@Mementomori_em
何度目かの春が、来ようとしている。
「暖かくなってきましたね」
ベッドの上で笑う彼女は、顔色こそは良いものの、退院することが出来ない。行く宛が無いのである。
「もうじき桜の季節ですから」
林檎の皮を剥きながら答える。剥いた林檎を皿に盛り付け、彼女に渡した。ありがとう、と無邪気に笑い皿を受け取ると、彼女は林檎をひとつ摘んで齧った。瑞々しい果実の音がする。
「ねえ先生、わたしずっとここに居ていいのですか?」
「良いんですよ。君の為に用意した部屋ですから」
「わたし、迷惑じゃないかしら」
「いいえ、全く」
先生、という呼び方は慣れていた。……慣れていた、筈だった。
かつてのふたりは互いを知っていた。周囲には公表していなかったが、恋い慕う関係だった。数年前のある件がきっかけで、彼女はずっと眠り続けることになった。彼女が目覚めたのは数ヶ月前。それは奇跡に近かった。このまま続くようであれば覚悟しなければなるまいと思うこともあったが、眠り続ける傍ら献身的に面倒を見てきて、本当に良かったと彼は安堵した。
だが代償はあった。目覚めた彼女は、全く記憶のない状態だった。どこの家の誰だったのか、自分は何者なのかすら覚えていない。どのみち精神異常者として勘当されてしまった彼女には帰る場所は無いのだが、何もかもを忘れていることが、あまりにも辛かった。
「……外、出かけましょうか。いい天気ですから」
「はい!」
花が綻ぶような笑みを零して、彼女は車椅子に乗る準備を始めた。長く寝ていた為に、まだ歩行することすらも難しい。
「何か羽織っていったほうがいいかしら」
「そうですね、一枚あったほうが良いでしょう」
カーディガンを着た彼女を抱きかかえ、階下へ降りた。待合室には人が居ない。受付に居た部下に声をかけ、外へ出た。
「ねえ先生、今日は近くの河原を見たいです」
「河原ですか」
「まだかもしれないけど、菜の花が咲いてるかなって」
「わかりました、行きましょうか」
他愛のない会話すらも、どこか他人行儀に感じた。記憶はなくとも一度は好いた相手なのに、どうして言いようもない虚無に襲われるのか、分からない。
「ここの並木道は春になると、桜のトンネルが出来て綺麗なんですよ」
「すごく良い場所を知っているんですね!」
「……はい」
それもそのはず。二人が会った場所なのだから、忘れる理由がない。否、忘れてはならないのだ。
「この並木道の外側は河原になっているんです」
行く先を河原に向ける。背の高い草が風に揺られていた。
「そろそろ咲きそうですね、先生」
「もう少し暖かくなれば、きっとここも綺麗な景色になりますよ」
この街のどこもかしこも、彼女との思い出ばかりだ。どうして忘れられようか。回顧する度、不意に泣きたくなってくる。
「……先生?」
「はい。別の所に行きますか?」
「いつもの道でいいですよ」
街は新たな季節に少し浮かれている様子だった。はしゃいで駆け回る子供たち。献立を考えながら食材を買う婦人。ゆったりと、しかし楽しげに談笑し散策する老夫婦。なんてことはない、穏やかな日常風景だ。
「ここの街は楽しいですね。わくわくします」
以前なら。……以前の彼女であれば、気持ちが昂ると短冊やら手帳やらを出して歌を書いていた。何もかも喪ってしまった今はもう、そんな光景を見ることもなくなった。だから自分も捨てた。この人が居ないあの世界で、独りで歌う意味がないからだ。
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この日もいつものように外に出て、戻ってきた。伸びてきた髪が気になるのか、彼女は毛先を弄んでいた。
「ねえ、先生。お願いがあるんです」
「なんでしょう」
「髪、切ってくれませんか」
断髪する行為自体を否定するわけではなかったが、髪を切ってしまうと他の何かも切り去ってしまいそうで嫌だった。しかし他ならぬ彼女のお願いでもあるから、断るわけにもいかなかった。
「……良いでしょう、どの辺りまで切りますか」
「そうですね……この辺り、まででしょうか」
指し示す長さは、顎より少し下までのところ。背中まで伸ばした髪が、ここまで短くなるとどう変わってしまうのだろう。かつて彼女が好んでしていた髪型すらも出来なくなってしまうだろう。
「かなり短くなりますが」
「いいんです。決心ついてますから」
「短くても可愛いですよ。保証します」
「切る前からそんなこと言うなんて。案外面白いですね、先生」
段々、彼女が別の誰かに変わってしまうことが、少し怖かった。今はこうしてここに留まってはいるが、いつかどこかへ行ってしまうのではないかと思うこともある。切り進めていくうちに、髪が短くなった。あまり見ることのなかった項が顔を出した。
「……このくらいかな」
「男の子っぽくしていただけますか? ちょっと憧れてるんです、私」
「ええ、わかりました」
散髪を終え、彼女は浮かれた心持ちで鏡を見ている。
「綺麗に切ってもらえて嬉しいです、私」
「気に入って貰えたようでなによりです。」
もうあの髪形を見ることは当分、もしかすると一生無いのだろう。床に散らばる髪をぼんやり見ていた。切った髪で何か出来そうだと思いながら処分する。心のどこかに穴が空いたような、もう戻れないような、虚しさと寂しさ。昨日まで咲き誇っていた桜が、もう散って葉になってしまったのを見たような、そんな気分。花々が開く頃、彼女はどこまで変わってしまうのだろうか。忘却されていく記憶に、自分はどこまで、いつまで耐え切れるのだろうか。