3.3+アナ・ヒアキャラスト関連読了前提。
恋を自覚した男がぐるぐる思考する回。アナ先生の教師としての善性にかなり夢を見ています。捏造過多。
@arikanagahisa
前回→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24869163
「あのさ、率直に聞くけど……どうしてヒアンシーから預かったなんて誤魔化したりしたんだい?」
「…………………」
普段は問いかけに視線を逸らしたりしない男が、気まずそうに視線を落とす。
オクヘイマの夜は朝と様子が似通っており、どちらも同じような静けさを持っている。だから例え夜であろうと、沈黙が続く間も、ミハニの陽光がモーディスの健康的な肌に注がれ、美貌がほんのわずかに紅潮する様を白日の下に晒した。
ファイノンは自身の心臓が一際大きく跳ねるのを感じ、そっと服の上から左胸を押さえる。
君のそれってどう言う感情? と聞きたくなるのを堪えて、もう少しだけ、モーディスの言葉を待つことにした。
*
「あれ? トリビー先生たち、モーディスは?」
普段、何もなければこの時間は黄金裔専用キッチンにいるはずのモーディスを訪ねたファイノンは、そこにモーディスの姿がなく、トリビー、トリノン、トリアンの三人が忙しそうにアップルパイを作っている様子に、きょろきょろとあたりを見回した。
「モスちゃんなら今は王子様役で忙しいから、終わったら戻ってくるはずだぞ!」
ファイノンを振り返ったトリアンが王冠を頭の上に乗せるような動作をする。
「ああ、おままごとにまた呼ばれてるのか。どうせならモーディスがおやつを作るのを待ってから呼べばいいのに」
数ヶ月前、モーディスが子どもたちのおままごとに付き合い、ついでにおやつも振る舞った話は瞬く間にオクヘイマに広まっていた。
日中、モーディスが市内でぼんやりしている様子を見せると、どこからか子どもたちが近づいて来て、ままごとに付き合ってくれと声をかけてきたり、鍛え方を教えて欲しいとねだられたり、花や果物を渡されたりしていた。元々、クレムノスの人々からそんな風に声をかけられたり、何か贈り物をされる姿はよく見られたが、オクヘイマ生まれや難民の子どもたちのように、出身を問わず声をかけられれる事は稀だった。
今では、オクヘイマに暮らすクレムノス人ではない大人たちの方がよほど、クレムノスの王子を怖がっているパターンが多いだろう。
「……今日はおやつはなしだと子供達に言っていたので、恐らく、そろそろ戻ってくる頃だと思います」
トリノンがパイ生地を丁寧に格子状に乗せると、トリアンが卵液をはけで塗って行く。
「モスちゃん、虫歯になりかけの子が増えてるってきいてちょっと考えを改めてるらちいから」
シナモンパウダーを上から振りかけながら言うトリビーに、「次は虫歯菌の役でもやってあげたらいいんじゃないか?」とファイノンは苦笑しながら、モーディスが子どもたちに大真面目な顔で「歯を磨け」と言っている姿を思い浮かべる。
「ところでファイちゃん、担いでる袋には何が入ってるんだ? 樹庭のおみやげか?」
やることを終えて手持ち無沙汰になったトリアンがふわっと近寄ってきて、ファイノンが肩に乗せていた袋をつつく。ファイノンは「これかい?」と担いでいた袋を床に下ろす。
「樹庭で品種改良した麦から作った小麦粉らしいんだけど、我らが料理長のメデイモス殿下に、パンを試作して感想を貰ってきて欲しいらしくてね。ヒアンシーから預かったんだ」
パン屋に感想を求めた方が良さそうな気がするけど、と眉を下げて困ったように笑うファイノンに、トリビーがそっと近づき、「ファイちゃん、もちかちて何か悩み事?」と遠慮がちに尋ねた。
「え?」
ファイノンの耳がさっと色付き、体がぎくりと固まる。
「話ちたくなければいいけど、聞いて欲しくなったら言ってね」
ファイノンはトリアンとトリノンがパイを窯にセットしている姿に一度視線を送ってから、トリビーへと視線を下げる。
「トリビー先生には敵わないな。でも大丈夫、実は樹庭でアナイクス先生にもアドバイスをもらってきたばかりなんだ。もう少し考える時間を取った方がいいみたいだから、もし考えても困ったら相談するよ」
ファイノンの表情をじっと見つめていたトリビーは、どこか恥ずかしそうに笑う表情にそれほどネガティヴな色が混ざっていないことを確認し、「ん、わかった」と頷く。
背伸びをしてファイノンの腰をポンと叩くと、「今日明日はライアちゃんもファイちゃんを呼ばないって言ってたから、ゆっくりちてね」と笑顔を向けた。
トリノンの言った通り、パイが焼ける直前に花冠を乗せたままキッチンに戻ってきたモーディスは、ファイノンが貰ってきた小麦粉に興味津々だった。
「エリュシオンのものはまだ食用に向かないのではなかったか」
そう尋ねて来るモーディスに、ファイノンは先日、彼から麦を贈られた——何故か隠されてしまったのだが——ことを思い出し、内心どきりとしながら、「うん、エリュシオンのものとはまた別だ」と答えた。
「ほう、確かに香りが少し違うようだな」
「よくわかるな。僕には小麦粉の嗅ぎ分けはできないけど、君は本当に鼻がいいね。それで、ヒアンシーが言うには、焼き上がりの甘みが従来のものより強いそうだよ。来月彼女がこっちに来るついでに、よければ感想を聞かせて欲しいってさ」
「ふむ。発酵種の相性は聞いてあるか?」
「え? なんだって?」
「いや聞いていないのであれば構わん。こちらでいくつか試そう」
腕を組み、片手を口許に当てながらパンの焼き方を考えているらしいモーディスの唇の端が、微かに持ち上がっている。彼の嬉しそうな表情に、ファイノンは少しだけ、ヒアンシーに嫉妬しそうだ、と感じていた。彼女はむしろファイノンのために小麦粉を渡してくれたのだが、それはそれ、これはこれと思ってしまう。
『ファイノン様、もしいきなりお土産を渡したり、真実を尋ねるのが気まずければこうしましょう。樹庭で取れた新しい小麦粉を差し上げますから、モーディス様にそれとなく話を振ってみてください』
パンを焼いた感想を聞かせて欲しい、と言うのは、ファイノンがヒアンシーと考えた言い訳のようなものだった。別に堂々と「どうして君からの贈り物だって事実を隠したんだ?」と尋ねたっていいはずなのに、まだファイノンにはその決心がつかない。
ファイノンは金から朱に流れる髪に赤い花冠を乗せられたまま堂々としているモーディスの顔を眺めながら、「そういえば君って、そう言うものはどうしてるんだ?」ずっと気になっていたことを尋ねた。
モーディスはファイノンの指先が花冠に向いていることに気づくと、ようやくそれを頭から取り、「色が悪くなる前に侍従がポプリにして、季節や日で掛け替えられている」となんでもないように答えた。
そういえば、モーディスの私室の壁にはいつもリースの形をしたポプリが飾られていて、訪れるたびにいい匂いがしていたことを思いだした。生花も飾ってあるのにな、と思っていたが、室内の調度品や装飾は基本的に侍従たちに任せていると聞いていたため、あまり気にしたこともなかったのだが、どうやらあれは贈り物の未来の姿だったらしい。
「なんだ、お前も欲しいのか」
「……君と違って僕にはあんまり似合わないと思うけど」
「そうか? 俺よりもお前の方が色を選ばぬだろう。髪が白いからな」
そう言いながら花冠を乗せて来るモーディスに、ファイノンは一瞬だけどぎまぎしたが、すぐに言葉の意味を考えて唇を曲げる。揶揄われたと感じたからだ。
「そういう理由?」
「? 気に入らないか。似合う色が多いのはいいことだろう」
「——ファイちゃんたち、そろそろおやつの時間にしてもいいかちら」
問答を続けていた二人の間に、トリビーが割って入る。手にはいい香りのするアップルパイを乗せた皿を持っていた。
「そうだったな。パンを焼くにも準備が必要だ、後ほど考えよう」
*
おやつを食べた後、ファイノンはモーディスに小麦粉の袋を預け、「その……」と声をかけたが、結局、先日の麦の話題を振ることはできなかった。
樹庭でヒアンシーに「真実」を聞いてから、ずっとこのことを悩んでいた。
モーディスはクレムノス人であると言う事実を除いても、一見すると話の通じない暴君のようだが、実のところ優しい男で、特に身内にはかなり甘い一面があることをファイノンは知っている。
だから、麦をわざわざ貰ってきてくれたのだって、ただそれだけで、別に特別な想いがあったわけではないのかもしれない。
『どんな風にですか? そうですね……、悪いように受け取らないで欲しいんですが、いたっていつも通りというか、本当にすごく自然な流れでお願いされました。ファイノン様への贈り物ですか、と尋ねても誤魔化されませんでしたし……』
私室に戻ってきたファイノンは、モーディスが置いてくれた位置のまま飾ってある麦を見下ろしながら、ヒアンシーの言葉を思い出していた。
(どうして彼女には誤魔化さなかったのに、僕にはヒアンシーからの贈り物だ、なんて言ったんだろう)
あの日、ここで交わしたモーディスとのやり取りに違和感は覚えなかった。だからこそ、ファイノンは素直にヒアンシーからの贈り物を、モーディスがわざわざ持ってきてくれたのだと思っていた。それなのに事実は違っていて、何故モーディスがそんな嘘を、それも、ヒアンシーに聞けばすぐバレるような嘘をついたのかが本当にわからない。彼女があの日、モーディスの真意を測りかねて嘘に乗ってしまったのであれば、今もファイノンはモーディスからの贈り物だということには気づけなかった。
「…………………」
モーディスが先日そうしていたように、ファイノンは麦穂を指先でつつく。ファイノンの鼻では、この距離では香りがわからない。瓶からひと束の麦を持ち上げ、鼻先に押し付けるようにして、深く息を吸う。
昏光の庭に生えている麦よりも弱いが、確かに懐かしいにおいがした。胸が締め付けられるような郷愁を覚えるのと同時に、嗅ぎ慣れた懐かしいにおいに安堵を覚えた。はぁ、とため息を付くと、ファイノンは麦を瓶に戻し、リクライニングチェアに腰を下ろした。
頬杖をついて、ぼんやりと再び物思いに耽る。先日はモーディスに一蹴されてしまったけれど、古い記憶の中にある、陽光に輝き、風に揺れる美しい麦畑の金色とモーディスの髪に想いを馳せた。まだオンパロスに朝と夜が訪れていたその時代、エリュシオンの麦畑に落ちる燃えるような夕陽と風に揺れる麦穂の金から赤へ変わる鮮やかさが、あの美貌の男と重なった。
勿論、エリュシオンの情景を知らないモーディスに、頭の中を覗けと言うのは無理な話だったし、ファイノンもそこまで詳細にモーディスに話したこともない。エリュシオンにいた頃の話をするのは一定の痛みを伴う行為で、傷口に指先を捩じ込むような気分になるからだ。
ヒアンシーが麦を植えてくれたことに感動して、確かに、モーディスのいる前で「懐かしいにおいがした」とはしゃいだ事はあった。モーディスはその時、ひどく優しい顔で「よかったな」と口にし、「故郷か」と小さな声で続けていた。
彼の故郷はエリュシオンとは違って存在こそすれ、場所は判然としないし、暗黒の潮で汚染された紛争の神によって滅び、眷属の蔓延る廃墟となってしまっている。
出会ってしばらく経った頃、モーディスと長距離競争をした後、ふらふらしながらオクヘイマに帰還したファイノンは、はじめてモーディスの私室に呼ばれた。
体力消費をした後はきちんと食事をしろ、と豪勢な夕食を出されて、「お前が今より強くなるには我慢強さを覚えるよりも食事の改善が先だ」と大真面目に言われた。その頃、食生活が少し適当だったのを誰かに聞いたらしく、ファイノンは気恥ずかしさを覚えるのと同時に、モーディスに「どうやったら君みたいになれるんだ?」と尋ねた際の本当の答えが、遅れてもたらされた事実に驚いた。
『君って少し真面目すぎるって言われないか?』
食事をしながら尋ねたファイノンに、モーディスは少し驚いたように目を見開き「……親しいものには、たまにな」と溢した。その目がどこか遠くを見るようで、もしかすると、亡くなった彼の民から言われたのだろうか、と感じた。
クレムノスの孤軍を十年率いてオクヘイマにやってきたモーディスは、聖都に辿り着くまでに各地で戦争や戦闘を経験しているとアグライアに聞いていた。
『有能な将が兵士たちを率いる術が学べるでしょう』
そうアグライアが言った通り、暗黒の潮の造物やニカドリーの眷属との戦闘で、兵を率いるモーディスの指揮はオクヘイマでの従軍経験があるファイノンから見ても見事なもので、例え実力は拮抗していたとしても、リーダーとしては今は敵わないな、と素直に感じた。
英雄とはかくあるべし。アグライアやトリビーたちの滅私奉公を長い間目の当たりにして、内政や言論による統治については少しわかったような気がしていたけれど、戦闘となるとファイノンには経験も知識もまだ足りていない。
モーディスの立ち居振る舞いを見ていると、人々が思い描く「英雄」とはきっと、前線でこんな風に人々に背を向ける人間なのだろうな、と思った。
手合わせをするたびに、勝敗はつかずとも、モーディスはファイノンの気が散った瞬間や踏み込みの甘かった瞬間を的確に指摘し、それと同時に、「我を忘れるな」としなくても済んだはずの怪我をするたびに淡々と叱りつけた。
「引き際を誤るなよ」とモーディスが床に座ったまま一歩も動けなくなったファイノンに言い、「君はいつだって好き勝手怪我をするじゃないか」と息も絶え絶えに言い返せば、「貴様は俺と違い、怪我の治りが早いわけでも、死に嫌われているわけでもないだろう」と眉を顰めて口にする。
『当然俺はお前を殺す気で相手をするが、先ほども踏み込んで来なければギリギリ避けられるはずだった。戦場なら死んでいる』
勇敢と考えなしの無謀さは違う。モーディスがファイノンの肩を担ぎながら溢した言葉の重みに、潜り抜けてきた死線の数の差を思い知ることになる。
——そんな彼が、「強くなりたいのであれば食生活を改善しろ」と言って来るだなんて、誰が想像できるだろう。
この夜がきっかけで、ファイノンはモーディスを本当の意味で尊敬するようになった気がした。強さと優しさを兼ね備えた「善い人」、完璧な英雄像。
有体に言えば、きっとこの瞬間に彼を好きになったのだ。そう感じていた。
故郷が滅んでいること、両親がすでにいないこと、同じ黄金裔で、前線に立つ戦士。
なんだか僕たちってちょっと境遇が似てるのかも、と高揚感が酩酊に似た感覚をもたらし、半分冗談のつもりで口を滑らせて笑ったファイノンに、モーディスも上機嫌に眦を緩めたかと思えば、「かもしれん」と薄く笑った。その表情が綺麗だった。
「……戦友として好かれてる筈だってことは間違いないと思うんだけど」
過去から現実に意識を戻し、ファイノンはため息を吐く。
樹庭にいる間も、オクヘイマに帰ってくる間も、今も、モーディスの言動の理由をずっと考えていた。
短絡的な思考かもしれない、とファイノンは自分のはやる心をなんとか押さえつけようとしたが、日が経つにつれ、だけど、と同じ悩みに思考が戻ってきてしまう。
棚の上の麦に視線を向け、ため息を吐く。
もしこの贈り物が戦友としての純粋な心配であれば、贈り主を隠す必要なんてなかったはずだ。
答えはいつも、ここに辿り着く。
『口説いているつもりか?』
真顔でモーディスに問われたその時、表情は繕えていた筈だ。冗談のつもりで言ったのだとモーディスは思っているだろう。そうでなければ、態度が少しは変わった筈だ。
「結構本気だったんだけどな」
ぽつりと口にしてから、ファイノンは手のひらで顔を覆う。鼓動がうるさく跳ねて、郷愁とは明らかに違う痛みで胸が痛んだ。
——恋をしている。
そう認めるのに、随分と時間がかかってしまった。
何しろエリュシオンを逃げ出してから今日まで、恋愛にかまけている暇なんて本当になかったのだ。
愛がなにかわからないなんて事は少しもないけれど、恋は自分に縁のないものだとファイノンはずっとどこかで、そう思って生きてきた。
オクヘイマで暮らす人々に、ずっと、愛する人たちと平和に生きていって欲しい。
仲睦まじく、肩を寄せ合って水場で語らう恋人たちのきらきらした笑顔を目にしても、生まれたばかりの赤子をモーディスに見せて名付け親になって貰おうとする夫婦の幸福そうな姿を目にしても、自分が恋をしたことがないことに違和感を覚えたりはしなかった、と言うより、そんなことを考える瞬間が本当に今までなかったのだ。
神悟の樹庭で学ぶ間、学生たちが付き合ったり別れた話を聞いても、幸福そうであれば喜ばしかったし、悲しんでいれば可哀想だなと胸を痛めたりはしても、告白をされれば全て断っていた。
一度だけアナクサゴラスの研究室に呼び出されて、「あなたは本当に関心がなさそうですが、一応確認します。恋人は今は不要なんですよね」と尋ねられた時には驚いたが、彼が生徒の恋愛相談に乗っている話はファイノンの耳にも入っていたので、きっと、誰かが相談したのだろうとすぐに思い至った。
『今はまだピンと来ないと言うか、……ええと、先生の言う通り、必要性を感じていない、かな。先生は恋愛が人生に絶対的に必要なことだと思う?』
そう尋ねたファイノンに、アナクサゴラスはハ、と真底馬鹿馬鹿しそうに鼻で笑い、「人によります」と短く、そう口にした。
『別に恋愛をしないからって人として欠けていることにはなりませんし、満ち足りた人生を歩めないなんて証左にもなりませんよ』
腕を組んだアナクサゴラスの低く淡々とした声に、「確かに、先生は独りで好き勝手人生を謳歌してるって感じがするよ」とファイノンは思わず反射で、大きく頷いていた。
『あなたの今週提出したレポートから二十点減点しておきます』
ファイノンはぐいぐいとアナクサゴラスに背を押されて研究室を追い出され、本当にレポートが二十点減点されていた苦い記憶をついでに思い出してしまう。
そんなやりとりをしていたのに、先日、ヒアンシーから聞いた「真実」に思考がぐちゃぐちゃにされたファイノンは、講義から失踪したアナクサゴラスが七日後に研修室から出てきたところを捕まえて、「先生に相談したいことがあるんだ」と声をかけた。
数多の学生の恋愛相談を受けてきた教授はファイノンの表情と声のトーンから何かを悟ったのか、
『今夜は休む必要があります。明日の朝、門の刻第三針以降であればいいでしょう』
と、目の下に酷いくまを作った顔で、少しだけ焦点の合わない揺れる瞳をファイノンに向けながら頷いた。
『恋が人生に必要になりましたか』
翌朝部屋を訪れたファイノンに、アナクサゴラスが開口一番、静かな声でそう言った。
部屋にはヒアンシーの淹れたであろうお茶が二人分のカップに注がれている。