@otohitoe_
微かに扉の開く音が聞こえた気がして、ダイニングテーブルで二冊のノートを広げていたクロウリーは面を上げた。時計の針はもう日付けを越えている。
部屋の死角になっている入り口のほう、キッチンの角を見つめていると、予想通り一時間ほど前に寝室へ見送ったアジラフェルの顔が覗いた。
「どうした」
「ごめん、別になんでもないんだけど…見ていてもいい?」
「こっち来い」
呼ぶと、アジラフェルはおずおずとやって来て正面の椅子に腰を下ろした。
「邪魔してごめん」
「邪魔じゃない」
テーブルの下で足を掴まえるように擦りあわせる。むしろこっちが何か眠る邪魔をしてしまったかとも考えたが、音楽もテレビもつけていないし、起きてくる理由は思い当たらない。
「また何か資格とるの?」
「いや、今週の献立考えてただけ。先に決めとくと楽だから。こっちはさっきまでつけてた家の帳簿。見るか?」
「こんな遅くまで…」
「もうそろそろ寝るところだった。おまえこそどうしたんだ?眠れないならホットミルクでも作ってやろうか」
「大丈夫」
「…ほんとに眠れないのか?」
半分冗談のつもりだったのに、意外な返答にそう訊き返すとアジラフェルは肩を竦めてみせた。
なかなか眠りにつけないとしても、わざわざ起きてくるほどのことは今までなかったと思う。よっぽど寝付けないんだろう。かわいそうに、明日も仕事なのに。
「まあ、そういう日もあるよな」
「今日一緒に寝てもいい?」
「…もちろん」
クロウリーはおや、と少し違和感を抱いた。そんなのわざわざ訊くことではないのだ。特に理由の無い限りは一緒に寝ている。ほとんど毎晩だ。その度に断りを入れるだなんてことしていないし、だからクロウリーだってこれが終われば当然いつも通りアジラフェルのいるベッドに潜り込むつもりだった。大体、尋ねるとしても今日“も”でなければおかしい。
「…あ、おれの部屋で寝たいってことか?」
「………、」
「違ったか」
「いや…そう、そうなのかも。そうしてもいい?」
「いいよ。行こう」
開いていたノートを閉じて腰を上げるとアジラフェルもそれに続いた。
グラスに残った水を飲み干し、シンクに置いてから一緒にリビングを出る。クロウリーは廊下で一旦別れ、用を足してから自室へ入った。ベッドサイドのナイトライトに照らされた部屋の床はしんとした冷たさを湛えている。
早く起きるほうがベッドの外側、という暗黙のルールに則って、クロウリーはアジラフェルの膝を跨いで壁側に移った。布団を持ち上げて先に横になるよう促し、肩まできっちり包んでやってからライトに腕を伸ばす。
「すぐ寝るか?」
「ん…」
「話す?」
「うん」
「よし」
消灯はせず明るさを絞るに留め、その腕を枕の下に潜らせながら横たわる。アジラフェルは素直に胸に抱きついてきた。喉に鼻先が触れているのがわかるとそれがやけに愛おしく感じ、いっそう強く抱きしめた頭に頬擦りして、わざとらしいリップ音を立ててふわふわの髪に何度もキスをする。くすくすと擽ったそうに笑っているのがクロウリーにも擽ったかった。
「な、アジラフェル。今日はたまたまリビングにいたけど、来たければいつでもここに来ていいんだからな」
「うん」
「おれがいてもいなくても、寝てても、寝たままでも。別にいいんだから」
「うん」
「まあ、おれはおまえがどこで寝てても潜り込むけど」
「寒いしね」
「馬鹿だなおまえが好きだからに決まってるだろ」
「ふふ…」
「何笑ってんだ」
顔を覗き込むと目元を綻ばせたアジラフェルと視線が交わった。
「きみがいないときに勝手に入ったりしない」
「おれはおまえのとこ普通に入ってる」
というか、ほぼ毎晩そっちで一緒に寝ているため感覚的には共用部屋に近い。
「きみはいい」
アジラフェルはいっそ無関心にも感じる言い振りでクロウリーの胸元に顔を埋め、深く息を吐いた。
「夜更かししてんのは時々見るけど、眠れないのは珍しい気がするな」
「今日すごく疲れたからかな…」
そうか、そういうのってあるよな…と納得しかけたクロウリーだったが、なかなか腹に落ちてこないことではっとする。今『すごく疲れた』って言ったか?
そのトーンで聞くことはあまりない台詞だった。帰ってきて開口一番、愚図る子供のようにわざとらしくに口にすることはあっても、こんなふうに切々と、真に迫る声色ではめったに聞かない。
体を後ろへ傾けて、再びアジラフェルの顔を確認する。
「気付かなかった」
「何に?」
「もっと疲れた顔してもいいんだぞ」
きょとんとしていたブルーグレーの瞳がひとつ瞬いたあと、やわらかく和らぐ。
「別に、元気なふりをしてたわけじゃないよ」
「でも疲れてたんだろ」
「ん…」
肯定とも否定ともつかない低い返事をしながら、アジラフェルは手繰り寄せるようにクロウリーの背を抱いた。
「だから今日はちょっと甘えたい気分だった」
「ふうん」
埋められた体の隙間、それからその気の抜けきった吐息混じりの声。
「おまえが素直に甘えたがるんだから、年取って良いこともあるもんだな」
ぎゅっと抱きすくめた頭を撫で回す。絶対に苦しいだろうに、アジラフェルは文句も言わず、たじろぐ素振りさえしなかった。
「やなことあったのか?」
「ううん」
「そうか」
「ただ単に、朝から考えることもやることもいっぱいで…ちょっと疲れただけ」
「ならいい」
普段なら何かを察しても訊くことはしないが、あんまり珍しいから少し踏み込んでみる。何もないならそれでいい。何かあっても、今ここにいるならいい。
「わたしにきみがいてくれてよかった」
あまりシリアスな雰囲気にしたくなかったから口には出さずにおいたのに、ほとんど同じことをさらりと言われて面食らってしまう。ずるいぞおまえ、弱ってる側だからって。
いるよ。いるに決まってんだろ。おれがここにいる今を作ったのはおまえなのに、いつもおれのおかげみたいな言い方しやがって。どれだけおまえのことが好きか知らないわけじゃないくせに、いつまで経っても自分のほうが好きだと思ってんだろ。おれはおまえがかわいくてたまんないんだぞ。おれのものにしたい。もうおれのだけど。
頭のてっぺんに口づけたまま、クロウリーの胸の内は色んな感情で綯い交ぜになっていた。腕の中でこんなに力無くくったりしてかわいそうなのに、それすらかわいいからどうしようもない。何でもしてやりたいのに、してやれることの少なさにいつも歯噛みする。
「おまえの寝かしつけくらいいつでもしてやるけど、朝は代わってやれないからな」
「そんなこと気にしなくていい」
「おまえが甘やかすからますます朝弱くなった」
「わたしがいないときどうやって起きてるの?」
「早寝する。起きるときは気合い」
「気合いか…」
アジラフェルは小さく笑ったがもちろん冗談などではない。朝のあれこれはすっかり任せっきりだから、ごみ出しのために早起きするなど今では考えられなくなっている。
「そうだ、今度どっか旅行でも行くか。ちょっと良い宿に何泊かしてさ。温泉街が近いとこがいいな。そんでただのんびりして、うまいもんいっぱい食おう」
「ふふ…きみは昔から、すぐわたしに食べさせようとする」
「かわいい生き物見ると何か食わせたくなるだろ?」
「鯉の餌やりみたいな?」
「はは、そうだな。動物園で売ってる野菜のカップとかな」
「毎日おいしいもの食べさせてもらってるけどね…あ、言いそびれてたかもしれないけど、今日もおいしかった。鱈の…えっと…南蛮漬けだ」
「明日仕事頑張ったら、おまえの好きなもの作っててやる」
「今週分の献立はさっきもう決めたんじゃなかった?」
「別に構わない。その日の気分で変えることもあるし。何がいい?」
「今日魚だったから…ハンバーグとか?」
「ハンバーグなんか食いたいのかおまえ」
「え…だめかな」
「かわいいって意味だよ」
「また言ってる…」
「ハンバーグ食べたいって言ってみ」
「…ハンバーグ食べたい」
「ほらみろかわいい。何でも作ってやれそう」
「もう…」
アジラフェルは諦めを含んだ溜め息を吐いて苦笑した。
「帰りにスーパーか、お肉屋さん寄って肉種買って帰ろうか」
「なんでだよ。買うなら挽き肉買ってこい」
「手間だろ、切ったり捏ねたり…」
「手間じゃない。おれのハンバーグ食いたいって言ってみろ、アジラフェル」
「…きみの作ったハンバーグが食べたい」
「ああもう絶対断れない。ほんとにかわいい。でっかいの作ってやるからな」
「クロウリー」
「ふふふ…」
咎めるような声のアジラフェルが顔を上に向けると、喉にまた鼻先が触れた。
こんなふうに子供扱いに近いことを言ったりしても笑ってくれるようになってから、クロウリーの可愛がり癖はどんどん助長していった。わざと拗ねさせたりあやしたりしてかわいがりたくなるのはアジラフェルがひと回りも歳が下だからだと思っていたし実際最初はそうだったはずだが、どうやら単に自分の元々の性質だったらしい。
だから、アジラフェルの歳を聞くと時々びっくりする。ふとしたときには高校生くらいに見えることだってあるのに。思っているよりもちゃんと大人だというのはわかってはいるのだが、仕方ない。こんなにかわいくては。
「普通に焼くのと煮込むのどっちがいい?」
「そうだなあ…焼いたのかな。前に作ってくれたときれんこん入ってたの、あれおいしかったな」
「れんこんな。他には?ハンバーグ以外で」
「他?うーん…シチューは?」
「最近作ってないな」
「パイ乗せて焼いたやつ」
「おまえ、かわいがられようと思って…」
「ほんとに食べたいと思っただけだ」
「どっちにしたってかわいいよ。冷凍のパイシートでいいんだよな?」
「うん」
「全然作るけど、時間がかかるやつはなんかおまえのほうがうまいんだよなあ。おれがせっかちなのか?」
「きみにものんびりが必要なのかもね。シチューはわたしが作る。週末の夜に」
「かぼちゃ入れないやつがいいな。真っ白のやつ」
「きみも言ってみて」
「何を」
「わたしの作ったシチュー食べたいって言って」
「いいよ」
クロウリーは体を離してアジラフェルの目を真っ直ぐに見つめた。数呼吸置き、できるだけ真剣に低く囁く。
「おまえの作ったシチューが食べたい」
「格好いいのやめて。ずるいよ」
むっと不満げに眉を寄せるアジラフェルに堪えきれずに笑ってしまう。クロウリーの例の癖のせいか、拗ねた振りが年々上手くなっている。
「名前が可愛いやつでもう一度言って」
「なんだ名前が可愛いやつって」
「…プリンとか?」
「なるほど」
「フォカッチャ、キャロットラペ…チュロスとか…」
「ああ、確かにかわいい。もっと言ってみろ」
「………」
「いつも作るやつにも次から名前つけようかな。キラキラしたコンセプトカフェのメニューみたいなの」
「空飛ぶパンケーキみたいな?」
「ああそう、そんなやつ。おまえが言うとかわいいやつ」
「例えば?」
「明日も仕事がんばるハンバーグとか」
「ふふ…うん」
「えー…さくさくパイ乗せ…真っ白ミルクのコトコトシチュー」
「んふっ、待ってきみ…」
「なんだ」
「もしかしてあんまりネーミング得意じゃない?」
「あっ、おまえ」
「違う違う、違うよ。馬鹿にしてるわけじゃ」
「おまえ考えてみろよ」
「ええ?」
「いい感じのメニュー名つけてみろ。今日の夕飯に」
「んー…そうだな…」
「かわいいやつだぞ」
「お酢の力でカンファを乗り切れ!冬でもおいしい鱈の南蛮漬け」
「あっはっは!」
クロウリーは思わず天井を仰いで笑い声を上げた。
「なんで料理番組風なんだよ!」
「ありそうだろ」
「あるよ。それ観て作った気がしてきた」
「芯までポカポカ、豆腐と小松菜のさっぱりすまし汁」
「ふはっ、なんでそんな上手いんだよおまえ…くそ…」
「白だしが決め手!」
「そうだな、そうだよ。その通りだよ」
くっくっく…と喉を鳴らしながら体を震わせてベッドを揺らす。労わってやってるのはこっちだったのに、うっかりクロウリーのほうが和んでしまった。
「笑わせるなよおまえ、こんな夜中に…」
「最初に笑わせてきたのはきみだろ」
「あ」
「…あ」
「おれは別に笑わせてないが?」
「うん」
「真面目に答えたのに」
「ごめん。笑ってないよ」
「笑ってはいただろ」
「んふっ、ふふふ…」
今度はアジラフェルが笑い出してベッドを揺らした。つられて、クロウリーもこっそり笑った。
ひとしきりそうしたあと、はあ…とアジラフェルが息を吐いたのを見計らって顔を見下ろす。手のひらで頬を包んでやると自分から擦り寄せてきた。
「眠くなってきたか?」
「きみは話し上手だね」
「やっぱ眠れないときはくだらないこと喋ってんのが一番だな」
「くだらなくなんかない…」
とろりと緩んだアジラフェルの目尻。クロウリーもひと安心して優しく瞼を撫でてやった。
「もうひとついいこと教えてやろうか」
「うん」
「おまえには秘密にしてたけど」
体を丸め、耳にそっと口を寄せる。
「今度の日曜ティラミス作る…」
囁かれた秘密にアジラフェルはぱっとクロウリーの顔を見上げた。
「ほんと?」
「ほんと」
「オレオのビスケット入ってるやつ?」
「入ってる」
「やった…」
顔を綻ばせて子供のような笑顔を浮かべるアジラフェルと鼻先を触れあわせ、二人でくふくふと笑った。
「名前つけて」
「ティラミス?」
「うん」
アジラフェルは目を半月の形にしてクロウリーの言葉を待っている。何を言ってもきっと笑うだろうに。
「…日曜日のお楽しみティラミス」
「ふふふ…」
「また笑ったな」
「違う。いいなと思ったんだ。ほんとに楽しみだからぴったりだなって」
「馬鹿にしてるだろ」
「してないってば…」
アジラフェルは誤魔化すように、唇に触れるだけのキスをしてきた。目が合うと満足そうに微笑んで、再びのキスのあと、もぞもぞとクロウリーの腕の中に戻った。クロウリーもひと仕事終えた心地でふわふわの頭を抱きしめなおした。
「…お楽しみティラミス…ふふふ…」
アジラフェルはまだ笑っている。
「きみってほんと、かわいいな…」
せっかく寝付けそうな空気に水を差すわけにはいかないから反論するのは我慢しておいたが、クロウリーはアジラフェルのそのひと言が大いに不満だった。今夜じゃなければ胸倉掴んで起こして訂正させていたかもしれない。知ったふうな口振りをしやがって。
かわいいってのがどういうものか、おまえはなんにもわかってない。