件を全て均され、仮初の平穏を与えられる日が来るなんて思いも寄らなかった。特権を取り上げられたからとて文句は言うまい。洗面所の鏡に映る腫れた目と向き合いながら、ジョコンドは内心で独りごちた。
男女別に分けられた部屋は、狭い空間を一層息苦しくさせるよう、小さな二段ベッドがぎっしり詰め込まれている。ここにぶら下がる化繊のカーテンを取り付けることで、プライバシーを担保しているつもりになっているのだ。けれどまあ、こんな職業をしていると、多かれ少なかれ自らを手放すことへ躊躇しなくなる。
できる限り殺している己の足音を除くと、薄暗く静まり返った室内の空気に傷をつけるのは、媚び諂うように刻まれる壁掛け時計の秒針のみ。午前2時半前。定期連絡まであと1時間半。書類と睨めっこをしていても構わないのだが、こまめに睡眠負債を返済しておくことの重要性は、この年になると文字通り身に沁みる。それに次の連絡が平凡な内容であるなんて、神は一言も言っていない。
引き抜いたネクタイを弄び、こちらへ傾いてきそうなベッドの隙間を抜けようとした時のことだった。シッ、と息の音で合図され、思わず背後を振り返る。
左の手前から二番目、下段の淡い緑色をしたカーテンが、手招くように揺れている。隙間から覗く見知った金髪に、ジョコンドは眉をひそめた。
「まだいるのかい。30時間前にもここで見かけたような気がするけど」
「40」
腕時計を確認する際、ディールが注意深く手首を掲げたの、腕を枕にして眠る相棒を起こさないため。深い寝息のまま身じろぐミンホごと巻き込むように文字盤を改めた時、その表情は愛する者を抱いている男が浮かべるに相応しくない顰めっ面で深みを増す。
「3時間だ。あれだけの濃霧なのに、いつまで経っても待機命令が解けない」
この組織は随分と長い歴史を持つらしいが、創設者は同じマットレスに男2人が横たわることを想定していなかったに違いない。とは言え、これほど当たり憚ることなくお互いへの感情を見せびらかしている彼らを目の当たりにしたら、感覚も麻痺して目くじらをたてなかったかもしれないが。
いつだってディールとミンホは揶揄の付け入る隙もないほど全く大真面目で、良い年をした大人だった。なのに脚を絡ませ合って横たわる2人の姿は、狭い庇の下で雨風を凌ぐ子猫達のように見える。どちらかと言えば、無心の寝顔を晒すミンホよりは、落ち着きなく指先を黒髪へ絡め、甘やかしているディールの方が。
腰を屈めて覗き込みざま、己が口の端へ湛えた哀れみは、夜目ですら看過できないほど露骨なものだったに違いない。対抗するように目元へ高慢を乗せ、ディールは足元を顎でしゃくった。
「この前頼まれていた……」
「ああ、もう?」
ハロッズのショッパーに突っ込まれたマルチクッカーの電子表示がエラーを起こし、修理を頼んだのは二日前。ディールの訴えたい言い方をすれば36時間ほど前のことだった。この器用な男のことだから、隙間時間に片付けてくれたのだろう。何せ組織は彼をやたらと拘束したがる。仕事の前か後か知らないが、少しでも2人の時間を作ろうとするミンホへ制裁を課すように。
「助かったよ。まだ5、6回しか使ってないのに」
「それでもう3回も壊したのか?」
むずかるように小さく唸り、擦り寄るミンホを、ディールは庇うような姿勢で抱き寄せ、声を頑なな音色に顰める。
「次はないぞ、買い替えろ」
自由な方の手で指さすディールを封じるよう、ジョコンドはそっとカーテンを引いた。時間は誰にも等しく貴重だ。恋人達にとっても、自らにとっても。時計は3時前。せめて30分は眠れたら良いのだけれど、と、希望的観測を抱く余裕は辛うじて残されていた。
シェルティさん【@usgnranda 】と固定バディ結成記念
偶にある症例だそうだが、脳が故障した人間の中には、それまで学んできた多くの言葉の中から、たった一つの単語しか口に出せなくなる者がいるらしい。例えばある美術蒐集家の老婦人は「beautiful」。ボストンの銀行家は「goddamnit」。
「せっかくならば、人生の最後を“クソッタレ“でなく“美しい”で締めくくりたいものだけれど」
衝立によって蜂の巣の如く区切られたミーティング・ブースは、テーブルもさほど大きくはなく、2人が対面し資料を広げると息も絶え絶え。サーバーから汲んできたコーヒーはしょっちゅうひっくり返され、タイル・カーペットに染みを作るので、慣れた職員は封ができない飲食物を決して持ち込まない。
飲み物はお互い殆ど空、マシュマロに至っては未開封だった。大入り袋の隣でとんとんと打ち付け、きっちり端を揃えた紙の束を、シェルティはジョコンドに渡す。
この組織はレスピレーターの使用を推奨しないとか、死体回収は海兵隊基準ではないとか、怖い顔をして新人を散々脅しつける。なのにエージェントが長期での単独行動を想定される任務へ就く際、指1本分ほどになる厚さの書類を上へ提出させた。慎重の皮を被った臆病はいっそ、愛情の裏返しなのかと錯覚してしまう者だって出てくるかもしれない。
プレイヤーが膨大なサインをしたとなれば、コマンダーも同じく書類へ目を通し、自らのコードネームを連署する必要がある。一式目、今回の任務に関わる自己判断の範疇について。なんと、ぎっしり文字で埋め尽くされた薄紙は複写式ではなく、4ページ全てに署名欄が用意されていた。
冷たく格式ばった文章には、心地良い昼下がりの日差しが、辛うじて緩和の一助となる。おかしな注釈や付記がないか、ざっと視線を走らせつつ、ジョコンドは懐から万年筆を取り出した。
「移民局職員に対する武力行使の権限について、前回から変更があるけど」
「移民局、あの涼しそうな名前の組織ね。状況に応じて判断を、接続海域では……という話ではなくなったの?」
「少し制約が掛かるらしい」
欄外に細かい文字で印字された特記事項を読みながら、気付く。これは恐らく、シェルティではなく、自らに向けた警告だ。今度滞在する国は、上品な言い方をすれば、近頃肌の色が暗い人間に対して厳しくなった。実際、幾つかのプロジェクトについて、要員の引き上げ並びエージェントの配置交換が行われたと聞いている。
今回は、官憲と派手に衝突を起こすようなことはないはず。さっとペンを滑らせながら涼しい顔を貫くことで、この些細な改悪を受け流したつもりになっておく。
「まあ、大丈夫だろう。大学で銃の撃ち合いにはならないさ」
かの国の大学はセキュリティ・チェックが厳しいので、季節外れの転入生として入寮するシェルティは銃を持ち込まない。そもそも彼女は、脅威と見做されない。
既に外見の準備は整えられていた。今の彼女は徹底的にマニック・ピクシー・ドリーム・ガール風。ブルネットのエクステに一筋二筋と入った紫色が、エキセントリックで躁病的で、なおかつ女の子らしく、夢想へ奉仕してくれるのではないかという男子学生達の予感を掻き立てる。
「特に機械工学部の男の子達は、みんな童貞だろうからね。あまり頓珍漢なアプローチを掛けてくるようなら、引っぱたく位はしても目を瞑るよ」
「そんな可哀相なことはしないわ。人間誰だって、初めから上手くやれる方が稀ですもの」
と、鈴を一度だけ転がしたように笑う表情は淑やかだが、大学教授達を相手に回し、オンライン越しの面接を受けていた時の物腰と言えば! 早口でぶっきらぼうな発音から、深く椅子の背もたれに身を預けつつ少し反るような不遜極まりない座り方から、画面の向こうに控える国内有数の有識者は、疑うという発想すら持てなかったに違いない。その1時間、目の前に存在していたおてんば娘へ、傍らでモニタリングしていたジョコンドは、毎度のことながら素直に感服の気持ちを覚えていた。
「冗談は抜きにして、別にセックスする必要はないからね」
「ええ。あたくしの仕事は、彼らの研究、役割、人間性について調べてくること。それから先のことは上の人間が選ぶ」
つと逸らされた視線の先、何の変哲もないアスピリンの箱が、まるでしようのないいたずらっ子であるかの如く、シェルティは口元を緩ませる。
「そして、“選ばれなかった”学生にはこれを飲ませる。そうでしょう、Mr.ジョコンド」
その学生達が一体何の研究に没頭しているのか。一応分析官からレポートは渡されていたが、専門的な内容について2人が理解している訳ではない。というか、詳細が把握出来ていないので、今回の派遣が計画された。要するにペーパークリップ作戦の現代版ということらしい。第二次世界大戦の終結直後、アメリカとソ連は、研究者を分け合うだけの寛容さを持っていた。第三次世界大戦の開始が囁かれる現在、利益至上主義は極限まで先鋭化されている。別にそれを悪だと糾弾するつもりはないが。
署名をするジョコンドの手つきが機械的になり、紙を繰る速度が早まっても、淑女の退屈へ追いつくことは出来なかった。ミーティング・ブースで聴覚を支配するのがさらさらとペン先の走る音ならば、嗅覚へ台頭してくるのは人工甘味料の匂い。ばりんと開かれた袋へ手を差し入れ、シェルティは大きく真っ白いマシュマロを一つ掴み出した。
「この薬、本物そっくり。ラボの人達はとても優秀だわ」
「うっかり頭痛の時に飲んでしまわないよう気をつけて」
「そうね。あちらへ着いたら、間違い防止の為に薬局でタイレノールを買ってこなくちゃ」
小さな女の子が好みそうなラベンダー色のマニキュアは、生え際から少し自爪が覗いている。薬の箱をつついたり、柔らかな菓子へ食い込ませる仕草と同じく、全く無頓着だった。少なくとも、周囲へそう思わせることが出来るくらい、リラックスしている。
「中身が違うから、大丈夫だとは思うけれど……こんな東洋のビーズよりも小さな錠剤なのに、脳へ重度の損傷を与えられるなんて」
こちらが余計な気を回さずとも、彼女は何もかもを心得ていた。毒についてだってラボへ赴き、飲まされた檻の中のうさぎがどうなったか、その目で確かめている。
薬効についての、まるで検視報告書へ記載されていそうな表現は、現実の認識方法について彼女が見せる最大限の譲歩なのかもしれないし、ただちょっとユーモアが発揮されただけかもしれない。或いは、事実をありのままに答えただけなのかも。何事も標準化して理解したがる世間では、無頓着と呼ばれるやり方で。
丁寧とは口が裂けても言えない自らの筆跡は、繰り返すごとに走り書きじみていった。ゲシュタルト崩壊は査定と万が一の保障に関わる。
「そういえば、例の教授達との面接の時、聞いてなかったんだけれど」
さして美味くもない、タンブラーのコーヒーを一口啜って休息扱いにしたが、直後に出した声は自己想定よりも遥かに掠れていた。
「何の研究をしていることになってたんだっけ。ポール・オースター?」
「いいえ、スティーヴ・エリクソン。こういう」
可愛らしい歯形のついたマシュマロから口を離し、シェルティは鮮やかな髪を軽く振ってみせた。
「格好をしているワイルドな女の子って、どんなものを読むのか考えたのだけど。他にも候補はあったのよ。ガルシア・マルケスとジャン・ジュネ、J.G.バラード、あと、紅楼夢」
「紅楼夢はどちらかというとヒッピーみたいだね、偏見を承知で言えば」
二つほど向こうのブースに、誰か人が入ったらしい。幾らもしないうちに、青年の啜り泣きと、それを宥める年嵩の男の潜められた声が衝立の隙間から流れ込んでくる。
シェルティが束の間意識を傾けたのは、よその会話か、それとも中庭を横切った瑠璃色の鳥だろうか。何にせよ、彼女はころころと変わる装いではなく、その恬淡とした精神によって、他者が意図的に引いてある境界線を、苦も無く行き来する。
「その書類、セーフハウスの住所と管理者が一新されたとあったでしょう。注意書きもなく修正してあったから、うっかり見落としてしまうところだった」
「人事異動の季節だからね、多分、この管理者も新人だろう。出来るだけお世話にはなりたくないな」
「大学から車で3日以上掛かるなら、とても“安全”だなんて言えないわね」
憂う台詞に反して、彼女がそこまで懸念を抱いていないことは一目瞭然だった。手間が掛かることと危険であることは比例しない。いや、今回は面倒とすら言えない任務だった。
ただ、ようやく朝晩も過度にじめじめしなくなってきたのに(この霧のおかげで、この国に住む女性は皆美しい肌をしているのだと、以前シェルティは大真面目に力説していた)一番良い気候の時期を捨てて、乾燥地帯へ赴く。ひび割れたタイルと、便座の上に貼られた「生理用品と避妊具、使用済みのタオルと死産した赤ん坊を便器へ流さないでください」の張り紙を見れば、執拗に擦り落とそうとしていた自宅のバスルームの黴だって、懐かしく思うに違いない。
シェルティが住み込む学生寮は、モーテルより多少マシなはず。自らが大学へ通っていたのなんてもう20年近く前だから、己の経験を当てはめる、なんて烏滸がましい真似はしないが。
様々な要素を考慮して個室に出来ないかと掛け合ったけれど、シェルティは「お友達を作ることは得意なの」と、相部屋を選んだ。「それに同室の女の子達は、あたくしが夜に男の子を連れてきたって、怒らないと思うわ。幾ら保守的な東部と言ったって、もう21世紀ですもの」と重ねられれば、わざわざこちらから同じ台詞を繰り返すのも、余計なお世話というものだ。
彼女はキャンパスライフと呼ばれるものを、隅から隅まで網羅するだろう。謳歌するとか、満喫するとかは別として。
良い女の子が神の前で丸裸にされ、最後に現れた清い心根を以て天国へ行くならば、悪い女の子は神出鬼没で、居場所も尻尾も決して掴ませない。だからどこへだって歩いて行ける。
いつの間にか啜り泣きは収まっていた。今や連綿と経文でも唱えているような男の口上だけが、滞留したフロアの空気を支配しつつある。最後の書類へ署名を記すと、ジョコンドは万年筆の鞘を閉め、カフェインにまみれた溜息を一つついた。
「はい、ご苦労様。もう荷造りは済ませたかい」
「ええ……あら、いけない。帰りにコンタクトレンズのケースを買いに行く予定だったの、すっかり忘れていたわ」
ふっと見開かれ、濃く長い睫毛の下から現れた瞳は目が覚めるようなネオン・パープル。敢えて人工的だと知らしめる第一の偽りによって、本質を覆う嘘は見事に秘匿される。既に役へ入っている、幾らかがさつな仕草で席を立ったシェルティは、新たな依存物質を取り出したジョコンドを見下ろした。
「それじゃあ、しばらくの間、ごきげんよう、お元気で、ってことね」
「来週には僕も追いかけるよ」
彼女の妙に穏やかな声音と、充電切れを予告して点滅する電子煙草のデバイスが、何かを想起させる。肺の中へ侵食する濁ったざわめきについて、ジョコンドが思索を巡らしている間、シェルティはその場で佇んでいた。
「今回は組織内の人間関係を壊すことではなくて、あくまでも調査だから、過剰なファックの必要はない。それと……」
紫煙に混ざり込んだグレープフルーツが、コーヒー豆の酸味と絡み合って喉を刺激する。一つ、二つ咳払いして吐き出すと、ようやく視界が晴れた。まだその程度の明晰さは、己の中にも残っているのだ。
「ああ、そう。緊急時の合図を決めてなかった。テキストに何か、アルファベットでも数字でも記号でも、絵文字だって構わないけれど、同一の3文字を連続で打ち込むこと」
「明日のフライトの間に決めておくわね」
ふふっと含み笑いを転がし、シェルティは目を細めた。
「人生の最後に相応しい絵文字って何かしら。あなたなら、何を送られてきたら嬉しい? Mr.ジョコンド」
タチの悪い冗句も、彼女の軽やかな抑揚だと、本当にただの無邪気な戯れにしか聞こえない。この口調としばらくご無沙汰だと思えば、少し残念だと、ジョコンドは正直に認めた。代わりに少し強がった訳ではないが、もう一度デバイスを唇に当て、わざとらしく首を振れば、気鬱からだって少しは逃れられると思ったのだ。
「僕は文字入力が遅いからね、既読無視して直接声を聞くよ」
うんざりするのは仕方がない。自らはまだ、荷造りどころか、最終調整の書類すら上に提出していないのだから。
シェルティさん【@usgnranda 】と PG12程度の性描写がありますのでご注意ください。
「彼って、本当に心優しい性格なの。インド洋でツナの漁獲量が減ったことも、自分の責任だと思い込みかねないような」
化粧室に入ったので、シェルティは胸元へ取り付けたマイクへ吹き込む時も、声を抑える真似はしなかった。個室ではなく鏡へ向き合い、文字通り己の容姿をチェックしているのだろう。極めつけの淑女を装う彼女の声は、けれどまだ心までは演じる役へ売り渡していない。蝶の羽よりも軽やかで自由な抑揚は、どこかそぞろさを孕み、折目正しい夜の帷の縁を爪先立って歩く。
「見たでしょう、この前彼と一緒に歩いている時。勧誘してくるモルモン教徒のお話を遮ろうとするだけなのに、必死の決意を固めて、今にも泣き出しそうな顔をしていたわ……あら、ちょっとお待ちになってね」
と、ハンドバッグを開く音がするのは、清掃人へチップを渡す為だろう。このホテルは若い頃のチャーチル一家が避寒に用いていたような由緒の正しさを自慢にしていたが、大手ホテルグループに買収されて以来、アメリカ式のサービスを提供する。先ほどジョコンド自身もされた通り、瞳孔の縁が滲んでいる、年老いた有色人種の老人が、恭しくタオルを差し出してくれたり、コロンを振ろうとしてくるのだ。
「ありがとう、以前泊まった時の方よりも親切ね。何年前の話だったか……“セバスチャン”、申し訳ないけれど、ミニバーにないなら、ルームサービスでミネラルウォーターを頼んで貰えないかしら」
こつこつと、3.9インチのヒールを鳴らしてその場を離れながら、シェルティは小さく息を飲んだ。焦りではなく、呆れによって。
「困ったわ。彼ったらまだ、トイレで戻しているみたい」
「なんだって。酔い潰したのかい」
沈み込んでいた応接セットのカウチから立ち上がり、カウンターの下に設置されたミニクーラーを覗き込む。そういえばさっき、シャワーを浴びた後に空けたエヴィアンが最後ではなかっただろうか。あれきりアメニティは補充はされていない。本日は1日御籠もりの日で、客室係にも手早く済ませてくれるよう、チップを弾んだ。綺麗になったのはシーツだけ。それは構わない、寧ろそれでなければ。ただあの英語に少々訛りのある女の子、何だかおかしな目つきをしていたような気がする。閑散期のモンテカルロへ長期滞在する年の離れた夫婦、しかも彼らはカジノへも最低限しか足を運ばない。
「大丈夫そう? ……つまり、器質的にって意味だけれど」
「ええ。それに、本人もその気ではあるの。さっきもローストビーフを3回お代わりして」
ふふっと、いたずらっぽい忍び笑いがイヤホンを通して内耳を忍び入り、鼓膜を軽く指で弾くよう震わせる。
「あたくしも先ほど、ニンニクたっぷりのグレイビーソースが掛かったフィレステーキを食べちゃった。付け合わせのコリアンダーと一緒にだから、問題はないと思うけれど……あたくし、何も残さなかったのよ、Mr.。あの素敵なリモージュ焼きのお皿に盛られていたものは。舐めたように綺麗に食べ切ったの」
「それは、素晴らしいな」
幸い、ぱっと灯ったオレンジ色の内照ランプに、ウィルキンソンの赤いラベルが燦然と照らしつけられる。取り出して、マホガニーの仕切り台へ乗せておく。その隣、アイスペールの氷はまだ霜が揮発し始めたばかりだが、キューブが全て溶けてしまっても、突っ込んである96年もののシャルム・プルミエ・クリュの栓を抜く機会は訪れることがなさそうだった。わざわざソムリエに心付けまで握らせ、標的の好みを選ばせたのに。
「彼が動けないようなら、日を改めてでも構わないよ。今回はまだ余裕がある」
ボトルで氷をかき混ぜながら、ジョコンドは腕の時計を確認した。23時48分。予定よりも20分遅れ、なんてことを、もし会話している彼女へ口にされたら、ずいぶん神経質なことだとこちらが肩をそびやかしていたに違いない。
「絨毯の上で吐かれる方が面倒だし」
「もうしばらく、様子を見ましょう」
とん、とマイクを叩く指先の動きは、さながらいたずらっこを嗜めるかのよう。彼女はあくまで落ち着き払っていた。側から様子を見れば、これから彼女のすることなんて、備え付けのバスローブに着替えて化粧を落とし、ゆっくりとバスタブへ張ったお湯に浸かるくらいのものでしかないと誰もが思うはず。
「絨毯に吐くなんて、猫のようね。ほら、毛玉なんかを……そう言えばあたくし、さっき彼のことをマーライオンみたいだって言おうと思ったのよ。紙みたいに顔色が真っ白だったし、それに彼の髪、猫っ毛じゃなくて? この前撫でたら、とっても柔らかかった」
「僕は触ってないから、質感についてはコメントを差し控えるよ」
「彼の子供なら、きっとあの見事な赤毛を受け継ぐことでしょうね。実際に、今の奥さんとの間の女の子も、燃えるような色だそうよ」
その裕福な青年とジョコンドが顔を合わせて言葉を交わした機会は、ほんの数度きり、けれどそれで十分だった。彼がその特権階級的な身分にそぐわない、度を越した気の良さを持ち合わせていると理解することは。だから嫡男であるにも関わらず、父親は事業への関わりを限定的なものに裁定したのだろう。
あんな弱腰と言った方が正しい優しさと、神経の細さを持ち合わせる青年が、10年後に突如非嫡出子に名乗り出られたら、心臓麻痺でも起こしてしまうに違いない。そうなった時のプランもまた上層部では練られているが、目下は種を採取し、育むところから始めなければならない。
幸い、蒔く予定の土壌は豊穣だ──代理母は頑丈で利口なWASP女性だと聞いているし、写真も受け取っている。正直、ジョコンドはそんなもの別に知る必要ないと言ったのだが、シェルティは興味深そうにファイルの中の一葉をためつすがめつし、小首を傾げていたものだった。
(「彼女、ルクセンブルクでメカニックの関係の担当者として赴任していた人でしょう、どうして今回の担当者になったのかしら」「さあね。君よりも美人じゃないからかな」「まあ、Mr. そんなこと言うなんて、良くないことよ、本当に良くないことだわ」)
「赤毛だといじめられたりしないかな」
ジョコンドの面白みのない返しに、言葉が戻ってくることはなかった。「気分はどう? 可愛い人(mon cheri)」 もぐもぐと悪い滑舌が作る訴えは、不明瞭であってもしっかりと、そこに混ざる甘えをマイクへ届かせる。
「そう、良かった」
微かな衣擦れは、男の腕を取ったからだろう。牧羊犬はその口の中に我らの敵を捉え、もう決して離すことはない。
彼女がエレベーターに乗ってこのスイートまでやってくる間に、ジョコンドはコーヒーテーブルへ乗せていたダビドフの箱を取り上げた。モンテクリストなんかいけないわ、アルジェリア出身の毛布製造王なら、ドミニカものを吸っているはずだし、あとペニー・ローファーなんか履かないはずよ、とのシェルティの忠告に従い、靴も履き替えたし、久しぶりにライターで火をつける。彼女がドアノブにキーを差し込む頃、口の中にも、室内にも、柔らかな枯葉じみた、こめかみを締め付ける甘みが蔓延していた。
自身が選んだ倦怠を手で払いのけるようにしながら、仮初の妻は薄く笑んだ。うず高く盛り上げた髪と、ダーク・バーガンディのスーツは攻撃的なショルダーライン。絞り上げられた腰の輪郭、曲げたら膝が破れそうなフレアパンツと、刻々と冷ややかな砂を滑らせ時間を告げる砂時計のよう、或いは女王の趣。そう言えばこのスーツはアレキサンダー・マックィーンだった気がする。
つかつかと臆することのない彼女の歩みから一歩遅れる青年は、年などほんの数歳下でしかないだろうに、まるでよちよち歩きの赤ん坊じみて見えた。
絞られた灯りの中、彼の表情は一層ぼんやりとしていたし、涙で潤んだ灰色の瞳と言えば星を散らしたよりも盲いている。勿論、美しく繊細な人間に共通する自意識だけは一人前以上。部屋の奥で、男が舌に転がしているシガリロの紫煙から、空想的な何かを読み取ったのだろう。その中性的な面立ちは、青ざめから一足跳びに紅潮へ移り、抱えていたよれよれのジャケットへ新たな皺を刻む。
「炭酸水なの? さっきエヴィアンって言ったはずだけど……駄目な人ね。私がお願いしたこと、まともにこなしてくれた試しがないんだから」
優雅だが鋭利な声音が夜の帷を裂き、室内の全てを彼女へ収束させる。それでもう、今回のお芝居は──観客に刃物を向けるパンチとジュディ、肉体的な関係は冷え切っているものの、精神的には未だ逃れられぬ共犯関係にある夫婦──瞬く間にウエストエンドの舞台より張り詰めの色を帯びた。
口火を切り、先導する主演女優が一流ならば、ぴったり付いていくのは然程難しいことではない。ふうっと乾きひりついた溜息を漏らし、天井を仰ぐ仕草も、彼女の演技へ引き上げられて、少しは様になって見えるだろう。
「君はいつでも選ぶ立場って訳かい、ハニー」
「そうでもない。今回は貴方の好みを……それに、彼も貴方を好いていると思うわ」
カウチへおずおずとジャケットを乗せている青年のワイシャツは、嘔吐とアルコール、そして緊張によって、既に汗で斑になっている。そっと滑らされるように意識を差し向けられ、薄い背中はびくりと一度大きく痙攣した。振り返り、その哀れな様子へ視線を舐め走らせる彼女の表情は見えなかったが、間違いない。赤く塗られた唇は、闇の中でも見逃しようがないほど、艶美に吊り上がっていたはずだった。
「……例えそんなこと、貴方が一向に頓着しないとしても。だから、そんな膨れっつらをしないで頂戴。貴方の好きな、ほら、とても」
肩を抱かれ、改めて男の前に引き出しながら、放たれる口上は売春宿でアリアでも歌っているかの如く、静謐な明朗さ。夫が顔を出さない間にも、彼女はこうやって、年下の青年をリードしていたのだろう。既に明確な支配関係は出来上がっていた。だからワインレッドに塗られた指先が、瑞々しくなめらかな頬に触れ正面へ差し向けたところで、青年は身を委ねる。処女のように長い睫毛を伏せるなんて、抵抗とはとても言えたものではない。
「天使のような子でしょう。両性具有的。デヴィッド・ボウイと誰かを掛け合わせたようじゃない?」
「ポップスターは好かないね」
葉巻にはチョコレートでも欲しいものだが、カミュのトラディション・バカラがバーにあったので、先ほどからちびちびと舐めている──嘘はいけない、ここ数日、燻らせていない時でも意地汚くつまみ飲みするものだから、シェルティに笑われている。つまり、演技をしていない時の彼女に、という意味だが。
「表層的だ。本人達もそうあろうとしているのが小賢しいし」
脚を組み直し、さもいけすかない薄ら笑いを突きつける夫に、彼女が臆することはない。役に立たない夫など歯牙にも掛けない、彼女はただ、解放され、逃げるように顔を背ける青年の、白くほっそりした襟足を指先で撫でるだけだった。
「すっかり忘れていた。貴方はボッティチェリの絵で絶頂するような人だものね」
掴まれた襟から、一息で引き裂かれたワイシャツは、隠された全てを露わにする。まだ生々しい切り傷、ケロイド、真新しいどず黒さのものから終わりかけの黄色に至る痣の数々まで、上半身を覆う痕跡は限りがない。喉の奥で掠れた悲鳴を上げ、青年は傷だらけの腕を胸の前で交差させた。
「イザベル……!」
「恥ずかしがらなくてもいいの、坊や。ここには奥さんもパパもいない、誰も貴方を責めたりなどしないわ」
火照った耳朶にふっと息を吹きかける時、唇には完璧に制御された艶めかしさで、笑みが象られていた。
「私は……私達は、貴方に何をしてあげられるかしら?」
大して物珍しい話ではない。子供を産んだ途端、妻を女ではなく母と認識して欲情できなくなったとか、父親に愛されなかった傷を後生大事に抱えているとか。だから、そう、これはもしかしたら人助けだと言い換えることが出来るのかも。
事実、耳殻に軽く歯を立てられ、ひんやりした指先に傷だらけの背中をそっと辿られると、青年は子犬のように鼻を鳴らして震えている。膝まで笑い始めたのを見計らい、彼女はそれまで愛撫していた背を強く押して、その場へ突き倒した。絨毯の上で両手両膝を突き、項垂れる生贄は、従順だった。正面に周り、厳然と見下ろす主人がきつく触れてくれるのを、今か今かと待ち焦がれている。
お望み通り、彼女は青年を欲望の奴隷として扱った。まるで素足のような色をした、艶のあるパテント・レザーのハイヒールで、くっきりした青年の顎を軽く掬う。
「大丈夫。私、貴方のことが分かるの。不気味で、恐ろしいわよね。生命の神秘は……ワギナがぱっくり割れて、ぶよぶよした、気持ち悪い生き物が生まれ落ちるなんて」
男にしては繊細過ぎる造りをした青年の手指が、絨毯の長い毛足を握りしめる。触れる掌がなければ、戦慄する体は今にもその場へ崩れ落ちてしまいそうだった。
「貴方がそうなったのも、何もおかしなことではない……奥さんに負い目を感じる必要はない。貴方はもう、彼女に1人授けて義務は果たした訳だし。大体、あんな無邪気な人が、貴方の繊細さを知るのは到底無理でしょう」
青年が爪先を含み始めても咎め立てることはせず。寧ろ促すように足を軽く突き出す。
「分かるのは……そう、私達なら分かってあげられる」
天使のような美貌の青年が地を這い、恍惚と背をしならせるのを、確かに彼女は裁かない。相手が未だ責任能力がないと言わんばかりに。
実年齢はともかく、彼はまだ子供だ。だから子供を育てることはできない。庇護者の愛情に飢えていても仕方ない。
けれど、罪を差し引いた所で、罰は否応なしに追いかけてくるのが世の中というものだ。なるほど理不尽なことではあるが。
気付けば葉巻の先端には、小指の爪ほどの大きさの灰が溜まっていた。
「そろそろ火を消したいんだがな」
ぼやきは機敏に聞きつけられる。恭しく靴に手をかけ、素足へしゃぶりつこうとしていた青年の頬を軽く蹴飛ばすと、彼女は汗ばみ乱れた髪を、ライオンの調教師よろしくぐっと掴んだ。引き立てられ、四つ足で這ってきた背中は、体の前面よりも一層激しい暴虐の痕跡が刻まれている。もう彼は十分傷ついた、と世間で蔓延る感傷なら、涙を絞り訴えるだろう。
けれど彼は間違いなく妻を満足させられない不能の夫で、父親の期待へ応えられない不肖の息子で、あと、なんだ? 世界の趨勢を左右することのできる、富と権力を持った一族に生まれたことも付け加えておけばいいのか。
どうでもいい、と思う怠け者の心を、まだ甘ったるい最後の嘆息で誤魔化し、ジョコンドは曝け出された白い肌で、葉巻をにじり消した。
シェルティさん【@usgnranda 】と 皆殺し任務
大学生の頃、寮の部屋で話をしていたガールフレンドが唐突に手の爪を切り始めたのを見て、そのままベッドへ縺れ込んだことがある。当時の自らは、20やそこらの若者らしい傲慢さから、昼でも夜でも衝動を催したタイミングで性交するのは当然の権利だと思っていた。突き動かすものは別に性欲でなくても良い。実際あの時、自らはそこまで欲情していなかったのではないかと思う。
だとしたら、可哀相な彼女。ただ楽器を弾こうとしていただけなのに。カリフォルニア州から留学してきて、オペラの舞台美術について勉強していたあの子は、「より幅広い知識を身につける為」と言いながらクラシック・ギターの練習に励んでいた。毎日毎日、辿々しい手つきでフェルナンド・レイの『ある愛の詩』のテーマを繰り返しはじいていたけれど、一向に上手くなる気配はない。我慢ならないと言うには大袈裟だが、許容できるかと問われれば、正直限界に近付いていた。
「愛とは決して後悔しないこと」だっけ。その通り。別に懺悔するつもりはないし、反省もしない。
そもそも、あらゆることが間違っているような気がした。フェルナンド・レイって何だ? 訝しみを手繰っていった先で見つけたのは、昨晩弱々しいWi-Fiで受信していた映画配信サービスから選んだ、ルイス・ブニュエルの不条理コメディ。気取った特権階級の人々はどう言うわけか部屋から出ることができず、行っても戻ってくる。使用人達も外から心配はするものの、室内へ突入することはない。
実際のところ、コンベンションホールで給仕達は右往左往、役立たずという点では変わりなかったが。途中から加勢に来たベルボーイ達の方がまだ、倒れ伏す客を抱え起こそうと勤勉に働いている。魚醤の匂いを凌駕する吐瀉物の甘酸っぱさ、地獄の底から響いてくるような呻き声。支配人は料理長を怒鳴りつけるのへ注力する余り、救急車を呼ぶことを一時的に失念している。
何よりも映画と違うのは、ここに鼻持ちならないブルジョワジーがいないこと。いや、知的富裕層を憎む現代の風潮に照らし合わせれば、この死にゆく者達は極めつけの大罪人なのかもしれない。
「手は洗ったかい。爪の中までしっかり」
「ええ、もちろん」
廊下に出て初めて気づいたが、シェルティはここ数週間見慣れていた黒髪を脱ぎ捨て、短い金髪を真っ赤なスカーフで押さえていた。こんなもの、一介のホテルメイドが持っていたら怪しまれないかしら。免税店で考え込んでいた彼女を唆し、別に今使わなくてもお土産にしたらと買ってやったジム・トンプソンの限定品。例え型落ち品でも、ブランドの名を冠せばそれなりの風格を保つ。太くこしのある絹に、天井へ吊るされたシャンデリアの光が織り込まれ、目の奥まで痺れそうだった。けれど本当はその下に隠されたものの方が、遥かに潤沢な輝きを放つのだ。だからこそ隠している。
そう、これが最大限のカモフラージュだった。彼女が羽織ったトレンチコートの下はまだホテルの制服である紺色のワンピース姿、着替える時間がなかった。この土地の高温多湿の気候のせいで、アペリティフのザラメ入りモンシャムに混ぜた薬物が、ヴィアンドを供されている最中に効いてきたのだ。お陰で晩餐会会場は阿鼻叫喚。犠牲者達に、客室で人知れず悶え苦しんだ挙句死を迎える尊厳は与えられなかった。
組織がなぜ、海洋学者の研究データを欲しがっているかは分からない。ましてや数日の経過観察をレポートした結果、上が標的及び彼女が出席する学会の全参加者を「処分する」という判断に至った訳は、露ほども理解できなかった。
嘘をついてもしょうがない。よく噛み砕けば、それなりに納得できるのだろう。けれど今回は何分、時間がなさすぎた。
連絡員が持ってきた茶色の可愛い小瓶の中身は、ごく微量の摂取だけで食中毒を10倍ほど激烈にした急性症状を引き起こす。体が弱いものはそれだけでも命を落とすが、本当に恐ろしいのはそこから先のこと。患者は病院に担ぎ込まれたが為に全滅する。何故ならラボ謹製の毒素は、医師に投与されるだろうリンゲル液に含まれる重炭酸ナトリウムに反応し、血液を強酸性に変質させ、云々。
死者の魂についてはジョコンドもコメントを差し控えるつもりだが、それを除いたところで実際的な問題は山積みしていた。予想外の効果は予想外の行動へ結びつく。
手に入れるべきUSBメモリは、教授がレンタカーのキーホルダーにぶら下げて携行している。当初の予定だと、標的が部屋に戻ってから回収する手筈だった。が、従業員として潜入していたシェルティからの連絡により、事態を吟味した結果、彼女へ撤収準備を優先させる。
夕暮れが迫る中、マットレスに南京虫が巣食う安宿からスクンビットのメインストリートまでの道のりを、車は15分で走り抜ける。目と鼻の先にある国立病院から救護が駆けつけていることも覚悟していたが、二つ星ホテルのエントランスを占領しているのは秩序立った喧騒ではなく、混乱のどよめきだった。そこから、より動揺の強くなる方角へと逆しまに辿っていくのは容易い。
挙句に狂騒の根源、「私は医者だ」と足を踏み入れたホールは、戦場じみた有様に成り果てている。自らがアレンジした殺意の集合知。ある者は子牛のステーキの上に突っ伏し、あるものは椅子から転げ落ち喉を掻きむしる。どれだけ従業員達が介抱しようとも、数十人の学者達は誰もが死か、危篤の範疇に収まっていた。
職業人としては呑気だし、人道主義者を気取るには冷酷すぎることなど百も承知だ。けれど、近頃個別の永訣へ立ち会うことが多かったジョコンドが、その光景にまず覚えたのは、目を醒まされたかのような新鮮さだった。この後に襲ってくるだろう、どうしようもない決まりの悪さなど、一旦帳消しにしてしまえるほど清々しい気持ち。
一拍遅れて無意識下から浮上してきた緊張感は、あくまで業務上必要な閾に留まっている。取り出した黒手袋を嵌めながら、床で痙攣している犠牲者の傍らを横切り、未消化の人参サラダが混ざった吐瀉物をさっと跨ぎ超え、一通り室内を確認するも、標的は見当たらない。ついでに言うならば、シェルティの姿も。こと仕事に関しては手際のいい相棒がぐずついているとは思えないし、よもや素人に巻かれたなんて失態を犯すはずもないだろう。
「Mr.」
上着のポケットに入れていたスマートフォンを取り出そうとした時の事だった。怒号とえずきと啜り泣きの向こうから呼びかけられたのは。その声が余りにも柔らかく無辜で、本部でお喋りしている時とまるで変わらないものだったから、すぐさま気付くことができる。
バックヤードへと続く廊下を仕切る衝立は、上品だが飾り気のないホールの内装を象徴する無機質な存在だった。学校の備品じみた、クリーム色の合板製。女が2人、その陰に潜んでいたところで、監視カメラからもホールの群衆からも姿を遮ってくれる。まだ使用されていないステーキナイフをテーブルから掴み取ると、ジョコンドは追い縋ろうと伸びてきた誰かの手を爪先で払いのけた。
シェルティは既に旅支度を整えていた。と言っても荷物はない。外套のポケットに突っ込まれているのは歯ブラシと財布、スマートフォンくらいのものだろう。どちらにしろ真夜中のフライトで発つ予定だったから、キャリーバッグは既にジョコンドが受け取って他所に預けてある。
相棒が同じ影へ入り込んできたのを認めると、彼女は励ます為、その場へ留める為に触れていた女の手を、すっと解放した。立ち上がった時初めて、既に逆の掌へUSBメモリが握り込まれていると知る。
「彼女はとても舌が敏感だったようね。途中で違和感に気づいて、厨房へ抗議しに行こうとしていたのだけれど、力尽きてしまった」
衝立へ凭れ掛かる姿勢で投げ出された脚は、もはや震えることすら出来なくなっていた。小麦色の肌は末端から青ずんでいき、血の気の引いた唇には血混じりの唾が、弱々しい呼吸に合わせて少しずつ吐き出されている。
それでも標的の女は、まだ生きようという意志を放棄していなかった。学究の徒らしく、己に運命が訪れた理由を知りたいのだろう。
正直に告げて、彼女が生涯を捧げた研究の成果を褒め称えることは容易だ。けれど同時に彼女1人の為、数多の人間が道連れになった事を考えると、口を開くのは余りに酷だと思った。彼女も、その事実を決して誇らないだろうと思うし──死を間近に見る茶色の瞳は、ぎょろりと血走りながら剥かれても、まだ善意を信じていそうな清い輝きを帯びている。
それに、感傷と並走する打算が告げるのだが、これ以上余計な情報を譲り渡して、後の禍根を作る真似は避けたかった。もう何もかもが、十分過ぎるほどだった。
「連絡が遅れて本当にごめんなさい。説明を受けていたよりも、効き目が出るまで随分早かった……後でラボに報告をしなきゃ」
背後で立てられる衣擦れの音は、シェルティがコートのポケットへ獲物を落とし込み、それから、恐らく注射器を取り出したのだろう。万が一の時に備えて用意された追加の毒。そう、まさしく今のような時の為に。
「いや、構わないさ」
その場に片膝をついた全ての元凶へ、生贄はしがみつくようにして視線を合わせようとしてくる。だからジョコンドも、汗ばんだ顔へ張り付く長い髪を指先で払ってやりながら、じっと彼女の顔を覗き込んだのだ。敬意と、哀れみを持って。
「君は悪くないよ、何もね」
そのまま滑らせた手で口元を覆い、ナイフで肋骨の隙間を貫き通した。肉に宿った命が刃を抱き竦め、やがて震えながら脱力していく。急速に縮む肺の道連れとして引き攣れる呼吸は炎よりも熱く、安物のラムスキンが遮らなければ、掌を焼けつかせていたに違いない。
今わの際、彼女は封殺された口の中で「神様」と呟いたのだと思う。科学者でも最後は。脳裏に過った訝しさから、ジョコンドはわざと目を逸らした。
標的は生きてここから出ていくことが出来ない。動機や死因からヴェールが剥がされようとも、死に閉じ込められた魂が沈黙を強いられることに変わりはなかった。
事切れた亡骸を見下ろしていたシェルティは、やがてカンブレの仕草で腰を曲げた。蹴り足掻くことで捲れ上がった女のスカートを整えてやると、膝の埃を払っているジョコンドへ手にしていた注射器を渡す。
「こういう仕事って、プレイヤーがこなすものだと、あたくし思っていたのだけれど」
「君を信頼していない訳じゃないよ」
ナイフはたったの一撃で刃こぼれし、うっすらと脂肪の膜が張っている。床へと投げ捨て、ジョコンドは封鎖されていた廊下へ続くドアを押し開いた。
「ただね……君に任せるまででもないかと思ったんだ」
正面玄関には警備員が続々と集結していた。このまま厨房を抜けて車を走らせ、戦勝記念塔駅で待つ連絡員から荷物と出国に必要な書類一式を受け取り、そのままドンムアン国際空港へ──LCCか。酒を頼み、到着までうとうと微睡を愉しむという、ささやかな贅沢すら許されない。
「何だかおかしな感じね。ここまでしたなら、最後まで見届けて、後始末までして帰れと言われるのがいつもの流れなのに」
「それだけまだ上の連中は、あの薬を信じているのさ」
「確かに効きは早かったけれど、効果は十分あったみたい」
衝立の向こうではいい加減、まともな救護者が駆けつけたのだろう。ざわめきが唐突に増し、嗚咽が安堵と悲壮、二つへ波の如く割れる。
「それに、もし生き残っていても、現地の駐在員が何とかしてくれるだろう」
すっと傍らの腕を取ったシェルティの肌から、安っぽいスミレのコロンとアメニティに使われるレモングラスの匂いが立ち上る。これでも、近頃ずっと、緑色に澱んだ川沿いの安宿へ待機していた己よりも高尚なふりをしていると言えるのだ。
自らがみすみす、どぶの中へ突っ込んでしまったようにしかジョコンドには思えなかった。もう少し如才なく上を説得できただろうに。或いは標的の命を終わらせることが出来ただろうに。何事も100%完璧な作戦なんて有り得ないが、やはり己にがっかりしてしまうのは否めなかった。
後悔している猶予はない。これ以泥を被らない為にも、裾をからげて歩く必要がある。
事実、シェルティはそうしているようだった。彼女が正面を向いているのは、足元を見ないようにしているのではない。下は愚か、どこにも見せないよう、注意を払っている。こつこつとリノリウムへ響くローヒールの足音はただただ背後へと流れ、今や彼らにとって過去のものとなった騒ぎへ収束していくばかりだった。
腕の時計を確認すれば、嵐の中へ突入していたのはほんの短い期間だったと証明してくれる。けれど外はすっかり闇に沈み、ソム・ヤムやロティを売る屋台の軒では、裸電球がじりじりと音を立てていた。これからの帰宅ラッシュ、幹線道路は混雑するだろう。予定だとフライトは21時55分発。格安航空は搭乗時間の融通が効かないから困る。そうぼやけば、シェルティはころころと笑い、「それならあたくしに任せて、Mr.。オンライン・チェックインなら手間も掛からないでしょう」と、コマーシャルみたいな台詞を口にした。
幸い、ボロい日産のレンタカーは特にスムーズに大通りへ乗り込むことが出来る。最初の目的地まで渋滞を加味すれば40分、というのも、少し楽観主義的な考え方かもしれない。
助手席のシェルティはしばらく大人しくしていたが、やがてまじまじ見つめていた己の爪へ向けて、潜めた声を吹き付ける。
「本当にしっかり洗ったのよ。でも何だか、青ずんできたみたい」
「見せてご覧」
経皮吸収することはないと説明を受けていたが、何せ能書よりも4時間早く人を殺す薬だ。実のところ、ジョコンドはあの茶色の小瓶の中身について、もはやこれっぽっちも信を置いてなどいなかった。
あと10分もしないうちに痙攣を起こして意識を失うかもしれないのに、信号待ちの隙をついて手を差し出すシェルティの仕草へ屈託はない。対向車のヘッドライトを頼りに改めれば、確かに右の人差し指だけ、心なしか染まっているような気がする。鮮やかなエメラルドブルー。
「マニキュアでも塗ってた?」
「いいえ、服務規定に逆らったりしないわ。でも……ああ、そう言えば、今夜会食で出されたポワソン、アオブダイを使ったものだった」
そう1人で納得し、手を引っ込めたシェルティが笑っていても、別に怒ったりするつもりは毛頭なかった。けれど正面に向き直った真顔は明らかに、排気ガスと川からの悪臭で澱む夕闇の先へ気を取られている。
「あの青い魚。Mr.は、あんなもの食べたら腹を壊しそうだって、怖がって口をつけなかったわね」
「怖がっていた訳じゃない、無謀な冒険で持ち込んだ胃薬を減らしたくなかっただけだよ」
「さっきの学者さん達、みんな美味しそうに食べていたわ。もしかしたら薬じゃなくて、あれのせいで食中毒を起こした人だって、何人かはいたかもしれない」
それを彼女の呵責だと叱咤する気になったり、ましてや気遣いだと穿ったならば、それは己の心身が弱っている証だと見做すべきだろう。けれどジョコンドは、相棒が本気で確率の法則について考えている間に、どうせならもう少し文化的なことを捏ね回したいと思っていた。例えば愛についてとか、後悔についてとか……いや、馬鹿げてる。或いは、清潔を保ったり、ギターを弾くために短く切られる爪について。
「実はここにいる間に、家のベランダへ置く椅子を買おうと思ってたんだ。ピーコック・チェアって言うのか、大きな籐の椅子をね。それで先週、家具屋へ見に行ったんだけど、思った以上にエマニエル夫人が座ってそうだったから」
「あら、デートなんかなさってたの?」
「いや、昔の映画で……フランシス・レイが音楽を、確かそうだったはず」
闇がほんの少し澄んだと思ったら、小雨がぱらついてきた。フロントガラスを丸く汚す砂埃さえ、鼻で笑う細やかな雫。つまり、これくらいで済んだとか、まだ全然マシだとか言える類のものだった。
雨季へ入る前にここから脱出できることはこの上ない幸いだ。この点については、隣の相棒だって、きっと心の底から同意してくれるに違いない。
シェルティさん【@usgnranda 】イエローコートさん【@ozon_GF9】と
本部にいる全職員を対象にした退去命令が出たのは、今月に入り2度目。前回はラボからのガス漏れで、今回は爆弾を設置したとの脅迫が来たことにより。
「いや、爆弾は2回目だ。18日に」
「そうだった? ……18日はドーハにいたから、すっかり忘れてた」
冷めたコーヒーを啜り目をしょぼつかせるジョコンドへ、対面に腰を下ろすイエローコートは眉間に皺を深くすることで呆れを表明する。
「良かったな、本部へ帰還したら建物ごと消え失せてたなんてことにならなくて」
「昔、君がナフサ・シューラー評議会の分派へしたみたいに?」
「あれに俺は関わってないぞ」
それに、建物は残っていただろうが。嘯きの後に最後の一口が飲み下され、分厚いコーヒーカップは空っぽになる。すぐさま、よく周りを見ている女給のアリシアが、コーヒーサーバーを片手に近づいてきた。油汚れでネチャネチャするビニールの床の上でも、彼女は黒いローヒールの靴を溌剌と響かせ、テーブル席の狭い隙間を自由自在に泳ぎ回る。とは言うものの、こちらへ来る途中、2回ほど足止めさせられては、差し出されるカップに薄い色の液体を継ぎ足さねばならなかったが──そう、ここのコーヒーはアメリカンだった。オーナーは合衆国南部出身だと聞いたことがある。オクラホマ・スタンダードだっけ? 洒落た性格でもなく、コーヒー豆を変えたり、ましてや複数の品を揃えたりなんて真似は金輪際する気配がなさそうだった。
国際的な組織を標榜している関係上、エージェントには頑迷なコーヒー党も多数存在している。彼らが愛し、対立政党が蛇蝎の如く忌み嫌う大衆食堂は、本部の1ブロック先にある。あの親父、実はオリジナル・エージェントの知り合いらしいとか実しやかに囁かれている噂が本当かどうかは分からない。少なくともジョコンドがこの職に就いた頃から、既に店は組織の人間の溜まり場と化していたし、「個人的」なんてレベルの面談もここで行われたりする。先ほど3杯目のお代わりを所望した女性コマンダーも、しょぼくれ顔な若いスペシャリストの話へ、かれこ1時間は耳を傾けていた。つまり、ジョコンドが店に入ってからずっと、と言うことになる。
「春はおかしな人間が増えるからね」
ジョコンドはあくまで、自らが仕えるそこそこ大規模な超法規的組織を、盛大に爆破しようとした人間の精神状態を懸念した。だが彼と同じ場所へ視線を走らせたイエローコートは、「近頃はカウンセラーの予約もパンクしてるらしいな」と肩を竦める。
「幸い俺は行く用もないが、アザーサイドがぼやいていた」
「彼ね。ある日突然、自分の頭が空っぽになるなんて、僕ならとても恐ろしく感じるだろうな」
誰かが遅めの朝食、或いは早めの昼食を頼んだのだろう。甘くもったりした煮豆の匂いが、厨房から一際濃く匂い立ち始める。10卓足らずのテーブルと、その半分ほどの人数が占拠できるカウンター席、どこかに己を満たそうとする人間がいる。
自らだって、こんなことが起こると分かっていれば、本部で慌ただしく昼食を摂ることなんかなかったのに。昼間だからと二本に一本しか点灯していない天井のLED照明の下、一層汚らしい澱の残ったコーヒーカップの底を見下ろして、ジョコンドはポケットから電子タバコのデバイスを取り出した。喫煙が当然の如く容認されているのも、この店の利点だ。既にショートピースの吸い殻を灰皿に溜めているイエローコートは、かつて店名を書き込んであったのだろう、窓ガラスの掠れたペンキ越しに、外へと視線を走らせる。
「空っぽってのは正しくないな。あいつはまだおつむの中身が残ってる。スポンジと同じで、吸収はできるのさ」
「君が水を遣ってる?」
「アホ抜かせ」
グレープフルーツの水蒸気へぶつけるようにしてタールを吹きかけざま、男の唇は心底苦々しげに歪められた。
「こっちは子守のために雇われた訳じゃない」
よく人間は、玉ねぎの皮のように外面を剥がしていった先、その芯にあるものこそが正体なのだと例えられたりする。けれど、この組織の人間はどうだ。子供の体に爆弾を巻いて歩かせる非道さや、金さえ渡されれば昨日の味方の頭を吹き飛ばす冷酷さを、上品なスーツで包み、紳士たれ、淑女たれと説く。白いカップの中にはどす黒い液体が注がれている。苦いものを飲み込んだ暁に、腹の内を見せることは許されない。
去って行こうとした女給を呼び止め、ジョコンドもお代わりを注いでもらった。安全が確認されるまで、あと1時間はかかるだろう。もしも本当に爆弾が設置されていれば、更に数時間。誰かが憎しみを露わにして作った決死の一撃は、感情ですらお高くとまった職員達に散々嘲られる。
嘲ることなど想定すらしていないのだろうシェルティは、窓越しでもこちらを認めた。店のドアを潜り、こちらへ向かってきた彼女を、今回ばかりはジョコンドも窓際の席へ座らせなかった。
「買い物はできた?」
「ええ。明後日からはセブ島でしょう? 涼しいストッキングが欲しかったの」
掲げられた茶色の紙袋に、イエローコートは露骨に眉を吊り上げてみせた後、ジョコンドに向き直る。
「信じられんな。ストッキングに暑いも涼しいもあるのか?」
「僕も難しいことはよく分からない。でも、実際に着用するのは彼女だから」
「殿方は皆そう仰るけれど、大変なのよ。本当は素足で過ごしたいくらい」
彼女は女給に、コーヒーと玉ねぎ抜きのコーンビーフサンドを注文した。
「本部はまだ閉鎖されているのね。ここへ来る前に、あたくし、遠回りして様子を見てきたのだけれど。何人かの職員の方は、遠巻きに眺めていたわ」
「間抜けどもめ。一緒に吹き飛ばされても、自分達が家具扱いされて、火災保険で補償されると思ってやがるんだからな」
「まあ……でもMr.イエローコート、家具だなんて」
サンドイッチを齧りながら、シェルティは首を傾げた。毎日開店前に拭われて、雑巾の拭き跡がついている窓ガラスの向こうに、まだ何か興味のあるものが佇んでいるかのように。それは危機的状況に陥っているとされる本部のことだろうと、通常なら考えるだろうし、実際彼女もこう口にした。
「予告通りの爆発物が隠されているなら、爆風のおかげで炎は消えるでしょうね。なのに『火災』保険、何だかおかしな話」
今彼女が「おかげで」と言ったことに、この場の誰もが難癖をつけなかった。ある災難は別のところで恩恵になりうる。初歩的とすら言える考え方なのに、ジョコンドはそれ以上深く掘り下げたくないと思った。一切れどうぞとバディに勧められたサンドイッチが案外美味しかったのもあるし……そりゃあ勿論、玉ねぎが入っていた方が良いことは確かだったろうけれど。刺激がない状況にもいい加減慣れている。或いは清涼剤的な役割のない状況、というのか。
まだ避難命令は解除されていなかったが、ジョコンドはサンドイッチの皿が綺麗になって幾らもしないうちに、本部への道を戻り始めた。
「さっきの店のオーナーだけれど、カウンターで爆弾の話をしていた時、びっくりするくらい嫌そうな表情を浮かべていたわ」
隣を歩くシェルティは、まるで男の子みたいに紙袋を小脇へ抱え、吹き抜けた風に軽く肩を竦める。ここのところ雨の降ったり止んだりが続き、じっとりしたそれに火薬の匂いはしない。何故か、がっかりしてしまった。
「彼はオクラホマ出身……」
「もしかしたら、連邦政府ビル爆破テロを覚えているのかも」
「それって、たくさんの人が死んだ事件でしょう」
近頃この界隈でも増えた、署名をねだる若い学生風の男性へ、困ったような笑みで手を振りながら、シェルティは言葉を継いだ。
「ごめんなさいね。小銭とストッキングしか持っていないの。スマートフォンは本部に置いてきちゃったから……以前、研修でスライドを見せられたのだけれど、確か車爆弾を使ったのよね?」
「うん。僕が知ってる限り、さっき本部前にトラックやバンが停まっている様子はなかったけれど……君は見た?」
「いいえ」
ANFO爆弾は持ち運びに苦労する。それに確か連絡では、「建物内に爆発物が仕掛けられたとの情報があり」とあった。僕が持ち込むならば、設置するならば……陥りかけた沈思黙考は、けれど「馬鹿げている」の一言で、簡単に薙ぎ払われる。そもそもの成り立ちが富裕層のノブレス・オブリージュだっただけあり、この組織は資金がやたらと潤沢だ。人件費も設備投資も惜しまれることがなく、そんな簡単に爆弾を持ち込むことなど出来はしない。己の故郷やアメリカの田舎とは土台条件が違う。もっと大きな流れの中で動いている、これは皮肉のつもり。
重たげなシェードじみたそよ風が、再び頬を撫でる。人を狙った爆弾テロが良くないものだという認識まで、ようやく思考が戻ってきた。
「本当よ。スマートフォンを置いてきてしまったのは」
あの通りの角を曲がれば本部の建物が見えてくる。もう既に視界へ入っているかの如く、シェルティは顎を軽く持ち上げ、唇を笑ませた。
「デスクの中の、機密書類を入れる引き出しに……Mr.は笑うでしょうけれど、あたくし、今回はちっとも怖くなかったの」
「今回も、じゃなくて?」
呑んでいた煙とコーヒーが作る、口の中のひりつくような乾燥を持て余しながら、ジョコンドは返した。
「嫌味じゃないよ。君はいつでも、勇敢な女の子だってね」
既に本部玄関にはぞろぞろと人の塊が散発的に続いている。こちらはしっかり持ち出したスマートフォンをジョコンドが確認すれば、6分前に安全確保の報が入っていた。爆発物は見つからず。現在、更なる情報収集を実施中。
「犯人の始末は誰が押し付けられると思う?」
エントランスを潜った誰かが、殆ど捨て鉢の程でそう喚いているのが聞こえる。
「申し訳ないけれど、あたくし達はお手伝いが難しそうね。セブ島へ行かなければならないから」
ざわめきの中、一際呑気に呟く相棒を嗜めることもせず、ジョコンドは思っていた。確かに僕だって、任務の合間に、椰子の木の影で束の間の休息を得られるから、悠長に構えていられるのかも。大衆食堂は料理も接客も悪くはないが、コーヒーが薄すぎるから、毎日通い詰めるのはごめんだった。
けれど件の店が、シアトル系カフェを除けば、この辺りで唯一あの飲み物を喜んで提供する場所なのだ。しかも、煙草を吸うことまで容認されている。これ以上、何を不満に思うことがあるだろう
シェルティさん【@usgnranda 】ロンドン・フォグさん【@TEA_TIME_3PM】と
引っ越し後のご近所回りが済んだ時点で、アンナは既に住民の心理的武装を解除させていた。こんにちは、十二番地に引っ越して来たんです。ええダブリンから、主人はマラガ出身なんですけど。これも彼のお母さんから受け継いだ伝統の味……分かってるハニー、成果を横取りなんかしないってば。そう言うわけでこれは彼の手作り。なんにせよ、ここに転勤出来てとっても嬉しい、だって……こんな、いつでもご機嫌な日差しの降り注ぐ、素敵な場所!
赤毛を振り立て、まるで彼女自身火の玉になったように溌剌とした口調で捲し立てられたのだ。カーンから車で1時間足らずの、平々凡々な住宅街に住む中流家庭の住民達は気圧され、その後辛うじて取り戻した落ち着きを以て微笑む。この無知な田舎者の迷子達を受け入れてあげましょう、という訳だ。
幸い、田舎者に田舎者と思われるのが業腹だと考えるほど、その時のジョコンドは戦闘的な気分でもなかった。
「もう十分だ、ハニー……すみませんね。妻はどうにも不躾で」
仮初の妻の腕を引いて次の家へ向かおうとしながら、まだ状況を噛み砕き終えていない中年夫婦に、侘しげな笑みを突きつけることが出来たほどだったのだから。寝不足のせいもあるし、荷解きが終わって幾らもしないうちに、徹夜も同然で手土産のポルボロンを焼いていたおかげで、まだアーモンドプードルの甘く無邪気な匂いが全身から立ち上っている気がする。この近隣住民達は、さっき紙皿にラップを掛けて手渡された菓子が、自分達の好むブール・ド・ネージュの先祖だと知っているのだろうか。
別に与えられた役へ引きずられている訳でもないし、先の任務でヒビの入った肋骨はほぼ治癒している。あくまで自らに意志により、陰気なブルジョワジーの夫という設定へ甘んじることにした。そもそも演技は己の役職の必修科目ではない訳だし。
書斎代わりに用いられる2階の部屋は、ドーマーから差し入る光が唯一の自然光源だった。それでも切妻屋根をそのまま生かした天井と言えば、夏は暑く冬は寒くなるのが決定づけられている。過ごしやすい今の季節でも室内はむっと蒸し暑く、挙句にどれだけ掃除しても出てくる埃が、自己軟禁状態へ陥っている部屋の主を咳き込ませる──このうえ肺に毒物を入れたくないからと、わざわざシェルブライアのパイプを持ってきて燻らせているほどなのに。
レースのカーテンごと押し除けるようにして開いた窓から、柔らかな春風が駆け込み、ふわりと顔を撫でる。眼下を覗き込めば、緑の芝生に大きな麦わら帽子。使い古されたそれを彼女が被っている場面になど、ジョコンドはこれまで一度として遭遇したことがなかった。
日がなパソコンを睨んでいるふりをしている自らと違い、バディは太陽を愛しんでいる。
これから長い間お世話になるんだから、メンテナンスが必要でしょ? ニコッと歯を見せて笑いながら、伴侶がホームセンターの担当者と交わした意見について、ジョコンドは話半分にしか耳を傾けていなかった。結局、調合して貰ったペンキは淡いラベンダー色とでも言うのか、恐らく周辺の住宅を見て回って決めたのだろう。週末に下塗りと試し塗りをしていたのだが、ここ数日の雨のせいで本格的な塗装は順延の繰り返し。ようやく青空が広がった今朝、彼女はトースターでカリカリに焼いたバゲットを齧りながら、独りごちていたものだった。「滑らなきゃいいんだけどね」。ダイニングテーブルを飛び越え、アンナの瞳は窓の向こうで露を含む若々しい芝を見つめ、シェルティの眼差しは興味本位で覗きに来るだろうお節介なおばさん達を絡め取っている。
今脚立に乗っているのが誰であるにせよ、彼女は早々に当たりを引いた。さくさくと無遠慮に敷地へ踏み入って来たのは向かいの家に住む中年女性。夫がラ•マンシュ海峡沿いにある原子力発電所の統括コーディネーターを務めているにしては、随分人が良すぎる。
「まあアンナ、精が出るわね。そんなことヒルベルトにやって貰えばいいのに」
「ハニーは今仕事中ですから」
ペンキ缶の中に刷毛を放り込むと、アンナは目元に掛かるほど大きなひさしを親指で押し上げた。
「それとも煮詰まって、クマみたいに部屋中をうろうろしてるのかな……ほら、やっぱり!」
妻に笑顔で手を振られて、仕方なく振り返しながら、ジョコンドはご婦人が出てきた家に視線を走らせた。扉が空色に塗られた車庫は空っぽ、平日だから、標的は仕事に出かけている。昨晩盗聴した時、寝室で妻に、明日は早いんだからとぼやいていたから、向かったのは恐らくパンリーの方。とは言うものの、いつもバセット・ハウンドみたいに目の下を弛ませ、疲れ切った様子を隠しもしない男だ。意気軒昂な姿なんて、とても想像が出来ない。金曜日に妻が「新参者」を夕食へ招くと宣言していた時も、散々愚痴をこぼしていた。「この調子だとお前、今年の冬にはベトナム人か猿を呼ぶことになりそうだな」
彼が情報を盗み取られなければ、その可能性も十分あり得るが、取り敢えず亭主族にとって目下の悩みは金曜日だ。パイプを噛みながら、ジョコンドは逆の手で机を手探りし、ガラス製のペーパーウェイトを取り上げた。麗らかな陽気で今にも舞い上がりそうな書類も、結局は後でも燃やしておかねばならない。世界はゆったりと進んでいるようで、逐一更新され続けている。
「車庫の扉の色は薄い方がいいのよ、そうすれば、万が一夜中に開けられた時、監視カメラへはっきり映るでしょう? 最近この辺りでも、よそ者がうろうろしてるから」
「こんな時だけは、ハニーがずっと家にいてくれてありがたいと思えるわ」
ペンキがたぷんと波打つことなどお構いなしに、アンナは脚立の上から身を乗り出した。
「監視カメラ? どこに付けてるんですか?」
「あのシャッターの上と、裏口にもね。3台だけど、全部が動いてる訳じゃないの。ほら、あそこのは偽物……旦那さんがいてもだめよ、この前ポトシさんのところなんか、ジャックが事務所から出てきたところをバールで殴られたって。もっとも、一緒に殴られたのは彼の秘書だし、殴ったのはマリーだって話だけど」
「やだ、怖い! そんなことなら、うちも相談しなきゃ」
「見にいらしゃいよ、業者の電話番号も教えてあげる」
「ほんと? 助かります」
行儀悪くどかっと踵をステップに乗せ、スニーカーの紐を結び直しながら、シェルティは首を振った。
「マリーが気の毒。あ、でもアタシなら、バールじゃなくて斧を使ってたかな」
そろそろ太陽は真上へと近付きつつあるが、扉は四分の一程度しか色がつけられていない。しかもまだ中塗りだ。ぺちゃくちゃお喋りしながら去っていく女性達に取り残され、塗装用具は寂しそうにペンキを垂らしている。完全に昇った太陽は短い草むらも塗料も乾かす。薄いラベンダー色は思った以上に目立った。少なくとも、空色よりは余程。
階下へ降りてくる足音を聞きつけたのだろう。居間のカウチの中、時計の針ほども真っ直ぐ伸ばされた背筋が、カチッと音を立てるようにこちらを振り返る。結局ロンドン・フォグは一睡もしなかったらしい。じっとこちらを見据える瞳は、雲の下の嵐など素知らぬ顔をしている空の色。静謐でありながら、貫き通すように怜悧だった。
「彼らは到着しましたか」
「まだだよ。もう少し寝てきたらいいのに……それとも、昼食は?」
「合流してから摂ることになっていますので、どうかお気遣いなく」
それぞれ別の経路から目的地のベルン集結するチームメンバーのうち、彼が引いたのは「ハズレの道」らしい。現地連絡員の運転手が付けられていたといえ、この律儀な青年がはるばるハーグからここに辿り着いたのは明け方のこと。そしてこれから新たな迎えに来たら、8時間かけて国境を越える。少し休んだら、と客室へ案内したのだが、シャツの皺は愚か、ネクタイのノットに緩みも見られない。ちらと視線を走らせ、ジョコンドは手にしていた書類を抱え直した。
「君、ここへ来る前に、近所へ住んでる人をバールで殴ったりしなかっただろうね」
「何ですって?」
物静かな滑舌が訝しみを帯びる前に、台所へ逃げ出すことには成功した。この家は概ね快適な住み心地を提供してくれるが、二口コンロの周りが余りにも古いことは少し許容し難い。ジョコンドも暇を見つけて、焦げにびっしり覆われた五徳を古い歯ブラシで磨いてみたり、バーナーへ重曹を吹きかけてみたりしたものの、どうにも改善の余地が見られなかった。
がたつく換気扇のスイッチを点けてから、マッチを擦ってガスコンロに火をつける。少しだけぬらした5枚ほどのコピー用紙をフライパンに放り込んで蓋を閉め、紅茶用の電気ケトルへ水を汲んでからのことだった。シンクの上のボウルで水に晒されていた野菜へ、意識を向ける気になったのは。
「これは?」
「さっき彼女が……今はアンナでしたか。貰ったそうです。ガスパチョにして食べるとか」
つまり、食べるのは彼女で、作るのは自らということになる。壁掛け時計を見上げれば11時前。今から手がければ、なんとか昼食に間に合うだろう。
ワイシャツの袖を腕まくり、寸銅鍋で湯を沸かす。ボウルから取り出したズッキーニは丸々と肥えて棘も瑞々しい。水を弾く皮は元より、白い実も包丁を入れれば刃を弾き返してきそうな弾力。昨日ナイフ類を全部研いだばかりで良かった。
この頂き物と、冷蔵庫にあった南瓜を薄く半月切りにしながら考えるのは、しかしシェルティが本来、こんなものを毛嫌いしているということ。任務で役になりきったからと言って、味覚まで変わる訳でもないだろうに。
和楽のマイホームは8時間に一回ほど、傍受の形跡やマイクロカメラの痕跡がないか確認している。それでも彼女はこの街に乗り込んできて以来、ずっとアンナだった。
昔、この名前をタイトルロールにした作品を、プリンス・チャールズ・シネマで観たことを思い出す。一度だけフィルムで切り取った美女をずっと探し続けるカメラマンの男。どれだけ彼に恋焦がれ、同じ職場で働いてすらいるにも関わらず、存在に気付いてもらえない娘。確かヒロインを演じたのも、そう、アンナ・カリーナ!
彼女ほどの美貌を、眼鏡をかけているという理由だけで見落とすジャン=クロード・ブリアリの目もたいがい節穴だが、何よりも不可解なのはヒロインの行動だった。狙いを定めた相手の周りを歩き回り、かといって相手に正体を明かさず一切信用せず。あれじゃあまるで、ロシアからの(当時だとソ連だろうか)諜報員だ。
彼女は一体、何を望んでいたのだろう?
確か鑑賞した直後にも同じことを考えていたが、同伴者のシェルティに意見を求めるのは望み薄。何せ彼女ときたら90分の上映時間中、あんまり気持ち良さそうに眠っていたので、揺り起こすのが忍びなかった。なんなら併映の戦争映画が始まってもうたた寝は続き、スクリーンの中の激しい爆撃でようやくうっすら眉間に皺を寄せ、むずかるように顔を背けていた程度。
「諜報員になったら、好む事も好まざる事も関係なくやり遂げなければいけないのは、本当に大変だね。君も海峡を越えてくる時、フライト?」
「いえ、ユーロスターで」
「ああ。合理的配慮って奴か」
というのを刺々しい物言いにするつもりはなかったが、念の為「皮肉じゃないよ」と付け足しておく。
「考えていたんだ。アンナは完璧な女性だってね。任務の時には、出されたどんなメニューでも美味しそうに完食して見せる。ところがシェルティ君は、ピザの上に乗っている干しトマトですらフォークで弾こうとするんだから」
「彼女は野菜を好まないのでしょうね」
「普段あれだけ、人参やピーマンをブレンダーで砕いているのが馬鹿みたいに思えるけれど、受け入れる必要があるんだろうね」
ズッキーニを茹でている間に、これまた虫が唸るようなモーターの駆動音を四六時中放つ冷蔵庫からバジルを、幾分萎れているが、まあ妥協できる範疇だ。
「例え本物の彼女が、ちっとも完璧ではなくても。周囲がどう思おうと、少なくとも今演じているアンナよりは空虚じゃないって事実を」
中年男のつまらないおしゃべりへ付き合わされ、可哀相にロンドン・フォグの目はすっかり冴えてしまったらしい。衣擦れの音は、カウチの背もたれへ皺がつかないよう、丁寧に重ねていた上着を取り上げたのだろう。己が愉快な人間だと思ったことなどジョコンドは露ほどもないが、この青年はコードネーム通り、しっとりとした憂いで世間と己を隔絶している。おまけに今は、脳が寝不足故の興奮に侵されているのか、沈黙までもが引き絞られたかの如く鋭利だった。「彼って、ずっと張り詰めてる」車庫でペンキを混ぜながら、アンナが肩を竦めていたのを思い出す。「一応客室のシーツに糊はつけたし、アイロンもかけておいたけど、どうかな。休めないかもしれない」
女の鋭い勘は、なんてセクシズムじみたことを言うつもりはないし、いらないと言われたガスパチョを供する気もない。ただ、頭上の棚からミキサーを取り出した拍子に、すっかり準備の整ったケトルを思い出す。
「起きるつもりなら、せめて紅茶でも。ブラックティーしかないけれど」
「ええ……」
と控えめな肯首、曖昧な拒絶を混じり合わせる生粋の英国人が、アイルランド風の茶葉を好むはずもないだろうが、仕方がない。ジョコンドだって本来コーヒー党だし、シェルティは「貴方はアンダルシア人なんだからコーヒーを持ち込んでかまわないのよ」と笑っていた。けれど、妻に感化され、マグカップにたっぷり牛乳を注いで飲むようになった夫、という役作りも悪くはない。
ティーポットを探して気がそぞろになっていたから、フライパンの柄が体にぶつかる(男が一人、方向転換もできないほど狭いキッチンだなんて!)蓋を取り上げるや溢れ出した煙は喉を痛めつけ、むせ返りは本調子でない骨に響く。
仕返しの如く、蒸し焼きにされてもろもろになったコピー用紙を突き崩すヘラは、本来ズッキーニを鍋からザルへ引き上げるために使おうと思っていたものだ。洗剤をつけて洗わなければ。陰気でいけすかないインテリのヒルベルトはそう眉を顰めるが、ジョコンド自身はこう思っていた。どれもこれもすっかり火が通っているのだし、ペーパータオルで拭っておけば十分だろう。
もちろん最善は尽くすが、結局のところシェルティは野菜嫌いなのだ。
ウィングマンさん【@kkk_kgo】少しだけシェルティさん【@usgnranda 】と 姉妹任務その1
クチュリエのところには1時間と、それに10分くらい、遅刻していくわね、と予めシェルティは連絡を寄越していた。お金持ちはゆったり動くものでしょう。時間ぴったりに到着して、余裕がないのかと思われてしまったら大変。それに、内気な完璧主義者は、そう簡単に自分の身支度を整え終えないはずだから。
この数ヶ月で作り込まれた役柄は、もはや彼女へ第二の皮膚のように馴染んでいた。東欧からやってきた、さる貴族の末裔の姉妹の、妹の方。口の中へ籠らせる喋り方や、すうっと滑るような身のこなしだけではない。オピオイド依存症を容易くを想起させる、芯の定まらない夢見心地な言動は、彼女を表現する為に必ず用いられる「裕福な」という枕詞の頑丈な補強材となる。
繊細さという薄い皮膜に包まれ、幾重にも輪郭のぼやけた女性を、社交界は相好を崩して受け入れた。新大陸に比べれば肩書への耐性が強いこの欧州ですら、今や自己顕示欲は猛威を振るっている。半月後に彼女ら姉妹が主催する、さる大物芸術家の回顧展に合わせたチャリティ・パーティーについて、この数週間で一度も話題を口にしたことがない「セレブ」など1人もいないに違いない。参加者も上は国王の御学友から下はインフルエンサーまで、招待客リストの中身はバラエティに富んでいた。さながら現代のワルプルギスの夜といったところ。
この10年ほど継続され続けているプロジェクトは、本来の計画だと五年に一度の開催を予定していたらしい。だが現代において、人の価値の流行り廃りと言えばさながら濁流の如し。結局ここ数年は毎年、時の人物が一堂に会する機会は作られている。
ジョコンドがこのプロジェクトに関わるのは今回のパーティーが初めてだが、さほど緊張は覚えていなかった。己達はあくまでデコイに徹するのみ。本部のコンピュータに繋がった無数のカメラやマイクを操り、招待客達の容姿、表情、音声などを採取して、データベースとして蓄積する役割は、その手の技術に詳しい職員がこなしてくれる。己の不得手な分野だったので、ジョコンドは原理について、敢えてさわりだけしか頭へ叩き込んでいない。そうでなくても数百人の集うパーティーは準備に手間が掛かり、煩い事が多過ぎる。
王室御用達の本屋を謳っても、電子書籍華やかなりしこのご時世だ。平日の昼間、おまけに朝からずっとしとついているというシチュエーションもあって、店内は閑散としている、と呼んでも差し支えなかった。淡いベージュのカーペットが敷かれた階段を1階分上がり、入り組んだ書架の間をくねくねと進んでも、すれ違ったのは数えて後で特徴を報告できるほどの人数だけだった。専門書をタブレットで読むなんて味気ないと思う人間は、もはやオールドスタイルと呼ばれて失笑される時代なのだろうか。
特に美術書なんて、間違いなく印刷されたものを手元に揃えて置きたい。「写真集」の札が取り付けられた本棚に向かえば、そこに佇んでいるのは男が1人きりだった。大きな手は変形大判サイズの写真集を軽々と開いて掲げられるほど力強いのに、彼は寧ろその事実を恥じているようだった。巨躯で通路を塞ぎかねないことを恐れてか、或いはこんなところで一端の識者を気取っているように見える己へ、自意識を苛まれているのだろうか。上着の中で背は丸められ、鼻先と言えば開いたページへ今にもくっつきそうになっている。
「“お姉さん“、もう仮縫いは終わったって?」
隣に並んだジョコンドが、適当に引き抜いた書籍を開くまで、ウィングマンが緊張を解くことはなかった。彼も到着して間もないのだろう。いかった肩には細かい霧雨の名残が見て取れたし、眼鏡のレンズにも拭ききれなかった水滴が残っている。ちらと怯えたうさぎのような横目を走らせてから、ずれたフレームを押し戻しても、汚れは気にするそぶりすら見せられなかった。
「はい、ええ……先ほどモバイルに連絡が来ていました、15分ほど前に」
ごそごそとスラックスのポケットを探り、スマートフォンに視線を落とした時、彩度の高い瞳は懸念を露骨に反映する。
「“妹”も先ほど到着したそうです。何かトラブルが?」
「いや、役作り。マリリン・モンローやフレディ・マーキュリーと同じで」
「はぁ……」
彼の相棒はしっかり者の姉という設定だから、この街の交通事情を鑑みても、せいぜい10分程度しか遅れなかったのだろう。不測の事態はこの組織の日常に組み込まれていたが、まだ所属年数の極めて浅いウィングマンが慣れていないのは当然の話だった。それに鋭敏さも悪いものばかりじゃない。些細な出来事からトラブルの萌芽を嗅ぎつけ、摘み取るのもまた、彼らの職務の一環だから。
本棚の向こうを足早に通り過ぎた誰かが、階段を下りて行ったのを確認してから、ウィングマンはページを捲った。コート紙と新しいインクの匂いがふわりと混じり合って、湿気た店内の空気に対するささやかな抵抗となる。ここが本来は、どんな場所なのか忘れないでくれと言わんばかりに。
「詳細は後で共有しますが、更新されたチャリティ・オークションの出品物件に大幅な変更がありました。予想落札価格と、それに予測落札者のリストも」
「招待客の年齢層が下がった関係かな」
漫然と眺める、縛り上げられたチキンの脚にミニチュアのハイヒールを履かせた写真──深く考えていなかったが、ヘルムート・ニュートンなんて、随分凡庸なものを選んでしまったものだ──から目線を持ち上げ、ジョコンドは肩を竦めた。
「インフルエンサーはebayで新古のブランドものを競り落とすのに慣れていても、対面オークションは余り経験がないだろうから」
本当はオークション自体を無くして、アトラクション? レクリエーション? 若い子は何と呼ぶのだろう。もっと分かりやすい余興を行う案も出されていた。だが上の人間は相変わらず、ウェストミンスターでふんぞり返っている、人工肛門を装着しているような老人達を有り難がる。そしてその手の人間に関してなら、自らはかなり扱い慣れていると、ジョコンドは自負せざるを得なかった。
まだまだ若いのに、どこか抹香臭いような佇まいすら見せるウィングマンは、その印象へ更に輪をかける沈思黙考に耽っていた。
「それでも、まだ年配のゲストが多いでしょう。何せ特別競売人がマドンナなんですから」
「そうだっけ」
「あ、そうです、すいません。これも変更の一部で」
恐縮で微かに上がった声調は、ごく絞られた音量で流れるスピーカーのBGMに溶けて消える。張り詰めた沈黙を長引かせるのも不憫で、ジョコンドは「ええっと」と言葉を継いだ。
「君はマドンナに会うのが初めて?」
「はい」
「僕も謁見したことはないけど、誰だったかな、確かコマンダーで、任務の際に接触したことのあるのがいたはず。君も気をつけないと……」
彼みたくトイレに連れ込まれて便器に突き飛ばすよう座らされ、猛然と跨がられるかも、なんて続けたら、今度こそこの大人しげな青年は舌を凍り付かせてしまうかもしれない。頭を振り、ジョコンドは次の写真へ進むことで、破廉恥な肉と隣から食い入る視線を意識から振り払った。
「とにかく、彼女も要注意人物のタグ付けをしておいた方が良さそうだ。あと、顔を本に戻して」
慌てて目を手元に落としても、まだウィングマンの心臓は胸の中で波打っているようだった。額に掛かる明るい色の髪はただでも重たげなのに、この天気でいよいよ見捨てられた犬のような有様。神経質な仕草で何度か小さく頭を振り、遂には邪険に手で払っても、まだ彼がささやかな危機から抜け出せているようにはとても見えなかった。
「本当は、この程度の任務で緊張してるなんて馬鹿らしいと、自分でも分かってるんです」
呟きの中、自嘲で微かに持ち上がった口角は、力なさと引き攣りの絶望的な均衡を維持している。
「今回は拳銃もナイフも必要ない。今後ゲスト達に訪れるとしたら、それは社会的な死です……勿論、誹謗中傷で窓から飛び降りる人間だって山ほどいる、それは知っています。けれど、この任務で採取されたデータのうち71%は、本人への直接的な攻撃の為に用いられたことがないと、報告書にはありましたし」
「君の分析だと、71%は『多い』になる?」
と呟いたのを、ウィングマンは皮肉だと捉えてしまったかもしれない。これが手練の彼の相棒ならば、もう少し上手く往なしてくれるのだろうけど。ここのところ現状に甘んじる余り、新しい風へ向き合うことを疎かにしている己を、ジョコンドは痛感していた。
「確かに驚くべき話だよね。一匹のメダカを捕まえる為に、池の水を抜くようなものなんだから。しかもこれを、上は肝入りの任務だと喧伝してる」
「君を脅かすつもりはないけれど」と付け足す前に、一瞬詰める鋭い息の音が鼓膜に届く。
「データの使い道については、君の方が詳しいな。最近は凄いんだろう、ディープフェイクって言うのか」
「ああ、あれ」
リラックスを促したつもりだったが、青年の自嘲は益々深まるばかりだった。
「技術というのは、ポルノと戦争に紐付けられた時、飛躍的に発展するものでしょう。29%も、つまりは、そう言うことです」
「“美と殺戮のすべて“か」
それまでウィングマンは、自分が掲げ持っていた写真の被写体が、明らかに薬物中毒の症状を見せる娼婦と、彼のヒモであることに意識を向けていなかったらしい。一糸纏わぬ女性はフォトグラファー本人で、整えられたアンダーヘアを見せつけるよう、カメラに正面から向かってベッドに横たわっている。
彼女のこけた頬で強調される鋭い眼差しへ睨み据えられたと言わんばかり。バタンと勢いよく本を閉じると、彼はその写真集をこちらへ渡そうとして、結局ぐいと棚へ押し込む。
「あの……勿論、それだけじゃないんです。最近、フランスのコングロマリットでは相次いで、セキュリティに音声認証が採用されていて、今回招待される中にも複数の関係者が確認されました。確かリスト・レッドに登録されていたはず……」
「ありがとう、確認しておくよ。晩餐会の座席表は組み直してまた渡すけど、少し時間が掛かるかも」
「ええ……ええ、それはもちろん」
ぎこちない足取りで広い背中が去ってから、ジョコンドは写真集を書架から引っ張り出した。ページの半ばに挟まれている書類封筒を確認し、そのまま本ごと携えて階下へ向かう。この書店はセルフレジを採用していた。本ほど万引きの多い商品もないのに、一体どうなっているのだ、ちゃんと管理できるのだろうか。
最新の技術を信用しなければならないことは勿論分かっている。だがジョコンドはどうしても、その脆弱性に目が向いて仕方なかった。
エンジェルキスさん【@8ra_nannka】シェルティさん【@usgnranda 】、会話の話題でのみウィングマンさん【@kkk_kgo】と 姉妹任務その2
「まあ、競売人自身も出品を? さぞかし盛り上がることでしょうね」と目を見開いた後、シェルティはうっそりと柳眉を顰めた。
「けれど……どうなのかしら。彼女は下着を身につけないことで有名でしょ。直接肌が触れた衣装を欲しがる人なんていないかも」
微かに頬を引き攣らせたクリスティーズの担当者へ視線を走らせることもなく、エンジェルキスはすっとぼけた態度でこの場を収める。
「馬鹿ね、これは飾って眺めるのよ。何なら額装しても良いかもしれないわね」
資料には、実際に歌手がその衣装を身につけているプロモーション・ビデオのスクリーン・ショットも添付されていた。手縫いのラインストーンで彩られたジャンプスーツは体の輪郭へぴったりと添い、確かにこれは下着を身につけていたら線が浮き出してしまうだろう。
しげしげ眺めていた視線を、小さな咳払いの音が聞こえるまで、ジョコンドは目の前の男へ戻すことはしなかった。こちらは上品に配慮してやっていたのに。
「そちらは落札者の要望に応じての、オプションという形で提案させて頂くのは」
彼は未だ、グラスの水で湿した唇から言葉を押し出す時、慎重に振る舞わねばならないほどナーバスになっている。
「コレクショナーの中には……プラスチックのハンガーに吊るして保管される方もいらっしゃいますので」
これまで何度か用いたことのある美術商の役柄はコネクション共々まだ使い物になるし、今後も活用する予定なので慎重に扱っている。今回は同僚も言っていた通り「拳銃もナイフも必要なし」だし、競売会社との繋がりも申し分がなかった。まだこの国に来て時間は短いが、金も地位も持て余している旧共産圏の令嬢達をハイエナ達へ引き合わせる役として。
とはいうものの、今回の伝手は回り回って現代美術、とすら言えないのかもしれない。ロットナンバー12は、ウルフ賞を受賞した建築家のプライベートな別荘で、この夏の2週間を過ごすことが出来るというものだったが、どうなのだろう。もしもその建築家がパーティー開催までに弟子を強姦したりしたら、その価値は大幅に下がるのだろうか、それとも上がるのだろうか。
社内屈指の熟練者が担当に宛てられる、由緒正しい饗応の場だったチャリティ・オークションも、今や牛を競り落とすテキサスの牧場と変わらない扱いを受けている。今回やってきた人物だって、次の部門次長候補くらいの恐らく生え抜きではあるのだろうが、その意気込みが逆に空回っているような面も見受けられた。
こちらは彼を試すつもりなどなかった。仕事をきっちりこなしてくれるのならば、オックスブリッジで修士号を取ったばかりの若者でも全く構わない。うんざりするのは、向こうがこちらを値踏みしようとしていることだった。
一センテンス話すごとに、聴衆が笑う為の間を置くスタンダップ・コメディアンよろしく、様子を窺っている男の眼差しにも、姉妹は全く臆さない。オキシコドンとザナックスの飲み過ぎで、今にも意識を虚空へ漂わせそう、という演技を完璧にこなしているシェルティを後目に、エンジェルキスはすっと背筋を伸ばしたまま。スカートの裾を軽く直す仕草で、逃げ惑う男の眼差しを自らの方に引きつける。
「ご存知でしょうけど、今回のパーティーの主役、ルネーは女性の権利運動についても熱心に取り組んでいるの。例え余興と言え、おかしな邪推をされたら困る」
余興と言われて明らかに機嫌を損ねた男は、けれど大人しく場を呼んで引き下がる。代わりにジョコンドは、苦労して拡大したタブレットの画像を改めるふりと共に、言葉を継いだ。
「このロットナンバー8、死後鋳造品じゃないね? ならいいけど。委託してくれたのはサックラーだったか、何にせよ、こちらからも挨拶をしたいな」
内面と同じく、実際のエンジェルキスとシェルティは全く正反対の容姿をしている。2人を姉妹役に抜擢した上層部の大胆さに驚いていたのは最初だけ。彼女達の技術を侮っていた訳ではないが、今や彼女達は傍から見ても、間違いなく血縁者だった。コンタクトレンズで整えられた紺碧の目、震えて吐き捨てるようなRの発音。そして常に何かへ失望しているような笑み。
昼はNGO団体の昼食会、夜は企業のパーティーと精力的に姿を現した結果はSNSを見れば明らかだ。入念に作り上げられたビューティー・ピープルとしての虚像は、インターネットの海で美味しい撒き餌として、十分に効果を発揮している。
張りぼての一つであるこのタウンハウスも、今回の任務の為にわざわざ組織が購入したものだった。世界一有名な歩道付き録音スタジオが徒歩圏内、閑静な立地は、確かに示威の役割を十分果たし、打ち合わせは畏まった空気で進む。
と、思っていた側からシェルティが、ぽんとフェラガモを脱ぎ捨て、ストッキングに包まれた足をソファに畳み込む。ワセリンでも塗っているのか、滲んだような瞳をエンジェルキスに投げかける時、「いやーね」と呟く口調は全く間延びしていた。
「女性の権利ですって? 私がカレルにグラスからバナナ・バードをぶっかけられた時は、空気みたいに無視してたくせに。ね、あのオランダ人が怖かったんでしょう」
「眠いならベッドで寝てきてもいいのよ」
受け取ったタブレットをさっさとスクロールしながら、エンジェルキスが放つ口調はすげない。
「ちゃんと服はハンガーにかけて、木製のね」
彼女が“手違い“でポップアップさせた設定画面を、シェルティのシャツのボタンに取り付けたカメラはちゃんと捉えたはず。数打てば当たる方式で、とにかく何でもかんでも情報を盗んでこいという上の方針に疑問を覚えることはある。けれどこのご時世だ。精査の手間を惜しんではいけないのだろう。
「とにかく、形のあるものは事前に確認させて貰いたいね。来週の木曜日は?」
それで予定は決まり。最後に「映画に出演して俳優とキスをする権利ならMeToo運動で価値も変動しますが、建築物なら問題ないでしょう」と請け合い、男は今日の成果にほくほくして去っていった。
顧客満足度としても、それなりに。もうシェルティは完全に正気の足取りで、受け取った紙資料をスキャンしに隣室へ赴く。今日のやり取りで出品物は全て決定したから、今から担当職員達はおおわらわ。彼らはプロフェッショナルだから、取り付けるデバイスを期日までにきっちりと仕上げてくれるはずだ。
ジョコンドと違って、窓の向こうに広がるクリケット場の試合を眺めるつもりはないのだろう。隣にやってきたエンジェルキスは、桟に指を滑らせると──プレイヤー出身の職員に、この種の確認癖のあるものは多い──早々に「それで」と切り出した。
「昨日、遅れて出席の返答を寄越してきたミスター・ストーンについて、最優先かつ高レベルの情報抽出、ならびに事前接触を要請ということで間違いないんですね?」
「僕を責めないでくれ、上がそう言ってるんだから……詳しくはまだファイルを読み込んでいないけれど、彼、凄いんだろう。ガード・ドッグの調教界隈では」
そんな界隈があり、尚且つバズっている(なんて言ったら若い子は氷のような冷笑を浮かべるだろう)のは甚だ驚異的な話だが、仕方がない。これに関しては上層部も、単に標的が関わっているセキュリティ情報を抜き取りたいだけではないようだ。恐らくは先日技術部門がお披露目をしていた、動物に埋め込むことで、対象をある程度意のままに操ることの出来るシステムに関連している。
「犬は嫌いなんでしょう。昔、噛まれたと言っていたのはハノイの任務でしたか」
「そう……いや、嫌いじゃないよ。どちらかと言えば猫派かもしれないけれど」
プレイヤー時代に忍び込んだ邸宅で、他ならぬ番犬に襲われた時も、歯を立てられるよりは狂犬病の方に懸念を傾けた。何よりも今は、善き牧羊犬の名前を冠する淑女と並走する身だ。扱いには慣れている、嫌が応でも。
「賢い犬は相棒を噛まない。君だって分かってるだろう」
「羽根の先を切らないよう、努力はしているつもりです」
来訪者が出かけてから10分間待機、という基本ルールは流石に覚えたらしい。それともこれは、バディに指示されたままこなしているのだろうか。見慣れたクーペが車寄せに滑り込んできたのを見下ろしても、エンジェルキスはやはり誇らしいとも苦いとも読ませない表情を浮かべるばかりだった。分かり辛いと言えば声音だってそうで、確かに舌の動きだけを言えば、先ほど芸術品について論っていた時に用いる、訛り混じりの掠れた声よりは明瞭なものの。
「苦手だと思っていたので、ミスター・ストーンの事前接触に関しては私達が引き受けるつもりでいましたが」
「やってくれるなら任せるけれど、ウィングマン君は大丈夫かい」
「たまには外交的な任務も刺激になるかと」
のそのそと、窮屈な車内で丸めていた長身をそのまま運転席から排出させたバディを見下ろし、エンジェルキスは言った。
「番犬を探している知人を紹介するという程で訪問すれば、ついでに犬舎も確認できますし」
「確かに彼、株式トレーダーとしてパソコン一台で財産を築いた世捨て人に見えなくもないね」
「トレーダーですか。最近、閉鎖病棟から出てきたばかりの絵本作家という名目にしようと思っていたのですが、参考にします」
冗談にしては恬淡とした口調だけ残して、彼女はオートロックを解除する為、玄関へと向かった。
入れ替わりに戻ってきたシェルティは、窓から差し込む陽光へ目を細め、「どちらが勝ってるの?」と軽く首を傾げた。
「さあ……クリケットって、側から見てると試合の状況が全然分からないからね。君はあのオランダ人と一緒に、この前観戦しに行ったんだろう」
「ええ、でも彼、随分と退屈していたのよ。勿論、あたくしもね」
携えていた書類を、彼女はカーテンの陰で素早く繰って確認する。横目でちらと盗み見た限りでも、名簿が更新されていることは疑いようがなかった。いい加減にしてくれ、と、連絡を持ってきた彼女の頭を飛び越えて訴えたくもなった。だがパソコンのモニターを怒鳴ったところでどうなる。
ジョコンドがポケットから喫煙のデバイスを取り出しても、シェルティは咎め立てようとしなかった。離れる前、そっと肘に触れる手つきは柔らかく、それでいて迷いなど微塵も窺えない。
「さっき会ったけれど、Mr.ウィングマン、随分と顔色が悪かったわ。彼にも表へ出て貰うの?」
「恐らくね。彼は控えめな性格だから気が進まないかも知れないけれど」
ふっと短く、殆ど舌へ甘さを乗せるだけ形で紫煙を呑んでから、ジョコンドは首を振った。
「やって貰わなくちゃ。まあ、そこはエンジェルキス君がどうとでもしてくれるだろう」
ソファに戻って書類を読んでいるシェルティの襟足は、少し病的なほど白い。そこだけが、彼女と先程まで演じていた令嬢を結びつける唯一の縁だった。
「ええ、そうね」
打ち合わせの時とは打って変わって、異邦人の己にもくっきりと聞き取りやすい喋り口が、部屋の静寂と徐々に迫り来る人の気配に打ち込まれる最後の楔となる。尤も、こんなことをしたってどうしようもないのだと、彼女だって重々承知してはいるはずだ。
「そして、あたくしはMr.、あなたに従うわ」
己を立ち所に切り替える術は、この職に就いたものの必修科目だ。ついつい忘れてしまいがちだが。
最後に一服、これは肺まで送り込んでからデバイスをポケットに戻すと、ジョコンドはソファへ戻った。空飛ぶ天使は僚機の耳打ちで早々に情報を仕入れているだろう。アナログを愛している手前、デジタル世代に情報戦へ取り残されるのは、なんとしても避けたかった。
シェルティさん【@usgnranda 】レナードさん【@iriame8】と
今年の出色は香港の馬達だとか、と講評を述べた時、レナードは馬の“h“をわざと落として発声した。周りを見回せば爵位や勲章がごろごろと言った競馬場で、せめてもの意趣返し。なんて訳でもなく、必要以上に気取っていないだけなのかも知れない。
百年戦争はとっくに終わったんだし、いい加減塹壕から出てきたら、と返すのもまた大人気ない。コールポートの非常に装飾的なティーカップを一旦テーブルに戻し、ジョコンドは隣へ座すシェルティに視線を投げかけた。写真に撮られる為、つばの無いシャポー風の帽子を被る女性が多いこの催しで、彼女のピクチャーハットは程良くシックだった。今も狙い通り出来た影の中、白面を俯かせて、小さなスウェーデン風いちごケーキをつついている。まさしく謎めいた貴人風。
このレストランはポッシュな人々が集う中では極めてカジュアルな店構えで、絨毯がペルシャ製だとかテーブルがアンティークだとかの仰々しさはない。出入りするのは所謂「小人のブラウニー」タイプ。一刻も早く国王陛下に剣で肩を叩かれたくて仕方がない小判鮫達は、皆一様に、自分こそが一番の利口者だと自惚れていた。その癖内心は怖くて仕方がない、自分のテーブルから一歩離れると不安症の発作を起こす。貴婦人と一角獣を織り込んだタペストリー前の席に腰掛ける、優雅で無邪気そうな美女に一瞥を投げかける勇気すらないのだ。
目の前の男がそこはかとなく胸を張っているように見えるのは、このフランドル織のせいかも。いや、でもあの辺りはオランダ語圏だったかもしれない。つらつらとジョコンドが考えている様子を、レナードは上品に無視し、喋り続けている。必要なことをきっちり伝えるのは饒舌でもなんでもない。
「だが名前がどうもな。“アストラ・アスパラガス”とは、極めてケンタッキー的だ」
「食べ物の名前が付いた馬は不吉だからね。昔、叔父が率いてたポロ・チームの四番手が、“クラッカー”って栗毛を38万ドルで手に入れたんだ。第3チャッカでその馬に乗り越えた5秒後、あのメンバーで一番巧みな騎手は、突然前脚を掻いたそいつに振り落とされた。1週間意識を取り戻さなかったから、父は弔電の文面まで考えていたよ」
「砕いてガラスパイプで吸わされた、というところか」
「なんだって?」
「でも、Mr.」
と、シェルティがそこで一旦言葉を切ったのは、一代貴族のご令嬢がよく使う、格式への緊張とぶっきらぼうさが混ざった、控えめな口調を模倣しているのだろう。別に周囲へ見えてもいないのに、帽子の下、微かに掬うような上目は、なめらかな笑みへ流れながらも度胸を失わない。
「ケンタッキーも悪いものではないのよ。正確に言えば、アメリカの競馬も。以前、ロス・アラミトスへ足を運んだけれど、あそこの外のスタンドでは、とても美味しいホットドッグを売っているの」
「あちらでは人間と犬が同じものを食べている」などとレナードが不幸なことを言い出す前に、ジョコンドはコロネーションチキン・サンドを飲み込んだ。
「何にせよ、アスパラガスは不幸だよ。疝痛なんて……あれは本当に、突然起きるんだ」
馬券を買うものならば誰もが夢見る未来予知。あらかじめ決められた運命は、不慮の疾病ではなく電撃で決定づけられる。古典的な手法だからこそ、歴史あるこの催しに打って付けだった。何よりもロイヤル・ファミリーの御前で、馬の肛門を覗いて火傷の跡がないか調べる不届者なんていないだろうから。
今度こそレナードが、すっと辺りへ視線を薙ぎ走らせる。ビュッフェで幾らかつまんでいるこちらと違い、この男は先ほどから注文したものへ口をつけようとしない。席へ案内される際に知り合いの顔を見かけ、ちょっと席に腰を下ろしたという建前だけではなかった。彼のチームメイト達は今回、厩舎周りで作戦の要を担っている。切り削いだような顔立ちは張り詰め、腰へ当てるよう、隠しにぐっと押し込められた右手が登場することは一度もない。テーブルへ肘を引っ掛けるようだった左手が、ウエストコートのポケットを弄り、時計を引っ張り出す。午後1時過ぎ。国王陛下の到着にもまだ早い。
ぱちんと殊更大きな音を立てて蓋を閉じた後、先細りの指先は数度軽く擦り合わされる。
「昨日は予想以上に“荷物“が増えて、馬運車の運転手に金を掴ませて詰め込む騒ぎだったそうだが、今日は落ちついているようで何よりだ。尤も、クイーン・アンでは少し騒ぎがあったとか」
「らしいね、ドイツ人は血の気が多くて困るよ」
紅茶茶碗の向こうで手遊びが止まる。ジョコンドは思わず、仮普請の合板フローリングへ、磨き立てたオックスフォードシューズの爪先を軽く押しつけた。
「違ったか」
「その情報が入ったのは?」
「45分前、店へ入る直前に」
シェルティはもうケーキを食べ終えていた。今飲んでいる紅茶を干せば、いつでもこの席を、優雅さを損なわず出ていくことができる。事実彼女は、そうするつもりのようだった。
「まだ対応が済んでいないと聞いたから、Mr.ジョコンドはこの店へ連れてきてくれたの。本当なら、もう少しゆっくりランチを摂ってもよかったのに」
レナードはしばし唇を噤んでいた。膝の上に乗せる、薄灰色をしたカモシカの手袋がずり落ちそうになったのを、白い手がそっと据え直す。
「どうやらここで、スターリングラードを再現したがっている馬鹿者どもがいるらしい」
「ゴルフ(Golf)から始まる組織?」
「いや、シエラ(Sierra)の方だ」
一オクターブ下がった声音には、それ位持っても当然な不機嫌さが混ざり込む。スコーンやペストリーを山と積みあげたカートを押す給仕が傍らを通り過ぎてから、レナードは牙のある動物の如く、薄氷色の瞳を剣呑に細めた。
「今から厩舎に足を運べば、馬丁が用意しているのはキシラジンか、それともアンフェタミンか? どっちにせよ、一発打たないとやってられんな」
「キシラジンはやめた方がいいよ、皮膚がゾンビみたいに剥離する」
2つのチーム、2つの情報。これだけの規模の催しだ、話が錯綜することには理解する。それにしたって事態の共有は、例え諜報活動なんて仰々しいものに従事していなくても、大人として基本のよう思えてならない。
先に席を立ったのはレナードだった。トップハットの庇を微かに下げ、わざとらしい嘆息を撒くことで、何とか自らへ折り合いをつけようと努力している。
「王政を崇め奉っている割に、ここは転がり過ぎて難儀する……いや、そんなものか」
「そんなものらしいね、糞まみれだ」
レナードが言わない代わりに、ジョコンドは言葉を継いだ。そこまで食べていないのに、胃が前へ迫り出しているよう感じてならない。サンドイッチは残すことにした。
「でも仕方がない。どれだけ膨らんだ人間の腹でも、馬糞を詰め込むことにかけちゃ、馬には決して勝てないんだから」
「さあ、どうだか」
ぱしりと、しならせて掌に打ち付けられた手袋が、意識を惹きつける。レナードはほんの一瞬、憤怒を何とか喉元で押さえ込もうとしているかのような仕草で、顎を持ち上げた。
「鞍上のコサックは大食漢だと相場が決まっている。さっきからずっと、菓子を貪り食っているあれはなんだと思うね」
「ここって、紅茶のお代わりは頼めなかったはずだから」
そう言って、シェルティは小さな鞄を開くと、コンパクトを取り出した。掲げられた鏡は微かに傾けられ、レナードが目視していた場所を映し出す。真ん中の良くない席、二十代、男、金髪。まるで左官屋のように、スコーンへクロテッドクリームをべったり塗り付け、一口齧ってはぼろぼろと食べかすをテーブルの上に落とす。
「あたくしなら、あんなにもスコーンばかり、とても食べられないでしょうね。口の中がカラカラに干上がってしまいそう」
「君のはまだ残ってるんだし、もう一杯飲んだら」
せっかく唇を点検したのに、ジョコンドの促しで、シェルティは黙ってポットを手に取った。カップに注がれたセイロンティーは茶葉も開き、ルビー色へ汚れた血でも混ぜたかのような色に変わっている。味だって相当渋いだろうに、彼女は平然と飲み干す。全く動じない。例えジョコンドの右手が、その左膝へ乗せられたとしても。
膝下丈というドレスコートは厄介で、裾を手繰るのも慎重を期す必要がある。シルクは皺になりやすいのだ。テーブルの下で柔らかな光沢の波間を辿り、美しいAラインを丁寧に摘む。そろそろと引き上げたところで、誰もが自分のテーブルマナーへ必死の余り知らんぷり。その光景を肘で突いて笑うかの如く、シェルティの踝が悪戯っこの動きでくりっと半円を描き、こちらの脛にぶつかった。
「香港の馬は他にいただろう」
「ええ、何頭も」
「締め切られてなかったら、幾らか賭けてもいい」
レナードが置いていった出馬表を取り上げるふりで、シェルティの方に身を傾ける。ひんやり柔らかな腿が掌を掠めたのは、狼藉者を奥へ導くための仕草に他ならない。途中、ストッキングを伝線させないよう、引っかかりかけた場所を指の腹でそっと均しながら、ジョコンドは小さな咳払いの後耳打ちした。
「もしも僕が行けなかったら、そうだな、第3レースの5番を買っておいて」
取り敢えず1人、差し足で抜け出せる勝ち方を提示されても、シェルティは僅かに頭を振って終わらせる。ふくよかなクチナシの香りが、帽子のリボンからふわりと漂った。
「あたくし、馬連しか買わないの。そんなこと、とっくにご存知でしょう」
指先は幾らか迷子になった後、ようやく繊細なレースの感触を探り当てる。ガーターリングから引き抜いた小型のサバイバルナイフを、モーニングコートの袖口へ押し込んだ頃には、シェルティもカップを置いていた。
ドイツ人は空から来るが、ロシア人は地を縮めたようにして襲いかかる。
予想はしていたが、目立つ男はあくまでこちらの注意を惹きつけておく為の存在だったらしい。レナードが敢えて対処要員を呼ばなかったのか、それとも急行する同僚が手間取っているのかは分からなかった。取り敢えず、店を出て馬券売り場へ向かう途中で、その中年男は笑顔で声をかけてきた。早口で喉の奥から押し出すような発音は、初夏の風にざわめく楓の木にかき消される。
陽気に掲げられる手がすっと下がり、そのまま殴打の姿勢へ入るのかと思ったが──キャッチャーミットじみた手の中、きらりと日差しを反射したのは、固められた拳の下側だった。
頸動脈を狙われたシェルティの一歩前に出て、短く湾曲したカラビットナイフの内側へ、右の手首をはめ込むよう押し退ける。この国の仕立て屋へ顔を顰められながら選んだ、モーニング・コートのゼニア生地も、金属同士のぶつかり合う、がちんと鋭い音を完全には消してくれない。
「まだ出走もしてないのに、酔い過ぎてるな」
相手が手首を返して二撃目を繰り出す前に、左手で腕を抑える。冬将軍に鍛え上げられた筋肉へ完全に力が込められ、シャツの袖を破く前に、その背中を木の幹へ押し付けることには成功していた。ジョコンドが袖口から滑り落ちてきたサバイバルナイフを掴んだときには、相手も既に殺気を引っ込めている。
「分かってる」
ぱっと両腕を掲げ、男は唇を、薄くも苦い笑みの形に捻った。
「試してみただけさ」
「Mr.、行きましょう」
恐らく男が狙っていたのだろう、さる実業家のスマートフォンが入ったハンドバッグを抱え直し、シェルティは柔らかく促した。
「今からほんの少し早足で歩けば、まだ馬券を買えるはずだから」
国王の御成。馬車パレードが始まるギリギリに観覧席へ入ったのは、予め決められていた通り、クラブハウスの裏手でスマートフォンを同僚へ引き渡したから。それに、馬券売り場で思った以上に並ばされたせいもある。紳士淑女は皆生来の忍耐強さを発揮して、じっと待つ。駆け込みの決断。それに長蛇の列は、つい先ほどから場内スピーカーで放送され始めた、出走取消の発表も拍車を掛ける。“この度第5レースに出走のアストラ・アスパラガスは、体調不良により急遽……“
ウィンザー・エンクロージャーの観客たちは、何せアルコール持ち込み可のエリアだ。今頃盛大な怒号を響かせているに違いない。もっとも、エリアや階級、何もかもが離れたロイヤル・エンクロージャーは、2人が戻っても静かなもの。コックニーが50センテンス使って訴える感情を、微かに眉を吊り上げる仕草だけで表現する。
シェルティはハニー・ウェイブという名の馬を単勝で購入した。小さな鞄に入っている小さな財布の全額を費やして。
「“蜂蜜”か。どうもね……」
「いいえ、Mr.。これは“恋人“という意味よ」
オペラグラスを覗き込んだまま放たれる声は、囁くような音色だったが、ざわめきの頭上を軽やかに飛び越える。
「香港の甘い恋人は、きっと期待に応えてくれるわ」
王子の恋人が猛然と突っ走らなければ、今頃プリンセスDはピンピンしていただろうに。憎まれ口が飛び出しそうになったのは、たまたま前方の王妃が視界へ入ったのもあるし、自らもワイドで一枚購入していたからだ。ハニー・ウェイブとライツ・ジャッキー。しかしこうなれば、実質馬単と変わらない。
国王陛下の高覧で騎手だけに及ばず、馬達も張り切っているのだろう。午後の日差しを燦々と浴び、肌は血の汗を流しているかのよう。三角形のコース、最初のスウィンリー・ボトムを団子になって下り降りる勢いは怒涛波濤だが、ハニー・ウェイブは僅かに乗り遅れる。第一コーナーを抜け、きつい上りを蹄鉄で踏み散らしている間に、先頭と4馬身開いていた。
これは駄目かなと早々に諦めたジョコンドが首を振った時、最後の直線で、しかし騎手は手綱をしごき、鞭をくれた。ハナを切るライツ・ジャッキーに外側から追い込みをかける。
シェルティが微かに息を弾ませたと、耳が拾う。2頭はクイーン・アン・エンクロージャーの前を抜け、こちらに突っ込んでくる。もしも勝ったら? まあ自らは些細な金額だが、バディは随分いい目を見るだろう。今日中に払い戻しを受けることは難しいかも知れないが。それとも任務中に購入した馬券の利益は、全て雑収入扱いで回収されてしまうのだろうか?
勝ったら自費、負けたら経費で申請すればいい。そう結論づけたから、ジョコンドは全く屈託のない心で、勝負の行く末を待ち構えることができた。
シェルティさん【@usgnranda 】と
現地の言葉では「馬鹿の家」と呼ばれている養護施設について、連絡員の女はてきぱきと補足を加える。この国に配属されている職員は4人だが、彼女は一番の古株だった。薄曇りの空から貫き通される、場違いなほど明るい3月の日差しが、快活な笑い皺が刻まれた彼女の顔を一層生き生き輝かせる。
「今日向かう施設で暮らすのは、精神遅滞者ばかりじゃありません。割合で言えば3割。他の2割は身体的な障害を負う子どもです」
中規模都市で落ち合って3時間。かつての集団農場に併営されていた村落を2つ抜ければ、道路の舗装はとっくの昔に無くなっている。4日前のような飛行機を押し留めるほどの吹雪は去ったが、凍った黒土はハンドルを取らせる強敵として十分作用していた。
「残りは全く健康な子達、親が面倒を見られなかったので……この国では未だに、民間レベルで偏見が根強く残っているんです。放射能障害は“感染る”と」
「ここはモスクワよりも、原子力発電所から近いのね」
後部座席に埋もれていたシェルティが──まさしく彼女は埋もれていた。セーブルの黒褐色をした毛並みは、フェイクレザーのシートに沈む体をふんわりと受け止める。車内は程よく暖房が効いているし、昨晩ホテルに到着したのは夜更けだったから、彼女が眠気を催すのも仕方がない。コートよりも幾分明るい色のシャプカがずり下がり、半ば目元を覆っているから、これまでの沈黙の更なる根拠立てとなる。
「車で2時間ほどでしょう」
「メルトダウンの瞬間の光も見えたそうですよ」
「まあ。さぞ恐ろしかったことでしょうね」
そう口にしたものの、シェルティが頬を外套の襟元へ押しつけたのは、怖気が由来ではないのかも知れない。バックミラー越しに視線を走らせ、ジョコンドは咥えていた電子煙草から唇を離した。
「本当かい。山があるから、かなり遮られたんじゃないかな」
結露したサイドガラスを、皮の手袋を嵌めた手で拭えば、空は打って変わって暗さを増していた。
“第11少年の家”は、街の大人が皆鉱夫である町の外れに位置していた。今では採掘量も減り、かつての賑わいも見る影がない。それでもボタ山からで石炭ガラが山肌で赤くいこり、もっと燃えたいのだと威嚇しているかのようだった。
薄く雪の積もる痩せた小麦畑を抜けると、道の具合は一層酷くなる。灌木の間を縫うように走る、踏み分け道と呼んでもいいような隘路を進み、揺れる中古のルノーに、今度こそシェルティは転がり落ちかけた帽子と、膝の上に乗せていた油紙の四角い包みを手で押さえた。
道が開けると同時に現れたフェンスはすっかり錆びつき、緑か、それとも青色だろうか? 元々塗られていた色すら曖昧だった。狭い運動場には同じくらい朽ちかけたブランコとシーソーがあって、10人ほどの子供達が遊んでいる。彼らは車を目にすると、一斉に駆け寄ってきた。質素でサイズの合わない服が汚れることなどお構いなしに金網を撓ませ叫ぶ。「お父さん、お母さん」。そこに悲壮さは見えず、まるで声を張り上げ続けていれば、いつか報われると信じている、神への定例的な祈りじみた音色だった。
幸い、職員に押し留められたのだろう子供達は、正面玄関へ滑り込んできた車にまとわりつくこともない。車寄せの欠けたタイルの上へ降りたったシェルティは、押し寄せる北風と焦げ臭い匂いへ当惑したように、一度肩を竦ませる。すぐさま、職員らしい女性が小走りでドアまで駆けつけてきた。
「お待ちしておりました、ランダウ夫妻」
「本当は昨日の予定だったのに、申し訳ありませんわね」
「いえいえ、この天気でしょう」
汚れたエプロンの裾を翻し、せかせかと先導する彼女の後へ続くとき、シェルティの足取りもまた早い。外套の裾から、膝丈のブーツと、身につけたオートクチュールのスーツが垣間見えるほどに。ランダウ夫人は期待ですっかり胸を躍らせている。そういう設定だった。待っていてくれるよう運転席の同僚へ頼み、ジョコンドもフェドーラ帽子を目深に被り直した。
狭い廊下は薄暗く、煮炊きものの匂いが充満していた。追いついたジョコンドの肘に掌を乗せ、シェルティは職員に囁きかける。
「リュドミラは元気にしていますか? 2週間前の手紙では、風邪を引いたとありましたけど」
「もうすっかり良くなって、授業にも出ています」
寒々しい廊下に、きんと甲高い声が貫き渡る。それは血色の悪い唇ではなく、目の前の肉付きが良くもいかった肩から響いてくるかのようだった。
「お伝えしましたっけね? あの子は本が好きなんです」
「本当に、わたくし達とそっくりね」
振り向きざま突きつけられた微笑みへ、ジョコンドは曖昧に口元を緩めてみせた。
「家にも沢山本があるから、きっと喜ぶだろう」
別に臆しているとか、そういうつもりはない。ただ、予め目を通していた資料を頭で反芻して、憂いていたのだ。放射能は感染しない。だが恐怖は違う。
話は概ねコーディネーターがまとめてくれているので、今日は最終確認といったところ。ここは“素材”の供給元として、組織が幾ばくかの資金援助すら行っている。尤も、いわゆる職員まで全て関係者で占められている施設と違い、ここの施設長はあくまで国に忠誠を誓っていたし、里親達の正体も知りはしない。
とは言うものの、“施設長室“と、めっきの剥がれたプレートが取り付けられたドアをノックしたとき、戻ってくる返事はおざなりなもの。混ざり込む疎ましさは、もっと根幹的な問題によるものだろう。
狭苦しい部屋で目立つのは、鉄のカーテンが破れる前から使われていそうな金属製のデスク。そして壁に飾られた額縁、この手の管理者にしては少ない。彼女は運営資金を横流ししたりせず、精一杯子供達の面倒を見ていると聞いているが、その努力はさほど報われていないらしい。
ジョコンドがコートを脱がしてやっている時から、シェルティは口火を切っていた。
「ルチンスカヤ先生、わたくし達、この日を心待ちへしていましたのよ」
「そうでしょうね」
痩せて骨ばった体でも、古い事務椅子をぎしぎし言わせるには十分事足りる。分厚い眼鏡のレンズの奥で目を眇め、この中年女性はじっと、“金持ちのユダヤ人夫婦“を値踏みしていた。
「忘れないで頂きたいのは、本来ならば、何度か面会を重ねて、相性を確かめてからの引き取りになることでして」
「その点に関しては申し訳なく思っていますよ」
帽子を脱ぎ、ジョコンドはデスク前へ並べられた硬い椅子に腰を下ろした。
「事情に関しては、コーディネーターのミズ・クツユバからも話があったように」
「ええ、彼女から伺っています」
思った以上に苛立った口調が、だるまストーブの中で跳ねる石油に合わせて、乾燥した空気を打ちすえる。シェルティもすぐさま、傾聴の姿勢へ入った。
引き出しの中から煙草のパッケージが取り出される。マニキュアの気配もない荒れた指先で一本摘み出しながら投げかけられる「吸っても構いませんね?」は、殆ど命令の調子だった。マッチで火をつけ、一服しても、ささくれが慰撫されることはない。暗緑色のスラックスを波打たせるよう、膝を一度跳ねさせ、彼女はじっと、2人を見つめた。
「ランダウさん、私は率直な人間として定評があります。おかげで苦労したこともありますが、概ね直感が外れたことはありません」
「何でもお聞きください」
自分で宣言し、ジョコンドが請け合いまでしたのに、彼女は干からびた唇を、まず一度舌で舐めた。すかさずシェルティが、さも不安げな様子で、身を乗り出す。
「先生、何か困ったことが……」
「お伝えした通り、リュドミラはとても利発な良い子です」
彼女は言った。
「英語も学び、簡単な日常会話ならば理解できるようになっています。恐らくあなた達が援助の手を差し伸べずとも、里子として引く手は数多だったでしょう」
「勿論ですわ。写真を見た時、何て愛らしい子だと思いましたもの」
シェルティは神妙に頷き、膝の上の帽子に指を食い込ませた。
「亡くなったマライアにそっくりで……あの子が生きていたら、きっと彼女のように育っていたと思うと」
「結果としてあの子をあなた方の元へ向かわせると決めたのは、彼女を愛してくださると信じているからです。つまりは、面倒を見てくださると」
「ええ、当然。いずれ帰国した暁には、夫の母校であるエクセターに入学させる予定です」
「それまであの子は生きられないかもしれません」
テーブルの上へ叩きつけるようにして投げ出された紙挟みは、専門用語を読み解けずとも、はみ出した分だけですら分かる。医師の診断書と写真に目を通し、ジョコンドは人間業の及ぶ限り平静な口調で「これは」と尋ねた。
「見たところ、炎症ですか」
うなじに広がる、細かい木の根のような紅斑を大写しにした写真を目にし、シェルティは「まあ」と小さく息を呑んだ。
「先生、まさかこの子は……」
「現在は症状が収まりましたが、2週間前のものです。お医者様によると、内臓に悪性腫瘍が及んでいる可能性もあり得ると……あくまで可能性ですが」
まるで大粒の汗でも滲ませているかの如く、鼻からずれた眼鏡を、ヤニで黄ばんだ指が押し上げる。煙草を灰皿の上で乱暴に叩き、施設長は紫煙と共に残りの台詞を吐き捨てた。
「その診断が、この施設と提携している医療機関の限界です。これ以上は、正式な被曝者としての認定が受けられない限りは難しいのです。医療費の削減が叫ばれて久しい現政権では、特にこの手の、狭間に落ち込んだ子供達を救うのは、本当に難しい」
「確かリュドミラは孤児でしたね? では尚のこと、因果関係を証明することは難しい訳だ」
ジョコンドが非難したのは目の前の、最後の最後に良心の呵責へ屈して白状した施設長ではない、勿論のこと。だが彼女は、もう一度肩から吐き出すような息をつき、壁の額縁を見上げた。続けて押し出された口ぶりは、さながらとんでもない屈辱を覚えているかのようだった。
「手続きの関係上、本日同伴して帰宅することは難しいでしょうが。どうですかね、施設にいる他の子供達の様子を見学して行かれるのは」
シェルティが眼差しをこちらへ差し向けたのは、芝居だろうか。それとも本心から、コマンダーの出方を窺っていたのだろうか。
彼女だってとうに理解しているはずだ。今回の作戦は、組織の区分で言うと短期間で完了する。その割に警戒区分は高く、決して低くない確率で、潜入活動中に構築した全てを破棄する必要があった──削除項目には、勿論人間も含まれる。
「ねえ、あなた」
考え込む時間を持つのは不自然ではない。しっかりと頭を動かしてさえいれば。幸い、シェルティの、と言うよりも、ランダウ夫人の声が、そっと思考に区切りを入れてくれる。伸びてきた右手を、ジョコンドは己の左手で握り込んだ。どこか子供っぽい造作と裏腹、彼女は指先まで凍えるように冷え切っていた。
「いえ、予定通りあの子を連れて帰りましょう。帰国次第、医療機関を受診させます」
灰皿の中で、煙草を強くにじり消した時、施設長の指は微かに震えていた。そこにジョコンドは、善性を見出した。だからこそ考えてしまうのだが、ここにいる沢山のリュドミラ達、いつ破裂するか分からない時限爆弾を抱えて生きる幼い命。子供の生き死にを気にかける人間は多いが、介入しようとするのは、本当の金持ちだけだ。
それに、こちらとて別に嘘をついた訳ではない。彼女は本部の医療機関で診断を受けるだろうし、その場で手術すら受けられるかもしれない。病を得ている我が子へ(リュドミラは肌の浅黒い、カフカス地方の血を濃く引く子供だった)献身的に尽くし、慈善事業に精を出す両親。周囲の同情と尊敬を勝ち得るのに完璧なバックグラウンドだった。
外で遊んでいる子供達の中にリュドミラは混じっていなかった。病み上がりだし、彼女は本が好きな、大人しくて良い子だと聞いている。事実、大きな榛色の瞳は4歳児にしては聡明な光が輝き、シェルティが持参したテディベアを渡されて、辿々しく「ありがとう」と呟き、はにかんで見せる。
帰りの車の中、後部座席に収まる新しく組み立てられた親子へ、運転席からまた溌剌とした声が届けられる。
「トラブルは起こりませんでしたか」
「致命的なものはね」
fatalなんて単語をまだ彼女が理解できていないことを願う。今の状況において、冗談にしても口に出すべきじゃない、と思ったのは、少し物事をシリアスに捉えすぎているのだろうか。そういえばさっき通された施設長室は、常軌を逸しているのかと思うほどストーブが焚かれていた。少し熱が入った。例え表面的にはそう見えなくても、事実は悪性の細胞のように増殖し、やがて後悔へ変質しかねない。
幸い、両親へ挟まれるリュドミラは、足をぶらつかせたり余計なお喋りをせず、大人しくぬいぐるみを抱きしめていた。悪路の振動に合わせて、まるで赤ん坊をあやしているかのように腕を揺する。そういえば、以前施設から送られてきた写真の中で、彼女が年少の、明らかに水頭症の気を見せる子供と遊んでいる姿があった。本当に優しい子なのだろう。
「まあ、すっかり顔色が悪くなって……こちらへお入りなさい」
少しの躊躇いの後、腕を伸ばしてきた少女を、シェルティは膝へと抱き上げた。身に纏う毛皮の中へすっぽり包み込み、窓の外へ視線を投げかける口ぶりは、黒貂よりも子守唄よりも、ずっと柔らかい。
「ごめんなさいね、寒かったでしょう。もう大丈夫よ、ママが守ってあげますからね。ほら、お空だってもう、随分と明るいわよ……」
四六時中煤けた空の下を抜け出し、車は街へ戻りつつある。ここでことさら、空気を汚すのはどうか。取り出しかけていた電子煙草をポケットに戻すと、ジョコンドも外套からはみ出した小さな手を、請われるまま握ってやった。
シェルティさん【@usgnranda 】と
公園の入り口から、シェルティがこちらに向かってきた。子供か修道女かと言った地味なサージのワンピースと黒縁眼鏡、足取りは記憶にあるよりも小股でせかせかしている。まるで人目を憚るように。事実そうなのだから仕方がないのだが。
別に元から太っていた訳ではないものの、彼女はこの53日で一回り小さくなったように見えた。もっとも、ひ弱になっという意味ではない。なだらかな肩の中で骨がグッと強調され、腕は巧みにリードを捌き、犬へ好き放題にさせること許さなかった──チョコレート色をして、カーリーヘアを下半身だけ刈り込んだ犬は、愛想の良さへ比例するやんちゃさを兼ね揃えているらしい。
「彼の名前はアスパラガス、みんなはMr.アスと呼んでいるけれど。ポーチュキーズウォータードッグって犬種なんですって」
「ええっと、もう一回言ってくれるかな」
「ポーチュキーズ・ウォーター・ドッグ。大統領も飼っていたそうよ」
名前を知らずとも可愛がることはできる。その場へしゃがみ込み、愛犬家のふりをしているジョコンドを見て、シェルティは自らが撫でられているかの如く肩を揺すってみせた。
「監視は?」
「もう大丈夫。遅くなってごめんなさい、Mr.ウッドラフは思った以上に猜疑心が強くて……お友達を3人ほど、規約違反で密告しなければ、信用してくれなかったの」
「気にしなくていい。君は、大丈夫?」
「ええ、それにMs.コーデルも」
エチケット袋と一緒に握り込まれていたポラロイド写真を受け取れば、確かに写真の中の少女は元気な様子。幾らかほっそりとし、健康そうとすら言えた。最初に彼女の母親から提供された写真を目にしたときは、まるでめんどりのように丸々として可愛らしいと思ったものだが。
思春期らしい自意識と、怪しげなインフルエンサーの発信へ唆され、その令嬢が近頃評判の“食餌及びインフォメーション・デトックス、並びミニマリズムに基づく効率化を学ぶ療養施設“へ駆け込み早98日。施設長の態度がカルト教祖じみているならば、従う者達の生活もまた、一種の僧院と呼べる禁欲さを保っている。供される食事はトマトとキャベツとアスパラガスのスープだけ。それなのに滞在費は月に3万8千2百ドル。ただしここに部屋の清掃及び衣類の洗濯代は含まれていない。基本的に滞在者達は、身の回りのことを自分で行うよう推奨されていた。
「とは言っても、あたくしの場合、Ms.コーデルと違って、冷たい水でしか洗濯をできないことは苦だと思わないから」
本部へいる時よりも幾分荒れた手を擦り、シェルティは晴れ渡った空を見上げた。
「彼女もようやく慣れてきたようね。そんな必要はちっともないのに」
「あの子の母親は最高裁判事への続投が決まったよ、幸い、この件が取り沙汰されることもなく。少しは猶予ができたし、焦る必要はないさ」
「大丈夫よ、Mr.ジョコンド」
こちらへ近付いてきた親子連れの押すベビーカーから、小さな掌が振られる。「ワンちゃん!」溜息をつき、ジョコンドはご機嫌な笑みを湛える、犬の間抜け面を覗き込んだ。「ええと、この刈り方は、どこのトリマーで?」
人の気配が遠のき、奇抜な毛並みの犬が獣臭い息を人間へ叩きつけ、真っ赤な舌でべろべろと掌を舐め終えるまで待ってから、シェルティは呟いた。「この子、あなたのことを随分気に入ったみたい」
「嬉しいね、僕も犬は嫌いじゃない」
「それじゃあ、Mr.アスと同じくらい、あたくしのことも信用してくださるわね? もう彼女を連れ出す算段はついているの」
今回は任務の性質上、ある程度シェルティの自由裁量に任せてある──と言えば聞こえはいいが、ほぼ放任と言っても良かった。どれだけSNSの情報を分析しても肝心の内情は秘匿され、情報統制が敷かれた施設へ潜入したことのある者は組織内にも皆無。ぶっつけ本番で送り込まれたシェルティは、ジョコンドの提出する報告書の中だと、閉鎖空間で縦横無尽の活躍を繰り広げていることになっている。
実際は入所以来、顔をあわせたのも今日が初めてなら、メモを送り出すことすら一苦労。煙草の空き箱の裏にしたためられた走り書きの文字も、今や通勤の際に目にする鳩のように、すっかり見慣れたものとなっている。
「Ms.コーデルに納得して貰う形で退所させ、施設の費用を払っている彼女の父親の影響を断ち切ること」
咳払いを一つして、シェルティは分厚いレンズの奥で目を伏せた。
「毎日お話ししているけれど、彼女は父親を愛しているわ。だから、その心変わりを促すよりも、もっと原始的な本能を刺激するのが得策だと思うの……Mr.ジョコンド、ピザを差し入れて下さらない?」
なんだって、と口にするより、瞠目を先に向けてしまう。そんなジョコンドを見下ろすシェルティは、まるで不思議そうに小首を傾げて見せた。
「あら、あたくし本気よ。彼女が食への興味を取り戻せば、自動的に規約違反となって、施設から退所させられるでしょう?」
「それはそうだけど」
カエサルの物はカエサルに。犬の首辺り、ふさふさ波打つ長い被毛で手を拭いながら、ジョコンドは目を瞬かせた。
「粗食が続いていたのに、いきなり脂っこいものを食べたら、腹具合が悪くなるんじゃないかな」
「優しいのね、Mr.。でも大丈夫、彼女もあたくしも、消化器官は頑丈だから」
ティーンから二十代のかけての胃と、不惑のものは土台違うという訳だ。
逡巡している時間はあまりない。芝生で遊んでいた子供達と保護者の一群が、帰り支度をしている姿を尻目に、ジョコンドも重い腰を上げた。近頃は書類仕事が多いので、どうにも身体が鈍っていけない。自らもバディを見習い健康的な食生活を。いや、運動する方が手っ取り早い。緊張感を失えば色々と億劫になり、スポーツジムへ通うことすら怠りがちだった。
「確かに、君も辛いだろうね、こうも野菜スープばかりじゃ……」
「まあ、信じて下さらないの? 誓って言いますけど、これは決して、あたくしの私情じゃありません」
犬が踊るような足取りで、ボロ切れじみた姿になった冬越しの蝶を追いかけていこうとする。リードを引いて嗜めてから、シェルティはつと、よろめくふりで、バディへと歩み寄った。耳打ちする吐息は間違いなく煙草臭い。空き箱を作るため、施設内ではひっきりなしに吹かしているのだろう。もしかしたら、他にもニコチンへ頼る理由はあるかもしれないが。
「本当のことを言えば、この10日と言うもの、毎晩二段ベッドの上から、Ms.コーデルに囁きかけていたの、ヤンニョム・チキン・ピザの魅力を……彼女ったら可哀相に、今にもフラストレーションのあまり、配膳係へ飛びかかりかねない勢い」
「ああ、うん、信じるさ」
「もちろん、彼女に信頼してもらう為、あたくしも一緒に食べなければならないことは確かだけれど……しかも、一度では駄目。何度か繰り返して、油断したタイミングで、施設長へ見つかるようにしなくちゃ」
再びすたすたと、犬を連れて去っていく後ろ姿を見送り、ジョコンドは手に入れた写真をひっくり返した。次回の逢引き場所を始め、細々とした連絡事項が、ボールペン書きの端正な文字でびっしり書き連ねてある。
踵を返し、シェルティが使ったのとは別の出入り口に向かった時、遊び疲れた子供達が母親へ甲高い声で訴えているのが聞こえた。
「ハンバーガーが欲しい、買って帰ろう。昨日の残りのマカロニ・サラダなんて絶対やだ!」
「どうして子供は、不健康なものばっかり食べたがるのかしら……」
シェルティが犬を散歩させるのは月曜日と木曜日。次の週初めに、三重にした茶色の紙袋へ詰めた二切れのピザを、公園のベンチへ置いておく。3つ離れた席で見張っていると、犬と共にやってきた彼女は何食わぬ顔で荷物を広げ、携えていた手提げ袋へ落とし込んだ。おしっこを洗い流すためのペットボトルや、その他諸々の用具と一緒に持ち歩かれたら、微かに湿気て、くったりと重く撓んでいる袋が何を想起させるか──少なくとも、施設の人間は近寄りたがらないだろう。犬だけが勘付き、まるで麗らかな春の陽射しに宛てられたとでも言わんばかりに、飛び跳ねては愉快そうに吠える。
とは言うものの、広げた新聞の上から見遣る足早の歩みだって、心なしか浮かれているかのよう。そういえば彼女だって犬だ。犬という生き物は本来雑食だという。けれど牧羊犬はその職務上、時に言うことを聞かない家畜の脚へ噛みつく必要があった。
羊か。先日、テスコの特売で購入したラム肉が、まだ冷凍庫で眠っているはず。今日は帰宅したら料理に勤しんでみるのもいい。
相棒はテレビすら見せてもらえず、10時就寝を義務付けられていると言うのに、こちらだけパソコンのモニターを睨みつけて午前様だなんて、よく考えてみれば全く馬鹿らしい話だった。
「酷かったよ、二度とテスコでなんか肉は」
おくびを辛うじて飲み下し、ジョコンドは助手席に収まるシェルティへ、哀れっぽい眼差しを投げかけた。
「あんまり筋が硬いから、次の日にもう一度圧力鍋へ掛けてみたんだけどね。手の施しようがなかった」
結局、煮込み料理を作ってみたのは三日後になってしまった。だが思い立った日に取り組んでも、結果はさして変わらなかっただろう。大鍋一杯の、肉はパサパサしている癖にスープばかり妙に油ぎった残骸はこの2週間、騙し騙し片付けていた。それでもまだ、ジップロックへ二つほどが冷凍庫を占領している。
朝も食べてきたので、はっきり言って胃壁がツルツルに鞣されているかのような有様。やたらと喉が渇く。先ほどシェルティが注文カウンターで、前のめりになる勢いでトッピングの魔法を唱えていた時も、自らはどうしても注文が出来なかった。
「ああ、可哀相なMr.」
三切れ目の、釜から出されたばかりなチーズピザを口へ運びながら、シェルティは心底気遣わしげに顔を覗き込む。
「食事は楽しむものでしょう? Mr.アスですら、美味しいものには目がないのに」
シェルティは四度、密告者となる必要がなかった。ローマ人に耳打ちしたのは、ファースト・ドッグを務め、荒れる北の海を泳ぎ漁船の連絡係を務めていた、賢い犬だ。太い首を猛然と振り立て、ゴミ袋を食い破っているところを目撃された愛犬に、さすがの施設長も異変へ気づいたらしい。
「Mr.アスは、肉入りの缶詰を与えられていたんですって。よく考えれば、当然の話ね。野菜だけで、あれだけの立派な毛並みが保てるはずがないもの」
犬でもまっしぐらになるピザを、週に2回のみ支給して約半月。コーデル嬢はよく耐え凌げたものだ。いや、ウッドラフ夫人へ呼び出されて咎め立てられた時は、とうとうこれまでのフラストレーションを爆発させ、いかめしい施設長へ襲いかかったと報告を受けている。
「応接室のガラス窓、まだ修理がされていなかったみたいだけど、君は怪我しなかったかい」
「ええ。お二人が諍っている間、ずっとテーブルの下に隠れていたから」
いくら金蔓と言え、顔に爪を立てて引き裂かれては堪らない。哀れな富豪の娘が母親に引き取られた三日後、シェルティも荷物をまとめ、タクシーへ乗り込んだ。あらかじめ決めておいた待ち合わせ場所は、イェルプでも高評価のピザパーラー。潜入調査を担当するだけあり、シェルティは仕事において驚異的な忍耐強さを発揮するが、今回ばかりは相当に堪えたのだろう。
陽気はすっかり夏に近づき、スーツも施設の入所時に持ち込んだものではすっかり暑苦しい。裏地のついたジャケットは、真っ先に後部座席へ畳んで置かれていた。あまり値の張らないホームスパン風のスカートがよれることなどお構いなしに、シェルティはあつあつのピザの箱で膝を温めている。
「Ms.コーデルも、自分自身のやり方と言葉で物事を主張することが出来るようになった訳だし、めでたし、めでたしね」
「ダイエット自体は悪くないと思うよ。健康的な食事は重要だし、ある程度体が軽くなると、気分も明るくなる」
車内へ充満する香ばしいチーズの匂いも、申し訳ないが今このタイミングにおいては胃腸を強く揉みしだくような刺激になる。細く窓を開き、フロントガラスの向こうへ意識を集中させることで、ジョコンドは己の不甲斐ない内臓を宥めていた。
事実、相棒には非などこれっぽっちもありはしないのだ。胃が弱る理由は不規則な睡眠時間、運動不足、エトセトラ、エトセトラ。ここ数週間、体重計にも乗っていない。ダイエットが必要なのは己自身に他ならなかった。
「君もこれまで少食をさせられていたんだから、急に沢山詰め込むと……無用な心配か」
「いいえ。お気持ちは有り難く受け取らせて」
もはやピザは、あと二切れを残すばかりになっている。今日の彼女は、これを誰かと分け合う必要がない。伸びるチーズを指で切り、手にした一切れへ乗せながら、シェルティは裸眼に戻った目でじっと運転席を見つめた。
「それよりもMr.。本部へ戻ったら、消化器内科へ行くことをお勧めするわ。あたくし、本気よ」
「平気さ、これくらい」
「怖がらなくても大丈夫、もしもスッとなる胃薬を貰ったら、そんな程度の不調、きっとすぐに治るでしょうから」
前回会った時よりも遥かによくなった血の気で、彼女の横顔ははさながら薔薇の色。己の相棒が、肌艶まで自由自在に操れると言われても、もはやジョコンドは信じるつもりでいた。
「そうしたら、きっと今日のお昼には具合も良くなるわ。お昼にピザを食べることだって出来るくらいに」
「随分飛ばすね」
「これはミニマリズムにおける効率化の実践よ」
最後の一枚を、まるで愛しい恋人のように見つめながら──やがてその睫毛は、別れの時を迎えたかの如く悲しげに震える。3口で平らげると、シェルティは空になったピザの箱を、憩う犬でも撫でる手つきで、愛おしげに撫でた。
「だって、あたくしが留守をしている間にも、まだ期限の切れていないクーポンは、何枚だって残っているんですもの」
シェルティさん【@usgnranda 】と
この国の雪は重い。今朝になってから風が弱まったせいもあるが、ボトン、ボトンと灰色の空がら滑り落ちるみぞれ混じりの塊は、脆弱なニッサンのボディを一々へこませているのではと危惧を覚えるほどに。ただでも白いルーフへ今より降り積もらせてなるものかと、これまた貧弱なエンジンが、上り坂で唸りを上げる。ガソリンは残り半分、目的地までは十分保つだろう。
「ヒーターの温度を上げる?」
「あたくしは平気よ」
ジョコンドの提案にそう答えたのの、シェルティの鼻は泣いていたかのように赤い。車が旧国道に乗って6時間。そのうち2時間は検問所の隙間風が吹き荒ぶ、というか半分は外と呼んだ方がいい小さな待合で待たされたので、寒さは骨身に沁みている。これでも他の車より、早く出立できた方なのだ。トランクの中へこれみよがしに積んでおいたベルーガ・ノーブル2瓶のご利益。まだ数瓶、ボストンバッグへ詰め込んであるので、取り出して一口煽るのだって手かもしれない。
「いけないわ、Mr.。最近、この辺りでも飲酒運転の摘発が厳しくなっているそうだもの」
トレンチコートに包まれた二の腕を擦りながら、嗜めるシェルティの口の動きは最低限のもの。一応今回の彼女は、現地の人間という役柄なので、例え2人しかいない時でも喋り方には気を遣う。
「貴方の気持ちは分かるけれど……宿でもっと紅茶を詰めてきて貰えば良かった」
「どっちにしろ駄目だったよ」
「確かにそうね。残念だわ、Mr.、あの可愛らしい魔法瓶を気に入っていたでしょう?」
そう、気に入ったのも、処分せずに持って帰ろうと決めたのもジョコンドだった。この地で購入した水筒は、かつての西側諸国ならレトロ趣味と言われる緑のチェック柄。ステンレス製のサーモボトルが市場を席捲するこのご時世へ、日常使いの品として店舗に並んでいたそれは本当に可愛らしく、貴重なもののように思えたのだ。
「警備員が石頭だったのは、本当に残念だわ」
「別に石頭じゃなくても、ガラスポットは割れやすいからね。あんな勢いで叩きつけたら」
崩れた天気を言い訳にしていたが、実際はもう、日暮れと呼んでもいい時間帯だ。泥跳ねが薄く凍りついた路肩の道路標識によると、街まで後20キロ。吹雪は弱まりつつあるとすら言うのに、希望が見えてくると体が我儘を言う。指先の悴みが一層強まったように感じ、ジョコンドは操るハンドルの上で、何度も手を握ったり開いたりを繰り返した。
「それに僕は、君が魔法瓶を使えば良いと思ったんだ」
「あたくしが?」
「うん。あれがあったら、家でいつでも熱いコーヒーを飲めるだろう」
そんなことをするよう求めても望んでもいないのに、しばらくの間シェルティは沈思黙考に耽っていた。シートの中へ座り直し、擦り合わせた手へ白い息を吹きかける頃にはジョコンドも、彼女が口にするだろう返答へ見当をつけていた。
「けれど、ここと違って、あちらはもう十分暖かい気候でしょう?」
現実のやり取りは推論よりも緩やかで、全く正論だからこそ、「そうだね」以上の相槌を一々思いつく気が起きなかった。
雪の気配こそ見当たらないものの、街の寒々しさもまた、気が滅入るものだった。石畳は日中、後生大事に抱え込んでいた冷気を夜になって放出し、貧相な街路樹も道行く人々も虚ろに背を丸めている。クレムリンが支配を決定する前から開いていそうな、表通りの商店街は半分以上がシャッターを下ろしていた。軒下には生きているのか死んでいるのかも定かではないホームレスが横たわり、訪れる何かを待つ。
とっとと逃れたいと思っても、地下鉄から吐き出された帰宅ラッシュの人々がてんでバラバラに道路を横切り、車の行く手を阻む。うっかり前の車のリアバンパーを突き上げないよう、いっそ国道よりも気を遣いながらのろのろと進むのだ。このままだと、連絡していたチェックインの時間へは到底間に合いそうにない。
「夕食を食いっぱぐれるのは困るな。今日の宿にも、その周辺にも、海外旅行者用レストランはなさそうだ」
「あそこで何か買ってきましょうか」
シェルティが指差したパン屋は、まだ開店していると信じる方が難しそうな佇まい。目を凝らせば、薄汚れた照明の中、陳列棚ではまだ幾つか商品が並んでいるらしい。
彼女が車を降りて、煤けたガラスドアを押し開いた時、店の入ったフラットの3階で、きっちり締め切られた窓のカーテンが小さく揺れた。
もちろんシェルティも、隠れた人影に気づいていた。
「監視前哨は花屋の2階だと聞いたけれど、移動したのかしら」
車が10メートルも走らないうちに、少ない選択肢から選び抜き、会計を済ませることは十分可能だった。電気自動車とは無縁な街で、冷え切った空気に混ざり込む排気ガスは、夏場よりも勢いは無い分、肌をざらざら擦る。だから助手席へ乗り込んだドアが閉められ、しばらくするまで、香草の匂いに気づかなかった。コリアンダーだろうか、焼き立てのパンではないが、鼻をくすぐる刺激はかなり強い。
「そうかも知れない。店主の様子は?」
「おばあさんよ。くたびれた顔をして、どういう訳かずっと啜り泣いていたわ。理由は教えて下さらなかったけれど」
とてつもなく柔らかくて温かいものであるかの如く、シェルティは膝の上で油紙の包みを抱え直した。
「何故かしら。この国に来てから、仕事以外でも、泣いている人によく会うの。寒い国の、特に年配の方達は、あまり涙を流さないと思っていたのだけれど、偏見を改めなければいけないわね」
幸い、街の中央に位置するホテルの人間は誰もが鉄面皮。夕食の時間には遅れてしまったが、アラカルトでなくてもよければ、と、ワイシャツの襟も垢じみたコンシェルジュが提案してくれる。向こうが一方的にもたついているから、明らかにこの国の人間とは違う肌の色をした男を認め、ラウンジで屯していた制服警官2人がのっそり歩み寄ってきた。
「ここへ来た目的は?」
支給品であるアノラックの襟元へ押し込めるような詰問は、あからさまにうんざりした声音で放たれる。ジョコンドもまた、本心から疲弊した笑みを見せつけた。よくも従業員が耐えられると感服できるほど、このフロアの暖房設備は貧弱で、凍えた爪先が解凍される気配も一向にない。ましてや偽造された滞在登録証書を、節穴の目で念入りに確認されたところで、今更緊張によって頬へ熱が上ることなど、決して。
せいぜい気に掛けるのは、唯一の荷物であるボストンバッグを運んで行こうとしたベルスタッフの存在くらいのもの。これまた死んだ魚のような目をした男には、シェルティがぴったりと張り付いている。実際、彼が軍のスパイではなくても、この国ではホテルの従業員が物を盗むことなど、さして珍しい話でもない。
顔色の悪い青年は、単にドルのチップが欲しかっただけらしい。握らせた五ドルで遜ったような上目遣いを作り、ご用があればわたくしに何なりと、と言ったのだと思う。手の施しようがない訛りへ適当に返事をして追い払い、ジョコンドは脱いだ外套を片手に、クローゼットを開いた。
寒い土地の安宿、と貶めるほど低俗な場所でもないのだが、とにかくこうした部屋で助かるのは、害虫が少ないことだった。アブラムシが飛び出してくることはなく、代わりに合板の壁面に小さな盗聴器が、蹲るかの如く取り付けられているのを見つける。
シェルティに至っては化粧を直す真似すらせず、ナイトテーブルに乗せられた電話機へ手を伸ばした。耳に当てようと受話器を握った指が、コツコツコツコツ、と4回、傷だらけの天板を叩く。
「なかなか繋がらないわね。声が聞こえてこなくて、機械の音ばかり」
わざわざ電話線を別室に繋げ、耳を澄ませているのではなく、一定時間ごとに確認される一般的な録音式。待つ間、彼女が見つめる電気スタンドの傘にまた小さな機械を見つけ、ジョコンドは肩を竦めた。
「さっきのボーイに頼んだ方が早かったな」
ミネラルウォーターを注文した後、シェルティはバスタブへ湯を張りに向かった。
「冷えるんだし、食べてから入ったら?」
「夜遅くなってからだと、お湯が出なくなったら大変」
浴室から張り上げられた声に芝居の気配なく、本気でそう思っているらしい。
「さっき見たけれど、バーは22時までだそうよ。それにもうこの時間ならばツーリスト・ショップも閉まって、外出する用事もないでしょう」
「せめてあと1時間早く到着していればなあ」
重苦しい暗褐色をした、埃っぽいカーテンを開き、ジョコンドは外へ視線を落とした。大通りに面した窓は3階だと言うのに、通りを歩く軍服姿の男達の表情まで識別できそうだった。ベレー帽の下で抜け目なく光る目が見上げてきたのへ、微笑みかける。すぐさま視線を逸らした彼は、閉店準備をしている花屋へ向けて、厳ついタクティカル・ブーツの足音を響かせた。あらかじめ知らされてあった建物は、通りを挟んだ斜め向かいで、外国人観光客の監視にさぞ打ってつけなことだろう。
これは検問所の警備員に引き渡さず済んだ、紙巻煙草のパッケージを取り出し、引き抜いた一本にライターで火をつける。残り三本。今夜中に全部吸い切っても構わない。この部屋は禁煙室? なら今すぐカーテンも窓も開け放って、思い切り燻らせてやろうか。どうせ明日にはこの国を出るのだから。
探られたところで痛くも痒くもないと思うのは、今回の任務が何かを持ち出すのではなく、置いてくるものだったから。それでも警戒してしまうのは、職業人としての性だ。そして最後まで気を抜かないと言うのが、この国の言い回しを使うと「社会秩序に即した」生き方だった。こんないつ命を落とすか分からない生活を送っていて、秩序も何もないと言うのがジョコンドの本音だったが、己の心身はとっくに適応しているのだから仕方がない。
この数週間吹かしていた国産煙草は雑味が多く、乾いた泥にまみれた草を燃やして吸っているかのようだった。まるで心因性の癖じみた咳払いに揺さぶられ、紫煙が冷え切った窓にぶつかり、しんしんと凍える室内の空気へ逃げ上っていく。追いかけて視線を擡げた先、カーテンレールにも、火災報知器とはとても思えない、マッチ箱ほどの大きさをした金属製の箱が取り付けられていた。
宿泊台帳に記入した名前で呼びかけられ足を踏み入れれば、ゆったりと湯船に浸かったシェルティの極楽顔を突きつけられる。持ち込んだバスボムを使ったらしい。狭い浴室内には甘ったるい蒸気が薄く立ち込め、薄緑色の湯から生まれた泡が、乳白色の肌を舐め覆っていた。
「困った人ね、あんなところにいたら風邪を引くでしょうに。一緒に入る?」
「遠慮しておくよ」
「なら、あそこのスポンジを取って」
シェルティは微笑み、洗面台を指差した。
「でも、残念ね。ここは本当に温かい、まるで天国みたいな場所なのよ」
うがい用のコップで遮蔽してある、三面鏡のコンセントに、カメラとマイクが取り付けてあることは疑いようがなかった。人が最も無防備になる、こんなところへ……黄ばんだアメニティ用トレーに白い粉でも並べて、鼻から吸い込むとでも思ったか? 脱いだ上着をトイレの便器の蓋に投げつけ、シャツを腕まくりをしながら、ジョコンドは咥えた煙草を落とさないよう、ゆっくりと呟いた。「挑発するにしたって、もう少し色気があってもいいのに」
バスタブの縁に腰を下ろし、歪み一つない背骨に沿ってスポンジを滑らせる。数ヶ月前、アレクサンドリアでちょっとした揉め事に巻き込まれて刻まれた、背中一面の擦り傷は綺麗に消えていた。ちくちくした海綿に擦られるそばから、なめらかな膚で泡と水が丸く玉を作り、連なっては湾曲へ沿って流れ落ちていく。
「貴方が欲しがっていた魔法瓶、一リットルサイズの。たった今、思い出したわ。オレゴン街道で、案内人のおじいさんが似たようなものを携えていたでしょう。あれは緑のチェックじゃなく、赤だったけれど」
「そうだった。よく覚えていたね」
「素晴らしいところだったわ。三日前の雨の匂いがまだ残っていて、けれど空と言えば雲一つありはしない。平原を貫き通る、大きな蛇みたいな道を馬で進んだわね。見渡す限りユッカが咲いていて……昼食を摂ったのは、ハコヤナギの下だったはずよ。ターキーサンドと、あのポットに入れたコーヒーを」
産毛に水気を孕んだ二の腕から、華奢でなだらかな肩に掛けて、小さく震えが走る。彼女が笑ったのはスポンジが湯の中へ少し潜り込み、脇腹の裏を掠めたせいだろうか。
「君が思い出したのは、それだけじゃないだろう。あの老人も、僕達の前で泣いていた。奥さんが家出したとかで」
「40年も連れ添った相手と離れ離れなんて、さぞ辛いことでしょうね」
「僕としては、40年間もあんな僻地に縛り付けられた後で、1人で生きていこうと決心した奥さんの勇気が凄いと思うな」
「彼女は1人じゃなかったかもしれないわよ」
俯いた拍子に、ようやく血の気の上ってきたうなじがジョコンドの眼前へ曝け出される。急所を洗わせている間、シェルティはぽちゃぽちゃと、子供のように遊んでいた。掌で掬い取られた泡に反対側の人差し指が差し込まれ、くるくるとかき混ぜる。虹色のしゃぼん玉がぱちぱちと音を立てる勢いで弾けて、やがて小さな粒となり、寄り集まってはねっとり白く角を立てた。
「少なくともあのおじいさんは、“1人で去った”とは言わなかったはず。もし誰かと駆け落ちしたのだとしても、彼の性格なら、決して口にしなかったでしょうし」
「君が男心について一席ぶつとは」
「まあ、ご挨拶ね」
ふっと泡を吹き飛ばす息と同じくらい、詰るシェルティの口調は軽々しい。
「まるであたくしのことを、何も知らない小娘だと思っているような言い草で」
「実際、襟足は白いだろう……今はそうでもないけれど」
叩いた諧謔に怖気をふるったかの如く、煙草の先端から灰が舞う。手で払い除けたそれは、シャワーカーテンへ絡まるようにして置かれた石鹸箱の上に着地し、ぬめりに絡め取られた。持ち上げられた二の腕の上で、一度湯に潜らせたスポンジを握り絞っている間、ジョコンドは土砂降りのような水音へ、唇の端から押し出した言葉を紛れ込ませた。
「あの男は君のことを、奥さんの若い頃にそっくりだって言っていたけれど。ちょっと信じられなかったな」
今度こそシェルティは、喉奥で転がす笑いを隠さなかった。
「貴方も紳士ならよくご存知でしょうに。そうとでも言い訳しなければ、泣くことが恥ずかしかったのよ」
「僕は悲しければ泣くさ」
「あら……でも、そうなのかもしれないわね。魔法瓶のことだって、あんなに残念がって」
珍しい言い募りは、ぼちゃんと音を立てて放り込まれたスポンジに封じられる。濡れた手に肩へ触れられた時、彼女の背は微かに反らされた。或いは、頭を近付けようとしたのだろうか。
乾いている指で煙草を摘み抜き、一度そっぽを向いて煙を吐き捨てはしたが、シェルティの濡れ髪にこの甘ったるい匂いは残るかもしれない。分かっていた癖、彼女は臆さない。丸く形の良い後頭部がシャツの肩口へ凭せ掛けられる。
「ええ、そうよ。貴方、自分では気付いていないでしょうけれど、あの壊れやすい魔法瓶を、本当に欲しがっていたわ」
「君が言うならそうなんだろう」
久しぶりに味わったアンモニアへ目を細め、ジョコンドは答えた。
「僕はあの案内人が、どうにも虫が好かなかった。何を考えていたのかは分からないけれど、初対面の相手に身の上話をするなんて、あんまり面の皮が厚いじゃないか」
コップの裏の嵐。もしもリアルタイムでこの場の空気を拾っている誰かがいるならば、そいつは今頃、このやりとりへ欠伸をこぼしているだろう。旧態依然の監視社会はしかし、情報の蓄積で成り立っている。そして情報の奔流の中、嘘を貫きたいのならば、その中に少しの真実を混ぜることはやむを得ない。
「もちろん、何かを企んでいるなら話は別だけど」
「老人の知恵には、有り難く耳を傾けるものよ」
確かにあの老人は知恵者で、トレイルの全てを知り尽くしていた。だからこそ、最終的に崖から突き落とされなければならなかった。ぱっくりと割れた頭から流れる血が、すずなりに膨らむ白いユッカへ飛び散る。でもあの花弁だって、よく見れば貝殻虫がびっしり集っているのだ。
部屋の扉をノックする音が、すっかり薄まった湯気の中で、それでも遠慮がちに届けられる。石鹸箱の中で煙草をにじり消し、ジョコンドは立ち上がった。
ミネラルウォーターを持ってきたのは、先ほどの青年ではなかった。コンシェルジュの中年男は、相変わらずの仏頂面でガラス瓶を差し出す。
「それから、こちらは当館からサービスになっておりまして」
進呈された魔法瓶は緑色のチェック模様。きっかり一リットル分詰められているのは紅茶だろう。砂糖とミルクをお持ちしましょうか、と重ねられれば、もはや苦笑いしか浮かばない。
「いや、結構。食事はあと30分後に。メニューは?」
「カレリア風のサーモン・スープでございます」
「ならこれを一緒に出してくれ。ワインはトカイ、フルミントで」
パンの包みを押し付け、扉を閉めるや否や、シェルティは笑いを弾けさせる代わりに水を跳ねさせる。せめてもの意趣返し、ジョコンドは浴室へ向かって声を張り上げた。「聞いたね。ちゃんと支度をするんだよ」
それまでに、温かい紅茶を飲む時間は十分あるだろう。もちろん、全部飲み干すとまでは行かないが。
シェルティさん【@usgnranda 】と
スライ・ストーンとブライアン・ウィルソン、どちらを追悼すれば良いか分からなかった。別にスライ&ザ・ファミリー・ストーンもビーチ・ボーイズも、とりわけ好きということはない。けれど朽ちた修道院をリノベーションしたこのコテージは、母屋が観光客向けの食堂になっており、ぽつぽつとだがイギリス人観光客が途切れず訪れる。屯しているオットセイじみた腹のブーマー達は、ビール一缶、もう少し良心的なら地元のスイートワインをグラスに1杯で駄弁り続けた。英語を使っていたらこちらにも話を振られるので、ジョコンドもカウンター奥で居眠りしている亭主を起こす時には、拙いギリシャ語で話しかけるよう心がけている。
幸い、ここ2週間の住処は見かけこそ中期ビザンティン様式のモルタル・粗石壁だが、内張された防音断熱材のおかげで余計な騒音が遮断される。聞こえてくるのは崖下で砕ける淡藍色の波のうねり、ごくたまに、目と鼻の先にある駐屯地から飛ぶヘリコプターの駆動音。外の音が聞こえないならば内の音も封じ込められると言うことになる。少々レコードの音量を上げてアメリカの音楽を流したところで、不謹慎だ異端的だと苦情は寄越されないだろう。
受け取った食料品を冷蔵庫へしまい、時計を見上げれば10時過ぎ。昼食は昨晩食べたスズキのレモン蒸しへデーツ・ビネガーを振っておいたもの。一晩馴染ませれば、いい具合に味が馴染んでいるはずだ。念のため一口、しっとりした魚の身を毟って確認してから、ジョコンドは家主のコレクションを漁りに掛かった。
このビーチハウスの本来の持ち主はNFLのスポーツ・エージェントだと聞いている。ホリデー・シーズン一歩手前で踏みとどまっていることを差し引いても、眼下に臨む荒涼としたビーチは余りに寂しげだった。オーナーも土地選びに失敗したと思っているから、無造作へ他人へ貸し出したのかもしれない。
車で30分走らなければレストランもないような僻地で、精一杯楽しむ努力はしているのだろう。遊戯室の壁一面を占有する特注の木製キャビネットには、上から3分の1が書籍、残りにはレコードがぎっしりと詰め込んである。目録なんてとても望めない、無作為で乱雑な収納の仕方だ。下手な抜き出し方をすると崩落の恐れすらあるから、必要最低限にしか触っていなかった。
今も指を掛け、力づくで、けれど劣化し微かに粘るにビールカバーを破かないよう数枚引き出してみると、現れたのはカウント・ベイシー・オーケストラとシルヴィ・ヴァルタン。こんな混沌の中、ビリヤード台に電話帳二冊分ほど積み上げた時点で、緑色のジャングルとその奥に見える家らしきものを描いたジャケットを発見できたのは、奇跡に近い。
数多の芸術家達による汗と涙の結晶が、集合知扱いされることで持ち主を権威づけるのと同じだ。この家は満たされることにより、空虚さを加速させる。1人でいると、特にそう感じた。
居間のシェルフに鎮座するティアックのレコードプレイヤーも、主な役割は明らかに装飾品だろう。ダストカバーには文字通りうっすら白い層が出来ていたし、フォノアンプも玩具じみた代物だった。挙げ句の果て、針を落としてスピーカーから聞こえてきたのが、ブライアン・ウィルソンの情緒不安定さをそのまま反映している変調の連続。大学生の頃だったらマリファナが欲しがっていたかもしれない。正直今だって、酒が飲みたい。
昼間から酔うような飲み方はしないとの誓いは、今のところ辛うじて守られている。平穏はさながら、緩やかな勾配。気づけばずるずると滑り落ちていそうで、少し怖かった。
カウチに腰掛け、1週間前から読んでいるフレデリック・フォーサイスの続きへ取り組むが、集中力はなかなか戻ってこない。視界の端でちらちらと踊るレースのカーテンが、追い打ちをかけて意識を掻き乱した。窓は増築された真新しいウッドデッキへ続いており、柔くひりつくような潮の匂いを部屋へ押しやる。
結局、分厚い本をテーブルの上へ戻し、外へ出るまでに、30分も要さなかったのではないだろうか。甘過ぎて飲めないと処遇に困っていたコマンダリアを注いだグラスの中、怠け疲れの体が作るぶらぶらした歩みと、吹き上げる海風で、霜のついた氷が揺れて硬く小さな音を立てる。
眼下の浜辺は、死んだように静まり返っていた。暖かさと緩やかさを増した春の水面は、色だけがまだ、理想的なエメラルドグリーンよりも濃い。砂浜からちょぼちょぼと灌木の植わる草地へ至るまで、人の手が入った形跡が殆どなかった。それぞれ車で10分ほどの距離にある英国軍駐屯地と大規模なセメント工場へ挟まれているせいで、避暑客の蹂躙から逃れている。
そんな中、健気というのか勇敢というのか、湿った色の砂の上に広げられたオレンジ色のビーチタオルと、同じ色をした浮き輪は、嫌でも目を惹く。
うつ伏せに寝そべるシェルティが、さっきまでジョコンドの読んでいた小説の下巻を携え浜辺へ降りて行ったのは3時間ほど前のこと。日光浴という名目なのに、彼女は水着の上からシャツを羽織っている。オーバーサイズのそれが、昨日洗濯した己のシャツだと気付けば、ジョコンドは思わず含んでいた氷を、奥歯で噛み砕くしかなかった。
まるでこちらの視線へ気付いたと言わんばかりに、それまで彫像のように身じろがなかった肢体が、ぐっと猫の伸びじみた仕草で突っ張る。右足のつま先が砂を掻くのはさなから水面を泳ぎ走る蛇。傍らの籐のバッグへ滑り込む腕の動きもそう。
取り出された双眼鏡は軍仕様の14倍率。それでも、緩やかな弧を描く湾の対岸で、汗水垂らして働く作業員達を見守ることは、さして難しくない。
アウシュビッツから生き延びた人々が、欧州中をたらい回しにされた挙句収容されていた施設は、勿論とっくの昔に建て壊されている。残っているのはあくまで“ヒトラーが投下した爆弾“だ。海辺には定期的に囚人が──自らと同じ肌色をした、政治犯が多かった──徴募され、ヘラとスコップを用いた地道な処理が行われている。同じような作業は、ここから2時間足らずの場所にあるアフロディーテの神殿でも行われているが、こちらで掘り返される可能性があるのは、黄金の林檎ではなくバウンシング・ベティだった。
シュトゥーカが何故、どうやって地雷を投下したのか? それはこの土地をモーゼがしたより真っ二つに割った、英国の密約以上に謎へ包まれている。
“生き残った奴がいて、くたばった奴がいて、やがて谷間に平和が訪れた。それが英雄と悪人と僕の間に起こったこと”
シェルティは再びペーパーバックのページを捲り、自らの背後では頼りないコーラスがゆらゆら揺蕩っている。やはり、ビーチ・ボーイズはそこまで好きじゃない。すっかり薄まったグラスの中身を飲み干し、部屋に戻ったジョコンドが真っ先にしたのは、放っておけば永遠に続く、ターンテーブルの回転を止めさせることだった。
「どこまで進んだ?」
ジョコンドが隣へ腰を下ろしても、シェルティの視線はページへ釘付けになっている。わざわざつれない芝居を見せずとも、向こう岸の軍人達は、こちらを注視する気など起こさないだろうに──気付かれたら手を振ってやればいいさ、と相棒に促されても、彼女はただページを繰って3ページほど前に戻り、ぶかぶかしたシャツの中で肩を上下させるだけだった。
「ついさっき、主人公の愛車のジャガーが爆破されたところ」
「物語の山場だな」
読書を邪魔されることへの腹立ちは、本好きだからこそまざまざと理解できる。浮き輪へ凭れ掛かり、寄せては返す白波を眺めていたら、けれど今度こそ大きな麦わら帽子の影から、探るような視線が投げかけられた。
「あたくし、今とんでもない過ちを犯してしまったわ。Mr.、まだここまで読み進めていないのでしょう」
「気にしなくていいよ、僕はネタバレを気にしない派だ」
そもそも、彼女があの恐ろしげな本棚から取り出したから、ご相伴に預かるような形で読み始めた本だ。サイケ・ロックと同じくらい、軍事スリラーも、愛好するというには程遠いジャンルだった。今の仕事へ就いてからは特に。シミュレートし創造する作家よりも、リアルで詳細な情報を知っているのならば、フィクションも興醒めにしかならない。
「それに、ずっと昔、映画を観たことがあるかもしれない……だいぶ内容は端折られているみたいだけど」
「なら、やっぱり本で読み始めて正解ね」
風に流されたちぎれ雲が、ほんの時たま覆うだけ。太陽は真上へ昇るにつれ、どんどん色を失い、灼熱と化していく。ビーチ・パラソルを持ってきたら良かったと、今更後悔したのは、シャツの裾から覗くシェルティの膝裏が、まだ驚くほど白いと認めたからだった。いくら日焼け止めを塗っていても、今夜ヒリついたり、もっと後々そばかすが出来たりしたら大変だ。
夏はまだ盛りに達してもいない。なのに来年、彼女がまた肌を露わにする機会があることを、当然だと思っている。それは休暇でだろうか、或いは仕事でだろうか。ごく一部の行為を除き、体を動かすことは好まない相棒は、どこへ行っても刺すような日差しの下へ臆面もなく身体を晒す。こちらは例えこの、箱庭のような場所であったとしても、気を揉んでしまうのに──日焼けは信じられないくらい重度の損傷を肉体へ与える。単に体表を焦がすのみならず、蒸散した水分は内臓を煮立て、変質させてしまう。かつて故郷の荒野を闊歩していた時も、たった半日、縛り上げた身体を炎天下へ野晒しにしただけで、脳炎でも起こしたらしい。二度と意味のある言葉を喋ることが出来なくなった海兵隊員がいた。
あの男は皮膚のあちこちが剥けてしまう有様だったが、しかし、どうだろう。隣のバディは、もしかしたら、紫外線によって小麦色になる性質かも知れない。帽子の大きなつばが傾ぎ、掌の下で柔らかく封じられる欠伸の無邪気さが、根拠のない安堵を呼び寄せる。ある時は気高い貴婦人、別の日には陰気な事務員──ここへ来るまでの1ヶ月ほど、瓶底眼鏡と猫背で過ごしてきたのだ。少し行儀が悪いと言える寝姿だって、許容してもいい──シェルティは自在に変質するが、それは同時に、弾性力が強いということでもある。
「飲み物は持って来なかった? 喉が渇いただろう」
バッグを漁れば中には淑女らしく、いろいろ入っているのだろうが、水筒らしきものを探り当てることがどうしても出来ない。渋々引き抜いた手に双眼鏡を掴んだジョコンドへ、シェルティは少し笑って、熱い砂へ半ば埋もれるようなタンブラーを取り上げた。が、ちゃぷちゃぷと心許ない波打ちを聞かされれば、結構と手を振るだけの礼儀は流石に心得ている。
もう一度欠伸を押さえ込むポーズをしてから、華奢な指はジョコンドの左手首に触れた。そっと引き寄せたブレゲの文字盤を矯めつ眇めつし、「まあ、もうこんな時間」と、のんびりした調子で呟く。
「本当は、日向ぼっこも1時間くらいにしようと思っていたのだけれど。この本が余りにも面白かったから、つい長居してしまったわ」
「うたた寝していたのかと」
「まさか。あなたもご覧の通り、ちゃんとやるべきことはこなしていました」
上から眺めていたんでしょう、と重ねられたのへは、曖昧な唸りと波の音で誤魔化してしまう。接眼目当てを熱った顔に押し付け、レンズ越しの世界へ集中しようとしたけれど、手の甲をさらりと撫で追う彼女の指先が案外ぬるいので、意識が削がれてしまう。
「本を読むにしても、日焼けするにしても、なんなら海で泳いでも構わないけど、昼食を摂ってからにしたら?」
「Mr.、貴方、あたくしを呼びに来てくださったの?」
漣に絡みながら耳を撫でる声は、羽のように軽やかだった。
「それとも……先程のあなた、コテージで風に当たっていた時、随分と不安そうだったから。あたくしが双眼鏡で観察していたの、気付いていなかったわね? 酔ってらしたの?」
「酔ってはいないよ」
陽光を吸い込んでは放射し、背を預けた浮き輪のビニールは中の空気ごとからからに熱を持って、今にも背中へ張り付きそうな有様。踵で湿った砂地を削りながら身を乗り出し、ジョコンドは四つん這いで土を削る囚人の汚れた手元と、暗く疲弊した横顔を焦点から外した。
「うんざりしてはいたけれど。それに、確かに不安だったかもしれない」
本部もせっかく偵察衛星を打ち上げているのだから、光学カメラで確認すればいいのに。目視で確認して気付くのだが、あの奴隷達、間違いなく英領管轄ではない土地で捕縛された不幸な人々を監督しているのは、駐屯地の軍人だった。炎天下の中、ヘルメットの下の白い顔は真っ赤に茹だり、振り回す腕も幾らかだらけている。待機のバンが負傷者を担ぎ出すような爆発が最後に起こったのは4日と3時間前。これまで最も長い静寂と並ぶまで、あと14時間、今日一日を無事に終わらせれば、無事故記録は更新されるだろう。
そうなることを心底願っているのに。立ち上がり、シェルティの手を掴んで引っ張る時、腕の力は思ったよりも強く、急き立てるものになってしまう。
「だって、あれだけ近くで処理をしてるんだ。ここに埋まってないとは言い切れないからね……これは少し悲観的な考え方だな」
先手を打って苦笑を浮かべるジョコンドを、けれどシェルティは、思った以上に真面目腐った表情で見上げてくる。
「確かに、Mr.の方が足が大きいから、踏み抜いてしまう可能性も高くなるわ。心配するのも、もっともの話でしょう」
何度も打ち寄せる波濤に舐められても、刻まれた二揃いの足跡は案外長く残り続ける。まるでずっと前からここにいるかのように、しかも苦難を平然と踏みつけにしながら。
己は大丈夫なのだろうと、不意にジョコンドは悟った。例え封鎖された場所で何度不発弾が破裂し、何人の囚人がばらばらに飛び散ろうとも。
「ここでは地雷は埋められていても、機雷を使用していたとの情報はない。海に入れば安全じゃないかな」
浜風に煽られて浮き上がった帽子を、バディの頭ごと押さえながら、ジョコンドは煌めく海原に目を遣った。
「午後からも快晴だそうだし」
「なら、少し水に浸かろうかしら。浮き輪が流れていかないよう、浜辺に係留用の杭を立てておけば安全でしょう」
「僕がロープを掴んでるよ。ビーチ・ボーイズを聞いたのにサーフィンをしないんだ。せめてそれくらいは……」
詮なきやりとりの合間に、シェルティが羽織ったシャツの裾ははためく。横たわる体に巻き込まれて皺が刻まれ、潮風と汗を吸い込んで幾らか重さを増していようとも、それはさながら水面を走る船の帆、この湾岸から始まった前世紀最大のエクソダスより誇らしげだった。
「一緒に泳ぐならば安心ね」
本当は泳法など一つも知らないシェルティは、踝を泡に洗われながら、擽ったげに声を弾ませる。お互いの間で走った期待は間違いなく、過去からの逃避ではなくて、未来からの予兆に由来するものだった。
「心配なさらないで。もちろん、すぐに水へ入れなんて、乱暴なことはお願いしないから……あなたがそうしたいなら、Mr.、食事が少しこなれるまで、お昼寝をしてもいいのよ」
シェルティさん【@usgnranda 】と
己の父の思慮深い面を、幼い頃のジョコンドは心の底から敬っていた。だが今思えば、あれは実社会において、どちらかといえば優柔不断と呼ばれることが多かったのではないかと、哀れみの心が沸いてしまう。
子供達の処遇が最も象徴的だ。その気になれば異教徒文化へ対応できる名前を授けた点からも、いざとなった時には家族を連れて国外へ脱出することを念頭に置いていたことは明らかだった。しかし学校は国内へ。自国の文化に親しませ、愛国心を植え付けたいから、という釈明はされたが、結局のところ、踏ん切りがつかなかったのだ。
その躊躇が、何人かの子供達を彼から奪う遠因になったと指摘することは、例えためらいながらであっても、残酷なことなのかもしれない。独裁政権が崩壊する前に亡命していれば、反体制にデモに参加していた弟はライフルで頭を撃ち抜かれなかったし、妹は5人の連合軍兵士に強姦された挙句頭蓋骨を叩き潰されなかった。自分自身、ル・ロゼなりレ・ロッシュなりに送り込まれ、ウィンター・スポーツ三昧の日々を送っていれば、果たして混迷する祖国へ対する使命感など抱いていただろうか。
地球の温暖化は進み、世界は夏という季節に足を踏み入れつつあった。だが冬のリゾート地として名を馳せたこの小さな村は、21世紀に入ってから避暑地の価値を認められつつある。二日前にはショッピング・モールに入っているセレクト・ショップで、メアリー・ポピンズ、或いはドレミの歌の女教師が手書きのトルコ風スカーフをプレゼント用の箱へ詰めてもらっているのを見た。夕食を食べながら口端に乗せれば、シェルティは少しだけ笑った。壁際の良い席に陣取ることで、羨望と軽蔑と好奇心が等分に混じった眼差しを全身に浴びても、彼女は臆さない。それどころか雪よりも白い肌は修道院で作られた蝋燭の淡い光の中、紅白格子模様を染めつけたテーブルクロスの外へと柔らかく侵食し、周囲を絡め取る。
「彼女のファンなのね」
「いいや、別に。どうして?」
「あなた、気づいてらして。この2週間で、あたくし達は何十人もの有名な住人や滞在客を見かけたし、剰え一緒に食事をしたことすらあったわ。なのに、初めて噂話をしたのが、マリア先生なのよ」
マリア先生の夫はイデオロギーではなく、破産と権力闘争に負けて亡命を図った。この国は逃げ出してきた人間の受け入れ先となることで成り立っている。つまり終着地点。もはやどこへ行くことも出来ないのなら、ここでの出来事を受け入れなければならない──そして恐ろしいことに、特にこの地域では、何でも起こりうる可能性が十分にあるのだ。
7人の子供達が越えようとしたアルプスの山麓を見上げれば、頂上には小さな帽子のような雪を被っている。数時間前に横切ってきた、ビールとエナジードリンクの缶が半分ずつの割合で転がっているキャンプ場とは違って、未だ優しくはない自然の姿が保たれていた。
もっとも、残されていることと整備されていることはまた別問題だ。閑散期にのみ、牧草地帯を切り裂くよう突如現れる小径は確かにか細く、エンジンのついている乗り物と言えば郵便配達のバイクがやっとの有様。しかし半日での往復を念頭に置かれた道は、スニーカー履きの足でも問題なく均されている。つい先ほどもアメリカ人の大学生と思しき旅人達が、すれ違いざま笑顔で挨拶を寄越してきた。
あのカップルは揃って擦り切れたコンバースを突っ掛けていたが、シェルティはトレッキングシューズを履いていた。ブランドものではなく、通販で買った安物でも、今のところソールが剥がれることもなく、彼女の細い足首を捻挫から守っている。厳つい爪先が砂利道で小さく立ち上った埃が、燦々と降り注ぐ太陽の下で細やかに舞い踊った。
「エーデルワイスが咲いていないのは残念ね」
山は海よりも太陽に近いから、彼女はここに来てから少し日焼けしたように思える。それにしたって水を被ったような有様だと、幾分肌の色が抜けて見えた。
合流して20分、ということは彼女が村から登ってきて3時間と少し。そうでなくても体力のない淑女だ。休みなしで歩き続けて、流石に少しはくたびれたのだろう。もちろんシェルティは毎度のことながら、泣き言を溢すこともない。ただ締め付けるチェストストラップを親指で下げ、汗の籠ったシャツへ少し風を当て、これまでの道のりを振り返る。麓にぎっしりと並ぶ、古いジオラマ細工のような村の中心部から、つまんだように急勾配の屋根を被った小屋の点在。耳をすませば風に乗ってヤギの鳴き声すら聞こえてくる。絵に描いたような牧歌的光景へ、思わずジョコンドは笑うしかなかった。
「あの有名な歌の……」
「昨日フロントで聞いたけれど、あの花が咲くのは1ヶ月後なんですって」
「ピンクの花はよく見かけたね」
「あれはアルペンローゼ」
買い物をするか日光浴をするか食べるかしか娯楽がない生活へのささやかな刺激にと、街の本屋で買ってきたバディよりも、熱心に読んでいた賜物だろう。植物辞典の中身は、今や完璧に頭の中へ叩き込まれているらしい。すっと華奢な指先に示されるまま、ジョコンドも前方の丘陵へと投げかけた。緩やかな上り坂を蛇行する白い道は、若々しく萌える緑の向こうへ人間を引き込もうとする。聳える稜線の荒々しさは、なす術なく見上げるばかりならば、雪崩を打って来そうな畏れを心に醸す。
けれどあのアイスピックで削り取ったような山肌も、半年後にはスキー板で蹂躙される。山頂には赤ら顔の金持ち達が集って、ワインと己の地位に酔いしれる。明らかに、人間は大自然より残虐な存在だった。
「そして、青い花はハルリンドウかしら。今週が最後の見頃だそうよ」
それは良かった、と肯定的に捉えることもできるし、別に少し斜に構えても構わない。今年のクリスマス・シーズン、己達が再びこの地へ足を踏み入れられるとは到底思わない。よしんばもっと間近に目を向けてみても、この任務が終われば、次はとんでもない灼熱の地へ飛ばされても、何らおかしくはなかった。まだ夏本番ではないのに、これを長期休暇とみなして避暑扱いされるなんて、とんでもない話だ。少なくとも己は絶対に認めるつもりはない。
こめかみに滲んだ汗を手首で拭い、ジョコンドはその気になればまだまだ浸ることが出来る相棒と一緒に豊かな景観を味わうか、それとも脇道に逸れて少しは厳しさに挑戦してみるか考えた。結局選んだのは後者、軽くなった水筒を振っているシェルティへ、顎でしゃくる仕草を見せる。
「おいで、30分で川辺に着く。目的地はすぐそこだから、休んでいこう」
路肩の針葉樹林は散策先として推奨されていないが、ガタついた下り坂さえ許容できるならば、野原よりも余程涼やかで息もしやすい。ドイツトウヒの木立が肥やす黒土の湿った匂いが、疎らに差し込む光によって立ち上り、汗ばんだ肌をさっと撫でる。
こんなところでツリーランを敢行した無謀なスキーヤーがいたらしい。折れたスキー板と傍らに転がるブーツを同じく目にしたのだろう。二歩後ろを歩くシェルティが、「あら」と呟いたので、ジョコンドも頷いた。「ノルディック・スタイルで挑戦したようだ」
足元が砂利に変わり、水の流れる音が聞こえてくる。ぽこんと一つ、スポットライトで照らされているような空間へ辿り着いて、背後では分かりやすい溜め息が漏れ聞こえた。
そろそろ雪解け水も流れきった小川はそれでもまだひんやりして、手を晒すだけでも少しは気分が良くなる。白い指先へ纏わりつく、炎のような煌めきから目を外し、シェルティは辺りを見まわした。
「たった30分、道から外れたばかりなのに、こんなにも静かね。現地に駐在する職員の方達も、毎回よく秘密の場所を見つけてこられる物だと、あたくし、いつも感心しているのよ」
「秘密の場所か」
彼女の背中からバックパックを下ろしてやりながら、ジョコンドは辺りへ視線を巡らせた。地図(というのは勿論、現地職員がマッピングした物だ)によると、上流には数年前に閉鎖された土場があるそうだが、この辺りはまだ、無造作に緑が残されている。朽ちかけた川辺の松達の向こうから、幹を叩くアカゲラの嘴の響きが、細いせせらぎに混ざり込むばかりだった。
放置されているものがすなわち、全く顧みられなかったはずもないが、そんなことをいちいち聡い彼女へ投げかける必要などない。乾いた石へ腰を下ろすと、ジョコンドは代わりに、スキットルの中から12時間ぶりのブランデーを一口煽った。
「僕は14歳になるまで、スキーが出来なかったんだ」
隣のシェルティが、きょとんと瞬かせた濃い睫へ、金色の光が危うげに躍る。
「それ位の年になれば、モロッコのスキー場へ連れて行って貰えたけど。親戚の中には亡命して、毎年ここで年末年始を過ごしていた人間もいる。もしかしたら今だって、別荘を借りているかも」
「気に病む必要はなくてよ、Mr.」
粘りついた土を濯ぐよう、一度だけ爪先を潜らせられた水面から、透明な飛沫が跳ね散る。
「あたくし、今でもスキー板すら1人で履けはしないもの」
彼女はどこでも臆さない。傍らに存在するのがバディであっても、石油王であっても。話題は彼女を通り抜けると毒が濾されて、致命的に無害となる。
横目を走らせれば、まだ雫を滴らせるシェルティの指先は、小さな花を摘み上げていた。割れた岩の隙間に咲き綻んでいたエンツィアン。ジョコンドのシャツのボタンホールへ丁寧に挿すときも、口ぶりはあくまで屈託ない。
「それに、冬山での美術商は嫌われるものでしょう。例え腕前に自信がなくても、皆我先にとコースを譲ってくれるんじゃないかしら」
「確かにね」
さながら今のように、静寂を占有することが、本来のあるべき休暇というものなのだろう。お互いの声と、小鳥の鳴き声、そして絶えず流れては去っていく沢の流れが閉じ込められた清い空間。再びシェルティが水に手を伸ばし、今度はハンカチを濡らす。
「それに、冬の楽しみをスポーツだけに限るのも、勿体無い話だと思わない?」
「暖かい暖炉の前で、コーヒーを飲みながら過ごすのもいいな。今年の冬はそうやって過ごせたら……」
ここのところ、相棒と話していて頓に思うのだが、可能かも分からない未来への展望を話すことが、どうにも多すぎる。夢の計画を阻害する要因は幾らでもあった。無情な上司はホリデー・シーズンなどものともせず任務を入れてくるだろう。それなりに良いサラリーを貰ってはいるが、思い切った贅沢をするには資金が足りなかった。そもそも、今年の冬に己が生きているかどうかも分からない。
それでも確かに、過去を振り返るよりは健全なのかもしれないが。
「スキーが上達しなかったことを残念に思っているわけじゃないんだ」
これから取り組む急勾配を見据え、ジョコンドは言った。
「そこに付随するものを手に入れられなかったのが、少しね。もしもギリシャの海運王と知り合いになれていたら、僕達は今頃地中海でクルージングを楽しんでいるかもしれない」
「この前のキプロスでも、最後はボートに乗って沖から海岸線を眺めたわね」
立ち上り、尻についた砂を落としながら、シェルティは小さく首を傾げた。
「けれどあの時、思ったの。海の上って、山と違い逃げ場がないでしょう。こうして自由に歩き回ることも出来ないし」
「分かってる、僕は俗物だから……」
自由への逃避。しかしいずれは、義務へと戻らねばならない。クリスマス休暇も夏休みも、永遠に続くはずがないように。
そこから更に半時間登れば、流石に悲鳴も木霊しているだろうと予想していた。けれど森の中へひっそり佇む、小屋と呼ぶのも憚られるほどこじんまりした木造の建物は、しんと静まり返ったまま。ゴムパッキンで密閉するドアへだめ押しとばかりに巻かれた鎖と南京錠が外された様子もない。
鍵を開け、ドアを押し開けば、途端に火傷しそうなほどの蒸気の塊が顔を叩く。おかげで視界を塞がれ、まだ縛り付けた縄も抜けられず、猿轡も噛んだまま床に伸びている青年を、うっかり蹴飛ばしてしまう。
本場の“ノルディック式”だと、サウナハウスへの滞在時間は30分以内が推奨されているのだったろうか。だが幾らひょろひょろしたナードタイプの青年でも、二十代の健康な若者だ。たかだか6時間近く湯気の中へ閉じ込められただけで力尽きるはずもない。
外へと引きずり出された青年は気絶しているが、呼吸はまだまだ正常だった。準備していた白樺の枝で、シェルティにぴしゃぴしゃと叩かれれば、赤らんだ肌も少しは本来の生白さを取り戻す。
弱々しく目を開いた青年の猿轡を外し、鼻先にエヴィアンのペットボトルを突きつけながら、ジョコンドは朝に投げかけた質問を繰り返した。
「コールド・ウォレットのアドレス、サイトへのアクセス・パスワードは?」
この近辺で美術商よりも嫌われている存在があるとすれば、それは新興成金に他ならない。ロールモデルは時代によって変わるが、ここのところ最も爪弾きになりやすいのは、テック産業長者達。孤独な若者を手懐けるのは容易かった。リザーブしたレストランの良い席へ呼び寄せ、地元の芸術家を紹介してパーティーを開かせ、早朝の健康的なアクティビティを見せつける。
新参者が場へ馴染む伝統的な手段に、この仮想通貨取引所経営者は、殆ど縋り付かんばかりの勢いで取り組んだ。賢い頭をもう少し働かせれば理解できただろうに。伝統的な聖歌を引っさげて歌唱団が登場した時、新大陸では嘲笑が湧き起こったものだが、その罵詈雑言は所詮直情的でユーモアの欠片もない、低俗なもの。逆に、おのぼりさんが格式ある場所へ乗り込めば……相手にされないか、餌にされるかのどちらかでしかない。オールドスタイルの鮫達は笑い声など決して立てず、糖蜜を携えて静かに忍び寄る。
なるほど、己の父は信念を持って子供達を育てたのだろう。獰猛で卑劣な生き物になる位ならば、生贄の羊になれと。文字通り這々の体で秘密をぶちまける犠牲者と、メモを取っているシェルティを横目に、ジョコンドは今更襲い来た疲労へ欠伸を一つ漏らした。
シェルティさん【@usgnranda 】と
前日に、ジョコンドは2つのことをシェルティに頼んでおいた。1つ、ドレスコードは、相手を怯ませるような個性と、それなりに高級さのあるスーツ。2つ、本部から出て戻って来るまでの間、もう少し詳しく言えば「モグラ」と会っている間以外の時は、僕のことをジョンか、或いは兄と呼ぶこと。
前者は、かつて自らと組んでいた諜報員から引き継いだ教えだった。幾ら元植民地のホテル・チェーンに買収されたと言え、訪れるのはあのセント・ジェームス・コートだ。そしてロンドンに滞在している間中、そこのジュニア・スイートへ滞在しているのは、かの有名なジョージア貴族の血を引く由緒怪しい高等遊民。
ユーロ・トラッシュの見本みたいな奴なのに、相手へも相応の格を求めるのさ。当時の手持ちの中で、唯一イタリア・スタイルではなかったチフォネリを身につけて現れたジョコンドを上から下まで眺め渡し、「馬子にも衣装だな」と鼻を鳴らしたその男の言葉付きは、まるで誇っているかの如くコックニーが抜けなかった、恐らくは死ぬ瞬間まで。
パラグアイの収容所で、脳をスプーンで抉り出されても情報を吐かなかった先輩かつ元相棒の魂よ、安らかに。己はあの男よりも遥かに狡猾であるとジョコンドは認じていたが、その分寛容さもより多く持ち合わせている。なので古いバディが秘蔵し、亡くなる直前まで紹介してくれなかった情報源を、新たなバディと共有することについて、ジョコンドはあっさり判断を下した。
名物だった美しいブロンズ製噴水の周りには所狭しとガーデンテーブルが並べられ、辛うじてセミ・フォーマルな格好をした一団が、ランチと大声のお喋りを堪能している。かつての閑静な姿など見る影もない。そうでなくてもこの暑さだ、客だって自然と熱狂するのだろう。少々羽目を外した誰かが、床の上に皿を落としたらしい。ガシャンと割れたのはまさかカリビアン・ブルーのタイルの方ではあるまいが。
中庭はあの通りなものの、少なくとも店内のバーは人気も少なく、潜めた声でも会話をすることができる。何よりも、フットライトを基調とした昼間でも薄暗い照明が、アルコールを嗜んでいてもなお快適な涼を与えてくれるのがいい。
「もしも僕が死んだら、君が彼を上手く使って欲しい」
真新しい無垢材のカウンターから、半分ほど飲んだブランデー・ソニックを取り上げ、ジョコンドは隣のシェルティに言った。
「例え一族から公式には認知されていなかろうと、腐っても祖先はロマノフ王朝の最高司令官だ。馬鹿と何とかは使いようさ」
「まあ、ジョン。あなた、少し酔ってるんじゃなくて?」
バディが嗜めたのは、一体どの言動についてだろう。何にせよ、言い逃れをすることは少し厳しい。幾らか脱水症状になって酒が回りやすくなっているのは確かだった。証拠に、シェルティが身につけるジャケットは、艶のない生地にも関わらず、煌然と輝いているかのように見えた。モスキーノらしいマニッシュなパンツスーツは象牙色とブラウンのセパレート。それなりにこの界隈をうろちょろしてきたが、まだまだ若き野心を滾らせている小娘という役作りに、そのスーツの輪郭同様、ぴったり合致している。
硬質なビリヤード・グリーンに塗られた爪が、シャンパングラスのプレートを軽くコツコツと叩く。恐らく相棒を抓る代わりなのだろう。ロシアン・レディーのレモン抜きといった甘いカクテルが、ちょっと怖がったように揺れ、ピンク色の液体の中で細かな泡を立ち上らせた。
「彼、話をしている間、ずっとあなたの方ばかり見ていたわよ。まるでうっとりと、恋してるみたいに。気付いていない訳ではなかったでしょう」
「確かに、彼の性的欲望を発散させる手伝いをしたのは事実だね」
ジョコンドが初めて引き合わされた時から変わらない、藍色の一人掛けソファへ埋まり込み、どろりとこちらへ垂れ流されていた男の眼差し。“結婚する一族“と婚姻関係を結べず、生涯事実婚で過ごした母を持つ男は幸か不幸か、己を拒絶した人々から受け継いだものへ従って生きている。莫大な遺産。節制なく貪欲な性格。
「でも、この役目だって、君なら十分果たせるよ」
できる限り気安い口調で言おうとしたジョコンドの努力を、少なくとも相棒に対してはおおらかなシェルティは認めてくれる。甘いカクテルが一口飲み下され、オレンジ・ブラウンのリップが鷹揚な笑みを象る。
「なら、この話はそういうことに。でも、もう一つのルールについては、尋ねても構わないかしら」
青か、灰色か、それとも菫色か、ゆるく持ち上げられた軟い瞼の下で、瞳がチカリと光を帯びる。薄いグラスの縁を滑る囁きは、ガラスを曇らせることもないほど小さく、けれど鼓膜へ一直線に流れ込んでくる勢いを持っていた。
「それは、素敵なカルヴァン・クラインのスーツを身につけている女性と関係があるように思えるのだけれど」
じっと見つめ返し、ジョコンドはしばらく考え込んで……降参の証へ頷くまで、少し時間がかかってしまったのは、最後の悪あがきだった。最初から分かっていたことではないか、目の前の女性が、優秀な諜報員であることは。
勿論、わざわざシェルティの肩越しに覗き込み、後方の女性を確認する真似などしない。
二人が入ってくる前から、彼女は真ん中辺りのテーブル席に着いていた。曇りガラスで半ば仕切られた薄桃色のソファの真ん中に深く腰掛けた様子は落ち着き払い、自分の素晴らしさに正しく浸っている。周囲もおいそれと声を掛ける勇気を持てないことだろう。傾けているグラスの中身はXYZ。彼女はいつでもあれを飲むし、家にはホワイト・キュラソーしかリキュールを置こうとしなかった。もっとも、ジョコンドがラムよりもブランデーを好むと知ってからは、レミー・マルタンの瓶を棚に加えてくれる位の温情は持ち合わせているが。
現在居を構えているアパートメントの隣室から、彼女が出てきたのを見た時から、魅力的だと思っていた。それは今でも変わらない。ジャクリーン・ビセットからもう少し毒を抜いたような容貌、つまり50を目前に控えていると思えない飛び抜けた美しさ。何よりも知性の持ち主。時たまこちらへ視線を投げかける時、琥珀色の瞳は嫉みでも媚びでもなく、純粋な好奇心で細められる。
「いけない人ね、兄さんったら」
酔っているのは一体誰なのやら。シェルティの声は、今にも笑い出しそうな色に染まっている。
「女心を弄ぶなんて」
「悪かったよ、君なら出来ると分かってたから」
「いいえ、あたくしが言っているのは、あの女性のことよ」
妹のキャラクターについて特にリクエストはしていない。だからグラスに添えられたテニス・ラケットのピックで、飾りの苺をハーフ・ボレーでも打つように柔らかく掬い叩く幼気は、シェルティのイメージする「ジョンの妹」の姿なのだろう。実際の自らの妹は……全くくだらない、そんな想像など。もう一口ブランデー・ソニックを口に含み、放っておけば際限なく乾きそうな舌を潤す。
「彼女はそんなことを気にしないさ。寧ろ、これで安心したんじゃないかな、性病を貰う心配もないって」
知己は一方的に得られていた。夜も深まったからと相棒を泊めた際、彼女が洗面所へ置きっぱなしになっていたネクタイピンを返しに来たとか(普段あれだけ運動嫌いを標榜している癖、クローゼットへ隠れてくれとの指示に従ったシェルティの身のこなしは、陸上競技の選手並に鮮やかなものだった)日曜日、遅い朝食を摂った帰りにタクシーを捕まえようとしていたところを目撃され、翌朝職場で「昨日のキャベンディッシュ・スクエアは混雑していたでしょう」と話を振られる(誰かと目が合ったような気がしたのは、間違いではなかったのだ)
一方でシェルティについては、ベッドの中において「妹」という情報のみ与えている。これまで文句を言われたことはなかった。だがしばしば、情事を中断してまで電話応対をする女性のことを、全く気にならないと言われれば、それは嘘に違いない。暗闇で光る理性的な目に、毎回告げられる。
確かに不公平だ。彼女の部屋のナイトテーブルに乗せてある、青白い顔をした二人の男の子達の写真を入れた銀の額縁を、片付けられない理由まで知っているからこそ。彼女は男に弱さを提示してくれるが、己は永遠に無理な話だった──ここにも均衡の崩れがある。
だから昨晩、身繕いを終えて自分の部屋へ戻る前に、しれっと告げたのは、罪悪感というよりは、彼女をちょっと慰める為のサプライズのつもりだった。「明日の昼休みに、妹とTH@51で一杯飲もうかと、コートヤードの方の。前から彼女が、ウィンブルドンの限定カクテルが飲みたいって言ってるから」
来る確率は半々位だと当たりをつけていた。だから実際に見かけた時は、その優しさと茶目っ気に心を和ませ、微笑み返してしまわないよう苦労しなければならなかったほどだった。
役者が揃って30分。心行くまで値踏みし、満足したのだろう。支払いを済ませて颯爽と立ち去る歩みには、酔いの気配など全く見られなかった。貫き通す日差しで満ちた中庭の雑踏へ、後ろ姿が白く消えてしまってから、ジョコンドが思い出したのは、あの有能な重役が近頃随分とストレスを溜めていること。確かドイツかどこかの統括本部長と意見をまとめられないのだったか。来週辺りに出張へ行くとも言っていた気がする。となると彼女が戻ってきてから、自らが国を出る前に、一回くらい逢瀬の機会はある。その時は労わってやらねばならない、様々なことを。
シェルティはカクテルを飲み終え、ジンジャーエールを注文した。
「本当よ。あたくし、怒っている訳では全くないの」
「ありがとう。彼女の名前は知ってるだろう」
「ええ。確か保険会社にお勤めだとか」
「長い肩書きの持ち主だ。それと、息子がいる。ギリシャ人の元夫が親権を持っているから、余り会うことは出来ないそうだけど。確か24歳と21歳だったかな」
「苦労なさっているのね」
「立派な女性だよ」
と断じたところで、シェルティは負の感情を動かすはずもない。彼女の物分かりの良さを、少し怖く感じるのはこういう時だった。
恐れは主体的なものだ。彼女のことは信頼している。ただ、この無辜とも言える心根の忠実さを浴びると、そのかいなに抱かれたまま真っ逆様に転落していきそうな予感が、どうしても拭えない。奈落の底に待ち構えているのが、とても穏やかで安らかな場所だと薄々理解しているからこそ、余計に。
体ではなく、心が繋がった相手と、そこへ到達することになるのは、明らかに──
「ただ彼女、僕がひどいシスター・コンプレックスの持ち主だと思っているらしくて」
多角的な罰の悪さから、ほんの少し低められた声に、今度こそシェルティは屈託なく笑いを弾けさせた。
「それにしても、彼女、よくあなたの話を信じたものね」
「君は父の再婚相手の連れ子ってことになってる。それに、今は僕と一緒に仕事をしているとも」
彼女が口を開く前に、「分かってる、その場しのぎの話を積み重ねた結果だよ」と白状しておく。
「別にお互い、初心な年頃でもないしね」
「なんにせよ、やっぱりあたくし、彼女はとても善人だと思うわ」
ジョコンドがトールグラスの中身を飲み干すのを眺めながら、シェルティは実になめらかな口調でそう裁定した。腰が絞られたデザインのジャケットは、スツールから微かに身を乗り出す仕草を、随分と押し出しが強く見せる。ジョンの妹はきっと、こうやって兄を責め立てるのだろう。
「そしてMr.。あなたって、悪い人になりたがるのね」
淑女はオフィスへ戻り、厄介な仕事へ取り組んでいるので、タクシーを捕まえようとしている二人組を見て笑うこともなかった。あらかじめ呼んでおけばよかったと後悔しても既に遅い。まだ望みのありそうなビクトリア・ストリートへとバッキンガム・ゲートを南下しながら、ジョコンドは体へ覆い被さってくるように感じる上着の、ラペルを引いて服装を正した。
「“モグラ“の件だけど。今度、彼の恋人を紹介するから」
「今日は恋人に縁のある日なのね」
「彼女は恋人じゃなくて……それに、正確を期すと、ロッキーは人じゃない。今、バースの彼の家にいるはずだ。清潔なヨークシャー種の豚だよ」
牧羊犬の名前を冠する諜報員は、何もかもを心得ているにも関わらず、ただただ不思議そうにこちらの顔を見上げてくる。だからジョコンドも、単に熱波を由来にした額の汗を拭い、苦笑いを浮かべた。
「大丈夫、モグラも君に混ざれとは勧めてこない。寝室のカウチに座って、ロッキーが彼にのし掛かっているのを眺めるだけでいいんだ」
「見られるのが好きなのね」
「そう、いくらか罵倒したら一層喜ぶけど、必須じゃないと思う。相手は男だろうと女だろうと……酒でも飲んでいたらすぐに終わるよ。彼のワインのコレクションはちょっと凄いからね」
どれだけ難解でも、己にとって必要な人物はいる。ふとジョコンドは、隣でもう微かに赤みを上らせている、シェルティの色白のかんばせへ横目を落とそうとしたが──結局正面へ向き直る。このバディは、難解などという範疇にいる人物ではない。伏せられた目を覗き込む為、いつの日か己は彼女に曝け出すだろう。これまで誰にも明かしたことのない場所まで。少なくとも、言葉にして形取る事へは、躊躇しなくなる虫の知らせが、もう既にサイレンが鳴り響くほどしていた。
とにかく、今日はその機会が訪れなかった。滑り込んできたタクシーの空調は、ホテルのレストランに比べると微々たるものだが、とにかくまともに息ができる程度には風を吹き出している。このままでは火照りに酔いまで追い討ちをかけかねない相棒を後部座席へ押し込みながら、ジョコンドは太く息をついた。
シェルティさん【@usgnranda 】と アクシデント 若干のグロテスク描写ありますのでご注意ください。
有名な話だが、ギリシャ語のアポカリプスには本来「黙示録」の意味はなく、「明らかにする」と訳すのが正しいという。なるほど、これは全く啓示的な状況だ。窓へ出来るだけ近付かないようにしながら、薄く開いたカーテンの隙間を覗く。ここが4階の部屋で本当に良かったと、改めてジョコンドは溜息をついた。
朝ですら辛うじて息を継げるというような有様だったのに、昼下がりのこの時刻の酷暑と言ったら、文字通り殺人的な有様と化している。人へ直撃させるように発射される発煙筒の白い靄に、陽光と怒号が破片の如く乱反射し、さぞ息が詰まり目も眩むことだろう。いっその話、通りを走り回っている放水車のホースから冷水を喰らった方が、生き延びる可能性は増えるのではないだろうか。
冗談を言っている場合ではない。数ブロック先までを埋め尽くすデモ隊は殆どが学生だが、皆赤子の手を捻られるかの如き有様。骨を砕く高圧水流に吹き飛ばされて、既に何人もが石畳の上へ倒れ伏している。路肩に運び出して助けようとする仲間達は警察官の振るう棍棒に頭を割られ、官憲の暴虐を止めようとまた新たな学生が制服へ掴み掛かり、押し合いへし合いは続く。
連日続く反政府デモは勢いを増し、戒厳令が出ていないのが奇跡と言ってよかった。少なくとも己の母国ならば、これだけの群衆が集まれば対峙する存在は警察から軍へ即切り替わるだろう。政権が崩壊する前も、してからも。
この国でも悪魔的なアウグストが身罷ったに関わらず、せめてそれ位は主張しておかないと大変なことになる不満は燻り続けている。己が現在所属する組織も、そして何よりジョコンド自身、成熟したと嘯くことを求められているので、今回は見物に徹するのみ。冷笑と他人事の視線を以て眺める窓辺の光景は、かつて似たような出来事の当事者だった身として、色々思うところはある。けれど時は進むものであり、過去を留めることは容易でなかった。兎にも角にも、現在とは、まるで濁流の如く容赦ない。
こじんまりしたホテルはインバウンド向けではないので、余計な乱暴へ晒されることがないのは幸いだった。これ以上厄介ごとを抱え込みたくはない。興奮しすぎた警察がフロントへ雪崩れ込んできたり、せせこましく立ち並ぶ建物の間に逃げ込んだ若者が室外機を壊してしまったりしようものなら。
後者に至っては死活問題だ。ベッドの上の骸は死後34時間。そうでなくても蒸し暑いという程度までしか室温を下げてくれないクーラーのおかげで、もう臭い始めている。これ以上腐敗が進行すれば、生きている人間が体調を崩すかもしれないし、錯乱して窓から癪の種を放り出してしまうかも。汗だくの肌へ張り付くワイシャツごと剥がす勢いで、ぐいとネクタイを緩めながら、ジョコンドは背後を振り返った。
「まだ連絡は来ない?」
「ええ、もう30分近く、発信音が続いているけれど」
空調の吹き出し口前へ引っ張ってきた椅子にちょこなんと腰掛け、右手にスマートフォン、左手にクリスタルガイザーのペットボトル。シェルティの後ろ姿は、それまで動きがなかったこともあり、子供へ放ったらかしにされた人形を思わせた。風呂上がりの如く、不恰好に巻いた血染めのバスタオルで頭が大きく見えるから、余計そんな印象を覚えるのかも──こめかみを裁縫セットに付属の針と糸で5針ほど縫い、出血はもう止まっているようだった。意識もしっかりして、うなじをじっとり濡らしていた汗も少しは引いている。皮一枚で繋がっているとは、まさしくこういう状況のことを言うのだろう。
衛星回線に接続出来る組織のモバイル端末、ホテルのロビーの公衆電話、フロントの固定電話まで借りても、連絡員と話すことは出来なかった。思いあぐね、「この際伝書鳩でも何でも構わない」と外へ連絡手段を探しに向かわせたのはジョコンド自身だ。
指示した30分が経過した後に戻ってきたシェルティは、デモ隊の投石をぶつけられたという。報告の間も、汗と血で右半分をべったり濡らした顔へ、動揺の欠片すら窺わせなかったが。
「鳩は皆、飛び立ってしまったみたいね」
「こんな状態になって、本当に役に立つのかな」
髪を掴み、ベッドカバーの上で伏せた頭を持ち上げる。ぱんぱんに膨れ上がりどす黒く変色した顔は、もはや表情すら判別できない。本当は別室に追いやっておきたいところだが、先ほどバスルームへ足を踏み入れた時、板のように顔へ衝突してきた熱気を思い出すと、とてもそんな危険な真似は冒せなかった。腐るどころか溶ける。これが本部へ帰れば地面も凍り、吹雪が荒れる季節の話なのだから。
「あたくしもうっかりしていたわ。ラボの皆さんに、サンプルは腐乱していても大丈夫なのか、事前確認を忘れるなんて」
「君が反省する必要はないよ、それはコマンダーの仕事だ」
毛足の剥げたベージュ色の絨毯には、黒っぽい飛沫が点々と丸い跡を作っている。シェルティの傷ではなく、被害者の鼻腔か口から溢れたものだろう。大股に跨ぎ越える己の仕草にすらうんざりする。
そもそもの計画だと、この部屋へ標的を連れ込み、持参のベルトで絞殺するのが一昨日の夜中2時前。連絡を受けた職員が待機の車へ死体を詰め込み、走り去るのがその30分後。「少し遅れるから、先に処理を済ませておいてくれ」とテキストが飛んできたのが、最後から二番目の連絡だった。ラストメッセージは? 「すまない、検問に引っかかった。健闘を祈る」
デモ隊と間違われて豚箱へぶち込まれている同僚の災難へ同情し、無事を祈ってやれるほど、こちらも余裕があるわけではなかった。任務放棄の許可は未だ出ていない。死ぬのも生きるのも一緒というわけだ。
「Mr.ジョコンド、すっかり汗を掻いて」
シェルティに差し出されたペットボトルから一口流し込んでも、渇きは一向に改善された気がしない。こちらが干上がっていくのに反比例して、死体はじゅくじゅくとするばかりだった。脇に滲んだ黒ずみは、もしかしたら溶解が進んでいるせいかもしれない。そっと指二本で押してみたが、張り詰めてなめしたようになった皮膚の下には、もう微かにガスの溜まっている兆候が見受けられた。悪臭も益々耐え難い。用意のいいシェルティが携えてきたヴィックス・ヴェポラップは、何回塗っても汗で流れてしまうので、数時間前からナイトテーブルの上で放置されている。
「こちらからのコンタクトは一旦中断しよう。あと5時間で日没だ、それまで連絡がつかなければ、僕達二人で脱出する」
クーラーと死体の間に陣取るシェルティの隣へ赴き、ジョコンドも浅くなっていた呼吸をようやく深いものに変える。さながらスターバックスで休憩している、25歳の会社員みたいな顔で、シェルティは耳から離したスマートフォンを数度スワイプした。
「メールも新着はなしね」
「これは通信中継基地に何らかの問題が発生している可能性があるな。国家光ファイバ・プロジェクトだっけか、あそこにうちの組織も投資していただろう」
「外の人達も、インターネットが通じなくて困っているみたい」
「警察無線を奪取してきて……無理だな。全く厄介だ、アンデス山脈って奴は」
明らかになったのは、思想水準なんて物差しは、死活問題へ取り組んでいる人々の前で、いとも容易くへし折られるということ。もしも本腰を上げて、そこから一番美味しいところを齧り取りたいのならば、膝を折って異教徒の神にだって祈らなければならない。例え神を信じていなかろうと、こんなものは歩み寄りのポーズが重要なのだ。そうでなければ、徹底して独自のスタイルを貫くか……
外の熱気に競り負けそうになったのか、空調が怒ったような音を立て、猛然と風を噴き出すべく奮闘を開始した。中途半端な冷気は逆に肌へ汗を固着させるような錯覚を覚えさせる。何とか酸素を吸っているふりをするのが精一杯だった。
「僕は反対したんだ……地元でスカウトしたエージェントは、ややこしいことを引き起こすって」
ぼうっとなりそうな意識を、鼻腔に潜り込む黴臭さへ意識を紐づけることにより、力任せに手繰り寄せる。もはや黄ばみが取れることなど望み薄なシャツの襟元で、首筋の汗を乱暴に擦り、ジョコンドは呻いた。
「人種差別的な意味じゃなくて、単に、仕事の効率の面から……」
「ええ、勿論、分かってる」
シェルティの声が幾分ぶつ切りに聞こえたのは、己の脳が参ったせいか、それとも実際に彼女が弱っているのだろうか。重みに耐えかねたかの如く、眼下の頭がカクンと揺れ、素足が絨毯の短い毛足の上をずるりと滑ったので、思わず肩を揺さぶる。
「シェルティ君、水を飲んで」
「Mr.、提案なのだけれど、もう2本はペットボトルを、用意した方が良さそうだと思うの」
「さっきフロントで聞いたけど、百ドル出しても品切れだ。近場の商店も全部閉まってるし」
「水道管は、破裂したわね、確か3時間前に」
熱を籠らせるタオルを解いてやり、襟元を緩め、それでもシェルティは頑なに水を受け取ろうとしない。「僕が砂漠育ちだって忘れてもらっちゃ困るな」 普段なら眉を吊り上げるようなステロタイプを自ら口にすることで、彼女もとうとう諦めたらしい。乾燥した唇を湿すよう、ちびりと一口だけ傾ける。
体力も気力も、時を追うごとにすり減らされていく。一間限りのベッドルームに満ちる汗と血と腐敗の匂い。結局力尽きたのか、機械から吹き出す恥ずかしげな微風が、同時に黴臭さを勢力図から蹴落としたところで、一体何を喜べというのだろう。
横になりなよ、と粘つく口で相棒に促しながら、ジョコンドは10日ほど前、この国へ足を踏み入れた時のことを思い出していた。夕陽と共に吹き下ろす、土地の言葉でラコと呼ばれる丘陵からの風が、タクシーを待つシェルティの体を包み込む。おろしたての紺色をした、シルク・ジョーゼットのドレスが、緑色の匂いに擽られて彼女の膝に纏わりついていた。今日最後に燃え盛るオレンジ色を背負ったところでものともせず、彼女は笑いかける。「Mr.、少し息苦しくなってきたみたい」
そんなこと、あの時の彼女は決して口にしていない。いつの間にか壁際の書物机に椅子を寄せ、天板の上に突っ伏したシェルティが、か細く言葉を紡ぐ。
「下の階、火事かしら」
「違うらしい」
ピッチの上がった外の悲鳴と、振り仰いで目にした窓の視界不良。催涙弾は相当な近場で着弾したらしい。山風に巻き上げられた煙は、この時を待っていたと言わんばかりに、建て付けの悪いサッシから忍び入ってくる。汚れたタオルで目張りをしても効果は申し訳程度のものだった…
死ぬことはないが、まるでずっと沼に顎まで浸かっているような苦痛を一つずつ積まれていったら、やがて気付く、足の下に底がないと。その時になってからでは遅い
“出来るだけ身体に、出血を伴う傷をつける処理方法は取らないでください。薬物も内臓に損傷を与えるため、非推奨とします。心肺停止を確認したら、そのまま体は動かさず、専門技術を持った職員の到着を待ってください。搬送には特殊な装置を使用します”
ブリーフィングで渡された、家電の取扱説明書じみた指示書の文言が、ぐるぐると記憶の中を駆け巡る。機械なら修理できるではないか、道具さえあれば。しかし、ここにはネジ回し一つない。あるのは電力ぐらいで──
空調が止まった。一瞬にして上がった室温が、柔らかな泥の如く全身へ絡み付く。
そして、ぱたりと止まった排気音と入れ替わりに、それまで沈黙を保っていたモバイルが、甲高い着信音を鳴らした。
むくりと身を起こしたシェルティが、机の上のメモを引き寄せる。画面へ表示された暗号と、頭へ叩き込んである復号コードを頼りに、ボールペンは澱みなく文章を生み出していった。
“搬送準備再開。標的と共に脱出せよ、合流地点……”
部屋中をひっくり返して見つけ出した銀色のキャリーケースに死体を詰める時は相当苦労したが、何とか二つ折りの状態で押し込むことができた。バンドで留めれば、少々乱暴に扱ったところで、膨張した肉体が脆弱な留金を破壊することもないだろう。
部屋を出て、非常口へ走る。扉を押し開けた途端、あれほど惓んでいた窓ガラスに遮られていた喧騒に、わっと襲いかかられた。
催涙ガスは幸い幾分薄まっている。ハンカチで鼻と口を押さえたシェルティが、それでも幾らか咳き込んでよろめいたから、空いている方の手でぐいと腕を掴んだ。
「大丈夫だ。歩いて」
奇跡的に、外付けの階段が運んでくれる先の薄暗い路地、というか、人一人が体を斜めにして通れるような建物間の隙間に、人の気配は潜り込んでいない。問題は、消防法へ盛大に違反している避難設備が、2階の壁で終わっていると言うこと。よろめき降りるステップは錆びつき、ただでも汚れたシャツに致命的な赤い筋を走らせるし、3人分の体重でぎしぎしと揺れ軋む。
末端まで辿り着き、少し──と言うほども考えていない。ジョコンドはキャリーケースから手を離した。ポリカーボネイト製の安物は、ごとごとと激しくぶつかりながら煉瓦壁に沿って滑り落ちていく。大丈夫、死体はどれだけ激しい暴行を加えても鬱血しないから、分析の際に支障を来さない。
その後に自分が飛び降り、相棒を受け止めるつもりだった。けれど背後のシェルティは、劣化した手すりへ捕まっているのがやっとという為体。これから著しい混雑の中を、8ブロック歩いてもらわねばならない。うっかり足首でも捻られたら、まさに万事休すだった。
「シェルティ君、シャーロット! ほら、こっちに」
いつの間にかこめかみの傷は開き、彼女の片目を潰していた。だが視界を塞がれようと、半ば怒鳴るような声に、体は反応する。まるで操られているかのように伸ばされ、首へと回された両腕は燃えるような熱を孕んでいた。
「あたくし、一旦部屋に戻って……」
「馬鹿言うんじゃない、こんな程度のアクシデントでプレイヤーを置いていくようなら、僕は本部で再教育を受けさせられる」
ここから降りて、8ブロック歩く。簡単じゃないか。その昔、故郷で腹にライフル弾を入れたまま、三日三晩草原を彷徨った時のことを考えたら。例えシャツの肩口へ滴り落ちるのが己のこめかみに滲んだ脂汗だろうと、或いは脈動に合わせて溢れるシェルティの血だろうと。寧ろどちらも生きている証として、歓迎すべきなのだ。
腕の中の重みを抱え直すと、ジョコンドは出来るだけ慎重に、けれど思い切って、今にも踏み抜きそうな段から身を躍らせた。
シェルティさん【@usgnranda 】と
任務としては、全く大したことのない難易度だった。サンフランシスコから出発し、メキシコ沿岸を進むクルーズは、日程の半分が海の上。日光浴の合間に、コカインの運び屋と目されるツアー・ディレクターから、ありったけの情報を引き抜くこと。殆どが即興の、お遊びじみた行為。
動乱のチリから脱出しメキシコへ。経由地のパナマで受け取った身分証は新品も同然で、少しロンダリングの必要があった。ならティファナのリゾートでのんびりしようかと思っていたジョコンドの目論見は、同封されていた船のチケットで見事打ち砕かれる。この組織は職員の休暇の過ごし方まで口を出してくるのだ。
マンサニヨで船へ乗り込んだ時には残りの旅程が10日。最初の3日で、男と打ち解けることには成功した。メキシコ帰りなジュニア・スイートの客、しかも女性の方は額に少し怪我をしている。何かご入用の際は是非とも当方に、ところでお怪我に関してましては、宜しければ主任船医と話をつけ、処置を行わせますが。揉み手で部屋を訪れた男への態度を、後にシェルティは「とてつもなく尊大だったわね」と笑いながら指摘したものだった──実際は、くたくたに疲れていたのを、とりたて隠しもしなかっただけという話なのだが。
「ちゃんと最高級のペルシャン・ブラックを持って行ったのに、彼女、現地のものを試してみたいって聞かなくて」
この騒ぎで少しやつれてしまったシェルティの姿は、年上の夫の唆しと、退屈な日々のフラストレーションから、コークへ走り始めた若妻という設定にそこそこ合致していた。
夕食後、肥満した大蛇の如く連なるブーマー達のコンガ・ラインもとうに解散し、クラブのDJも店仕舞いをした夜中の3時。外のプールとホットタブではインフルエンサー達が数人、まだはしゃいでいるらしいが、室内プールと言えば凪いだかの如く静まり返っていた。長方形のプールの底と言い、海洋生物が泳ぐ海を模った床や壁面のモザイク紋様と言い、全て水色が基調とされ、暗い外海の夜へハイになったような明るさを与えている。ガラス天井に転写される水の揺らぎで、共に引き上げられたのだろう。吹き抜けのピアザから吹き込む夜風を物ともせず、目の前の男は滝のような汗を掻き、憤慨したり誇ったりしている。
余り長々と、ありふれたプッシャーの武勇伝へ耳を傾けるのも煩わしい。機会を見つけ次第、自白剤を飲ませて洗いざらい暴露させる予定だった。けれどこの白人男、三日目の晩になると早くも迂闊な本性を現す。楽団から回してもらったグルーピー・ガールを連れてきて貸切のプールで遊ばせながら、自分は白い粉とロングアイランド・アイスティー7杯でヘロヘロの有様。きっと今晩騙されずとも、いつかもっと悪辣な組織へ引っ掛けられて、切り裂かれた喉元から舌を引っ張り出されることだろう。
「盲点なんだよ、本当に。今DEAが目を血走らせて取り締まってる薬物はカナダからのフェンタニルだ。南から来るもので一番神経を尖らせてるのは人で……全く馬鹿げてるよ。ヤク中にソノラ砂漠を渡れるもんか」
「あそこは過酷らしいからなあ」
「過酷なんて表現じゃあ、とても……だからこのルートは全く実入がある、お得な投資って訳さ。押収率の低さと言ったら、信号のないハイウェイを突っ切るようなもんで」
「危なくないか、それ」
「お得な投資」へ参入する誘いについての滔々とした捲し立ては、勢いと明晰さが比例しない。虚ろに宙へ漂う目と視線を合わせるのは諦め、ジョコンドは沈み込んでいたデッキチェアを軋ませた。
「そうでなくても、僕の妻は、ブレーキが壊れがちなものでね」
振り仰いだプールサイドに腰を下ろしたシェルティは、緑色をしたセパレートのサマードレスの下に、ちゃんと水着を身につけているはずだ。けれど断固として水に入る様子は見せず、浸した足をぽちゃぽちゃと遊ばせるだけ。彼女の周りを人魚の如く泳ぎ回る、短いブルネットの美女が、拗ねた形に唇を尖らせる。「でも、服なんて、ここのショップでだって幾らでも売ってるじゃない」
投げつけられた秋波は、軽く傾げられた小首で容易く往なされる。水から持ち上げた先細りの爪先は、マンダリン・オレンジ色に塗られていた。そこから果汁の如く滴る雫を弾き飛ばし、点検するよう軽く回しながら、シェルティは嘯く。
「昨日部屋まで持ってきて貰ったけど、全部10年前の流行りみたい。今時アウトレットでも、あんな古いラインなんて売っていないんじゃないかしら」
「彼女、贅沢好きなんだろう。分かるさ、金を掛けるだけの、価値がある女性だよな」
「比較的慎ましい方だと思うよ、あれは」
「うらやましい」
一度かくんと落ちかけた後、外からの甲高いはしゃぎ声で覚醒した男の顔は、くしゃくしゃに顰められる。
「俺はどうも駄目だな……女に目がなくて、それで失敗ばかり……」
女と薬の快楽は反比例の関係にある。この一時間、男はほぼ15分置きに、カプセル状の金属製ピルケースに詰めた薬をクンクンやっては、カクテルを一杯飲み干すを繰り返していた。あれだけ効かせていたら、勃起なんか到底無理だろう。これだけ上物なら尚のこと──先程、御相伴で一度だけやった分は、もう殆ど効果が消えている。ガツンと来てスッと抜ける、南米産らしい荒々しさだ。
「しかし、出発地点はベネズエラだろう?」
「そこは、かねさえ積めば、連中もじゅんじ……じゅうじゅう……」
「従順か。資本主義はちゃんと根付いている訳だ」
「それに、さっきも言った、村落のルートが……」
ごん、と硬い音が潮風に乗って届いたのと、激しい水飛沫の音が天井へ反響したのは、ほぼ同時の出来事だった。
「くすぐったい」
女の目の前で、脚を強く水面に叩きつけたシェルティの口調は、楽しそうだが毅然としている。ブルネットは渋々と、スカートの中へ滑り込ませようとしていた手を引っ込め、びしょ濡れの顔を拭った。
仕事熱心な相棒が誘いを断ったことも予想外。だが何よりもジョコンドを瞠目させたのは、恐らく上階の遊歩道から落ちていった、黒い影の存在だった。
白と黒の残像は身につけた制服のものだろう。となると従業員だ。墜落の途中で手すりを掴もうとしたのか、それとも単に迫り出した階下の客室ベランダへぶつかっただけなのか(音はこの時の衝撃によるものだった)黒髪の女性だったことまで見当がつく。
室内プールを挟んで、反対側のジャグジーにいる若者達は気付かなかったはずだ。今にも気絶しそうに項垂れている男も、目撃していたらもっと騒ぎ立てるだろう。
そしてプールの淑女達。シェルティの指先は、清々しい青のテッセラを剥がしてしまいそうな力みが抜けたばかりだった。ブルネットの方は、まだ未練がましく眼前の膝を凝視している。それが勿体ぶって組み直されたとなれば、明け方の切なさは益々募ることだろう。
「ほら、こんなところで潰れないでくれ」
ぱちぱちと鼻先で指を鳴らしてやれば、男はハッとなって顎に垂れた涎を、浮腫んだ手で擦った。
「何の話だっけ?」
「村落のルート」
「ああ、あれか。沿岸部までは山を通るんだ。チャベス政権の時に民主統一議会の傘下連中が使ってた、まだ新しい道なんだが……」
お喋りはその後30分程続いた。客室のあるフロアへ戻った時には既に、波間へ新しい、無垢な白色の日差しが織り込まれつつある。遊歩道の手摺りから眺める水面へ目を細め、ジョコンドは隣をそぞろ歩くシェルティへ尋ねた。
「彼女はどうだった?」
「ずっと聞き耳を立てていたわ。別にそれを隠す様子もなかったし」
事前に仕入れた情報から分析する迂闊さは、男の信頼度を徹底的に下げていた。バックに誰かいるに違いない。案の定、同伴してきた彼女の鋭い目つきと言ったら! 幸い、ヴィシュマならぬ牧羊犬の臍に気を取られ、女ボスの注意は幾分削がれることになったが。
「それにしても、さっきは肝が冷えたよ」
「サンティアゴを経った時は、これでもうしばらくは、驚いたりすることも無いと思っていたのだけれど」
そこで言葉を切ったと思うと、不意に鼻がぴくんと蠢かせられる。美しい水平線を眺めていたシェルティの視線は、ぐっと焦点を絞り、同時に柳眉がほんの微かに顰められた。
彼女が見つめる先、丸く朝日を反射する金属の手摺りには、赤いスカーフの切れ端が引っ掛かっている。イタリアン・アラカルト・レストランの女性従業員が身につけている制服だった。
船旅を楽しむ怠惰な人間はこんな早朝からうろついたりしないが、機械の目は誤魔化せない。ひらひらと棚引く化繊へ必要以上に注目していると、監視カメラが記録すれば厄介だ。ジョコンドは相棒の腕を取って階段へと向かった。
「明日は……いや、もう今日だな。カポ・サン・ルカスに到着だ。アンデスで頑張っている仲間に、陣中見舞いでも送ってやろう」
デモはひと段落付いたそうだが、身分証に不備があったらしく──と言うか、現地人のものとして完璧に通用し過ぎたせいで、同僚は今も警察署内へ拘束されているらしい。彼らには悪いが、停泊地をぶらついた後、サンフランシスコへ向かったら、そのまま一路本部へ戻る予定だった。確かにあちらはダウンジャケットが必要なほど寒いが、少なくとも好きなタイミングで外へコーヒーを飲みに行ける。意にそぐわぬ監禁状態は、せめてあと半月位はごめん被りたかった……
そう願っていたのに、下船許可は降りず、2000人の乗客と1000人近いスタッフが、海上で缶詰にされている。レストランも全てが満席で、夕食の時に2人席を用意させるのには、スタッフへそれなりの心付けを握らせねばならなかった。
「本当のことを言えば、ホールスタッフが1人、海に落ちた位で」
相席御免の唯一の例外、この時代では絶滅危惧種と言える、小粋な口髭を生やした赤毛の船長は、嘯く時ぐっと声を落とした。乗船してから夕食は彼をテーブルへ招くのが慣習となっている。ツアー・ディレクターの口添えもあるだろうが、この4日で彼もまた、ジュニア・スイートの客へすっかり気を許していた。
「けれど、特に飲食周りのスタッフは神経質なんですよ。コロナ禍の時にあったでしょう、ヨコハマ港で、守秘義務も無視してCBSにスマートフォンで中継をした挙句、泣き言を喚いたアジア人達が」
「これだけ海流が早ければ、早々に岸へ流れ着きそうなものですがね」
誤ってぶちまけたようなソラマメのソースに、テリヤキ味の舌平目とアンズ茸をフォークなすりつけ、ジョコンドは頷いた。メインディッシュが来て以来、ひたすら相槌に徹して、話題を広げるような真似はしていない。この業界、勝手に喋る人間を相手にするのは楽だと思われるが、どうしてどうして。手綱を握るのへ失敗したら、事態は思わぬ方向へ転がることがある。
「死体が上がれば、上陸許可を出せるんでしょう」
「さあ、こればかりは……上の判断次第ですな」
「船の人間を降ろさないと言うことは、この中に犯人がいると言うことですの」
クラブ・ケーキを食べ終え、シェルティはロブスターの蒸し焼きに取り組んでいる。添えられているのはメニューに載っていたレモンムースではなく、特別に作らせた火を吹きそうなアジアンソース。給仕長が恭しく運んできたグレイビーボートから一口味見し、「まあ、刺激的」と驚いた顔を見せた後、指先は慌ててジャスミンの花が浮いたフィンガーボールで洗い流される。
「つまり、これは殺人事件だと……まるで映画みたいですわね。わくわくするのって、いけないことかしら」
真っ赤な身を割るべく、頭と尾を捻る時に、小さな女性の手でもそれほど力は要さない。瑞々しい弾力に富む、桜色の身へ染み込んだ濃厚なガーリックとパセリのバターの香りが、テーブル中に広がった。後はシェブレの盛り合わせ、それとバニラアイスクリームが彼女の今晩のディナーだった。余り褒められたチョイスではないが、シェフの拘りが強過ぎる店にありがちなメニューの少なさで、贅沢を言っていられなかった。
このシーフード・レストランはミシュラン二つ星シェフのプロデュースと言え、船内でも比較的カジュアル寄りの店だ。それに、14もある飲食店の中には、肉やピザを出す店だってある。ジョコンドも一応提言はした。だがシェルティは何故か、今日の三食をこの店で摂ろうと選ぶ。浅葱色のテーブルクロスへ飛んだ殻の破片を、つまんで皿の端に落とし、彼女は額の絆創膏の下からうっそりと微笑んだ。
「けれど、船の上で一番ロマンチックな死に方と言えば……以前読んだ本にあったのだけれど、洗っていない葡萄を一粒食べて死ぬことね。ハンサムな船医さんに手を握られながら。最期は水葬して貰うの」
「ここはニューオリンズの路面電車じゃなくて、カリフォルニア湾の船の上だよ」
呟くような口調になってしまったのは、味の濃いテリヤキソースを、さっさとサントネー・ブランで濯ぎたくてうずうずしていたからだ。ついでに言うと、別に認めても構わないが、確かに、あの医者はハンサムだった。少なくとも、怪我をした相棒を大事に扱ってくれた事は評価してもいい。
「死んでから埋葬されるならともかく、生きたまま海に落ちるのは、想像を絶する苦痛ですよ」
マヨルカ焼きの皿の端に、車海老の尻尾をフォークで弾き寄せる時、船長の口調は随分ぶっきらぼうなものになる。彼は甲板でシェルティの姿を目にすると、いつだって髭の下で唇を好色に歪めた。けれど海へ関して言えば間違いなく、女性に対してよりも深い崇敬を抱いている。
「幾ら叫ぼうと助けは来ず、独り波間に揺られ、太陽に灼き殺されるか鮫に食われるか……」
ブレザーの中へきちんと収められたネクタイごと張られた胸の中は、全く真面目腐っていると分かる。だからジョコンドは、「彼女が泳ぎが得意だと良いんですが、上手く岸に辿り着けていることを祈りましょう」などと馬鹿なふりで誤魔化しておいた。低いエンジンの唸りの中に、船を打つ波の音へ混じり、バルコニーにぶつかって弾みながら落ちていく肉と骨の音を蘇らせるのは容易だった。
ちらとシェルティの方へ視線を投げれば、付け合わせのエシャロット殻の脇に積み終えたところ。カトラリー捌きはさながら腕の良い外科医じみていた
。ここ数日、彼女は自分の嫌いなものを食べようとしない。沈んだ女と浮かび上がってきた女。騒乱の張り詰めは、乾きつつある額の傷同様、もはや彼女の中から薄まりつつあるらしい。ささやかとは言え、相棒が休暇を楽しめているなら、全く結構な話ではないか。
「明日の夕食はステーキハウスにしましょう」
もはや乗客は旅の終わりまでどこへも上陸することが出来ず、警察の現場検証が始まる前に、そそくさとアメリカへ戻ることだろう。シェルティの呟きは、明日こそロブスターと格闘すべきかとうんざりしていたジョコンドの気持ちを、少しは上向きにしてくれた。
「いいのかい。一昨日行ったのに」
「ええ、もう目的は達したもの」
吹き抜けに設置されたフォトギャラリーには、滞在中にカメラマンの撮った写真が、壁一面へ展示されている。自分達が写ったものを剥がして回りながら、シェルティは「配膳係を突き落としたのは、さっきアジアン・ソースを持ってきてくれた人よ」と返した。
「スカーフには、テリヤキソースと、ベチバーの匂いが残っていた。彼女はサンダルウッドのフレグランスを付けていたそうだから……」
呆気に取られるジョコンドへ、シェルティはただただ笑うだけだった。
「一日で済んで良かったわ。あなただって、明日は何を頼むか、考えあぐねていたのでしょう」
「まあね…………それにしても……嗅ぎ当てた?」
「あたくし、匂いには敏感なの」
購入した写真は、部屋に戻れば灰皿で燃やしてしまう。なのにシェルティは、手に入れた一葉を掲げ、心底嬉しげに為つ眇めつ頬を緩める。バーカウンターにて鬱陶しい顔つきでウイスキーのグラスを眺めている相棒と、目だけでレンズに向き合い微笑む己の姿を切り取った、お世辞にも傑作と言えない写真。
「例え血糊で視界が潰れても、"パウダー"で少し具合が悪くなっても、嗅覚だけで辿り着ける自信があるわ。Mr.の匂いだって、ちゃんと覚えてる」
「よしてくれよ、何だか僕が悪臭を放ってるみたいだ」
カジノにサウナとマッサージ、夜の時間を潰す方法は幾らでも見つけることが出来る。けれどシェルティはジョコンドの腕を引き、吹き抜けを貫く総ガラス張りのエレベーターへ乗り込んだ。押されたボタンは2階。ここから階段を降りて、比較的監視の目が薄い従業員出入口へ向かい、件の給仕長を待ち構えるつもりだろう。この仕事だと、人の弱みは幾ら握っても、少な過ぎる事はない。
今回は一応、休暇のつもりだったんだけど。内心の嘯きと裏腹、面白がっている自らも無視できず、ジョコンドは苦笑いを浮かべるしかなかった。
シェルティさん【@usgnranda 】と
このオークションは、古き悪きキャヴィアト・エンプトールの精神が徹底されている。出品者による保証は一切なし。例え落札後、自国へ持ち込むのに失敗し税関で没収後逮捕されようと、商品が麻酔薬を打たれ過ぎた後遺症で明日死んでしまっても、全ては自己責任というわけだ。
「絵画ならともかく、生き物でこの方針を採用するのは、全く博打だと思いますがね、素人意見としては」
教会をリノベーションしたとは思えない建物の快適さは、これから繰り広げられる戦いへ意気込む客に、ささやかながらもリラックスした空気を醸造させる。特に客等が待たされているドゥオモの最上階は、パーラーとして用いられていることもあり、宗教的禁欲とは対極の贅が凝らされていた。ベルベル織の絨毯や、部屋の隅に作られた黒檀のバーカウンター、その背後でジンフィズを拵えるべくシェーカーを振るバーテンダーの姿を見たら、かつてこの部屋で寝起きしていた宣教師はどんな表情を浮かべることだろう。
だがこの場で何よりの恩寵とは、徹底して温度管理を施された空調だった。おかげでブラックタイ姿でも必要以上の暑さを感じることはない。更なる汗を掻かないよう、サービスのクリスタルばかりちびちび啜りながら、ジョコンドは隣の紳士に話しかけた。実際、無知であることはまずかれど、玄人として振る舞う必要はなかった。上層部の拝命を受けてから、自らが参加者リストを徹底的に調べたように、周囲もこちらの立ち位置を知っている。何せ狭い世界だ。普段自らが泳ぎ回る美術品蒐集家よりも遥かに、少数精鋭の極致へある。
幸い、紹介者である“モグラ“の名前はこの辺りでもそれなりに幅を利かせているので、邪険に扱われることはない。ただ、その有名な鋳鉄王一族出身のプロイセン男は、憐れむような目で微笑を浮かべるだけだった。
「確かに、貴方の依頼主は、対象が生きていないと満足なさらないでしょうな。けれど本来、動物は肉の一欠片まで価値があるものです。そう思いませんか?」
と問われて、まあそうでしょうな、と頷いたのは、彼の妻が纏うレザードレスが、紛うことなきエキゾチック・レザーだったからだ。真紅に染め上げたワニ革と、同じ素材のハイヒールは、丸天井の中央からぶら下がるシャンデリアに照らされ、控えめで凶悪なぎらつきを放っている。天井の修復されたフレスコ画の中で天使が怖気をふるう、上流階級の屠殺人といった趣も、むしろこの場では称賛の眼差しを浴びるばかりだった。「彼は食べることに目がないの」と、彼女は美しいかんばせを無邪気に笑み崩す。
「何を食べても平気なように、毎日3時間ジムへ籠ってるし、あんなに沢山のホルモン剤を……あれだって、馬から取ってるんでしょう?」
「人間、誰だって趣味を持ってるさ。お前が服を集めるのと同じで」
「あら、美しい装いは誰だって好きよ」
彼女が視線を走らせる前に、通りかかったウエイトレスが銀盆を差し出してくる。新しいフルート型のグラスを取り上げる前に、ミズ・カイマンの細い手は、女のなだらかな肩をそっと撫でた。
「この子達の制服だって、あのフォールンが特別にデザインしたの。近頃のファー・フリーに反発してジェフリー・ビーンを独立した後、ここにも良く訪れて……ほら、噂をすれば」
妻に腕を引かれて去り際、男はもう一度、今度は己自身をどっぷり憐憫に浸しながら、唇を吊り上げてみせた。
「遅かれ早かれ、そのデザイナーは放逐されてたんじゃないかな。幾らジェフリー・ビーンでも、少し俗っぽ過ぎる気がする」
「あら、残念だわ。お気に召さなかった?」
若い女に絡む面倒な客のふりで、腰にそっと手を当てれば、シェルティはいかにも迷惑そうな表情。なのに潜められた口調は軽やかで、喧騒にふわっと溶け込む。
「でも、他の皆さんは、セクシーだって褒めてくださるのよ」
「魅力的でないとは言わないさ。ただ、君がどんな衣装でも着こなせることに感心してるんだ、心の底からね」
彼女を始めとするコンパニオン達は、皆刺激的な格好をしていた。女性の場合、ぴったりと身体の輪郭を強調するボディスーツといい、その下へ着込んで腕や脚の付け根を覆うレースといい、そして太腿の半ばまでを包み込むエナメル素材のピンヒール・ブーツといい、全てが黒一色。唯一の装飾品であるロングネック・チョーカーは純金製だった。恐らくこの国で産出されたものだろう。これ一つで、1ヶ月近く働いた彼女に対し、主催者が支払う金額の何倍になることか。
動物好きを標榜するシェエルティにとって、今回の任務はさして苦痛という訳ではなかったらしい。他のコンパニオン達が嫌がる動物の世話なども積極的にこなし、くるくると勤勉さを発揮して走り回ることで、新興の希少動物ブローカーが構築した流通経路をあらかた把握することに成功した。
「これまで、闇取引はほとんどの場合、ヨーロッパで行われてきたでしょう。なぜ今回、わざわざアフリカで開催されたのか、理由が分かったわ」
真夜中の定期通信、聞いたこともない動物の鳴き声を背景に、報告する彼女の口調は、いつでも好奇心に満ち溢れていた。
「そもそもヨーロッパより、この国の方が、動物は遥かに多く生息しているから。それに、わざわざここまでやってきてオークションへ参加するくらいの財力と真剣さを、主催者は求めているの……彼らは本気で仕事に取り組んでいるわ、ギャングの副業としてではなくて」
今夜がその集大成、お時間ですと呼びかける係員に、50人程いたゲストは重い腰を上げる。シェルティも何気なく男の側から離れ、絡むようなアフリカーンスを投げかけた。
「お酒なら下にも用意されていますよ。夜はこれからなのですから、余り過ごされませんよう……」
石造りの狭い螺旋階段を下り、向かった会場は、100年前に礼拝堂と呼ばれていた頃の名残をそれなりに残している。見かけはゴシックとビザンチウムの良いとこどりと行った様式。四角四面なアーチに区切られた一画を潜り抜ける度、石畳へ足音がおどろおどろしく反響する。
こればかりは硬い木製ベンチではなく、別珍張りの椅子がずらりと並ぶ中、ジョコンドは中央右辺りに腰を下ろした。田舎の寄席芸人が立ちそうな小さな舞台の、端から端までよく見回せるし、あわよくば深緑色の厚いカーテンで仕切られた舞台袖の向こうを垣間見ることも出来る。内陣の端へ寄せられた説教台に立つ競売人からも、ビッド・スポッターの視線からも、うっすらと盲点になるだろう──伝統に則って、配送業者で構成されるこの補佐官達は3人。皆紺色のブレザーの中で分厚い筋肉がはち切れそうになっている。いざという時は、まず彼らを制圧しなければならなかった──まだ始まってもいないのに、取り越し苦労は良くない。
配られた目録へざっと目を通し終わった頃、舞台のフットライトが点る。同時に、天井の照明も落とされ、隣人の顔が暗がりに沈んだ。これまで優雅に酒を酌み交わしていた同好の志達が、敵に変わる。
現れた競売人は満更知らない顔でもない。かつてサザビーズで名物競売人として鳴らしていた彼が取り仕切るチャリティー・オークションへ参加したことが数度あったはず。あの時と変わらず、さながら本物の聖職者宜しく、尊大に太鼓腹を揺すりながら説教台まで歩み寄り、男は設置されたマイクを白い指で数度弾く。
「さて、皆様……」
全ての客が顔見知りであるかのような話ぶりは、オークショナーのありふれた技巧の一つだ。しかし皮肉にも、わざわざ馴れ馴れしくせずとも、この界隈の閉鎖性と言えば恐るべきものだった。「動物は意外とね。今時、人間の方が需要は遥かに高いよ」伴侶の豚を腹上死で喪い、滂沱の後に詰まった鼻を啜りながらレクチャーしてくれた"モグラ"の蘊蓄を思い出す。
スピーカーが朗々と増幅する美辞麗句と、ゲスト等の愛想笑いが程良く場を温める。が、これ以上の熱狂は、本番が始まらない事には生まれない。手の中でくるりと木槌を回すと、競売人は小さく咳払いを零した。
「それでは、お待ちかね。今回も、暗黒大陸の至宝が皆様をお待ちしています。その中でもまずは、この国の名物からお披露目しましょう。ロットナンバー1を」
静寂の中、コツコツと、ヒールが木製の舞台を打つ音が響き渡る。美しいブロンドを振り立て、舞台袖から現れた女性が抱いているのは、マウンテンゴリラの赤ん坊だった。嵌められた小型犬用の首輪ですら、少し強く引けば簡単に頭からすっぽ抜けてしまいかねない。例えこんな幼子でも、ぎらつく値踏みの視線は感じ取れるのだろう。唯一の拠り所だと言わんばかりに、全身で女の腕にしがみついている。
「これぞモンキー・ビジネスの極致。この生後推定9ヶ月のオスのマウンテンゴリラは至って健康、乳離れも済んでいます。ウエスト・リフトバレーの女王の名を冠する母ゴリラをトラバサミで斬首された、天涯孤独のプリンスです……ああ御心配なく、勿論この子は五体満足ですので。該当年齢の孤児としては、大変稀有なことです、皆様もご存知の通り……」
競売人の捲し立てに合わせ、女はマネキンじみた笑みを湛えながら、怯えた子猿を見せびらかす。
「しかし今回は、これが初ロットですので、まずは肩慣らしを、60万ドルから始めたいと思います」
口上が終わるや、すぐさま15本程の手が掲げられる。予想していたと言わんばかりに、競売人は手早くゲストを指名していく。
「マダム・ブルー、65万ドルですね……70万ドル。75万ドル、どなたか80万ドルは? ……さすがミスター・ケーン」
結局、マダム・ブルーが95万ドルを提示した時に、木槌は振り下ろされる。マウンテンゴリラは正規のルートで購入すると55万ドル、赤ん坊だとそこに1.7倍を掛けた金額が相場になる。世に出回っていたらとすればだが。となると、彼女はなかなか良い買い物したのではないだろうか。
いや、あのマリリン・モンローのそっくりさんも込の値段だと考えれば、全くお買い得という他ない。
先程客達に酒を注いで回っていた美男美女は、おまけとして商品に付属する。彼らをどう扱うかは、落札者の自由裁量に任されていた。飼育員として雇うのか、文字通り動物のようにこき使うのか、或いは餌にするのか……
ゴリラがどれくらいの速度で成長するのかは知らないが、草食であったことは間違いない、と慰めたところで、舞台袖へ引っ込んだ時の引き攣り笑いを緩めることは出来なかっただろうが。
競は順調に進み、気付けば残りのロット数も三分の一程になっている。5匹のリカオンへ引きずられるようにして、憔悴しきった顔の青年が去った後、競売人はまた新たな静粛を促した。
「ロットナンバー26……おや、これは珍しい。興味のない方も是非ご照覧を」
カーテンをさっと掻き分け、シェルティが現れた。あの扇情的な装束はそのまま、右手には鳥籠を携えて──ドーム型の繊細な金属細工は間違いなくアンティークの品で、細い檻がブロンズ色に輝いている。暗闇を照らすランプの如く掲げられたその中で、小鳥が2羽、ピューピューと細い鳴き声を放っていた。
ハチドリの一種らしい。釣り針のように細長い嘴は繊細で、その尖り方に反して限りなく無害な印象を与えた。まんまるい輪郭は全体的に黒い羽毛へ覆われているが、頬から後ろ首に掛けてだけが鮮やかなオレンジ色をしている。何よりも特徴的なのは頭からふさふさと生えた、白いたてがみのような毛の束だった。
「ハニークリーパーの中でも特に希少なアコヘコへ、所謂カンムリハワイミツスイは、現在ハワイでも3000羽が辛うじて確認されるばかりです。数としてはまあ、それなりなのですが、とにかく環境の変化に弱く、疫病への耐性のなさが特徴とされるこの鳥を現地から番で持ち出せたのは、ここ数年、私も目にしたことがありませんね」
鳥籠の蓋が開けられた途端、ひ弱な癖に冒険心へ富んだ鳥は、忙しなく羽を動かして外へと飛び出す。細い足へ結び付けられた紐の長さは、シェルティの指へ留まるのに十分事足りる。ゲストによく見えるよう腕を掲げた時、一瞬とはいえ、彼女は間違いなくこちらへ視線を止めた。
「5年に一度出回るか分からない鳥と、この可憐な美女を是非ともあなたの元へ……最低落札価格は50万ドルから──ミスター・ダイヤモンド、勿論あなたがこの機会を見逃すわけがない、55万ドルですね」
30本程の挙手の林立はしかし、急激な価格高騰によって脱落するのも早い。競売人は全く無造作に次々とゲストを指名し、ビッド・スポッターもさして会場へ目線を走らせない。恐らく事前の書面入札が幾つか到着しているせいだろう。匿名の参加者は、かなりの額を提示している筈だ。正直、参ったなと言うのが本音だが、ジョコンドはお行儀よく指で合図を送り続けた。
絵画や彫刻にについてはそれなりに目が肥えていると自負していたが、動物となるとお手上げだ。いくら絶滅危惧種と言え、あんなずんぐりむっくりな容姿を特に魅力的とは感じないし。
辟易しつつ忍耐を発揮するジョコンドの前で、シェルティは鳥と戯れていた。忙しなく飛び交う2羽は、ある時は彼女の頭へ乗り、または指をそっと嘴でデリケートに挟んで愛情を示す。可憐な求愛行動へ、シェルティも擽ったげに首を竦め、声なき声でバディにさえずるのだ。「でも、他の皆さんは、セクシーだって褒めてくださるのよ」
価格が2倍に跳ね上がったところで、競売人は耳に取り付けていたインカムから指を離し、ゲスト達をぐるりと見回す。今や候補者は2名。一騎打ちの有様。誰もが固唾を飲んで、趨勢を見守っている。ここまで来ると、もはや見せ物と化しているのは己だと、ジョコンドも腹を括るしかなかった。
「主催者のミスター・ルディは、この鳥を大層気に入っているのです。鋼鉄王、まさかあなたは、むざむざと諦めるつもりですか? 110万ドル、宜しい。しかしミスターJ、特命全権大使として命運を託されたあなたがここで引き下がったと世間が知れば、天下のムディバーニ家の名は地に堕ちますよ……120万ドルですね」
あのプロイセン貴族は悪食で、奥方は、なんだ?貴重な鳥の羽を帽子にでもするつもりだろうか。ナプキンを頭から被り、こんがりと焼かれた小鳥のローストへがっつく男の姿が脳裏に浮かぶ。香りまで堪能した後、男は付属品の女にもかぶり付くことだろう。禁欲的でありながら背徳的な黒いレースが引き裂かれ、白い肌が露わになる。
「145万ドル!! どなたか他にいませんか?」
これはどんなオークションでもそうだが、瞬く間に跳ね上がる値を無心に追いかける、この時間ほどスリルに満ちたものもそうそうない。普段ならば適当に切り上げることで、相手を嵌めるため使う手管も、今回ばかりは出し惜しみしていられない。
「それではミスターJ、145万ドルです!! どうかプリンス・ムディバーニに宜しくお伝えください」
赤ら顔から飛ばされる口角の泡は、会場の熱気へ他愛無く蒸散する。叩きつけられた木槌の音が、高い天井へ響き渡り、ぼうっと膜を張ったような耳を貫き通った。
「ホテルへ送り届けますか? それともご自宅に?」
「いや、直接持ち帰るよ」
係に案内され、一足早く会場を後にした時、鋼鉄王は「仕方ない」と言わんばかりに肩を竦める。自分も似たようなポーズをしてみせたことがあるので、確信を持って答えられるが、あれは間違いなく痩せ我慢だった。
裏口に回したリムジンの後部座席では、既に相棒と鳥達が待ち構えていた。
「ごめんなさいね。本当は、チーターの係に回して貰う予定だったのよ。けれど直前になって変更が」
まるで籠そのものが生命を持っているかの如く、そっと円いドームを撫でながら、シェルティは言った。
「こんな小さな鳥では、ロッキーの代わりを務めることは到底出来ないでしょう」
「彼にはまた、ロバか何かでも買って連れて行ってやればいいさ」
「そうね。それに、肉食獣は爪と牙があるから、恋人にはあまり相応しくないかもしれないわ」
あわや140万ドルで他所者へ買われていかれそうになったバディは、まるで恬淡とした物腰。そう、今回購われたのは、間違いなくシェルティ自身の価値だった。鳥なんかどうでもいい、何なら今すぐ車の窓を開けて、外へ放ってやっても良い位だが……シェルティはやはり、ひそひそと屈み込むようにして籠の中を覗き込んでは、少女のような笑みを浮かべている。彼女の博愛精神に免じて、生態系の破壊は一旦保留することにした。それにしても、蚊に刺されただけで死んでしまう脆弱な鳥を、どうやってロンドンへ持ち帰れば良いのだろう。
目下の懸念は輸送手段だけではない。実際にオークションの内外へ参加して、ブローカー等の実態を把握するのが己達の使命だ。勿論、落札用の資金は用意されていた。しかし145万ドルはいささか予算オーバーが過ぎる。金持ち達の道楽じみた成り立ちと言え、組織にも経費という概念が一応あるのだから。
まあ、どうせ数ヶ月もしないうちに、別のチームがブローカー達へ接触を図り、何もかもを取り返すだろうが。それにしたって、差し当たり足が出た分を年俸から天引きされたりしたら……
仕方がない。人の命は金で買えない。いや、買えるからこそ今回の沙汰な訳だ。
若干及び腰になっているものの、とにかく一つだけ、はっきりと断言出来ることがある。バディの価値として、145万ドルなんて少な過ぎる程だ。例え組織はそう思わず、まあ己自身、最終的にその査定へ従わなければならないとしても、個人の美的感覚を変えることなど誰にも出来るはずがない。
シェルティは手にしていた袋から、目下の餌として渡されたガムシロップを取り出す。鳥達に手ずから蜜を与えている相棒へ、緩慢な横目を向けていたジョコンドは、身につけていた上着を脱いで彼女へ差し出した。この車は思ったよりも冷房が効いている。何よりも、黒く繊細なレースから薄く浮かび上がる白い肌は、まるでほのかに輝くかのよう。これからホテルへ戻った時、周囲の男の発作的な欲情を誘うことは、火を見るよりも明らかだった。
シェルティさん【@usgnranda 】と
シェルティというエージェントは常に柔和な物腰、厳しい訓練と趣味の読書で培った知識と語彙、そして想像力を駆使して、事あるごとに周囲の人間をふわふわと煙に巻く。しかし、理性的であるのを捨てたことは一度としてなかった。
鬱蒼と茂る樹林の葉陰を出たり入ったり、まだらに染まった顔へ微かに汗を滲ませながら、彼女は天を仰いだ。頭上では背の高いニッパヤシが幹をしならせ、若々しい葉を揺すっている。対して、生存競争へ負け立ち腐れる下生えの草木は、耐えきれないような悪臭を放ち続けていた。
「ねえ、Mr.ジョコンド。あたくし、不思議でならないの。伝統を重んじる現地の人達ならともかく、本部の皆さんですら、怖がるなんて……人喰い人種の存在を」
息切れで若干掠れた声が、じとりと全身へ纏わりつくような空気へ鈍く反響する。彼女のもの以外に感じ取ることが出来るもの言えば、木々に潜む鳥達位のものだった。誰もいない。人はいない。少なくとも生きている人間は。そう報告することが出来れば、どれだけ楽だろう。
マングローブの森に挟まれたバリスナ河を、現地コーディネーターの操るカヌーで遡り3時間。そこから更に川沿いのジャングルを4時間。そのうち3時間は、2人きりで歩いている。途中で怖気付いたガイドは、日暮まで川辺で待機していてくれる手筈だった。全てが順調に進んだなら、この冒険は昼下がりに終わるだろう。なのにまだ、往路の時点でもたついている。
良い加減、道が開けても良いはずだが──あまり精密ではありません、あくまでも目安として、と予め釘を刺されていた地図を開き、それから方位磁石を確かめ、更には周囲の景観を見回す。木肌に纏わり付いたシダを信じるなら、方角は間違っていない。
「伝統も何も、この辺りの食人文化は100年以上前に廃止されているって、現地の人間こそ知ってるはずだよ」
寧ろ彼らが恐れるのは、この著しく厳しい大自然の中で己の無力を痛感し、遭難して朽ち果てることに違いない。シェルティも注意を払ってはいるようだが、先程から水分を補給する頻度が高い。泣き言を溢さないバディのことをジョコンドは尊敬していたが、時に酷く厄介だと思わせられる。幾らかは私情も込みで。
何よりも嫌になるのは、彼女の具合を鑑みて、出来る限り無理をさせねばならないこと。
「出来れば避けたいが、あちらで夜を明かすことも想定に入れないと。ガイドには明日迎えに来させよう」
「あたくしなら平気よ」
健気に言い張るシェルティの顔色は、帽子の影になっても分かるほど紅潮している。磁石をポケットに落とし、ジョコンドは再び道を進み始めた。今はそうするしか出来ない。
「君を信頼していない訳じゃないさ。何が起こるか分からないってだけの話だよ」
そう、油断は出来ない。2人が捜索している男の腕はまるで衰えている様子がなかった。こんな原生林の奥深くを潜伏先に選び、生き延び続けているのも。これまで派遣された2組のエージェント達を消息不明に陥れたのも。
当然の話だ。彼はGF9が手塩にかけて育成したエージェント。もしもそうそう容易く無効化されてしまったのならば、この組織の教育プログラムへ抜本的な見直しを行う必要がある。
かつて共に任務をこなした時、その男にジョコンドが覚えた印象は、全く勤勉かつ優秀なコマンダーだ、というもの。特にケースオフィサーとしての能力は特筆すべきものがあった。どんな土地でも、どんな人でも、内面にするりと滑り込み、手懐けた現地工作員達による巨大なネットワークを世界各地で構築してきた。
このソロモン諸島は大小1000近くの島と100以上の言語を有するので、上層部も多少の猶予を男に与えた。期間は9ヶ月。当然、時に連絡が途切れることもあるだろうし、幾らかは強引な手段の行使だって織り込み済みだったはずだ。
とは言うものの、さすがに最後の通信から一年近く、まるっきり音沙汰がなくなることは想定されていないし、様子伺いに向かった職員が誰も帰ってこないとなれば。
「煙みたいに掻き消えたんじゃなければ、まだ食べられた方が救いがある。寝返ったって可能性を考えるよりは、余程」
「1人ならともかく、5人のエージェントが寝返るなんて、あり得るかしら」
と返したシェルティの表情に、冗談を口にしている気配など全く見当たらない。ぬかるんだ地表へ露出する、おばけミミズじみた木の根を跨ぎ越える時、ほんの少し怪訝そうに顔を顰めて見せるほどなのだ。
「それに、6人の敵がいる場所に、たった2人だけを派遣するなんて、無謀な真似だと誰もが思うでしょう」
「上の人間も、君みたいに賢ければ良いんだけどな」
彼女へつられるかの如く眉間に皺を寄せ、ジョコンドも首を振った。
「この組織じゃ、人間の命なんて、コピー用紙並に安いからね。まだ南米の麻薬カルテルの方が、下っ端を大事に扱ってる気がするよ」
溜息へ押し除けられたかの如く、急速に光が現れた。
逃避行を図るとしたら、ここほど相応しい場所もないだろう。灌木に絡まる蘭の花が、日差しを全身へ浴びて純白に輝いていた。森だと姿を見せなかった赤青黄色緑、色とりどりのオウムやセキレイ達が、伸びる枝々を盛んに飛び交う。
「Mr.、あれを見て」
シェルティが指差したのは、枯れ枝を蔓で縛って拵えられた垣根に幾つもぶら下がる、小さな南瓜程の物体だった。彼女へ木立の影まで下がっているよう伝えると、ジョコンドはベルトから拳銃を取り出した。
顔の皮膚を剥いで肉を削ぎ、粘土で丁寧に形成してから、長時間じっくりと燻す、伝統的な手法で作られた干し首は、まるで無造作に吊るされているからこそ、製作者の狂気を知らしめる。数個程、古くほぼ朽ちかけているものは現地の住民から刈り取ったらしい。だが新しい頭に関しては、例え黒ずんで萎びていようとも、その顔立ちを明確に識別することが出来た。
「博物館に展示されているのを見たことがあるけれど、実際に活用されている様子は初めてだわ」
「そうだね」
これまで、同僚の死に立ち会ったことは数えきれないほど、と言えば大袈裟だが。さすがにここまで趣向を凝らした骸と遭遇したことは、ジョコンドも一度としてなかった。
「こんなノーム人形を飾る感覚で、首を吊るす人間を説得するのは難しいかも知れない」
最も新鮮そうな一つを銃身でひっくり返す。切断には鋭利な刃物が用いられている。後頭部に開いた穴は、処刑スタイルが採られた証拠だ。何とかに刃物、いや、おまけにマグナムか何か、と見当をつける。
果たして対抗できるかは分からない。慰め程度とは言え、シェルティにも用意の22口径を握らせ、戦士の住処へ足を向けた。
先住民が古来から伝える技法で組み上げられた、草葺き屋根の平屋は、確かに人が住んでいると思わせる手入れが施されていた。家の裏手で細い煙が青空へ向かって棚引く。
足音を殺し、そっと近付いたが、人影はすぐに立ち上がった。突きつけられた銃口に臆することもない。その若い女性は、焚き火で温めていた飯盒を炎から下ろし、じっとこちらを見つめ返す。地元の人間らしい。ジーンズとTシャツ、スニーカーと言う簡素な出立も、その美しさを覆い隠すことは出来なかった。
彼女へ現地の言葉で呼びかけられ、家の中から嗄れた返事が戻ってくる。顎でしゃくり、促す女について行く前に、逡巡するべきだったのだろう。だがシェルティは既に、ナップサックに武器を戻している。
「せっかくお招きを受けたのだもの。それに、あれだけ弱々しい声しか出せないなんて、敵意があるなら、何も言わずに引き金を引くんじゃないかしら」
彼女の予想通り、もはや男は起き上がるのすらやっとと言う有様だった。綻びた折りたたみ簡易ベッドに積み上げた毛布へ、今にも押し潰されてしまいそうな痩せ細り方。浮き上がった背骨へ沿うようにして出来上がった床ずれが、大きな穴と化して膿み、換気の悪い屋内を腐敗臭で満たす。
まるで清らかな声で、シェルティは「お久しぶりね、ーーー」と男の名前を呼ぶ。つまり、啓示を持ち込む天使の声音。
「あなたが行方をくらませて、皆心配していたのよ。臥せっていたのね、お加減は……良くないようだけれど」
「君は、相変わらずだな、シェルティ」
こけた頬が、笑みと思しき形に小さく歪む。50を越えたばかりな歳の頃のはずだが、20は老けて、ディケンズの小説に登場する意地の悪いお爺さんのよう──もっと直裁的な言い方をしてもいいならば、『闇の奥』のクルツ。マーロン・ブランドではない。
「心配しなくても、感染する類のものじゃない。衰弱って奴さ……最近はもう、あまり食べられなくてね」
ここばかりは炯々と鋭さを増した眼光が、入り口に切り取られた明るい日差しへ向かう。
思わせぶりな態度はうんざりだ。そういえば、昔から若干、わざと露悪的な言動を取って、相手のリアクションを請う物乞いみたいな一面のある男だった。当時はお互いに優秀な職業人として、また健全な心身を携えていたこともあり、目を瞑ることができていた。
今はお互い、すっかりくたびれ果てている。こちらだって何時間も不安定なカヌーへ揺られ、道なき道を踏みしめ。食べていないといえば、昨晩、この島へ渡るために乗っていた漁船で供された謎の魚のせいで、明け方まで嘔吐が収まらなかったから、もう半日以上胃は空っぽだ。
女が壁際から、古びた丸椅子を一脚持ってくる。もう一脚運ぼうとしたところで、ジョコンドは隣を振り返った。
「すまないが、外で彼女に話を聞いてくれないか」
もうしばらく、寝台の上、それから傍らのバディを見つめた後、シェルティは「ええ」と頷いた。
「彼女が英語を理解出来ると、良く分かったな」
「それが君のやり方だから」
二人が外へ出たのを確認し、椅子の土埃を払って腰を下ろすと、ジョコンドは答えた。
「最初は現地へ溶け込もうとするように見せかけて、最後は自分のやり方を押し通す」
「確かにな。だがこれは、組織が推奨する方法でもあるだろう」
突き出しだ喉仏が上下し、笑いと判別できない、木枯らしじみた音を立てる。毛布の上に投げ出された痩せ腕は、もはや刃物も銃も握ることは到底出来そうにない。だがジョコンドは、まだ右手に握った銃を相手に向けたままでいた。
「あまり時間がないんだ、率直に話そう」
用心金まで戻した指先は譲歩で、本当に胸襟を開いたことの証だ。
「ねえ、君。ここで一体何をやっているんだ?」
「何もしていないさ。したくなくなったんだ」
眉根を寄せる相手に、男もまた、切実な困惑と共に訴えた。
「こんな仕事、全く馬鹿げてるよ。現地の情報を隅々まで調べ尽くして知識を叩き込み、入念な準備を行なって、何も知らない連中を丸め込んで……ここでなくても、ヨーロッパだろうとアジアだろうとアメリカだろうと、同じことの繰り返し」
二つへ折れるよう咳き込んだ拍子に、汗でぬめる肌から、垢と、もっと甘い何かが漂う。死にかけた人間の匂いだった。
「新しい土地で新しい任務へ就くたびに思う。こいつらは、俺が声をかけなければ、俺達の敵の──敵と呼んでいる人間の甘言に、容易く乗せられていただろうと。俺達がどれだけ世間を良くしようと思っても……知ってるだろう。世界は、救いようがないほど愚かなんだ。そんな中で足掻いている俺達も含めて、皆が等しく」
「否定はしないよ」
「俺が不幸なのは、まるでヘルター・スケルターで滑り落ちるみたいに、ぐるぐる回っている間に、すっかり酔ってしまったことだ」
外ではシェルティが、軽やかな声でささめく。「まあ、そんなことが?」それに応える女の声を聞き届け、男の骨ばり硬直した拳が、僅かに緩んだ。
「彼女を見ただろう。この土地での俺の助手を務めてる。小学校を出たきりだ、つまり、汚れたことなど何も知らない、無垢な、素晴らしい女性だ。喜びも悲しみも素直に表現して、人の感情も決して否定しない。俺が不幸のどん底にいた時も、言ってくれたんだ。“もう苦しまないで、あなたが辛いと私も辛い”と」
じっと見つめるジョコンドの瞳まで、そろそろと目線を持ち上げながら、続きは酷く苦しげで、粘りつくように放たれる。
「ああ。俺は彼女を愛してる……馬鹿げてると思うだろうが」
「思わないよ」
本心から、ジョコンドは言った。再会の暁には、もう少し怒りや腹立ち、蔑みなどが湧いて出てくるものと思っていたが、この瞬間、胸に湧き出るのは、同情ただ一つだった。拳銃を握る手は愚か、全身がどんどん火照りを失い、まるで草原の中にぽつんと佇んでいるような心持ち。
「ただ、君がそんなにも、優しい性格だと思っていなかったから……」
「君にもいつか分かるさ。シェルティとは?」
「彼女? 素晴らしいエージェントだよ、君も知っての通り」
「そうだな。断言するが、ジョコンド、君はきっと彼女を愛するようになる。世界を切り取って、そこへ彼女を囲い込むようになるんだ。例え全てを排除してでも」
「切り取ると言えば、あの首は彼女が?」
「よせよ、彼女は野蛮人じゃない」
力は全て振り絞られる。うんざりと手を振って、のろのろと身をベッドに横たえるのが、男に出来る最後の肉体労働らしかった。
「彼女は何もしていない。ただ、俺の面倒を見ていただけだ。愛情深い女だから」
目を閉じたまま、男は最後にぽつりと溢した。
「彼女を決して苦しめないと約束してくれ」
「ああ」
崩れた毛布の山から一枚取り上げ、苦悩の刻まれた顔へ被せる。引き金を引いても、女達は家へ入ってくることがなかった。
家の外へ足を一歩踏み出せば、まるで断罪するような太陽の直射が全身を包み込む。ひさしの陰から出てきたシェルティも、ふうと一つ大きな息をついた。
「あたくし、先ほどまで気付かなかったのだけれど、持ってきた簡易無線が壊れていたようなの」
「なんだって」
「大丈夫、彼女が修理してくれたから。彼女、何でも出来るのよ。さっきも作ったカヌーを見せてもらったわ。裏の納屋に工具や農機具が一式揃っていて」
あなたが手入れをしていたんでしょう。シェルティに水を向けられ、女は慎ましくも卑屈さのない謙遜で、ただ頷くだけだった。
彼女は何もかもを知っていたし、恐らく防いでいたのだろう。侵食を。そして役目を果たしても、何かを求めたりなど決してしない。
男が亡くなり、同行するよう求めれば、彼女はナップサックに入るだけの手荷物を整えた。「片付けなくてもいいのですか」。家と、そして垣根を示す目線は怜悧で、口にされる英語はジョコンドよりも遥かに訛りがなかった。思わずたじたじとなり「構わない」とだけ答えたジョコンドの目を、シェルティはじっと覗き上げる。
「Mr.、あたくし、無線で連絡をしておきましょうか」
青、紫、灰色、まるでこの楽園とも地獄とも呼ばれる場所のように、決して一定の評価を下させない瞳は、逃げてもいいと告げていた。だからこそジョコンドは、目を逸らさないという判断を下す。
「いや、その必要はないよ」
その時ジョコンドがどんな決断を下しても、シェルティは異を唱えなかっただろうし、女も運命に従っただろう。先頭を歩く彼女の足取りは確たるもので、真っ直ぐに伸ばされた背筋は受け入れ、同時に拒んでいた。
死にかけた男に愛を注がれた女が何を思っているのかは杳として知ることが出来ないし、知る必要もないのだろう。厳しげとすら言える後ろ姿から、早くも歩調が緩みそうなシェルティへ、ジョコンドは視線を移した。
「少し休むかい」
「いいえ、平気」
もしも自らが、あの男の如く惨めに縋ったら──認めなければならないが、あの男の最期は全く惨めという他なかった──彼女は一体どんな反応を示すことか。そんな目に相棒を遭わせることだけはごめんだと、心の底から思う。軽やかな足取りの時も、そうでない時も、シェルティは等しく歩くという行為を止めない。そして自らは、彼女の隣に在り続けるのだろう。これを馬鹿げていると世間が嘲笑うなら……別に隠遁も逃避もする必要はない。己も一緒に足を動かせばいい。
「Mr.、見て……」
一瞬、緑が途切れ、覗いた青空は、しかし極彩色の奔流に埋め尽くされる。掌に乗るものから大人が腕を広げた程の大きさまで、無数の蝶が宙を待っていた。思わずジョコンドが口にしようとした「気味が悪い」との言葉より早く、シェルティは「綺麗、まるで色とりどりの宝石みたい」と呟く。
「こんな厳しい環境でも、素晴らしいものに出会えるのね」
隣に並んだジョコンドが、空を見上げていた時間は短い。誕生日の子供のようなシェルティの横顔を、ただただ美しいと思う。人の死を通り過ぎ、毒があるかも知れない、きらきらと鮮やかに輝く鱗粉の中にいるバディこそが。
「美しいね」
呟きはほぼ独白でしかない。寧ろその事実が、今のジョコンドにとっては何よりも安堵を呼び起こす。その場へ留まっていられるならば、もう少しだけ立ち止まり、天を仰いでいても構わないと思える程には……
シェルティさん【@usgnranda 】と センシティブな事件描写がありますのでご注意ください。
怪我をしたのは野球ボールをぶつけてきた近所のやんちゃ坊主に非があるし、ましてや歯医者の腕の良し悪しなんて子供に責任がある筈もない。強いて言うならば、そんな藪の元へ治療に連れて行った親が悪いということになるだろうか。
とにかく、目の前の青年が余り口を動かさず、酷く聞き取りにくい喋り方をするのは、折れて継ぎ目が茶色くなった上の前歯を気にしているのが半分。残りはこの辺りの訛りだった。ラストベルトでよく耳にする、口籠りつつも途切れ途切れに聞こえがちな喋り口だ。薄い抑揚は店内に流れる有線放送へ溶けたチーズのように掛けられ、集中していないと頭へ入ってこない。そうでなくても話の内容と言えば虚勢と泣き言、神への愚痴を溢したかと思えば突然信仰と隣人愛を取り戻す。
州道沿いの、壁にバッファローの頭蓋骨と交差したライフル銃を飾り、床へおがくずが撒いてあるような、史跡とすら言える鄙びた酒場だ。その中でも、特に黴臭い壁際の席。落ち合って既に30分が経過している。暗い肌色の人間が滞在するにしては些か長過ぎる時間だった。仕切り台の向こうから、禿頭の店主が表情のない目で見つめてくる頻度も高くなっている。
「さて。いい加減、大人になったらどうだい」
ジョコンドは空になったビアマグの分厚い底で、テーブルの輪染みを上書きするよう、こつんと一つ音を立てた。注意を促された青年は、跳ねるようにして、俯けがちだった顔を持ち上げた。揺れる肩がぶつかっても、隣で突っ伏した彼の恋人は微動だにしない。傷んで膨らんだプラチナブロンドの長い髪は、よれよれのモップじみた見てくれで彼女の顔を覆い、アルコールに腫れた粘膜の作る苦しげな寝息を封じ込める。
タンクトップから伸びる、筋肉のない二の腕へ視線を落としながら、青年はもぐもぐと言葉を咀嚼した。
「でも、クロエはやっぱり反対してるし」
「君も男なら、いちいち恋人の言うことに振り回される必要なんてないだろう」
白人至上主義者はもれなく女性蔑視も兼ねていると思っていたが、彼に限って言えばそうではない。Tシャツの中で泳ぐ骨ばった身体と、クラックの薬効で神経質に目を細める癖のある、見かけに違わぬ弱い男だ。眠っているガールフレンドにすら怯えている──実際、恐るべき淑女だった。以前にここへ来た時も、3代以上は後生大事に抱えてきたヒルビリー言葉で、こちらにネチネチと絡んで話の腰を折ったと思えば、飲む前に金を払えと嗜める店主に(どうやら踏み倒した前科があるらしい)「うるさいよクソ野郎」と酒焼けした声でがなり立てる。
ソクラテスの妻が寝ている間に密談を。州立大学の理工学部で学士号を取得したスキンヘッズと接触を持てたことは全く幸いだった。高等教育機関で余計な知識を詰め込んだから、田舎っぺ達のお遊戯会じみたスローガンの連呼に疑問を抱いたのだろう。団体と少しだけ距離を置き、モラトリアムに耽る若者を丸め込むのには、4ヶ月も要さなかった。
信頼関係は築けたものの、青年が生来持つ過敏さは拭い取られる事がない。まるでハードな裏拍を混ぜ込んだハウス・ビートへ耳を傾けているかの如く、ガタガタと跳ねる左の膝が、今にも天板をひっくり返しそうになっている。本来店のスピーカーから流れているのは、何だ? ザック・ブライアンか誰か。カントリーには詳しくないし、今後も知識を深める予定はない。
「君には才能がある。それは自分自身、一番分かってる事だろう。これまでその能力を抑えつけていたのが誰かと言うこともね。口ばかり達者で、組織内の権力闘争にしか興味のない尊師達にとって、未来の理想そのものの君は」
「ブーズ師の悪口はよしてくれ。彼がいたから、俺は目覚めることができたんだ」
前のめりに食い入るまなこは、薬の影響を差し引いても気味悪いほど澄んでいる。降参の証に片手を掲げ、ジョコンドはジーンズのポケットに入れていた紙片を取り出した。
「目覚めたなら、ベッドから起き出して動かないと」
折り畳まれたメモを開き、中身を仔細改めると、青年は昼間の店内に相応しい暗さへ、顔色を染めた。
「本当にやるなんてな」
「出来るだろう?」
「ああ……けどまさか、こんな早く機会が来るなんて……」
「怯んだなら他を当たるから、早めに返事をくれ」
言い終わる前に、顔一面へ重く生ぬるい液体が襲いかかる。
今にも崩れ落ちそうに、ついた肘で上半身を支える姿勢と裏腹、起き上がった女の目は触れれば切れるほど鋭い。首一面から這い上がり、顔の右半分を覆うブラック・アンド・グレーの刺青は、さながら全てを飲み込み繁る蔦。このまま自然に全身へ侵食してもおかしくない勢いに、左頬へ刻み込まれたワンポイントの蝶が、逃げるよう羽を広げている。
「クソッタレのカラードめ」
憎悪で捻じ曲げられる口紅の剥げた唇や、「LOVE &HATE」と書き込まれたこめかみの文字ごと吊り上げられた左眉と同じく、ビアマグを握りしめた細い手には力が籠ってる。
「おい、よせよ、クロエ」
野蛮なあばずれと、動揺の余り視線を彷徨かせる青年の前で、ジョコンドはきっちりアイロンを掛けられたハンカチを取り出し、これ見よがしに顔を拭う。
「ほんと、自分の女くらい、ちゃんと躾けたら」
グラスが叩きつけられた音は店中に響き、何人かのネルシャツ族がこちらを振り返る。カットオフ・ジーンズ履きの尻を振り立てるようにして外へ飛び出していく女を追いかけながら、青年は最後まで覚束ない滑舌で、こちらへ謝罪とも言い訳とも付かない台詞を転がしていた。
ジョコンドが近所のモーテルに戻り、盗聴無線のイヤホンを耳へ突っ込んだ頃には、青年達も棲家へ戻っている。ばたんと勢いよく閉められたドアはピックアップ・トラックのものか、それとも住まいであるトレーラーハウスのものだろうか。乱暴な音と殆ど重ねるようにして、女は叫んだ。
「あんな奴に馬鹿にされて、恥ずかしくない訳?!」
「仕方ないだろ、情報がなきゃ、仕掛ける場所も計画できない。図面だって全部あいつの持ち出しだぜ」
「騙されてるんじゃないの。FBIのイヌとか」
「そんなことないさ。ファッティの紹介だし、何でもこの前のテキサスの保険局を爆破したのにも噛んでたって」
「ファッティ! あの間抜け野郎!」
今度投げつけたのはカップの中身だけではないらしい。青年が喉の奥で上げるくぐもった悲鳴すら、組織謹製の優秀な盗聴マイクは拾い上げる。
それっきり貫かれる沈黙の後、やってくるのは嗚咽だと予想していた。勘は的中、ただし、絞り出す声を涙で湿らせるのは、男ではない。
「ねえ……ほんと、どうしちゃったの。あんたみたいな人間が、こんな目に遭うなんておかしいよ」
「クロエ……」
「お願いだから、あたしの知ってるあんたに戻って。自信家で、タフで、最高に素敵だったあんたに」
今や啜り泣きは二重奏となる。女は恐らく、項垂れた男を抱擁したのだろう。衣擦れと、荒く乱れる息の合間に混ざるリップ音から、その頬や額へ祝福の口付けを与えている姿すら想像出来た。
「覚えてる? 初めて出会った日のこと……アーリアン・ネイションズの集会でさ。ダンスに誘ってくれたでしょ。誰もあたしへ見向きもしなかったのに、あんたはギネスの缶を二つ持って、まっすぐこっちへ歩いてきた」
「連中の目が節穴だったんだ。だってお前、あの時、ダイヤモンドみたいに輝いてたもの……それとも、美人過ぎるから近寄れなかったのかもしれないな」
「でもあんたは違った。勇気があったから」
ここで彼女は、口から小さく息を吸い込む。まるで錆びついたトレーラーハウスへ、微かに残った希望をその身へ取り込もうとするように。そして笑うのだ。全くどうしようもないほど、愚かな表情で。
それはシェルティがこの役へなるに及んで、“クロエ”の情動として定義した、演技の一つだった。
「ねえ、あのカラードも、クランのお偉いさん達も、みんなみんな見返してやろうよ。あんたならできる。たとえ世界中が敵になっても、あたしだけはあんたの味方、何があっても信じてる。最後までそばにいるから……」
「ああ、クロエ……」
クライマックスに入り、嗚咽と嘆き最高潮に達する。『蝶々夫人』なら、第三幕の最後、ヒロインが「さよなら坊や」を歌い出すところ。
黴臭いモーテルのシーツの上に一人、寝転んで盗み聞きを続けているなら、知らず口元に浮かぶ苦笑いを誤魔化す必要もない。
最も身近な敵へ導かれるまま、青年はやり遂げる事だろう。この前は青写真を渡した。今日授けたメモには、最も効率的かつ最大限に被害を与えるべく、建物へ爆弾を仕掛けるに相応しい場所や時間を記してある。決行は来週の火曜日。突発的なアクシデントでも起こらない限り、当日まで己に出来ることはなかった。
しかし、これだけ滞りなく進むのも逆に気味が悪い。己は迷信を信じる方ではないと自負していたが、それにしたって物事には限度がある。そもそもこの計画だって、標的が余りにも急速にシェルティへ懐いたから、二週間前倒しで計画を進めたのだ。
染みだらけの天井を見上げながら、しばらく考えに耽っていた。が、結局ジョコンドは、ベッドから身を起こした。クローゼットへ向かい、立てかけてある包みを取り出す。油紙に包んだコルトM4カービンは既に十分な手入れを施してある。けれど気分がざわめくなら、無理に鎮めようとせず、なすがままに流れた方が、案外精神衛生に良いものだ。
こんなもの、絶対使わないだろうと考える過剰な武器、まさしく男根主義の象徴。そう言えばあの青年は克服できない依存症の影響か、不能の気があるらしい。時々"クロエ”はベッドの中、インポだ何だと叱責していた。
こんな思考は本当に不要だ。メンテナンスキットを組み立てながら、ジョコンドは頭を振り振り、詮無い雑念を追い払った。
『デイリー・テレグラフ・⚪︎⚪︎⚪︎』20▼▼年10月12日付
爆弾テロ、死亡・負傷者多数
⚪︎⚪︎⚪︎州▪︎▪︎▪︎の州第二合同市庁舎で11日午後2時頃、爆弾によると思われる大規模な爆発が起き、同日夜までに78人の死亡が確認された。今なお約150人の行方が分からなくなっており、犠牲者の数は更に増える模様である。同ビルには現在、改修工事が行われている△△市内の連邦ビルより、移民局などの連邦機関も一時的に移設されており、約300人の職員が勤務していた。隣接する州立大学附属のチャイルド・ファレジック・アンド・ケア・プログラムセンターも倒壊し、治療を受けていた児童達も犠牲者の中に含まれる。▪︎▪︎▪︎ は×××大統領により緊急警戒区域に指定。FBIの⚫︎⚫︎⚫︎長官は現地に臨時特別捜査団を派遣し、犯人の行方を追っている。
青年は立派にやり遂げた。州都の合同市庁舎は大規模な施設だが、西棟の車爆弾に設置した肥料とラジコンヘリ燃料の混合物、北棟のダストコンテナには乾かした石鹸、一度に起爆されたらひとたまりも無い。元来積み木を組み上げるような増築を繰り返し、耐震性が疑問視されていた建物は、全体の45パーセントが崩落したらしい。死者は最終的に100名を超えるかどうか。ティム・マクベイには少し及ばないが、しがないレッドネックにしては十分頑張った方だ。
泡を食ったのは官憲達よりも、青年が形だけと言え所属している"クラン"の連中だった。下っ端の成果を掠め取っていけしゃあしゃあと犯行声明を出すか、それとも無関係だと突っぱねるか。他にも幾つか可能性は想定していたが、よりによって連中は大穴を当ててきた。
シェルティの盗聴器が無音を貫き7時間──と言うより、恐らく彼女自身が破壊したのだろう。防諜対策は幾重にも施してあるが、連邦捜査局クラスの機械になるとうっかり電波を拾ってしまう可能性がある。
幸い、発信機の微弱なパルスはまだ相棒の生命を証し立ててくれている。戒厳令から辛うじて逃れた郊外の165号線を2時間ほど走り、辿り着いたのは、湖を周縁する森の中だった。
衛星が逐一修正する正確な位置情報から半マイルほどの路肩に、オンボロのシェビーを停止させる。トランクシートの下から取り出したアサルトライフルの保存方法は、無造作だと言われても仕方ない。これだけ世間がピリピリしているのだ。うっかりハイウェイ・パトロールに止められようものなら、尋問をすっ飛ばして裁判に掛けられていたかも。北棟で用いられた『魔王の母』は、イスラム系テロリストがよく用いる爆博物だから。
街の騒動など自然は露知らず、また気にかける必要もない。獣道を分け入るにつれ、ヒッコリーの林立が深まり、静寂が滞留していた。重たげなほど付いた黄色の葉は、今が盛りの鮮やかさで天を覆う。まるで秋の涼やかな空気ごと明るくなったかのようだ。泥跳ねとへこみが目立つ青色のフォードですら、途轍もなく前向きな存在に見えてくる。
既にクラン達は、ボニーとクライドの行方を突き止めたらしい。親指でセレクター・レバーを切り替え、重たげに包み込むサイレンサーごと、銃口をふいと持ち上げる。
追跡記録によると、逃亡者達は早朝にこの森にやって来た事になっている。いつでも逃げ出せるよう、トレーラーハウスはアバランチと連結したまま。しかしジョコンドが数メートルの距離まで近付いても、中からはことりとすら物音が聞こえてこなかった。しばらく、ピックアップ・トラックと目と鼻の先にある大木の影に身を潜めたまま、ジョコンドは数を数えた。
澄ましていた耳は、気配のほんの微かな乱れを機敏に察知する。8、と内心で呟くと同時に、かさりと落ち葉を踏み締める音。逸る自らの足が蹴散らしたのではない。銀色の車体の向こうから、2人の若者が姿を現す。
彼らは敵を認めた途端、各々手にしていたシグのコピーガンと、鼻を切り落としたイサカをこちらへ向けようとした。が、無骨な指がトリガーガードへ掛かるより早く、ジョコンドはレーザーサイトを、ショットガン男の左胸へぴたりと据えている。
青ざめる若者達と違い、こちらは徹底した無表情を貫いている自信があった。心臓すら、同じリズムでまた脈打ち続けている。ただ、頬を躊躇いがちに撫でる秋風が、やたらと冷たく感じてならなかった。
無言の対峙は、結局10秒と続かない。軽く銃口でしゃくられ、男達は銃を下ろす。そのまま早足ですれ違う時、紙のような色と化した顔へ、大粒の汗が吹き出しているのが見てとれた。
幾ら若者の代謝が良く、彼らがまだ夏の中にいるのだとしても、張り詰めた緊張は否応なしにこちらへ迫り来る程だった。
その理由を知ることは容易い。ジョコンドがトレーラーハウスの中へ足を踏み入れた時、彼女は血まみれのまま、居間へ座り込んでいた。顔と言わず服と言わず真っ赤に染めるのは、彼女が流したものではない。
青年は床に転がっているグロックをこめかみに当て、引き金を引いたのだろう。フローリング一面の茶色い擦れ跡が、彼の感じたのたうち回るほどの苦痛を如実に表していた。
「あの市庁舎には、彼の妹がいたらしいの」
膝の上、頭皮が半分ほど弾け、砕けた骨と共に絡まる髪をそっと指先で撫で整えながら、シェルティはそう言った。
「子供の出生届を出す予定だったんですって。ロビーで姿を見かけたけれど、彼は計画を中止しようとは言わなかったわ」
青年は息絶えて、恐らく彼の妹と赤ん坊も瓦礫の下に。クロエは? とっくに死んだ。そして己と、何よりも目の前の女性は、まだ確実に生きているのだ。
立ち上がらせる為に掴んだ手は、驚くほど温度を失っていた。亡骸の冷えきりが移ってしまったかの如く──実際、青年は、最後まで彼女へ縋ったのだろう。華奢な手指を固く握りしめていた掌をもぎ離すのに、少し手間取る。
「大丈夫?」
「ええ」
頷いたのは、夢も現も一続きであるかのように、何なく境界線を踏み越えていく、シェルティと言う名の諜報員だった。
「ただ……残念だわ。彼が最後に言おうとしていた言葉、しっかりと聞いてあげれば良かった。途中で彼のお友達が来たから、あたくし、ベッドの下へ隠れていたの」
「連中は立ち去ったよ。待ち伏せの心配もないだろう」
「ええ、そうね。可哀想に1人なんか、ここにいる間中、ずっと泣き通しだった。とどめを刺す勇気すら出せないほどで」
血も汗も涙も、美しいかんばせに特殊染料で描き込まれた模様を洗い流すことはない。それをするための薬品も、清潔で品のある、警察の注意を引かない服も、全部シェビーの中に用意してある。
「あの滑舌じゃ、どうせ何を言っても聞き取れなかったさ」
この州を出るまでに、彼女は全ての痕跡を脱ぎ捨てるだろう。粧を落とした女を世間の男は忌み嫌い、時に恐れすらする。だが今のジョコンドは、一刻も早く己のバディから、汚れを落としたくて仕方がなかった。現実として、捜査網はじわじわと狭まっている。何よりも、己達が殺戮の真犯人であることは、誰よりも熟知していた。
床の血溜まりで滑りかけたシェルティの小鳩じみた足は、隣の腕を掴むことで辛うじてバランスを保った。不安定なミュールを脱ぎ捨てながら、振り仰いできた表情は余りにも凪いでいる。そこから先、ジョコンドに出来ることといえば、全ての感情を程よく無視し、銃を構え直して、ひたすら警戒を怠らないだけだった。
シェルティさん【@usgnranda 】と
検視報告書の所感には「脳に負った重度の損傷」とある。端的だが曖昧な表現だ。健忘症でも起こしたのか、それとも血まみれの皮膚から割れた頭蓋骨が露出するほどの大事だったのが。
今回は後者。添付された写真は、レンズを傷口ぎりぎりまで近付けてシャッターを押されていた。新鮮な果物の皮のようにように捲れた頭髪の向こうで、ピンク色の32口径の銃弾により、脳髄が柔らかくかき混ぜられている。果物、というイメージから、ジョコンドは桃を使用した菓子にたっぷりかけられた、着色料を添付した甘いクリームを連想した。
「Mr.、資料番号8を取って下さる?」
「これ?」
「いいえ、そちらの盗聴記録の方」
受け取った紙ファイルを開き、しばらく目を通していたシェルティは、耐えきれなくなったようにふふっと口元を綻ばせた。
「前回の時も思ったのだけれど、新型の発信機って、本当にどんな音でも拾うのね。あたくし、彼が2時間に7回もおくびを漏らしたなんて、遂に気が付かなかった」
「別に不思議だとは思わないな。あの日は彼、フードコートでタイ料理を食べてただろう。話している間中、彼はナンプラーの匂いを辺りに撒き散らしていた」
魚醤の独特の香りは、ぽっかりと開いた口からもぷんぷん漂ってくるようだった。死んだ人間の顎は重力に負ける。破壊された聴覚器官から耳管を伝って鼻腔、そして口腔内まで溢れ出したどす黒い血は、喉奥へ向かって落ち込んだ舌すら沈める濁った池。確かに脳の破壊が直接の死因かも知れないが、窒息死したと言われてもジョコンドは何一つ驚かなかっただろう。
己の血で溺れる前から、男は叫びの一つも発しなかった。寂れた市街地で、甲高いライフル弾の発砲音がビルの谷間へ響き渡ったのを聞き届け、ジープのフロントガラスが蜘蛛の巣状にひび割れたのを目にした時。既に彼は、助手席のシートベルトへぶら下がるようにして項垂れていた。
そのままセーフハウスまで車を飛ばし、死体は待機の職員が適当に処理をしてくれるのかと思っていた。だが本部はご丁寧にも、回収後に医師へ解剖させレポートまで寄越してくる。後部座席のシェルティも含め、証人が2人もいるのだから、経緯のみ報告書へ記しておけば十分だと思っていたのに。
インターンであれ顔馴染みのベテランであれ、同僚の死はもはや特別扱い出来ないリスクとして、任務に付帯していた。いつだったか、皮肉屋の知人が言っていたような気がする。「胃癌の初期症状は嘔吐感だが、抗癌剤の副作用にだって吐き気があるだろう」
消化器に悪性腫瘍が出来たらさぞ悲嘆に暮れるだろう目の前の相棒は、今日はピザでなくマシュマロを食べている。別に朝からミーティング・ブース中へ香ばしいチーズの匂いを撒き散らし、他の利用者の集中力を著しく阻害しないよう配慮している訳でもないだろうが。
白くて柔らかい、いかにも無害そうな菓子はココアへ入れるような小粒のものだった。シェルティの形良い口へも、数粒まとめて放り込むことができる。タンブラーの中の不味くて濃いブラックコーヒーの味を誤魔化すよう、ひっきりなしに食べているせいだ。袋の中身は残り半分を切っている。
彼女が菓子を完食するまでに、報告書を仕上げることは──己に無理な期待はすまい。分不相応な背伸びこそが、今回の任務で青年の命を奪った。精一杯頑張るという大義名分は、結局のところ実力が付いてこなければただの匹夫の勇でしかない。
そんな残酷なことを指摘するのは心底嫌だったが、これは一種の慈悲ですらあるのだ。適材を適所に用いることが出来なかったのはコマンダーの責任だった。どれだけこの仕事へ徹底的に向いていないように思えても、何とかと鋏は必ず使い道があるものなのだから。
ただでも捗らない書類仕事。今朝のオフィスはWi-Fiの調子が悪く、かと言って書類の提出期限が14時から順延されることはない。
非難轟々に身を縮こまらせるシステム・エンジニアを後目に、ミーティング・ルームへ移動し、これでタイピングの指運びも軽くなるかと思いきや。エクセルの共有設定に手間取ったり、コピー機のエラーへ対処していたら時間は矢のように飛び去る。結局、印刷した書類の最終チェックへ入った頃には、朝の9時を回っていた。こんな事なら、余裕ぶったりせずに、昨晩のうちに終わらせておけば良かったと、幾ら後悔したところで遅い。
「そんな朝早くから食べても大丈夫かい」
そうジョコンドが言葉をまろやかなものに変えたのは、本来口にするはずだった「そんなグロテスクなものを見ながら食べても」と言う台詞が、全く杞憂だと分かっていたからだ。ぱっくり割れた頭部の接写を始めとする、元同僚の骸の組写真を取り上げ、走るシェルティの目つきは、クリーニング店から戻ってきた洗濯物のタグを確認するようなもの。長く濃い、透けるような睫毛の下で、鮮やかな色の瞳は一切揺れることがない──そう言えば、後で組織所轄の店に、トレンチコートを取りに行かねば。去年出したきり預けっぱなしにしていたが、3日後に赴く土地は緯度が高かった。知らず知らずのうちに、秋の気配は隣へちょこなんと腰掛けている。
「あと少し弾道がずれていたら、あなたに当たっていたかも知れないわね。或いは、あたくしに」
袋の中で逃げる、子犬の足みたく小さなマシュマロを、そっと指先でつまみ、シェルティは言った。
「本来ならば、狙撃手は運転していたあなたか、情報を知っていたあたくしを撃ちたかったでしょうに」
「こればかりは神の思し召しだね」
「まあ、Mr.。あなたがそんな事を言うなんて」
数枚機械的に繰っていった中、今彼女が眺めていたのは、膿盆の上で薄い側頭骨と共に転がる、薄い血肉の膜へ覆われた弾丸の破片を写した一葉。空気の滞留した室内へ、笑みはふっと撫でるように滑り、薄い印画紙をはためかせそうな勢いだった。
確かに。これではまるで己が、人智に及ばない何かへ依拠して物事を判断しているかのように思える。故郷を逃げるように去って10年近く、信仰は捨てた。根幹へ残った何かを否定することは出来ないが、執着せずとも生きていける、少なくとも自らは、と知ることが出来たのは、広い世界を飛び回る生活の賜物だった。
「じゃあ運か……いや、タイミングかな。よく分からないけど」
近くのブースでミーティングをしている、恐らく死んだ同僚と同じ年頃の青年が、まるでこちらの台詞へいきり立ったかの如く、微かに声音を高める。
「リスクを取ることを恐れていたら、何も出来ないでしょう」相対している年嵩の男もまた、負けず劣らずこれ見よがしな溜息をつく。「君はここのところ、随分大胆になったな」
添付資料まで含めたら指一本分の厚さになりそうな報告書の最終チェック。誤字脱字は印刷したものを確認するに限る。この組織のアナログ具合には、機械に強くないと自負する己ですら驚くことがあった。
コーヒーの染みが浮いたタイルカーペットの上で、シェルティは時にパンプス履きの足を軽く捻りながら、写真の裏に振られた番号を改め、時に並べ直す。散らばる紙の束へ追いやられたタンブラーは小さなテーブルの際に──蓋付きだから大丈夫だろうが。念の為、天板の中央へ寄せながら、ジョコンドはコピー用紙をまた一枚捲った。
「彼、一応僕達の預かりだったろう。まだ遺書を開封してないんだけど、どうする? 報告書を提出する前に手を付けた方が良いかな」
「そう言えば、確認していなかったわね」
本当のことを言えば、もう少し真面目腐って対処すべき事案なのだろう。やり取りが間延びした空気を纏ってしまうのは、件の青年が任務の最中、事あるごとに口走っていたからだ。怯懦と期待でぱんぱんに膨らみ、今にも破裂しそうな胸中は、衝動性をも増幅させる。「この仕事に就いたことを後悔はしていません。死体の回収を望んではいけないと分かっているんです。でも、何か一つでも良いので、形見を家族に遺したいなって。両親は、連絡を取れなくなったことを悲しんでいるでしょうから」
彼の死を認めた時や、帰りの飛行機の中では、手配くらいしてやろうと思っていた。だが後始末やら次の任務の準備やらが重なって先送りにしていたら、気付けば青年の荷物はすっかり処分されてしまっている。そもそも、そんな事にかかずらう権限を与えられなかったと言う方が正しい。
「こんな写真を焼き増しして送ったら、家族はPTSDになるだろうし」
「他に何か残っているものはなかったかしら」
「住居も引き払ったし、身の回りの品も倉庫へ行ったら……無理だな。後は……」
ファイルをざっと調べて見たものの、衣類は血まみれ。腕時計や財布なども証拠品として保管される予定。
「カラーコンタクトは市販品だから大丈夫そうだ。あと、ああ、右奥歯のブリッジ」
弾丸は後頭部から右目を貫くようにして抜けた弾丸は、奇跡的に銀歯を無傷のままでいさせた。これなら歯科医のカルテを確認すれば、確実に本人の物だと確認できるだろう。
「いっそのこと、彼のものだと言って、何か違う品物を送ったらどうかしら」
折り曲げないよう、写真を丁寧に封筒へ戻しながら、シェルティは小首を傾げた。任務中ずっと被っていた黒髪のウィッグは外され、LED電灯の下でも煤けたような色にならない、稀有な色の短い金髪が、チカっと光を反射する。
「彼はラベンダー色が好きだったでしょう。ネクタイや小物、私服にもよく取り入れていたわね」
「ゲイだったのかな」なんて余計な嘴を挟むことはせず、ジョコンドも「そうだった」と頷いた。それから少し考え込み……「でも、それは良くないんじゃないかな」と答える。
「ただでも悲しみに暮れる遺族へ嘘をつくのはね」
分かっている。嘘も方便とはよく言った物で、時に残酷な真実よりも遥かに残された者を慰める。同時に、細々した虚構を積み上げるくらいなら、全てを大風呂敷で包み込んでしまった方が良いこともまた、珍しくはない。
「何も伝えなければ、家族は希望を持ち続けるよ。今も彼が、どこかで元気にやってるってね。例え内心では気付いていたとしても、可能性を信じることが大事だから」
しばらくの間、シェルティはじっと、真正面のバディを見つめていた。まるで賢い犬が、飼い主のコマンドを待っているかのように──確かに牧羊犬としてのコードネームを与えられているが、目の前の女性は同時に、間違いなく人間であるのだ。一方的に愛して満足し、その対価として相手が返してくれたものを、当たり前の如く受け取って無碍にするのを許される存在ではない。
ジョコンドが注意深さすら張り巡らし、覗き込もうとしたところで、今日も変幻自在のスパイは、さっと身を翻す。こんな軽やかな女性が、この前どうしてもヴェスパを操縦することが出来ず、結局仮初の職場へ満員バスで通勤することになったのだと、誰が信じるだろう。
「こう言うことに関しては、あなたの方が詳しいから、お任せするわ」
「別に詳しい訳じゃないけど」
書類は思ったよりも早く完成した。末尾まで目で追い、明らかな文法上の誤りなどがないと確認してから、ジョコンドは懐の万年筆で、最終ページの署名欄に、ペン先を走らせる。
「こんな周囲の気を煩わせるのは勘弁だな。僕も遺言状を書き直そうかと思ってるんだ」
「寝室のラファエロを故郷のご家族に贈るんでしょう」
「そう思ってたんだけどね。公式には存在しない貴重なルネッサンス期の画家の絵を寄越されても、向こうだって迷惑するかも知れない」
任務開始前と違い、終了後の書類は基本的に一箇所自筆で書き込むだけで良いから楽だ。まるで最後に定型句として必ず「愛を込めて」と書き込む恋文。或いは書類一枚でその後の人生を呆気なく決める婚姻届。
「あの絵、何かあった時には、君が処分してくれないかな。捨ててくれてもいい、任せるよ。君なら信頼できる」
「あたくしは別に構わないわ。でも、あなたが先に死ぬとは限らないんじゃなくて?」
「馬鹿言いなさい。確率的に見ても統計学的に見ても、今年25歳の女性は、42歳の男性よりも長生きする可能性が高いに決まってる」
例えここが確率の隙を突き、統計学上の例外へ落ち込む場所だとしても。まるで予め書き込まれたカレンダーのように、ジョコンドは確信を持って答えた。
シェルティがプレイヤーとして、コマンダーであるジョコンドの文字の下にサインしている脇を、先ほど激昂していた青年が足音も高く通り過ぎていく。彼は次の任務で生き延びるだろうか。ああ言う血気盛んなタイプは案外、しぶといものだ。
「両親や弟達には幾らか貯金から送金しておけばいいし。別に彼らも金銭には困っていないだろうけど、あって損はないからね」
「あたくし、思うの」
とんとんと書類の端を揃えてまとめるとき、シェルティの唇が微笑みを象っていたのは一体何故だろう。
「あなたはきっと、一族の誰よりも長生きするって」
何故だって構わない。謎は人を魅了的に見せる。そう、間違いなく己の相棒は刺激的で、世界を、人生を共に旅するに最適の存在だ。なんで言えばちょっと大袈裟過ぎる気がして、思わずジョコンドは苦い笑みを口元に刻んだ。
「その時は、せいぜい老後を豪遊して過ごすさ」
10時前。ひと段落付いたし、少しコーヒーブレイクを愉しんでも許されるだろう。次の仕事の段取りは概ね完了しているから、最終調整は午後から取り掛かっても十分間に合うはずだ。
「そう言えば今度、食堂のメニューにピザが増えるらしいね……もう増えたのかな」
「まあ、素敵!」
ジョコンドもしっかりとは目を通していない。だが掲示板へ告知されていた数種類のうち一つは、地域の有機野菜をふんだんに使ったヘルシーメニューだった気がする。
すっかり浮ついているバディを見れば、口にするのは酷だ。それに確か、ピザの種類は一つでは無かった。彼女の好きなチーズや、ミート系の品もあったように思える。
まるで広々とした草原へ出かける牧羊犬さながら、こちらの手を引いて行きかねないバディを眺めながら、今度こそジョコンドも屈託ない微笑みを目元に乗せた。
シェルティさん【@usgnranda 】と
かなりの人間が理解していない事実に、蠍を手に乗せたら刺されると言うものがある。蠍は刺す生き物だ。それなのに人々は、いざ傷つけられてから、毒を注入された、一体何故なんだと言って怒り出す。
何故だと問われても、因果関係というものについて少しでも考えてみるべきだとしか答えようがない。マリファナの煙が充満するボールルームをするすると泳ぎ回りながら、ジョコンドは先程から纏わりつく男に向かって、しっしと手を振って見せた。もう何度目の追い立てにも、奴は全く怯まない。同業者──と言うのは、表向きの業務の意味だが。そのスペイン人は19世紀の彫刻について一端の目利きだけれど、とにかく女癖が悪い。ついでに酒癖も。薄められていないジムビームですっかり良い気分になり、今夜自分の連れてきたアジアン・ビューティーが、どれほど己のペニスを偏愛していて、その膣の締まりが素晴らしいか、まるで壊れた機械の如く繰り返し続けている。
「悪酔いし過ぎだな。ミャンマー産と韓国産は相性が良くないんだろう」
「お前話聞いてたのか? 彼女は香港出身だ」
と一息に言ってのける合間に、鼻の穴へこびりついていた白い粉が憤懣やるかたないと言わんばかりに吹き飛ばされる。もう一度掌を振ったのはラリってしまわない為もあった。反対の手でバランスを保つ、中身を半分残したカクテルグラスに、さっきまで吸っていたシガリロを突っ込んだのは恐らく己自身なのだが、記憶にないのが恐ろしい。この3時間、アルコール以外の依存物質には一切手を付けていないが、自らだって何だかんだ酔い痴れているのかも知れなかった。
ギリシャが誇る海運業者は、お嬢様の生誕35周年パーティーを、とにかく賑やかで盛大なものにしたいと願っている。テーマは狂騒の1920年代。この時代に酒と薬物は欠かせない。コーク・エニデイだのエバレディ・ハートンだのになりきった招待客のビューティフル・ピープルも、いっそ会場における装飾の一端を担っているのかも知れなかった。
中国的なモチーフで統一された調度品の中、特に値の張るだろう黒檀のテーブルに、女の子達は容赦なく這い上がる。天板に傷を刻むヒールの音すら、きゃあきゃあと姦しい騒ぎ立ての前では無力だった。TPOに合わせ、ポマードでべったりと髪を撫で付けてた黒人のDJが選ぶのはホット・ジャズ。グレン・ミラー風のスウィングに合わせ、古風なバックシーム・ストッキングに包まれる脚は、だらしなく、てんでばらばらに振り上げられ続ける。
蘇ったフラッパー達を見遣る男の目付きは全く羨ましげで浅ましい。香港美女などその脳内からとっくに追い出されたらしかった。
「ったく、一世紀前にこの一族は共和制支持者か? それとも王政復古派だったのかな。何にせよ、当主は雌犬達がテーブルへ上るのを許さなかっただろうが」
「そうかな。ダイニング・テーブルは"ごちそう"を乗せる為のものだろう」
養老の滝よりも惜しみなく、じゃぶじゃぶ供されるクリスタルに、すっかりへべれけなのだろう。端っこの方で危なっかしげに踊っていた女の子の1人が、体勢を崩した。短い金髪の中で本人よりも跳ね回っていたヘッドチェーンが、シャンデリアの光できらりと輝く。
ふわりと柔らかな羽と、無防備な重みを両腕で受け止めた代償。背後へ投げ捨てたグラスから撒き散らされたシャンパンが、ジャケットの肩口に引っかかる。
抱き留められたお転婆娘は、濡れたシルクへ頬を擦り寄せ「甘いわね」と囁いた。胸元を飾る、蠍座をモチーフにしたラインストーンのブローチが、回らぬ呂律を紡ぐ為に吐き出される息へ従って、威嚇するように震えている。
「ねえ、紳士さん。このまま私をここへ捨て置く真似なんかしないわよね? 足を挫いちゃったみたいなの」
「それにしては馬鹿みたいに呑気な顔してるね」
「これは生まれつき。何にせよ、ああ、すっかり酔っちゃった。ゲストルームに連れてって下さらない?」
言葉と裏腹、ぶらぶら揺すられる脚はぴんと伸び、パーラーの向こうにある螺旋階段を爪先で指し示した。
「今ならまだ、一室位は空いてるんじゃないかしら」
物欲しそうな視線を隠しもしない連れには横目と軽く竦めた肩が挨拶代わり。人魚のようにぴちぴちと跳ねる身体を抱え直し、ジョコンドはすたすたと階段の方角へ身を翻した。
「女の子はいいなあ。コークの良いとこどりをするんだから」
ぼやきはするものの、別に今回の任務に勃起することは入っていない。海のように青い絨毯は足音を消し、閉ざされた部屋の扉から漏れ聞こえる秘め事を漣の如く廊下へ滲み出させる。
指差されるまま滑り込んだ部屋は誂えたように無人。明かりをつける必要はない。ドアを足で蹴り閉めたジョコンドに、ホールケーキのように丸く、クリーム色をした絹のシーツの上へ放り出されたところで、シェルティは慌ても騒ぎもしなかった。両脇に手を突き、覆い被さる男の肩越しに天井を見上げ、それから磨き立てられた鏡台へ視線を走らせる。
金持ちの趣味の悪さは全く恐れ入るという他ない、こんなところまで狂騒的にならずとも良いのに。よくある覗き見部屋を選んだのは、目撃者を作ることで偽りの身の潔白を証明する為だろう。今頃真上の「クロールスペース」では、哀れな変態達が鼻息を荒くし、美女のあられも無い姿を待ち構えている。
シェルティはいつでも、自分の肌を衆目へ晒す事に全く躊躇を覚えない。事実今だって、立てた片膝をジョコンドの腰へ擦り寄せるものだから、ドレスの裾を飾り立てるフリンジが、さらさらと滑らかな腿を滑り落ちていく。
「だめよ、あなた。そんなしらけた顔」
一方、男の広い背中の影で、淡いアプリコット色に塗られた爪は自らの胸元を弄っている。勿論それは男を誘う媚態ではなかった。取り外された小さなブローチで唇をなぞるのがまた、挑発の意図を含まないように。
「せっかくのパーティーなのに、1人でしらけて何を考えていたの?」
「考える暇すら無かったよ。レオがずっとついて回って、香港のガールフレンドについて話してるものだから」
「ああ! あのお友達ね」
真上の首に片手を絡め、あはは、と顎を仰け反らせるのは、薬物が作る酩酊を再現しているからだろう。彼女はとことん素面で、この部屋に来てから全く飾り気ない様子で言葉を紡いでいる──ように見せかける。事実と虚構の狭間を爪先立って歩くのは、チャールストンのステップよりも遥かに難しい。
「彼、鼻が曲がってるから、"パウダー"を吸うのも大変そう」
炎のような哄笑に湿らされたブローチが、すっと真紅の割れ目の狭間に飲み込まれる。程良く汚れた浅瀬を思わせる薄暗がりの中、透き通る濃い睫毛の下、女の瞳が蒼い火花を散らした。
「それに、キスをする時も、さぞ息継ぎが下手くそなんでしょうね」
硬い襟越しにうなじを擽り、這い蠢く指先に引き寄せられるのを待つことはしなかった。
重ねた唇は官能を溶け合わせる為ではなく、あくまでも情報のやり取りに過ぎなかった。ブローチに仕込まれたマイクロチップには、シェルティがここ3ヶ月程で集めた様々な情報が集約されている。こうして向き合い、話をする事もなかった3ヶ月。このお目当てさえ手に入れれば残りはフェードアウトの為のクールダウン期間、後産のようなものだから、気楽に構えていれば良いとは分かっている。
でもその半月、2週間、14日が、案外長いと感じる。これまでの777万6千秒よりも、ずっと。だからわざと、この直接会ってのやり取りを提案したのかも知れない。酔狂と頭の片隅では、冷静に意見を弾き出していたにも関わらず。
この会場で落ち合うというジョコンドの指示に、シェルティは異議を唱えなかった。プレイヤーはコマンダーの指示に従うべしとの鉄則を差し引いても尚、従順な態度で。賢い彼女なら、もっと効率良い手段を提案できただろうに。
思った通りシェルティは、アルコールもまともに嗜んでいなかったらしい。寧ろらしくもなくミントでも噛んだのだろうか。一度はしたなさを嗜めるように軽く歯を立てられた後、迎え入れられてくれた口の中は、少なくともジョコンドのものよりは熱を持っておらず、ただ清涼さが舌の粘膜を刺し貫く。片目を開けて、間近で眺める薄く閉じられた瞼は、きっとアイシャドウの下で一層青白いのだろう。
別に構わない。余り本番行為もせずだらだらとしていたところで、オーディエンスも怪しむに違いない。とっとと引き上げようと舌下を探り、それでも見つからなければ口蓋を進んで顎骨の窪みへ。人間は防衛本能からか、真の性感帯をそう簡単には触れられない奥まった場所へ隠してある。シェルティが枕へ頭を埋め、柔らかく鼻を鳴らしたのは、いつの間にやら真剣に秘密を探る男を面白がっているだけでもないはずだ。もっとも、するっと絡んでは軽く叩くかの如く離れていく薄い舌は、性悪な浮かれ女の仕草に他ならなかったが。
なかなかブローチを引き渡してくれない相棒に呆れ、更に接吻を深める。しばらくの間、シャンパンとミント、2つの辛さが混ざり合い、やがてそれも消えるまで舌遊びを繰り広げていた。が、彼女の眦にうっすらと血の気が掃かれるに及んで、結局ジョコンドも認めざるを得なかった。
「君、もしかして」
すっかりルージュの取れた唇へ、至近距離から放った問いかけは、そっと押さえる一本の人差し指で続きを阻止される。細い指先越しに吐かれたシェルティの囁きは、火のような熱さを孕んでいた。
「ごめんなさい。わざとじゃないの」
蠍座は確かに、つまんで胃の中へ落とし込みやすそうな形をしている。
「でも、ブローチに針が……」
「安全ピンだから大丈夫よ」
「しかしね……」
「今夜……明日かしら。帰ったらちゃんと吐き出すわ。あと2週間、届ける方法なら幾らでもあるでしょう。何なら、接触する手段だって」
そう言われてしまえば、他に何が言えるだろう。ジョコンドが身を離しても、ストッキングに包まれた爪先は、疼くような腰を甘ったるく突いた。まじまじ眺められていることを承知で、シェルティは己の腹、いつ刺されるか分からない臍の上を、掌で軽く撫で摩る。闇の中でも紅潮していると分かるかんばせは、修正できないアクシデントへ遭遇したにも関わらず、やたらとご機嫌な笑みを湛えていた。
狂騒の20年代。百年経って再び地上へ現れたバビロンで、記録に残す価値もない些細な事件。溜息一つで区切りを付けると、ジョコンドはシーツの上へ力無く投げ出された、華奢な指先を取り上げた。手の甲を滑らせる声は徹底的に潜めていたから、どれだけ好奇心旺盛な観客の耳にも届かず、唇だって読めなかったに違いない。
「じゃあ、ポイント38に。場合によっては"チェックアウト"を早めるかも」
「分かった」
そう頷きながら上半身を起こし、腕を相手から取り上げた途端、鋭い衝撃が頬を襲う。
「ヘルペス位ちゃんと治してきてよ! やっとコロナも下火になったのに、またマスク生活なんてごめんだわ!」
細腕から繰り出される平手打ちに怯むほど腑抜けていたつもりはない。足音も高く立ち去る後ろ姿に付随するフリンジが、膝の上でちゃらちゃらと踊っている様子を、ドアが叩き閉められるまで見送ったのは、考えを整理する猶予が欲しかったからだ。
両端から燃える蝋燭、一晩と保ちはしない茶番。しかしそれは何と美しいものだろう。出来るならばその記憶を保ったまま、誰もが機嫌良く物語を終えてしまいたいと願っていた。
けれど狂騒の後にやってくるのは、恐慌と相場が決まっている。今回こそは前世紀と同じ轍は踏むまい。
重い腰を上げ、姿見で乱れた服装をチェックする。何度覗き込んでも、傍らのナイトランプのスイッチを入れてまで確認したところで、唇に瘡蓋の花束は見当たらなかった。
カポジ肉腫と叫ばなかっただけ、まだ相棒も手心を加えてくれたのかも知れない。歪んだ蝶ネクタイを直しながら、ジョコンドはふっと無傷の口角を捻じ曲げ、微笑みかけた。マジックミラーの向こうにて、性的興奮とは別の理由でどぎまぎしている観客のノミの心臓は、とうとう限界を迎えたのだろう。壁の中で、ガタンと小さな物音が響いたのを、遠い喧騒の中からも確かに鼓膜が拾い上げた。
シェルティさん【@usgnranda 】と
しばらく北米での任務に就いていたので、ハロウィンの準備へ奔走する人々の姿が嫌でも目についた。大人も子供も、地獄の窯の蓋が開くのを待ち侘びているようだった、本部のある国よりも余程。発祥地をさしおいて、植民地でやたらと盛り上がるイベントは、お得意の逆張り根性を発揮して黙殺されているのだろうか。
ビジネスクラスのシートへゆったり沈み込んだまま、シェルティは少しの間考え込み、それからふっと伏せていた目を持ち上げる。
「11月5日のお祭りに気を取られるから、どうしてもなおざりになってしまうんじゃないかしら」
なるほど、と頷いたジョコンドがもう十年近く島国で暮らしているのと違い、リュドミラはまだ英語から訛りも取れていない。飽きることなく眺めていた、窓の外の雲から外された視線は、傍の“母親”へと向けられる。
「5日には、なにがあるの?」
「町中でお祭りをして、紙で作ったお人形を燃やすの。花火もたくさん上がるわ」
「昔、悪い男が国会議事堂を爆破しようとしたから、その人が捕まったお祝いをするんだよ」
「ふうん」
恐らく“父親“の補足が、6歳児に余計な混乱を招いたのだろう。いまいち要領を得ない顔で、リュドミラは折りたたみテーブルに乗せられていたオレンジジュースを啜った。機内の空気が乾いていると言え、彼女はさっきからひっきりなしに甘い飲み物を口へ運んでいる。あと6時間後に養護施設へ戻されれば、またしばらくはありつけなくなると分かっているのだろう。
「花火って、外でやるんでしょう。しせつから見えるかしら」
「見えたらいいわね」
「うん。でもきょねんは、見えなかったきがする。ならわたし、ハロウィンのほうをたのしみにするわね」
頷きながらの上目遣いは、母親の頭へと向けられる。今回の任務で、シェルティは長く伸ばした髪を栗色に染めていた。
「きょねん、とってもたのしかった。みんな、よるになったら、いろいろなかっこうをして、先生たちのおうちに行くの。ドアの前でトリック・オア・トリートって言ったら、先生たちが出てきて、バケツにおかしを入れてくれるのよ」
「まあ、素敵ね。あなたは何の格好をしたの、可愛い小鳥ちゃん」
「まほうつかい。ほんとうは、シンデレラがよかったんだけど、ヘイリーが、わたしがやるからあんたはだめ! って。あんなイボイノシシみたいなかおしてるのに……そうよ、かのじょ、プンバァのかっこうすればよかったんだわ。わたし、あの子のこと、大きらい!」
思わず肩を揺らしているジョコンドを嗜める視線同様、言い募るにつれ前のめりになるリュドミラの目を覗き込むシェルティの表情は、大層甘ったるい。肘掛けを血の気が失せるほど強く握りしめる、小さな手をそっと叩きながら、優しく言って聞かせる様子を見て、この二人に血が繋がっていないと誰が考えるだろう。
「あなたの仮装、ママも見たかったわ、さぞ可愛らしい魔法使いだったんでしょうね……今年は何の格好をするのかしら?」
「うん……今年こそは、プリンセスになるわ」
母親のスーツの肩へと額を押し付け、甘えかかりながら、リュドミラはしばらくの間逡巡を続けていた。続きの言葉を発する時、先ほど潤したばかりにも関わらず、彼女の声は幾分萎れて、恐る恐ると言ったものだ。
「あのね、マーマ……この前、マーマがすてきなカチューシャをもってたでしょ? 赤い、水玉のリボンのよ。あれをつけたら、わたし、きっと、しらゆきひめになれるとおもうの……」
幸い、シェルティはあのカチューシャを処分していなかった。キャリーケースから取り出された装飾品を与えられて、少しは気も和らいだのろう。職員に背中を押され、とぼとぼと施設の門を潜る華奢な後ろ姿は、嗚咽で震えていなかった。
「残念ね、プリンセスになったあの子の姿を見ることが出来ないのは」
助手席のシェルティは、背後を振り返るどころか、バックミラーで様子を窺う真似すらしない。秋風に揺れる、すっかり赤色に染まった街路の楓は、彼女にとってそんなにも興味深い物なのだろうか。
「さぞかし素敵な白雪姫になったことでしょうに」
「そうだね」
長期任務が完了し、少しは羽を伸ばしたいところだが、仕事は溜まっていくばかり。ハンドルを操りながら、ジョコンドは今後の予定を組み立てていた──もちろん、真っ先にこなさなければならないのは、これから戻る本部にて一次報告書を仕上げることだったが、大局を見据えるのが本来コマンダーの仕事だ。頭の中で繰っていくスケジュール帳を眺め渡せば、溜め息しか出てこない。
「ハロウィンの日は街にいるだろうけど、駄目だな。予定が入ってる」
「本部のパーティーにも出席できないでしょうね」
「どうだろう、早く片付けば、ピザの一切れくらいは余ってるかもしれないよ」
「そうだと嬉しいわ。なら、仮装の準備をしておきましょうか」
ピザという単語に、秋の感傷は破られる。微かと言え弾んだシェルティの声調は、さながら初心な娘を思わせた。
「確か、仮装パーティーだったでしょう」
「ああ、そうだった……どうしようかな」
「あたくし、去年のピザの仮装、まだ持ってるのよ」
「あれは止した方が……何回も転んで、足に瘤を作ってただろう」
そう諌めてしまった以上、こちらも新たなアイデアを出す義務が発生する。セント・マーティン通りへ差し掛かり、四車線道路へすっと車を割り込ませながら、その実ジョコンドは案外真剣に考えていた。こういうところが、自分は馬鹿だなと、毎度つくづく呆れてしまうのだが。
「リュドミラに聞いておけばよかったわね。あの子だったら、いいアイデアを出してくれたかも」
まるで屈託なく口にしたシェルティに、別に何か思うところがあったわけではない。けれどジョコンドはその瞬間、白雪姫の両親がすべき仮装について考えてしまい、思わず眉間に皺を寄せてしまった。
愛らしく利発な少女も、こんな組織のお膝元で育っているのだ。いつ欲望の贄として差し出されるか分かった物ではない。その時期が本人も物事を理解し、ある程度の意思決定ができる年齢を過ぎた先であることを、仮初の保護者であるジョコンドはただ願うしかできなかった。せめて、恋だの愛だのを幾らか知ってからならば──
「僕は白雪姫がそれほど好きじゃないな。女の子が憧れる気持ちは分かるけど、いつか王子様が迎えに来るのを大人しく待ってるなんて、リュドミラには相応しくない。ましてや、あんな年若いうちから、7人もの小人の母親になるなんてね」
「まあ、Mr.……」
信号待ちの時に気付いたのだが、車窓の光景を見遣っていたシェルティは、全く愉快そうに口元へ微笑みを浮かべていた。
「あなた、すっかりパパの顔をしているわ。お願いだから、リュドミラがボーイフレンドを連れてきた時に、ショットガンを持ち出すような真似はしないで頂戴ね」
盛んでないとは言っても、気付けば街にはジャック・オー・ランタンが溢れ返り、スーパーマーケットでは魔女や幽霊をモチーフにした商品がずらりと並ぶ。野菜嫌いの相棒は見向きもしなかったが、ジョコンドは朝のうちに、安売りされていたカボチャを買い込んで、スープを作っておいた。胡椒は普段よりも控えめ。パーティーの後の二日酔いには優しさを。
業火と責苦の底から蘇ったのならば、その姿は世にも醜悪な形へ変化していると相場が決まっている。けれど人は、いとも容易く、死者を美化してしまう。
「それで、もっと聞かせてちょうだい。あなたのお父さんは、これまで何をしてきて、どう生きたの?」
おどろおどろしい夜にふさわしくない、シェルティの明朗な声が、イヤホン越しに響く。
それは良くないんじゃないかな。路地裏の壁に寄りかかりながら、ジョコンドは仮面の中で微かに眉根を寄せた。ノイズキャンセリング機能はパブのざわめきを綺麗に濾し取るから、彼女と同じテーブルへついているのだろう青年の声をくっきり拾い上げる。まだ夜も早い時間だが、彼は既に何杯もきこしめて、呂律は幾分回っていない。「くわしいことは、知らないんです。ただ、北アイルランドで、勲章をもらったと」
そのままブラーブラーブラー、お喋りは取り止めもなく続く。数年前に行方不明となった、つまり南の島で干し首にされた彼の父親は、決して満点パパさんではなかったと報告書にはあった。それでも必死になって探し回るうち、記憶は散々に飾り立てられたのだろう。シェルティは吐き出される何もかもへ素直に相槌を打ちながら、店員を呼び止める。「こちらの方に、もう一杯ビターを頂けるかしら」
確かに酔わせて油断を誘う計画だったが、彼は腰を抜かすことなく、ここへ辿り着くことが出来るだろうか。相棒に限って抜かりはないはずだが。
日が落ちれば随分肌寒いと言え、少し厚着をし過ぎた。黒い詰襟のシャツへ指を差し込み、夜の冷気を迎え入れる。
自分でこれだ。代謝のいい子供達は、ポリエステルの既製品や、母親の手縫いで膨らんで見えるような装束を身につけ、さぞ汗だくなことだろう。
表通りでは不自由などものともせず、軽やかな足音と甲高い歓声、それにぴったりついて回る保護者の諌め立てが、闇の中を響いている。トリック・オア・トリート。菓子によって慰撫される幽霊達。そう言えば、数週間前に施設へ返却したあの子も、よく甘いものを欲しがった。「食べ方は綺麗で、自分よりも小さい子にはドーナツを分け与えたりします」連れ出す前に読んだ報告書では、特にそう言った執着がないものだと思っていたが。仕事で貸与される時しか情報を得ないので、詳しい事情は分からない。埋めては必要に応じて掘り返される。ブードゥー教のリビング・デッドのように。記憶までつぎはぎ──嫌な想像だ。
「そろそろ出ましょう。彼も待ちくたびれているかでしょうから」
泣き言は重ねられるごとに深められる。鼻を啜る音の合間を見計らい、青年へシェルティが放った促しに合わせて、ジョコンドも壁から身を離した。ゴミ缶で遊んでいた黒猫が、突如張り詰めた気配に慌てて逃げ去っていく。
あらかじめ確かめてあった通り、シェルティはその青年を連れ、きっかり10分後に姿を現した。彼女もジョコンド同じ、この季節らしい装いへ身を包んでいる。膝丈のレザーブーツ。ズボンとシャツの上に踝まであるマント、全て黒で統一されている。白い仮面だけが、薄汚れた裏通りにくっきりと浮かび上がっていた。
「この方よ……さる機関にお勤めで、あなたのお父さんについての情報をお持ちなの」
その時、ジョコンドは初めて青年の顔を直視したのだが、全く屈託がない。まだ髭も生えたばかりの、何一つとして隠す必要がない顔を。
彼が余りにも無邪気に握手を求めてきたものだから、取り出したグロックで額に一発、胸に一発撃ち込むのもまた、流れ作業のように行った。サプレッサーの音は幸い、外の喧騒に紛れる。
がくっと肩を落とした青年の腕を抱え、壁へ寄りかからせるように座らせるシェルティの動きもまた、澱みはない。首筋の脈を確認すると、仮面の下から、静かな囁きが漏れ出す。
「大丈夫、行きましょう」
この格好なら今日だけに止まらず、この先一週間は身をやつしていられる。傍らをすれ違い走り去っていく子供達も、2人のアノニマスへ特に違和感を覚えることはない。火照った頬を輝かせ、お菓子の入った籠を掲げては、悪魔も裸足で逃げ出すほど無邪気な声を張り上げる。
「パパ、ママ、こんなにもらったよ!」
「今からなら、間に合うかも知れないな」
そう呟いた時、ジョコンドが思い浮かべていたのは、今頃プリンセスになりきっているのだろう幼い少女のこと。彼女は強い子だから、今回はきっと、意地悪にも負けず、自らの権利を勝ち取っているだろう。
ふっと夜風が、仮面に包まれたままの頬を撫でる。微かに甘い硝煙の香りは、間違いなく己から漂ってきたものだった。
「まだピザだって、全部の種類が残ってるだろう」
そう付け足した時は正面を向いていたし、傍らのシェルティの顔もまた無機物へ覆われていた。表情など分かるはずもない。けれどジョコンドは、確信を持って答えることができた。彼女は相棒から投げかけられた言葉を、ほんの束の間と言え、しっかり反芻してから、己の言葉を組み立てたと。
「そうだと良いわ」
どれだけ取り繕い、再定義された新たな文脈から意味を割り当てられても、駄目なものは駄目。結局のところガイ・フォークスは悪人でしかない。例え彼の、何よりも、それ以外の正義が形骸化しても、その名前は悪の代名詞だ。
己もなんと言うか、腑抜けている。背筋をぶるりと走った寒気に、ジョコンドは漆黒のマントを羽織り直し、しっかりと身へ巻きつけた。