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@fu_re_re_ra
太郎太刀の爪は、紅を塗ることなく金色をしている。
洒落っ気のある弟と違い、これは化粧ではなく、元からこのような色なのだ。爪が薄紅なのは人の子の話。人の似姿を取っているとはいえ、人にあらざるものの中ではそれほど特筆して珍しいものではない。
だが、それを間近で見た彼女は「たろちゃんの爪、キラキラで綺麗だねえ」と無邪気に感嘆の声を上げた。
太郎太刀は、主人へ否定も肯定も返さなかった。
輝く鋼の宝剣へ、かつて人の子が美しい姿を思い描き心を寄せたからこそ、我らはこの姿を取っている。当然の帰結に対し、謙遜する意味も無い。強いて言えば美しいのすら当たり前だった。人がそう願ったのだから。
「私も爪紅塗ってみようかなぁ。たろちゃんとお揃いの、きん、いろ、の…」
楽しそうに自分の手を掲げて、光にかざしていた彼女は、急にふっと表情を失った。
瞳が光を失い、ぞっとするほど無表情になった彼女は、見間違いかと思うほど僅かな内に、温度の無い能面のような顔を、にこっと作り物めいた笑みで覆い隠してしまった。
「やっぱりやめとくよ。赤じゃないとかしゅーが拗ねちゃうかもしれないし」
太郎太刀は口をつぐみ、踏み込んで良いものかしばし逡巡したが、最終的には無闇に指摘するのは避け、程よい相槌を打つに留めることとした。
「まあ、既にお揃いですしね」
「?」
「貴女の霊力と」
無難な返しをしたつもりだったが、彼女は金色の瞳を限界まで見開いて、太郎太刀の言葉に固まった。
瞳に激しい動揺を走らせた彼女に、太郎太刀の方が釣られて動揺する。自分は何か間違っただろうか。
「…………たろちゃんは」
「はい」
「わたしとお揃い、やじゃない?」
「嫌なら口にしません」
偽らざる本心だった。そもそも、太郎太刀は機転の効く弟と違って、気の利いた慰めや気休めを自然に口にできるようなたちではない。
だから正直、只々困惑するばかりだったのだが、彼女はそんな太郎太刀に、しばし瞳を揺らした後、にぱっと笑った。
まるで泣きそうなのを誤魔化すようだ、と感じたのが、正解だったか否かは分からない。
彼女が己の金色の瞳を人外の証とされ厭うていること。
それが彼女の心の傷なのだと知る前のことだった。
「ということがあったのですが……次郎、貴方何か知っていますか」
「んーん、心当たりは無いけどさ。初期刀や近侍なら何か知ってるかも」
悩ましげに腕を組み、首を傾げた弟は、この本丸では自分に次いで新しく呼ばれた新参刀だ。
故に、そこまで踏み入った事情となると、あいにく心当たりが無いらしかった。
まだこの本丸に残ると決める前だった。
この頃の太郎太刀は、呼ばれども未だ厭世観が強く、現世への介入を避けていた。戦にも出ずに浴びるほど酒を呑んでいれば主人もそのうち関心を失うかと思えば、一向にそういった様子もなく、御神刀としての智慧を乞うては学びを得ることに熱心だった。
そういった彼女の姿勢は、戦を率いる審神者というより、神事に仕える巫女のようだった。
戦に不釣り合いなほど清らかな心と、熱心に祈る無垢さ。長く神宮に祀られてきた太郎太刀は、だからこそ、この主人をなかなか拒めずにいる。
弟は、そんな半端な立ち位置をふらふらしてばかりの兄に、ただ明るく接するばかりだ。戦に出るよう急かすこともなく、ただ一緒に酒を呑み、思い出話に興じている。
そんな弟の酒の入った笑顔は、耐えるような色合いはなく純粋に楽しそうだ。
少なくとも主人が弟を粗雑に扱う者で無かったことは僥倖だろう。
彼女の祈りが込められた葡萄酒は舌に甘い。
酒精に薄く甘ったるいばかりの、太郎太刀からすれば果実水に等しい軽い酒ではあったが、嫌ではなかった。
彼女が不在でも、この本丸には黄金の霊力が絶えず満ちている。
ひと月に一度補充するだけでどれほど浪費しても十二分に満ちる珠玉の霊力だ。透き通る金色は春風のように流れ、この本丸を照らす。この美しい輝きは、彼女の心根そのものなのだろう。
だからこそ太郎太刀には未だ、到底理解できないでいる。この霊力満ちる豊穣の象徴のような小麦色の瞳を、虐げる者の気持ちなど。
「そんな、馬鹿な」
彼女が長らく金眼を理由に虐げられていたことを知ったのは、それから随分と経ってからだった。
俗世に疎い太郎太刀には、金瞳を妖魔の子と排斥する風習など初耳だった。
「人の噂など勝手なものデス。刀ひとつ取ってみても明らかでショウ。神として崇める一方で、妖刀や化生などと恐れることもある」
この本丸では古参にあたる、千子村正はどこか達観したようにそう口にした。
「どれほど美しいものだとしても、それを虐げる者は必ず居マス。刀剣男士へすらソウなのデスから、彼女もそこから逃げるのは容易ではないのでショウね」
「許せない? なら、斬っちまうか!」
彼女と驚きを愛する白い鶴は、本物の化生の証を爛々と煌めかせながら、突然、明るく破顔一笑した。
「彼女を蔑んだ者、虐げた者、眉を顰めた者、何もかも首を落として、立ったまま地面に接吻させてやろう。
溺れるような血の海で、本物の金眼の化け物ってやつがどんなか、節穴の目玉にじっくり教えてやろうぜ?」
実に楽しそうに語る鶴丸国永の全身から漏れ出るのは、ゾッとするほど濃厚で歪な神気だ。
「それとも、生きたまま順に目玉をくり抜いてくってのはどうだ? 端から見たいものしか見ない目玉さ、くり抜いたって何も困りやしないだろ?」
「……あなた、本気ですか?」
「ああ、残った片目にまち針を一本ずつ百は刺して、お望み通り金物しか見えなくしちまうってのはどうだい? きっと滑稽だぜ?」
善は急げだ。夕飯に呼ばれる前に、さっそくどうだい?
現世への転送ゲートならオレが使えるぜ?
太郎太刀は、張り付いた喉を懸命に押し開き、俗世に疎い自分でも分かることを、ひとつ口にするのが精一杯だった。
「そのようなことをしては、彼女に咎が及ぶでしょう」
「連れて来ちまえばいいじゃないか。そうすりゃ彼女を誰も裁けない」
金眼を煌々と薄闇に発光させながら、にぱっと笑った白鶴の狂気にあてられて、太郎太刀は戦慄した。
泥ついた祟りが、ねっとりと纏わりつく。
「なぁに、ちょいと神罰が降りただけのことさ。人っ子の百や二百、消えたところで、神々には些細なことだろう?」
本気だ。
太郎太刀は咄嗟に刀に手をやったが、彼が柄頭を押さえ込む方が早かった。
まさに美しい鶴が舞い降りるかのごとく一瞬で距離を詰める。
息が触れ合うほどに肉薄した至近距離で、金色の瞳が、にまぁ、と嘲笑した。
「なぁんてな! さすがの御神刀殿も驚いたかい?」
さっと嘘のように殺気を仕舞ってしまって、じっとりと冷や汗を背中に伝わせた太郎太刀に美しく微笑んだ鶴丸国永は、一度パッと取った距離を、ゆったりと歩み寄った。
じり、と玉砂利を踏み締める音が、重い。
「なあ太郎太刀。主を想って理不尽に憤る、実に結構だ。だが、祟り方を間違えないようにな?」
すれ違いざまに、ぽん、と軽やかに肩を叩き、彼はぐいっと太郎太刀を引き寄せて左耳に囁いた。
「じゃないと、オレみたいになっても知らないぜ? な?」
覚悟はあるか?
オレと同じ轍を踏むか?
鶴丸国永という刀は、時にゾッとするような温度の無さで相手を試すことがある。
絶対零度で声無く試す鶴の視線は
こちらを射抜いて、太郎太刀を術で金縛りにでもしたかのようだった。
鶴丸はひどく主人を偏愛している。
幼い童をその羽で包み込むかのような愛おしげな振る舞いは
どこか狂気を孕んだ、歪んだ慈愛だ。
鶴丸国永は、彼女を愛しているが故に、一度は明らかに制御不能な状態に陥った。
愛した鶴の子から理不尽に四年も引き剥がされた。それを許せず、祟った。
刀剣男士とは本来、人に仕え、人に支えるものだ。それが、付喪神として神格を得てはいても、刀の在り方を忘れていないということだ。我らは人に使われるために在る。そこから外れれば化生の物怪だ。
だが、鶴丸国永は人に仕えてなどいない
彼女が迂闊にも呼んでしまったのは、彼女を鶴の子と見て離さぬ神だ。
鷹揚で楽しげな陽気を纏いながら
あれは手を叩いて誘って歌っているのだ。鶴が音を。
鬼さんこちら 手のなる方へ
鶴丸は、その両腕で彼女に目隠ししながら
底光りするような鋭い金眼で、その実、常に周囲を睨んでいる
己が腕から彼女を二度取り上げようものなら
その全てを滅ぼすまで止まらぬと
己が嘴をより紅く染め、その臓腑を啜るぞと
だからこそ、この本丸の全ての刀剣たちは
鶴丸の均衡を崩さぬように精神を削っている
柔和な笑みを浮かべている内は良い
万が一にも外れ、荒ぶることあれば
鶴丸の狂気が主人に向かえば、神殺しをせねばならない
そんな最悪の災厄が起きぬよう
鶴丸の狂気には、永久に寝静まっていて貰わねばならぬ
すまんなあ、光坊
特にきみには、とんだ世話をかけちまったなあ
本当はなあ、彼女が四年ぶりに帰って来たあの時、折を見て刀解を申し出るはずだったんだが
なにせ、あのやわこい手に捕まっちまってなあ。ついに機を逸しちまった。
まさかオレが、こうなっちまうとはなあ
迂闊に人の身を持っちまうと、何が起こるか本当に分からんな。まったく、このオレが一番驚いてるさ
今思えば、ほとほとさっさと折れておくべきだったが
彼女に政府の首輪が付いてる以上、今となっちゃ、そういうわけにもいかなくなっちまった。
オレが折れれば、政府どもはすぐさま彼女をここから引き剥がして
大義の名目で、青空すら自由に拝めん箱庭にぶち込むだろうな
ここに残った全ての刀は主人から永久に引き剥がされて、政府の都合で別の主人を仰ぐ羽目になるだろう
それを防ぐには、オレが簡単に折れるわけにもいかなくなった
あと数十年、数十年の辛抱だ。
彼女が笑顔で天寿を全うするその日まで
何としても、押さえ込んでみせるさ
最悪の場合、できればきみらの手を煩わせずに済むと良いんだが
まあ、そうも言ってられんような場合は、光坊、後は頼む
光忠はあの時、鶴丸に「万が一にも彼女を祟るような真似をするようなら、自分のことは折ってほしい」と頼まれ、「必ず」と答え、鶴丸の心からの笑みを一度だけ引き出している。
後を頼む、とは、そういうことだ。
降り積もる雪の中、本丸中の桜の霊木の冬囲いを終えた鶴丸が、寒さで頬を童のように赤くしてキシシと笑っている。
そんな鶴丸の両頬に手を伸ばした彼女が、白くやわい手で彼の頬を優しく温める。
彼女に合わせて身を屈め、白い息を吐き出しながら、鶴丸は幸せそうに笑っていた。
この優しく柔らかな光景が、永遠に続くことを願ってやまない。
どうか、どうか。
この光景を守れるのであれば、光忠はどんなことでもする覚悟だった。
たとえ、できることがどれほど限られていたとしても。
大倶利伽羅は、鶴丸が決して道半ばで敵に折られないようにするため、呼ばれた刀だった。
燭台切光忠は、鶴丸が狂った時に彼を折る役目を預けられた刀だった。
加州清光は。
鶴丸が望まぬ形で暴走するなら
それを力づくで止めると誓った刀だ。
たづがねはまだ鳴らない。
蓋を開けてみれば、鶴丸は最初から。
天命を全うした主と共に、骨壷を抱いて土の下で朽ち果てる腹積りだったらしい。
政府との密約は成り、生涯彼女を自由にさせる対価に、鶴は危険物封印処置を受けて桜の木の下に埋められた。気の遠くなるような時間を、錆びるまでそこに縛り付けられると決まったからだ。
光忠に折らせるのは最終手段であって、本当は端から自分の終わりを、光忠に負わせるつもりは無かったのだろう。
それを知った光忠の絶望たるや。
たづがねは鳴った。
たづがねは成った。
故に、ここには、鶴だけがいない。
葦鶴のひとりおくれて鳴く声は雲のうへまできこえつかなむ
鶴が独り取り残されて泣く声よ、どうか雲の上まで届いてくれ
百余年を重ねた春の日。
最初の主人を喪ってから枯れていた金色の桜は、再び咲き誇った。
「ぐす、ひぐ、おれ、おれが、どんな思いできみを見送ったと」
「ごめんねえ鶴るん、親より先に子が逝くのはアウトだよねえ。あの頃はわかんなかったんだ」
親に愛されたことの無かった彼女は、分からなかったのだと苦笑する。
鶴丸国永から与えられていた愛の形のその重さも、その狂気も。
ただただ、愛されていた。それしか分からなかったのだと。
あの子は帰ってきた。変わらぬ魂に、新たな身を得て。
確かに一度、彼女の天寿を見送った。
彼女の霊力が染み込んだ金桜の根に抱かれて、根の国に一番近い場所で
誰に掘り返されることも拒みながら、一世紀以上も土の下で錆びるまま過ごした鶴丸国永は
美しかった白い頬に消えない錆の痣をこさえ
その頬にやわこい手のひらが触れることを許した。
「ただいま、鶴るん」
「……っ無理だ、耐えられない、二度もきみを喪うことだけは」
「一緒に考えよ、ね? だいすきだよ」
たづがねはもう鳴らない。
▼ 鶴が音
鶴が鳴く声。一説に、鶴の声は非常によく通ることから、天国まで届くとも言われる。転じて、死した想い人を想って泣くこと。
《エピローグ、あるいは、遠い未来の再出発》
「バーカ、バーカ、バカバカバカ! ほんと馬鹿、馬鹿だろ、バーカ」
加州清光はひたすら罵りながら、ネイルセットをずらりと並べて、鶴丸国永の手を取っていた。
ありし日の軽快な軽口が嘘のように、彼は貝の如く口を閉ざし、されるままでいた。
その背後で、鶴丸に背を向けるように腰を落とした大倶利伽羅は、刀を抱いたまま存在を消すように黙っている。
彼が再び掘り起こされて随分経つ。
雪より白く美しかった彼の手は、百年以上に渡る副葬によって広がった錆で、あちこちがすっかり変色してしまっていた。
どれだけ手入れを重ねても治らないほどに醜く変形してしまった爪に丁寧にやすりをかけ、磨き、手を掛け、それでもなお残る錆の痕跡に、透明な下地を塗る。上から色を重ねれば、見目も少しはマシだろう。こんな悲愴な痕跡は見えるところに残さなくていい。ただでさえ、まるで火傷のようにかんばせに残っているのだから。
「おら、できたぞ。何色にするか言えよ。希望言わねーと女児みてーなショッキングピンクでだっせぇシマシマにすっぞ」
反対側の手を取って同じ手順を繰り返しながら、加州清光は目を離さずにそう言った。丁寧にやすりを掛け、磨き、労り、それでもなお残る錆に、透明を重ねていく。
黙々と作業を続ける加州に、最後は右手の小指だけだという段階になって、黙りこくっていた鶴丸国永は深く項垂れ、蚊の鳴くような声でかすかにこう言った。
「あの子の金を」
「ぶぁぁぁか、マジ馬鹿、ほんっと馬鹿」
もはや儚げな雪一色でなくなってしまった頭を、スパンと思いっきり引っ叩いて
加州はずらりと並んだ爪紅から金色を取り出し、ことさら丁寧に塗り重ねていった。
太郎太刀は、襖一枚隔てた場所で、背を向けたまま目を閉じてじっと立っていた。
鶴丸国永から交代で目を離さないのは、古い代から本丸を仕切っている長谷部の厳命だった。奴が衝動的な行動を取っても抑え込めるようにと、実力行使に臨める刀が輪番で見張りを立てている。
ととと、と渡り廊下を走る足音がして、太郎太刀は顔をあげた。
駆け寄る彼女の両脇に、ゆったりと後ろから追う堀川国広と和泉守兼定が控えている。
廊下の向こうで彼女は笑った。輪廻した器は既に違うのに、不思議と足音も笑顔もかつてと重なる。
「たろちゃんっ」
「はい。彼なら中です」
「うん、鶴るんにもだけど、先にたろちゃんに見せよーって思って」
にぱっと笑った彼女が、両手の甲を掲げて笑った。
太郎太刀の視界で、きらっと光がゆらめく。
「堀ちゃんがしてくれたの! ほらっ! たろちゃんとも、お揃い!」
太郎太刀は大きく目を見開いた。
彼女の両手の爪には、輝く金色が踊っている。
背後で堀川国広が、そしてなぜか相棒の仕事に和泉守兼定まで得意げだ。
「ほら、かしゅーが塗るって言ってたから、わたしもお揃いにしてもらおうかなって思って。そしたらちょっとでも、さびしくないでしょ」
金色の爪紅を掲げた、心から愛刀をいたわる優しげな笑顔には、かつてあった影は無い。
太郎太刀は、静かに目を細めた。
かつてと同じようで、違うこともある。違うようで、同じこともある。
彼女は笑った。同じで違う笑顔で。
「どう? 似合う?」
笑いかけられた太郎太刀は、心から口にした。
「ええ。素敵ですよ、とても」
「ふふ、ありがと。あ、でも鶴るん、もう他の色塗っちゃってるかな」
「思ってもいないことを」
「あは、ばれた?」
悪戯が見つかったような顔で舌を出して、彼女は確信した顔で襖を開けた。
迷わず中に入っていく彼女と側仕えの刀たちに、太郎太刀は、少しだけ肩をすくめ、後ろ手で襖を閉めた。泣きそうに笑み崩れる鶴丸国永の表情を、確かめるまでもないことだったから。
鶴丸の手を取った彼女の両手の中で
美しく重なる金の爪紅
彼女は迷わず手を引いて微笑んだ。
「行こっか、鶴るん」
次の春を一緒に観に行くために。
《カーテンコールの向こう側まで》