展示:リヌ 世界が君のことを忘れてしまうまで
@kiyu_spring
想い出は、ゆっくりと時と共に形作られていく。
それは水泡のように膨らんで、けれど泡沫のようには弾けない。
永い永い時間を掛けて形作られた想い出は、溶けるように形を失くし、罅割れながら亀裂を生んで、そして音もなく割れて破片となって散らばっていく。
━━…嗚呼、それはまるで━━のよう、だと。
「━━…ここは…」
はた、と目を醒まして重怠い目をゆっくりと開けると、身に覚えのない天蓋が視界に収まる。何度か瞬きをして少し開けた視界で改めて部屋を見渡すも、この部屋を部屋と定義するためだけに置かれているような幾つかの品の良い調度品も、鈍く光を通す薄いカーテンに覆われた窓も、ひいては今眠っていた柔らかいベッドすらも全く見覚えがない。唯一理解出来るのは、ここが水の遥か深い場所にあるということくらいだった。
「━━…彼、は…」
状況がよく呑み込めず気怠い身体を僅かに起こした先、素肌を滑り落ちるシーツの音だけが響く部屋で自身の隣に横たわる姿に首を傾ぐ。その姿は恐らく人間なのだろうと想像するに易かったが、自分より幾分逞しい身体に穏やかな寝顔を浮かべている彼に不思議と不快な感情のようなものは抱かなかった。
「…君は…一体、何者なのだろう…」
水龍として生まれ落ちた自身が人の形をしていることは朧気に解るが、彼のことに関してはどの記憶にも存在していない。同じベッドで同衾しているのだからそう遠からぬ縁があって然るべきと見るのが普通で、恐る恐る手を伸ばしてその頬に触れるとじんわりと指先に伝わる熱に懐かしさを覚えた。
「━━…やぁ、お目覚めかい」
触れたことで彼を起こしてしまったようで、閉じられていた目蓋が持ち上がり隠れていた蒼い瞳と視線が合う。研ぎ澄まされた氷のように見える瞳は、けれど凍て付く冷たさは感じられず優しささえ含んでいる。シーツの中から伸ばされた手が指先に重なる感覚も、互い違いの体温が心地良く感じる程度で驚きも嫌悪もなく寧ろ求めていたものだったような、そんな気さえした。
「…君、は…誰、なのだろうか」
「…ああ、今回は憶えてないのか」
「……憶えていない…?」
龍である以上、神や人間をあまり良い目で見てはいないはずだと思ってはいるものの、自身の頭の中に途切れ途切れに蘇る残像に似た記憶の欠片はその感覚に準じているようには思えないものが多い。彼から憶えていない、と言われて初めて自分の記憶が欠損しているが故に記憶が細切れになっているのだと理解することが出来た。
「私は…何かを忘れている…?」
「無理に思い出さなくていい、無理矢理記憶を抉じ開けるとあんたの負担にしかならない。ちゃんと思い出せる方法は知ってるから、安心してくれ」
記憶が欠損していることを自覚すると思い出せない記憶にじわりと頭痛が引き起こされてしまい、思わず眉を寄せる。身体を起こした彼が優しく髪を梳きながらそっと対面に腰を落ち着け、両の手で頬を包むと真っ直ぐに視線を合わせて。
「…俺の名前はリオセスリ、だ」
その名を聞いた瞬間、霞がかっていた脳内が突然晴れ渡り意識が覚醒する。それまで澱み、滞留していた記憶の堰が壊れて一気に流れ込む感覚に暫し目を閉じて耐え、そしてようやく落ち着いた頃合いで再びゆっくりと目蓋を持ち上げた。
「おはよう、ヌヴィレットさん。気分は?」
「…おはよう、リオセスリ殿…特に問題はない」
「それならよかった」
目の前で静かに此方の様子を窺っていた彼の姿を再認して、柔らかく表情が緩む。とはいえ現状を理解しただけに安堵と焦燥が入り混じる複雑な気持ちを抱いていれば、察しが良い彼から額に触れるだけのキスが落とされる。
「私はまた…君を忘れてしまったのか……」
「そう気落ちすることはないさ、正直特に珍しいことでもない。名乗って思い出してもらえるだけでも俺にとっちゃ僥倖だ」
彼が何者なのか、そんなことは本能に刻まれているのだと信じていたというのにこの不義理だ。珍しいことではないと言われても、それが珍しくないこと自体に不甲斐なさを覚えて俯いた。
「…君のことだけは、忘れたくないのに」
「深く考えたって仕方がないだろう?これが、あんたのいう…摩耗ってやつの弊害なんだから」
摩耗、その言葉に深く溜め息を漏らす。
それは、天理が遺した長命種への呪い。
永らえれば永らえるだけ、記憶は欠落し自身の生きてきた世界が歪んでいく。過去も未来も歪み、記憶は輪郭を失い、自身の存在すら認識出来なくなり、最期は須らく誅殺されてこの世から消え去る。まるで人ならざる者に人が引導を渡すことを是とするような、人間を愛する天理らしい無粋な呪い。
嘗て水の上にある国にいて、そこで彼と出逢った。
齢幾千年の自分の生きてきた道程が、恐らくこんな一言で終わるはずはないのだが、今の自分の記憶に残っているのはこのくらいでしかない。ただ、この記憶の欠落が彼の言う摩耗という現象から来るものであること、そして彼が自身の最愛として定めた番であること。このふたつだけが、あらゆる記憶の齟齬の中で唯一正しいものとして機能していた。
「そんなに落ち込まないでくれ、こうしてヌヴィレットさんが目を醒ましてくれることが俺は本当に嬉しいんだ。そんなに想ってくれているなら、その口で俺の名前を呼んでほしい」
愛しげに触れてくる指先に頬を寄せ、彼の望むように、自分自身に言い聞かせるように唇で彼の名前を紡ぐ。その名を口にすると自然に雑然としていた心の中が穏やかに凪いで、安堵の吐息が漏れた。
「さて、今日も紅茶を飲みながらゆっくりとお伽噺をしようか。ヌヴィレットさんが気に入ってくれそうなフォンテーヌの話しをいくつか仕入れたんだ」
「…フォンテーヌ…水の上、の国…」
「そう、あんたが護ってきた公正と秩序の国だよ」
「私が…ああ、私が統治をしていた…」
手を取ってもらいながらベッドから脚を下ろし、差し出された衣服に袖を通す。微かな記憶の片隅ではもっと仰々しく堅苦しい服を着ていた気がするが、彼曰くここでそんなに服で威厳を示す必要はないということらしい。元より衣服を纏うことに若干本能的な忌避感はあり、着なくてもいいのであればそれに越したことはないと今は彼から与えられたゆったりとしたシルエットの服を身に纏っている。
目を醒まして会話を交わし、着替えてから彼の淹れてくれる温かい紅茶を片手に彼が何処からともなく手に入れてくるお伽噺を聴かせてもらう。彼が語るそれらの物語はこの星の辿った史実でもあり、また物語でもある。遺すべきもの、遺すべきではないもの、それらの全てを詰め込んだというお伽噺は時折知って良いことかと疑問に思うものすらあるが、自身の記憶に残らないという前提で語られているものだと彼が言っていたので問題はないのだろう。
「モンド、璃月、稲妻、スメール、ナタ、スネージナヤ…色々と聞かせてやれるお伽噺のレパートリーは多いんだが、やっぱり一番語りやすいのはフォンテーヌの話になってしまう。地元の話ってのは自分の体験も混ざって、より臨場感が生まれる」
「…そうだな、私も君に色々なお伽噺を聞かせてもらっているがやはりフォンテーヌの話が一番心の内に残ることが多い。君と同じく、嘗ての経験や記憶に触れる機会が多いせいなのだろう」
ベッドから離れて低めのテーブルと安楽椅子が置かれた窓際に移り、ゆっくりと腰掛ける。水槽のように大きな窓は海底にあるが故に採光の役目はあまり果たしていないものの、その景観は自身の心身の安寧に一役買っていて。冷たいガラスに触れてその深い水底を悠々と泳ぐ魚たちを目で追っていれば、湯気の立つカップを乗せたソーサーを片手に彼がやって来て目の前に静かにそれを置く。ふんわりと上品な香りを纏った湯気を立てるカップを眺めて、再びもう一脚のカップを持って対面に腰掛けた彼に視線を向けた。
「今日はどんな話が聞きたい?」
「…君と私が、共に歩んでいた時代の話を」
「じゃあ美しく残酷な…まるで歌劇のようなお伽噺を聞かせようか」
軽く口を付けたカップを戻し、彼はテーブルに置かれていた数冊の本の中から特に古めかしい青い装丁に飾られたものを丁寧に取り出す。何度開かれたものなのか所々に劣化の見られるそれを開いて指で文字を撫でながら、彼は静かに語り始める。
嘗て水の上にはフォンテーヌという水神が統治をしていた美しい水の国があり、その水神に招かれた自身が公正と法の下にその執政を行っていたこと。そして、法に裁かれた者の更生の地として深い水底にあった要塞の管理者として彼が立っていたこと。
フォンテーヌには運命の星の元に結ばれた災厄の予言があり、その予言から逃れるべく自身も含めたあらゆる人間たちが知を尽くすも抗えず、最期は当代の水神が自らの犠牲を以て予言の災厄から沈みゆくフォンテーヌを救ったのだと。
「━━…水神の名は…フリーナ、だったか」
「ああ、彼女は稀代の大女優だったよ」
「…いや、彼女ではない…予言の犠牲は…」
彼が話すお伽噺は断片的な記憶を呼び起こし、時折こうして混濁を起こす。背凭れに寄り掛かって記憶の整理をしていれば、それを黙って見守ってくれていた彼が文字列を辿って口を開く。
「…水神、フォカロルス」
「……そう、彼女だ…彼女が、私を」
口にされた答えに散っていた記憶の欠片が繋がり、霞んでいた嘗ての景色が朧気に色味を持つ。思い出された光景は決して楽しいものではなく、部屋の中に深い水の気配が立ち込める。彼に勧められてカップに口付けると、触れた紅茶の温かさに沈んでいた心が少し楽になった気がした。
「…すまない、取り乱してしまった」
「気にすることはないさ、想い出を辿ることは決して悪いことではない。悲しい時には悲しみ、嬉しい時には喜ぶべきだからな」
「…ありがとう、続きを聞かせてほしい」
一息吐いて謝罪を述べるも、彼は気にしていないと肩を竦めるだけに終わる。その言葉にしない優しさに甘えて、お伽噺の続きをと促した。
「水神の永きに渡る計画は、フォンテーヌだけでは飽き足らず最後は天をも欺いた。予言の真実、五百年の歳月を経てようやく完成した壮大な歌劇の舞台裏と行く末は…今も俺には俄に信じ難い」
フォンテーヌという国、そしてそこに息づく生命に刻まれた罪の烙印。当代の水神にまで引き継がれた先代の残酷な慈悲の祈りは、彼女たちの最後の希望として自身へと託された。人間だ神だと言っていても、結局は同じ生命の水より生まれ出でたが故に性質は似通っていて。水神の慈悲、その魂と引き換えに差し出された己の権能、その何ひとつも無碍には出来ずにこの腕に抱いて全てを赦したのだ。
「…フォンテーヌは、無事なのだろうか」
「ああ、あんたほど公正無私な人間は早々いないから多少のいざこざはあるらしいが、それはそれとしてメリュジーヌたちと協力しながら法治国家として機能しているよ。エネルギーに関しても、溢れんばかりの水資源を活かして水力を利用する方法を使ったものを発明しているようだ」
「そうか、人間たちは自分たちの力で生きる術を見付けられているのだな」
視線を落として自分の掌を見つめていると、本を閉じた彼が腕を伸ばして頬に触れてくる。今度は自分がその手にそっと掌を重ねて、やんわりと甘えるように擦り寄った。
「…それでも、フォンテーヌはヌヴィレットさんのことを忘れちゃいない」
「…私が忘れてしまっているというのに?」
「そうさ、フォンテーヌは嘗て気高く心優しい水の龍と女神の二柱によって護られていたのだと…お伽噺として今もずっと語り継がれている」
フォンテーヌを統治し、護っていたことすら今となっては何処か遠い記憶。こうして記憶の糸が繋がればそういう事実があったのだと理解することは出来るものの、だからといって実感があるのかと問われればきっと首を横に振る。だというのに、彼はそれでもこんな自分をあの国が忘れていないと、それこそお伽噺として存在が語り継がれていると言う。
「例えヌヴィレットさんのことをこの世界が忘れたって、俺は…俺だけは憶えているよ、最期まで」
視線を持ち上げた先には優しく微笑んでいる彼の眼差し、その瞳の中にそれまで霞んでいた大切な記憶の一片が垣間見えて呼吸を忘れる。気付いてしまった途端に、感情と共に溢れた涙が頬を伝った。
「━━…そう、だ…私、は…君を…」
震える唇が声にならない声を上げ、軋む胸が嫌な痛みを齎す。涙を流すという行為自体とうに忘れてしまった気がしていたのに、堰を切ったように溢れ出した想いが大粒の雫となって伝い落ちていく。
「…泣かないでくれ、あんたの涙はあまりに綺麗で…俺の心が痛むんだ」
「……すま、ない…ただ…わたし、は…」
「わかってる、全部ちゃんとわかってるよ」
椅子から立ち上がった彼が傍に来て、そっと指先で眼尻を拭う。子どものように泣き叫べれば楽だっただろうと思えるほど息苦しく軋み、心臓が締め付けられる心地に吐き気にも似た無様な嗚咽だけが静かな部屋に谺する。
「…これは、俺が望んだ願いだ」
抱きしめられ、優しく語り掛けられる言葉に何を返せば良いというのか。何よりも安心する彼の腕の中で離さないよう追い縋る手が彼の背を掻いて、やがて静かに落ちた。悲しさと、寂しさと、そして虚ろに支配されていく。彼にこうして追い縋ったのは、抱きしめられたのは、咽び泣いたのは、果たして何度目なのだろう、と。
「……わたしは、どう、償えば」
掠れた喉が、声にならない声を吐き出す。
視界ぼやける一方で、鮮明になるいつかの風景。
瞬きをする度に溢れる涙が、滲んだ記憶を引き摺り出して忘れていた罪を洗い浚いにぶち撒ける。事の顛末など今更憶えてなどいない、ただひとつだけ憶えているのは願いの対価を彼と折半したこと。龍としての自身が願った途方もない願い、自分の記憶如きではどうしようもなかった願いの対価の欠片をあろうことか只人の彼に押し付けたのだ。憶えているのはそれだけで、それ以上もそれ以下もわからない。それでもその事実はあまりに重く、濁る記憶の中ですら自分に刃を突き立てる。
「…あんたはもう、十分苦しんだだろう」
強く抱きしめられる力よりも、悲痛に濡れたその言葉の方が余程苦しい。これ以上彼を苦しめたくないというのに、この涙を止めることも出来ない。一体何を願い、何を祈り、そして何を犠牲にしたのか。今の自分にわかるのは、この苦しみが彼の苦しみには比類するに値しないことくらいで。
「…私は、君を苦しめている、今も、ずっと…」
「ああ…今日はいつもより沢山思い出したんだな」
「きっと、大切なことは忘れている…君を苦しめておきながら、その根源を忘れて私は、君の腕に甘んじているのだ…そんな、ことは、赦されない…」
あやすように背を擦られて、鼻腔を擽る彼の匂いに形を失くした悲しみが溢れ出す。輪郭がない、彼を想っているこの感情の、名前がわからない。いや、わからないようにしているのだ、自分自身が目を背けることを決めたあの時から。彼を、護るために。
「…わたし、が、きみ、を」
時が停まり、霞む脳裏が一瞬鮮明に色を取り戻す。
その瞬間、彼の唇が呼吸と共にそれを阻んだ。
「━━…それ以上は、思い出すな」
濡れた唇が離れて彼の目が真っ直ぐ自身を射抜き、その言葉に輪郭を持ち始めていた記憶が再び靄に閉ざされていく。形を得たはずのそれは、彼の掌の中で冷たく凍て付き沈んでいった。
「…今はまだ、思い出さないでくれ」
ふ、と和らいだ彼の表情に身体の緊張が解けて弛緩する。まだ乾かない涙の痕跡を指で撫でられると、額と額が軽く触れ合って、鈍痛を訴えていた頭が少しだけ軽くなった気がした。
「ヌヴィレットさん、今日は苦しかったろ」
「……きみは、苦しくなかっただろうか」
「苦しむあんたを見てると息が止まりそうだ」
「…それは、すまない、ことを…」
額から少しずつ、彼に触れられているうちに身体ごとまるで水に溶けてしまうような心地を覚える。気付けばあれだけ涙を流していた理由も曖昧になっていて、漂う意識にぼんやりと身を任せていれば思考も段々と揺らいで。
「…リオセスリ…どの…」
「ああ、今日はこれくらいで休もうか」
「…そば、に…」
「大丈夫だよ、ずっと傍にいる」
抱きしめたいのに、指一本にも力が入らない。
混濁していく意識の狭間、底知れない闇に引き摺り込まれる感覚の中で彼の声が、触れる肌から伝わる温もりが、恐怖に塗り潰されてしまいそうな心を掬い上げて深い闇から隠してくれる。
「ヌヴィレットさん、おやすみ」
━━…嗚呼、また明日、君の声で目覚めますように。
「…よかった、ちゃんと眠れたか」
静寂に閉ざされた部屋、腕の中で眠る姿を見下ろして安堵の息を吐く。寄り掛かる重さがあまりにも軽いことに一抹の不安が過ぎるも、元から華奢な身体であるが故に致し方ないのだろうと呑み込む。そんな軽い身体をそっと横抱きにしてベッドに運ぶと、柔らかい枕に埋もれるように横たわらせた。いつもであれば衣服を嫌う彼のためにある程度の服は脱がせてしまうのだが、部屋の外に珍しい気配を感じていたこともありそのまま薄布団を掛けると、少し冷たいその頬に軽く口付けを施してベッドを離れる。そのまま天蓋から垂れる薄布を綺麗に下ろしていた矢先、部屋の扉が控え目に叩かれる音が響いた。
「…どうぞ」
「久し振りだね、公爵」
「ああ、あんたは全然変わらないな」
「それなら公爵だって一緒でしょ」
入室を許すと、軋む音と共に部屋に入って来たのは嘗てフォンテーヌで知り合った旅人。そこら辺の人間とは違う訳ありと聞いていたが、今となってはどちらかと言うとベッドで眠る彼に近しい生命の在り方をしている存在だと思う方が自然だろう。その辺については特段否定もしないが、深く語らうこともないので特に深入りも詮索もするつもりはない。永く生きれば秘密のひとつやふたつあったって何ら不思議ではない、と以前彼女と話した時には自分は数十年でも秘密だらけだったのにと笑われたものだ。
「ヌヴィレットは…眠っているみたいだね」
「さっきまで起きてたんだがな、生憎今日は早めに寝かせてしまった」
「そっか、今でもちゃんと憶えてくれてるんだ」
ベッドの方をちらりと一瞥した彼女は少し寂しそうに笑い、先程まで彼が座っていた安楽椅子を指差すとそこに腰掛ける。滅多に使うこともない来客用のカップに再び紅茶を淹れていれば、背後からテーブルに積まれた本を捲る音が聞こえてきた。
「これ、ずっと読んでくれてるの?」
「裏表も忖度もない正真正銘の正史ってのは、ある種のお伽噺みたいなもんだ。何度でも読み聞かせやすいのさ」
「読み聞かせの絵本には向かないと思うけどね」
「そうかい?俺は存外気に入ってるが」
紅茶を淹れた二脚のカップを運び、テーブルの空いた部分に置く。フォンテーヌを語る古びた本をぱらぱらと捲っていた彼女は、片手にカップを持ってお茶に息を吹きかけながらゆっくりと口を付けた。
「…あの日から、もう五百年経つんだね」
「ああ、意外とあっという間だったよ」
「今も公爵は要塞にいるって聞いたけど本当?」
「そうだな、元々ここは長命種の神や龍が治めていた世界だ。こっそりと長生きしてる人間がひとり紛れていてもあまり気付かれやしないらしい」
捲っていた本を閉じてこちらに耳を傾ける彼女は、『あの日』についての話の取っ掛かりを探しているようで。折角来てくれたのだからと少しばかり手助けの会話を切り出してやり、それに便乗した彼女が上手く話しを繋げていく。
「…ヌヴィレットの記憶は、まだ残っているの…?」
「…ああ、過去については朧気に解るくらいだが普段の会話は出来るし、印象に残る記憶に関してはきっかけを与えれば多少思い出すこともある」
「そうなんだ…公爵のお陰だね、きっと」
「そこは寧ろ公爵のせい、だろ」
彼女に誘われて、思い起こすのは五百年前のこと。
予言の日を乗り越えてフォンテーヌは危機を脱し、再び法の歯車の元で普段の日常を取り戻したかに思えた。しかし、それからそう時を置かずに国家元首として立っていた彼を突如摩耗と呼ばれる病が蝕み始めたのだ。それが記憶の欠落、混濁など記憶に関わる部分に重大な欠損が生まれる長命種特有の不治の病だと聞いた時には、まさか自分よりも何十倍も永く時を生きるはずの彼が病に冒されることなんてあるのかと呆然としたことは今も憶えている。
「違うよ、公爵はヌヴィレットを助けたんだよ」
「…いや、俺がヌヴィレットさんを縛り付けた」
摩耗に冒された者は記憶を失くし、総じて誅殺されるべき存在へと何れ堕ちていく。そう聞かされ立ち尽くす自分の前で、彼は初めてその双眸に涙と呼ばれるものを浮かべながら震える手で追い縋って声を枯らしたのだ。
『世界を忘れることよりも、君を忘れることが恐ろしい』
それはただひとつ、彼に与えてしまった生への執着。
世界に仇なすことよりも、自身に鋒を向けることの方がずっと恐ろしく耐え難い。そして何よりも、人として感情を育んだ彼にはもう、唯一の存在を忘れて独りになってしまうことに耐えられない。それ故に、彼は消え行く記憶の中で途方もない願いを自身の最愛に叫んだ。それは、彼が嘗て自分の存在がこの世から消え去るまで胸に秘め隠そうと、目を背け続けたはずの祈りであり、願いだった。
『どうか、悠久を私と生きて欲しい』
そう、願えば自分がどう応えるか、きっと彼は知っていた。
知っていたからこそ、決して口にすることもなく仄めかすことすらなかったのだろう。叶えてはいけない願いなのだと、幾星霜の時を生きる者として望んではいけない祈りだと知っていて、だからこそ一瞬の生命の重みを理解していた彼は突然突き付けられた永遠の別れを耐えることが出来なかった。
「…俺が、ヌヴィレットさんに枷を付けた」
そう、自分自身が与えた分不相応な愛が彼の心を緩やかに壊して決壊させた。あろうことか大切な者を喪う怖さを教えておいて、それでいて自分はそんな彼を独り置いて逝こうとしていたのだ。たった百年とない生命を終えて自分という存在がいなくなった世界で、彼がどんな想いを抱えて生きていくのかを考えることもなく数千を生きる彼に手を伸ばし、愛を与えて枷に繋いだ。だから、彼に泣き縋られた時には自然と自分が選ぶべき道が見えていた。これが、これだけが自分が償うことが出来る唯一の方法なのだと。
「だから俺は、ヌヴィレットさんの最後の記憶になった」
忘れたくないと泣く彼に、自分が彼の最後の記憶になろうと囁いて。彼はその甘言に泣きながら首を横に振り、けれど否定の言葉を発することはなく。ただ、生まれて初めて声を上げて泣いた。
最後の記憶、それは彼を看取ることと同義。
眷属のような生温いものではなく、彼より先に死ぬことは叶わない呪いのようなもの。摩耗して記憶を欠落させていく彼の、理性の拠り所としてずっと彼の傍で記憶の欠片を差し出す存在。彼は生きていく永劫の中で生きてきた嘗ての記憶を失い、自分という存在だけを起点にただ生き続ける。そして、自分自身もいつ目覚めなくなるかもしれない彼の目覚めを待ちながら、永い永い時を共に生きていく。
「…ヌヴィレットは、幸せだと思う」
「それは本人にしかわからないだろうな」
「だって、公爵も幸せそうだし、それに」
これは如何様な罪か、それとも罰か。
そう思っていた時、彼女の言葉に思考が停まる。
「愛は、絶望の底にあるんだから」
ふぅ、と紅茶を飲み干した彼女は本を閉じて。
椅子から立ち上がってベッドに近付くと、閉ざされた天蓋の薄布に手を伸ばしてその表面を撫でるように滑らせた。
「次は明日か十年後かわかんないけど、また会いに来るからね」
慈しむように呟いて、こちらに向き直る。
「そろそろ行くよ、紅茶ありがとう」
「…ああ、こちらこそ感謝するよ」
「伊達に長生きしてませんから」
「そうだな、肝に銘じておこう」
ひらひらと手を振って扉に向かう彼女を見送ろうと立ち上がるも、不要とばかりに首を振られてしまう。気紛れな風のようにやってきて、そのまま去っていくのは彼女らしいと言えばいいのだろうか。じゃあね、と微笑んで去っていった彼女の姿はあっという間に水の波紋のように消えてしまった。
「…絶望の底、か…底なんてないと思っていたが」
空のカップを片付けて、衣服を寛げながらベッドに向かうと天蓋の中へと滑り込む。眠っている頬に触れて唇にキスを落とすと、愛しげに頬や目蓋にも唇を寄せる。
「確かに、俺はあんたを看取る苦しみ以上に、こうして永い時をふたりで過ごせることの喜びの方が勝っているらしい」
千里の底には、何もないと思っていた。
ただ、存外見えないだけで幸せは転がっているのだろう。
深ければ深いだけ、それは絶望と背中合わせになってしまうのかもしれないが、それはそれで悪いことばかりではない。
「次に目が覚めたら、ヌヴィレットさんの答えも教えてくれ」
物言わぬその身体をそっと抱きしめて、眠りの縁へと落ちていく。
水底の灯りがひとつ、静かな夜の海に消えた。
今日の想い出も、彼の悲しみも抱きしめて。
既に幾重にも重ねた氷は罅割れて、砕け散った。
また、この想い出を薄氷として纏っていく。
永劫の絶望を、優しい愛で包み、花開く。
一片、失くした分だけの花弁を重ねて。
━━…嗚呼、それはまるで氷華のよう、だった。