本予備/狛日
狛日版週ドロライ第38回「テリトリー」「温もり」
自分の気持ちに気がついた狛枝と、大きな選択が迫っている日向の話
@sumari_m2
狛枝は、ベンチに座りため息をついた。何回目のため息か数えるのはとうにやめていた。目の前の景色を眺めてみる。
青々と生えている木々の隙間から、運動の才能を輝かせる希望たちが大きなグラウンドを駆けていくのが見える。四月に入ったばかりの新しい後輩たち。見慣れない輝きが、狛枝の目を焼いた。
身がすくむような、素晴らしい光景だ。自分がここにいるのが間違いだと思いたくなってしまうくらいには。ここは人が滅多に来ない。静かで落ち着く、才能が輝くところを見ることができる狛枝の特等席。けれど、今は心が浮かない。
待っているものが来ない。ため息が出る。体が重い。
「あ……」
小さな声に狛枝は顔を上げた。
見慣れ始めた喪服のような予備学科の制服。目につく短い髪の毛にアンテナのような癖毛。目を惹くような意志の強く見える榛色の瞳が揺れ、視線を逸らされる。いつもより顔が白い。彼の足が、一歩後ずさりした。
眉間に皺が寄る。
「どこに行くの?」
「いや、お前が先にいたのに悪いだろ?」
「ボクがいるからどこかに行くの? わざわざ? キミさぁ、感じが悪いってよく言われない?」
「俺は別に、……お前が嫌だろうと思って」
「へぇ、ボクが今、キミにそう言ったの?」
言葉に棘が混じる。
不快だ。
あまりにも唐突に、不快なものが浮かび上がる。理由のわからない、唐突な不快感。形にならず心の奥底で泡立つそれは、ぐるりと狛枝の胃の中で暴れていた。
日向が口をつぐむ。
「……言ってない」
「座れば?」
空いているベンチのスペースに視線を落とす。
日向は小さく息を吸い、ベンチに腰を下ろした。
「静かだな」
ぽつりと乾いた声が落ちる。
「ここは静かで、なおかつ超高校級のみんなの活動も見れる、ボクしか知らない最高の場所なんだけど。あは、キミに見つかっちゃったな」
「それは……、悪かったな」
日向は狛枝の顔から目をそらし、膝に抱えた、いつもより膨れたバッグをぎゅうと握りしめた。
「特別に許してあげてもいいよ。その代わり、ボクの幸運の代償に巻き込まれても文句は言えないんだけど、そこは頭の動きが鈍いキミにもわかるよね?」
「今日何かあったのか?」
「偶然拾っていた宝くじは二等が当たるし、くじつきの自販機は商品をたくさん吐き出すし、左右田クンが数日悩みに悩んで仕上げた新しいメカが動き出す瞬間に立ち会えたし」
「左右田うまくいったんだな!」
喜色に富んだ声が、唐突に空気を震わせる。
思わず眉間に深く皺が寄っていた。
「あ、悪い」
日向が、顔を引き攣らせる。狛枝は息を吐き、言葉を続けた。
「すごくいい日だったんだよ」
「よかったじゃないか」
「これがそうも言ってられないって、この前話さなかったっけ? いや、ボクというゴミ虫なんかに興味はないんだろうから仕方ないんだろうけどさ」
肩をすくめる。
「……そうだったな。それで一人でいたのか?」
「そういうこと。偶然ボールが飛んできて怪我しないか狙ってもいたけど、キミが来ちゃった。ねぇ、これって幸運と不運、果たしてどっちなんだろうね」
狛枝が待っていたもの。
それは不運だ。
今日一日、こんなに幸運に晒されていながら何も見舞われていない。あまりにも危険だった。素晴らしい才能を持つ人々を巻き込むなんて、冗談ではない。断じて許されない。
「それなら、ちょうどよかったんじゃないか? 予備学科が来て」
日向が自嘲するような薄笑いを浮かべる。
どくりと心臓が嫌な音を立てた。
口を開く。
「……それで、キミはなんでこんなところに来ちゃったの? 予備学科の棟から離れてると思うけど?」
ここは本科の区域だ。予備学科の寄りつかない、寄り付けない場所だ。普通から逸脱することに本能的に忌避感を覚える性質を持つ日向が、一人でここにいる。
口の中がざらりとする。強烈な違和感が胸を焼いていた。
「それは……」
日向が口ごもる。息が吐かれる音がした。
「……一人になりたかったんだよ」
日向の乾いた声が落ちる。背がぞくりとする。肌が泡立つ。初めて聞く、感情が抜け落ちた声だった。
「……ふうん。そう、ボクがいてツイてなかったね」
「いや、別にいいんだ」
「はぁ?」
「お前には別に今更取り繕う必要性は感じていないからな。お前とは不本意だけど、最初から露骨に嫌なところ見せ合ってるだろ。なのに、急に取り繕われてもお前はいい気がしないんじゃないか?」
日向が唇の端だけを上げて笑う。苦い笑みだ。
「そう」
頬が上がるのがわかる。日向が特別だと見せるその姿に、僅かに快感を覚える。快感には、痺れるような甘やかな感覚が漂っていた。
悪い気はしない。
「じゃあ、そんなキミに取り繕わないついでに聞くけどさ、キミこそ何かあったの? ずいぶん顔が青く見えるけど。分かっていると思うけど、ここは本科だよ。倒れて超高校級のみんなの気持ちを不用意に動かすくらいなら、今すぐ家に帰って休むのが賢明じゃない?」
日向の唇が動く。けれど、言葉は音にならない。束の間、静寂が訪れる。
まぶたを伏せ気味にし、地面を凝視している。真っ青な顔に浮かぶものは、ほとんど無に近かった。木漏れ日のような榛色は翳り、ほんの少し揺れていた。なにも感情が読み取れない。ただ、そこからは僅かに死の匂いがした。
胸の鼓動が速くなる。
やっぱり。やっぱりだ。
嗅ぎつけた違和感は、勘違いではなかった。
彼はたった今、何かあったのだ。
沈黙がこんなにも居心地悪い。言えないなら、言わなくていい。嘘だ、いや、言って欲しい。だけど、はやく、はやくいつものキミに戻って欲しい。
「ねぇ、とりあえず少し寝たら? 予鈴が聞こえたら起こしてあげなくもないよ」
大きな榛色の瞳が狛枝を映す。瞬く瞳に、ようやく感情が乗った。驚き、安堵だろうか。
「それじゃあ、頼む。少し疲れていたんだ」
日向がほっと息を吐き、目をつぶる。なぜか、安堵していた。安堵している自分が酷く腹立たしい。舌打ちしてしまいたくなって、ため息を吐いた。
右腕にあたたかなものが触れる。重たい。
視線を落とせば、寄り添うのは他人の身体だ。規則的に胸が膨らみ、息を吐いている。人間が生きている証だ。日向が狛枝に寄りかかって穏やかに眠っていた。
視線を引く、日向が胎児を抱くように抱えたいつもより大きく膨れた鞄。少しだけ開いたファスナーの隙間から、分厚い封筒が見えていた。
これだ。確信を得ていた。日向は今日、明らかにおかしかった。仄暗い喜びと、迷い、何かを諦めたような死人のような顔をしていた。幸運は、後々よくないものを呼び寄せる。これかもしれない。だとしたら、何が……。
息を詰め、そっと左手を伸ばす。
日向が呻き、もぞりと身じろぎする。
伸びていた手が止まった。もし、今、日向が起きたら? これはきっと、日向の大きな秘密だ。今まで嫌に曝け出してきて、日向のある種の拠り所となれたこと。認めたくないが、あの瞬間胸を焼いたのは優越感だ。せっかく認めてくれた、後ろ向きな信頼を裏切ってしまうことになる。日向の心の領域から蹴り出されてしまう。
ガラスのような壁がもどかしい。
せめて、名前を呼んでみたい。
なのに、舌はうまく動かなかった。
日向クン。
その一言が重い。どうしても、その重さを吐き出すことができない。
書類に手を伸ばせなくとも、その力の抜けた手を握ってやりたい。
なのに、手が酷く重たい。
手も伸ばせなければ、口も動かない。狛枝は、奥歯を噛み締めていた。
胸の奥底で泡立っていた不快感の形を、唐突に理解する。
どうして。どうして彼なんだろう。
取るに足らない、どうでもいいはずのキミが。
どうでもいいと、思えなかった。
本能的に恐れている。彼が自分の幸運に巻き込まれることを。自分が一歩踏み出して、彼がどこかに──二度と手が触れられない場所に行ってしまうことが惜しいのだ。
日向は、自分の中に図々しくも居場所を作ってしまった。そんな彼が自分に何も教えてくれないことに腹を立てている。呆れるくらいにみっともない子どもの仕草でしかない。
いつのまにか自分を縛っていた鎖が、ぎちぎちと鈍い音を立てている。彼にも、そして自分にも、価値があるとは思えないはずなのに。思えなかったはずなのに。
臆している? 怯えている? ボクが?
首を振っていた。伸びた前髪が目にかかる。
愚かだ。実に愚かしい。
遠くで予備学科の予鈴が微かに鳴った。
「あーあ、ほんっとにツイてないよ」
自分の唇からこぼれ落ちたのは、迷子の子どものような声だった。
すぐそばで、細い息遣いが空気を揺らす。
あたたかで、甘やかで、つめたい。
糸で縫われたように動けない狛枝の髪を、風がなぶって過ぎていった。