村雨+渋谷。CP要素無し。DCL&ピカピカクイズ後に、二人が村雨邸でお酒を飲むお話です。
積み上げてきた生き方と、抱える願いを思って。
@5_bluedaisy
「ということで、以上が直近の予定になりますね」
渋谷がそう言って、私は頷いた。
現状報告、との名目でやって来た彼が語り出してから、さほど時間は経っていない。実際、内容のほうも既にわかっていることが殆どだった。
計三戦の変則マッチで行われる、宇佐美班と伊藤班の解任戦。既にそのうち二つの戦いが終わり、初戦は私と天堂が、二戦目は相手方の叶が勝利した。次の戦い——1ヘッドでの真経津の勝敗で、この解任戦の行方が決まる。
「……いよいよ決戦というわけだ」
「そういうことです」
頷きながら、渋谷は葉巻を取り出した。吸っても?と軽く確認する仕草をしてくる。
いつもの事なので、私は視線だけで了承の意を伝えた。担当行員である彼は、それくらいは読み取れると知ってのことだ。
「どうも、村雨さん」
渋谷は微笑むと、流しの傍に移動した。慣れた動作で換気扇を作動させると、葉巻を咥えて、マッチを擦る。
葉巻の先が燃え始めると、独特の強い香りがばっ、と漂った。高級品らしい奥深さがあり、不快な匂いではないが、強いことには変わりない。換気扇がきちんと動作していても、テーブルの椅子に座っている私のところまで如実に匂いが漂ってきた。
渋谷は美味そうに深く息を吸い込むと、目を細め、ほうっと煙を吐いた。呼気の混ざったその煙で、また辺りの匂いが変化する。
一連のその動作が落ち着くと、渋谷は仕事の顔に戻って、こちらに向き直った。
「ここ数年じゃ類を見ない大きな戦いってコトで、VIPの方々も随分と御期待をかけて下さってる。もちろん我々にとっても、進退を賭けた大勝負ですがね」
「あなた達の思惑など、どうでもいい。私には関係のないことだ」
既に、解任戦における私の出番は終わっている。戦いのリードを天堂に取られたのは癪だったが、五体満足で勝利を収めたし、自分なりに得るものもあった。最後の戦いの趨勢がどうなろうと、私の関与するところではない。
が、気になる点はあったので、それは渋谷に尋ねてみることにした。
「次の……真経津の戦いを、観戦することは可能なのか」
渋谷は我が意を得たり、といった表情で大きく頷いた。
「そうそう。それも今日お伝えしなきゃいけないことなんですよ。特別中継になりますが、両班の関係者は観戦可能です。当日にメールで入口とパスを御案内しますので、いつもの専用ブラウザから入ってください」
「わかった」
「皆さんで、お揃いになるんで?」
「さてな」
特に相談はしていないが、獅子神の家に集まることになるはずだった。が、それを渋谷に伝える義理はない。
これで一連の話は終わったと思えたが、渋谷はまだ葉巻をふかしながら、私を見て立っている。そちらのタイミングで好きにどうぞ、と言っている眼だった。
私は軽くため息をついて、渋谷の足元に視線を走らせてやった。
普段なら手ぶらで訪れるのに、今日は携えてきていた紙袋。部屋へ入ってすぐに、今の場所へ置いていた。無地の丈夫そうな紙袋だったが、手提げの紐を纏めて留めたテープに有名百貨店のマークが見てとれる。持ち運ぶ際には、中でガラス瓶や紙箱の擦れ合う音がしていた。
これから別の場所へ持って行くなら、わざわざ私の目の前に出す必要はない。そもそも持たずに来るか、やむを得ず持って来たのだとしても、玄関か部屋の隅にでも置いておけばいい話だ。
つまり、この紙袋は私の前で開くためのもの。
渋谷の今日の要件は、まだ残っている。
「どうせ、そちらが本題なのだろう。いいからさっさと話せ」
紙袋を見ながら言ってやると、渋谷は口元を緩ませて頭を掻いた。
「いやあ、流石ですね。村雨さん」
「つまらん世辞は不要だ。その中身は、仕事以外の用事だろう。勿体ぶらずに出すがいい」
「では、お言葉に甘えて」
渋谷は葉巻の火を消すと、紙袋を持ってこちらへ歩いてきた。
テーブルに置き、中身を取り出す。
そうして私の前に置かれたのは、ワインボトルだった。
「……ほう」
思わず、感嘆の声が出た。
分厚く、頑丈そうな濃い色の瓶。ブルゴーニュ型のボトルだが、ラベルに書かれているのはイタリア語だ。そちらの知識が豊富というわけではないが、ボトルの佇まいやラベルの雰囲気から、それなりに値の張る品であることは察せられた。
「たまたま手に入ったんでね。一緒にどうかと思いまして」
渋谷の言葉に、一瞬考えを巡らせた。
今日は手術日ではなかったから、病棟に術後の不安定な患者はいない。受け持っている患者は皆落ち着いているし、オンコールもファースト・セカンドともに外れている。そして、明日は休みだ。
乗らない手はないだろう。
「いいだろう、頂こう。が、つまみは無いぞ」
「ご心配なく。ちゃーんと、準備してきてますよ」
渋谷はにやっと笑うと、続けて紙袋から数種のチーズを取り出してきた。瓶詰めのオリーブやクラッカーなども出して、テーブルの上に並べていく。
「皿とか、ありますかね? この家」
「そこの棚だ」
じゃあ出しますよ、と言って渋谷が動く。私も立ち上がり、棚からワイングラスを二つ持ち上げて、開栓のためのソムリエナイフを手に取った。
渋谷の持ってきたワインは、美味かった。
一緒に出してくれたつまみと合わせて、すいすいと酒が進む。フルボディの赤ワインで、私が普段飲むものとは系統が違ったが、そのぶん新鮮な気持ちで味わえた。チーズはどれも生臭さが控えめな種類で、燻製にしてあるものも含まれていたし、黒と緑、二種類のオリーブも肉厚で旨みがある。さらにクランベリーや無花果などのドライフルーツ、小さなチョコレートまで用意してくれていた点は、流石だと言わざるを得なかった。濃厚でこなれたタンニンの奥に甘味を漂わせるワインと良く合い、渋谷が常に纏う葉巻の香りとも馴染んでいる。
私のグラスの空き具合を見ながら、自然なタイミングで注ぎ足してくれる様も堂に入ったものだった。一流のサービスマンのような洗練こそ伴っていないものの、長年の経験の中で自ずと身についた仕草なのがわかる。自分のスタイルというものを熟知しており、それを当然のこととしていて、嫌味が無かった。
だから、腹立たしさも苛立ちも、この時の私には生じなかった。年の功とはこういうことだろうと、素直に感じさせるものが渋谷にはあった。
私たちは他愛ない話をしながら、ワインを飲み、つまみを食べた。
やがて、赤ワインのボトルの半分ほどが空いた。渋谷がボトルを眺め、それから改めて私を見る。
その視線に私が身構えたのと同時に、渋谷が口を開いた。
「村雨さん」
「何だ」
「あなたは何で、ここに残ってるんです?」
「……」
私は片眉を跳ね上げて、軽く口元を歪めてみせた。
唐突といえば、唐突な切り出し方だ。だが、渋谷の言いたいことはわかっていた。
渋谷たち行員にも、友人たる彼らにも、私は常々言い続けている。
私は医者だ、ギャンブラーではない、と。
ひとたびは1ヘッドに昇格したものの、戦わずに口座の金を使い切り、4リンクに身を落とした。この賭場の最高峰である1ヘッドを行く価値のない所だと断じるのは、ギャンブラーとしての高み、楽しみを目指す者ならあり得ない行動だろう。
それなのに私は、賭場を離れるわけでもなく。
こうして、班の主戦力として立ち続けている。
その私の真意を、渋谷が問いたいと思うのは当然のことだった。班の為にも自身の為にも、己の担当するギャンブラーは己の責任で把握する必要がある。今のように自分達の行く末も見定められない状況では、なおさら不安要素は減らしておきたいだろう。
「いや、私らとしちゃ勿論、村雨さんには居てもらわないと困るんですがね。今回の解任戦が一段落したって、この先また何が起こるか、わかったモンじゃないわけで」
「……ならば、敢えて私の心中など問う必要はないだろう。聞いたところで、何か変わるのか?」
試しに突っぱねてやると、渋谷は眼を細めて苦笑した。
「そうつれないコト言わないでくださいよ。せっかくこうして、一緒に美味い酒を飲んでるんだ。ちょっとしたお礼だと思って、話してくれたっていいんじゃないんですか?」
「それが、今夜のあなたの狙いか。高い酒代だな」
私は手にしたグラスを、ゆったりと回した。紅い液面がガラスの内側に沿って駆け上り、涙のような雫を伝わせて落ちていく。グラスに満ちていた芳醇な香りが溢れて、私と渋谷の間に漂った。
「……ねぇ、村雨さん」
低い声で、渋谷が促してくる。
甘さのある響きに、狡猾さも忍ばせた声だった。それでいて表には、しっかりと親しみを纏わせている。
今までの紐帯と、今夜の酒と時間。私が語る対価としてはそれで十分だろうと、渋谷はほぼ確信しているのだった。
勝てる賭けだと、思っている。
この私を前にして。
「渋谷」
名を呼ぶと、渋谷は正面から私を見つめた。
表情はいつも通り、穏やかに見える笑みを浮かべている。しかし瞼の奥から覗く両の瞳は、揃って鋭利な光を宿していた。
この賭けに敗れるなら、次の戦いを厭わない。
そうして求めるモノに飽くことなく手を伸ばす、ギャンブラーの眼だった。
私が見たことのない、渋谷。
一瞬、戦っても良いと思った。今の私が、この男に負けるはずがない。
だが同時に、そうすべきではないとも思った。この男はギャンブラーかもしれないが、私は医者だ。ギャンブラーではない。
何でも構わず賭けにして、楽しみだけを求める狂人ではないのだ。
礼儀には、礼儀をもって。受けたもてなしには、それなりの感謝で応えるだけのこと。
——そう、人間らしく。
私はワイングラスを持ち直して、口元へと運んだ。唇に触れさせ、ゆっくりと傾ける。
そうして残っていたワインを飲み干すと、空になったグラスをテーブル越しに突き出してやった。
渋谷が、かすかに目を丸くする。
「……いいんです?」
「ふん」
話してやるから続きを注げ、の意だった。
そして、渋谷はちゃんとそれを理解した。
「まあ良いだろう」
「そりゃどうも」
ニヤッと渋谷は笑って、ワインボトルを持ち上げると、私のグラスを満たした。
私は新たな紅い液体を口に含み、よく味わってから飲み込んだ。抜栓してから時間が経って、さらに香りが開いてきている。果実を煮詰めた濃いジャムのような匂いが、コーヒーを思わせる焦がした苦さを伴って、鼻腔の裏をくすぐっていった。
もう一口飲んで喉を潤してから、私は言葉を紡いだ。
「別に難しいことではない。今の状態も、なかなか悪くない——そう思っているだけだ」
「……」
渋谷は黙ったまま、表情を変えずに聴いていた。少し間を開けたが、相槌を打つようなこともしてこない。
私はボトルを取って、渋谷のグラスにワインを注ぎ足した。渋谷がグラスを取り、口をつけてから、話を続けていく。
「先日の戦いを経て、私はより強くなった。それは、私一人では決して得られなかった変化だ」
ここでしか出会えなかった、彼らと出会って。
はからずも、得難い友人となった。
仲間として、時には戦う相手として、何の遠慮も要らない彼ら。
そういった近しい者、親しい者と共に在れたからこそ、私は前へ進めたのだ。
「だから、ここで戦い続けることは……私にとっても意味がある」
彼らと共に、立ち続ける。
私一人だけ、引き下がるわけにはいかない。
「……なるほど」
渋谷は軽く顎髭を撫でると、表情を弛めた。手にしたワインを啜り、細い目をいっそう細めてくる。
「やっぱり、宇佐美主任が言っていたのは満更じゃないってことですな」
「何だ、それは」
「友情、努力、勝利。綺麗事じゃありませんよ、と」
「…………ふん」
私は思わず素で顔をしかめた。自分の野望に我々を利用する男にそう言われるのは、わかっていても腹立たしいものがある。
渋谷はクスクスと笑って、ワイングラスを揺らした。楽しげに紅い液体をあおってから、ゆったりと室内を見渡してくる。
その視線が、窓に向けられたところで止まった。
カーテンは、閉めてある。
「開けないんですか」
「必要ないだろう」
おや、という顔をしてみせながら、渋谷はこちらを振り返った。
「月が見えないでしょう。今夜は、満月ですよ」
「そういう風情を求めるなら、お門違いだ」
獅子神か天堂の所へでも行け、と続けそうになって、咄嗟に言葉を飲み込んだ。が、渋谷はおかしそうに笑ったので、おそらく気づいたのだろう。
「まあまあ、そんな顔しないでくださいよ。同じ班のギャンブラー同士、みんなで仲良くしてくれてるのは有り難いことなんですから」
「叶は、敵の班だが」
「解任戦が終われば、負けた班は勝った班に吸収される。そうすれば晴れてお仲間ですよ」
私は答えずに、黙ってワインを飲んだ。まだ笑いながら、渋谷がボトルの口を向けてくる。空けたグラスでそれを受け、残っていたチョコレートをつまみながら、注がれたワインを味わった。
舌に絡みつく濃厚な果実味が、チョコレートの甘さと溶け合っていく。鼻に抜ける香りが、渋谷のいつも纏う葉巻の匂いと混ざって、私の嗅覚を満たした。熟成した、上等な嗜好品の匂い。構えている心に優しく触れ、疲れと緊張から解き放ってくれる匂いだ。
たかだか数杯のワインで酔うはずもないのに、妙にふわふわとした気分だった。久しぶりに、リラックスしていると言っていい。
それが渋谷と酒を飲むことで生じている事態なのが、不思議だった。
賭場での担当行員とはいえ、特に個人的な交流があるわけではない。こうして二人で酒を飲んだりするのも、初めてのことなのだ。
しかし、悪くない気分だった。
少なくともこの男には、自分なりの生き方がある。それなりの苦労もくぐり抜けて、ここまで歳を重ねているはずだ。
何も知らない、口先ばかりのマヌケではない。
だから、きっと——
「……続けてるんですね」
渋谷が部屋の隅に眼を留めて、ふっと口元を綻ばせた。丸めて立てかけてあるヨガマットが、其処にある。
「当然だ、と言いたいところだが……生憎、暇がある時だけだ。家に帰れない日も多々あるのでな」
「さすが、名だたる大学病院のお医者様。多忙ですねぇ」
「世辞と嫌味をひとつに纏めるな。どちらも見え見えだ、まったく」
「フフッ」
渋谷は懐に手を入れかけて、しかしそこで動きを止めた。すぐに何事も無かったかのように手を出し、ワイングラスに伸ばす。
無意識に葉巻を出しかけたのは明らかだった。が、今は私と向かい合ってテーブルについている状況だ。このまま許可を求めても却下されるし、だからといって換気扇の下まで立つ雰囲気でもないと考えたのだろう。
渋谷のそういう判断は、賢明だと評価できる。だから私は、彼にこの家での喫煙を許しているのだ。
だが、つくづく喫煙というのは不便な習慣だと思う。わざわざ金と時間をかけ、多数の化学物質への依存を形成して、何が楽しいというのだろうか。全身麻酔の際にも喫煙だけでリスクは跳ね上がるというのに、こちらが懇切丁寧に説明しても手術日までの禁煙を守れず、延期にせざるを得ないマヌケ共は後をたたないのだ。まったく嘆かわしいにもほどがある。
……そこまで一気に考えて、思考が脱線しているのを自覚する。浮かれた気持ちを抑えようと、私はぐっとワインを飲み込んだ。
そうしながらふと思い出して、言ってみる。
「……そういえば私がヨガを続けていたら、あなたは禁煙すると言っていなかったか」
「おっと、そう来ましたか」
言葉とは裏腹に、渋谷は動じた様子もなく苦笑いで返してきた。
「村雨さんも、毎日やってるわけじゃないんでしょ? じゃあ私も禁煙じゃなくて、減煙ってコトにしときましょうかね」
「……やれやれ。相変わらず食えんな、あなたという男は」
私はため息をつくと、グラスを置いた。
息を整えて、正面から渋谷を見据える。
「タバコは肺癌のみならず、喉頭癌や食道癌など多種の癌の発生に関わるリスク因子だ。ニコチンは強力な血管収縮作用を有するから血圧も上昇させるし、一酸化炭素も血管の内壁を障害する。これらにより動脈硬化が促進されれば心血管系イベントの確率が高まるし、糖代謝への影響もあると言われている。実に百害あって一利なしのシロモノだぞ」
「おや、いきなり講義ですかな?」
軽く茶化してくるのを無視して、私は言葉を続けた。
「そういった疾患であなたが倒れれば、別の誰かが私の担当になるのだろう? それは勘弁してもらいたい」
「ほぅ……?」
「勘違いするな。更なるマヌケが来ても困るというだけの話だ。私のことを知りもしない若造などに、今さら煩わされたくはないからな」
それ以上の思い入れなど、別に無い。
——あるはずがないのだ。
意思を込めて視線を据えてやると、渋谷はやれやれといった風情で肩をすくめた。
「そういうことなら、御安心を。私も、アンタの担当を降りる気はありませんよ」
語尾が、小さな笑みを含んでいた。
利害の一致。共犯者的な連帯感。
あるいは、単なる慣れゆえの気楽さ。
仄かな、親愛。
「……そうか」
なるべく中立的な響きになるように気をつけて、私は短く答えを返した。
グラスを傾け、ゆっくりとワインを飲んでいく。
賭場に立つギャンブラーは、自分で担当行員を選ぶことができない。
所属する班の都合に振り回されるというのに、何とも理不尽なことだ。
そして、私の担当行員は、この男だ。
渋谷が今ここに居るという境遇は、仕方なく選んだ末のものなのか、それとも強い意志で掴み取ったものなのか。そういった詳細を診断するには、情報が不足している。
だが、私が賭場に立つことも、医者であることも止められないように。
この男にも、止められない生き方というものがあるのだろう。
ギャンブラーという立場から降りて、なお銀行に居続けていること。
強く、香りの良い葉巻を吸い続けていること。
よく手入れされた口髭、自然に貼りついた笑顔、容易に底を見せない話し方。
すべて、この男の生き方の現れだ。
父親や親戚、大学での恩師や、職場の上司。そういった周囲の誰にも似ない男。
私の倍近くの人生を歩んだ、年上の男。
殺伐として身勝手な戦いが繰り広げられる賭場において、そんな男が私の担当でいるのは、きっと僥倖なことなのだ。
ならば、この巡り合わせも手放すべきではない。
私は——まだ此処で、戦い続けるのだから。
「あぁ、もう無くなりますね」
持ち上げたボトルを揺すって、渋谷が呟いた。
「最後に乾杯しましょうか」
「……そうだな」
私がテーブルの上にグラスを置くと、渋谷もその隣に自分のグラスを置いた。ボトルが傾けられ、残った深い紅色の液体がふたつのグラスに注がれる。少なめではあるが、乾杯には十分な量だった。
では、とグラスを持ち上げかけた渋谷を、しかし私は止めた。
「待て。渋谷」
片手を軽く上げて制して、席を立つ。部屋の照明を落としてから、細長い窓のカーテンを引き開けた。
しらじらとした光が差し込み、暗い室内を淡く照らす。
窓の外の夜空には、満月が美しく輝いていた。
「ほう、粋なことで」
椅子に腰掛け、ゆったりと脚を組んで、面白そうに渋谷が言ってくる。細められた眼が、嬉しげに月明かりを捉えていた。
私は振り返って、軽く顔をしかめてみせた。
「茶化すな。私にだって、これくらいはできる」
「それも、成長の証ですかな」
にやりと口の片端を持ち上げて、渋谷が笑い返してきた。
ふん、と鼻を鳴らして、私はテーブルの場所へ戻る。自分の椅子を引いて、腰を下ろした。
左手を伸ばし、ワイングラスを持つ。
渋谷がグラスを持ち上げて、応じてきた。
「では……」
「何に乾杯する」
「そうですねぇ」
渋谷は軽く小首を傾げて——わざとらしい仕草に見えたが、何も言わずに見逃しておいた——視線を泳がせる。それから私を見て、微笑んだ。
「過日の勝利と、村雨さんの成長に、ですかね」
「下らんな。もっと前向きなことに使え」
「願いは口にした途端に叶わなくなる、ってこともあるでしょう。村雨さんなら、よくご存知では?」
反射的にむっとする。が、それは渋谷の言うとおりだった。
言葉にして奮起を促すことが、効果的な場面もある。だがその一方で、秘めたほうが良い祈りというものも確かに存在するのだ。
口に出せない分、強く抱えることになる願い。
それを、私も——そして、この男も持っているのだ。きっと。
「……それでは」
「乾杯」
私たちは互いにグラスを掲げ、触れ合わせた。
りぃん、とリビングに澄んだ音が響く。ひとりでグラスを傾けるだけでは聴けないその音は、心地良く私の鼓膜を震わせた。
月明かりだけが差し込む家の中で、ゆるやかに細い煙が立ち昇る。換気扇の真下ではなかったが、今は許そうと思った。
灯された火が、明るく燃える。美味そうに息を吐く音が続く。
しっとりと燻らされる煙が、月光の通り道を浮かび上がらせる。普段は目にすることのない、淡くさやかな光。葉巻の先が白く色を変えていくにつれて光の筋がゆらゆらと揺らめき、深いところに甘さを覗かせる上品で奥行きのある香りが広がった。
静かに更けていく夜の、様々な色、匂いと味わい。
それらが遍く溶け込んだグラスを傾けて、私はこの日最後の赤ワインを、そっと喉の奥へとすべらせたのだった。