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貴方の全てを手に入れる(R18)

全体公開 49 24786文字
2025-04-20 16:33:08

希佐√10年後、不治の病に罹った希佐ちゃんと心中する田中右先輩のミギキサです。

希佐√10年後、不治の病に罹った希佐ちゃんと心中する田中右先輩のお話です。
⚠後味良くしてるけど死ネタです
⚠R18です

大丈夫な方はどうぞ。







「俺も共に行く」

哀愁を帯びた瞳で告げられたのは、春の風がやさしく頬を撫でた穏やかな日だった。



貴方の全てを手に入れる



もう舞台には立てない。

そう医師に言われたのは、24歳になったばかりの春の日だった。
端的に言えば、筋力が衰えていく病気らしい。「らしい」としか言えないのは、それがまだ解明されておらず、治療法すら見つかっていない病気だからだそう。
少しずつ、当たり前だった日常が失われていく。走れなくなり、歩けなくなり、最終的には、動くことさえも叶わなくなる。
抗いたくてトレーニングをしたいと言ったら、それに意味はないと告げられた。むしろ、そう遠くないうちにトレーニングができるような身体ですらなくなるのだと。

寿命は持って3年。早くて1年。

白衣を着た壮年の医師は、口髭を撫でながら、どこか機械的な口調で言った。その瞬間、自分の体が音もなく崩れていくような錯覚に襲われた。
絶望に叩き落とされたような、自分の体が自分の物じゃなくなるような、そんな感覚。
ぐるぐる、ぐるぐる、と視界が回って。
目の前にいる医者も、周りに見える机も椅子も、全てが遠くなって、私だけがこの世界に独り残されたように感じて。
何で私が、とか何で今なのか、とか負の感情が、押しては引く波のように頭の中を満たしていく。何も考えられず、ただ、震える声で「はい」と人形のように返すのがやっとだった。

そのあと、どうやって帰ったのかなんて覚えていない。
覚束ない足取りで病院を出たあと、多分タクシーに乗ったのだと思う。意識のないまま、誰かに身体を乗っ取られていたような、そんな感覚だけを今でも妙に覚えていた。







定期的に通う検診でわかったのは、私は“進行が遅い方”だということだった。
「三ヶ月で走れなくなるでしょう」と医師は言った。けれど、私の身体は思ったよりも粘り強く、半年が過ぎてようやく、思うように走れなくなった。
簡潔に言うと、躓いてしまうのだ。
走るたび、足がもつれて転びそうになる。足首に重たい鎖でも繋がれているかのような、なにかを引きずるような感覚が常につきまとった。
頭では確かに動きをイメージしているのに、身体がその指令を無視する。積み上げてきたものが、一瞬にして崩れ去っていく音がした。

一度稽古中に倒れたときは本当に死にたくなった。舞台仲間の皆は足を使わなくてもいい役をと試行錯誤してくれたけど、惨めすぎてその舞台は辞退した。
舞台には立てなくなったけど、それでも「契約期間は終わっていないから、君の感性が欲しい」と、玉坂座の上層部に言われ、残った。
後輩にアドバイスをして、舞台の説明をして、私だけに見えていた世界を教えて、なんの意味があるのだろうか。
演じることができないのに、踊ることができないのに、歌えないのに、ここにいる意味があるのだろうか。

と、死んだような心地で呆然と生きてきた。

神様は私からを生きる意味を奪っていった。ならもう、ここにいる意味はない。







私は玉坂座をやめた。友達や先輩、かつての恩師たちにはしつこいくらい止められたが、最後には私の意見を尊重してくれた。
このまま玉坂市にある自宅に閉じこもっていたらまた皆に迷惑をかけてしまうと思い、私は家を引き払って旅行に行くことにした。
初めての一人旅だ。
なのに……



あの人は、目の前に居た。

「田中右先輩……

目の前にはかつての先輩が立っていた。会うのは何年ぶりだろうか。私が初めて玉坂座の舞台に立った後すぐ、田中右先輩は海外へ行ってしまったから多分それきりだ。
当時は田中右先輩が玉坂座を辞めて海外進出するとそれはもう騒ぎになった。きっと色々と思うことがあったのだろうけど、彼の出自的にも私も彼は玉坂座にいるものだとばかり思っていたから驚いた。

「お久しぶりです、田中右先輩。日本に帰ってきてたんですね」
「休暇だ」
「え、休暇?」

演劇一筋の彼は、なにかを理由に稽古を休むなんてことは絶対にしなかった。田中右先輩は己が己である為に昔から変わることなく揺るぎない信念を貫いて来た人だ。曲げることなど絶対に無い。あってはならない。例え壁にぶち当たったとしても、根本的な信念は絶対に見失うことなく、乗り越えていくのだ。だからこそ、田中右先輩はこんな所にいるべきではない。
けれど、私のそんな驚きもよそに、田中右先輩は静かに言葉を続けた。

「玉坂を出るのか」
「え……あ、はい」
「俺も共に行く」

そう言って田中右先輩は私のスーツケースをひったくると先へ進んでいった。固まっていた私は正気に戻ると小走りで田中右先輩についていく。彼を止めるために。

「田中右先輩!待ってください!」

スーツケースを引こうとする田中右先輩に抗うように後ろへと体重をかけるが、筋力が衰えた私にとって、彼の足取りはあまりにも強く、速い。赤子が大人に抗うようなもので、私はずるずると引きずられていく。
田中右先輩はそれで諦めてくれると思っていたらしい。無情に引き摺られようとも抵抗は止めなかった私を見て、ようやく足を止めた。
こちらを振り返り、眉をひそめる。怒っているとでも言いたげな険しい顔をしていた。

「ここで腕を折られるか、俺と共に行くか」

田中右先輩は、まるで天気の話でもするような調子で言った。

「お前の腕を折ったら、今から入院だ。そうだな……根回しでもしてやろう。たった一言、『こいつは不治の病を患っており、絶対安静だ』とでも言えば、お前はもう、どこにも行けない」

一歩、彼が踏み出すたびに、私は言葉を失っていく。

「どちらを選ぶ?」

選択を委ねておきながら、私にはひとつしか残っていない。結局、どちらを選んでも田中右先輩からは逃れられないのだ。旅に出ても、田中右先輩は隣に居る。腕を折られたら、どこにも行けないまま、この人から離れられない。
演劇界の神と称される人が、どこからか私の話を聞きつけて、休暇を取ってまで私についてくるという物語のような展開だ。
めちゃくちゃなのに、私はその事実に確かな歓喜を覚えてしまった。昔からそうだ。この人は執念深い。
執着とも呼べるそれは、田中右先輩に正常な判断を欠けさせたように見せておきながらも、その執着すらも自らの利益になるようにコントロールしてみせる。彼はそういう人だ。

怒りたいなずなのに。怒って、突き放す言葉を浴びせたいはずなのに。その一つも出てくることは無かった。
理由なんてとうに分かっている。私も一人ぼっちが怖いのだ。相変わらず、なんて狡いのだと自嘲した。

「わかりました。一緒に行きましょう」
……

咄嗟に離された腕は、薄く赤い跡が残っている。随分と細くなった腕。今では田中右先輩の手が余るくらい、一回りほど細くなっている。それに気づいた瞬間、己の軟弱さが恐ろしくなって、私は思わずその腕から目を逸らした。

「実家に帰るのか?」

私の心情を感じ取ったのか田中右先輩から訊ねられ、私は力なく首を横に振る。

「まだ、帰りません。旅行、するつもりでした」

その後に、実家に帰って父と共に最期の時間を過ごそうと思っていた。きっと数ヵ月後には、歩くことさえできなくなるだろうから。自分の体は、自分が一番よく分かっている。
その前に思い出作りをしようと思っていたのだ。どうせ、遠くないうちに死ぬ身だ。最期くらいは全てのしがらみから解放されて、自由に遊びに行きたい。芸能人なのだから、年俸だって田中右先輩よりも少ないがそこそこある。だから、演劇三昧で特に使うことのなかったお金をこの旅行に費やそうと決めていたのだ。

本当は舞台に立ちたいけれど。情けない演技を見せたくないから。

「田中右先輩」

これは、世界と円満に別れるための交渉だ。
田中右先輩の裾を軽く引いて、私はその目を見上げる。敏すぎる人に柔らかい部分がバレないように、できる限り心を閉ざして。

「私の旅行が終わったら帰ってください。それで、全て終わりにしましょう」

いつものように、田中右先輩は無言のまま観察するような視線で私を見つめた。
上から下へ。そして最後に、細められた目が私の瞳に重なる。
逸らしたら、心の奥を暴かれる。
だから私は、瞳孔を縮めず、泳がせず、平静を装って、取り繕ったような笑みを浮かべた。

……あぁ」

完敗だとでも言うように、田中右先輩はキャリーバッグから手を離した。
この日のために選んだ、軽量のキャリーバッグ。買っておいてよかったな、と過去の自分に小さく感謝した。

「行くぞ」

これが最後なのだと噛み締めるように、学校を卒業してからの6年間を過ごした第二の故郷である玉坂市へ背を向けて一歩、二歩と進んでいく。
こうして私と田中右先輩の世界最後の二人旅は始まった。









電車に乗って数時間。ようやく固いコンクリートの上に足を着けた。
珍しく、田中右先輩も隣で眠っていたらしく、着いた時には眠たそうに目を擦っていた。

「つかれたぁ……

ボロボロになった駅のホームから一歩踏み出すと、辺りは自然に囲まれており、見上げた空は日が傾きかけていて美しいグラデーションに染まっている。西日の眩しさに、目を細めた。

ぐぅ、と両手を上げて伸びをして新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
長時間座りっぱなしだったうえに、変な体勢で眠っていたせいで身体中が軋んでいたが、伸びのおかげで幾分か気持ちいい。

「こんな所に何しに行くんだ」

ボロボロなホームにまったく似つかわしくない彼に、旅行の目的を簡単に説明する。

一番の目的は桜を見に行くこと。

そう伝えると、隠す気も無い訝しげな表情を向けられる。「たかがそんなことか」とでも思ったのだろう。
予想通りすぎる反応に苦笑していると、ふと目の前に黒い影が近付いてきて、「にゃあ、にゃあ」と鳴きながら田中右先輩の足元へと擦り寄った。
黒猫だ。

「可愛いですね」
……
「猫は嫌いですか?」
「どちらでもない」
「嫌いじゃないなら撫でてあげてください」

見たところ、首輪も付けていない。きっと野良猫だ。私の言葉に田中右先輩は少しだけ訝しげな顔をしたが、もう一度「さあ」と促すと、しゃがみ込んで黒猫を撫で始めた。
猫も「撫でろ」と言わんばかりに顎を上げて見上げており、ふてぶてしい態度が目の前の傲慢不遜な人と似ている。
黒猫は、気持ちよさそうに目を細めて、撫でる手を当然のものとして甘受している。
あの様子では、きっと自分のことを王様かなにかとでも思っているのだろう。

そんな姿を眺めながら、「そういえば」と、もう一つの目的を思い出す。
ポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきでカメラアプリを開く。夕日の逆光のせいでピントがなかなか合わないけれど、私はプロのカメラマンじゃないから、まぁ、これで良いだろう。

パシャリ。
シャッター音と同時に、田中右先輩がこちらを振り向いた。一瞬驚いたような顔をした田中右先輩は、どこか黒猫に似ていた。
案外可愛いところもあるんだな、と思う。いつもこうならもっと親しみやすいのに。

「何を撮った?」と訊ねて来るので、奪われる前にさっとスマホを後ろに隠す。

「私の見る景色を撮っておこうと思って」

そう笑って返すと、田中右先輩は「そうか」とだけつぶやいた。それ以上何も言わずに、再び猫へと視線を戻す。
これは、私の見る景色。私の瞳に映ったものたち。誰かに見せるつもりはないけれど、なんとなく、残しておきたくなったのだ。

すでにスマートフォンのアルバムにはいくつもの写真が並んでいる。朝食のパン。稽古場へ向かう途中の街路樹。気まぐれに見上げた、雲の多い空。
田中右先輩は、猫を撫でていた手を止めると、ふいにその身体を抱き上げた。
腕の中の黒猫は、琥珀色の瞳をこちらに向けてくる。
星のように深くて、吸い込まれそうな色。私もその場にしゃがみ込み、そっと頭を撫でてやった。

顎に指をやると、擽ったそうに身体をよじり、背中を撫でれば満足そうにぐいと反らせて、気持ちよさそうに目を細める。
頭から背中へ、ゆっくりと手を滑らせていくと、そのままごろんと伏せてしまった。
野良にしては、ずいぶん人懐っこい。きっと、ここに住む人たちに可愛がられているのだろう。
そんなことを思いながら、柔らかい毛並みに手を埋めていると、ふいに声をかけられた。顔を上げると、田中右先輩がスマートフォンを手にして、こちらを見ていた。

「撮ってやる」
「私をですか?」
「ああ。持てるか」
「あ、はい。それくらいは大丈夫です」

戸惑いながらも腕を伸ばし、黒猫を抱き上げて胸の中にそっと収める。案外おとなしい猫のようで、暴れることもなく爪も立ててこない。
ほっとしながら撫でてやると、くるんと丸めた尻尾を揺らしながら「にゃあ」と鳴いた。
その声があまりにも可愛くて、思わず頬がゆるむ。

パシャリ。

軽いシャッター音が耳に届いた瞬間、黒猫がぴくりと反応し、次の瞬間がぶり、と私の腕を甘噛みした。

「いた!」

軽く甘噛みされた腕を押さえながら、私は猫をそっと降ろした。すると、猫はくるりと背を向け、まるで役目を終えたかのように、すたすたと歩き出す。
まるで自分の魅力を見せつける為に写真だけ撮られに来たみたいだ。そんな気まぐれな後ろ姿を目で追って、ふと、気づく。

後ろ足を、引きずっている。

その瞬間、視界が揺らいだ。地面に縫い付けられたように足が動かなくて、身動きが取れなくなっていく感覚に陥る。
はっと息がこぼれ、足元の地面へと落ちた。
だって――
その猫の姿はまるで、

「私と、おんなじだ」

ぽつりと零れたその言葉は、夕日に溶けて消える。なんてことは無くて、隣にいた田中右先輩の耳に、確かに届いただろう。
その証拠に、息を飲む音が、はっきりと聞こえた。
まずいことを言った。咄嗟に笑って誤魔化そうと、ぽりぽりと頬をかく。けれど言葉は出てこない。なにを言えばいいのか、わからなかった。
ちょうどその時、バスのブレーキ音が耳に届いた。静寂を破るように、田中右先輩が短く言う。

「行くぞ」

声に導かれるように私はバスに乗車した。







辺りがすっかり藍色に染まりきった頃、ようやく私たちは旅館へと辿り着いた。外観は古めかしくも風格があり、灯りの漏れる玄関先にどこか安堵を覚える。
靴を脱いで中へ入ると、すぐに女将さんが現れ、丁寧に出迎えてくれた。
チェックインを済ませ、案内されるがままに廊下を歩いていく。床に足を取られぬようにそろそろと進みながら、ふと、鼻腔をくすぐる懐かしい匂いに気づいた。
高級旅館に相応しく、部屋は畳の匂いが充満しており頬を緩めた。旅の疲れが、ふっとほどけていくようだ。
襖で仕切られた奥の部屋には、ちらりと見える布団の影。おそらく、もう寝支度が整っているのだろう。

「ごゆっくり」という言葉とともに、すとんと扉が閉められたのを確認して、私はほっと息を吐きながら畳の上に座り込んだ。
体力が随分と減った所為か、ふくらはぎがじわじわと痙攣している。
細くなった脚を揉みながら少しずつ呼吸を整えていると、私の代わりに荷物を整理し終えた田中右先輩が隣に腰を下ろした。

「体調は?」
「ちょっと怠いですけど、寝れば明日には響かないと思います」
「体力は?どれぐらい進行した?」
「走ることはできないです。歩くのは、まだ大丈夫ですけど」
「無理はするな。何かあったら言え」
……はい」







外を見ると、駅から降り立ったときとは打って変わって、雲が広がっていた。星が見えない真っ暗で物寂しげな夜空を眺めながら、温泉でゆったりと身体の疲れを癒した。
このまま寝てしまいたい心地よさ。でも、それでは高級旅館の夕食を逃してしまう。頬をぱちんと叩いて目を覚まし、まだ名残惜しさを抱えたまま案内に従って部屋へ戻る。

部屋の戸を開けると、温泉から上がって浴衣姿に着替えただろう田中右先輩がいた。さすがは世界と戦っている役者だけあって凄まじい色気だ。
ついつい目線を逸らせば、田中右先輩はドライヤーを持って「髪を乾かしてやる」と言った。
え、と戸惑う私に構わず、田中右先輩は手招きする。言われるままに、その足の間にちょこんと座り込む。
田中右先輩に髪を乾かしてもらう。なんだか現実味がないなと思いながら頭皮に当てられる熱風と心地よい手つきに身を委ねるように目を閉じる。

…………田中右先輩、熱いです」
「ん?あぁ、考えごとをしていた」

そう言って、再び手が動いていく。上から下に頭を撫でるように髪を梳く。単純な動きだが、田中右先輩は私がやるよりも数倍丁寧に私の髪を扱った。


「明日、どこ行くんだ」

髪を乾かし終わった頃に運ばれてきた旅館の懐石料理を堪能し、まったりくつろいでいると、田中右先輩は急に私の体を軽々と持ち上げ、布団へと投げ飛ばした。
思わず叫んだものの、先輩はどこ吹く風といった様子で私の足元へと座り込み、無言でマッサージを始めた。それがとっても気持ちよかった。
田中右先輩のことだし、人体の構造だとか、ツボだとかを知っているのだろう。
だから大人しく、かれこれ10分ほど足を揉まれている。

ぐいぐいと私のふくらはぎを揉みながら訊ねる田中右先輩に、スマホで検索した場所を見せる。

「ここです。ちょっと登らないといけないんですけど、桜がキレイらしいです」
…………お前は、」

その先の言葉は、口にされなかった。
言いたいことはわかっていた。この足で1人で登れるのか……それを言いたかったんだと思う。
確かに、本格的な登山じゃないけれど、山登りであることには違いない。簡単には登れない道だってある。
見かけによらず素直で優しいところがある人だ。相当な体力を使うのだからと、心配してくれたのだろう。

「終わった。立ってみろ」
「あ、はい」

言われるままに体を起こし、そっと足を床につけてみる。さっきまで痛みと重さが残っていたふくらはぎが、嘘みたいに軽かった。
感嘆していると、田中右先輩も立ち上がって私の手を取った。

「少し外に行くぞ」
「外?今からですか?」
「あぁ。明日に響かない程度に散歩でもしよう。ここは庭園が美しいと聞いた」

どうだ?と柔らかく訊ねられるものだから断ることもできず、小さく頷いた。


▪︎
▪︎
▪︎


春とはいえ、夜の空気はまだ冷たい。羽織をそっと肩にかけられ、そのまま田中右先輩に連れられて庭園へと歩き出す。
途中、何人かの宿泊客とすれ違ったが、一目されるだけで声をかけられないということは、私たちに気付いていないのだろうか。
目の前にすごく目立つ人が居るのに意外だなぁ、と思いつつも、気付かれていなくて良かったとホッとする。

「案外気づかれないものですね」
「俺は海外を中心に活動している。日本での知名度はそうない」
「そんなことないですよ?玉坂座でも先輩が新しい舞台をやる度にすっごく話題になってました」
「そうか。だが、どのみち俺がここに居るとは思われないだろう」

その言葉と共に、繋いだ手が一瞬、ぴくりと震えた。
忘れてしまいそうになるけれど、田中右宙為は、いま“休暇中”なのだ。本来ならこんな場所にいるはずがない。
海外で稽古を重ね、数週間後に控えた公演に向けて全身全霊を注いでいる、そんな時期のはずだった。
私の隣に、居るはずがない。
居ては、いけない人なのに。

「俺は帰るつもりはない」
「は、……え?」
「顔に書いてある。言っただろう?俺は自分の意思でお前の隣にいる。俺の意思を否定することは誰にも出来ない」
……

いつだってそうだ。私の意思なんてこの人にとっては関係ない。
自分勝手で、強引で、一人で全部を決めてしまう。
悶々とするけれど、その手を振り払えないのは隣に居てほしいからで、結局は私も田中右先輩と同様に自分勝手なのだろう。
田中右先輩は私の方を一度見て、ふっと視線を逸らしたかと思えば、くるりと身体の向きを変えた。繋いだままの手を引いて、歩き出す。

はやく歩けない私に合わせて、小さな歩幅で。

その姿が、くすぐったくて、
同じくらい、胸の奥で罪悪感を募らせた。







田中右先輩の言う通り、庭園は言葉にできないくらい美しかった。

カコン、と時折響く鹿威しの音や、遠くから聞こえる虫の声さえもこの美しい庭園を彩る欠かせない一部のようで、縁側に立ちながらそっと目を閉じ、春のやわらかな空気を胸いっぱいに吸い込む。
暖かくて包み込まれるようで、それでも肌寒さが残る。
優しくて、少し物寂しい空気。

そんな空気に触れているうちに、胸の奥からじわじわと虚無感がせり上がってきた。誰にも見られないように、心の奥底に隠していたいた感情。自分自身さえも、見て見ぬふりをしていた。
だけど今、その蓋が外れてしまったようで、ぽっかりと心に空いた穴から、真っ逆さまに落ちていくような恐怖に襲われる。
どうしようもなく泣きたくなって、それを隠すように空を見上げた。
空は私の心を映したように重く曇り、分厚い雲が月をすっかり覆い隠していた。
今にも雨が降り出しそうなその空に、月の光はひとかけらも見えなかった。

もし少しでも月の光が届いていたなら、きっと、何かが変わったかもしれない。

でも今は、闇しかない。静かに広がるその暗闇が、私の心をじわりじわりと覆っていく。

「撮らないのか?」

そっと撫でるような声が耳に届いた瞬間、瞼の裏がじんわりと滲んだ。
誤魔化すように笑ってみせて、スマホを取り出す。

……撮ります」

見えもしない月に向けてカメラを構える。けれど、震える手はどうにも止まらなくてなかなかピントが合わない。
画面に映るのは深い闇。空なのかすら、もうわからない。
意味もないそれを撮る音が静かな世界に響く。その音すらも鬱陶しく感じて、私はスマホを乱雑にしまい込んだ。

「立花希佐、何を考えた」
「え……

唐突に手首を捕まれ、そう問われる。
何を聞かれているのか、わかっている。
ずっと知らないふりをしてきた。でもこの人は、私の嘘を見逃さない。

「曇ってて、残念だなって」
……偽りだ」

何を望んでいる。
田中右先輩は妙に落ち着いた声で、諭すように言った。
手首を掴んでいたその手はもう力を緩めていたのに、私はなぜか振り払えずにいた。

「立花希佐、透明な器。これ以上己を偽るな」

そうやって何度も名前を呼ばれるたびに、胸の奥に沈めていた感情が少しずつ浮かび上がってくる。
私は瞬きをひとつして、ゆっくりと田中右先輩を見つめた。
ひく、と喉が鳴る。

「私、ッ、………………わたし、は、、ッ」

私だけ舞台に立てなくなっていく中で、舞台に立っている皆が羨ましくて。
なんでいつもこうなんだろうって。なんで、私ばかりがこんな目に合わなくちゃいけないのって、何度も叫びそうになった。
思考は言葉になるという。いつの日か、同じ時を過ごした仲間たちに醜い心がバレてしまうのがどうしても嫌だったから、だから玉坂座をやめた。
こんな自分を誰にも見せたくなかった。継希にいのように、最後まで、「舞台役者の立花希佐」でいたかったのに。
なのに、田中右先輩は許してくれなくて。

「生きて、もっと演じていたかった。死ぬ瞬間まで、舞台に立っていたかったッ!」

15歳のときから、10年間。夢のような時間だった。ずっと幸せだった。
いつの間にか当たり前だと思っていたけれど、当たり前じゃなかったんだ。

——怖い。
——失うのが怖い。

全身が恐怖で埋め尽くされ、極寒の地に独り残されたように、カタカタと震え出す。

「怖いです。…………死ぬのが怖いです、田中右先輩、」

死を目の前にして初めて、漸くわかった。わかってしまった。
もう、戻らないことに。あの高揚はもう二度と、手に入れられないことに。
ぽたりと零れた涙が、地面に小さなシミを作る。ひとつ、またひとつと。増えていくそれを虚ろに眺めてから、浴衣の袖で乱暴に拭った。拭っても拭っても袖の色を変えていくだけで、涙は止まらない。ぎゅうっと固く閉じても、瞼の隙間から溢れ出てくる。

「なん、で…………私、なんですかね………なんでっ……………なんでッ!!」

なんで私ばっかりがこんな思いしなきゃならないんだろう、と。なんでこんなにも世界は理不尽なんだ、と。
今まで奥底に貯めていた25年分の思いを嘔吐きながら吐き出していく。延々と水を注がれ続けていたバケツがついに容量を超えてしまったかのように、とめどなく溢れてくる思いは止まらない。
田中右先輩に、無責任に理不尽に罵声を浴びせた。
誰かを傷つけたくなんてなかったのに、気づけば傷つけてしまう。
傷付けて、傷付けてしまったことに傷付いて。傷を重ねて治らない傷痕ばかりが心に残る。
それでも田中右先輩は何も言わず、ただじっと、琥珀色の瞳で私を見ているだけだった。

「もっと演じたかった。もっと、ずっと、いつかは先輩とも舞台に立ちたいって思ってたのに、もう、叶わない」

そのとき、田中右先輩の手がそっと私の頬に触れた。まるで壊れものを扱うように両手で優しく包み込む。
冷たいはずのその手に、なぜぬくもりを感じた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭うように親指でそっとなぞって、わなわなと震える唇に、ゆっくりと口付けられる。
そのぬくもりは、少しだけしょっぱかった。
視界の向こう側にいる田中右先輩は緩慢に瞬きをしてから目を細めた。

「立花希佐」

まるで何かを誓うように、私の名を呼んだ。
刹那、春の日に相応しくない、冷たく凍えるような風が2人の間を過ぎ去った。




「共に死のう」










——共に死のう。

その言葉が耳に届いた瞬間、脳は意味を理解しきれなかった。けれど身体は本能的に拒絶するように、咄嗟に田中右先輩の胸を押し、距離を取っていた。
いつの間にか、あれほど流れていた涙も止まっている。まるで栓をされたように感情すら凍りつく。
全身が、その言葉を否定していた。
ダメだ。それだけは、ダメだ。絶対に。それだけは。

「なにを、いって」

喉がひゅうひゅうと鳴る。私の周りだけ酸素が薄くなってしまったようで、途切れ途切れの言葉の合間に必死で呼吸を吸い込んだ。
視界が滲む。その向こうで、田中右先輩がどんな表情をしているのかは、もう見えなかった。
けれど、恐ろしいほどに冷静な声だけは、はっきりと耳に届いた。
まるで“死”に、微塵の恐怖も抱いていないかのような声色。

ぐらりと視界が揺れて、私はその場に倒れそうになる。とっさに抱きとめられた身体を突き飛ばそうとしたが、背中に強く回された腕の所為で叶わなかった。
ひゅうひゅうと呼吸が細くなっていく。肺が縮んでいるのか、身体に空気が入ってこない。

「落ち着け、立花。俺に合わせて呼吸をしろ」

トン、トン、と一定のリズムで背中を叩かれ、彼が数える声に合わせて私は小さく息を吸い、吐いた。
吸って、吐いて、また吸って。
脳に酸素が巡り、少しずつ意識が戻ってくる。浅く短い呼吸を繰り返しながら、どうにか地面に立ち直る。
「落ち着いたか?」と優しく訊ねられ小さく頷いた。

「戻るぞ。それから話をしよう。風邪を引く」

そう言って田中右先輩は私の手を掴み、歩き出す。
先程よりもずっと大きな歩幅、早いスピード。それは、見慣れた田中右先輩の歩き方だった。
安心する反面、変わってしまった距離の遠さに心臓の奥が焼けてしまいそうだった。







「座れ」

私の心とは正反対の落ち着き払ったその声に従うように、よろよろと座り込む。
高級布団は、崩れるように座った衝撃を吸収してくれるので痛みは感じられない。
私が座ったのを確認すると、田中右先輩も向かい合うように胡座をかく。静かすぎる空間に妙な気配が漂っていた。

「立花希佐」

まるで抱きしめられているようなまろい声に、びくりと肩を震わせた。

だめだ。否定しないと。ちゃんと、ダメだって言わなきゃいけない。

田中右先輩はまだ生きられる人だ。私と違って、役者として、これからもっと上に行く人。
昨日までの私なら、きっと言い返していた。この人のせいだ。田中右先輩が全て狂わせて。だから、何も言えないのだ。
どれだけ頭で考えても、この人の前だけでは何の役にも立たないことは、とっくに知っている。
私たちはほとんど同時に口を開いた。けれど、私は言葉にはならなくて。先に音にしたのは、田中右先輩だった。

「お前は、立花希佐は、俺の中で大きすぎる存在になった」

感情を押し殺しているような抑揚のない声。
再び「立花希佐」と名を呼ばれ、とん、と肩を押されよろめくのを、反射的に田中右先輩の腕を掴んで耐えようとした。
……けれど、力は入らなかった。
そのまま、私はあっけなく布団の上に倒れ込み、気づけば田中右先輩が私の上に跨っていた。
重さに呻きながらも、せめてもの抵抗のつもりで、上から覗き込む琥珀をそらさず見つめた。

「な、にを………
「わからせてやるだけだ。こうでもしないと、お前はずっと否定し続ける」
「当たり前です。何で、先輩が……死ぬ必要なんか、ないですし……
「あぁ、無いな」
「っ、だったら!もっと、舞台に立ってください!どこまでも、上に……貴方はそういう人でしょう!」

誰かのために何かを捨てたりするような人じゃない。全て自分の為だけに行動する。田中右宙為とはそういう人間だ。
しかし、

「俺を変えたのはお前だ。人の温もりも、愛も、憎悪も、執着も。幸福というものを教えたのはお前だ。立花希佐が俺を変えた。今さらそれを失えと?」

田中右先輩は変わってしまった。出会った当初よりも、明らかに。変わりすぎてしまったのだ。
立花希佐という、たった1人の人間によって。良くも悪くも、人生を狂わされてしまった。
そのことに気付かないほど、鈍感ではない。
ずっと会わなくても、連絡を取っていなくても、私達は心の何処かで常にお互いを意識していた。

「何も言い返さないということは、気付いているんだろう?」

田中右先輩の右手が、私の首にかかる。ひんやりと冷たい手が、僅かに食い込んだ。
顔を顰めた私をお構い無しに、田中右先輩は言葉を続ける。

……細くなったな。少し力を入れれば折れてしまいそうだ」
「っ…………

脳がゆっくりと靄がかる。緩やかに、血の巡りが滞っていく。
まるで深い海の底へ、静かに引きずり込まれていくようだった。

「は、っ………田中右、せんぱい」

殺されるんじゃないかという恐怖に、首に巻き付けられた手を引き離そうとするが、力の差は圧倒的だ。剥がせるはずがない。
ぎりぎりと食い込む指の感覚に比例して、生理的な涙が滲み視界が霞んでいく。
どれだけ訴えても、田中右先輩は力を緩めてなんてくれなかった。

「苦しいか?」
「あた、り、まえ……ですっ、」
「俺もだ」

俺も苦しいんだ、希佐。助けを乞うように、田中右先輩は言った。
その口角は上がり、目尻は優しく下がっていて。田中右先輩は笑ったのだ。
私の顔をすべて覆えるほど大きな左手は、田中右先輩自身の首に宛てがわれており、私のと同じように白い皮膚をゆっくりと沈めていた。

「俺は、お前が居なくても生きていける。落ち込むかもしれない。不調になるかもしれない。それでも、記憶はいつかは風化していき、立ち直れる日が来る。そうして、いつも通り舞台に立ち、己の存在を証明していく日々を過ごしていくだろう」

これからのあるべき未来を辿るかのように淡々と話していた。
田中右先輩は私が居なくても生きていける。改めて田中右先輩の口から聞くと、じわじわと実感が湧いてくる。心臓に穴が開けられ、そこに冷たい風が吹き抜けるような心地だった。

「それでも、立花希佐。お前の居ない世界は、」

田中右先輩は、目を伏せて淋しそうに笑った。

「酷く息苦しい」

頬に冷たいものが伝う。それが涙だと気づいて、私はそっと田中右先輩の目元をなぞった。
けれど、彼の瞳は、ひとつも濡れてはいなかった。

「最初に言っただろう。俺も行く、と」

確かに聞いた。記憶にしっかりと残っている言葉。
あのとき、玉坂市を去るとき、彼もまた何かに別れを告げたのだろうか。
何か。何かを否定したかったけれど、音になんてならなくて。
田中右先輩に生きて欲しいって思いと、独りで死にたくないって思いとで、思考がぐちゃぐちゃで。
唇が震えた。

それを見た田中右先輩は、私を慈しむように笑った。私の真価を確かめるような。そんな笑顔だった。

「立花希佐、お前は俺が知る中で最も貪欲な女だ。その心に従って、俺を道連れにすればいい」

ああ、どうして。死んでほしくなんかないのに。私のいない世界でも、ずっと輝いていてほしかったのに。
田中右先輩はたったの一言で私の全てを覆していく。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、思わず笑ってしまった。

バカバカしいと、そう思ってしまったのだ。
うだうだと悩んでいた自分が情けない。色んな思いが入り交じって、自分自身を見失っていた。
傷つけたくないだとか、忘れて欲しくないだとか、そんなことはもう、どうだっていい。
私が本当にしたいことはもっと他にあった。逃げるように玉阪から飛び出してきたのだって、結局は私の弱さだったのだ。
でも、そんなもの、この人の前では必要ない。初めからわかっていたじゃないか。
私たちはすでに何度も何度も互いのすべてを晒し合ってきた。
今さら何を守る必要があるというのだ。
もう、遠慮なんていらない。ぐちゃぐちゃに絡まった感情を私は思いきり引き裂いた。
私は、貪欲で、エゴイストだ。欲しいものはすべてこの手で手に入れる。田中右宙為だってその1人だ。欲しくて欲しくて堪らなくて、必死で手繰り寄せて捕まえた。手放したりしない。

何を迷っていたんだろう。
本当にバカバカしい。

「地獄までついてきてくれますか?」

真っ直ぐと彼の琥珀色の瞳を見据える。その瞳は、まるで吸い込まれるように澄んでいて、ただひたすらに、美しかった。
いつの間にか、私の首を絞めていた手は力を失い、ただそこに添えられているだけだった。
冷たかったその手のひらは私の体温を吸ってわずかにあたたかい。私はそっと、その手に自分の手を重ねる。

「地獄でもどこでもいい。どこへだってついて行く。お前がいる場所こそが舞台だ。永遠に、魂が朽ち果てるまで共に踊ろう」

それは、とても……

「最高ですね」









全てを閉じきった部屋にこもった荒い息と、湿った空気。身体の輪郭を確かめるようになぞる、不埒な手。
あのままお互いが流されるように肌を重ねてどれくらい時間が経ったのだろう。カチ、カチ、と動くこの行為に似つかわしくない針の音が耳の奥にこびり付くぐらい繰り返し響いているのが、行為の長さを物語っていた。

膣を広げて押し入ってくる屹立を待ち焦がれるように、ナカがうねっている。初めてだからとじっくりと慣らされたおかげで、多少の違和感はあれど、痛みは感じられない。ただ、背後から何かが迫ってくるような恐怖に力が入ってしまうだけで。
それを感じ取ったのか、柔らかく口付けを落とされる。緊張を解すように優しく触れるだけだった。ふ、と力が抜けた頃合いを見計らって、傷付けないようにゆっくりと陰茎が収まっていく。

「ま、って……せんぱい、っう、ああっ、」
「掴まってろ、希佐、」

田中右先輩とのセックスは、私の身体を気遣ってなのか、ひどくゆっくりだった。
じりじりと性感帯を焦がされ、徐々に上り詰めていく感覚に、ぎゅうっと手を握ると、ナカの田中右先輩のものが質量を増す。内臓を圧迫されているようで、息が止まってしまう。

「ッ、っヒ、あっ…………ん、ンっ、ぅ」

意味もない音を漏らす口を塞がれ、口内を貪られていく。ピリピリと舌が痺れ、薄らと瞼に膜が張られていく。

「平気か」

行為中に何度も聞かされたその言葉に、こくこくと小さく頷いた。
私のペースに合わせて動いているから、田中右先輩も辛いだろうに。労わってくれる優しさに、涙が零れ落ちていく。
何度も泣いた所為で赤くなった目尻をなぞる田中右先輩の手を掴み取り、指を絡め合わせる。
掴まってろって言ったのはそっちなのに放されていく手が寂しくて、二度と手放さないように私の力の全てを振り絞って強く握った。

「ヒッ、あ、いゃ………ああっ、ぁ、!」

まずい。
そう思った時には既に遅く、田中右先輩の陰茎が奥を貫いた衝撃に腰が弓なりに沿った。パチパチと弾けるように思考が一瞬飛んだのに、再び突き上げられて意識が戻されて。また思考が飛んで。
辛いけど、気持ちよくって、心地よくって、何が何だかわからなくなっていく。

……ひっ…………田中右、せんぱい………ッ、…………あ、ん………っぅ、ぁ」
……その名は、偽りだ」
「ぇ……
「本当の名で呼んでほしい」

本当の名前。
激しい快楽の海の中で必死で回らない頭を動かす。溺れて思考を放棄しそうになるのを、背中で感じる肌触りの良い滑らかなシーツの感触と、繋いでいるじっとりと汗ばんだ手の感触で、ギリギリを保っている。
なにを。なにを。なにが、ちがうのか。

……………あぁ、そうだ。

「ん、ひっ………玉阪、宙為さん」

なまえ。
10年前の夜に玉坂神社で1度だけ聞いた、この人の、本当の名前。

「希佐……

お礼を言うように、唇にキスをひとつ。
途端に頭の中がぐすぐずに溶けて、何も考えられなくなっていく。ただ、目の前の男に縋って。快楽に溺れて。

「ちゅういさ、ちゅーいさん………、」

教えられた通り、何度も何度も一つ覚えのように名前を呼んだ。
宙為さんが目の前にいるんだと、私の隣にいるんだと再確認するように。私の上に覆いかぶさって、手を繋いでいる男を本能のままにひたすら求めた。

「宙為さんっ……
「希佐、っ
「ッ、ひ、ぅぅ……っぁ、」
「俺はここにいる、希佐」
「あああっ、……く、ぅ、はっ……、宙為さん、ッ!」
「ちゃんといる。お前のそばにいる、希佐」
「ぅ、ん。きも、ひ……っ、ちゅういさん、あぁ」
「もっと呼べ、希佐。俺を呼べ」
「宙為さんっ、あッ、………、っちゅーい、さ、ぁ……!」

呼ぶ度に返ってくる自身の名。心の柔らかい部分に入ってくる、私の名を呼ぶ宙為さんの声が心地よくて。
もっと、もっと、と。強請るように繰り返す。その度に食いちぎるくらいに締め付け、膣を押し上げられ、隙間なく宙為さんで埋め尽くされる。

余裕の欠片も感じられない、情欲に濡れた琥珀色の瞳。火照って朱色を宿す頬。真っ白なキレイな肌に張り付いた、カラス色の毛。湿り気を増していく、熱すぎる吐息。その吐息混じりで何度も何度も私の名を呼ぶ声。
全部、全部、私だけのもの。立花希佐だけに許された唯一。
渡してなるものか。何人たりとも、触れることも見ることも許さない。
道連れに、してやる。

宙為さんの言葉で箍が外れた私は、もう迷いなんて一切無い。田中右宙為が「地獄まで着いていく」という道を選択し、それを立花希佐が許可した。今さら拒否しても、離してなんかあげない。先に鎖で繋いだのは、向こうなのだから。
その思いだけで腕に鞭を打ち、握力がゼロに等しい手を頬へと添えた。そのまま、力なく唇を合わせた。

「ちゅういさん、ッ!はな、っ……、さない……ッ」
「永遠に、共に。死んでも離さない。逃がしてやらない……!」

その言葉は正しく、互いを縛る呪いだった。
第三者にとっては醜く穢れた歪な呪い。自暴自棄の末の愚かなつながり。しかし、私たち2人にとってはダイヤモンドなんかよりも美しくキレイで、純粋過ぎるほどに真っ直ぐな呪い。

「も、……い、クッふ、……ぁ、ああああ!」
「あぁ。これで終わりにしよう、。希佐、俺から目を離すな……っ、!」
「はいッ、ぅ、ン………く、ぅ、ああっ!」

再び激しく蠢き出す陰茎が熱量を増し、限界だと物語っている。それに応えるように私の中が、早く喰わせろとでも言うように、尋常じゃないくらい収縮していた。

「キスしたい、希佐」

キス。
真っ白な頭の中でかろうじて聞こえた単語。ほとんど同時に、後頭部に支えられていた手に促されるように、宙為さんの柔らかい唇に押し当てられる。
薄く開いた口の中へ、私の舌を捩じ込んだ。熱を分け合って、唾液を送り込む。少しでも、互いの存在を刻みつけるように。
キスに酔いしれて、下からの膣を抉るような動きに脳の髄まで犯されて。宙為さんに塗り潰されて。
触れている場所全てが熱くて、幸福に満ちていて、もうここで死んでしまっても良いと思った。
それなのに、宙為さんは許してくれない。小さな死を迎えそうになる度に、私の腕を引っ張って連れ戻される。抜け出さないように、離さないように、胸の中へ閉じ込められる。
それが、ただただ純粋に嬉しかった。

ひどく息苦しいほどに、幸せだった。

「ちゅうい、っさ、あ……ッン、ァ〜〜〜ッ!」
「希佐、希佐っ、………、希佐ッ!」

ついに限界を迎え、終わりの見えない深い絶頂に飲み込まれていく。
どくどく、びくびく。ナカに収まっている性器の長い射精に全身が痙攣し、力の入らない身体は宙為さんに委ねるしか方法は残されていない。
スタンガンを当てられたように脊椎に電撃が走って視界が黒くなるのに反し、頭の中は真っ白の絵の具をぶちまけられたかのようだった。
陰茎が中から抜けていき、白濁がどろりと垂れる感触が気持ち悪いのに、その不快感は私を正気へと戻させてはくれない。

「ぅ……ぁ、ぁ……

みっともなく出た舌に吸い付くように唇で柔く挟まれ、軽く肩が跳ねる。
何度も絶頂を迎えたせいかもう体力が残っていない。起きている気力さえ無くて、うつらうつらと微睡み始める。
まだ眠りたくない。
全部投げ捨てて眠りたい。
2つの欲求が殴り合っていて、自分自身じゃどうすることもできない。

「あ………は、ぁ……ふっ、……ぅ、ん……ん」
「もう眠れ」
「宙為、さん…………

もう、何を言っているのかも聞こえなかった。
私の頭を優しく撫でる手のひらが心地よくて、最後に勝利したのは睡眠欲だ。
私は抗えなくなり、額に感じる柔らかい感触と瞼を覆う温かい何かに委ねられるように、ゆっくりと意識を手放した。






胸に感じる温かさと、背中を撫でるような肌寒さ。ゆりかごに揺られているような、優しく心地よい浮遊感。
けれどその反面、足が地面に届かないことへの言いようのない不安。
夢なのか、現実なのか、曖昧な意識のまま私はうっすらと目を開けた。視界の端に、朝日できらめくからす色の糸が映り込む。
背負われているのだと、一目でわかった。
黒くて大きなバッグを肩にかけたまま、私のもも裏を器用に支えているこの人の腕。その姿勢に、どこか滑稽さと安心感を覚える。
恐らくそこには、

「起きたか?」
「ん、……おはようございます、宙為さん」

ぼんやりとした声で「ここ、どこですか?」と尋ねると、先輩は簡潔というか、雑というか、ぽつりと「山だ」と一言で答えた。
力なく前に垂れている腕を無理やり動かして、目元を擦る。視界が晴れていくにつれ木々に囲まれた急な坂道を登っていることがわかった。
舞い落ちる桜の花びら。きっと、目指しているのはこの山の頂上だ。

「ほんとに行くんですね」
「俺の選択を否定するな」

怒気を孕んだ声に、小さく笑う。
道連れにすると決めたのだから、今さら否定なんかするわけが無かった。

「しませんよ。私は貴方を離してなんかあげません」

回していた腕に力を込めて、宙為さんの首筋に顔を埋めた。
振り払って、この場に私だけを置いていくこともできるのに、宙為さんは愛おしそうに目を閉じていた。
その仕草に、胸の奥がむず痒くなる。心なしか、もも裏を支えていた手に力が込められたような気がした。

「でも、何で山なのかなって。そう思っただけです。心中といえば普通海じゃないですか?」
「溺死は醜い。皮膚が膨れ上がり見るに堪えないものだ」

それに、と宙為さんは続けた。

「共に溺れるのは良いかもしれないが、死んだ後に繋いだ手が離れてしまうかもしれない」
………案外ロマンチストですね」
「恋人相手には皆ロマンチストだ」
……恋人」
「違うのか?」
「いえ……違わないです」

くすぐったいような、むず痒いような気持ちが胸に広がる。恋人ができたのも、誰かを好きになったのも、田中右先輩が初めてだった。
彼に顔を見られないのをいいことに、こっそりとニヤニヤしていると、宙為さんは「ここに来た理由だが、」と話を戻した。

「桜が見たいと言っただろう。だから、最期に桜を見てから、桜の下で死のうと思った。俺たちの死体が埋まった桜は、さぞかし美しいだろ」

“桜の木の下には死体が埋まっている”――そんな言い伝えが、日本には古くからある。死者の血を吸って、桜はあの美しいピンクに染まっていくというもの。
きっと宙為さんも、その話を知っているのだろう。やっぱりロマンチストだな、と私はひとつ苦笑した。
舞台の上で、たくさんの人を喰らってきた人だ。そんな人を喰らった桜が咲くなら、それはどんなに美しい色になるのだろう。
見えない月より、よほど輝いて見えるに違いない。
最期は桜に喰わせるなんて、なんて滑稽で、なんて最高の結末だ。
田中右宙為という男は、いつからこんな計画を立てていたのだろうか。桜の下で死のうなんて。心中をしようなんて。

結局のところ、宙為さんの腹の底は最後まで私には見えなかった。
私の思考なんて、彼の前では何の役にも立たない。
舞台上ではどうにか渡り合えたとしても、一歩外に出てしまえば宙為さんの方が何枚も上手だった。

「いつから、決めてたんですか?」
……いつだと思う?」
「えーと……私が玉坂座をやめて旅行に行くって報告した日?誰かから聞いたんですか?」

そうでなければ、ここまで完璧に段取りできるはずがない。そう思って口にした私の推測に、宙為さんは小さく息を吐いた後「半分正解だ」と宣い、たっぷりと時間を置いて、徐に口を開いた。

「お前の病が診断された日からだ」

配線をぷつりと切られたかのように、思考が唐突に止まった。
診断を受けた日——それはつまり、私が余命宣告された日ということで、私はその日に玉坂座に報告した。思った以上に騒ぎになったから、海外にいる宙為さんの耳にも届いたのだろう。宙為さんは最初から私がどういう選択をするのかわかっていたのだ。
宙為さんが足を止め桜を見上げるのに釣られ、私も上を向く。風に揺れて舞う桜。降るように咲き乱れるその光景は、ひどく儚く、美しかった。

「お前は、舞台の外では生きられないと思った。捨てるのならば、俺がもらう」

そう告げると、宙為さんは再び歩き出した。ゆっくりと、確実に一歩ずつ。
思い返せば、あの日の駅でも彼は「あぁ」とだけ言って、私のもとを離れるとも、外国へ戻るとも、一言も言わず、曖昧な返事で誤魔化していただけだった。
私の意思なんて初めから関係なかった。宙為さんは自分の決断を貫くために動いていおり、全ては彼の手のひらの上だったというわけだ。
地位も名誉も未来も何もかもかなぐり捨てて、それでもなお私を選んだ人。
今まで気づかなかったけれど、思えば学生の頃からずっと一途な人だった。

「先輩は、私のことが好きだったんですね」
「今さら気付いたのか。学生の頃から伝えていたと思うが」
「あんな言い方じゃ伝わりませんよ。………でもそうですね。今さら気付きました。本当、熱烈ですね」

思わず、自分で苦笑してしまった。
狂ってる。
でも、初めから狂っていたわけでは無かった。原因は全て、田中右宙為という人間だ。そのたった一人の人間が、私の全てを変えた。
きっと宙為さんも、同じなのだろう。彼が私の人生を狂わせたように、このまま行けば華々しい人生を進んだであろう田中右宙為を狂わせたのは、立花希佐だ。それが、独占欲も征服欲も所有欲も零れそうなほどいっぱいに満たしてしまう。

けれど、それでも不思議だった。
どうして私なんだろう、とか。学生時代から宙為さんはずっと私を求め続けてくれた。私の演技を評価してくれたんだろうけど、心中したいと思うほどの執着は一体どこから湧き上がるのか。

……どうして私だったんですか?」

いたずらに尋ねれば、「何故……」と独り言のようなつぶやきが聞こえた。

「わからない。お前の目に、声に、存在に、どうしようもなく惹かれた。お前は違うのか」
……私もです。理由なんてわからないけれど、貴方の全てが欲しいと思った」

理由など、最後までわからなかった。
わからないまま、互いを愛してしまい、隣に居たいと思ってしまった。。
理解できないことは怖いけど、それでもこの関係はわからないままでも「まぁ良いか」という考えに至り、最終的には答えを見出せずに投げ出してしまった。

「立花希佐。お前は今日、俺の全てを手に入れる。死後の田中右宙為もお前だけのものだ。そして、死後の立花希佐も永遠に俺だけのものだ」
……はい」

宙為さんには私だけが居て。私には宙為さんだけがいる。永遠に誰にも邪魔されない、ふたりぼっちの完成だ。
迷っていた昨日までの自分に呆れられるくらい、随分と吹っ切れた。
狂ってる、と言われるかもしれない。頭がおかしい、と言われるかもしれない。
でも、これは手札が少ない中で私が選んだ未来だ。迷いなんてものは、これっぽっちも無かった。







「着いた」

そう告げられ顔を上げると、そこには一面満開の桜が咲き誇っていた。
ネットで見た写真よりも、遥かに美しく圧倒されるほどの光景だった。
感嘆の息を漏らす私の横で宙為さんは足を進め、崖の縁に立つ。柵はあるが、越えようと思えば簡単に越えられるような造りだ。

宙為さんの横から顔を出して下を覗き込むと、大きな桜が根を張っていた。ここが、立花希佐と田中右宙為の死体が埋まる場所だ。
なんと素敵な墓場だろうか。

「希佐」

名を呼ばれ、ふと顔を向けると宙為さんは柵を離れ、近くのベンチまで歩き少し屈んで私を降ろした。
そして、ひるがえる襟足の動きとともに、彼がくるりと私の方へ振り返る。

「手を」

そう言って優しく手を差し出してきた。

「前のように踊れなくてもいい。俺たちを繋げたものは歌劇だ。だから、最期は好きなことをして終わりたい」

本当は、歌劇なんてもう二度とするつもりはなかった。
ここに来た理由は、私の人生には脚があったのだと。舞台の上を歌って踊って、この脚と共に生きてきたのだと、山登りをして証明する為だった。
でも、もうその必要はなかった。
昨夜、宙為さんに全てを狂わされたから。

「私、前のように動けないのが嫌だったんです。頭でイメージする動きに体がついてこなくて。でも、今は先輩と踊りたいです」

清々しい気分だった。
これから死ぬからだろうか。それとも、恋を知ったからだろうか。
理由なんてもうどうでもいい。
今、この瞬間、私はこの人と踊りたい。
痩せ細った右手を差し出す。昨日強く握られたせいか、赤い痕がまるで鎖のように残っていた。
宙為さんが、その手を静かに取って、私を引き寄せる。

「ああ」

そして、冬公演の時のように顎を掬われる。琥珀色が交わった。

「共に」

あの日をなぞっていくように言葉を発する宙為さんを、真っ直ぐと見上げ指を絡ませながら手を掴む。

「お前をジャンヌにしてやる」

それは、私たちの人生の終わりであって、始まりの言葉だった。







「ふぅ……
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです。でも、楽しかった」

どれだけの時間が経ったのだろう。でこぼこの地面の上で、ただひたすらに踊っていた。
体力なんてとっくに尽きていて、息は切れ、肺が軋むように痛む。少しでも気を抜けば、その場に崩れ落ちてしまいそうだ。
それでも私は、意地で立っていた。
私とは正反対で、宙為さんは汗ひとつかいてないけれど。

「先輩がいなくなったらしばらく騒がれそうですね」
「そのうち忘れられる」
「そんな事ないですよ。先輩はすごい人です」
……確かに、お前との心中ならばしばらくは騒がれるかもしれないな」
「私、色んな人から怒られそうです」
「どうだっていい。お前が居れば、何でもいい」

カクン、膝からふいに力が抜けた。
田中右先輩が駆け寄ろうとするのを、手で制する。
役者、立花希佐という存在は、あの日すべてを奪われてしまったけれど、それでも自分の中に残った誇りだけは手放せずにいた。
それだけが、今の私を立たせている。
まだ、あと少しだけ。
もう少しでいいから、このままでいさせて。

「宙為さん。地獄ってどんな所だと思いますか?舞台とかあるんですかね」
「無かったら作れば良い」
「そうですね。どんな舞台でも貴方となら輝けます」

手を取って、音もない音楽に合わせて、身体を揺らす。ただ、それだけの動きが、今の私には命を削るほど重たくて。
何度か息が乱れ、途中で過呼吸になりかけると、宙為さんは何も言わずに、ただ傍で待っていてくれた。

でも――限界みたい。

肩を上下に揺らしながら、目の前にいる頭二つ分大きい宙為さんを見上げた。

楽しかった。最期に宙為さんと踊れて、もう満足だった。
この世でもう二度と、舞台には立てないけれど。
宙為さんが地獄まで着いてきてくれるのなら、思い残すことは無い。
私は宙為さんに笑いかけて、その場に倒れ込んだ。

柔らかい土のおかげでそこまで痛みは感じなかった。衝撃で落ちた花びらがふわりと舞って地に落ちる。

空の色は雲ひとつない快晴。
死ぬのにぴったりの天気。

「お前は筋力から鍛えろ。時間はある。100年でも、1000年でも。どれだけかかっても、元の立花希佐に戻せ」

そう言って、私の顔に陰が落ちる。私を見下ろした宙為さんが空を覆い隠す。頬をかすめるように、桜の花びらがひとひら、横から舞い落ちた。
奪われそうだと。私のものになる前に、横から拐われてしまいそうだと。震える腕を伸ばした。
宙為さんはそれを、起き上がらせて欲しい合図だと思ったらしい。

ぐっと腕を引かれたと同時に、そのまま私の方へ引き寄せる。
バランスを崩した宙為さんが、私の上に倒れ込んだ。臓器が押しつぶされるような重みと苦しさに、思わず声が漏れる。
上から退こうとする宙為さんの背中に腕を回し、逃がさないように抱きしめる。強く、固く。離れないように。
そうすれば、宙為さんは私の胸の中に大人しく閉じこもってくれる。何もしてこないのを良いことに私は
目を閉じて、改めて宙為さんに惹かれた理由を考えてみた。
けれど、いざ理由を述べようと、この世にある既存的な言葉を寄せ集めても説明できない。運命だとか、必然だとか、偶然だとか。そんな言葉で言い表せないくらい、心が求めてしまった。

性別も違う。年齢も、血も、呼吸の仕方さえも、全て違う。別の人間なのに、似すぎてしまっていて、全く似ていなくて。矛盾しているなと笑った。それでも、いや、だからこそ惹かれてしまったのかも。
世迷いごとを連ねて、互いを知り尽くしまって。気付いた頃には、後戻りができないほどに、愛情が生まれていた。

空いた心の隙間を己の存在で満たして、侵していきたい。それ無しでは存在できないように。ひどく傲慢で独善的な考えだった。
有り体に言えば純粋な所有欲であり、子どものような独占欲だった。私の事だけを考えていればいい。誰にも触らせたくない、奪わせない。これは、自分だけのものだと。
それは愛であり、尊敬であり、執着であり――数え切れないほどの複雑な感情の欠片をつなぎ合わせて形作ったもの。
嘘や偽りなんてものは何一つ無い、全て真実だった。

つまるところ、互いの間にあるものが全てなのだと思う。

きっと、それが正解だ。


…………、宙為さん、」
「なんだ」
「宙為さん。私、これから死ぬのに、たぶん、今までで一番幸せな気がします」

そう言って、背中に回した腕にそっと力を込める。さらさらとした髪に指を通し、静かに撫でた。

「だから、宙為さん……。私はこれを手離したくないです。貴方と離れたくない。ずっと、私と踊ってください、永遠に」

鼓動が耳に届く。まるで私の心臓と繋がっているようだった。
あながち、間違っていないのかもしれない。数分後には田中右先輩の心臓が止まる。そして私の心臓も、静かにその音をなくす。
この世界から田中右宙為は居なくなり、私だけのものになる。立花希佐は居なくなり、田中右宙為だけのものになる。

宙為さんは私の腕を解いた。顔の横に手をついて起き上がり、美しく嗤う。

「当然だ。この魂が灰になるまで、地獄の最果てでお前と踊る」

美しい琥珀色をした瞳は、ゆっくりと瞬きして、希佐、と愛おしそうに名を呼んだ。

「行くぞ」

あぁ、もう時間か。と、穏やかに微笑む。

「連れてってください。もう、歩けないんです」
「わかった」

私の背中と膝裏に、宙為さんの腕がそっと差し込まれる。その動きに合わせて私は首に腕を回し、しがみついた。
距離は思ったよりも縮まらなかった。
宙為さんは、私を高く持ち上げた。
空が、すぐそこにある。澄んだ青がキラキラと輝いていて、美しいと思った。

「軽い」
「はい。これが私の重さです。どうか忘れないで」

これが私の今現在の重さ。立花希佐の存在の質量。
地獄へ辿り着いたその先で、宙為さんと一緒に重くなっていく。
憶えておいてほしい。と、もう一度強く伝えた。

宙為さんはゆっくりと歩を進め、柵の向こう側へと立った。恐怖はなかった。それどころか胸が高鳴っていた。
はやく。はやく、宙為さんと歌劇がしたい。宙為さんの全てを手に入れたい。
その感情だけだった。

そうでしょう、宙為さん。と、回していた腕に力を込める。ぐっと近くなる距離感のまま、視線を交わらせる。

「愛してます」

宙為さんはぱちぱちと瞬きをして、この世のすべての幸福を集めたような表情を浮かべた。
そよ風が頬を撫でる。
舞い落ちる花びらが、まるで私たちを祝福しているようだった。
抱えていた腕に力が篭もる。

希佐。と、名を呼ばれた。
宙為さん。と、名を呼んだ。

「愛してる、希佐」
「はい、愛してます」

宙為さんは私へと口付けを落とし、重心を前へと傾けた。

落ちていく中、


——地獄で逢おう。


と、声が聞こえた。



目は逸らさなかった。

最期の瞬間までずっと。

幸せそうに笑い合った。




貴方の全てを手に入れた瞬間だった。







数ヶ月後、満開の桜の木の下でふたりの白骨遺体が見つかった。
所持品の中にあったスマートフォンの写真とDNA鑑定を照合した結果、ひとりは海外で活躍していた新進気鋭の役者、田中右宙為。
もうひとりは、病を理由に表舞台から姿を消した立花希佐だということが判明した。
長らく行方不明だった二人の訃報に、世界は混乱し、深く嘆いた。
田中右宙為と立花希佐は互いを逃がさないようにと抱き締めており「まるで二人ではなく、ひとつの死体のようだった」、「幸せそうだった」と、発見者は語ったという。
それは、正しく心中と呼ばれるものだった。
二人がユニヴェール時代の先輩と後輩であったことから、様々な憶測と物語が生まれ、消えていった。
そしていつしか、世間はふたりを忘れていってもなお、二人が見つかった桜の木は毎年他のどの桜よりも高く、美しく、咲き誇っていた。


END




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