鶴の狂愛の話
@fu_re_re_ra
「ああ、そういえば。主、この国には長らく現代における『愛する』という概念に対応する言葉が無かった、という話を聞いたことは?」
「夏目漱石と二葉亭四迷?」
「そう、話が早いね。文藝方面にも造詣が深いんだね。さすが僕の主だ」
歌仙が投じた一石に、彼女は淀むことなく応えを返した。
江戸時代以前、『愛する』という言の葉は、目上となる男性が目下となる女性を寵愛する、という上下関係の意味合いが強かった。
つまり、女性から男性に告げる場合はもちろん、我が子などに向けるのはいずれも相応しくない。
恋愛という言葉は明治以降に広まった概念であり、似た意味合いの色恋という言葉は、当時は吉原を中心とした惚れた腫れたという意味合いで表現されていた。
現在の愛の概念は、文明開花時に自由恋愛の概念が大衆に広く持ち込まれたことを契機に広まったと言われている。
よって、現在のような慈しみを大きく含む愛情、いわばアイラブユーに対応する訳語が無かった。これを文学的に表現したものが、かの有名な『月が綺麗ですね』および『死んでもいいわ』である。
自分の問いかけに、素早く二段も三段も飛ばして結論を返した彼女が、幼なげな振る舞いに反して非常に知恵者であると歌仙は知っていた。
歌仙の居室でのんびりと過ごしていた主は、歌仙が立てた茶を美味しそうに飲みながら、歌仙の言葉にニコニコと耳を傾けている。
嬉しげに茶に舌鼓を打つ主へ、歌仙が悪戯めいたウィンクを贈った。
「かの有名な文豪は、愛を美しい言の葉で彩ったが。さて、僕らを愛してくれるきみは、どんな言葉で愛を彩るのだろう、と。気になってね」
歌仙はまるで歌を詠むような調子で、軽やかに自らの主人へ言葉のボールを投げ渡した。
いつの時代も普遍的な、しかし難しい、愛というテーマを不意に投げ渡された彼女は、けれどすぐに小首を傾げて「わたしの考えでいーの?」と心当たりがありそうに返したので、歌仙は「もちろん」と頷いた。
彼女が愛情深いことは疑いようが無い。
そんな彼女が、どんなふうに詠んだ歌を返すのか聞いてみたかった。
「んと、好きって気持ちから生まれる優しさを、こう、たーくさんジャムみたく火で煮詰めて」
とろりと彼女の瞳が歌仙を映して、蜂蜜みたいに優しく蕩ける。
「熱々なのに、火傷しない温度に溶かしてから紅茶で注いだら、愛って言葉になるんじゃないかなあ」
歌仙が淹れた湯呑みを持ち上げ、「ほら」と彼女が笑った。
相手を火傷させる熱量が愛で、それを相手を傷付けない温度にして渡すのが、愛するという行為なのではないかと。
彼女の好みに合わせて淹れた歌仙の茶を、嬉しそうに飲みながら。
ああ、と歌仙は感じ入った。
彼女の言の葉は、美しかった。
少なくとも歌仙は、美しい、と心から思った。
歌仙へ贈られた、まばゆく光る愛の歌だった。
この本丸は、設立時の特殊事情により、月に一度しか主人が帰城できないという制限がある。
そのため日々の主への定例任務報告は、総務番長の長谷部によって、毎晩同じ時間に現世との通信を通して行われている。
この体制に落ち着くまでは一波乱あったが、長谷部が絶対に何としても頑として報告役を譲らなかったため、最終的には長谷部が事務報告、主の顔を見たい他の面々はその背後で待機して最後に少しの時間だけ交代で順に会話する形式となった。
なお、決まるまで初期刀を含む刀剣男士同士で泥沼の奪い合いに発展した挙げ句に怪我人が続出したために、穏和な燭台切を本気で怒らせて全員もれなく鬼の形相で武力行使で正座させられ、食事が三日三晩薄いたくあんと白米だけとなるわ酒類の一滴に至るまでひと月に渡って取り上げられるわで、有無を言わさずこの体制に落ち着いた経緯がある。
青い顔で正座でガクブルと震える面々はこう言ったそうだ。時間遡行軍などよりあれを怒らせる方が余程恐ろしいと。
そんなわけで、今夜もまもなく現世の主との定例報告会の時間なのだが、今日も今日とて懲りることなく問題を起こした鶴丸国永が廊下で正座させられている。
むやみやたらと仕掛けた驚きのトラップとやらのせいで歌仙が一日がかりで終えた大量の洗濯物が全てふいになったらしい。
泥まみれになったシーツを前に仁王立ちする歌仙の前で、鶴丸国永は「いやー、すまんすまん! 悪かった! この通り!」と調子良く手を合わせながら、ちっとも懲りる様子なくへらへらしている。
「いーや騙されないよ僕は。この前も殊勝に謝ったふりでろくに後始末も手伝わなかっただろう。今度ばかりはきちんと片付けるまで許さないからね」
「いやいやいや、今回ばかりは反省してるって!」
「嘘をお言いよ、まったく」
呆れ果てたとばかりに首を振る歌仙を前に、『私は悪戯で大量の洗濯物を駄目にしました』の反省プラカードを掛けられて正座している鶴丸が、時間を気にしたようにもぞもぞと身動いだ。
「あー、歌仙、その、だな、そろそろ」
「まだ駄目だよ。片付けが終わってないだろう。この前もそう言って逃げたじゃないか」
「いや、あー、たはは」
鶴丸が誤魔化すように曖昧に笑った。
「いやいやいや、何もほっぽり出して逃げようってんじゃないぜ? あー、ほら、今からじゃ夜が明けちまうだろ? お天道さんが出てからやった方が汚れも残さず良く見えるじゃないか。なぁ?」
「それっぽい言い訳を並べてもだめだよ。どうしてこう制止が聞かないんだか。猪だってもう少し賢いだろうに」
やれやれとばかりに肩をすくめた。
「まったく。堪える罰が無いとろくに言うことも聞きやしないんだから」
歌仙がそう言いながら、「ふん、ちょっとは反省したらいいんだ」と鼻を鳴らすと、手を替え品を替えあれやこれやと懸命に言い逃れをしていた鶴丸国永が、突然、ぴたりと黙りこくった。
怒っている証拠に腕を組んでつんとそっぽを向いていた歌仙は、訝しげに視線を流した。
いかにも胡散臭く目を細めてヘラヘラと笑ってばかりだった鶴丸が口を噤んで、すう、と眼を開いた。
月の無い夜の中、黄金色の瞳がゆっくりと見開かれて
その瞳孔が、音も無く縦に開いていく。────何かを祟りでもするように。
血の気の凍るような温度の無さを湛えた黄金の瞳に、真夏の気温が五度はゆうに下がった。
煩かった虫の音が一つ残らず死に絶える。ほんの少し、主との通信が妨げられるかもしれないと、匂わされただけで。
「……そんな顔をしなくとも、最初から時間になったら解放してやるつもりだったさ」
と歌仙が言った瞬間、にこぉ、と無邪気そうな顔で笑って「すまんすまん!それじゃ、オレはこれで!」と跳ね起きるように立ち上がると、一瞬にして脱兎のごとく消えた。
鶴丸が完全に立ち去った場所で、歌仙は頭が痛そうに顔を片手で覆った。
「はぁ〜〜〜…」
深々とため息を吐き出した歌仙は、項垂れたまま頭を抱えた。
「しまった、今のは完全に悪手だった」
この本丸の者たちは皆
寝静まった『アレ』を起こさぬよう、神経を削っている。
結局、その日の報告会では、真面目な報告を重ねる長谷部の背後で、鶴丸はいつも通り、まるで蜂蜜のように優しく蕩けた眼で主人を愛おしそうに見守っていたし、彼女もまた嬉しそうに、いつも通りニコニコと無邪気に笑い返していた。
暴発を皆が恐れる不発弾を、優しい日常の中に穏やかに埋没させたまま。
創設初期から本丸を支えてきた鶴丸は、時には初期刀以上に頼もしく皆を引っ張りながら、笑って仲間を鼓舞してきた。
ゲート障害で主が四年に渡って帰れなかった期間も、絶えず笑いながら仲間をよく支えていた。誰もが鶴丸を頼り、信じ切っていた。彼なら大丈夫だと、盲信すらしていた。
主と引き剥がされた彼が、とうに精神の均衡を崩していたことに、気付かずに。
ぱき、と器にヒビが入るみたいに、彼が決壊したその日まで、誰も気付けなかった。
それを、この本丸の古株たちは皆、深く深く後悔している。
鶴丸の仮面が割れたことで白日の下に晒されたのは
主人に対する鶴丸の偏愛が、明らかに度を超えているという事実だった。
人に仕える身でありながら、その意志を無視して己の羽根の下に抱き込んでしまいかねない、暴力的で過度で一方的な庇護の欲求。
それは、刀剣男士としての本分から外れ、主に望まぬ災禍を引き起こす禍つ神になりかけているということだ。
鶴丸はとうにその異常性を自覚していたのだろう。だから慎重に押し込んで己を律して隠した。正気の細い細い糸を懸命に手繰り寄せて、誰にも悟らせることなく理性を掻き集めて隠し続けた。
にも関わらず、彼女と長きに渡って無理やり引き剥がされたことで、取り繕う真似すらできなくなった。ぷつん、と糸が切れるように。
鶴丸は祟った。愛する鶴の子を自分から引き剥がした全てを。
鶴丸は嘆いた。深く愛してしまった故に後戻りできなくなった己を。
戦場で度を越えた無茶を繰り返し続けたのも、折れる寸前まで己を追い込んで辛うじて均衡を保っていたからだろう。
どろりと粘つくほどの神の偏愛を、幸か不幸か、彼女が平然と受け止めて受け入れて抱きしめてしまったことも、問題をさらにややこしく複雑化させたと言えるだろう。
この本丸に埋まっているのは不発弾だ。
彼女に何かあれば鶴丸が、鶴丸に何かあれば彼女が。全てを道連れに破滅してしまうかもしれない危うさを孕んだ不発弾。
綱渡りの爆弾を抱えたまま、この本丸は祈るような日常を続けている。
だが、少なくとも、ここにいる歌仙兼定という刀は──行き過ぎた愛故に妻を目にしただけで三十六人もの臣下を手討ちにした元主人が名前の由来となった自分は──彼の愛を否定できない。
彼女の祈りに応えて目覚め、彼女の愛を注がれて生きる僕らは、まさしく彼女の愛で咲く華だ。
ならば、彼女の愛で狂った仲間を、どうして責められようか。
彼女が鶴丸に全幅の信頼を置いているからこそ、主人のために鶴丸を疑うべきだと主張する長谷部のような者も居る。
だが、彼とて歌仙と同じように、本音は信じたいのだと誰もが分かっている。
この本丸の誰もが願っている。
どうか、どうかこの均衡が崩れないように。
「鶴るん鶴るん、ほら、見て見て、綺麗だよ」
「うん? なんだい」
歩み寄って幸せそうに笑う鶴丸と、笑い返す彼女の綻ぶような笑みが
失われずに済むことを、この本丸の誰もが切実に願っている。
この本丸は、まだ────彼を失うわけにはいかない。
だから今は、眠らせておくしかないのだ。
人の子への愛に狂った、祟り神の天を裂く慟哭も、何もかも。
あれが狂気ではなく愛だと、歌仙はどうしても信じたいのだ。
《夜鶴譚》
夜露冷える月夜が、荒涼と横たわっている。
「そうだね、鶴さんは──……この本丸で、彼は」
燭台切光忠は、盆に酒とつまみを乗せて膝を折り、縁側の柱に身を預ける大倶利伽羅の隣に静かに座った。
「昼の鶴のふりをしているけれど、本質的には夜の鶴だから、ね」
「五弦彈、か」
五弦彈。五つ弦彈き。
五弦の琵琶の美しく心掻き乱す音色を、夜の鶴が泣く様に喩えた古い漢詩のこと。
詩に曰く、琵琶の三と四の弦は冷え冷えと響き渡り、夜の鶴が子を想って泣くが如く也。
焼け野の雉子夜の鶴。
ことわざに曰く
己が巣を焼かれれば、雛を救うため命を投げ捨ててでも火の中に戻り
霜降りる夜には翼で覆って子を暖めて護るのが、夜の鶴であると。
夜鶴とは
命を賭し身を削るのも厭わぬ、親の愛の深さを示す、古い古い言葉だ。
鶴丸国永
とうに喪われた美しき白鶴紋の化身へ
寄せられた愛が形作った付喪神
自ら進んで鶴を名乗る彼の中には
人の子の想う『鶴』が織り込まれている
名を持つ付喪神たれば皆等しく
時に逃れようなく、否応なく
魂の奥深くへ織り込まれて
夜鶴の如き愛情深さが
鶴丸国永という愛の眠る奥深くに
「昔話の鶴は、人の子が約定を違えたから飛び去ったけれど」
ゆらり、手にした盃に月が映る。
冷え冷えとした下限の月が、その裏を見せないまま。
「ねえ、もし、約束を違えない、美しい織物を決して強欲に求めない、そんな誠実な人の子だったら?」
無言で酒盃をくっと煽って、苦みを飲み下した大倶利伽羅の隣で
空の盆を抱え、静かに光忠は項垂れた。
「心配して部屋を覗き込んでも、上手に笑って隠してしまえる鶴だったら、鶴は────いつまで、自分の羽根を毟り続けるんだろうね」
僕は、それが怖いよ
鶴さん
to be continued