【必読】五夏/色んな人が生きているif/それに伴う関係性の発生・消失
色々と孤独を感じてたモノたちが、居場所を見つけられたり、見つけられなかったりする話
第一話 孤独の虎(虎杖視点)
第二話 白化の蛇(七海視点)
第三話 同じ塒の化け物(五条視点)※同人誌のみ
2025年5月3日の「俺達最強10」で頒布予定です
興味のある方はどうぞ
@itou_888
我が生涯で唯一の、最愛なる親友に捧ぐ。
第一話 孤独の虎
休日の駅前は人が多い。この駅が、県内で最も大きなことも理由の一つかもしれなかった。有名な武将の出身地でもあるし、朝ドラの舞台にもなったことがある場所だ。新幹線も到着する駅のロータリーには観光客と思しき大きな荷物を持った人々が、記念写真を撮ったり、端末を睨むようにして地図を確かめたりと銘々に過ごしていた。
虎杖は観光客ではない。この街で生まれ、この街で育ってきた、生粋の地元民である。けれど今は、彼らと同じように大きなバックパックを背負って立ってる。
「君が虎杖君かな」
「うっす」
かけられた声に返事をし、頬に傷がある青年に続いて駅に入る。
「じゃあ、行こうか」
そして、生まれ育った街を離れようとしていた。
虎杖の家庭環境は少しだけ複雑だった。両親は愛情をもって虎杖に接してくれたが、二人だけの秘密を決して明かそうとはしなかった。特に、母親は昼でも夜でも関係なく頻繁に家をあけていたし、父親は帰ってきた彼女につきっきりになることが多かった。
自分だけ、仲間外れにされている。幼い虎杖がそう感じるのも無理はない話で、小さく燻っていた感情は中学に進学すると同時に爆発した。そうやって蚊帳の外にするのならば、こちらだって好きに生きてやると、家に寄りつかなくなった。人目をぬすんで遊技場に入り浸り、売られた喧嘩は全部買った。いつの間にか自分を二つ名で呼ぶような学生が増えたことには気づいていたが、どうでもよかった。
好き勝手に生きているつもりなのに、何も楽しくなかったのだ。そんな日々が一変したのは、久しぶりに遊技場から自宅へ帰ろうとした時だった。玄関先に、白髪頭の老人が立っていた。それは紛れもなく虎杖の祖父であり、周囲からは距離をおかれるような気性の荒い人物だった。彼は虎杖に気づくと、その姿をじっと見つめ、何も言わなかった。
「帰るぞ」
自分の家はあんたの後ろにある、だとか、いきなり現れて何を言っているんだ、だとか今考えれば言いたいことは山ほどあったはずなのに、当時の虎杖は何故か素直に頷いて祖父の後ろを着いて行ったのだった。
それからは、祖父の家から学校に通うようになった。途中、祖父のとりなしで両親との話し合いの場が設けられた。結局、その時は両親の秘密とやらを明かしてもらうことはできなかったのだが、ちょうど前の晩に祖父と食後の緑茶を飲みながら観ていた警察ドラマで、公安に所属している人間は家族にも本当の職業を伝えられない、というシーンを観ていたので、そういうこともあるのだろうと納得することにした。けれど、それ以降も虎杖は祖父の家で生活をした。はぐれ者の祖父と、はぐれ者の自分とが一緒に生活するのは、なんとなく安心する状況だったのだ。
地元の高校に進学した虎杖は、ここでも微妙な疎外感を体験することになる。生まれつき身体能力が高かった虎杖は、中学の頃に鳴らしていた腕を運動に向けることにした。どんなスポーツでも軒並み結果を残す虎杖のことを殆どの運動部は部員に欲しがったし、顧問も同様であった。本人の与り知らないところで暗黙の了解が生まれており、虎杖は最強の助っ人としての立ち位置を押しつけられていた。まあいいか、と思いつつ、周囲を見れば、他の文化部も運動部に遠慮したのか虎杖の入部を渋る。部活動への所属が校則で決められている高校において、困ったことになってしまったのだ。
そんな中、元気よく手をあげてくれたのは、廃部寸前の心霊現象研究会だった。先輩である佐々木と井口しかいない、こじんまりとした部室に居場所を見つけた虎杖は、以来、楽しく過ごしていた。居場所をくれた二人の活動をとことん応援しようと考えた虎杖は、様々な心霊スポットにも付き合ったし、よく分からない儀式にも参加した。そのどれもが不発で、またガセネタだったね、と笑い合うのが日常だった。
しかし、運命の日が訪れる。これをきっかけにして虎杖の人生は大きく変わり、果ては両親が隠していた秘密の真相も明らかになった。そして、こうして地元を離れることになったのだった。
「あ、あれって虎杖君のご両親と、おじいさんじゃない?」
「えっ、嘘」
新幹線に乗り込み、席に着いた虎杖の隣で青年が窓の外を指さす。何度もこちらに頭を下げる母親と、彼女を支えながら同じように頭を下げる父親。両手を組んでじっと虎杖を見つめる祖父。彼らの姿を見ると、ふいに目頭が熱くなってくる。
「学校のお友達も来てるみたいだよ」
慌てて窓にはりついて外を見ると、佐々木と井口が弾幕を持って走ってくるところだった。車体に隔てられて、何を言っているのかは聞き取れないが、口の動きから頑張れ、と言っているらしい。弾幕にも、虎杖ガンバレ、と書かれているから、たぶんそうだ。
たまらなくなって、乗車口に駆け寄る。すんでのところで閉まってしまったが、それでも精一杯のありがとうを叫んだ。
「いい人たちだね」
「はい」
ポケットティッシュを差し出しながら笑いかける青年の名を灰原という。事前に名前だけ聞いていたのだが、親しみやすい印象を受けて安心した。
「その、これからよろしくお願いします」
「よろしくね!」
二の腕に力こぶを作りながら答えてくれる灰原に、自分も同じような格好をしながら、もう一度、おなしゃす! とくり返した。この時、呪術界には珍しく、性根が明るい希少な人材が集まってただけなのだが、そんなことは知らない虎杖は呪術師ってみんな元気なんだな、と誤った認識を深めていた。
「高専に着いたら、みんな居る?」
「居るよ! でも、その前に虎杖君には僕と一緒に行ってもらわなきゃいけない場所があるんだ」
「どこですか」
「あった、あった。これが資料だよ」
灰原は端末を操作すると、虎杖に手渡した。画面には、大量の文字といくつかの写真が載っている。分量の多さに顔をしかめた虎杖をみかねて、灰原が簡単に説明をしてくれた。
「この村で、少し前から村の相談役っていうのかな、その代替わりがあったんだ。もっとも、それだけじゃ僕らも動かない。問題は、それから今日に至るまで、周辺の山で行方不明者が数人確認されていることなんだ。今回、僕達に任せられたのは現地調査と、相談役の情報収集。本当は直接、高専に連れて行ってあげたかったんだけど、これも課外授業だと思って頑張ろう!」
「授業、ってことは灰原さんは先生なんですか」
「そうだよ。これでも教員免許だって持ってるんだからね」
「本物の先生じゃん! わ、すみません、じゃあ、灰原先生って呼びます」
頬の傷を除けば、まるで大学生くらいに見える灰原が意外と年長者であった事実に驚きながらも、和気あいあいと会話を続けたことで、目的の駅に着く頃には虎杖の緊張はいくらかマシになっていた。
二時間弱の移動時間で強ばった体を伸ばす。このまま別の電車に乗り換えるらしい。駅で弁当を買い、乗客の少ない普通電車の車内で食べた。経費で落ちるから、ということで普段は買わない高めの弁当を買うことにした。虎杖は経費に詳しくなかったが、灰原が言うのならいいのだろうと、一番人気の弁当を選んだ。それから、弁当だけでは足りないと追加で握り飯を購入していた灰原から、昆布が巻かれたそれを貰って頬張った。一人っ子の虎杖だが、兄弟がいたらこんな感じだろうか、とぼんやり考えながら電車に揺られた。
「やーっと着いた!」
地元を出る時にはまだ高かった日も、てっぺんを過ぎている。疲れるはずだ、と改札を出て、背伸びをしている虎杖の視界に、ふと妙なものが視えた。生き物ではない。
「灰原先生!」
呪霊だ。虎杖が地元を離れ、遠い東京の学校に転校する理由になった化け物。両親が、母親が隠そうとしていた存在。人の肉体から抜け出した負の感情が成る呪い。そんなものが、宙を漂っている。虎杖の視線に気づいていないのか、ふよふよと浮かんでいる呪霊の見た目は醜い。まるで羽根の生えたジャガイモのようなそれをどうにかしなければならないと、灰原の名を呼んだのだが、対する灰原は端末と呪霊とを見比べながらのんびりと構えていた。
「ああ、これは大丈夫だよ」
「えっ⁉ こんな、腐ったジャガイモみたいな見た目してるのに⁉」
「腐ったジャガイモ……あはは、確かに。でもこれは放っておいて大丈夫。行こう、虎杖君。ここからちょっと歩いたところに、目的の村があるよ」
「歩くんすか」
「うん。途中までタクシーで移動して、そこからちょっと歩くよ」
「具体的には?」
「えっと、一時間くらい」
「灰原先生ってタフっすね」
「鍛えてるからね」
得意げな表情をしてみせた灰原は駅の前に停まっていたタクシーに近づいた。表示板が予約から賃走に変わったタクシーに乗り込んで、一行は再び移動を始めるのだった。
「先生」
「うん?」
「すっと着いてきてるんですけど」
車内から外を見ても、タクシーから降りて歩き出しても、あのジャガイモの呪霊は着いてきた。最早、長く一緒に居すぎて愛嬌を感じ始めている。ジャガイモに似ているから、ジャガ子だ。ジャガ子が本当にジャガイモの呪いなのかは知らないが、そう見えるのだから構わないだろう。
「心配?」
「先生が大丈夫って言うなら信じるけど」
「他の呪いは危険だけど、今着いてきている呪霊に関しては僕たちに危害を加えないことは確実だよ」
「……そっか。分かった。よろしくな、ジャガ子」
「ジャガ子⁉」
虎杖の命名に腹を抱えて笑う灰原の声が山に響いた。二人は、車が通れなくなるギリギリまでをタクシーで進み、それ以降を徒歩で移動していた。深い緑の木々が生い茂り、山道と獣道が混在するような場所は、林間合宿で似たような山を訪れて以来だ。人の通りは僅かにあるらしく、全くの山の中を分け入らずに済んだのは幸いだった。
「呪術師って、いっつもこんなに大変な場所に行ってるんすか」
体力に自信のある虎杖でも、重たいバックパックを背負いながらの移動は堪える。虎杖の質問に、曖昧な返事をした灰原は、ぱっと表情を明るくすると数メートル先を指さした。
「村に着いたよ!」
最後の岩場は灰原に腕を引っ張ってもらって乗り越えた。達成感に満ちた虎杖の視界に広がっていたのは、思いがけない光景だった。
「え、めちゃくちゃ車走ってんじゃん」
「そうだね」
「なんで山道歩いたんすか」
「えーっと、うーんと」
「君の体力がどれくらいあるのかを確認したかったんだよ」
突然、耳に心地よい声が聞こえてきた。
「夏油さん!」
「やあ、灰原。お疲れさま」
「夏油さんも、お疲れさまです! 前の任務地から直接来たんですか」
「ああ。私は公共交通機関で来たけど」
親しげに声の主と話し始めた灰原を見て、目を白黒させた虎杖に気づいたのだろう。教師然とした表情に切り替えた灰原が、隣に立つ人物を紹介してくれた。
「この人は、夏油さんです。僕の先輩で、今後は虎杖君の先輩にもなる呪術師だよ」
「よろしくね」
「は、はい! よろしくお願いします!」
差し出された手を握る。ごつごつと節くれだっていて、実戦が得意な人なんだろうな、ということが伝わってくる手をしていた。思えば、灰原もかなり体を鍛えている印象だったが、夏油という人物はその灰原よりも体格が良かった。
「それにしても、すごいじゃないか」
「俺っすか」
「そうそう。この山道を全部一人で歩いてきたんだろう。その荷物を持って」
「あ、はい。さっき言ってた、体力云々ってどういうことですか」
「じゃあ、ここは灰原先生に任せようかな」
「夏油さんに先生って言われるとそわそわしますね! こほん。種明かしってほどのことじゃないけど、今回の入学にあたって、虎杖君の強みを知りたかったんだ。呪力強化もなしに、この荷物を背負ってここまでたどり着いた虎杖君を……」
「俺を……?」
「ぜひ、マッスル部に勧誘したいな。どう⁉ ちなみに、僕も夏油さんも部員だよ」
あ、でもでも強制じゃないから! と慌てた様子を見せる灰原に脱力する。マッスル部とやらの魅力を語り始めた灰原の肩を軽く叩いた夏油が口を開いた。
「故郷から遠く離れた、人が想像もしない世界に飛び込むことは勇気がいると思う。親しい人とも別れて来てくれたんだよね。私たちは君を歓迎するし、君の強みをもっと活かしていきたいと考えているよ。その方法は、ここにいる灰原先生が中心になって考えてくれると思うし、私だって微力ながら協力させてもらうからね」
その言葉に、今日別れてきた家族や、先輩たちの姿が思い出される。自分で決めたこととはいえ、寂しさを感じるのは事実だ。
「寂しい?」
「はい」
「フフッ、そうだよね。あと二か月ちょっと、頑張ろうか」
「はい……はい?」
「あ、そうだった。昔はちょっとアレな部分が多かったんだけど、今は長期休暇があるからいつでも実家に帰れるよ! 僕もこの前のゴールデンウィークに帰ったし」
「そ、そうなんだ」
そりゃ、一生帰れないなんて考えたことはなかったものの、それに近い覚悟は決めていたから、拍子抜けしたような気分だ。そういえば、母親だって家に帰ってきていたじゃないか。あんなに盛大に見送られて、その二か月後に実家へ帰るというのも恥ずかしいけれど。そうか。いつでも帰ることができるのか。新しい場所だけじゃなく、自分が帰ることができる場所がある、というのは虎杖を心底安心させるのだった。
ここに来るまでの間に食べたものや、見たものの話をしながら歩けば、あっという間に宿泊する予定の宿に到着した。年季を感じさせる見た目であったが、中は思いの外新しく見えた。なんでも、窓と呼ばれる協力者が代々運営している宿泊所らしく、この土地に来た呪術師はよく利用しているのだそうだ。
そんな窓から得た情報だったから、呪術高専も動いた。
呪術高専とは、正式名称を呪術高等専門学校といい、国内に二つ存在する特殊な養成校を指す。虎杖が編入するのは、そのうちの東京校だ。
人の負の感情から生まれる呪いは毎年多くの被害者を出す。年間の怪死者や行方不明者の殆どが呪いによって被害を受けた者だという。虎杖も、被害者になりかけた。助かったのは、偶々同じ場所に居合わせた少年が助けてくれたからだ。ウニのようにつんつんとした黒髪の少年を思い出す。ぶっきらぼうな話し方をしていたけれど、かなり優しい質であるらしく、赤の他人である虎杖を全力で助けてくれた。あの時、死の危険を感じた虎杖は呪いが見えるようになったが、その力を彼や、これまで呪いと戦ってくれていた呪術師への恩返しに使いたいと思ったのだ。だから、呪術高専に入学し、呪術師になると決めた。
信じてもらえないだろうと決死の思いで家族へ告白した時には、まさか母親が呪術師であったなんて秘密を明かされるとは考えてもみなかったが。それから、あれよあれよという間に物事は進み、現在に至っている。
話は戻るが、窓とは呪いが見える一般人のことを指し、呪術高専に情報提供してくれる頼もしい味方である。長年この土地で宿泊所を経営していた店主は、村の相談役が変わったことをいち早く報告していた。第六感のようなものが働いたと語っていたそうだが、あながち外れていなかったかもしれない。
相談役が変わって数日。虎杖たちが通ってきた山で失踪したと思われる人物の行方不明届が警察に提出された。これだけで終われば不幸な事故だったと考えることもできるのだが、すぐに次の行方不明者が出た。元々、山というものは危険がつきものだ。山に限らず、自然と相対する者はそのことを重々承知していなければならない。行方不明になったとされる人物はどちらも山での活動に慣れていた。彼らは登山用のアプリケーションを含めた入念な準備のもと山を愛する者たちだったという。
それから行方不明者が二桁の台に乗ろうとしたところで、窓の証言を聞いて派遣された補助監督が現場で残穢を確認した。これが決定打となり、呪術高専が呪詛師案件と判定。呪術師の派遣がなされたのだった。
「行方不明者の全員が呪いの被害に遭っているとは限らないけれど、少なくとも何かしらの呪術が使われたのは確かだ」
「すいません、残穢ってなんですか」
宿泊所の大浴場に浸かりながら虎杖が質問する。同じく湯船に浸かっていた灰原が、頭に乗せたタオルを落とさないよう器用に近づきながら説明してくれた。
「残穢っていうのは、長い間一定の場所に置かれた呪物や、呪力を放つ術式を使った時に残る痕跡のことなんだ。これを見るのはすごく神経を使うんだけど、僕の先輩にはいとも簡単にやってのける人がいるよ。あと、僕の友達も得意だった。いつか紹介できたらいいな」
「あざーす! 俺にも見えるかな。その、残穢」
「呪力を使って目を凝らすと見やすいね」
じっと、眉間に皺を寄せて遠くを見つめる灰原の真似をしてみたが、何も変わらなかった。なんなら、新たな疑問も生まれてしまった。
「その、呪力で強化ってなんなんですか。昼も言ってましたよね。呪力強化って」
「ああ、そうだよね。虎杖君はまだ授業を受けてないから分からないことが多いよね。いきなり実践みたいなものだから困惑すると思うけど、今みたいにじゃんじゃん聞いてほしいな。えっと、呪力での強化だね。そもそも呪力も人の負のエネルギーなんだ。だから、殆どの人間はみんな呪力を持って生まれるんだけど、僕たち呪術師はそれを操作することができる。呪力を上手く操作して肉体にまとわせることで身体能力を強化することができるんだよ。それが呪力強化」
「もしかして、これまで俺がよく動けてたのって、その呪力強化のせいなのかな」
湯の中から両手を出して見つめる。そうなれば、自分は知らない間にドーピングのような行為をしながらスポーツをしていたということにならないだろうか。
「そうだなあ」
これまで黙って話を聞いていた夏油が顎に手をやりながら言う。
「今、ここで呪力を両手にまとわせてみてくれないか」
「え! えっと、え? 何をどうすればいいんすか」
これまで触れてきた漫画や映画に出てくる超次元的な能力をイメージして手を動かしてみる。しかし、手の動きに合わせて水がバシャバシャと揺れるだけで何も起こらなかった。
「呪力操作に関してはピカイチの男がいるから、ソイツに教わるのが一番いいと思うんだけど」
言いながら夏油が手を動かして水面を殴る。見るからに太い腕と大きな拳から放たれる突きは水面を大きく騒がせた。
「何もせずに水面を殴るとこんな感じ。それから、呪力をまとわせて水面を殴ると」
「ぶわっ!」
「あはは、すまない。いや、笑い事じゃないな」
夏油が呪力を纏わせて水面を殴った際の衝撃で、浴槽の湯は半分近くがこぼれてしまった。盛大に湯を被った虎杖はむせ、灰原は輝く瞳で夏油を見つめている。
「今のが呪力を纏わせるってこと。虎杖の様子を見ていると無意識下でも呪力操作はできてなさそうだったし、純粋に君の優れた身体能力だって判断してもいいんじゃないかな。じゃあ、私は、大将に謝ってくるから……」
逞しい体を心なしか小さくさせて夏油が大浴場から出ていく。その広い背中に手を振り、湯が減ってしまった浴槽の縁に背中をつける。
「はあー、じゃあ別にズルしてなかったのかな」
「そうじゃないかな。呪力操作しなくてもその身体能力なら、もっと伸びしろがあるってことだ。先生と一緒に極めていこうね」
「うっす!」
灰原が差し出した拳に自分のものをあてる。その際に見えた傷跡に視線が向いた。
「灰原先生、腹の傷って」
「ああ、これ? 僕、学生の頃にちょっと死にかけてね。その時の傷。こっちにも、こっちにも傷はあるよ。高専にはすごく優秀な治療者がいて、どんな傷もいい感じにしてくれるんだ」
「それだけ危険なんすね」
「……まあね。嘘は言えないから、そこは頷くしかないな」
眉を下げた灰原の表情が、中学に上がる前、強い口調で両親に秘密を明かせとせまった時のことを思い出させる。
「俺、自分の母親が呪術師なの、知らなかった。父親は知ってて、母親を支えてたんすけど、なんか仲間外れにされてるような気がして、一時期荒れてたんすよね」
「うーん。こう言うと虎杖君は嫌な気持ちになっちゃうかもしれないけど、僕にも妹がいてね。呪いが見えるんだけど、呪術高専には来ないように言ってあるんだ」
他の人には内緒だよ、と力なく笑う灰原に首を振る。
「や、分かりますよ。つーか、今になってちゃんと分かった気がします。たぶん、俺に危ない目にあって欲しくなかったんだ。あの時はよく分かんなくて、最近説明されたときも、正直、他のことでいっぱいいっぱいすぎたからかみ砕けてなかったっつーか。でも、分かりました」
「そっか」
「それでも、俺はやっぱり呪術師になって、この力を使いたいって決めたんで」
「うん。一緒に強くなろうね」
優しい笑顔に頷いて、ちょっと恥ずかしくなった虎杖は話題を変えることにした。
「灰原先生もスゲーけど、夏油さんの体、どうなってんすか。バキバキじゃん」
「そうなんだよ! すごいよね! 僕の憧れ!」
そのまま筋肉談話に花が咲き、夏油に呼ばれるまで話し込んでしまった。
翌日。別行動をとるという夏油と別れ、虎杖たちはさっそく村の相談役に会うことになった。いきなり本陣に乗り込むというわけだ。窓が気を利かせて場をとりつけたわけではなく、向こうから会いたいと申し出てきたのだという。その話を聞いた灰原は一瞬、眉間に皺を寄せたが、会うと返事をした。
「虎杖君」
「はい」
「君の勘でいい。もしも、身の危険を感じたら、この呪具であの呪霊を祓ってほしい」
ずしりと重たい短刀を渡される。これまで武器を持ったことがなかった虎杖はうろたえた。灰原が指さすのは、ジャガ子だ。姿が見えなくなってから、すっかり存在を忘れていたものの、まだ近くに居たらしい。
「これでジャガ子を刺すだけでいい」
「反撃してこないんすか」
「コイツは、ね。少しでも危険を感じたら、ズブっといってね」
「分かりました」
しっかりと頷き、呪具を受け取る。ちなみに、呪具とは術式を帯びた武器のことを指すらしい。これを使えば、呪力に乏しい人間でも呪いに対抗できるのだそうだ。ポケットに呪具をしまったのとほぼ同時に、宿の前へ一台の車が到着した。平凡な村に似つかわしくない高級車の後部座席へ案内される。運転中、一言も発しない運転手に連れられて、虎杖たちは村の相談役がいるという屋敷へ向かった。
到着したのは、まだ新しい日本家屋だった。周囲と比べても異質なほど豪華だ。立派な門扉をくぐり、中に入る。ぞわりとした寒気が背中をはしった。
「ひい様は奥の間でお待ちです」
顔に白い面をつけた使用人が二人を屋内へと促す。贅を尽くすという表現が当てはまる、豪奢な造りだ。至る所に高そうな置物が飾られている。磨き上げられた廊下を通るたびに、似たような寒気を感じた。
「この奥に、ひい様はいらっしゃいます」
頭を下げた使用人が襖を開く。大広間の奥。真っ白な生地に金の刺繍が施されたドレスを身にまとった女が、脇息にもたれて座っていた。
「貴方がた、呪術高専から、来たんでしょう。一体、何の用かしら」
わざとらしくゆっくりと話す女は、憂い気な表情を浮かべて二人に問いかけた。
「突然の訪問になりましたが、高専からはこちらに通達が届いていたはずです。目的もご存じなのではないですか」
「山中での、行方不明者の居所、でしたっけ。私には、何のことやら」
まあ、おかけになって、という女の言葉に合わせ、使用人が椅子を持ってくる。ちらりと椅子を確認した灰原が座らないので、虎杖もそれに習った。女は言葉に従わなかった二人を見て、ほんの少し眉をひそめたが、すぐに何事もなかったかのように振る舞った。
「少なくとも、貴方はこの行方不明事件に対して呪術的に関与している」
女と対峙する灰原はきっぱりと言い切った。
「先ほど、この椅子を運んできた使用人の一人。彼の身体的特徴は行方不明になった男性とよく似ていました。顔の前に垂らした紙は認識阻害を引き起こすものですよね」
灰原の話を聞いても、女は余裕の態度を崩さない。それどころか、続けるように促す。
「貴方は、山中で彼を誘拐し、何らかの手段で洗脳している。理由は、分からないですが」
「ほほ。全て、貴方の、思い込みでしかない」
「……貴方は、この村で生まれたわけじゃない。村の相談役は、これまで村に住んでいた人の中から選ばれていた。とある情報提供者から、貴方がここに来たのは数か月前だと聞きました。その時は、今のような恰好ではなく、ごく一般的な格好をしていたと」
その話題が出されて初めて、女の顔から余裕が消えた。
「推測でしかありませんが、貴方は元居た場所を追われてきたのではないですか。その認識阻害の力も永続的なものではない。期限があって、それが切れたら別の場所へ移動する。違いますか」
「黙りや」
「黙りません。貴方がどんな理由でこんなことをしているのかは分かりませんが、れっきとした犯罪です。貴方にはしかるべき対応をさせてもらいます」
得体の知れない女と渡り合う灰原を見て、虎杖は感動していた。場違いな感想だが、ドラマかなにかの告発シーンを観ているかのような気分である。暫くの間、無表情だった女の口角が上がる。脇息から体を起こし、立ち上がった女は黒い髪をかきあげながら吐き捨てるように言った。
「しかるべき? しかるべき対応ですって。ねえ。呪術高専の若い呪術師さん。貴方の言うことが正しかったとして、何ができるの。貴方たちは、もうここから出られないというのに」
口調も態度も一変させた女の言い分に、はっとした表情の灰原が閉じられた襖を振り返る。そうして手に椅子を持つと、思い切り振りかぶって襖に投げつけた。突然の行動に驚いた虎杖だったが、想像した通りの惨状は起きなかった。障子に当たった椅子は跳ね返され、灰原の足元に落ちたのだ。
「その結界をはるために、いくらかけたと思ってんの。アンタたちはここから出られないし、助けもこない。ちょうど、他にも男の使用人が欲しかったところなのよ。ほら、『椅子を拾いなさい』」
弾かれた椅子を拾おうとしていた灰原の手が触れる寸前に、女が言った。ぎくりと体をこわばらせた灰原が椅子を拾い、真っすぐ立てる。
「『座りなさい』」
「灰原先生……?」
虎杖の声は届いているのだろう。苦々しい表情をした灰原が、女の言うように椅子に座る。灰原が指示に従ったのを確認すると、これまでに無いほど満面の笑みを浮かべた。
「あは、あははは! かかった! 馬鹿な男。私の術式に薄っすら察しがついていたはずなのに、油断したわね。いい気味だわ!」
愉快だという態度を隠しもせず、女が声をたてて笑う。一人残された虎杖は、女に気づかれないよう、短剣を取り出した。
「なによ! そんなもので私を刺そうっていうの? 『私が刺されるのを妨害しなさい』」
椅子に座っていた灰原が、女と虎杖の間に立ちふさがる。けれど、その表情は先ほどまでとは違い、ほんのわずかに安堵したように見えた。虎杖が短剣を振り下ろす。空気を裂く音と共に突き刺されたのは灰原でも、女でもなく、呪霊。ジャガ子だ。
ざく、と大広間の畳に刺し止められた呪霊が消える。
「なによ。何がしたいのよ」
虎杖の行動理由が分からないのだろう。女が一歩下がる。虎杖とて、この行動に何の意味があるのかは分からなかった。けれど、ここに来る前、灰原は言っていた。身の危険を感じたら、ジャガ子を刺せ、と。
「何も起きないじゃない!」
強ばらせていた表情を崩した女が叫ぶ。同時に、彼女の背後から巨大な手が現れた。
「ひいっ! オマエ! 『この手から私を守りなさい』」
空間の裂け目から現れた赤い手が女を探すように蠢く。呪霊だ。ジャガ子とは比べ物にならないほどの悍ましい呪力を纏った手が虎杖の視界の先で揺れていた。灰原は指示に従い、女を横抱きにすると手から離れた位置まで飛び下がる。赤い手は女を捕らえられなかったと気づくと、うろうろとひび割れた爪先を迷わせていた。
「おや。捕まえられなかったのかい」
虎杖と、灰原と、女しか居なかった大広間に、第三者の声が響いた。
「夏油さん!」
「お待たせ」
弾かれたように弾んだ声で名を呼んだ灰原へ、夏油が笑顔を向ける。
「げ、夏油さん?」
しかし、その姿は今朝会った時とは全く異なっていた。肩口よりも少し長い髪をハーフアップにまとめ、耳に大ぶりのピアスを嵌めているところや、シンプルな指輪をつけているところは変わっていない。けれど、モノトーンで統一された落ち着いた格好は、僧侶が着るような暗色の法衣に変わっているし、金襴で縁取りが施された袈裟まで身につけている。どう見ても胡散臭い坊主だ。
「お前、何処から入ってきた⁉ この屋敷には結界がはられていたはず!」
「確かにはられていたね。誰に注文したのかは知らないが、なかなか立派な結界術じゃないか。まあ、下からの侵入には対応していなかったみたいだけれど」
夏油は大広間の中心を踵で打つ。想像するに、虎杖がジャガ子を祓ったことで、夏油がここに現れたのだろう。仕組みは全く分からないが、たぶんそうだ。
灰原に抱かれたままの女を見やった夏油は、やれやれとでも言いたげな態度で上座に移動し、先ほどまで女が使っていた脇息にもたれて座った。貫禄があり、いかにもといった風体で似合っている。その後ろで蠢いていた手は、夏油が腰かけるのと同時に空間の裂け目に戻っていった。
「貴方の術式は、対象を命令で従わせるものか。なかなか良い術式を持っていますね。狗巻家に連なる家系だったりして」
「分かったような口をきくな!」
「術式で私を従わせなくていいのかな」
わざとらしく首を傾げた夏油に、女が下唇を噛みしめる。
「まあ、いいか」
夏油が手を伸ばすと、女と灰原の背後に再び空間の裂け目が現れ、あの赤い手が飛び出してきた。女の命令は続いているのか、手に対抗しながら灰原が大広間を駆け巡る。巻き込まれないよう、慌てて夏油の側に移動した虎杖に下がっているよう伝えた夏油は、再び手をかざした。
どぷ、と天井から巨大な顔が覗く。真っ赤なそれは、先ほどから暴れまわっている赤い手の持ち主であることを示唆していた。がちん、がちんと歯が鳴り、食いしばった歯の向こうからはちろちろと炎が漏れている。鬼だ。途方もなく大きな鬼が、この広間を覗き込んでいる。
「『あの化け物を私に近づけないで』」
女の言葉を聞いた灰原が、鬼の顔や手から庇うようにして移動する。そうしているうちに隅へと追いやられたことに気づいた女が次の命令を出そうとした時だった。
「……え?」
灰原越しに大広間の様子を確認したのだろう。血の気が引いた女が思わずといった様子で声をもらす。虎杖とて、大きな声を出す寸前だった。なにしろ、女が逃げるのにあわせて、一匹、また一匹と呪霊が増え始めたからである。今や、空間を埋め尽くさんばかりの数が広間に現れ、女を追っている。その全てが、夏油の指示に従っていた。
「あれ。もう灰原に助けてもらわなくていいんですか」
ほら、ほら、と呪霊をけしかける夏油と、必死で逃げる女。灰原に指示を出そうとしているが、具体的な命令以外は効果がないのだろう。大量の呪霊を前に、上手く指示を出せないでいた。遂には灰原とはぐれ、一人で大広間を逃げ回ることになっている。
頭だけ鬼で体は人間である呪霊。小さな角が生えている呪霊。昔の楽器を模したような呪霊など、様々な呪霊が女を取り囲んでいる。虎杖は昔、図鑑で見た百鬼夜行の絵巻を思い出した。その光景を作り上げているのが、目の前にいる男なのだ。
「命令しないんですか」
いつの間にか、女の近くまで赤い手が伸びていた。
「従わせなくていいんですか」
天井からは鬼の顔が迫っており、青白い炎を漂わせている。優位にあった女の姿など、もうどこにもなく。大広間は完全に夏油の独壇場だった。
「まあ、できないですよね。貴方の力量じゃ、面をつけさせていない対象を操るのは一人が限界だ。そうでしょう」
「……もの」
体を小さく丸め、震えながら女が呟く。
「……けもの、ばけもの、化け物!」
立ち上がった夏油が女の元へと歩きだす。大量の呪霊は道を作るかのように左右に割れ、こうべを垂れていた。無数の呪い、一匹一匹を、夏油は同時に操り、従わせている。
「この男は、穢れを操る化け物だッ!」
「ご明察」
「ひっ」
目の前に立つ夏油の圧に耐え切れなくなったのか、女はその場で気絶した。同時に、あれだけ大量にいた呪霊も消え去り、大広間には静寂が戻る。
「はあ。二人ともお疲れさま。虎杖はよく状況を判断して呪霊を祓除できたね」
「俺は、灰原先生に言われた通りにしただけなんで」
「それでも咄嗟に動けたのは良いことだ。それで、灰原」
「はい! 油断しました、すみません!」
「いや、まあ、そこは反省してもらうとして。呪霊が呪詛師を捕まえられなかったとき、驚いたんだよ。相手が呪詛師じゃなくて灰原だと知ってからは納得したけど。君、また体術を極めたんじゃないかい。やるね」
「ありがとうございます!」
「夏油さん、助けてくれてありがとうございました。それで、その恰好はいったい」
やいやいと盛り上がっている夏油に問いかけると、ハッタリだよ、と返された。なんでも、呪術師として働く際に、特定の社会的信頼がある格好をしていると相手とのやり取りがスムーズに進むのだそうだ。
「屋敷の結界を攻略するのに、ちょっと寄り道をしていたんだ。この格好をしていると、交渉が上手くいく相手だったからね。まあ、虎杖が呪霊を消してくれたから居場所が分かって手間が省けたけど」
「夏油さん、それって、あの呪具屋さんでしょう。あの人、夏油さんに甘いからなあ」
「そうかな」
「そうですよ。あと四十年若かったら婿にしたいって言ってたじゃないですか」
「社交辞令だよ。最近はもう、お孫さんと結婚するようにも言われなくなったし」
「それは」
灰原がちらりと夏油の指を見て言い淀む。虎杖もてっきり、夏油の薬指におさまる指輪を見て、特定の相手がいるのだと思っていたが、本人の反応を見るにどうも違うようだ。
「なんにせよ、一件落着だね」
どこからともなく現れた呪霊が、麻紐で気絶した女を拘束する。そのまま、襖を開き、外に出て行った。
「彼女はここから離れた地域に住んでいた呪術師だ。彼女の周りに呪いが見える人物はいなかったらしい。呪術高専側も彼女の存在を認識できていなかったから、そのまま呪詛師になってしまったんだね。高専は呪力を持つ人間に教育を施すことで呪詛師になってしまう危険性を回避する役割を持ち合わせているけれど、やはり全国に散らばっている彼らを見つけるのには限界があるな」
気絶して、運ばれていった女のことを考える。虎杖が孤独を感じた時、近くにはそれを理解して居場所をくれる人達の存在があった。だから、酷くこじれずに済んだのだと思う。そんな存在が居なかったのが、彼女なのだ。安易に、その気持ちが分かるとは言えない。しかし、想像することはできた。
「灰原先生」
「うん?」
「俺、頑張るから」
まだ、初めの一歩を踏み出したばかりである。呪いについての知識も乏しい。戦わなければならない対象に、呪霊だけではなく、呪詛師という人間も含まれていることだって今回初めて知ったのだ。それでも、虎杖は恩返しとして呪術師になって、持てる力を発揮したい。ただの呪術師ではない。居場所のない孤独を知り、居場所のありがたさを知る呪術師だ。
虎杖の眼差しを見た灰原が、その背中を軽く叩き、夏油が髪をぐしゃぐしゃと撫でる。そうこうしているうちに、呪詛師によって、認識阻害の面を貼り付けられていた人々が我に返り始めた。それぞれができることをするために動きだした。
事後処理は、夏油と呪術高専から派遣されてきた関係者とで行うそうだ。虎杖は再びバックパックを背負い、灰原とバス停を目指して歩いていた。
「なんか、めちゃくちゃ濃い初任務だったな」
「お疲れさま。よく頑張ったね。高専に着いたらしっかり休んで」
「うっす」
数時間に一本のバスが、あと数分で到着する。日光にさらされて色褪せたベンチが二人分の体重を支えて鈍く鳴いた。その音と、大広間に密集していた呪霊の鳴き声とが重なる。
「先生。呪術師って、みんな夏油さんみたいな感じなん?」
「その辺りも、伝えないといけないな。実は、呪術師と呪霊には、その強さに応じて等級が定められているんだ。下は四級から、上は一級まで。だいたいの目安があって、呪術師の等級は、一定の呪霊を祓うことができるかどうかで変わるよ。ちなみに僕は準一級。虎杖君は四級からスタートする予定だね」
「夏油さんは、一級?」
ばち、と黒目がちな瞳と視線が合う。灰原の慕い方からして、彼よりも高い等級だと思ったのだが、違うのだろうか。
「夏油さんは一級じゃないよ」
虎杖から視線を外し、遠くの山を眺めながら灰原が続ける。
「夏油さんは、特級術師だ。つまり、規格外ってこと」
口の中に溜まった唾液をなんとか飲み下す。規格外。それはどこにも当てはまらないということだ。親の事情から、また自身の身体能力から、孤立しかけた日々を思い出す。同時に、夏油の戦いを思い出した。あんなに近接戦闘が強そうな体づくりをしているにも関わらず、本人は全く動く必要がないような術式を使うことができる様子を。例え、今後、虎杖が呪術師として開花したとしても、夏油のような戦い方ができるようになるとは思えない。彼の強さは『規格外』として外れた位置に定められているのだ。
化け物、と叫んだ女の声が脳内で反響する。虎杖も、似たような言葉をぶつけられたことがあった。そう呼ばれるほど、周囲から抜きん出ていたのだ。そんなことを思い出してしまう。
黙りこくってしまった虎杖に気づいたのか、灰原がゆっくりと瞬きをしてから微笑んだ。
「確かに、夏油さんは強さにおいて規格外だし、それは覆らない事実だけど、一人じゃないよ」
「へ?」
「特級術師は一人じゃない。いずれ知ることになると思うから伝えておくと、他にも九十九由基や五条悟っていう特級術師がいるんだ。まあ、同じ等級だから同じ視点で話ができるかって言われれば、それは個人の問題なんだろうけど、夏油さん達は大丈夫だよ」
灰原は自身の傷だらけな左手を上げて薬指を動かしてみせた。つまり、その指輪の送り主も特級術師であり、夏油の理解者であると言いたいのだろう。
「じゃあ、もしかして、その九十九って人が夏油さんの」
「あ、違う違う。五条悟の方」
「ごじょうさとるの方?」
「そうだよ。五条さんがあの指輪を夏油さんに贈ったんだ。お二人は親友だからね」
「へ、へえ」
「ちなみに五条さんは、小説家でもある。その小説の主人公は夏油さんなんだよ。すごいよね!」
「スゲーっすね。それ、夏油さんも知ってるんすか」
「知ってるんじゃないかな。恥ずかしいから読まないって言ってたし」
ふーん。最早、虎杖から言えることは何もない。呪術界ってスゲーな、と思うばかりだ。まあ、あとは。鞄から五条とやらが書いたと思しき文庫本を取り出して見どころを力説する灰原を眺めながら思う。夏油や、まだ顔も知らない五条が孤独でなくてよかった。指輪とか、小説とかはよく分からないが、彼らに、ここだと思える居場所があるならば、それは良いことであるはずだ。
大型車のエンジン音が聞こえてくる。虎杖を新天地へ、そしてあの日であった少年を含む、仲間の元へと運ぶために、バスの戸が大きく開かれたのだった。
第二話 白化の蛇
労働とは何だろう。ざあざあと緑色の粘着質な液体を頭から被る七海は考える。それは、多くの人類が考えてきたことだ。もしかしたら、答えのようなものも出ているのかもしれない。
「おーい、七海? うわ、なんで思いっきり体液被ってんの。避けた方がいいよ」
頭上から降ってくる五条の声を無視しながら、七海は近くも遠い記憶に思いを馳せた。
*
じゃーん、と声を出し、妙な弾幕を広げ、改札の外で七海を出迎えたのは、呪術高専在学中に先輩であった五条だ。彼が持つ弾幕には見覚えのある文字で、おかえり、七海! と書かれている。恐らく、七海の友人である灰原の筆跡だ。懐かしんで緩んだ頬を五条に指摘される前に引き締めた。
「わざわざ五条さんが出迎え役を買って出るなんて。今日は全国的に槍が降るんですか」
「かーっ。相変わらず可愛くないね、七海は。そりゃ僕だって、選べるなら出戻り後輩の出迎えじゃなくて、傑の任務に着いて行きたかったよ。アイツが派遣されるってことはなかなかの曲者が相手ってことだろ。そっちで好き勝手やる方が楽しいし。でも、今回は期待の新人の初任務に同行するらしくてさ。いくら先輩呪術師は後輩呪術師の教育を行わなければならない、なんて規則があるっていっても、そもそも灰原がいるんだよ。贅沢すぎない?」
形の良い唇を尖らせた五条は、補助監督が運転する車内の後部座席で延々と文句を言い続けていた。その姿に変わってないな、と胸の中で独り言つ。五条の気が高ぶっているとき、往々にして彼はとにかく話しまくる傾向があった。
「それでも夏油さんに着いて行かなかったんですね。学生の頃なら全て無視して着いて行ったでしょうに」
七海の言葉を聞いた五条が、にやりと笑う。そこが今回の一番聞いてほしい部分であると言わんばかりの表情だ。
「七海はさ、これまでの人生における買い物で、大成功だったものってある?」
突然の予期しない質問に返答できないでいると、五条が再び口を開いた。
「僕にはあるよ」
五条が真っ黒な服の下からチェーンを取り出す。その先に繋がれているものを見て、七海は目を疑った。指輪だ。それも、シンプルながら高そうな指輪である。
この人も遂に年貢の納め時が来たのか、という感情と、五条が特定の女性に誠実になっている姿を予想できないという感情が混ざり合う。どちらにせよ、深入りは厳禁だ。藪から蛇を出すようなものである。証拠に、追加の質問をしてこない七海に対して、五条は再び拗ねるポーズをしてみせたものの、それ以上は語ろうとしなかった。
「ところで、五条さんがここにいる理由をまだお伺いしていないのですが」
「そうだっけ。まあ、単刀直入に言うと、上層部のお爺ちゃんたちが煩いわけよ。これまでブランクがあった呪術師が本当に再び働けるのかってね。だから、今回はそれを証明するために頑張ってもらいまーす」
「……これからご案内するのは、元々土地神の信仰があった地域です。伝承を重ねるにつれて、異質なモノに変化してしまったようですが。今回の任務では、その土地神を含めた呪霊の祓除が求められています」
「その声は、もしかして伊地知君ではないですか」
「っはい! お久しぶりです、七海さん」
伊地知は呪術高専時代の後輩だ。立派に補助監督を勤めている姿に安心する。この業界では、命とはあってないようなもので、今日顔を合わせた人間が明日はこの世にいない、なんてこともあり得る。かつての仲間と再び会うことができるというのは、幸運なことだった。
「まあ、そういうこと。鉈は持ってきてるね。頼んだよ、七海クン」
特殊な布で巻かれた鉈を抱えなおす。これこそが、七海の術式効果を最大限に引き出す呪具だった。七海の術式である、十劃呪法。対象を線分した際に、七対三になる場所を強制的に弱点とする術式だ。その一点に攻撃を与えるために、鉈が必要だった。これがあれば、七海よりも強力な相手にだってダメージが通るのだ。
「では、引き続き任務地の説明をさせていただきます。これから向かうのは、ダムです。規模としては国内最大級で、土や岩石を積み上げて作られた台形型のダムとなっています。かつて、このダムの建設のために一つの村が取り潰され、ダムの底に沈められました。住人は全て移住していきましたが、ここには彼らの土地神への信仰と、ダム建設に対する負の感情が残ってしまった。結果として生まれたのが、この度の呪霊であると推測されています」
「なるほど、理解しました。ところで、彼らの信仰する土地神とはどのようなモノだったのでしょうか」
「蛇だよ」
長い脚を組み、頬杖をついた五条が話し始める。
「かつてあの村で信仰されていたのは、蛇。それも白蛇だ」
思いがけない存在に目を瞬かせる。
古来より、蛇に対する信仰は全国各地で多くみられてきた。生命力や再生の象徴として扱われてきたのだ。同じくらい縁起物として担がれていたのが白蛇である。元来の信仰に加え、希少であることが、より崇拝者を駆り立てたのだと考えられる。特定の地域では、神の使いだとみなして崇敬している神社があるくらいだ。それがどうして呪霊と結びついたのか。
「原因に関しては調査中です。村が沈められたのも、信仰が途絶えたのも、かなり過去の話です。今になって、呪霊に変化したとは到底考えられません」
「だから、僕が呼ばれたってこと」
五条がスクエア型のサングラスを指さす。その下に隠されているのは、六眼と呼ばれる特殊な瞳だ。
呪術界において、広く周知されていることはいくつかある。それは呪術界の御三家や、呪術高専の存在だったりするのだが、そこに五条のことも含まれてる。
五条悟。御三家が一つ、五条家を生家に持ち、現在は当主も務める人物。相伝の術式である無下限呪術と、数百年に一度の頻度で出現する、呪力を見通す六眼を持って生まれた、現代最強をうたわれる呪術師の一人。
今回は彼の六眼によって、呪いが生まれた原因を探るという目的があるようだ。
「というか完全に五条さんの任務じゃないですか。私は関係ないのでは」
「分かってないなあ、七海は。自分の腕が鈍ってるって疑われてんだぜ? いっちょ、デカい任務をこなして、七海建人ここにありって、見せつけてやるしかないでしょ」
「はあ」
力説する五条をおいて、まだ見ぬ呪霊の姿を想像してみる。仮に想定通り、蛇を模した呪いが現れたとて、七対三に線分することができるだろうか。これだけの規模を誇るダムを根城にしてているくらいなのだ。全体がどれほどの体長になるのかさっぱり予想もつかない。しかし、五条の言う通り、上層部の連中に舐められっぱなしというのも、気にくわないのは確かだ。
あの日、呪術師を続けながら大学に通うことを決めた灰原と、ほぼ同時期に呪術界から離れた七海。それぞれの選択に意味があったし、七海には必要な期間だったとも考えている。後悔はしていないし、戻ると決めたことだって生半可な覚悟ではないのだ。それを証明する気持ちで挑もうと、七海は鉈の柄を握りしめた。
七海達をダムの近くまで案内した伊地知は、次の仕事がある関係でそのまま去ってしまった。相変わらず忙しい業界であるらしい。後輩の体調を案じていると、五条が軽い声色で話し始めた。
「相変わらずの呪術界なのは確かだけど、ちょっとは変わったところもあるんだよ。有給っていうの? 以前に比べたら、格段に休みをとりやすくなってるからね。知らなかったでしょ」
「ええ。私が所属していた時には、過労死が脳裏を過ぎるほどの激務でしたので」
「確かに」
ダムに隣接している公園を散策しながら話す。単に会話をしているわけではない。呪いの根源となるような原因がないかを調査する目的があるのだ。その最中で知ったのは、七海が離れていた間に、少しずつではあるものの、呪術高専に変革が起きているということ。そして、それを主導しているのが、五条や灰原、夏油といった旧知の仲間達であることだ。
「七海が戻ってきたからね。こっちの陣営は、ますますパワーアップしたわけだ」
「……労働環境が改善されることは願ってもないことです。以前、勤めていた職場でも労働組合に所属して社員の労働条件改善に務めました。そのノウハウをお見せしますよ」
「いいね」
日が沈みかけているからだろうか。公園にも、その他に併設された施設にも人影は見当たらない。代わりに、蛇の数が多いように感じる。どこにでもいる青大将が散見される以外、変わったことはなかった。それから暫く歩いたが、確認できる範囲では、直近で術式が行使された痕跡が見つかることはなかった。ますます、呪いの発生に対して疑問が残る。学校や病院に限らず、思い出の集積地は人々の感情の受け皿になりやすく、同時に呪いの発生率も高くなる。故に、呪術高専が推測しているように、村に未練を残す者や、ダム建設に対して暗い感情を抱く者の影響で呪いが発生しても不思議ではないのだが、それにしては年数が経ちすぎている。当時、村に住んでいた人間の殆どが鬼籍に入っているだろうし、ダム建設に関しても同様だ。信仰自体は続いていたのかもしれないが、それが特級術師を呼び出すほどの呪いを生みだせるだろうか。
結局、辺りの探索では、白蛇信仰が呪いと結びついたとされる根拠は分からず終いであった。けれど、時間は誰の上にも平等に過ぎる。腹の奥から冷えるような呪力が、ダム全体から湧き上がってくるのを感じた。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
五条がダム全体に帳を下ろす。相変わらず、正確で無駄のない呪力操作だ。結界術を苦手とする七海にとって、ある種の神業といってもいい。後輩から珍しく尊敬の念を抱かれているとも知らず、五条はのんびりと構えていた。
「じゃあ、ご対面といこうか」
その言葉に応えるかのように、ず、と地面が揺れる。その間隔が徐々に狭まり、揺れの程度は大きくなる。鉈を携えて睨みつけていた水面は、帳の色を反射して黒く淀んでいたが、更にどす黒く変化した。ぼこぼこと気泡が大量に浮上しだす。次の瞬間、七海の目の前に、巨大な蛇が現れた。光源など、ほとんどないにも関わらず、白く波打つ鱗が眩しい。瞳と思しき部分が赤く発光しているため、この個体が先天性の色素欠乏症を生じた青大将であることが伺い知れた。
「五条さん、これは」
「うーん。信仰と混ざって生じた呪いっていうよりも、人工的に操作された呪いっていった方がしっくりくるね」
巨大な呪いであることは確かだ。けれど、水中から現れる際に気泡を生じていたことからも分かるように、この白蛇は呼吸をしている。生命活動が続いているのだ。つまり、今回の騒動には裏で手を引く下手人の存在があるということである。周囲にいた青大将のうち、はぐれた白変種を使ったのかもしれない。
「報告書、七海が書いてよ」
「五条さんに与えられた任務でしょう」
「あー。言ってなかったけどさ、はい、これ」
「なんですか」
ダムの中を悠々と泳ぐ白蛇を横目に、手渡された紙面を確認する。そこには一級術師昇格試験の文字が書いてあった。推薦人の欄には、夏油特級術師、ならびに日下部一級術師の名前が記されていた。
「ほら。どうせ復帰するなら、ね。やるしかないでしょ。実際、当時も昇格の話は出てたんだ。僕らは七海にそれだけの力があるって信じてるよ」
「僕らって、五条さんの名前はここにはないじゃないですか」
「これ、二パターン準備しててさ。僕と日下部さんが推薦人のパターンと、今回のやつ。僕か傑のどちらかが任務に同行できそうな時は、相手の名前が書かれた推薦状を使うって決めてたってわけ」
期待してるよ。五条が七海の背中を軽く叩く。その行為で気合いが入ったような気分になった七海は、しっかりと呪霊を見据えて索敵を開始した。
この呪霊が人工的に作られた呪い、または式神である場合を想定する。術者が操る式神の場合、その体の一部に文様が描かれていることが多い。有名どころでいくと、御三家の一つである禪院家相伝の術式、十種影法術では、それぞれの式神に文様が刻まれているという。文様が見つかりさえすれば、おのずと下手人に近づくという考えだったのだが、白蛇の体長があまりにも長く、また、その全容が見えないため確認は困難だった。
そうなれば、次に確認しなければならないのは呪符の類いが貼られていないか、だ。呪符とは、用途に応じて使い分けられる呪力を篭めた札のことである。対象に貼る、または呪力を流し込むことで効果を発揮する。白蛇の大きさからして、その都度、呪力を流し込んで操作するというのは現実的ではないように思われる。仮に、下手人が五条のように繊細な呪力操作を可能とする人物であれば話は別だ。しかし、そんな術師は世界広しと言えども、五条以外にはいないため、却下される。
となると、事前に呪力を篭めた呪符で操作している可能性が高い。よく目を凝らし、白蛇を見つめる。ぬらりと艶のある白蛇の背面。水面から出たり入ったりしている部分に、呪符らしきものが数枚貼り付けられているのを見つけた。
「ありました」
「お、なかなか早いね」
「お褒めに与り光栄です」
果たして、あの呪霊は特定の生物、今回は先天性色素欠乏症の蛇に呪符を用いて、人工的に仕立て上げられた呪いであると分かったわけだ。となれば、あの呪符を剥いでしまえば一件落着である。だというのに、そう簡単に運ばないのが現実の辛い所だ。そもそも、七海達がいる公園と、蛇が存在するダムとでは物理的な距離がある。
「仕方ないなあ。呪符が見えればいいんでしょ」
空中に浮遊して、白蛇に近づいた五条が手をかざす。呪いが出現した時と同じくらいの揺れが生じ、次の瞬間、白蛇が宙に浮いていた。驚きに身をよじる様子は、まるで、空を駆ける龍のようだ。
そして、宙に浮かび、全体が確認できるようになったことで、七海の術式も届きそうだった。対象を線分し、七対三に分けた部分を弱点とする。視界にはちょうど弱点の位置が映っている。白蛇が纏う呪力に引き付けられたのか、帳が下りて活動しやすくなったのか、姿を現わし始めた低級呪霊を足場に、白蛇へと近づく。そうして、鉈を振り上げ、正しく弱点の真上を攻撃した、はずだった。けれど、全身を覆う鱗は想像以上に硬く、鉈が弾かれてしまった。
「五条さん! 鱗が硬く、攻撃が通りません。呪符の効果かもしれません」
「うーん。これ、蛇じゃん」
「はい」
「ここで散り散りにしてもいいんだけど」
「できるんですか」
「まあ、うん」
この蛇を破壊できるのならばそうするべきだ。七海の視線を受けた五条は、空中で蛇を解体した。
「は」
途端、ざあざあと降り注いだのは、黄緑色の粘着質な液体。予告もなくぶちまけられたそれを、七海は容赦なく頭から被ることになった。最悪だ。五条が、力のままに振る舞えば、周囲は化け物じみた出力の被害に遭うことをすっかり忘れていた。
ふと、つい最近まで勤めていた職場を思い出す。七海や、賛同してくれた同僚、後輩と一丸となって職場の業務改善を行った日々。労働とはかくあるべしという理想を追い求めていた。
本社からも社員が派遣され、そのノウハウを学んで帰っていた。充実していた。自らの力を発揮できる職場であり、労働の意味を感じることができていた。それでも、呪術高専で学んだことや、同僚の怪我が事故などではなく、呪いによるものであると気づいてしまえば、見て見ぬふりはできなかった。
友人である灰原がよく口にしていた言葉を思い出したのだ。自分にできることを精一杯頑張るのは、気持ちがいい。そうだよな、灰原。と心のうちで友人に語りかけた七海は、多くの社員に惜しまれながら退職したのであった。
現実逃避である。いくら呪術師が、きつい、汚い、危険な職業とはいえ、何の前触れもなく突然、黄緑色の体液を頭から被っていいわけがない。改めて、労働とは何だっただろうか、と考える。労働の意味よりも、共に働く人間のことを考えた方が良さそうだった。
「うわ、なんで思いっきり体液被ってんの。避けた方がいいよ」
「……貴方が何の前触れもなく、信じられない行動をとるからでしょう。どうするんですか、これ」
辺り一帯が黄緑色の粘液で覆われている。無事なのは無下限呪術で体液をはじいた五条だけだ。
「まあ、ほら、見てなって」
怒りを深呼吸でなだめているうちに、体に纏わりついていた粘液が剥がれ落ち始めた。周囲にまき散らかされた肉片も同様だ。少しずつ一か所に集まったそれらは徐々に一つの形をとっていく。
「まさか」
「ほら、だから言ったでしょ。蛇だから。再生とか、そういうシンボルになることもある蛇を呪いの依り代に選んだんだ。この能力は想定できるよね」
「これを見せるために空中で爆発させたんですか」
「見るよりも体験した方が早いかなって」
「……勘弁してください。ここには夏油さんは居ないんですよ」
「なんで傑の名前が出てくるんだよ」
「分かるでしょう。夏油さんがここに居れば、貴方の行為を止めていたはずです。五条さんのストッパーになれるのはあの人だけだ」
体液はもう残っていないとはいえ、気持ちが悪いことは確かだ。ハンカチを取り出して手の届く範囲を拭っていた七海は、五条が黙り込んだのに気づいた。
「五条さん?」
「うん? ああ、いや」
もにもにと片手で両頬を掴んで、何か考え事をし始めた五条を置いて、再び白蛇に相対する。ただ、全身を細切れにするだけでは駄目なのだ。あの呪符を剥がさなければならない。一度、散り散りにされたというのに、白蛇は何事もなかったかのようにダムの中を泳いでいる。アレを作り出した下手人は何を考えていたのだろう。攻撃性もない、ただ大きなだけの化け物。そんなものを作って、何がしたかったのだろう。
「なーなみ」
「なんですか。今、考え事をしているので邪魔しないでください」
「白蛇までの足場を作ってやろうか」
「どうやってですか」
「それは、こう!」
無下限呪術における集束の力を使ったのだという。低級呪霊がみちみちと集められ、まるで道のように並べられていた。この上を歩いて白蛇の元まで行けと言うのだ。想像はしても、実践できる術師は居ないだろう。呪霊操術を使う夏油は別だ。彼ならば、使役している呪霊を使って道なき場所にも道を作り出すだろう。かつて、共に経験した廃村での調査を思い出す。有毒な呪いがかかっており、人が直接通れない場所でも、飛行能力を有した呪霊に跨って颯爽と移動していた。
「これ、途中で霧散したりしませんよね」
「僕のことなんだと思ってんの」
問題児ですよ、とは口に出さず呪霊の上に飛び乗る。踏む度にぎゅわぎゅわと耳障りな鳴き声を上げる呪いを無視して、一直線に白蛇の元へと駆けた。十劃呪法が通らないのは判明している。しかし、呪符を剥がせばその限りではないかもしれない。見た目の通り、つるつると滑る鱗の上に立つ。幾枚も貼られた呪符を、丁寧に剥がしていった。
最後の一枚を剥がし終えた瞬間、白蛇の体に異変が起きた。ダムを横断しようかと思うほどの巨体が見る見る間に小さくなっていったのだ。当然、上に立っていた七海の足場も急速に小さくなっていく。急いで呪霊でできた道に戻り、白蛇の変化を見逃さないよう、鉈を構えたまま、じっと見つめた。暫くして、一般的な蛇の大きさまで縮んだ、いや、元に戻ったのだろう白蛇が水面に浮かんだ。近づいても何の反応もない。どうやら、事切れている様子だった。呪符を失ったことで、驚異的な再生能力も尽きたのかもしれない。手がかりになればと死骸に手を伸ばしたものの、七海の指先が触れる寸前、静かに水中へと沈んでいってしまった。
不気味な呪霊の道を渡って公園に戻りつく。五条は、いつの間にか解除されていた帳の向こう、公園の入り口付近をじっと見つめていた。
「どうかしましたか」
「下手人が分かったかも」
「え? もしかしてさっきまでそこに居たんですか」
「あの呪符を作って貼った張本人ではないだろうけど、大元は禪院家だよ。アイツら、地下に呪霊を飼ってるって噂は聞いたことあったけど、こんな実験までやってるなんてね。追いかけて捕まえりゃよかったかな。でもな、今、ウチと禪院って微妙な時期なんだよな」
「貴方でもそういう政治的な関係に悩んだりするんですね」
「そりゃそうでしょ。理想に向かって邁進してる途中だし」
ひょい、と指先を動かした五条が集まっていた呪霊をまとめて祓除する。
「五条さん」
「ああ、ちゃんと、今回の下手人は捕まえるよ。根本との話し合いはまだ時間がかかるかもしれないけど」
「いえ、あの、五条さん」
「なに?」
「帳を解除している上に、呪霊を祓う威力が強すぎて近くの山が削れてます」
「……あれ」
「やっぱり、夏油さんと行動すべきですね」
「いや、七海はそう言うけどさ、傑だって大概だからね」
「夏油さんに怒られますよ」
「もー、なんで信じないわけ」
そう言いながらも何故か機嫌がいい五条から視線を逸らす。というより、仮にも自身の一級術師昇格試験だった今回の任務において、最後の最後で地形が変わるような大ごとになるとは思っていなかったのだ。これは、どうなるんだろう。七海の失点になるのだろうか。
「まあ、気にせず次に行こう」
「はあ。え、次ですか」
「七海、もう忘れてる? 昇格試験は推薦人以外の術師に同行して、いくつかの任務をこなす必要があるんだよ。今、一つ目ってことにするから、次は明日ね。またよろしく」
「──五条さーん、七海さーん、お待たせしましたって、え⁉ 何ですかこの大惨事は」
「ちょっと色々あって、山が欠けちゃった。始末書よろしく」
「そんな!」
項垂れる後輩の姿を見て、以前の職場で培った労働環境改善魂が疼く。このままにしてはおけない。早急な対処が必要だ。呪術師は個人プレイヤーが多すぎて、結束して労働環境を改善するということに慣れていない。加えて言うなら、労働組合もない。
これは、社会に出ていた七海が持ちうるアドバンテージだ。早速着手できそうな部分を発見した七海の瞳が輝く。まずは、この暴れん坊にパワーハラスメントという言葉を教え込まねばならないだろう。後は、夏油さんに叱ってもらおう。
そんな計画を立てていた七海は、すっかり忘れていた。確かに、化け物じみた強大な力には、同じだけの力をぶつけるのが良いだろう。しかし、こと彼らにおいては、一人ならば常識的な範疇で行動する夏油が、五条と組んだ瞬間、十代の頃のような問題児に戻ってしまうことを、すっかり忘れていたのだった。
*
「ということがあったんです」
「わあ、大変だったね、七海。お疲れさま」
場所は呪術高専からほど近い場所にある居酒屋。七海の職場復帰と一級術師昇格を祝して小さな歓迎会が開かれていた。メンバーは、主役の七海、それから灰原と伊地知。先輩の家入と、件の問題児こと五条と夏油である。もっとも、二人は仕事の都合上、遅れてくるそうなのでこの場にはいない。だから、七海も愚痴がこぼせるというわけである。
「私たちは七海が戻ってきてくれて嬉しいよ。酒が飲める人間は多い方がいいし」
全く変わらない顔色で飲酒を続ける家入の隣で、酔いつぶれたらしい伊地知が唸っている。日頃の疲れで酒の回りが早かったのかもしれない。水は飲めているようだから、あまり心配しなくてもいい、とは家入の言葉だ。
「遅くなってすまない、七海、復帰と一級昇格おめでとう」
「ありがとうございます。夏油さんが推薦してくださったおかげです」
「七海の実力だよ。頼もしい仲間が増えて嬉しいな。あ、すみません。注文いいですか」
連れ立ってきた五条と夏油のために席をあける。七海の隣に五条、灰原の隣に夏油が座ることになった。到着してすぐに飲み物や食べ物の確認を始め、机に伏している伊地知を心配する夏油は忙しそうだ。なにくれと手を出してしまうのは本人の気質なのだろう。ぼんやりとその様子を眺めていると、店員が注文された飲み物を持ってきた。
「こちら、生ビールとメロンソーダです」
「ありがとございます」
「他にご注文はありませんか」
「今のところは大丈夫そうです。ありがとうございます」
飲み物を渡した際に、手が触れたのか、少し大げさに恥じらってみせる店員を生暖かい目で見つめる。きっと、夏油の見た目と行動のギャップにやられたのだろう。こんな短時間にも関わらず、夏油の人たらし能力は健在であることを確認させられてしまった。もっとも、本人は意図してやっているわけではないのだろうが。
「ん?」
初々しいやり取りは、夏油の手元を見た店員がそそくさと退散したことで終わりを告げた。何があったのだろう、と目を凝らすと、夏油の左薬指にシンプルな指輪が嵌まっており、照明を反射して上品に輝いている。センスのいい指輪だ。飾り気の少なさが本気具合を感じさせる、とまで考えて、あの指輪に見覚えがある事に気づいた。
勢いよく隣に座る五条を見る。頬杖をついて夏油と店員とのやり取りを見ていたのであろう五条は、七海の視線に気づくとゆっくり口角を上げた。
「人生における買い物で、大成功だったもの」
五条が指さす先には、伊地知をトイレに連れて行く夏油が居る。
「傑に興味持って、近づいてくる奴がさ。あの指輪見て、がっかりして去って行くのを見んのが好き」
「うわ……嘘でしょう」
「あんな指輪一つでここまで効果があるとは思わなかった」
「なに言ってんの。見る奴が見たら、値段も本気具合も分かるでしょ」
「あは、そうだよなあ」
七海が呪術界から離れている間に、問題児はグレードアップしたナニカに進化していたらしい。伊地知を支える夏油の指を見つめたまま上機嫌でメロンソーダを飲んでいる五条から少し距離をとって座りなおす。
「七海、みてみて」
「なんですか、この本。って、最近出版された文庫本じゃないですか。灰原ってこういうジャンルが好きでしたっけ」
「普段はあんまり手を出さないジャンルだけど、五条さんが書いた本だから」
「はあ……はあっ⁉ これ、五条さんが書いたんですか」
実際に読んだことはないが、大まかな内容は知っている。怪異と推理が混ざったホラーミステリーであり、本の構成としては作者が実在の探偵役を題材に、事件を小説化した、というていで進む作品だ。例えるならば、横溝正史の金田一耕助シリーズが近いらしい。ぱら、と頁をめくり、飛び込んできた一文に目を見開く。
「あ、七海も悟が書いた本を読んでるの」
「いえ、私は読んだことはないのですが。夏油さんはお読みになったんですか」
「七海は知らないかもしれないけど、その作品の主人公は私をモチーフにしているらしいんだ。内容も、任務の内容を改変したものだし。恥ずかしいから読んでないよ」
「そう、ですか」
「まあでも、悟にこんな文才があるなんて知らなかったな。学生の頃は、報告書一枚書きあげるのも渋ってたのに」
「まあ、やればなんでもできるからね」
「言うじゃないか。なまじ嘘じゃないのが突っ込みにくいよ」
わいわいと盛り上がり始めた一同を置いて、七海はもう一度、紙面に目を落とす。夏油は読んだことがないのだ。だから、知らない。五条が書いたという小説の冒頭。真っ白な頁の真ん中に書かれてある文章を、知らないのだ。
とん、と本を突かれて顔を上げる。綺麗に口角を上げた五条が人差し指を立てて七海を見ていた。言われなくとも。本を閉じ、灰原に返却しながら思う。誰がこんな、厄介なことに首を突っ込むだろうか。
飲まねばやってられないと、新しく酒を注文することにした。メニューを見ている間も、あの一文が頭から離れない。
──我が生涯で唯一の、最愛なる親友に捧ぐ。
なんだか、辛口の酒が飲みたい気分だった。
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