@ma_9n774
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その日は午後から冷たい雨が降っていた。
いつもと変わらぬ屋敷の静けさの中に外套を脱ぎながら現れた男が一人。
天平命幇の幹部であり、茶の香りに目がなく、闘茶を嗜む者としても名を知られている古参の男─洛だった。
「おお、王。久しいな。茶は相変わらず飲んでいるか」
「ほかに碌な楽しみがあるものか。…お前も相変わらず派手な服だ」
「ほっほ、茶の香りにこそ、花を添えねばな」
洛が訪れたのは、組織の件に関する相談と、幾つかの処理の報告のためだった。
それらのやりとりを短く済ませると、彼はゆっくりと懐から包みを取り出した。
「折角だから、此処でひとつ飲ませてくれんか。儂が今朝仕入れた葉じゃ。なかなかの香りだぞ」
「良いだろう。茶を淹れろ」
王が短く命じた先にいたのは、無言で控えていた斑鹿だった。
何も言わず静かに火を起こし、蓋碗を整える。
斑鹿の手が茶葉を測り湯を湛えた。
「うむ…香りが立っておる。よく焙かれているな。……なんだと思う?」
「福建、桐木村、“金駿眉”。」
王が淡々と言った。
幹部の男が、ふっと笑う。
「お前も中々だな。――それにしても」
そのとき、洛の視線が斑鹿に向いた。
「……そこの子飼いの坊や、まだ健在だったか」
「こいつは黙っていればいい器だからな。手入れは怠っていない」
「ふむ……いや、思い出した。そういえばお前、“闘茶”ができるのだったな?」
斑鹿は答えなかった。
それを無言の肯定と受け取り、洛は面白そうに眉を動かした。
「儂の相手をしろ。今の茶では物足りん。三煎、新しく用意せい」
相槌のように王が煙管を叩く音が響く。
「付き合ってやれ。……手を抜かずにな」
「はい」
斑鹿は短く答え、卓を整え直した。
雨の音が遠く、屋敷の中の空気が静まり返る。
⸻
三煎。
ひとつ目は青茶、香りが強く、発酵は浅い。
二つ目は紅茶、発酵が深く、火香が残る。
三つ目は白茶、熟成の浅いもの。
斑鹿は迷わなかった。
「文山包種。台湾、春摘み。蜜香あり、芯に若さが残る」
「滇紅金針。雲南、勐海系統。土の香り強し」
「白毫銀針。福鼎、三年もの。松葉香を含む」
洛が同様に茶を啜りながら答えたものとは細部で回答が異なっていた。
審判役の一人が緊張した面持ちで紙を確認し、静かに言う。
「斑鹿の回答、三問とも正解。洛閣下、二問目の詳細に誤りあり」
洛は数秒だけ沈黙した。
そして、髭を撫で付けながら低く笑った。
「ほっほ。流石は“王の道具”よ。驚いたわ」
斑鹿は頭を下げる。
「……恐縮です」
「忖度もせぬか。普通は、儂に合わせて一つぐらい外しておくものだが」
「指示を受けておりませんので」
王が煙管をくゆらせ、何も言わずそれを見ている。
洛は最後に湯呑を手に取り、ふっと笑った。
「良いぞ。道具は優れていればなお美しい。芸の一つや二つはあった方が、飽きずに使えるというものだ」
それは“誉め言葉”だった。
だが同時に、“人間ではない”と決めつけた上での歪んだ賛辞だった。
斑鹿は使用済みの蓋碗を拭きながら静かに再び頭を下げた。
「光栄に存じます」
顔を上げた時、その目はどこにも焦点を合わせていなかった。
まるで自分の輪郭すらも他人の意志でのみ保たれているかのように。
洛が去ったあと、斑鹿は静かに蓋碗を洗っていた。
その背にワンが低く言った。
「及第点だ」
斑鹿はただ答えた。
「はい」
そうして茶の香りが消えた部屋に再び無音が戻る。
斑鹿の“芸”は、この日もまたただ“誰かの満足”のためだけに使われた。
⸻
洛が帰った後の夜。
雨はまだ止まぬまま、薄い帳が夜気に垂れこんでいた。
帳場ではなく奥の控えの間で、斑鹿は静かに湯を沸かす。
蓋碗は一つ。茶葉も一杯分。誰に淹れるでもない、ただ自分のための茶。
火を起こすのも、湯を注ぐのも、指先は正確だった。
けれどどこか動作のひとつひとつが遅かった。
思考ではなく記憶が邪魔をしていた。
『道具は、優れていればなお美しい。芸の一つや二つはあった方が飽きずに使えるというものだ。』
あの洛の笑みも、蓋碗を転がす指も、すべてが鮮やかに脳裏に焼きついている。
斑鹿は茶を啜らず、まずはただ香りだけを吸い込んだ。
白毫銀針。福鼎。
三年もの。焙煎は一度だけで、発酵香は穏やか。
柔らかくて、どこか“余地”のある香り。
“美しい道具”。
その言葉は斑鹿にとって初めてではなかった。
子どもの頃から、道具と呼ばれて育った。
命じられれば殺し、命じられれば跪く。
命じられれば、どんな芸も学ぶ。
そのたびに、斑鹿はただ「はい」と答えてきた。
「……」
けれど今、蓋碗の中で揺れる茶の表面を見つめていると、
その「はい」が、ほんのわずかに胸に引っかかった。
(……俺は、何に対して返事をしている。)
命令に? 期待に? 役割に?
それともただの呼吸のように返答を続けているだけなのか。
答えは出なかった。
感情もなかったはずだ。
けれど、この夜の茶の香りだけは斑鹿の中に揺らぎを残した。
王に命じられたから覚えた芸。
ただそれだけのはずだった闘茶が、気づけば自分の輪郭を確かめるような“所作”になっていた。
蓋を閉じ、蒸らし終えた茶に口をつける。
わずかに熱い。
だがその熱が確かに“自分の喉”を通っていることだけは分かる。
斑鹿は空になった蓋碗を見つめた。
そして誰に聞かせるでもない声で、小さく呟いた。
「……はい」
それは何かに対する返答ではなかった。
ただ、今ここに在る自分を確かめるような音だった。
⸻
天平命幇の所有する建物の会議室。
その帳の奥では湯が湧いていた。
この日、久々に複数の幹部が揃って会議を開いていた。
主導するのは王。
そして彼の左右に座していた一人は、洛 瀧臣。老いてもなお朱を基調にした派手な長衣を好み、白く整えられた髭を撫でるのが癖の男。以前斑鹿に嘲笑を含んだ賞賛を与えた人物である。
もう一人は馮 正義。
細身で瞳の鋭い男。青灰の上着に黒の内袍、無駄を嫌う性格がそのまま仕立てに出ていた。武よりも商に長けた幹部で、洛とは対照的に無口だが興が乗れば口調が滑らかになる。
他数名の幹部を交えた会議は穏やかに終わり、早々に引き上げた者を除いて茶の時間となった。
斑鹿はいつものように王の背後に控え存在を薄く保ったまま、帳の奥で湯を整えていた。
それに最初に気づいたのは洛だった。
「ああ、おったおった。王の子飼いの坊やが」
その声に馮が目を細める。
「彼が、噂の闘茶のできる番犬か?」
「番犬などと呼ぶには惜しいぞ。先日は儂が相手をしたが、完膚なきまでにやられた。実に見事な鼻と舌を持っている。まるで計測器のようにな」
その評価に王は笑いもせず、煙管の煙をくゆらせながら言った。
「"試す"か?」
馮が小さく笑った。
「言われるまでもない。――そちら、席を」
斑鹿は静かに前へ出た。
「はい」と一言だけ答え、卓を整える。
今回も三煎、馮が持参した新茶。
いずれも近年収穫の、今年はまだ市場に出ていない茶葉だという。それでも斑鹿は迷わなかった。
「桂花香単叢。広東省、鳳凰水仙。香りがやや過熟、今年の初摘み」
「安吉白茶。浙江省、低発酵、火香を抑えた新芽」
「巽風紅。四川省、標高高地。蜜香と杉の後香、仕上げに軽い焙煎あり」
馮は数秒間、斑鹿を見つめてから鼻で笑った。
「……成る程。確かに、外さない」
洛が得意気に手を打つ。
「言うた通りであろう?芸の一つや二つは持たせるものよ。処理機とした使い潰すには惜しいが、見て楽しむにはもってこいだ」
馮はそれを聞き、ふと王の方に目を向けた。
「―して、なぜこの子飼いにこんな高尚な芸を覚えさせた?」
王は煙を一度吐き、短く言った。
「気まぐれだ」
「気まぐれ、ね……」
馮が笑う。洛も笑う。
卓は上機嫌な男たちの談笑で満たされた。
「茶を知る道具。これは面白い。香りを測るとはなかなか風流じゃないか」
「よく仕込んだものだ」
自身の評価を受けるその横で斑鹿は黙々と茶器を片付けていた。
誰の目も見ず、感情も揺らさず。ただ次の所作へ移る。蓋碗を拭く指は正確で湯呑を包む布の扱いにも一点の乱れもなかった。
男たちの談笑の輪の中で彼だけが“無音”を貫いていた。
それが斑鹿という道具の在り方だった。
笑われることも、驚かれることも、羨ましがられることも―彼には必要のない感情。
その機敏の違いすら、きっと自分には縁がないものだと思っていた。
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