@xxxyueyunxxx
朝目覚めたときから、ジェフの心はささくれ立っていた。
俺様らしくない。前日酒の席で言われた戯言を引きずっているなんて――そうは思えど、言われた内容が内容だった。
(清遊堂さんは、ずっと独り身なんだな。相手は探さないのか?)
ジェフの事情を知らないが故に、出た言葉。その場は笑って済ませたが、確実にその言葉は突き刺さって、血を流していた。
店でひとり座っていても、ざわめく気持ちはおさまらない。ざらつくような苛立ちを抱えたまま、長い指の先を見る。その、人差し指のところに出来たささくれを。
綺麗でない――ジェフは無意識にそのささくれを引っ張る。普段なら、そんなことは絶対にしないのに。
「……っ……」
無理矢理に裂かれた、ささくれのあった場所がずきずきと鋭く痛んだ。指先に血が滲み出している。ささくれを取っただけにしてはかなりの出血量だったが、傷を押さえることもなく、ジェフはぼんやりと血に染まる指先を見つめていた。
そのとき、店の入り口がゆっくりと開いた。入ってきたのは、回覧板を抱えた小柄な少女――朝恵だった。お下げ髪にした栗色の髪が、今日も可愛らしく揺れている。
「――いらっしゃい、朝恵ちゃん」
「こんにちは、おにいちゃん。かいらんばんです」
いつも通り回覧板を渡そうとした朝恵の手が止まった。その大きな黒い瞳は、ジェフの血の流れている指をじっと、見つめている。
「おにいちゃん、だいじょうぶ? ちが出てるよ」
ジェフが答えを返そうとしたときには、朝恵はジェフの側へと駆け寄ってきていた。回覧板をジェフの仕事机の上に置くと、その小さな手でジェフの大きな手を包み込もうとしている。
「ちゃんと手あてしなきゃ。でもわたし、今ばんそうこうはもってないの。おにいちゃんは?」
「――そうだな。俺様も、持ってないな」
絆創膏などというものは、常備していなかった。――何故なら、傷なんて魔法ですぐに治してしまえるから。
「心配しなくて良い。俺様、このくらい何ともないからな」
朝恵の大きな瞳が、じっとジェフを見つめてくる。その瞳は、全く納得していないようであった。
「……だめだよ、おにいちゃん。今日のおにいちゃんは、何だかいたそうなの。そのゆびだけじゃなくて」
ポケットから取り出したレースの縁取りのタオルハンカチで、朝恵は躊躇わずまだ血の流れるジェフの指先を包みこんだ。
「どうしたの、おにいちゃん? だれかにひどいことをされたの?」
――この子はどうして、何も言っていないのにそんなことを分かってくれるのだろう――
朝恵の黒い瞳は、今日も優しい――そんなことを、何故か考える。
「わたし、おにいちゃんのために何かできる? おにいちゃんにそんないたいかおを、してほしくないの」
「そう、だな……俺様は、朝恵ちゃんがこうして心配してくれただけで、十分だ……」
そう――不思議とさっきまでささくれ立っていた心が、凪いできている。朝恵の、黒い大きな瞳で見つめられているだけで。まるで、傷口を塞いてくれる絆創膏のようだ。
「――ありがとう、朝恵ちゃん。だいぶ、落ち着いたぜ」
そう口にして笑ってみせると、朝恵はようやっとほっとしたようであった。
「でもまだちが止まらないね、おにいちゃん。――そうだった、こうしたら止まるかも」
朝恵は指先を包みこんでいたハンカチを机に置くと、まだ血の滲むジェフの人差し指を、その小さな口に軽くくわえた。小さな舌が、傷口を舐めてくれている。
「――と、朝恵ちゃん?」
「ちが出たときはね。なめたら止まるんだよ」
頰が熱くなるのがわかる。こんなことをされたのは、長い魔族の生でも初めてだったから。
「ほら、おにいちゃん。ちが止まったよ」
指先を確認して、朝恵が笑顔になっている。ジェフの脈拍数が自然と上がっているのには、気付いていないようであったが。
「……そ、そうだな……ありがとう、朝恵ちゃん」
「あとでちゃんと水であらって、ばんそうこうもしてね、おにいちゃん。かいらんばんは、そのあとでいいとおもうの」
「わ、わかった。……必ず、そうするとするぜ……」
「早くいたいの、なおったらいいね、おにいちゃん」
朝恵はジェフに手を振って、店から出ていった。
ひとり店に残されたジェフだったが、その心境は最前とは随分と違っていた。――とりあえず、絆創膏を買いに行くか。別に絆創膏は要らない身体だが、朝恵ちゃんのすすめには、従わないとな――
朝恵は後でいいと思うと言っていたが、ついでに回覧板も回すことにしたジェフは、小脇に回覧板を挟むと、店を出た。そしてそのまま、歩き出す。
アーケードから降り注ぐ柔らかな光が、何故か朝恵のようだと感じた。