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【ドフロ】俳優ド×護衛ロ

全体公開 6 107 2 43146文字
2025-05-13 00:23:08

御礼のために限定公開にしていた2万字程度の俳優ド×護衛ロを4万字程度に加筆しました^^
※すべてフィクションです!




 命懸けの仕事をする人間は二種類いる。その仕事を選ばざるを得ないタイプと、選ばなくてもいいのに選ぶタイプだ。前者は、物心ついた途端に労働力として数えられ、親からは愛情が有償であることを教えこまれながら育つ。そのような状況で身につくのは忍耐力である。耐え忍ぶ力はあらゆる能力を育てる土台となるが、得てして、搾取される苦しみを呑み込む力も育ててしまう。選べる仕事は限られ、ゆえに、危険な仕事に従事せざるを得なくなる。
 そして後者は──一見後者に見える前者も居るため、この線引きは大変に繊細なものであるのだが──前者と真逆の背景を持つことが往々にしてある。つまり、生きているだけで価値があると教え込まれながら育つのだ。本人にその気概や性質さえあれば、ペンも剣も鍛え上げることができ、選べる仕事も山とある。ゆえに、危険な仕事は避け、安全かつ収入も良い業務に従事することができる。

 トラファルガー・ローは紛れもない後者である。彼は生まれたときから恵まれていた。両親もきょうだいもおり、みな健康で、互いを思いやる心も持っていた。彼は周囲から与えられる愛情と援助を十二分に吸収し、健康に育った。周囲が、積極的に彼に押し付けようとはしないまでも、将来を期待しないではいられないほどに立派に成長していった。彼には恵まれた環境はもちろん、周囲に甘えず自らを鍛えぬく人格も備わっていたのだ。年齢を重ねるにつれてその才覚をますます研ぎ澄ませていったローには、選べる仕事は山とあった。命を懸けなくとも稼げる世界に彼は居た。
だというのに──彼は、常に危険と隣り合わせの命懸けの仕事である「護衛」を仕事に選んだのだった。護衛の仕事をする者には前者も後者も入り混じっている。前者が護衛になる経緯は大体同じで、過去に軍やそれと同等の組織に半ば強制的に従事させられた結果、戦闘に秀でるようになった者が多い。過酷な経験を通じて生き残ってきたため、必然、超人的な猛者ばかりだ。ただし、容赦なく間引かれるような経験をしたために、精神的な問題を抱えやすい傾向がある。
 半面、後者が護衛になる経緯は実に様々である。恵まれた環境で立派に育ったがゆえに愛国心も立派なものを持ち、国のために危険に身を投じることを使命とする者。単純に刺激を求めて護衛になる者。はてや、天才的な頭脳を見出されてスカウトされ、諜報活動をすることになった──という、そんなドラマティックな背景がある“テイ”でいる者。
トラファルガー・ローが護衛の仕事を選んだ理由は、彼が『そんなドラマティックな背景がある“テイ”でいる者』であるからである──残念ながら。ローは二十代前半で護衛としてのキャリアを築き始めた。護衛という危険な仕事に就くようになったのは、『天才的な頭脳を見出されて高等教育を受け、その代わりに国のために諜報活動をすることを長年強いられたが、その結果その仕事を愛することになり五体満足で引退した後も“仕方がない”風を装いつつも自ら国のために護衛の仕事をする者』、に、強烈に憧れた結果であった。憧れは人を海の彼方へと連れ出し、月へ向かわせる力がある。なお、彼が憧れたその“引退した元諜報員”は映画で見た人物であり、現実には居ない。
 しかし、幼い子供には映画と現実の区別などつかないものだ。ローが件の映画を見たのは彼がまだ十歳の時であり、両親からスパルタと慈愛のシャワーをサウナと水風呂のように交互に浴びせられながら何でも吸収するスポンジのように純粋な心を持っていた時期である。そのスパイ映画を見たときに彼の真っ白で純な心に生じた強すぎる憧れは、少年の身体と脳の奥深くまでしっかりと吸収されてしまった。かくして、少年は自分がいつか諜報員の経験を積んで引退後に国の重役を護衛して影の偉人になるべくして生まれたのだと思うことになった。
 だがあいにく、諜報員に選ばれる機会がなかった。ローは、いつか国を飛び回って活躍するつもりで世界の文化や言語や宗教を学び、医療の知識も増やし、貪欲に必死にものにしてきたつもりであった。勉学に挫けそうになった時は諜報員の求人を眺めることでモチベーションを高めたり、それでもダメなときはすでに三桁は見ているあの映画を見て気持ちを高めたりもした。語学試験だって複数パスし、運動能力の向上にも常に真剣に取り組んできた。なのに、就職しやすい年齢を迎えてから応募した求人にはことごとく断りを入れられた。
 水面下で活躍する人材を募集する求人情報でローにも手に入るような情報は数少ない。どんどん切れるカードがなくなっていく焦りを抱えながら、ローは何度も練習して自分の能力をアピールしつつ国のために尽くす覚悟を伝える方法を磨いていった。いよいよ求人カードが最後になったときには、夢の中でさえ練習し、脳が汗をかいていると感じるほどに集中に集中を重ねて準備してから臨んだ。だが、それでも送られてきたのは不採用通知だった。ローはガッカリし、普通なら失礼に当たるのでやらないことをした。なぜ自分がダメなのか、不採用理由は教えられないとしている求人に対して質問をしたのだ。きっと『こういうことをするから不採用なのだ』などと怒られるか無視されるかだと思ったが、採用担当の女性は意外に親切で、わざわざ電話もしてくれた。ただ彼女は思いやりのある口調で、残酷なことをローに言った。
『あなたは動機が不純すぎます』

 到底、納得できる理由ではなかった。ローは言われたことの意味が分からずついカッとしそうになったが、そこは国を背負う仕事がしたい者としての自制心が働き、ただ静かに「わかりました。ありがとうございます」と感謝を伝えるに留めた。通話が切れた直後、デバイスを放り投げて椅子を蹴り飛ばして当たり散らかしたのは言うまでもない。尤も、デバイスを投げる方向をベッドの上に定める冷静さはあったのだが。
 ここまで散々な結果だと、誰かから後でコッソリ『実はあなたは合格で、今すぐ〇〇駅に来て欲しい』等と秘密のメッセージを貰える望みも持てなかった──というのは謙遜を尊ぶ頭が一応彼自身に言い聞かせたことで、本当のところ、ローは最後の不採用通知から半月間はまだ誰かしらから連絡があるかもしれないと期待していた。携帯が震える度に飛びついてメッセージを確認したし、電話などあろうものならワンコール以内に必ず出た。それでも、一ヶ月も経つと、どうやら本当に自分は諜報員としてお眼鏡に叶わなかったらしいと理解した。
 その悲しみを受け容れるのには、やはり件の映画が役に立った。試験を受けるために他校の研究所からの誘いも断り、名高い企業のインターン機会も挑戦せず、長期休暇中にアルバイトに没頭して稼いだ金で食いつないでいる今、味わう悲しみもそれなりに深みがあった。十歳の頃から自分というものをつくってきたといっても過言ではない“憧れ”を捨てることは、人格を破壊することと同義であると思えた。
そのくらい苦しい気持ちになったローだが、あの、もはやオールドムービーに分類される件の映画を高画質で見直し始めて十時間経ったところで、不採用であった哀しみを受け容れる気持ちができ上った。正確には、『なにも諜報員じゃなくてもいいじゃねえか』という危険なひらめきを得た、が近い。ローはハタと気付き、その気付きをあっという間に自分の中で“天啓を受けた”気持ちまで引き上げていった。彼は気付いたのだ──諜報員が無理でも、護衛の仕事があるじゃないか、と。

 映画の主人公は諜報員の後に護衛の仕事をしているが、なにもその順番通りにやらなくてもいいのだ。その気付きを得た瞬間から、ローは目の前に新たな路が輝きを持って拓いたと感じた。さっそく、彼は行動を開始した。もう寝ていても操作できそうなほど使いこんでいる求人アプリの検索バーを開き、護衛の仕事を探し始めた。
護衛の仕事を探すことはむしろ諜報員の仕事を探すよりも大変なことであった。なんせ、求人は山のようにある。人は選択肢が三本の指で数えられるくらいが幸せで、それ以上になると不幸を感じやすいなどなど言うが、まったくその通りだと調べるほどにローは思った。近くの小売店のパーキングの交通整理や学校の守衛、ほとんど清掃員と呼べる業務内容のものなど、名称は「護衛」に近くともその中身が全く違うというありさまには頭を抱えた。まるで一枚いちまい個別に包装されたトランプカードの袋を破いては丁寧に中身を取り出して確認していくような作業にローは心底辟易した。
そのフラストレーションの高い仕事を持ち前の忍耐力と途方もない憧れの力で乗り切ったローは、最も納得できる求人を見つけ、応募することができた。警備業界ではかなり大手の会社だ。これは、ゆくゆく必要な経験を積むためであった。後で振り返ってみると、この判断が大当たりであると同時にその逆のことも言えたのだが──さておいて、ローは無事に試験をパスし、警備会社にて職を得た。この時の彼が二十二歳。世界に名を残したくてたまらないエゴに捕らわれた心を “愛国心”だと勘違いしている、世間知らずの若者であった。

そんなローも、警備会社での期待以上に厳しい訓練や(訓練で寝不足にさせられるせいで一生消えなさそうにない隈ができるほどキツかった)、入社二年目で少しずつよく知らない資産家宅での警備や移動時の護衛などを経験し始め、三年目には同僚が足を失う笑えない事件や(半年後には本人は『心配せずとも俺のデカチンが脚みてえに伸びる』と笑い飛ばしていたが)、その他にもローもあと一秒判断が遅かったら命を落としていたと思える銃撃戦を一度ならず二度は経験したことで、彼は“憧れ”に振り回される青い若者から “信念”を持つ一個の人間として羽化を果たした。『合わなかったら他の警備会社に転職しよう』なんて考えながら入ったというのに、訓練時代は一生に感じた時間はあっという間に流れ、気付けば四年、大手警備会社で実績を積んでいた。

そうしてローは、満を持して、とある求人に応募した。大使館の警備の仕事である──実のところ、諜報員路線から護衛へと線路を切り替えてさんざん求人を探したとき、ローが最もやりたかったのがこの仕事であった。なぜなら大使館のような施設であればきっと諜報員が出入りすると思ったからだ。結局、ローは諜報員になれる可能性を追いかけたかった。夢は捨てられないから夢なのである。ただ、大使館ともなると一般の警備の経験が応募条件に必須としてあるため、大手警備会社で経験を積もうと考えたに過ぎなかった。
とはいえ、警備会社で経験を積んだ今のローは、なにも諜報員への憧れに酔っているわけではない。彼は憧れる気持ちを完全にコントロールできるようになっていた。確かにまだ胸がときめくような気持ちは抑えられない。だが、生死を掛けて警備の仕事をしたことでどんな時でも冷静に自分を客観視する力を高めることができたし、仕事に誇りを抱くようになっていた。それに、警備の仕事をする四年の間で冷静に自分を見つめる力をつけた結果、ローは十歳の自分を白銀のように強烈に燃え上がらせた強すぎる “憧れ”の正体に気付いたのだ。ローはなにも、諜報員に憧れたのではなかった。あの件の映画、正式名称『国の右腕』の主演の男に憧れただけだったのだ。のぼせ上っていたともいえる。あの主演男優には、十歳のわりに大人びていていると周囲から評されるほど賢しくすでに克己に長けていた坊ちゃんであったローの心を鷲掴みにする色気があった。二十を越え、そして警備会社の経験を経て、二十六になったローの目にも、まだあの俳優の色気には目が眩むものがある。十歳のローに将来の夢を決定的にさせた“憧れ”の正体は、諜報員でも護衛でもなかった。初恋だったのだ。
ローはその気付きを案外すんなり自分の“答え”として受け容れることができた。警備会社の仕事が危険で忙しくて悩む余裕がさほどなかったことも要因かもしれないが、なにより、気付いた途端にすとんと腑に落ちる感覚を味わったことが理由であった。ローの中の初恋は、恋の中でも一線を画している。性愛とは違うのだ。なにせ、まだ性欲なんて覚えたことのない十歳であったし、成長するにつれ対象として気になるようになったのは異性であったからだ。つまり、自分の欲望の対象として見ることすらおこがましいと感じる、見返りを求めぬ純粋な愛情が詰まっていたのである。特別で、揺るぎのない高潔なものだ。そういう類の恋心ならば、相手が同性でも納得できた。
 だから、憧れの正体を知り、それに振り回されないように自分を律する力を高め、警備の仕事に誇りを持つようになってからも大使館の警備に応募したのは、夢を夢のままで居させつつも今のキャリアをさらに極めていくための一環に過ぎなかった。だから、もし大使館の警備の選考に不採用でもきっと落ち込まないだろう。警備会社のキャリアをこのまま積むのも悪くはないし、それでも幅を広げたいなら別の会社を選んでもいい──そういう心のゆとりが、ローに試験を通過させたのかもしれない。
ローは自分でも驚くほどあっさりと試験をパスすることができ、トントン拍子で入社資格を得た。警備会社の仕事で絆ができた同僚らからは惜しまれつつも、きっといつかまた一緒に仕事ができるだろうと話し合い(実際、大変な仕事なので継続できる者は限られてくるため、顔見知りと仕事をする機会が増えるのがこの業界の特徴であった)、円満退職を果たしてから、大使館の警備として働くことになった。

 大使館での警備の仕事も、これまた覚えることが沢山あって楽しかった。緊急事態に発展したときの秘密の経路や特別な機能、どの役職の者から非難させるべきかなど、これまでの仕事とまた違う理念とルールがあった。考えるべきリスクの数も種類も膨大で、出勤さえ毎回ロー自身もさまざまな検査を受けることになる。緊急時の対応ひとつで国際関係を左右させる可能性があり、多岐に渡る事例やケーススタディも研修で学ぶことになった。そのようなリスク対策はもちろん大使館ならではのルールや施設設備などさまざま徹底的に研修で叩き込まれ、さらには護衛術のトレーニングも受けてから、いよいよ配属された。
実務に移ってすぐにローは前職との嬉しい違いを発見した。警備員は警備員としか話さないことが多かったこれまでと違って、大使館を出入りするさまざまな国籍の人とも会話する機会が格段に増えたのだ。多くはないが、困っている人に声だって掛けられる。学んできた語学や文化に関する知識や力が大いに役立つと感じ、ローはこの仕事にすぐに面白さを見いだすことができた。

 大使館で働きだして半年ほど経ったときのことである。近くのエリアを震源地に大きな地震が発生した。ローはそのとき日勤で、もう間もなく交替する時間になるところであった。揺れ始めた時、ローは真っ先に避難経路をつくるために走り、像や瓦屋根の近くに居る人々を大急ぎで頑強な造りの部屋へと移動させた。避難させた人々で部屋が窮屈になったフラストレーションや余震の恐怖で空気が火照っているときも──大使館の従業員はもちろんゲストの方、研修生、見学ツアーで来ていたハイスクール生ら四十数名、清掃員などが集まっていた。それぞれ所属は違うのに、なぜか皆服装が黒っぽく、白い大理石の空間が黒に埋まって見えた──、ローは冷静に避難経路について説明をした。さらには、騒ぎに生じて事件が起こらないように点呼を取ることにし、不審者がいないかを警備員仲間と手分けして確認して回った。
このときの動きは、ローからすると当然であったが、あとで上司に『よく冷静に対処した』と評価されることになった。それ自体驚いたというのに、この時の冷静に指示を出しているローをじっと観察し、仕事を振りたいと思った人間が居たことにはもっと驚いた。あれほど諜報員の仕事を欲しがっていた時にはスカウトのスの字も結局なかったのに、ローは護衛としてスカウトされたのだ。それが、地震から一週間が経った頃合いのことであった。彼の元に一本のメールが届いたのだ。

“トラファルガー・ロー 様
 初めまして。私は先日〇日に大使館に赴いていた者です。〇〇地区を震源とした地震があった際、私は大使館にいました。ショックの大きな地震でパニックに陥っても仕方がない状況でしたが、貴殿が非常に冷静に非難指示を出してくださったおかげで、無事に家に帰ることができました。心より感謝申し上げます。

 さて、こうしてメールをお送りしたのは、先日の貴殿の素晴らしい立ち振る舞いを拝見し、勝手ではありますがひとつ相談したいことがあるためです。実は、私は警護の仕事をしており、現在共に働いてくれる方を探しております。表には求人を出していない、紹介でのみ募集している案件です。
決して悪い条件ではないと自信を持っております。よろしければ一度、お話しさせていただけないでしょうか?ご連絡をお待ちしております。
電話番号.〇〇〇-〇〇〇
セニョール・ピンク”

このメールを開いたとき、ローはすぐに『上司はこの件を知っているかもしれない』と思った。メールアドレスは会社のドメインで取得しているものだし、職業上公開する必要がないので公に見える所には登録していない。つまり、上司か誰かがローのアドレスを聞かれて、匿名前提で教えた可能性がある。ローは、なんだかいいような気持ちはしなかった。なんせ、まだ大使館の仕事に就いたばかりなのだ。一年は経っていないし、トレーニングを受けて試用期間もパスして本契約に至るまで努力したことも考えると、現職を蹴ってよく分からない人物の話に載るわけもなかった。一応セニョール・ピンクなる人物を検索してみたが、SNSも何もヒットせず、イタズラメールかとすら思った。ただイタズラにしてはこのメアドを探り当てるだけの力があるということで、何者かではある可能性が高いので、ローは一応丁寧に断りのメールを入れた。

その断りのメールを送った、二日後の夕方。日勤を終え、ローは大使館の敷地を自転車を押して横切り、走りやすい道路まで歩いていた。今日は久しぶりに大学時代の友人らが集まって酒を飲んでいるというので、自分も昨日の夜勤の疲れを仮眠ととってスッキリさせてから混ざりに行こうかな、なんて気楽に考えていたところで、ローに向かって手を上げてくる人物を正面に見つけた。帰宅ラッシュには少し早いが十分に人通りも車通りもある大通りの歩道の上で、水玉模様のなかなかに派手なジャケットを着用し、四角いサングラスをかけた、厚めの唇を持ったその男は目立っていた。名刺を見なくとも『芸能関係』と書いてあるのが分かるような出で立ちだ。親し気で気さくそうな雰囲気のその男は、眉を上げたまま様子を窺っているローの前に楽し気な調子で歩いてきた。
「どうも、こんにちは。帰宅する様子のところ、悪いが、少しいいかな?」
男は無言のローの前に、胸ポケットから取り出した名刺を丁寧に差し出してきた。
「セニョールです」
「ああ……
ローは自転車を押さえていたので、断って片手で受け取った。名刺にはやはりと言うべきか、芸能っぽい事務所名が書いてある。秘書という肩書が非常に胡散臭かった。
「俺の出勤を把握しているようで」
ローが名乗りもせず嫌味を返すと、セニョールは口の端を持ち上げてふっと笑った。後ろにざっとかき上げられた黒髪の前髪がひとふさ目元に垂れており、脂がのった歳に見えるが若い女性でも黄色い声を上げそうなオーラを放っている。
「不快な思いをさせて申し訳ない。だが、俺はそれだけ君に目を掛けているんだ。後悔させないと思っている。条件だけでも話させてもらえないかな?」
「メールが届きませんでしたか?俺は現職を始めたばかりで、今はこの仕事に集中していたいんだ」
「その気持ちも分かりますよ。それに、俺はこうしてトラファルガーさんを見込んで声を掛けているが、もちろんこれは何も君を採用すると約束しているわけではない」
セニョールはゆっくりと身体を傾け、打ち明け話をする表情で話を続けた。交渉上手な奴だとローは思った。
「何万人も、いや何百万人もが喉から手が出るほど欲しがる求人だと思ってくれていい。その条件すら聞きもせず、チャンスをふいに?聞くだけならタダだと言ってるんですよ。本当なら、身内にしか伝えない情報だ」
「なら、その身内に伝えてくれたらいいですよ。じゃあ、予定があるんで」
ローが会釈して歩き出そうとすると、セニョールはすぐに横をついて歩き始めた。
「君の連絡先を知っているのはなぜか、気にならないのか?」
「あ、いえ……
「君の上司にスカウトすることは断ってから声を掛けたんだ。つまり、条件すら聞きもせずに俺の話を断るのは、君の上司にも失礼だと思わないか?」
セニョールの言葉に、ローは思わず足を止めた。やわらかく頷いたあと、セニョールは少しだけ気まずそうに身じろぎをした。
「悪いな、トラファルガーさん。一度真剣に考えて欲しいんだ。本当に無理なら、断ってもいい。だが仕事の出世は上司との関係がすべてだというのは君も理解しているだろう?俺が君の立場なら、どちらの仕事をするにせよ、一度真剣に話を聞いてみようと考えると思うな」
やはり交渉の上手な男だとローは思った。ため息を吐き、ローは頷いた。
「自転車だけ、そこの駐輪場に停めてきてもいいですか?」

 セニョールは車で話そうと言ってきた。もし自分が女性なら断固拒否する提案だなと思ったが、昼間であることや自分が日常的に鍛えていることを相手も知っているという要素を加味して判断し、ローは大使館から歩いて三分の駐車場に停めてあったセニョールの真っ赤なセダンに乗り込んだ。
「それで、どんな仕事ですか?」
助手席に乗り込むや否や、ローは尋ねた。セニョールは駐車場代の支払いで出していた携帯を胸ポケットに戻しながら、ローがせっかちだと言わんばかりに微笑んだ。
「お伝えした通り、警護の仕事だ。よかったら、今からその現場を見に行かないか?」
「現場?」
「百聞一見にしかず、と言うからな」
そう言いながらもセニョールはエンジンをかけた。ローはため息を呑み込み、鼻の上に乗っているいつもの黒いサングラスを押し上げた。警備員は身元が割れると家族や知人を使って脅迫される可能性があるとされるため、大使館の出入りをするときには顔を隠せる道具を持ち歩いていることが多かった。この眼鏡程度では気休めにしかならないだろうが、なんとなく掛けていたい気持ちになった。

 街中の駐車場を出て大通りを走り、やや郊外に近づいてくると、セニョールはベラベラと話し始めた。
「やあ、実は、気付いているかもしれないが焦っていてな、早く新しい人材を雇いたいんだ。ああ、もちろん、これは君の採用を保証するものではないがなんせ、あのさておいて、まあ、俺は焦っているんだ。なぜだと思うかい?」
「焦っているからでしょうね」
「そうだ、新婚だからだ。二週間後にはバケーションで、新婚旅行に行く。君を大使館で見掛けたのは、妻が大使館で働いているからだよ。先日の地震の時に大使館に居たのは彼女の職場に挨拶に行くためでね。長期休暇前に俺が一度挨拶したいと言ったことを、彼女は喜んでくれたんだ。ちょうど彼女に届けるものがあったというテイで、ついでのように行って、同僚を確認してきた。普段の俺はサッパリした男だと思っているが、一応、念のため、同僚の顔を見ておきたかったからな。あの職場には男が多い」
赤いセダンはぐんぐんと北上する。どうやら街を一線する丘陵に向かっているらしい。北は少し入るだけで自然が多いエリアとなるが、遠目に海が見える緑豊かな場所として観光地にもなっているので、危機感はさほど覚えなかった。ローが黙って行く先を見ている間も、セニョールは次第に喜色を隠すこともなくなり、話し続けた。
「結婚式は身内だけで挙げてね。ちょうど今向かっている方面の、もっと北東にパシッフィ丘というところがあってね、そこが見事なバラ園のあるところなんだ。その近くの教会で式を挙げて、バラに囲まれた彼女と彼女の家族と共に最高の食事をした。ドレスは白の次は濃い黄色で、あれは彼女に最高に合っていたな」
セニョールの弾んだ声を聞きながら、ローは次第に自分の険が取れていくのを感じていた。警備の仕事を通じて不審者を見る目を養ってきた自信はある。もちろん誤審だってありえるわけだが、それでもこの嬉しそうなセニョールの頭が新妻のことでいっぱいであることは火を見るより明らかだ。ローを陥れる理由は彼にはなさそうであった。
 すっかり街を離れ、民家がぽつぽつとしかない道路に入り、丘に向かって道が傾斜になってきたとき、ローはようやっと切り出した。
「あんたが幸せでいっぱいなのは分かったよ。そのハネムーンのために仕事をどうにかしておきたいってのもな。つまり、バケーションの間に仕事を手伝ってくれる人を探してるってことだろ?」
ローの質問に、セニョールはにやにやと浮かれきっていた口元をやや引き締めた。思いがけず心の内をたくさん話してしまった、と頬に書いている。どうにも不用心なところのある、それでいて一途な性格らしい。きっと伴侶もこの男と同じくらい舞い上がっているのだろう。
「まあ、ああ……そうだな。そう、だから、なにも一生この仕事をして欲しいというわけではない。今の仕事を少し休職して、こちらの手伝いをしてくれないか、という誘いだ。現職で君の立場が悪くなることはないように掛け合っておく」
「そんな芸当ができるなんて、素晴らしいお立場でいらっしゃる」
「気持ちはよくないだろうが……君の上司だって優秀な者なら引っ張りだこであることくらい理解しているさ。だからむしろ、君を重宝することになるだろう。悪いばかりの話ではないはずだ」
それもそうだな、とローは思いながらも、顔では渋面を作ってみせた。
「まだどんな仕事か聞いてないから、何とも言えませんよ」
「そうだな……私の仕事は、トラファルガーさんローと呼んでも?」
「ああ」
「ロー、私の仕事は護衛なんだ。とある個人を守る仕事でね。長年その方をお守りしている」
護衛、というワードに、ローの奥深くに押し込められた幼心が疼いた気がした。しかし、すでに現職に誇りを持っている身であるローは動揺することもなく、淡々と先を促した。
「とある個人を?」
「ああ。ずっと一緒に我々と……俺と仲間と、あの方で、仕事をしてきた。きっと君も知っているよ、もしかしたら世代的に深くは知らないかもしれないが、名のある方だ」
「へえ。それならいっそう、なぜ俺に声を掛けたのかが気になるな」
「そうだろうな……少し待ってくれ」
道の左右が完全に木ばかりになったところで、突然に、路肩に人が立っているのが見えた。いかつい男で、肩から腰に掛けて反射板のついたタスキをしている。一見、工事関係等の人に見えなくもなかったが、服装はパーカーとジーンズのラフなものだった。セニョールが速度を落とすと、運転席の窓に近づいてきて、男は頭を下げた。
「セニョールさん、お疲れ様です」
「ご苦労さま。通っても?」
「もちろんです、お気をつけて」
セニョールは頷いて窓を閉め、発進した。
「失礼。で、なぜ君に声を掛けたか、だったな?」
いや待て、今の人はなんでこんな妙な所に立っているんだ?周りに何もない丘だぞ?今のやり取り、見張りのようにも見えたが……今の男のような仕事をして欲しいということだろうか?一体なにを護衛する仕事なんだ?
 ローは言いたいことが沢山あったが、すぐに前方に見えてきた異様な光景に口を噤むことになった。観光地も一部あるとはいえ、辺鄙な丘に近づいているはずなのに、路肩にびっしりと色とりどりの車が停まっている光景が見えたのだ。セニョールの真っ赤なセダンはその車でできた通路の間を通るようにどんどん緩やかな勾配の上り坂を進んで行く。
「それは、あの方が身内の護衛を嫌がったせいなんだ。俺に三週間もの休暇を言い渡したのもあの方なんだが、そこには自分が羽を伸ばしたいという考えがあるに違いなくてな困ったもんだ、若には」
セニョールがやれやれと困った調子で話すことなどローの耳にはあまり入ってこなかった。それよりも、次第に近づいてきた丘の頂上の拓けた空間で、慌ただしく人が走り回っている様子や大きな機材が動き回っているところに目が行って仕方がなかった。一体何がここで行われてるんだ?
「あの方は、自分がなんでもできると思っている。襲われたって何されたって、まあ、たしかにあの方は並大抵の暗殺者など歯牙にもかけないでいいほどに強いだろうが、それでも護衛をつけないなんてワケにはいかない。身内が嫌なら他の人をと伝えたところ、OKをいただけたんだ。あの方のお眼鏡に叶うような人間を俺が見繕えないと思われているのかもしれないが……たしかに、これまで二人、かなりキャリアのあるモンを見つけたが、すげなく却下されてな」
セニョールが数台しか停まっていない場所に車を停めた。駐車場所だけでも彼が特別な地位だと分かるとローは思った。現場は、どう見たってなにか大掛かりな撮影をしていた。こんな現場、初めて見る。
興味を引かれて少しだけ興奮したローに気付く様子もなく、セニョールはエンジンを切って話を続けた。彼の口調はローに聞かせるためというより自分の思考を整理するための独り言のような調子になっている。
「このままじゃあ若の護衛に穴が開く。他の幹部の皆さんも正直忙しすぎるし、それに若なら大丈夫だとか気の緩みとしか言えない発言も見られるし。ああ、グラディウスがもう少し癇癪のない男なら奴が最適だというのに……
で、誰の護衛なんだ?」
映画とかドラマは、あの件のもの以外はてんで詳しくないローであったが、それでも好奇心に敗けて質問した。セニョールはハッとした表情でローを見て、力なく微笑んだ。ここに来て、『この若い奴もどうせ採用できないかもしれない』と諦念が滲んでいるセニョールの表情に、ローはムッとした。雇われたいとは思っていないが、“雇いたいと言われたけど断る”、というのがローのプライドには理想だ。だが別に、実際にセニョールの雇い主のお眼鏡に叶わなくても、この面白そうな現場を見られるだけで満足感はあるとも感じていた。
「ドンキホーテ・ドフラミンゴだ」

セニョールが放った名前に、ローは一瞬、目の前が暗くなった。ネガティブな反応ではない。立ち眩みと同じで、あまりに急に血の巡りのリズムが変わって正常に情報を知覚できなくなった反応である。
 まったく一言も話せなくなった──なんなら瞬きも呼吸も忘れて固まったローに、セニョールは「知らないのか?」と呑気なことを言った。ローは心の中ではふざけるな、と思った。身体は一つも動かせそうにもないのに、急速に思考が巡っていく。

 ドンキホーテ・ドフラミンゴ?ドンキホーテ・ドフラミンゴと今、セニョールは言ったのか?あの、ドフラミンゴ?

 目を見開いているのに、もう三桁は見たあの映画の主演男優の表情がありありと目の前に浮かぶ。スパイの仕事をするために必死に勉強するときのあの真剣な目……人の心を自分の意志とは違って好き勝手に動かさなければならないことに苦悩しながらも信念のために己の心を殺すシーンの、あの眼差し……髪と同じく金色の長い睫毛をかすかに震わせながら汗にまみれて苦悩するあの場面は、心を揺さぶられずにはいられなかった。それからせっかく何もかもを置いて諜報員を辞めることができたのに、結局重役の護衛をすることになってまた苦しみながらも、最後は使命を全うする……映画の中では時が流れるのが早く、若い諜報員時代の時に比べて護衛時代は五十代を演じていた。あれが特殊メイクで撮影していたと知ったのは初めて映画を見てからずいぶん経った時だった。十歳のローの目にはメイクなど全く分からず、主人公の若く美しい姿から凄みのある初老の姿までの一生を見た気になっていたものだった。幼いローは青年期から壮年期、そして老年期まで歩む主人公の全てに心を捧げていたのだ。
 憧れの正体が初恋だと自己分析の結論を弾き出した時、ローが『絶対にやるまい』と思ったことが一つだけある。初恋の相手、の演者、ドンキホーテ・ドフラミンゴを調べることだ。こうと決めたら曲げない自分の性格上、そんなことをしようものならどこまでも突っ走ってしまうことが分かっていた。きっとドフラミンゴの出演する映画はもちろんドラマやCM、雑誌、果てはちょっとしたチラシまで何もかも集めずにはいられないことになる。せっかく、本当は初恋が原因だったにせよ、諜報員や護衛という職業や立場に憧れていると勘違いをしてその力だけで今のキャリアを築いてきたのだ。奇天烈な行動に走って努力を無駄にしたくなかった。
だから、ドンキホーテ・ドフラミンゴのことは考えないように徹底してきたのだ。実生活が忙しかったというのも大いにあるが、決めたおかげでドンキホーテ・ドフラミンゴのことを避けて通ってくることができた。あの『国の右腕』という映画だけは今でも精神安定剤の如く見るが、彼が出演する他の映画は一つも見ていない。初恋を自覚してからはテレビもドラマも一切見ないようにしていたので、ウッカリ雑誌に写真が載っているのを何度か見たときにサッと目を逸らすことはあったにせよ、“摂取”しないように絶ってきたのだ。だというのに──
「む、無理だ……
ローは気付けば汗でいっぱいになって、呟いていた。セニョールはすでにドアの取っ手に手を掛けて降りようとしており、ローの言葉など聞いていなかった。
「じゃあ、ロー、ちょっと見に行こう。君を雇うのは俺じゃあなく若ドフラミンゴが決めることなんだ」
「ま、待ってくれ」
ローの裏返りぎみの声を、バタン、と扉の閉まる音が遮った。セニョールの思考はすでに撮影現場に向いているようで、周囲を走るように動き回る忙しそうなスタッフたちに挨拶をしている。ローは警備会社での四年間ですらこんなに気が動転したことがないと思えるほどのパニックになっていた。ここに連れてこられるまでのおよそ三十分前は、まさか半径十メートルほどの距離にあのドフラミンゴが居るような状況になるなんて考えたこともなかった。パニックで汗が止まらない。とにかく冷静にならなければと思うほどやけに興奮していて、熱いのか寒いのかもわからない。勝手に手がぶるぶる震えている。ローはサングラスを外して一度袖で額を拭ってから、震える両手でサングラスをかけ直した。
『お、落ち着け、べつになんてことはねえじゃねえか、あの映画の時はたしかに二十半ばでクソイケメンだったが、今じゃ、たぶん四十くらいだろ?そんな、たしかにあり得ねえくらい色男ではあったが、四十の男にそんな、なにも感じるわけ……
コンコン、とガラスをノックされる音が響き、ローは椅子からお尻が二十センチは浮いた。ガンっと頭を天井にぶつけたが、痛みなんて全くない。ガラス窓越しに、驚いた様子のセニョールが見える。なかなか降りないローを訝しんで、回り込んできたのだろう。
ローは深呼吸を繰り返した。初恋など叶わないものだし、成熟した今、自分は女性しか“そういう対象”では見なくなっている。そもそもドフラミンゴに性欲を覚えたことはない……筈なのだ。あの初恋はまったく純粋で真っ白な心が生じさせた清らかそのものの愛情であった。だから気まずく思う必要もない──おかずにしたわけじゃあないのだし─これからあの男を見て幻滅する必要もない。なにも感じなくていい、なにも─
「大丈夫か?」
ようやく車を降りたローに、セニョールがビジネスライクな口調で言った。ローは落ち着き払って頷き、サングラスの下ではつい忙しなく動きそうになる目を止めるべくぎゅっと瞑っていることなどおくびにも出さず、あくまで警備のプロになるよう集中した。
「ああ、すまない、仕事の電話が来たと思ったが、違った」
「そうか?じゃあ、こちらに」
携帯を確認していたという嘘を曖昧に伝えたローを不思議に思った様子もなく、セニョールは実に軽い調子で撮影現場の方に身体を向けた。「ちょうど休憩に入りそうだ」と言った彼に、ローは心臓が口から出そうであった。あんなに必死に受けた諜報員の面接のどれよりも今緊張している。だけど、一方で脳裏には絶望感があった。ああ、これから俺は、初恋を打ち砕かれるんだ。実物の人間なんて、つくり上げられた映画の中の人物にかなうはずもない──
 歩いて行くセニョールにローの身体がついていく。周囲の人間が「お疲れ様です」とセニョールに頭を下げ、ちらりとローを見てくる。ローは会釈を返しながら、彼ら彼女らの慣れた様子に、セニョールが言っていたようにこういう見知らぬ者を雇い主の男(ローは思考の中ですらドンキホーテ・ドフラミンゴの名前を呼ぶことを怖がっていた。なんせ十六年以上も考えることを避けていたのだ)に引き合わせる場面は初めて見られるものではないのだろう。同情じみて見えるのは、これからアッサリとローがクビになると思っているからだと感じるのは、なにも自分が僻んでいるからではないとローは思った。雇われないだろうし、雇って欲しくもない──だが、あのドフラミンゴを生で見る機会なんてもう一生ないに違いない。心は、もはや人格や人生の土台となっているともいえる“初恋”が引き裂かれそうな恐怖でここから逃げたがっているが、欲がローの足を先に進めた。とんでもないトラップに突き落とされたような心地だが、剱山に串刺しだとしても、こんな機会を逃したら死に際まで夢に見るに決まってる。
 空き地を中心にたくさんの車が停まっている。扉を開けてひさしをつくっている大きなコンテナじみたトラックの中に、その人は居た。俳優たちだろう、数人が椅子に座り、その周りを沢山の人が動いているなかに見事な金髪が見えた途端、ローはさっと視線を下げた。草原で何かがあるシーンでの撮影なのだろう、地面は草のところどころ生えた岩肌だ。
「若」
セニョールが声を上げた。彼は止まらず、どんどんトラックに近づいている─もう三、四メートル先だ……
「ピンク、戻ったか」
低い声が聞こえた瞬間、ローは風船がしゅんっと音を立てて萎んだように感じた。緊張の糸はそっと切れた。頭の端から、意地の悪い声がする──聞いたか?今の声。あの映画の時と全然違う、ハリもなにもないじゃないか?
ローは、脳が、声の主を初恋の相手だと認識しなかったことに気付いた。途端に冷静さが戻ってくる。
そうだ、俺はあの映画の主人公は知ってるが、ドンキホーテ・ドフラミンゴのことはなにも知らない。とんでもないクソ野郎かもしれないだろ?
「ああ、休憩のところ、悪いな。また例の……
セニョールが身体を傾け、ローの横に立った。それで、ローは初めてドンキホーテ・ドフラミンゴをしっかりと直に見た。途端に、声を聞いただけで意地悪くイチャモンをつけていた脳裡の声は吹き飛んでいった。
 ローが最も恐れていた姿で、ドンキホーテ・ドフラミンゴは座っていた。あの映画で見た壮年の主人公そのものの姿だ──ひじ掛けのついた座り心地のよさそうな黒のメッシュチェアに腰掛け、肩からピンク色のブランケットを被せられている男はスーツ姿で、肘をついて手で支えている顔はもちろん、組んだ長い脚の先まで全部自信に満ちているようなオーラを纏っていた。口元をやや引き締めている表情は、あの映画で見た勉強するときの主人公にそっくりだった。ただ目を大きなサングラスで覆っており、そのためにローは本気で錯覚するところまで行かないで済んだと思った。
 きっと歳を食って老けたに違いない、腹がでたり皺まみれになっていたりするに違いないと、期待のような失望のような思いで失礼極まりないことを考えていたのに。ドフラミンゴは完璧に、あの若い頃の美貌を保ったままに年齢による深みを足したような外見をしていた。ローは鍛え抜かれた腹筋と背筋がなければ今ごろ地面で身もだえて転がり回っていただろう。タトゥー並みに濃いクマができるほど訓練したのはこのためかもしれない。人としての尊厳を失わないための。
「フフ、例の、か?ピンク、お前もなかなか諦めの悪い」
ドフラミンゴはゆっくりと口の端を持ち上げた。ローはただじっとした。銃撃戦の時に必死に動揺を抑えたときの自分を思い出して、動かないことを選んだ。目の前の男は何も持っていないが、ローからするとソフトポイント弾を装填した銃を握りしめているも同じだった。どんな言葉を発せられても、それが一生涯残りそうな予感がある。
セニョールが困ったように肩をすくめる。
「そりゃあ、若、あなたのために諦めるわけには」
「フッフッフ、部下に恵まれたものだ。今度は若いな?」
「ええ、でも肝の据わった奴です。ロー、若に挨拶を」
肝の据わった奴、ではなく喉が潰れそうな奴、と言ってくれたら適切だと思った。ローはまったく声の出せる状態ではない縮みあがった気管を気力を総動員して拡げ、軽い咳ばらいをしてから声を出した。すさまじい痛みが喉に走ったのに、ほとんど何も感じなかった。
「トら、トラファルガー・ローです」
「トラトラファルガー、お前は俺に声を張り上げさせる気か?」
ドフラミンゴはくっと口の端を持ち上げてイヤミったらしい口調で言った。ローの中で、また風船の萎む音がした(一体いくつあるのかは分からないが)瞬間、ローは途端に冷静さを取り戻した。目の前の男が銃など持っていないことに気付いたのだ。脳裏に、思考が再び勝利を宣言する喜びの声がする。
 言っただろ、初恋はあの主人公に対してなんだ!よく見ろ、こいつはただの一般人、あのクソクールな男じゃない!ちっとも似てねえだろ、別人だ、だから俺は大丈夫だ、たかが俳優、気の迷いだ、もう大丈夫だ─……
「失礼いたしました」
ローはもう三歩前に出て、ドフラミンゴが腰かけている二メートルほど前まで近寄った。天に向かって開いているトラックの扉でできている影には入らない、失礼のない距離を保つ。セニョールが困ったとばかりに身じろぎしたのが視界の左端に映ったが、ローは気にならなかった。きっとドフラミンゴに心を舞い上がらせたままならセニョールの反応に“クビ”だと感じ取って挙動不審に陥っていただろう。だが、初恋の相手と目の前の男は別物だと、声とこのイヤミったらしい性格の滲みでた言動でハッキリした今、気持ちを切り替えられていた。もう作業だ、あとはせいぜい失礼にならないように振舞うだけの。
「セニョールさんにお声掛けいただきました、トラファルガー・ローです。精一杯がんばります」
ローはあくまでビジネスライクに言った。ドフラミンゴは笑顔を消さず、「そうか、ご苦労」と心のこもっていない声で応えた。
一応の務めは果たしたような気がして、ローは頷き、「失礼します」と挨拶をして下がった。後ろでセニョールが「若、考えちゃくれねえですか」と言い始めたが、ローにはもうどうでもよかった。ただこんなに近くであのドフラミンゴを見れたことは、いくら初恋の男とは別人だと分かっているとはいえ、ひどく得したような気持ちがすると思った。
……フフフ、まあ、若いわりに肝が据わってるってのはたしかみてえだが。なあ、ピンク、なにも無理しなくていいんだぜ?フフ、俺は自分の世話くらい自分でできる」
やって来たスタッフが恭しく差し出す盆の上のティーカップを優雅に受け取りながらドフラミンゴが言った。やや呆れた口調に、彼が本当に護衛を望んでいないことが窺える。こりゃあセニョールは気苦労が絶えねえな、とローが思ったとき、左側からぬっと大きな影が現れた。
「べへへへ、ドフィ~~、さっきの演技もよかったね~~」
三角のサングラスをした青髭の男がローの横に立ってドフラミンゴに向かって話し始める。ドフラミンゴの横のスタッフがさっと動き、何気ない調子で話し始めた男とドフラミンゴの間に立った。それが男が唾を飛ばすように話すからだと、説明を聞かなくてもローには分かった。実際、話し始めた男の唾をシャワーのように頬に感じたからだ。一瞬で吐き気がしたのを無表情で堪えた自分を褒めてやりたいとローは思った。
「フフ、トレーボル、本当に見てたのか?」
「見てたぞ、んね~~~、最高だった」
「てっきり女優しか見てないと思ったがなあ?休憩に入った途端、まっさきに女の方に行ったようだが……
トレーボルと呼ばれた男はぎくーっと身体を強張らせたが、急いで言葉を並べた。
「べ、へへ、まさか!ドフィの演技に見惚れてたさ、んね~~」
「フッフッフ、嬉しいねえ
ドフラミンゴはまたちっとも心のこもっていない声で言った。
そのままどこがどう良かったなど意外と具体的に話し始めるトレーボルの横で、ローはため息を呑み込んだ。ゆっくりと後ろに下がり、目立たないようにしながら、セニョールの近くまで下がる。ローの動きを見ていたセニョールは、ローが横に来るなりため息を吐いた。その吐息ひとつに『ここまで来てもらったのに悪いな』という気持ちが込められていて、ローは小さく肩をすくめた。別に、こちらとて、タダであの大物俳優が拝めたのだ。決して初恋の男とは違うが、いい経験をしたと思えばいい。
ローは疲れと満足も覚えつつ、トレーボルのせいで濡れた感じのするサングラスを外した。袖で乱暴にサングラスを拭うと、やはり濡れた感じがあって物凄く不快であった。
やれやれ、この服、捨てちまおっかな─……
そんな風に考えながらサングラスをかけて顔を上げたローは、瞬間、バチっと音が鳴りそうなほどドフラミンゴと目が合った──と思った。ローは別に意図せず顔を上げたのだ。俳優の方はサングラスをしているのでどこを見ているか分からないが、なぜか、トレーボルと話しながらも彼の高い鼻先や口の向きはこちらを見ているように見えた。ローがサングラスの下で反射的に眉を上げた瞬間、ドフラミンゴはさっと顎を支えていた手を動かして口元を覆った。長くきれいな形の指が並んだ手だ。
……ま、そろそろ帰ってもいいなら帰るか?』
ローは考えることを止めて、隣のセニョールに帰りたいことを訴えるために視線を投げた。セニョールは数秒の後、気付き、ローに向かって了承の頷きをした。
「待て……失礼、トレーボルさん。若、じゃあ、俺はまたいったん離れます。失礼します」
セニョールの声に一旦トレーボルは話を止め、「ピンク、べへへ、ご苦労だったな」とねちっこく言った。セニョールは挨拶を返し、ドフラミンゴに頭を下げた。ローも彼を真似て俳優に頭を下げ、踵を返した。
 
セニョールの車に向かい、二人とも乗車した途端、セニョールはため息を吐いた。
「いや、ロー、すまないな
面接らしい会話すらしてないことを謝っているのだ。ローは彼の不憫さを思い、苦笑した。
「くく、いいさ、面白かったよ、意外と」
「そう言ってくれるとん?失礼」
セニョールが言い切る前に、ノックの音がした。ベルトを止めていたローは一拍遅れて運転席の窓ガラスをスタッフの一人らしい男がノックしたのが見えた。男は窓を開けたセニョールに顔を寄せ、何事かを耳打ちした。「え?」とセニョールが驚いた顔をしたが、さらに男が耳打ちをすると、短く「わかった」と言った。
「ロー、悪いが、少し待っててくれ」
セニョールが真剣な声で言ったので、ローは半分は『もう帰りたいんだが』と思ったが、半分はまだこのまま撮影現場を見学して楽しもうという気持ちであった。
「いいぜ」
ローの返事を聞くや否やセニョールは車を降り、さっそうと歩いて行った。また撮影陣の中心に入って行き、背が人や機材の影で見えなくなる。

 ローは仕方がなく伸びをして、のんびりと待つことにした。再び戻ってきたセニョールが、街にローを送り、そしてローの下車のタイミングで駐車をしてから頭を下げて、「頼む!」と言われることなど、このときのローは全く知らなかった。
 
頼む!ロー、受けてくれ!若が、ドフラミンゴがOKを出した唯一の君に、護衛の仕事をどうしても頼みたい。三週間だ、それだけでいいから、頼む、どうしても俺は妻のためにこの休みを心置きなく休める状態にしたいんだ!


*****


 ローは自転車で自宅に帰るまでの記憶がなかった。身体の習慣だけが、彼を無事に家に帰してくれた。転職にあたり引っ越したアパルトメントはこのところ定昇している家賃相場通りで決して安くはないが、住み心地はよい。電車はやや遠いが公園や学校など子供を育てやすい環境がつくられており、ゆえパトロールが多く治安の維持に力が入っている。いつでも子供の明るい声や泣き声がどこからかかすかに聞こえるせいか、小売りや飲食店などの商店も活気があった。こじんまりとした規模の店が多く、どこか気の抜けた空気の流れているエリアだ。住み始めてまだ一年も経ってはいないが、近所で大きな犯罪や事故が起きたことは一度としてなかった。
ロックを開けて部屋の中に滑り込んだ途端、日中の太陽を取り込んだほのかにあたたかな空気が頬を打った。ドアを閉めると、途端に静けさが増す。習慣的に動く手がカギを置き、部屋の電球にライトを点けさせ、上着や鞄を片付けさせた。ほとんど無意識に携帯を充電器に挿し、冷蔵庫の扉を開け、そのバタンと重たい扉が閉じる音にローはどうしてだかハッとした。自分の頭も心もここにあらずなことに気が付いたのだ。
今日から日勤のシフトが二週間続くが、昨日までは夜勤であったためその差によるだるい疲れが残っている。自然と首を回すと、身体が疲労をますます訴えてきた。脳に酸素が十分に運ばれていない気がする。つい一時間ほど前は仮眠でもとったら久々の友人らとの飲み会に合流しようなどと考えていたはずなのに。突然、人生の岐路に立たされたとローは思った。これまで必死に自分の理想の路を切り拓こうとしてきたのに、急に舗装された立派で頑強な路を案内された気分だった。それも、一見は立派だが、その下に何が隠されているか分からない、これまでとはまた違う危険を感じさせる路を。
 それもそのはずである──ローは十歳の頃から今までの十六年間、映画の主人公への“憧れ”だけで自分の足元を踏み固めてきたのだ。素晴らしい実績を誇る大学からの誘いや手を伸ばせば掴めた数々のチャンスを振って、危険で不安定な路を選んできたのは“憧れ”に突き動かされ続けてきたからに他ならない。命を危険に晒しながらも現実の厳しさを学び、それでもなお彼の軸に在り続ける“憧れ”だけが彼をここまで導いてきた。二十代で人生は決まるなどとしばしば耳にするが、本格的に働きだして世の中のことを学び始める二十代の経験は、その後の人生で社会にどういう接し方をするか(そしてされるか)を決める時期としてはたしかに大きい。その二十代の半分以上を──なんなら青春の十代はマルッと全部、ローは映画『国の右腕』の主人公を目指してきたのだ。彼の中には常にあの主人公への“憧れ”があり、それが自分も世界で活躍したいと望む若々しい彼の心と強く結びついた。それは、精神的に成熟の域へと上ってきたローの心のなかにまだ居場所を持っている。あの主人公への感情は、真っ白なキャンバスに最初に色を与えて布地に沁み込んだ塗料のように、何を何度塗り重ねても地に在り続ける類のものだ。
 そんな、彼の人生の根底にある映画『国の右腕』の主人公を演じた俳優と接点を持つ。その意味するところは今のところなにも分からない。だが、そのチャンスが手に届く範囲にある事実が、ローにはひどく非現実的で、そして魅力的に感じられていた。頭の方は、あの俳優、ドンキホーテ・ドフラミンゴと映画の主人公はまったくの別人であると分かっている。ついさっき自分の目や耳でそれを確かめることになったのだ。だが心は、途方もない“憧れ”に震えていた。もはや怯えていると言ってもいい。なんせ、これまで死ぬほどつらい思いをした訓練や実際に死にそうな局面を通じて、心ではなく頭で自分をコントロールすることを身体に覚えさせてきたのに、今、心が頭を押しつぶそうとしているのだ。
ローの胸のうちはこれまで味わった感情が何だったのかと思えるほどに動揺していた。心が、頭をなんとか押さえ込んで自分の意を通そうと抗っている。心に拡声器を持たせたら鼓膜を破らんばかりにこう叫び始めるだろう──『あの俳優だぞ!あの、ドンキホーテ・ドフラミンゴだぞ!お前がこれまで必死に頑張ってきたのは、彼に憧れたからじゃないのか。こんなチャンス、二度と来ないだろ?逃すんじゃない!』
 一方で、ローの頭はどこまでも冷静だった。がなり立てる心の声に対し、自分でも泣きたくなるような冷徹さで徹底的に反論することができた──『お前はバカか?あの映画の主人公であるリュックとそれを演じた俳優は全くの別人。それを同一視するなどリュックに失礼だろうが。どうせ映画と自分を重ねて自分に酔いたいだけだろ?諜報員になれなかったコンプレックスを主人公の面をしただけの全くの別人を護衛することで慰めてやりたいに過ぎない。
上司の顔を立てるという大義名分があったから面接には行ったが、それ以上はせっかく得た今の職の将来を阻害する要因以外になり得ない。上司だって建前で面接くらい受けて欲しいと思うだろうが、数週間とはいえ急に人員が減ることを歓迎するはずもない。気まぐれで仕事を抜ける気か?お前は急に抜ける奴を、しかも芸能関係の仕事に浮かれた様子で抜ける奴を信頼するか?なにを棒に振ろうとしているのか、本当に考えているのか?』

 勝敗の結果は分かっていた。だがそれでもローはたっぷり一晩悩んだ。学生時代からの友人らからの『ローさん、今日来ないの?』という優しいメッセージにも『今度な』とやや素っ気ない口調で返したことを気に留める余裕もなく、小高い山のような大波に揺れ続けた。習慣が彼をランニングマシーンに向かわせたので、水を飲みながら小一時間走り、その間もひたすらに身体の内側で起こっている激しいせめぎ合いの音を聞いていた。いつもトレーニング中に掛ける音楽もまったく耳に入ってこなかった。
 そうしてへとへとになり、シャワーを浴び、冷凍のパスタと卵というなんとも言えない夕食を取った後、ローはもはや知恵熱の如く痛みだした頭とやけに疲れている身体を休ませるべくベッドに潜り込んだ。
翌朝、目が醒めた彼は分かり切っていた勝敗の結果を認めた。
『よし、断ろう』
未だかつてこんなに胸の内がうるさかったことはないが、心ではなく頭に従うことが生き残るのに大事だとローは信じていた。今回も、心の方がどんなに煩かったとしても、闘いの始まる前から結果は出ていたのだ。二度とこないであろうチャンスを自ら手放すことに心は悲鳴を上げ、胃にねじるような痛みまで与えてきた。だが、頭の方は結論を認めたことに満足していた。どう考えたって、あの俳優よりも自分の身の方がローには可愛い。例え護衛の穴ができてあの俳優が傷つこうがなんだろうが、ローには本来関係のないことだった。そもそもローは『国の右腕』以外であの俳優の活躍ぶりを見たことはないし、これからも見るつもりはない。あの一本のフィルムさえあればこれからも自分を奮い立たせるのに十分である。
 それに、考えれば考えるほど、一介の俳優に護衛が必要な理由は見当たらなかった。どこかの権力者に目をつけられているとか、政界に参入しようとかそんな事情で多くの敵がいる状態でないかぎり、わざわざ決して安くはない金を払って人を雇う謂れはないはずだ。仮に低賃金のつもりでいるにせよ、それでもわざわざプライベートを晒すリスクを負う意味は分からない。きっと、必要に迫られてではなく、あくまでセニョール・ピンクが真面目で不安を感じやすい性格のため、代理を探しているに過ぎないのだろう。それであれば代理は見つけやすいに違いない。ドンキホーテ・ドフラミンゴは嫌がってはいたが、きっとあのピンクの熱心さに折れ、他の護衛をつけることをいつかは許すだろう。ローがそのタイミングだったのかもしれないが、ローが断ったとなれば、次の候補者であっさり決めるに違いない。
 ローは仕事前のルーティンをいつもより五分早く終えると、そのつくった時間でさっそくセニョール・ピンクに送るメールを作成した。昨日のお礼と、若造の自分を見込んでくれたことへの感謝をしっかり書いたあと、簡潔に今回は見送らせてほしいという定型的な文章を挟んだ。そして最後に、辞退しておいて心苦しいが、新婚旅行はきっと素敵なものになるから楽しんで欲しいという旨を書き綴った。
 珈琲をすすり、一旦の間を挟んだ後、ローはメールを送る前にもう一度読み直した。それから納得し、送信ボタンを押した。なんだかひと仕事したような気分を味わってから、彼はうんと伸びてかるくストレッチをし、マグを洗ってから出掛ける準備をした。
 職場に着く頃には、ローの頭からメールのことはすっかり追いやられていた。一晩中悩んだくせに、一度決着をつけるとすっかり切り替えられるのがローの性格だった。反面、決着をつけない限りはずるずると何年も引きずる粘着質な性格でもあるのだが──さておいて、検査を受けて職場に入る頃には、ローはすっかり大使館の警備員の顔になっていた。今日とて大勢の要人がここを行き交う。いつ攻撃の対象にされるか分からない危険な職場だ。些細なことも見落とさない気概を持って、ローはいつものごとくジャケットや銃の武装を始めた。

 いつも何かが起こるので昼休憩などローにはないのだが、この日も例に漏れずそうであった。到着予定の要人のスケジュールが変更になった兼ね合いでパトロールの場所を大きく組みなおすことになったり、報告されていた車種とは別の車でやってきた一般人が居たので警戒態勢が即座に敷かれたり、口をすっぱくして注意されているにもかかわらず持ち込み禁止の物を持って入ろうとした人物を摘まみ上げたりするのにあくせくとした。今日も幸い銃を引き抜く事態にはならなかったが、今日がそうだから明日もそうだとは限らない。そのため訓練の予定はしょっちゅう入る。今日は上司が人を集めて明後日実施する訓練について改めて意識を高めるべく短いトークが展開された。
 その他にも、武器の整備係とのちょっとしたミーティングを行ったり、同僚らとの報告会を行ったりして、ローは一日の業務を終えた。若干の寝不足が見てとれたのか、いつも出勤時に顔を合わせないといけないカウンセラーに目ざとく見つけられて注意された以外は、大体がローの予想通りの一日であった。だから、彼が昨日の夕方から夜にかけて感じ続けた非現実感は彼からすっかり消えていたのだ。帰りがけに、上司に呼び止められるまでは。
「トラファルガー、少しいいか?」
更衣室を出たところで、ローは上司を見下ろした。ローはすっかり武装を解いていたが、ローより背の低い上司の方はまだ武装したままであった。平均より長身なローに比べて平均までいささか背の足りない上司はまっすぐ立っていた。
「はい」ローは考えるより早くきびきびと返事をした。
「歩こうか」
「はい」
なんの迷いもない動きで廊下を歩き出す上司の後をローは追った。上司はもう仕事が長く、何度か大きな負傷をしたと聞いたが、歩き方はまっすぐで重心にブレがない。たしか今年四十四くらいである上司は、生まれが貧しく、例の“前者”か“後者”かで振り分けるなら前者寄りだが、従軍期間に現在の妻である女性と出会ってから精神的な強さを得た稀有なキャリアを持っていた。ローが上司のこんな事情を知っているのは、ロー含め数名が訓練を得て実践に配属される際のスピーチで彼が自分のプライベートなあれこれを披露したからであった。ボス然をどちらかというと嫌う人で、上からは胡散臭がられ、下からは好かれるタイプであった。ゆえに、組織のなかで立場はあまりよくないようだ。
「少し外を歩くぞ」
「はい。失礼します」
上司の言葉にローは返事をし、一応サングラスをつけた。あまり身元を晒さないようにというルールがあるので(減点になるわけではないのでほぼ形骸化しているようだが)倣ったのだ。上司も大きな垂れ目型のサングラスを掛けている。
 廊下を突き当たり、外に出る扉のロックを解除し、二人で外に出る。夏に入り始めたあたたかい空気が全身を包んでくる。大きな建物の影になっている砂利の上を歩きながら、ローは上司と周囲に集中した。こうして呼び出されることは初めてではないし、なにもローだけではない。この上司が部下に対し健康を気遣う他愛のない会話をするためにちょっとした散歩を求めてくることはしばしばあった。だけど、今回は、もしや──
「断ることにしたそうだね」
上司が放った小さな言葉に、ローはやはりと思った。
「なんの話でしょうか?」
「隠さなくていいさ、ふふ、分かってるだろ?トラファルガー、悪かったな」
上司はちらりとローの顔を見て来た。淡々と視線を受け止める部下に、上司は微笑みを挟んで先を続けた。
「ピンク氏とは特に深いわけではないが、知り合いでね。私の妻が彼の叔母である女性と仲が良くてね。近所のバザーで知り合い、それから意気投合してるんだ。一緒にちょっとした旅行に行くくらいのなかで、私も彼女とは面識がある。それで、ピンク氏から相談を持ち掛けられた時、簡単には退けられなかったんだ。分かってくれるね」
ローは安易に頷くことを避け、上司の意図を測りながら、ただ情報をオウム返しにするに留めた。
「ピンク氏とそんな繋がりがあったのですね」
「ああ……決して悪い人じゃあないと思ったよ。一応調べもしたが、クリーンだ」
やや穏やかだが、きびきびとした口調で上司は言った。ローはそれには頷いた。セニョール・ピンクがどんな人か本当のところは知らないが、犯罪歴が見つからなかったのは納得できる。奥さんに惚れこんで浮かれた人間というイメージを持ったのだ、悪人とは感じなかった。
「君に繋いでほしいと言われたのは私だ。察しがついていただろう?」
まあ
「私に信頼されていると感じるよりも、試すようなことをされたと感じているかもしれない。だが率直に言うと、私は君がどちらを選んでもよかったんだ」
建物の角まで来た。地面の色が、夕陽のオレンジと建物の影の黒で二つに分かれている。そのオレンジを踏む直前で上司がそっと足を止めたので、ローも止まった。
「だって、君の人生だからね。私は皆に言ってるが、人生というのはちょっとした出会いで大きく変わるものだ。私の場合は、間違いなく妻だったが……出会いに気付けたのは、色んな経験をしたからだと私は思っている。経験が私に目を養わせ、彼女を離すなと訴えてきた。仕事と結婚がしばしばぶつかり合うのは、仕事が結婚のようなものだし、その逆も然りだからだ。今の時代、誰もが一度の人生で結婚と仕事という二つの……人によっては三つも四つも、伴侶を得ようとしている。私が言いたいことは、少なくとも私のちゃちな、でも君より長い人生から得られたことは、経験するチャンスを軽んじてはいけないということだ」
上司の立場はハッキリしたとローは思ったが、同時に苛立った。こちらとてしっかり悩んだのだ。むしろ十六年分の感情を頭で裏切る断腸の思いをしている。この上司は“君の人生だ”なんて言いながらも“経験するチャンスを軽んじるな”だなんて言って、一体どういうつもりなんだろうか。
「二度とないチャンスだと分かっていながら結論を出しました」
ローはできる限り平静を装ったが、感情のない淡々とした声こそが彼の不快な感情を大いに表していた。上司はローの表情を見て、『若いね』と言わんばかりの微笑みを返した。子ども扱いにムッとするより先に、安心感を覚える笑みだった、少し悔しいことに。
「言っただろう、どっちを選んでもいいんだと。君に選択の権利があるから、私は先に君に相談するような真似はしたくなかった。そして君が出した結論をどうこういうつもりはない。ただ、まださして時間を共にできていない私に気を遣っていやしないかと、余計な世話を焼いているだけだ。そうでないなら、それでよかった」
上司はかるくローの肩を叩いて、頷いた。話はこれで終わりと言わんばかりの動きに、ローは頷き返すことができなかった。急に、“頭”が劣勢に追いやられたような気がした。暴れる心を押さえつけるのに最も強力だった根拠が──今のキャリアを犠牲にするリスクを負うべきじゃないという考えが、今の会話で極端に弱くなったからだ。だがもう、断った後だ。なんで今さら言うんだ、という、上司への怒りの気持ちが喉元までこみ上げたのを呑みくだすのにローは忙しかった。腹は立つが、上司の言わんとすることも分かるのだ。先に上司とこうして話していたら、上司を理由に仕事を受けていただろう。それでは自分で責任を取ったことにはならない。
「今から帰るんだろう?」
肩を掴む上司にやや押しやられ、ローは促されるままUターンして元来た道を戻り始めた。再びジャッジャッと砂利を踏みしめる軽快な音が鳴る。
「ええ、まあ……
「それなら今回の詫びがてら、持ち帰りをオーダーしといたから、帰りがけに寄っていくといい。私の好きな中華料理店でね、すぐそこだよ」
目の前にずいっと名刺サイズの広告カードを差し出される。真っ赤な背景に黄色のテカテカした字体で『持ち帰り一割引き!』と書かれた中華料理店のカードを受け取り、ローは小さく笑った。今どき珍しい懐かしさを覚える紙の広告を出す庶民派の店にも、堂々と割引価格でオーダーしたと見せびらかしてくる上司にも、そうすることでローが受け取りやすいようにすることも、そもそも食事をテイクアウトという気遣いを見せてくれる優しさにも、どれにも少しずつ笑えた。
「ありがとうございます、気になっていた店です」
ローは珍しく愛想よく言った。フラストレーションを感じたことを上司に見抜かれたことへの気まずさを紛らわすためや、思いがけない気遣いに本当に嬉しい気持ちになったからだった。
「そうだろ?何度か皆におすすめしたんだが、行ったら私が居ると思っているのか、なかなか行く様子がなくてね。美味かったら宣伝してやってくれ。マックスっていう店主でね、彼のお父さんの代から私は贔屓してる。軍に入る前、金がなかった時に三ヶ月に一度のご馳走として行ってね。私がまともな食事に感激してたら、こっそりサービスでおまけのギョーザをつけてくれたんだ。あれは本当に美味かった」

 そう言われると、行かないわけにはいかない。
ローは上司と別れた後、自転車に乗って、教えてもらった中華料理店まで行った。帰りの方向とは見事なまでに真反対の方向だったが、職場から十分もかからずに行ける距離だ。古めかしい建物が無計画には見えない無計画さで所狭しに並ぶ通りは、色んな国からの住民が商売をしているのでやたらに活気がある。警察署がほぼ隣接しているが、夜更けに一人で行くのは少し憚られる雰囲気はあった。
 店の前には何台もの自転車や原付スクーターが停まっている。そこに並べて自転車を停めてから、ローはガラスドアを押し開けた。まだ十八時前だが、すでに客入りはよく、カウンター席は満席だ。店主の──彼がマックスだろうか?─鋭い視線がローに刺さった。ローは片手を上げ、上司からもらったカードを見せながらカウンター越しに店主に近づいた。
「トラファルガーだ、さっきオーダーを」
「トラファルガー?」
ローが話し終える前にぬっと一人の女が横に立ち、鋭い声で聞いてきた。見やると、身体にぴったりとした黒いドレスを着た巻き髪の若い女がローを睨んでいた。女の後ろには、女の胴体の五倍はありそうな恰幅のいい男も立っている。脂肪のせいで年齢の分かりづらい男で、こちらもローを胡乱な目で見ていた。
「なんだ?」
「トラファルガーね?もう、遅かったじゃない!三分も待ったわ。ほら、行くわよ」
女が長い爪の揃った手を伸ばしてローの腕を掴んだ。ローはギョッとし、振りほどいて大きく一歩下がった。ローの反応に女も男も眉を上げたが、そんな表情をしたいのはこっちの方だとローは思った。
「いや、誰だ?気色わりいな」
「は、はあ?あんた、こっちを待たせておいてなに言ってんの」
「ベビー5、先に店を出るだすやん」
声を裏返らせた女性を、後ろの男性がかるく肘で押しやった。ベビー5と呼ばれた女はさらに眉を吊り上げたが、恰幅のいい男が大きな財布を取り出しているのを見てなにか思い出した顔をした。
「あ、ごめんなさい、マックスさん、お会計を」
「ああ」
三人のやり取りをまるで気にも留めていなかった店主は、カウンターの客の前につやつやのチャーハンを置いたあと、洗った手を拭きながら近寄ってきた。ローが黙って様子を見ていると、ベビー5の連れの男が金を現金で払った。マックスは素早く数えてレジに仕舞い、ローにちらりと視線を投げた。
「オーダーは?」
「あ、この彼の分も支払い済みなの」
「そ?じゃ、そこにあるからね」
訳の分からないベビー5の発言にローが眉を寄せる前で、話が進んでいく。マックスが顔の向きで指した方向には段ボールとビニール袋の置かれたテーブルがあり、そこからスパイシーないい香りが立ち上っていた。持ち帰り用の弁当が大量に積んでいるようだ。
「ほら、トラファルガー、それを持って」
ベビー5に腕を押されて、ローはまた彼女の手を振り払った。一度きつく睨むと、ベビー5はかなり怯んだ顔を見せた。こちらの方が恐怖すべき状況だと思ったが、狭い店内の出入り口で騒ぎを起こして客足に響くようなことがあっては上司に申し訳が立たない。ローは大いに困惑と苛立ちを覚えながらも段ボールを一つ腕に抱え、邪魔にならないように店を出た。後ろで二人が同じように箱や袋を持ってついてくる気配がする。
 店を出ると、やや玄関から離れたところに立ち、ようやくローはしっかり振り返って二人を思い切り睨みつけられた。ベビー5の方が泣き出しそうな顔をしたのを無視して、でかい体格の男を重点的に睨んでみる。男は半笑いを浮かべた。その顔は、余裕だからではなく、むしろ真逆の焦りの感情から出ているように見えた。
「で?あんたらはなんだ?俺を待ち伏せしていたのか?」
ローが声を低くして聞くと、男は急いで顔を横に振った。
「ちょ、待つだすやん俺たちは今日からあんたが一時的なチームメンバーになるって聞いて、ここで集合と言われて来ただけだすやん。今日は一緒に夕飯を食ったら、それで解散だと聞いてるだすやん」
なんだその話し方は、ナメてるのか?
ローは喉まで出かかった言葉をなんとか呑みこんだ。喧嘩腰は腰抜けのすることである。それに、これが“訛り”なら、この男のディスコミュニケーションで何かしらの齟齬が生じている可能性だってある。
「なんのチームだ?」
聞いてみながらも、ローの脳内では『まさか』と早くも結論を出していた。そんなはずはないが、このタイミング─あり得るとしたら、“そんなはず”しかないのだ。
男はローの質問に肩をすくめた。
「撮影に決まってるだすやん。あんたは若ドンキホーテさんの護衛をするって聞いただすやん」
ローはあんぐりと口を開けた。彼の驚愕は、言わずもがな、上司に嵌められたも同然の状況に対してだったが、ベビー5はローの反応をドンキホーテの名前に驚いたと思ったらしかった。彼女は急に元気を取り戻し、気取った仕草で鼻をつんと上向かせて自慢げな顔をした。
「感謝するといいわ、若様の側近なんて誰にでもなれるものじゃないのよ」
……話が食い違ってるみてえだ。悪いが、俺はその話を断ったんだ」
ローは淡々と答えた。内心は、ひどい動揺だった。あの上司はどこまで噛んでいるのだろうか?これは彼が意図したことなのか?俺が断ったことを後悔していると思っての計らいか?いや、そんな心情まで上司に分かるはずがない。あのセニョール・ピンクの仕組んだことじゃないか?上司がこの二人に連絡手段を持ってるとは思えねえ、あの男が上司に俺をここに送るようにそそのかしたんじゃねえか?
 ほんの一、二秒の間でローはピンクが怪しいという結論を弾き出した。どう思い返しても、上司は本当にただ気を遣って食事を奢ろうとしたようにしか見えなかったのだ。尤も、人のことである、本当のところは測り知れないが。
「断った?仕事をか?」
男の素っ頓狂な声が上がった。ローが頷くと、彼もベビー5も目を見開いた。どうやら二人には寝耳に水の話のようだ。二人が顔を見合わせて戸惑っている様子に、ローは少しだけ罪悪感を覚えた。デカい組織に居ると、末端まで情報が下りてこないことはよくある。ローも何度も体験したことがある胸糞の悪さを今の二人は感じているだろう。
……車だろ?荷物を運ぶのはやるよ」ローは彼にしては珍しい気遣いを見せた。
「はあ……どうなって、あ、ちょっと持って」
ベビー5の胸元から着信を知らせる電子音が響いた途端、彼女は手にしていた大きなビニール袋を男の指に器用に引っ掛けて持たせた。慌てて弁当を持ち直した男は不満げに「おい!」と言ったが、ベビー5は無視して電話に出た。
「ベビー5です。ええ……あ、ええ、今落ち合いました。でも、なんか護衛の仕事は受けてないってえ?あっ、はい。お待ちください」
彼女は戸惑いながらローに携帯を差し出してきた。
「ピンクさんが代わって欲しいって。ちょっと失礼これで話せる?」
両手が段ボールで埋まっているローを見て、ベビー5は携帯をローの耳に近づけて持った。ローは眉をひそめながら、電話に話しかけた。
「トラファルガーですが」
ぶっきらぼうなローに、電話越しのピンクはハツラツと笑って見せた。明らかに焦りを隠している声色だ。
『すまない!ロー、先にメールなり電話なりしようと思ったのに、すっかり後手に回ってしまったんだ。先日の御礼がしたい。撮影現場を見に来ないか?仕事を受けないのは分かってるし、もう後任も見つけたから大丈夫だ……
「はあ……
ピンクの言葉にローは怒ればいいのか喜べばいいのか分からなかった。後になって思えば喜ぶのが正解であったが、ローはただ曖昧に困惑の滲んだ声を出した。
『君に何ら御礼をしないのは気が引けてね。君の上司にも悪いから、少しでも楽しんでもらわないとと思ってな。御礼がてら、面白い連中と飯を食ってみないか?なに、一、二時間さ。見飽きたらいつでも帰ってくれていい、立地はいいし』
「いや、気を遣われるようなことは」
『頼むよロー、俺も忙しくてね、ちょっと来て楽しんでくれたらそれでいいんだ』
申し訳なさそうにしながらも少し苛立った様子のピンクにローは眉を上げた。そっちが忙しいってのがこっちに何の関係があるんだ?
ローがなにも言わないことで、ピンクは取り繕う声を出した。
『ロー、魅かれないならそれでいいさ。なに、先日の撮影現場を楽しそうに見ていたと感じたから、このチャンスがちょっとした礼になればと思っただけだ。気にしないでくれ』
押してダメなら引いてみる、そんなワードが脳裡を過ったが、ローはその忠告じみた脳内の声をうまく拾えなかった。ピンクの発した『チャンス』というワードに、上司の言葉が自然と思い起こされる。経験するチャンスを軽んじてはいけない──
「いや、行くよ」
ローは答えた瞬間、フリーズした。頭が裏切られ、心を優先された事実にショックを受けたようだった。
『おお、そうか!よかった、じゃあ楽しんでくれ。後で会おう』
ピンクは途端に明るい声を出した。本当に忙しいのだろう、後ろで人の声や物音を立てながら彼は挨拶もおざなりに通話を切った。
 ローはふう、と息を吐いた。まだ頭がショックに痺れているが、鼻腔を満たすスパイシーないい香りに急に空腹を覚えた。ただ、間違いなく胃は空いているが、あまり食欲はない。
なんだ、ただの交流会かあ。雇ったんじゃなかったんだ」
ベビー5がローから携帯と顔を離して言った。彼女はバッチリ聞き耳を立てていたのだ。体格のいい男の方は話が聞こえていなかったようで、ベビー5に顔を向けた。彼女が男に説明を返す。
「トラファルガーは雇われたわけじゃないみたい。なんかの御礼で一緒にご飯するだけだって」
「ふうん、そうなんだすやん。ま、じゃあ、乗っていくだすやん。車をあっちに停めてるだすやん」
お前のその強すぎる訛りはなんなんだ?とローは思ったが、ただ黙ることにした。この店に来るまで全く考えもしなかったことだが、まあ、たまには非日常的な空間で中華料理を食うのもいいだろうと思い始めていた。頭は驚きからまだ醒めていないが、ローの切り替えの早い性分が、早くも気持ちを吹っ切れさせつつあった。いくら妙な話になっていると警戒したとはいえ、誘ってくれているのに頑なに拒むのも後味が悪い。それに、既に護衛の後任も決まっているというのだから、もうあの仕事の話を蒸し返されることもないのだろう。そう考えていくと食事について行くのはタダで食えるし普通では接することがない世界が見られるしでメリットが大きい。だから、『行く』と言ったのは、ある意味論理的な思考に基づいた結果なのだ。もはや知覚するより先に理性による判断を下せるようになったとでも思えばいいだろう──ローはそんな風に後づけをすることで、まだ裏切られたショックに慄いている頭を宥めすかした。

 男女二人についていき、立体駐車場から二人が出した普通車に弁当を詰め込んで、ローは自らも乗り込んだ。通りに停めてきた自転車が少し心配ではあったが、あとで取りに来るしかないだろう。車はレンタルしているもののようだが、すでに数ヶ月は乗っているのか、ゴミ箱が満杯になっている。車内はタバコ臭かったが、どんな芳香剤よりも強烈な中華料理の香りが瞬く間に空気を一変させた。その香りに釣られてか、男が──彼はローにバッファローと名乗った──胃袋を盛大に鳴らさせていた。バッファローは唸り声のような空腹の音を気にも留めず、ハンドルを握りながら助手席のベビー5とこの後の仕事について話を始めた。
話しぶりから、二人が実に様々な仕事をする立場なのだとローは知った。今のような食事の手配はもちろん、撮影に加わるメイクや道具や照明や音響やプログラマーなど数えきれないほどのスタッフがスムーズに働けるように備品を管理したり料理人やセラピストを手配したりするのだ。さらには子供がいるスタッフが現場にたまに連れてくる子供の相手やナニー(子守り)を見つけることも行うなど、その時々に要求される様々な課題を片付けるのが二人の仕事のようだ。
話していると、ベビー5はもちろんバッファローもかなり若く、ローと同年代であることが分かった。バッファローの膨張したように大きく不健康な体型は大変な仕事のせいで暴飲暴食でもした結果かとローは思っていたが、二人はプレッシャーを感じてはいてもそれに潰されることなく仕事に前向きに取り組んでいるようだった。男は単に食べるのが好きらしい。この業界のことはよく知らないが、二人ともかなり有能なメンバーなんだろうとローは思った。

 ショックや不安はどこへやら、ローは気付けば二人の話に集中し、そして気付けば車はスタジオとなっている郊外の大きな工場まで辿り着いていた。ここで明日から五日間撮影をするらしく、今日まで四日かけて工場内でその準備が進められているそうだ。準備は今日が仕上げとなる。
「だから、今日は役者の人は来ないわ。来ても晩かも」
ベビー5はローに説明をししながら一緒に弁当を車から降ろした。
元々造船に使われていたという大きな箱型の工場は、外観は錆びまみれで茶色かったが、中は光で溢れているのが出入口からも見えた。出入口は建物の四辺の短辺一面が開くほどに大きな鉄の引き戸でできており、今は全開にされ、使い古された布地がカーテンのように垂れ下がっている。そのカーテンの隙間を大人の腕ほどもある太い送電用ケーブルが何本か束になって走っている。カーテンは人が出入りするのに十分な幅分開いていた。ローは二人の後をついて、工場に横付けされた送電用の大きなトラックを横目に、中に入った。
中には、驚くほどに明るかった。天井からぶら下げられたライトや立体型の電気スタンドがあちこちにある。ケーブルを通すために窓や扉は開け放しであったが、少し肌寒いくらいまで下がった外気に比べ、強烈なライトのせいか空気は外より暖かかった。さらに、工場の奥半分の方にはちょっとした家が組み立てられていた。クラシカルな家の一室といった具合だ。本格的なセットに、ローは目を丸くした。
「四日で建設したのよ。アクションを取るから、明日には粉々になるんだけど……
ローの視線に気付いたベビー5が肩をすくめながら言い、前に向き直った。
「みんな!ご飯だよ!」
彼女の声に、あちこちに散らばっていた人が一斉に集まって来た。床に置かれた発泡スチロールや巨大な板などの沢山の資材の合間からひょこひょこと作業服を着たメンバーが顔を出し、なんと梁の上からもロープを使って人が下りてきた。トレーニングをしていたらしい明らかにスタントマンらしき男女二人が一番遠くから走ってきて、汗を滴らせながら周りのメンバーと一緒に口笛や拍手をし始めた。
「ベビー5~!待ってたよ!」
「ペコペコだ!」
「もう十八時ってことか?もう?本当に?」
「もしかして中華?いい匂い!」
「明日から撮影?夢だと言ってくれ、誰か俺を殴って起こしてくれよ」
食事を歓迎する大勢の声に何人かの絶望の声が混ざりながらも、あっという間に十五人くらいが集まった。

ローはベビー5に倣い、工場の端の方のスペースに作られている打ち合わせや休憩用らしい並べて置かれた長机の上に段ボールを置いた。自分の仕事ではないと思ったが、キラキラと嬉しそうな顔に囲まれたため、彼はせっせと箱から弁当を出して並べてやることにした。一緒にフォークとチョップスティックもつけてやることも忘れなかった。
「君は?インターン?」
ローの手元から弁当を三番目に受け取った髭もじゃの中年がローを見上げて聞いてきた。周囲は仕事の進捗を話したり水や椅子を集めて皆で輪になれるように準備したりしていたが、男の質問の直後ほんの少し喧騒が控えめになった。気にしていないようでいて、一応皆ローのことを気にしていたらしい。なんとなく自己紹介しそびれていたためにローは男性の質問を少し有難く思った。
「いや、セニョールさんに誘われて来ました。トラファルガーです」
「あ、面接!受けてた子だ」
ローが答えるのにほぼ被せて誰かが高めの声を発した。作業服を着て、頬を黄色と緑のインクで汚している女性スタッフだ。すぐに思い出したように数名が頷き、数名は首を傾げた。
「ほら、ピンクさんが休暇中の代理を探してるってやつ。でしょ?その面接で昨日かな、来てたよね」
「へ?そのルックs……その若い年齢で、護衛の仕事を?」
「確かに俺も昨日見たかもしれない」
「昨日って?丘シーンだった?」
次々に話が広がっていく。一斉に会話が花開いていくなかでローが何とも言えない表情で何とも言えない微笑を浮かべていると、先ほどの髭もじゃの男性が、気を遣ったように彼の隣のパイプ椅子を叩いた。
「座るといいよ、とにかくさ」
「どうも……

 食事は自然と始まった。弁当はなかなかにボリューミーな内容で、胡椒のしっかり効いたつやつやのチャーハンにチリソースをたっぷり纏った魚と肉、クリスピーな食感のするカリカリに揚げられた珍しい揚げ物(春巻きというらしい。ローは初めて食べたが美味かった)、甘く煮込んだニンジンやキノコ類の付け合わせと、仕切りに使われて色んなソースが付着した大きなレタスが入っていた。ローは道具係をして八年目という髭もじゃの男、ジョンのこれまでの仕事に相槌を打ったり、反対側に座ったスタントマンの女性のリタの質問に返したりしていた。二人の話は何もかもが新鮮だった。二人にとってもローが新鮮な様子だったが、リタの方は父親が退役軍人で六つ上の兄が民間警備会社に勤めた経験があったらしく、ローのキャリアについてアレコレ質問をしては自分の家族の話をしてくれた。
 ローは弁当を頬張ることをしばしば忘れて話を聞いた。そうして、誰かが「そろそろ夜になるから急がないと」と言っているのを耳で拾ってから、急いで残りを口に詰め込むことになった。確かに美味い、と、ローは心の中で上司に伝えた。

 食事が終わったらさっさと帰るつもりだったというのに、気付けばローは食事の片付けを手伝い、呼ばれるがままに道具を動かすのも手を貸し、そして最後にスタントマンの今日最後らしいリハーサルを見学させてもらっていた。明日が本番の二人は激しい動きはしなかったが、それでも身体の動かし方は非常に美しかった。リタの方は長年ダンスをしていたらしく、彼女の柔軟性や指先まで自在に操る動きはゆっくりとしたリハーサルでも際立っていた。男の方は、あいにく名前は聞いていないが、元々射撃と新体操のアスリートとして訓練を受けていたらしく、レプリカ銃を扱う速さや正確さ、俊敏さは目を見張るものがあった。このたった数分の動きに何年もの鍛錬の成果が詰まっていることを思うと、自分自身そんな風に一瞬で生死の決まる仕事をしていながらも、ローはなんだか妙に感動した。
一時間も見学をすると、いよいよ気温が下がり肌寒くなってきた。
「よし、今日はここで閉めるでやんす~!」
ちょこまかと何かしら動いていたバッファローが、急に立ち止まったかと思ったら大きな声で言った。途端に安堵のような声を出す者と、絶望じみた悲鳴を上げる者に別れた。
「終わってません!助けて!」
「その辺は自分らで何とかするでやんす……一時間後に本当に閉めに来るから、撤収するもんは撤収するでやんす」
大げさな泣き声で訴え始めるスタッフをめんどくさそうに一瞥しながら妥協案を提示し、バッファローは帰れそうな動きをしているスタッフをさっと指で数え始めた。彼の指はローもカウントした。
「まあ、二往復かな?」ベビー5がバッファローの横でゴミの入った大きな袋を縛りながら言った。彼女にバッファローは同意した。
「ん。先に一回目の便を出すでやんす。まあざっと、二十分か……
「OK。トラファルガーはお客様になるから、彼を一便目に乗せてよ」
「中華の店まで?そうすると遠回りでやんす」
バッファローは悪びれもなくローを見つめながら言った。彼の無言の訴えに、ローは内心ため息を吐いたが頷いた。
「俺は二回目の送迎でいい、別に。送ってもらえるなら、最後だってかまわないさ」
「ちょっと」
「そうでやんすか!よかったでやんす、じゃあ後でな、トラファルガー」
ベビー5の呆れた顔を無視してバッファローは出っ歯を見せてニカッと笑い、さっそうと数名を連れて外に出始めた。もうここを離れられる準備を終えたらしい、八名ほどが遅れを取らずにバッファローについて行く。
「あの車に乗るのか?」
「他にもバンがあるから大丈夫。にしても、悪いわね、トラファルガー
ベビー5が申し訳なさそうにするのに対し、ローは肩をすくめた。
「別に、思いのほか楽しかった。俺が来たところで何もできないがな」
自分の言葉がどこか偉そうに響いた気がしたので、ローは謙虚さあるセリフを一応加えた。ベビー5は小さく笑った。
「変なツテの変な奴が来たんじゃなくてよかったわよ。たま~に居るのよね、芸能人といい関係になれるとか思ってんのか、妙に鼻息荒くしてやってくるどっかのお偉方の坊ちゃんとかさ……今日皆が歓迎ムードだったのはあんただったからよ。本当に受けないの?」
ベビー5の口調に彼女の苦労の経験を感じて同情を覚えていたローは、彼女の質問に少し反応が遅れた。
「あ?なにを?」
「仕事よ。若様ドンキホーテ・ドフラミンゴさんの護衛の仕事。あんたなら上手くやっていけそうなのに。強いんでしょ?クレイツが褒めてたよ。あ、スタントマンの人ね。見るからに鍛えてるって言ってた」
自分は納得しかねるという表情をつくりながらベビー5はローをわざとジロジロと見た。ローは思わず笑った。
「警備の仕事をしてるからな」
「へええ?」
「どういう『へええ』、なんだ?」
ローは軽く屈み、ベビー5が口を縛り終わったゴミ袋を持ってやった。彼女はにこっと微笑んだ。
「だって私でも倒せそうなんですもの」
彼女の答えに、ローは口元を引き攣らせた。
「試すか?ったく……どこに運ぶ?」
「あら、ありがと。あの箱の方に持ってってくれる?」

 ベビー5に指示された方向にあった蓋つきのダストボックスにゴミ袋を押しこみながら、ローはぼんやりと考えた。昨日たっぷり悩んだ結果、仕事を断ったはずなのに、早くも後悔が近くまで押し寄せてきているのを感じる。こんな風に中途半端に職場や働いている人を知ってしまったのがいけなかったと思った。ローは、口にこそしないが、何かに熱中しているタイプの人間を好む傾向があった。彼自身が常にどこか冷めて物事を捉える達観した部分がある反動かもしれない。大使館もそういう意味で好きな職場なのだ。あそこは、他の職場と同様にピンキリではあるが、国と国を繋ぐ大きな責任と命懸けの仕事への熱量がある。この撮影現場にも、人が何かに熱中している時に放つ特有のエネルギーがある。
明日の今ごろには逆の考えを持ってるさ』
ローはダストボックスの蓋を引いて閉めた。

「お待たせでやんす~~」
きっかり二十分後に、バッファローが出入口に立って大きな声を出してきた。ローは髭もじゃのジョンを手伝って工具を集めていた手を止めて、顔を上げた。ジョンが「時間だ」と慌てて加速し、ローの手からドライバーをひったくって箱に仕舞った。
「ありがとうね、トラファルガー」
「トラファルガー、バッファローについて乗って帰って」
ジョンが礼を言ってくるのに頷いて返しているローの横に、ベビー5が近寄ってきて言った。彼女は手に掃除用具を持っている。
「分かった。お前は?」
「私はまだ片付け。じゃあね、せいぜい気を付けて帰んなさいよ」
ベビー5はやや冷ややかに言って、ローにすぐ背を向けた。途端に、隣で二人のやり取りを見ていたジョンが、手だけは忙しなく動かし続けながらニヤッとした。
「あ~~拗ねてる、せっかくメンバーが増えると思ったのにね」
「うるさい!手下が手に入ると思ったの」
ベビー5はジョンに噛みつき、それからスタスタとやや大股に歩いて行った。ローは音もなく少しだけ笑い、彼女の背に声を掛けた。
「世話になったな」
ベビー5はホウキを掴む手を雑に挙げて背中で応えた。

 ベビー5含めまだ残るメンバー四名を除いて、ローは三人のスタッフと一緒にバッファローの運転するバンに乗り込んだ。
「まずはホテルに行くから、トラファルガーはその後になるでやんす」
車のミラー越しに視線を寄こしながら言ってきたバッファローに「わかった」と返すローの横で、今日のメンバーの中で一番若い見た目をしたクルクルとした巻き毛を持つ男が「明日は仕事ですよね?悪いなあ」と声をかけてきた。これまで一言も話していない相手だった。
「別に平気さ」
「職場どこ?何してるの?」
「警備をしてる」
「あ、そっか、護衛の面接に来たってリタさんが言ってたんだった。なんで蹴ったの?」
クルクルと視線を動かしながら若者は次々質問してきた。このなんだか中性的な雰囲気を持つお坊ちゃんタイプはこれまで関わることがなかったので、ローには少し新鮮だった。
「今の仕事を始めてまだ間がないから、集中したいからな」
「へえ、僕はプログラムを書くのが好きで、専攻は」……
 ぺらぺらと話し始めたCGデザインのインターン生の向こうで、バッファローが一本の電話を受けて無線イヤホンで話し始めたことにローは気がつかなかった。気がついていたら、バッファローに電話を掛けてきた相手が、今日彼をこの予期せぬ状況に追いやった張本人だと察していただろう。あいにく、ローは集中しないと聞き取れないほどの速度で話す若者についていくのに忙しかった。

 およそ十分後、バンはホテル前に到着した。なかなか賑わっている立地にあり、通りは飲食店の光で溢れていた。ホテルはビジネスと観光客のどちらもターゲットにしているのが分かる、フォーマル寄りでありつつデザイン性もある外観をしていた。大きなキャリーを運ぶカップルがちょうどホテルの玄関に吸い込まれていくところが車窓越しに見えた。
「じゃ、ここで降りるでやんす」
バッファローが肩越しに言ったとき、ローは自分がうっかりドアに近い席に座ったことに気が付いた。最後に降りる予定だったのに、と思いながらドアを引いて歩道に降り立ち、邪魔にならないように脇に避けていると、後ろから誰かが近寄ってくる気配があった。首をめぐらせると、パッと片手を挙げたセニョール・ピンクが歩いてきていた。白地に薄い黄色の水玉模様の、相変わらず目立つスーツを着ている。
「やあ、ロー」
セニョール・ピンクはローのすぐ横までやって来た。
「セニョールさん、どうも。思いがけないサプライズで」
ローは半分は感謝の気持ちと、半分は皮肉を込めて言った。結果的に楽しかったが、振り回されるような予定を入れられたのは事実だ。
「ああ。楽しめたのかい?」
「はい。どうもありがとうございました」
手を顎にやって軽く掻きながらセニョールはぎこちのない笑みを浮かべた。ローが眉を上げる前に、彼は気さくそうな動きで手を伸ばし、ローの肩に手を置いた。
「そいつはよかった!さっきの、俺が声を掛ける前に振り返るあたり、若いのにさすがだな、ロー。職業病だ、だろう?」
「はあ
セニョールが肩に置いた手にさりげなく力を入れてガッチリ掴んできたので、ローはいよいよ眉を吊り上げた。悪意や敵意は感じないが、何か言いたげな表情は気になるところだ。
「じゃあ、バッファロー、後は任せてくれ」
ピンクはわざとらしいまでの軽やかさで言った。
「ア?」
「わかったでやんす。じゃあな、トラファルガー」
背後でバッファローの声がしたと思ったら、彼はさっさとドアを閉じるボタンを押して扉を閉め始めていた。驚くローの横を、三人のメンバーがセニョールに挨拶をかるくしながらそそくさと通り抜けていく。巻き毛のインターン生だけがなぜかローの背中をポンと叩いて通り過ぎていった。ホテルに向かっていく彼らの背を見やりつつ、ローは顔をしかめた。
「俺はバッファローに送ってもらえるかと」
「ああ、送るさ、もちろん。それよりトラファルガー、せっかくだからラウンジでかるく飲まないか?感想でも聞かせてくれ、ウチのメンバーの仕事ぶりは面白かっただろう?」
セニョールは早口で言いながらローの肩についに腕を回しきり、ローを歩かそうと引っ張り始めた。正直なところ根が生えたように固まって動かないでやってもよかったが、パントマイムを始めて歩行者に注目されるのも嫌だったので、ローは仕方なく歩き始めた。セニョールがホッとしながらキラキラとシャンデリアの光を透けさせているホテルの玄関扉へと向かった。
「なんの用事なんだ?セニョールさん、護衛はもう決まったんだろ?」
「ん?はは、はは……まあ、ちょっと飲もうじゃないか」
こりゃあ嘘をついたな、とローは冷静に感じ取りながら、同時に動揺した。つい数十分前に、やっぱり仕事を受けてみてもよかったんじゃないかと思ったばかりなのだ。よく知らない世界に接するのも自分の人生の経験としては面白いと思ったからだ。そうだ、職場やスタッフの雰囲気が思いがけずよかったからであって、決して、下心ゆえではないのだ──ローがすでに三桁は見たうえに生涯見続けるつもりでいる映画『国の右腕』の主人公、リュック役であるドンキホーテ・ドフラミンゴに近づけるとかなんとか、そんな下心は決して──

「ピンク?戻ったか」
ロビーに入ってすぐに上から降って来た声に、ローは考えるよりも早く勢いよく顔を上げた。そこに立っていた人物を前に、ローは突然、目の前にスポットライトの強烈な光が差したように感じた。その白く強く輝く光の中心に、一人の男が立っていた。ローは自分の肩に腕を回している誰かが(セニョールに違いないが、ローはそんなこともすっかり頭から吹き飛んでいた)ローを歩かせ、男の前に連れて行くようにしたのを遠くに感じた。あまりにも急なことに、瞬きの仕方さえよく分からない──輝くような男の、その両脇を固める人たちのことも、隣で『ええ、戻りました』と答えているセニョールのことも、ホテルスタッフやチェックインに並ぶ観光客やその他さまざまな人の誰も彼もが、ローの視界から一気に消えていた。
ドンキホーテ・ドフラミンゴは、胸元が大きく開いた白いシャツに柄入りの渋い赤のパンツを合わせた服装をしていた。誰にでも手に入りそうなテクスチャの服なのに決して真似できないと思わせられるのは、男のスタイルがあまりにも造りものじみて完璧なのと、放つプレッシャーがあまりにも大きいものだからだろう。先日は座っていたので気付かなかったが、名俳優は非常に背が高かった。人と話すのに視線を下げることが多いローがしっかりと顔を上げなければならないほどである。思わず目でなぞりたくなるような綺麗な形をした長い脚の上に、シャツの上からでも分かるほど引き締まった胴体と、プラチナに輝く金の髪を持った顔が乗っていた。あのドフラミンゴが、ローがうっかり手を伸ばせば指先を触れさせられそうな距離に立っていた。
長年のトレーニングで自制心を鍛え上げて来たはずのローは、生まれて初めて呆然自失を自分の身で味わっていた。警護で死にかけたときだってこんなに自分を見失ったことはなかっただろう。彼は目も口もポカンと開けて、目の前の男を凝視していた。
ドフラミンゴの方はローに目もくれず、セニョールに向かって口の端を持ち上げていた。シャンデリアが彼には近い距離にあるせいで、目尻の吊り上がった形の大きなサングラスの赤紫を透かして、やや垂れ目の──ちくしょう、あの『国の右腕』の若い頃からソックリそのままじゃねえか!──目がかすかに見えている。
「フフフ、仕事が速い男だ。褒美に休みを、とでも言いたいがお前に三週間も会えねえなんて、すでに寂しいよ」
「ふっ、嬉しいことを言ってくれますね、若。グラディウス、手続きは順調に?」
ドンキホーテ・ドフラミンゴの笑みに(それも、どの角度から見ても惚れ惚れするような笑みだとローは思った)セニョールは微笑みを返した後、ホテルのカウンターからこちらに向かってくる黒ずくめの男に聞いた。グラディウスと呼ばれた男は肩をすくめた。
「ああ、今来たばかりだ。若、部屋に案内します」
グラディウスはセニョールにきびきびと答えた後、名優のドフラミンゴを見上げて如何にも従順な口調で言った。ドフラミンゴは考えるように顎に手を当て、そこで初めてローの方に顔を傾けた。
たったそれだけの小さな動きに、ローは心臓を口から吐き出しそうになった。頭の中が真っ白だ。俳優との距離が昨日とは違う。昨日の面接では近づきこそしたもののあくまで声が問題なく届く範囲に立っていた程度であったのに、今はサングラスの下の瞳すら見える距離なのだ。しかも、昨日と違って、ローはなんの覚悟もしていなかった。裸で人通りの多い路上に飛び出る方がまだマシだと思えるほどの困惑と緊張が容赦なくローに襲い掛かっていた。
「その前に出てもいいが……なにか店はあるか?新入りも入ったことだしな」
「はい。それならおススメのバーが……おい、車を回せ」
グラディウスが即座に反応し、タブレットを取り出しながら俳優の脇に立っていた一人に小声で指示を飛ばす。言われた男はさっと走り出した。ローはその動きを自然と目で追いながら、ようやくポカンと開いていた口に気付いて口を閉じた。緊張が度を越えて、今の彼は著しく認知能力が下がっていた。あの、画面越しに何度も聞いたこの世で一番痺れるクールな声が何かを言っているのは分かるが、耳に心地よすぎて何を言っているのか分からない。低いのにクリアに響く声は、あの映画とは少し違うが、こんなに間近で聞くとずっと聞いていたくなる声だ。一体何が起きてるんだ、俺は一体どうしたんだ?
「よかったな、ロー。じゃあ、契約の手続きは後でしよう。よかった、よな?そうだろ?」
セニョールがひどく汗をかきながら言っていることに平素のローであれば難なく気づき、強引に雇用契約を進めようとする男を睨みつけて態度と言葉で徹底的に拒絶しただろう。だが、今のローはそれどころではなかった。目の前に、金の指輪がいくつか嵌まった長い指を持つ手が差し出されたのだ。
「新入り、期待してるぜ。フフフ……
「へ……
蚊の鳴くような声を漏らしながらも、ローは反射的に両手で目の前の白い手を包み込むように握りしめていた。猫のように俊敏に、だが生まれたばかりの小鳥をそっと守るような手つきであった。
……あ~、ピンクのバケーションは三日後からだ。そこから数日いや、三週間か?まあ、短期間だが、いい働きをしてくれると期待してる」
ドンキホーテ・ドフラミンゴが丁寧に言葉を足したのが、ローが手をそっと包み込んだまま離れる気配がないからだとは、ぼんやりと俳優を見上げているローにはちっとも分からなかった。そして、目の前の俳優が昨日ローの素顔を見て『生意気そうでイイ』と冗談半分にピンクの申し入れを了承したことはもちろん、遠目にも『イイ』と思われた琥珀の目で昨日とは打って変わってひどく熱っぽく、それもどこか浮かされたようにぼんやりとした無防備な表情で相手の顔を凝視する行為が相手にどう受け取られるかなども、ローは全く分かっていなかった。
 隣のセニョールが先ほどとは別の汗をかき始め、「ど、どうした?」と戸惑い始めたことも、グラディウスが拳をバキバキと鳴らして威嚇し始めたことも、ローにはやっぱり知覚できていなかった。
「フフ……まあ、ロー?」
はい……
もしかして白昼夢だろうか?とローは思いながら呟いた。あの美しいリュックが、いや、ドンキホーテ・ドフラミンゴが、かるく首を傾げてローの顔を覗き込むようにしているなんて。
「まあ、よろしくな」
「はい……
 返事を返してもなお両手を離さないローに、ドフラミンゴはついにもう一方の手をローの手に重ねた。それが彼自身にも意外な行動だとは──普段ならグラディウスや部下に対処させるので──知らないで、ローは途端にハッとし、慌てて手を離した。
「あ……失礼しました」
「フッフッフ……
離れていったドフラミンゴの手の感触が両手にまだ残っているように感じ、ローは内心この男は手さえも存在感があると思ったが、それは単純にローが長く握りしめていたためであった。ただ、ローには自分が不自然なほどの時間ドフラミンゴの手を握り返していた自覚は全くなかった。彼にとっては今の間はほんの一、二秒ほどの出来事であったのだ。だから、両手で握ってしまうという不自然な行為をしてしまったとしか思っていなかった。
「なんだ、昨日はそんな素振りはなかったが、俺のファンか?」
「いえ?別に、特には。あいにく芸能には疎くて。ただ、護衛はきちんとします」
ようやく頭が物を考える感覚が戻ってきた途端、ローは即座に答えた。そして、答えてから自分がすっかりこの仕事をする気になっていることに驚いた。だが、ロー以上にドフラミンゴはじめグラディウスやピンクの方が驚いた顔をした。
「おい、嘘をつくな!」
グラディウスが唸るように言い、セニョールはポカンとローを見て、そしてドフラミンゴは肩を揺らして笑った。
「フフフ!」
「ロー……受けるんだな?」
グラディウスに対し眉を上げたローに、セニョールは疲れと怯えの混ざったような口調で言った。ローは自分の方が騙されたように仕事を請け負わされているのに、なぜセニョール・ピンクの方がまるで何かの被害に遭ったような顔をしているんだと思いながらも頷いた。
「現職の方を調整しないといけねえが」
「ま、まあ……君の上司に話はする。で若が良ければ、俺の居ない間はこのローに護衛をと思いますが」
「フフフ、もちろんいいさ。おもしろそうだからな」
かなり言葉を選ぶような顔をしながら言ったピンクに対し、ドフラミンゴはさらに大きく肩を揺らして笑いながら答えた。ずっと欲しかった言葉がボスから聞けたというのに、ピンクは『不安』としっかり頬に刻んだ力のない笑顔を浮かべた。


★★★

映画の男と現実の男は別物だと言い聞かせつつもどうしても胸がときめくローをおもしろがりつつも、いつの間にか余裕がなくなるドとかを、見たい・・・気もする・・・。
護衛雇うってなに?胡散臭いドですね、、、!


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@pinkrosa1023
とても楽しかったです!余りにも夢中になり過ぎて最後の力のない笑顔を浮かべた。まで読んで続きがないことに叫んでしまいw護衛についたその後が気になって仕方ありませんでした😆俳優×護衛シュチュが大好きなので嬉し過ぎましたし、護衛になるきっかけが初め可笑しくて、でも初恋だったと後から分かり滅茶苦茶かわいくて萌えて最高でした!セニョールが二人に振り回されてて良かったですwいつもワクワクするお話をありがとうございます🙏✨
2025-05-22 18:53:19
@guguguttaru
≫pinkrosa1023 まるくさん!!!いつもありがとうございます😊❤️楽しんでいただけたならとても嬉しいです!!!
振り回されてかわいそうだけど浮かれてて幸せなセニョールと様子のおかしいローが書けて楽しかったです🫶😆🫶
2025-05-26 20:03:34

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