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告白にうってつけの日

全体公開 アルカヴェ 1 2578文字
2025-05-25 21:58:15

アルカヴェ

Posted by @dounudon



 夕飯のあいだじゅう、からい、からい、とカーヴェは泣いていた。冗談じゃなく、ほんとうにちょっと泣いていた。エルマイト鍋にスパイスを入れすぎてしまったのだ。具材をなるべく減らして極限まで原始的でオリジナルに寄せた味わいを再現したものだったので中和するものが一切なく、それはただただ熱く辛く、カーヴェの仇敵じみた料理になってしまった。かといってちょっとでも冷まそうものなら表面をうようよしている脂に食欲を減退させられる。そもそもせっかく調理したものはできるだけおいしい状態で食べたいという気持ちもある。結果としてカーヴェはからいからいと目の端に涙を浮かべながら完食することとなった。辛いのは痛みで、痛いのは辛い。つまりからいのはつらい。しかも滝のように汗をかく。キッチンで結んでいた髪をほどかなければよかった、といまさら後悔しても遅い。頬を流れているのが涙なのか汗なのかすら定かではない。
 さんざんな一日にはふさわしい幕引きだとカーヴェは思った。今日はほんとうにさんざんだった。昨夜遅くまでクライアントとの打ち合わせに向けて詰めていて寝不足なうえに、朝から包丁で手を切ってそこそこの血を流し、ついでに自らの内側から流れ出たあかいろの鮮やかさに驚きよろめいてお気に入りの皿をひとつ割ってしまった。なんとか時間通り(この場合の時間どおりというのは指定の時間よりやや早く、というのがカーヴェ流なのだが)に辿り着いたプスパカフェでは先方が現れるまでになんと二十分も待たされ、その後も彼女がオーダーに悩む虚無の五分間があり、結局仕事が始められたのはカーヴェが最初に注文したコーヒーがすっかり冷めてしまったころだった。二杯目はチャイにした。
 こだわりの強いクライアントはべつだんカーヴェの苦手とするものではない。依頼主のクセの強さとそれに付き合うための労苦をやりがいとして捉えて自分の疲労をごまかすくらいの立ち回りはとっくに身につけていたし、カーヴェ自身譲れないものの多い性格ではあったから、誰かの理想を簡単に撥ねつけることはしたくなかった。初対面で「ほんとはフォンテーヌ風の建築にしたかったんですけど、伝手がなくて」と言い放った彼女が曲者なのはわかっていたが、フォンテーヌ風の建築が可能な設計者を紹介するというカーヴェの提案を却下して最終的にカーヴェを選んだのだから、それならとことんまで付き合おうと思っていた。
 だが、すでに発注していた建材の種類を勝手に変えたという衝撃的な話を、今日の天気のような流れで披露されたときには今日二度目のよろめきを感じざるをえなかった。店の器を割らなくて済んだのは幸いだった。彼女は「やっぱり玄関ホールはきらきらしたのがよくって」鏡面仕上げの石材に変更してもらったのだという。それは何度も何度も話し合い、お互い納得してつや消し加工のものと決めたはずの場所だった。ああ、これでまた照明の計算からやり直しだ。色彩計画もぜんぶ台無しだ。徹底的に演出された光の調和が崩れ、違和感が乱反射する絶望のホールを想像する。傷が目立つ床材にするなら空間の使い方も再度考えなくてはならないかもしれない。もちろんインテリアの配置も変わるだろう。
 付き合ってられるか、と喉まで出かかった声をなんとか押し留めたのは「やっぱりきらきらがいいねーって娘が言うんです」という彼女の追い打ちの勢いだった。はじめての打ち合わせに同席していた内気そうな少女を思い出す。もじもじと顔をあからめ、カーヴェによろしくおねがいしますと拙い字で書かれたメッセージカードをくれた幼い女の子。そうだ、きらきらなのがいいだろう……たしかに……あの子にはきらきらに囲まれた笑顔が似合う……
 そのことに頭を支配されていたせいで、帰り道に転倒した。いい大人がシンプルになにもない平坦な道の真ん中で転んだ。つまずくどころではなく思いきり大地と仲よくするスタンスでバランスを失い、地面と平行になったところですかさず猫が背中に乗り上げてきた。誰かの堪えきれなかったような不自然な笑い声と鋭い爪の食い込むわずかな痛みが同時に襲ってくる。
 満身創痍でなんとか帰宅し、夕食づくりのまえに厄落としを兼ねて湯を浴びたらお気に入りの石鹸が切れていた。素っ裸で棚を漁るがストックも見つからない。「君にはどうせこだわりなんてないんだろうし、ここは僕が選ぶから君は買わなくていい、次はべつのを使いたいかもしれないし」とアルハイゼンに言い渡したのはカーヴェだったので文句を言う相手もいなかった。強いて言うならうっかりしていた自分だろう。仕方なくいつ買ったのかも定かでない包みを開け、泡切れの悪さと慣れない香りにかつてアルハイゼンがひとりで暮らしていた時期のものだと確信しながら汗と汚れを流した。
 つまり、さんざんな一日だったのだ。
 さんざんな一日の終わりに汗と涙を交わらせてだくだく流している。どう考えてもベッドに入るまえにもう一度風呂に入るべきだろう。喉がしくしく痛み、舌がぴりぴりして、くちびるがただただ熱かった。おそろしく腫れぼったい。出来のいいケーキより膨らんでいる気がする。
 結局鍋の七割ほどを片付けたアルハイゼンが満足そうにしていることだけが救いだった。アルハイゼンはもともとカーヴェのつくるものにけちをつける男ではないが、おいしいときは特に口数がすくない。たぶん真剣に味わっているのだろうと思う。今日のメニューは簡素で素朴だったため、よりいっそう集中しているように見えた。
 そのアルハイゼンも汗だくだ。こういうアルハイゼンを見る機会はすくない。カーヴェのように涙こそ浮かべていないものの、鼻の頭に汗の玉を浮かせ、前髪は額に張りついてぐちゃぐちゃ、ふだん皮肉に正しいことばかりを言うくちびるがコミカルに腫れている。やたらと血色もいい。
 カーヴェは笑った。
「僕たちまるで熱烈にキスをしたあとみたいだ」
 アルハイゼンは笑わなかった。
「俺はそれを事実にしても構わないが、君は?」
 そんなのは考えたこともなかった。降って湧いた可能性にカーヴェはびっくりして雑に瞬きをし、汗をまともに目に入れてしまいまた泣いた。でも、もしかしたら今日はそんなにさんざんな一日ではなかったのかもしれない。


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