@Mementomori_em
今までも、これからも変わらず生きていくのだろう。
友の声に男は玄関まで迎えに行った。
「おかえり、馨くん」
「わざわざ出迎えてこなくてもいいのに」
「でもあったら嬉しいでしょ?」
にっこりと笑って、氷室は友人でありこの家の主、周の荷物を持ってやった。
あれから周は軍医として街の小さな診療所から引き抜かれ、副院長である氷室が経営を代わっている。そのこともあって、周は道場を数年前に閉めてしまった。
「診療所はどう?」
「ばっちり。この間入った子がすごくてさ。俺びっくりしちゃった」
「間宮さんかな、彼女は咄嗟の判断力に長けてるし、細かいところまで気を利かせてくれるから清志郎も彼女を見習うように」
「ほんとそういうとこ変わんないよな、馨くんは」
「これでも頼りにしてますけどね」
「唐突に褒めてくるの心臓に悪い」
「何年来の付き合いだと思ってるんですか。慣れてくださいよ」
ふふ、と笑いを零す周の表情には数年前までには無かった疲労のような、哀しさのようなものが滲み出ていた。氷室は内心、彼もまた、変わってしまった一人なのだと痛感する。
「こんなもんですかね」
数年前。紆余曲折あって、氷室は周と同居することになった。そうなった大きな理由は、氷室の家が燃えたとか、建て替えるよりも広いこっちに住んで欲しいとか、そういう話である。
氷室の部屋を与えるにあたって周は空き部屋を整理していた。
「馨くん的に俺、隣でいいの?」
「別に気にしませんよ。友人だし、同性だし」
清志郎はだらしないから監視しやすいでしょう、なんて冗談を言って周は微笑んだ。
「……藍ちゃんは」
「彼女は巣立ちました。あの子はひとりでも上手くやっていけます、成長した鳥をいつまでも閉じ込めるのは可哀想な話でしょう?」
「……そっか」
想い人を亡くした時はどう接すれば良いのか戸惑ったものだが、いつも通りの周だったので氷室は拍子抜けした。今回も、似たようなものかと黙っておくことにした。
「別に変に気遣わなくていいですよ。私は大丈夫ですから」
いつもそうだ、人に心配させまいと平気なふりをする。この友人は意外と頑固で、寄り掛かることを良しとしない。
「馨くん、明日休みだろ」
「ええ」
仕事着から着流しに着替えた周に、氷室は声を掛けた。休みなら、久しぶりにのんびりしたって良いじゃないか。そう思っての提案を持ち掛けた。
「飲むぞ」
氷室は周の返答を聞かずに縁側に連れて行くと、日本酒を一本開けた。二人分の猪口にトクトクと注ぐと、その猪口を周に渡して乾杯と音を鳴らした。
「どうしたんですか、いきなり」
「息抜きだよ。お互い忙しいんだから、たまにはこうして遅くまで飲んで、昼起きてゆっくりするくらい許されるだろ」
「ふふ、良いですね」
中々のんびりする機会も少ないですし、と呟いて周は日本酒をひとくち含んだ。
「美味いか」
「氷室さんは選ぶの上手ですね」
「またそうやって……」
人をすぐ褒めるんだからと言おうとした手前、周が注がれた酒を一気に呷ってふふと笑い出した。
「馬鹿、久々だからって飛ばしすぎだろ」
「ね、氷室さん」
にへらと笑うその顔を、最後に見たのはいつだっただろうと氷室は思い返す。思い出せないほどそんなに昔だったかな、と首を傾げた。幸せそうな笑顔を、一番近くで見ていた自分が忘れるわけなんてない筈なのに。
「普通のひとに戻りたいんです、私」
「……なんだよ、それ」
「無駄に沢山持ち過ぎちゃった気がするんです。……周りに頼りにされたことは勿論嬉しかったです。でも、喪うものもありました」
「……」
「持たなければ良かったって、一度でも思ったことあったんです。……もう手遅れだけど、ここ数年で色々手放しました。氷室さんならお分かりですよね」
そう、ここ数年で周はこれから死ぬのではないかというくらい、色んなものと縁を切った。詩歌を辞めた。詠う意味がなくなった、と言っていた。想い人への手向けとして、彼女の歌集を作って世に出したのを最後に、文学の世界から消えた。それだけに留まらず、自分の作品も消した。弟子にこんなことしてるの見られたら絶対止められてしまうから、と最初に弟子を卒業させた。同居していた弟子を説得させるのが一番大変だった、と周が苦笑交じりに話していた。それから道場はもぬけの殻である。たまに周がひとりで、竹刀を振るっているのを見かける。身体が鈍ってしまうのが嫌だそうだ。それから一部の、文学やら何やらで繋がっていた人たちと少しずつ距離を置いていった。今ではもう、疎遠だろう。
「……でも、襲さんとの想い出は捨てきれなかったなあ」
「それは駄目だよ」
氷室は力強く告げた。
「……捨てられるわけ、ないじゃないですか。真に受けないでくださいよ」
「冗談でも言うな、馬鹿」
話している間にも、周は次々と自分の猪口に酒を注いでは飲んでいく。
「普通の人って、どんな感じなんですかね」
「不良少年に訊いちゃ駄目だろ」
「ふふ、あぁ、そうでした」
「こんなこと言うのはいけないって思ってるんですけど。何も持っていない人が、羨ましかった」
「……」
「なんか言ってくださいよ」
「馨くんの好きに生きればいいよ。俺で良ければ協力するし」
「肯定してくれるんですね」
「あと酔ったフリしようとするなよ。本当は強い癖に」
「こんなこと、酔ったフリでもしなきゃ話せませんよ」
「少しくらい甘えろよ、ダチなんだから」
それは難しいかな。周がそう零したのが聞こえた。
エメラルドグリーンの海。白い砂浜。伸びた髪を適当に縛って、潮風にあたる人物が居た。季節外れの海は人が居なくて良い。翡翠に沈む夕陽は尚、美しい。
鏑木朔之助は、宛もなく世界を放浪していた。恋焦がれた女にも、ほんのいっとき愛を捧げた女にも先立たれたから、日本に留まる理由がない。自分という存在は、居るようで居ない蜃気楼のようなものだ。だからどこへ居たって変わらない。本当の自分を知っているのは自分と、理解してくれる人間……要するに、自分が愛する者だけで良い。
「……そういえば、外国名までは考えてなかったなあ」
潮の満ち引きを眺めながら、鏑木は独りごちた。あの時は、日本人でちょうど良いのがあったからこの名前にしたし、海外で放浪することも考えていなかったし、そんな余裕もなかった。
鼻歌を歌いながら、砂浜にいくつかスペルを書いていく。波で文字が消える。その残りから鏑木は新たな名前を編み出した。
「アーサー……マクスウェル」
道化が聖剣伝説に登場する者の名と、架空の悪魔の名を名乗るとは、いかに愉快なことか。
「どうせなら、面白可笑しい物語が良い! 今日から俺はアーサーだ!」
鏑木朔之助改め、アーサー・マクスウェルは砂浜を駆け抜け、最終便の船に乗り込んだ。
ギリギリのところで乗船し、デッキのベンチで暗く染まりはじめた空を眺めながらアーサーはフルーツジュースを飲んでいた。
「お兄さん、ひとり?」
金髪の老婦人がアーサーに声を掛けてきた。別に何かを誘いに来たようではなさそうだ。
「そうだが。僕に何か用かい」
「いいえ、わたしの、昔の初恋の人に似ていてねぇ。懐かしくなっちゃって」
「フフ、面白いこともあるもんだ。ご婦人は何を?」
「旦那も息子も、居なくなっちまったもんだから……死ぬまで旅でもしようかと思って」
「……失礼なことを訊いたかな」
「ぜんぜん、いいのよ。ちょっと前のことだし、わたしはもうおばあさんだから」
「そうかい、ご婦人は物語には興味はあるかな」
「昔は演劇をよく見に行ったものだから、そういうのは好きだねえ」
「そいつはいい。端くれので良ければ聞いていかないか」
老婦人はぜひ聞かせてほしい、と頷いた。観客は一人だが、たったひとりの為に紡ぐ物語も良いだろう。なにしろアーサーはかつて脚本家兼役者だったのだ。即興劇も造作もない。
「舞台は極東の国、日本。其は才能を巡る物語──」
それは、日本に住んでいた頃の断片。元を辿れば、アーサーの人生は才能に振り回されてきたようなものだった。自分の才能のせいで人が死に、女優は蒸発した。そのあとは才能を評価して支援してくれる存在もいた。残念ながら彼女を運命から救い出すことは叶わなかったが。思い返すと怒涛の半生だった。
「……お兄さん?」
「うん?」
話している途中で、老婦人が心配そうにこちらを見ていた。
「泣いていたものですから。大丈夫ですか?」
「は、はは……こいつはいけない、つい熱が入ってしまって感情が篭ってしまった」
「あなたのお話、素晴らしいわ。それで、続きはどうなったの?」
話し込んでいるうちに、風が薄寒くなってきた。このままではお互いの身体に障るだろう。
「続きは、と言いたいところだが……時間も時間だ、また明日、ここで話をさせてくれないか」
明日また会って続きを話す約束をして、アーサーは船内のバーへ向かった。薄暗い室内に、退廃的な雰囲気漂うこの場所は、アーサーのかつての居場所を思い起こさせるようで、なんとなく感傷に浸ってしまいたくなった。
「マスター、カルーアミルクをくれないか」
生憎強い酒を飲む気分じゃない、と適当に告げて酒を受け取った。
自分はどこへ行くべきなのだろうか。自分はこの先、どう生きていくのが良いのだろうか。悩んでいても仕方のないことだが、考えることがもうこれしかないアーサーは、ただただ思索をしながらちびちびと酒を呑むしかなかった。
翌日、約束通りアーサーは老婦人に昨日の続きを話した。
「……と言う訳だが、君はこの顛末をどう思う?」
「そうねぇ、難しい話ね。幸せになった人もいれば、そうじゃない人もいる。でもそれが人間の世界というものじゃないかしら」
「ほう」
「わたしはね、お兄さん。その結果よりも、これからどうするかっていうのが必要だと思うわ」
「これからどうするか……」
「ええ、終わったことは仕方ないし、覆しようがないもの。現におじいさんも、子どもも亡くしてしまった私はこれから美しいものを見に色んなところを巡る。死んだ人を生き返らせるなんてわたしには出来ないし、それは摂理に反するものでしょう?」
「なるほど……」
「先は途方もなく長いわ、間違ってもいい、自分の信じる道を進む。それでいいと思うの」
老婦人の答えに、アーサーは少しだけ何かが分かったような気がした。それはまだ、自分の言葉では上手く言い表すことは出来ないが。
「……ごめんなさいね、一方的に話しちゃって。お兄さんもこの旅で、素敵な何かに出逢えるといいわね」
じゃあ、私はこの辺りでと老婦人は軽く手を振って客室へ消えて行った。
「…………」
老婦人を見送り、アーサーはデッキから海を見た。深い青。あの遊女を思い出す。結局彼女は、自分の運命に抗うことなく、運命に殉じてしまった。
「……たわけ。これは妾が選んだことじゃ、口出しするな」
その言葉を最後に聞いたきりだった。後から訃報を受けた。
「小生は、これから……」
答えなんてない。もう自分を偽る必要もない。自由になったなら、それを享受すべきではないか。
なら、面白可笑しい物語を紡げばいい。道化が英雄と悪魔の名を冠し、翻弄されるさまを描こう。時には人間らしく悩んでみせよう。英雄らしく偉業を成そう。悪魔のように堕落もしてみせよう。
「そうだ、俺の物語の題は──」